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2015/07/13

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 鹽甞地藏/大慈寺舊跡/梶原屋敷蹟

    ●鹽甞地藏

鹽甞地藏(しほなめぢざう)は道端辻堂の内にあり。石像なり。光觸寺(くわうしよくじ)の持分なり。六浦の鹽賣(しほうり)鎌倉へ出る毎に。商の最花とて鹽を此石地藏に供する故に名く。或は云。昔此石像光を放ちしを。鹽賣像を打朴して鹽を甞させける。それより光を放たす。故に名くと云ふ。此鹽賣は如何なる人にや。鶴岡の一鳥居より此所まて二十町ばかりあり。

[やぶちゃん注:「光觸寺(くわうしよくじ)」は「こうそくじ」が正しい。以下、編者が引いたと思しい「新編鎌倉志卷之二」の「鹽甞地藏」の全文を示す。

   *

○鹽甞地藏 鹽甞地藏(しほなめぢざう)は、道の端(はた)、辻堂の内にあり。石像なり。光觸寺の持分(もちぶん)なり。六浦(むつら)の鹽賣シホウリ、鎌倉へ出るごとに商ひの最花(はつほ)とて、鹽を此の石地藏に供する故に名く。或は云、昔此石像光(ひかり)を放ちしを、鹽賣、像を打朴(うちたほ)して鹽を甞(なめ)させける。それより光を放たず。故に名くと云ふ。異域にも亦是あり。程明道、京兆の鄠(う)の簿(ぼ)に任ずる時、南山の僧舍に石佛あり。歳々(としとし)傳へ云ふ、其の首(くび)光を放つと。男女集まり見て晝夜喧雜たり。是よりさき政(まつりごと)をなす者、佛罰を畏れて敢て禁ずる事なし。明道始て到る時、其僧を詰(なじ)つて云く、我聞く石佛歳々光を現ずと、其の事有りや否(いな)や。僧の云く、これあり。明道戒(いまし)めて云、又光を現ずるを待ちて、必ず來り告よ。我職事あれば往事(ゆくこと)あたはず。まさに其首(くび)を取て、就(つい)て是を見るべしと云ふ。是よりして又光を現ずることなし。此事明道の行状に見へたり。此鹽賣も如何なる人にや。鶴が岡の一鳥居より、此所まで、廿町ばかりあり。

   *

文中の原形の中国の志怪小説中の「鄠(う)」とは、現在の中華人民共和国陝西省西安市にある戸県(こけん)の旧名。「簿」は主簿のことと思われる。中央・各郡県の属官で、帳簿を管理し、庶務を司った職である。これもいい加減にカットして引用しているために、塩売りが石地蔵のが光るはずがない、これは神霊にあらず、狐狸の類いの民を惑わさんとする怪異と見ぬき、かくしたという筋が分かり難くなった嫌いがある。]

 

    ●大慈寺舊跡

大慈寺の舊蹟は五大堂と光觸寺との間南の谷にあり。東鑑に建保二年七月廿七日。大倉大慈寺供養なり。新御堂と號す。實朝將軍の時なり。後正嘉元年十月一日。修理の事あり。本堂丈六堂新阿彌陀堂釋迦堂三重塔鐘樓等壯嚴(さうごん)の美。殆ど古蹟に過たりと。宗尊親王の時なり。

[やぶちゃん注:現在は明王院の東一帯に比定されている(「南の谷」とあるが、これは「新編鎌倉志卷之二」から引いた結果で、この「南」という記載には「鎌倉廃寺事典」が強い不審を示している。なお同事典によれば、江戸時代まではこの伽藍の内、丈六堂だけは残っていたらしく(「相模国風土記稿」に記載がある)、『現在、十二所七十四番地小野寺氏の土地の呼び名を丈六という。丈六堂の跡と考えられている』とある。この番地から見ると、現在の、鎌倉六浦街道から左に折れた丘の上にあるイエズス会鎌倉修道院黙想の家に登る当たりがそこに相当する。

「建保二年」一二一四年。「吾妻鏡」のこの年の七月は一日の実朝からの大慈寺供養導師を葉上僧正栄西に懇請する記事と、その二十七日に大々的に行われた、この大倉大慈寺新御堂供養次第の二つの記事のみである。

「正嘉元年」一二五七年。この十月一日に行われた供養も非常に大規模なもので、この月の記事は後四つあるが、全体の八割以上がこの供養の次第で埋められている。その荘厳(しょうごん)もまさに強者どもが夢の跡――「殆ど古蹟に過たり」――という訳である。

「丈六堂」「丈六」は一般名詞では仏像の丈量、背丈を示す基準。仏身は身長が一丈六尺(約四・八五メートル)とされることから仏像も丈六を基準とした(実際の造立時には等身大のそれ以外にこの丈六を基準五倍・十倍或いは、その二分の一などで造像された。坐像丈六像は半分の約八尺 (二・四三メートル)、半丈六像は約八尺の立像を言う。ここは本尊である丈六の阿弥陀如来像を納める堂宇である。この像の仏頭だけは現存し、光触寺に安置されている(次の「梶原屋敷蹟」も参照のこと)。非常に大きい。

「壯嚴(さうごん)」ここは、浄土などの仏国土及び仏・菩薩などの徳を示す寺院の美しい姿や飾り。或いは仏堂・仏像などを美しく飾ることや、その飾りの謂いであるから、厳密には「しやうごん(しょうごん)」と読むほうがよい。]

 

    ●梶原屋敷蹟

梶原屋敷は五大堂の北方山際にあり。梶原平三景時の舊蹟なり。東鑑に景時は正治二年十二月十八日に鎌倉を追出され。相撲國一宮へ下る。彼(かの)家屋を破却して。永福寺の僧坊に寄附せらるとあり賴家の時なり。今此所に大なる佛像の首ばかり草庵に安置す。

[やぶちゃん注:梶原景時の追放劇は私の「北條九代記 諸將連署して梶原長時を訴ふ」及び「北條九代記 梶原平三景時滅亡」をお読みになるに若くはない!

「正治二年」一一九九年。

「今此所に大なる佛像の首ばかり草庵に安置す」位置の近さ及び仏頭だけが現存するということから、これは前の「大慈寺舊蹟」で私が注した、現在は光触寺に安置されている阿弥陀像の頭部としか思われない。「新編鎌倉志卷之二」の「梶原屋敷」を見ると(下線やぶちゃん)、

   *

○梶原屋敷〔附大巧寺舊跡〕 梶原屋敷(かぢはらやしき)は、五大堂の北の方山際にあり。梶原平三景時が舊跡なり。【東鑑】に、景時は、正治二年十二月十八日に、鎌倉を追ひ出され、相模の國の一の宮へ下る。彼家屋を破却して、永福寺の僧坊に寄附せらるとあり。賴家の時也。今此所に、大きなる佛像の首ばかり、草菴に安置す。按ずるに、【東鑑脱漏】に、安貞元年四月二日、大慈寺の※内に於て、二位家〔平の政子〕第三年忌の爲に、武州泰時、丈六堂を建らるとあり。此の所大慈寺へ近ければ、疑ふらくは其の丈六佛の首ならん歟。又里老の云く、昔し大行寺と云ふ眞言寺(てら)此所にあり。賴朝の祈願所にて、或は此の寺にて、軍(いくさ)の評議して勝利を得られたり。故に大巧寺と改む。後に小町へ移し、日蓮宗となる。今の小町の長慶山大巧寺是なりと。しかれども、【東鑑】等の記録に見へず。按ずるに、五大堂を大行寺と號すれば、昔しの大行寺の跡は、五大堂を云ならんか。分明ならざるなり。

[やぶちゃん字注:「※」=「土」+「郭」。]

   *

最後の部分はまた混乱を招くのであるが、私はともかくもこの、

①「今此所に大なる佛像の首ばかり」「安置す」る「草庵」=「大慈寺丈六堂」

であり、また、

②「梶原屋敷蹟」にある「草庵」にあった「大なる佛像の首」=現在の光触寺所蔵の丈六と思しい阿弥陀如来木造頭部

であると思うのである。というよりも、現在は梶原屋敷跡は別として、そのように実際には認知されているものと私は勝手に思っているのである。]

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