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2015/07/28

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 淨智寺

    ●淨智寺

淨智寺は。明月院と殆ど相對(あひたい)して。山内の路南に在り。金峯山と號す。鎌倉五山の第四にして。武藏守北條宗政相摸守北條師時父子の建立。故開山(こかいさん)は普寧(ふねい)(宗覺禪師)。請待開山は正念(自休)。準開山は宏海(眞應禪師)なり。佛殿は曇華殿の額を掲(かゝ)く。本尊は釋迦、彌勒、彌陀の三體なり。作者詳ならず。

開山塔を藏雲菴(ざううんあん)と名く。蓋し眞應師の塔なり。

甘露の井開山塔の後に在る淸泉(せいせん)をいふ。鎌倉十井の一なり。門外路傍に淸水(せいすい)涌出す之をは甘露水と稱せり。

盤陀石は甘露井(かんろゐ)の傍に在り。

鐘樓(せうろう)元は正慶九年の古鐘を掛しが。天文中北條氏康伊豆權現社の撞鍾に贈りしと云。塔頭は正紹菴、正源菴、龍華山眞際精舍、正覺菴、楞伽院、大圓菴、同證菴、正印菴、興福院、福生菴等今は大半廢絶し存(ぞん)する者幾(いくば)くもなし。

[やぶちゃん注:「北條宗政」(建長五(一二五三)年~弘安四(一二八一)年)北条時頼三男。右近衛将監・評定衆・引付頭人(ひきつけとうにん)を経て、建治三(一二七七)年、武蔵守となったが四年後に数え二十九で亡くなっている。

「北條師時」(建治元(一二七五)年~応長元(一三一一)年)北条宗政の子で母は北条政村娘であるが、父の死後に伯父北条時宗の猶子となっている。長門守護・小侍所・評定衆・引付頭人を経て、従兄弟で時宗嫡男であった執権北条貞時が正安三(一三〇一)年に出家すると同時に第十代執権となった。彼も三十七の若さで亡くなっている。この頃の得宗家絡みの若死には概ね激務に因る過労やそれに起因する病死であったと推測されている。ここにあるように、父宗政の菩提を弔うために弘安六(一二八三)年に創建、開基は北条師時とされてるものの、当時の師時は未だ八歳であり、実際には宗政夫人と兄北条時宗の創建になる。以下の開山の経緯についても本文にある通り特異で、当初は日本人僧南洲宏海(「眞應禪師」は彼の諡号)が招聘されるも任が重いとして、自らは准開山となり、自身の師であった宋からの渡来僧大休正念(文永六(一二六九)年来日)を迎えて入仏供養を実施、更に正念に先行した名僧で宏海の尊敬する師兀菴普寧(ごったんふねい)を開山としたことから、兀菴・大休・南洲の三名が開山に名を連ねることとなった。但し、やはり宋からの渡来僧であったこの兀菴普寧は、パトロンであった時頼の死後に支持者を失って文永二(一二六五)年には帰国しており、更に実は浄智寺開山の七年前の一二七六年に既に没していた。

「甘露の井開山塔の後に在る淸泉をいふ。鎌倉十井の一なり。門外路傍に淸水涌出す之をは甘露水と稱せり」「新編鎌倉志」で初めて示される名数「鎌倉十井」の一つに数えられているが、実は「新編鎌倉志第之三」の「浄智寺」の項を見ると、

甘露井 開山塔の後に有る淸泉を云なり。門外左の道端に、淸水沸き出づ。或は是をも甘露井と云なり。鎌倉十井の一つなり。

とあって、当初より現在知られる「甘露の井」は、浄智寺内に二箇所あったこと(現在の浄智寺の方丈後ろなどには複数の井戸があるから二箇所以上あった可能性もある。なお、これらの中には現在も飲用可能な井戸がある)ことが判る。ところがこれとは別に鎌倉「五名水」が存在し、そこに異説として「甘露水」なるものが恐らくは近代近くになって混入してきている。ともかくも孰れが原「甘露の井」であり、区別化された「甘露水」であったかは、私は水源が二つ以上あったことによって、江戸時代に最早「甘露の井」が同定出来なくなっていたこと、さらに「甘露水」なる紛らわしい呼称の登場が同定不能に拍車をかけたものと私は推測している(浄智寺総門手前の池の石橋左手奥の池辺にあったという泉の湧水は今は停止している)。

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