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2015/08/29

甲子夜話卷之一 45 池田三左衞門、永井傳八郎へ始て對面の事

45 池田三左衞門、永井傳八郎へ始て對面の事

池田輝政〔三左衞門〕、神祖の御親緣となりて後、申上らるゝは麾下の士に永井傳八郎と申上らるゝは、某が父勝入を討候人に候。何卒對面いたし度と云。神祖さらば迚御許あり、因て初て對面す。此時人々思ふは、父を討たりし敵なれば、對面のうへ何(イカ)がならんと思ひゐたるに、輝政先禮義を正くして申には、先年父勝入を長久手にて討玉ひしとき、某は年少にて、得と其樣體を辯ぜず候。冀くば父討死の有さま、委く語り聞せ玉へと云へば、永井承候とて、勝入其時の有さまを委く申述たれば、輝政落涙して承り、さても忝存候。始て分明に承り候とて別れぬ。夫より又、神祖え言上するには、永井へ其父討死の樣子承り候に、武道に恥ざる振舞に候を、かく討取候ことは、實によき武士にて候。其父の面目にも候へば、加祿し給り度と言上す。神祖肯じ玉ひて、萬石の列になし下されしとなり。それ迄は五千石許の采地にて有しとなん。

■やぶちゃんの呟き

「池田輝政」(永禄七(一五六四)年~慶長一八(一六一三)年)は安土桃山から江戸前期にかけての大名。「三左衞門」は通称。美濃池尻城主・同大垣城主・同岐阜城主・三河吉田城主を経て、播磨姫路藩初代藩主となった。姫路城を現在残る姿に大規模に修築したことで知られ、「姫路宰相」と称された(詳細な事蹟は参照したウィキ池田輝政」を読まれたい)。

「神祖の御親緣となり」輝政の継室督姫(とくひめ 永禄八(一五六五)年~慶長二〇(一六一五)年)は徳川家康の次女であった。文禄三(一五九四)年に秀吉が仲人役となって池田輝政に再嫁した(再嫁時は夫輝政より一つ下の数え三十であった)。彼女の最初の夫は後北条氏第五代当主北条氏直であったが、秀吉の小田原攻めで敗北、最後は疱瘡(推定)によって病没している。

「麾下」大将の指揮の下(もと)の意から、将軍直属の家来、直参旗本のこと。

「永井傳八郎」旗本から後に大名となり、上野小幡藩主・常陸笠間藩主・下総古河藩初代藩主であった永井家宗家初代永井直勝(永禄六(一五六三)年~寛永二(一六二五)年)の通称。美青年であったという。参照したウィキ永井直勝によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『永禄六年(一五六三年)、長田重元の次男として三河国碧海郡大浜郷(現在の碧南市音羽町)に生まれる(東浦町緒川の説もある)。はじめ徳川家康の嫡男・信康に仕えたが、天正七年(一五七九年)に信康が自刃すると、徳川氏を去って隠棲した。天正八年(一五八〇年)、家康に召し出されて再び家臣となる。天正一二年(一五八四年)の小牧・長久手の戦いでは池田恒興を討ち取る大功を挙げたため、家康や織田信雄らから賞賛された』。『文禄三年(一五九四年)、池田恒興の次男池田輝政が家康の次女の督姫を娶った際、輝政の求めに応じて、長久手の戦いで恒興を討ち取った際の事を語った。このとき、輝政が直勝の知行を聞くと五千石であった。輝政は父を討ち取った功績の価値が五千石しかないのかと嘆息したという』(下線やぶちゃん。数え三十二、池田輝政は一つ下の三十一歳であった)。『文禄五年(一五九六年)二月七日、豊臣秀吉から豊臣姓を下賜されている。慶長五年(一六〇〇年)の関ヶ原の戦いの後に近江国に二千石を加増され、七千石を領』し、『大坂の陣にも参戦して戦功を上げ』、元和二(一六一六)年には『上野小幡藩一万七千石に加増。翌元和三年(一六一七年)には常陸笠間藩三万二千石を与えられ、後に二万石を加増される。元和八年(一六二二年)、笠間を浅野長重に譲って、代わりに下総古河において七万二千石を与えられた』とあり、『子孫に作家の永井荷風や三島由紀夫などがいる』ともある。

「勝入」「しようにふ(しょうにゅう)」と音読みする。池田輝政の実父で尾張犬山城主・摂津兵庫城主・美濃大垣城主であった池田恒興(つねおき 天文五(一五三六)年~天正一二(一五八四)年)の出家後の法号。ウィキ池田恒興によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『天文五年(一五三六年)、尾張織田氏家臣・池田恒利の子として誕生』、『母の養徳院は織田信長の乳母であり、信長の父の織田信秀の側室となっている』。『幼少の頃から小姓として織田氏に仕え、桶狭間の戦い、美濃攻略などで戦い、元亀元年(一五七〇年)の姉川の戦いで活躍し、犬山城主となり一万貫を与えられた。以後も比叡山焼き討ち、長島一向一揆、長篠の戦いなど信長の主だった戦に参陣、天正八年(一五八〇年)には信長に抵抗し摂津花隈城に籠もる荒木村重を破り、その旧領を領する。天正十年(一五八二年)、甲州征伐では、二人の息子を出陣させ、本人は摂津の留守を守るよう信長から命令されるも、あっけなく武田氏は滅亡。密かに落ち延びた武田勝頼の三男・勝親を匿い保護した。天正十年(一五八二年)、甲州征伐では、二人の息子を出陣させ、本人は摂津の留守を守るよう信長から命令されるも、あっけなく武田氏は滅亡。密かに落ち延びた武田勝頼の三男・勝親を匿い保護した』。『同年、本能寺の変にて信長が家臣の明智光秀に討たれると、中国攻めから引き返した羽柴秀吉に合流。山崎の戦いは兵五千を率いて(太閤記による。実際は兵力を二倍くらいに誇張されていると谷口克広は指摘している)右翼先鋒を務めて光秀を破り、織田家の宿老に列した。織田家の後継を巡る清洲会議では、柴田勝家らに対抗して、秀吉・丹羽長秀と共に信長嫡孫の三法師(織田秀信)を擁立し、領地の再分配では摂津国の内大坂・尼崎・兵庫において十二万石を領有した。翌天正十一年(一五八三年)の賤ヶ岳の戦いには参戦していないが、美濃国にて十三万石を拝領し大垣城主となる』。『天正十二年(千五百八十四年)、徳川家康・織田信雄との小牧・長久手の戦いでは、去就が注目されたが結局は秀吉方として参戦。勝利が成った際には尾張一国を約束されていたという。(池田家文庫文書)緒戦で犬山城を攻略した後、途中で上条城に立ち寄り、三好信吉・森長可(恒興の婿)・堀秀政と共に家康の本拠三河国を攻めようとしたが、合戦の前半で鞍に銃弾を受け落馬したことが災いとなり、長久手にて長可と共に戦死。戦死の状況は、床机に座って陣中を立て直している所に永井直勝の槍を受けてのものだといわれている。享年四十九。嫡男の元助も共に討ち死にしたため、家督は次男の輝政が相続した』とある(下線やぶちゃん)。

「さらば迚御許あり」「さらば、迚(とて)、御許(おゆるし)あり」と読む。

「先」「まづ」。

「冀くば」「ねがはくば」。

「委く」「くはしく」。

「忝」「かたじけなく」。

「神祖え」はママ。

「それ迄は五千石許の采地」「采地(さいち)」とは領地・知行所(特に旗本の場合にかく呼称した)のこと。「采邑(さいゆう)」とも称する。通常は石高一万石以上の所領を幕府から禄として与えられた藩主のみが「大名」であり、一万石に満たない者はその下の「旗本」でしかなかった。

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