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2015/08/04

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十章 陸路京都へ 四日市から鈴鹿峠を越えて京都着

 我々は名残惜しくも城をあとにし、急いで旅館へ帰って、七時京都へ向けて出発する迄に荷づくりをした。我々の人力車はのろのろと進んだが、景色や、輝しい入日や、休息はよろこばしかった。九時我々は河の畔に出、五マイルにわたって、その静な水面を長閑(のどか)に漕ぐ舟で行った。我々の上陸地は、万古として知られる陶器で有名な、四日市であった。そこは明々と照明され、遠方から見るとまるでニューイングランドの町みたいであった。石の傾斜面に上陸した時我々は、何等かの祭礼が行われつつあることを知った。河岸には氷を売る小さな小舎がけが立ち並び、我々も床几に坐って数回氷を飲んだ。氷は鉋(かんな)で削るので、鉋はひっくりかえしに固定してある。その鉋の上で一塊の氷を前後に動かすと、下にある皿が、いわば銀牌ともいう可きものを受け、それに砂糖少量を加え、粉茶で香をつけるのだが、非常に涼味ある小菓で、我々が子供の時雪でつくった、アイスクリームに近いものである。氷は非常に高く、一斤十六セントから廿セントまでするが、これは一杯一セントで売られる。我が都市の貧しい区劃にも、同じ習慣を持って行ったらよかろう。

[やぶちゃん注:明治一五(一八八二)年八月五日の夜の景である。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、『小舟で伊勢湾を渡り、四日市で上陸した』とある。彼らが下ったのは木曽川ではないかと私は推測するのであるが、どうもここは伊勢湾を行った感じが伝わってこない(原文も同じ)。これは恐らく夜間で暗かったこと、安全面からも伊勢湾湾奧の海岸線に沿った場所を水行していったものと思われること、しかも「静な水面を長閑に漕ぐ舟で行った」とある通り、ベタ凪だったと考えられ、しかも、木曽川と長良川の淡水が多量に流れ込んでいるために強い潮の香もしなかった結果、大きな木曽川の印象がそのまま持続し、所謂、殊更に大きな灣の奥を横断したという印象をモースは持たなかったのではないかと私は思う。如何にその航行が穏やかであったということは、木曽川だったとしても、現在の木曽川河口から測っても(実際にはモースは河畔で舟に乗ってからの距離と述べている)、四日市上陸までには最短でも軽く十キロメートル以上はあるのに彼はその距離を「五マイル」(八キロメートル)と述べていることからも知れるように思うのである。

「万古」「ばんこ」と読む。萬古焼とも書く。ウィキ萬古焼によれば、『陶磁器・焼き物の一つで、葉長石(ペタライト)を使用して耐熱性に優れた特徴を持つ。陶器と磁器の間の性質を持つ半磁器(炻器)に分類される』。『三重県四日市市の代表的な地場産業で』現在、『伝統工芸品に指定されている。その耐熱性の特長を活かした紫泥の急須や土鍋が有名であり、特に土鍋の国内シェアは』七~八割を占めるという。『また、豚を模った蚊遣器「蚊遣豚」でも有名である。四日市市内の橋北地区と海蔵地区で萬古焼が盛んである』(以下、(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『桑名の豪商沼波弄山(ぬなみろうざん)が、元文年間(一七三六年〜一七四〇年)に朝明郡小向(あさけぐんおぶけ:現在の三重郡朝日町小向)で創始。弄山が、自身の作品に「萬古」または「萬古不易」の印を押したのが、名前の由来である。(弄山の時代の作品は、現代では古萬古と呼ばれる)弄山の没後、一時途絶えるものの、天保年間(一八三〇年〜一八四三年)に森有節(本名は与五左衛門)らによって再興された(桑名萬古焼)。また、射和村の竹川竹斎は射和萬古を、弄山の弟子の沼波瑞牙が津で安東焼(後の阿漕焼)を興した。四日市萬古焼は山中忠左衛門の尽力によって興り、阿倉川や末広に最初の窯が建った』。『明治時代には山中忠左衛門らによって洋皿やコーヒーカップ等の洋食器の研究や地域住民への製作指導、海外輸出も行われるようになった。陶土として使っていた四日市の土は赤土であり、輸出向けの白地の食器を作ることが困難であったため、日本各地から陶土・陶石を移入して対応した。昭和に入る頃には日本国内から萬古焼の陶土に適した土がなくなってしまったが、国産振興四日市大博覧会を通して朝鮮に適した陶土があることが分かり、取引の具体化が始まった』とあり、また、『市内陶栄町には萬古神社が築かれ、森や山中の記念碑が建てられている。また五月第二週の土日には萬古祭りが開かれ、様々な陶器が売られている』ともある。

「祭礼」簡単に分かると思ったのだが、よく分からない。少なくとも現在、この日時とほぼ同じく行われている夏祭り「大四日市まつり」ではない(これは昭和三九(一九六四)年に始まった市民祭)。四日市の大矢知地区で行われる松原の石取祭は同だろうと思ったが、これは七月中旬で合わない。四日市の旅館が満杯になってしまう(次段参照)というとんでもない祭なのだが? 四日市出身の方、是非、御教授願いたい。

「氷は鉋で削るので、鉋はひっくりかえしに固定してある」ーグル画像検索「かき氷 鉋」をご覧あれ。流石に私は記憶にない。

「一斤」何度も注しているのでこれっきりにするが、一「ポンド」で約四百五十四グラム。]

 

 祭礼のために町は雑沓し、旅館はいずれも満員なので、我々は止むを得ず午前二時半に出発して次の町まで人力車を走らせたが、目的地へ着いた時には鶏が鳴き始め、夜も白々と明けかけていた。我々は疲れ切っていたので、よろこんで貧しい小さな宿屋で横になり、数時間睡った。私は八時に起き、貧弱な飯の朝飯を取った後、如何にして手づくりの万古がつくられるかを見出すべく、再び四日市へ引き返した。私は有名な半助に会ったが、この男は指だけで器用に粘土を捏ねて形をつくり、美しくも小さな急須を製出する。私はこの陶工に関する詳しい覚書を取り、幾枚かの写生をした。

[やぶちゃん注:「次の町」旧東海道五十三次の次の宿ならば石薬師(いしやくし)宿で現在は三重県鈴鹿市である。

「半助」萬古焼の陶工で「手捻(てびね)りの半助」の通称で知られた小川半助(生没年未詳)明治初期に三重県四日市に萬古焼の窯を開き、手捻りの急須で知られた。また、絵の具にフノリをくわえて堆描(ついびょう)の法を創案した。銘は「北勢円相舎主人」(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る)。]

 

 二時三十分我々は出発し、山間の谿谷の最も景色のよい所を登って、ここも伊勢の国の、山にかこまれた坂下に着いた。我々はここで一夜を送り、翌朝は人力車一台に車夫二人ずつをつけて速く進み、二時半大津着、四時半京都に着いた。即座に我々は山の中腹高くに位置し、全市を見下す弥阿弥(やあみ)ホテルへと車を走らせた。

[やぶちゃん注:「坂下」現在の三重県亀山市関町坂下。前日に泊ったのが石薬師であったとすると、そこから東海道実測でさらに二十五キロメートルほど行った、文字通り、鈴鹿峠の坂下にある集落である。

「弥阿弥(やあみ)ホテル」知恩院の北の現在の円山公園内にあった外国人利用者の多かった京都に最初に出来たホテルとされる。」「京都観光データベース@ wiki」の円山公園によれば、明治一二(一八七九)年に『長崎の実業家、井上万吉によって円山の地に也阿弥ホテルが造営された。これは京都におけるホテルのはじまりといわれる。このホテルは、旧安養寺』(明治初期に廃寺)『塔頭の多福院(也阿弥)ほかを買収し各部屋を洋風に改造したもので、照明には洋風の石油ランプを使用し、料理はすべて洋食だった』。明治三二(一八九九)年に一度『焼失したのち、勝興庵(正阿弥)の土地も合併して、翌年には円山ホテルとして再建され、来遊の外国人を宿泊させた』たが、七年後の明治三九(一九〇六)年、『再び火災により全焼し、その後は公園地として買収されたため再建されなかった』とある。また、同じページに「左阿弥」の項があり、江戸初期の安養寺には『六阿弥(左阿弥、春阿弥、弥阿弥、庭阿弥、正阿弥、連阿弥)と呼ばれる塔頭が貸座敷を営んでいた。明治期に弥阿弥が買収されてホテルとなり、他の塔頭も左阿弥を残して次々に弥阿弥に買収されて姿を消していったが、左阿弥は』嘉永二(一八四九)年に『料亭となった後、そのまま現在に至っており、かつての六阿弥の面影を伝える唯一の存在である。有栖川熾仁親王や山縣有朋も立ち寄ったという』老舗で、現在も料亭「左阿彌」として営業をしている。公式サイトには『川端康成や志賀直哉の文豪をお迎えし、作品『暗夜行路』・『古都』にも左阿彌がでてまいります。京都を描いた名作の作家らも、ここで京都の風情を楽しみました』とあって、そこにも現在の円山公園内になる明治一九(一八八六)年以前、『円山に安養寺の塔頭の、多蔵庵春阿弥、延寿庵連阿弥、花洛庵重阿弥、多福庵也阿弥、長寿院左阿弥、勝興庵正阿弥、があり「円山の六坊」と呼ばれていました。塔頭は後に遊覧酒宴の宿となり、僧坊は貸し席、料亭に変わっていきました。重阿弥では、赤穂浪士により、吉良上野介の首を討ち取ることが決定した円山会議が開かれています』とあって、写真(リンク先の左段上から三葉目の写真)を示し、そこに映っている『世阿弥は、連阿弥、重阿弥を合併し、京都で始めてのホテル、也阿弥ホテルになりました。春阿弥は』、明治一〇(一八七七)年には温泉場となったものの、明治三九(一九〇六)年に焼失、『左阿彌も明治維新以降の御前会議(明治期から太平洋戦争終結時まで国家の緊急な重大事件に際し,天皇の出席のもとに行われた元老,主要閣僚,軍部首脳の合同会議をいい、重要な国策を決めた会議)に使われました』が、『六阿彌のうち左阿彌のみが今に至るまで料亭として残りました』とある。]

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