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2015/08/17

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十章 陸路京都へ 京都小景

 

 京都は確かに芸術的日本の芸術的中心である。いたる所で人はその証拠を見る――商店、住宅、垣根、屋根の上、窓、襖、それを、辷らせる装置、格子、露台の手摺。看板さえも趣味を以て考案され、芸術と上品さとがいたる所にある。加之(しかのみならず)、私は日本中で京都ほど娘達や小さな子供が、奇麗な着物を着ている所を、見たことが無い。頭髪の結い方には特徴があり、帯の縮緬(ちりめん)と頭の装飾とは燦然としている。我我の旅館は、山の斜面に、立木と仏閣とにかこまれて立っている。この要害の地から人は、日没時、市を横切る陽光の驚く可き効果を見る。夕暮には、歌の声と琴の音と、笑い声とが聞える。声高い朗吟が聞える。そのすべてにまざって、近所で僧侶が勤行(ごんぎょう)をする、ねむくなるような唸り声が伝って来る。まったく、僧侶たちが祈禱する時に出す音は、昆虫の羽音と容易に区別しがたい。昨夜僧侶の読経にまざって、急激な軽打とも鳴音ともいう可きものを聞いた。これは私が江ノ島で聞いた、そこで鈴虫と呼ばれる昆虫と、まったく同じであった。気温が高まるにつれて、このキーキー叫ぶ昆虫の声音は速くなって行く。私は懐中時計を取り出し、一分の四分の一に、三十五回の鼓拍を数えた。だが、寒暖計を見る前に、一人の召使いに、あんな音を立てるのはどんな虫なのかと聞いたところが、あれは僧侶の鈴の音だという返事であった。

[やぶちゃん注:私はこの最後、本当にこれは僧の勤行の鈴の音であったのかどうか、実は疑ぐっている。何故なら、モースは「鈴虫と呼ばれる昆虫と、まったく同じであった」が、それが特に「気温が高まるにつれて、このキーキー叫ぶ昆虫の声音は速くなって行」ったと言う辺りが、どうも通常の夜業勤行の鈴(リン)とは違うような気がするからである。モースの質問に対して召し使いは鳴いている虫の名である「カネタタキ(鉦叩き)」を“priest's bell”と訳して、モースはそれをそのまま、実際の僧侶が鈴を鳴らしている、と誤解したのではないか? と疑っているからである。大方の御批判を俟つものではある。]

 

 この市の中を、幅の広い、浅い河が流れている。今や水がすくなく、あちらこちら河床が現れて、大きな、平べったい丸石が出ている。かかる広い区域には高さ一フィートで、畳一畳、時としては二畳位の広さの、低い草子が沢山置かれる。日本人はこれ等の卓子を借り受け、多人数の会合が隣り合って場を占める。晩方には家族が集り、茶を飲み、晩食を取り、そして日没を楽しむ。河にかかった橋から見る光景は、台がいずれも色あざやかな、いくつかの燈籠で照明されているので、驚く程美しく、目のとどくかぎり色彩の海で、ところどころ、乾いた河床に篝火(かがりび)が燃えさかる。我々と一緒にいるグリノウ氏は、これはヴェニスの謝肉祭の光景に匹敵するといった。

[やぶちゃん注:京の鴨川納涼床の夜景である。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」から推定すると、京都着が強行軍の鈴鹿越から大津を経て京に着いたのが明治明治一五(一八八二)年八月四日の午後四時半で、恐らくそのまま也阿弥ホテルへ直行、京以外の他の希望訪問先が余りにも多かったことから、京都には六泊で十日には慌ただしく出立しているから、この夜景は恐らくは着いた翌日の五日(土)から八日(火)までの四日間の孰れかであったものと考えられる。九日を外したのは時系列がごく正確に記されているとすれば次に八月八日の記事が続くことに拠る。また、気象庁の過去データによるとこのうち京都ではこの五日には四十ミリもの、六日には八ミリの降雨が記録されている。繁華な清涼な雰囲気は、にわか雨の後の鴨川の「床(ゆか)」が相応しい気が私にはする(私は実は「床」で遊んだことはない)。日曜の六日夕刻の景であろうか。

「グリノウ氏」原文“Mr. Greenough”前掲注通り、不詳のボストンの建築家。音写は「グリーンノウ」「グリノーフ」「グリノー」と思われるが、今回再度、改めてあらゆる検索を試みてみたが、この綴りの男性で、明治一五年八月上旬に京都にいたボストン出身の外国人建築家で、しかもモースらと一緒にいた人物は遂に探し得なかった。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の人名索引にも出ず、京都行の本文にも出ない全く不明の人物である。再度、切に識者の御教授を乞うものである。]

M660

図―660

M661

図―661

 

 今日(八月八日)私は画家の楳嶺(ばいれい)を訪問した。これは、彼が陶工六兵衛のために画いた、陶器製造の順序を画いた絵のうつしを画いて貰うためである。私は画の先生である棋嶺氏が、一群の生徒の中央にいる所へ入って行った。生徒はいずれも畳の上に、手本を前にして坐り(図660)、一生懸命勉強していたが、その中には十二歳、あるいはそれ以下の男の子も多かった。年長の生徒のある者は十年も通っていると、彼はいった。生徒達は朝八時に来て、夏は正午に、冬は晩の五時に帰って行くが、これを最近休日となった日曜以外、毎日やるのである。教授料は一ケ月三十セントで、紙、筆、墨、絵具その他は先生が出す。六年すると生徒はうまく手本を模写するようになる。最初の稽古は簡単な線や、菱形模様等である。次の年彼等は花を描き、その次が山水風景、そして最後に人物であるが、先ず衣文を描き、次に生物からの裸体を描く。生徒のあるものは陶工その他、職業上意匠或は装飾を必要とする工芸家の家族から、他は武士の階級から来る。棋嶺氏の毎日の級には生徒が二十人、別に各家庭で稽古し、一週間に一度絵を持って批評を乞いに来る生徒も若干いる。興味のある会見を終って、私は立ち上った。すると生徒は全部、即座に丁寧なお辞儀をし、同時に楳嶺氏はその日の自分の学校での練習図である所の、大きな紙を巻いたものを私に贈った。花、果実、舟等を力強い筆の線で措いた美しい絵で、如何なる記述よりもよりよく、教授法と若い日本人の熟達とを示している。お茶と一緒に出たお菓子は、桜の花の形で、可愛らしい籠に入っていた(図661)。

[やぶちゃん注:「楳嶺」四条派の日本画家で後に帝室技芸員となった幸野楳嶺(こうのばいれい 弘化元(一八四四)年~明治二八(一八九五)年)かと思われる。京都生。姓は安田、名は直豊、字は思順、別号に鶯夢・長安堂など。初め中島来章、後に塩川文麟に山水画を学び、京都府画学校教師となり、また私塾を開いて後進の指導に尽力、さらに京都青年絵画会・京都私立絵画研究会を組織して新日本画発展に尽力した(ここは株式会社思文閣の美術人名検索に拠った)。ウィキの「幸野楳嶺」の「教育者としての楳嶺」の項によれば、『楳嶺は画家というよりも教育者として名高く、貢献も大きい。楳嶺自身もそれを自覚していたようで、様々な逸話が残っている。若い楳嶺がある時、京で外れることがないと評判の観相家に、「俺は日本で一流の画家になることができるか?」と尋ねた。すると、その観相家は「気の毒だが一流の絵師にはなれない。しかし、二流の絵描きにはなる。そして、おまえさんが育てた者の中から天下一流の絵描きが必ず出る。だから弟子を育てなさい」と答えた。それを聞いた楳嶺は「自分が一流の画家となれないのは残念だが、これも天運ならば仕方がない。俺は子弟を教育して天下第一流の者をつくりだしてやろう」と決意したという。後年、弟子たちにこの逸話を話し、「俺はお前たちの踏み台なのだから、遠慮なく俺を踏み台にして、俺よりも偉い者になってくれなくては困る」と言って励ました』。『また、その場その場に応じ適切な指導したエピソードも多い。門人たちが女の話をしていると「その女のどこが美しかったか言ってみろ」「ただ美しいと思うだけでは絵描きになれない。どこが美しいか研究しなければいけない」と諭し、弟子が庭掃除をしていると、「そんな掃き方をしたら、緑青ではムラになるぞ。どこから初めてどう掃くか、最初に目的を決めて順序を目で測ってやれ」と注意した。火事が起こり、門人が慌てて見に行こうとすると、「写生帳を持ってきたか」「いえ、持ってまいりません」「写生帳を持たずに出てきて何になる。早く持って行ってこい」と説いた』。『厳しく徹底的に基礎教育をする代わりに、基礎が出来たら自由にさせていたようである。また、常に門弟たちを引き立たせるようにしていたようでもある。門弟が少し慢心していると絵の批評も痛烈にやるが、やや悲観している者があると拙い絵でも褒めてやり、その匙加減が絶妙だったという』とあり、ここでのモースの暖かな視線の向こうの彼の面影を伝えるような気がする。]

M662

図―662

 

 我々にあっては、こわれやすい品を入れた箱に「硝子(ガラス)」と記し、欧洲では内容が脆弱であることを示すために、葡萄酒杯の絵を描くのが常である。日本の包装者は真珠貝(鮑)を、図662に示す通り箱にしばりつけ、あるいは箱にこの貝の絵を描く。

M663

図―663

 

 陶器を見に立ち寄った小さな店では、私に面白い形の容器に入れた、スパゲティの一種を供した。太さは日本綿糸よりすこし大きい丈である。これは、その一本を皿から取り上げると、それを箸にまきつけ得る迄に、二フィートもそれ以上も伸るので、食うのが大変むずかしい。小さな盃には汁が入っていた。これはヒヤムギと呼ばれる。それの入った器は支那製だという事であった(図663)。私がこれを食っている間、店主の小さな娘が一種のギタアを弾いて聞かせてくれた(図664)。

M664

図―664

 

[やぶちゃん注:「スパゲティ」底本では直下に石川氏による『〔イタリー饂飩(うどん)〕』という割注が入る。

「二フィート」六十・九六センチメートルだが、これは一寸、大袈裟過ぎる。こんな長い冷麦は私は聴いたことがない。調べて見たが、業務用の特別に長いものでも四十センチメートル余である。

「ギタア」底本では直下に石川氏による『〔六絃琴〕』という割注が入る。図を見るに中国伝来の月琴である。]

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