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2015/08/05

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第一章  私の極東に於ける第一日 (八)

       八

 

 『寺ですか』と、私が階段の下で、また人力車に腰をおろした時、車夫は大きな白い笠を手に持つたまゝ私に尋ねた。これは、私がもつと他の寺を見物したく思つてゐるのか、といふ問に相違ない。實際さうだ。まだ佛像を見ないのだ。

 『左樣、寺』

 不思議な商店、反つた檐、一切のものに書いてある奇異不可解の文字、そんなものの長く連つたパノラマがまた始まつた。車夫がどの方向に走つてゐるか、一向わからぬ。わかつたのは、行けば行くほど町が狹くなるらしいこと、ある家屋は大きな枝編細工の鳩籠の觀あること、それから、敷個の橋を渡つてから、また他の丘麓で停まつたことだけである。こゝにも高い石段がある。その前に立てる一個の構造は、門でもあり、象徴でもあることを私は知つた。堂々たるものだ。しかし、毫も先きに見た佛寺の大きな山門には似てゐない。驚くほど簡單な輪廓をしてゐる。彫刻も無く、彩色も施してなく、文字も書いてない。しかも、恐ろしい莊嚴、不可思議の美がある、これは鳥居なのだ。

 『宮』と車夫が云つた。今度は寺でなく、この國の一層古い信仰に屬する神々の社祠である。

 私は神道の一つの象徴の前に立つてゐる。少くとも繪畫以外では初めて鳥居を見たのだ。寫眞や版畫でさへも鳥居を見たことのない人には、どういふ風に説明しよう。門柱の如き二本の高い柱が、二本の梁を水平に支持して、下の方にある軽い梁は、その兩端が二本の柱の頂から少し下の處へ箝つて、上の方の大きな梁は二本の柱の頂に載つて、更に左右ヘ相當延び出でてゐる。これが鳥居である。材料は石でも木も金屬であつても、構造の意匠はあまり變らない。しかし、この説明では鳥居の恰好、その莊嚴な趣、門口として神祕的暗示を含めることなどに就て正確なる觀念を與へ得ない。初めて気高い鳥居を見る人は、恐らくは美麗な漢字の大きな雛形が天に聳えてゐると想像するであらう。ぞれは、鳥居のすべての線は、生氣躍如たる文字の優美を有し、書道の名人が四たび筆を揮つて書いた文字のやうな、奔放な角と曲線を有してゐるからである。

    註。日本通のサトウ氏の説を奉ずる人は、

    鳥居はもと神道の社祠に於て、神々に獻

    げられたる雞――食料としてでなく、黎

    明を報ぜんがため――の棲木であつたと

    書いてゐる。ある學者達は語原を鳥居、

    即ち鳥の休む處としてゐる。しかし、こ

    れに劣らぬ大家のアストン氏は、單に門

    といふ意昧を有する言葉から出でたもの

    と説いてゐる。チエムバリン氏の『日本

    風物誌』四二九、四三〇參照。

 鳥居を過ぎで約百階もある石段を上ると、その頂に第二の鳥居があつて、下の方の梁からは神祕な注連繩が花綵のやうになつて垂れてゐる。ここの注連繩は、殆どその全長を通じて徑二寸位の麻繩で、その兩端は蛇の如く次第に尖つてゐる。鳥居が靑銅の場合には、注連繩も靑銅で出來ていゐることがある。が、慣習に隨へば、藁で作るべきであつて、また普通さうなつてゐる。その譯は、天手力雄命が天照大御神をひき出してから、太玉命が大神の背後へ張つや藁繩を表すからである。これはチエムバリン教授の譯した、かの神道の古い神話に物語られてゐる。

    註 チエムバリン敢授は日本の帝國大學

    に於て、日本語の教授といふ、異常なる

    地位を持つてゐる。英國の言語學界に取

    つて。なかなかの名譽である。

 して、注連繩の最も普通且つ簡單なのには、その全長に沿つて、一定の間隔毎に、藁の總(ふさ)が垂れてゐる。傳説によれば、もとは根から引拔いた稻で作つたので、根が繩の撚り目から突き出でてゐたからである。

 この鳥居を越えて進むと、丘陵の頂にある一種の公園又は慰み場所に來た。右方に小社があるが、閉鎖してある。私は神社の中が空虛で、人を失望に了はらせるといふことを、澤山讀んでゐるから、社司の不在を殘念に思はぬ。すると、私の目前に、もつと一層面白いもりが見えた。名狀すべからざるほど美しいものが、一面を蔽つてゐる。それは櫻の林――一本一本の大枝小枝に、夏雲の白い片の如く縋りついた、雪白の花の爛漫たる霞だ。して、その下の地面と私の前の路上は、柔かな厚い、芳ばしい落花の雪で眞白になつてゐる。

 この美しい處を越えてから、數個の小祠を繞る花壇がある。また岩に彫つた龍や、神話的人物などの怪物に滿ちた驚くべき洞窟がある。矮樹の小森林、小型の湖、顯微鏡的な小形の川、橋、瀑布など、小規模な山水の風景がある。こゝに又子供達のために鞦韆がある。丘端に乘りかかつた見晴らし臺もある。そこから綺麗な全市街と、針頭大の漁船の帆が散點せる靜灣全部と、海に延びて遙かに遠い微かな高い岬が、心地よく一眸の中に收まる――名狀し難い美しい幽靈のやうな靄の中へ、靑鉛筆で描いたやうに。

 何故に日本では樹木が、かくも美しいのだらう。西洋では、花の咲ける梅や櫻が、驚くべき光景を呈しないのに、ここではあまり不思議な美しさなので、いかほど書物で以前に讀んだことがあつても、實景は人を啞然たらしめる。葉は見えないで、ただ一枚の大きな薄膜の如き、花瓣の靄である。この神國では、樹木は永く土地に馴らされ、人間に愛撫されたため、魂を生じて、恰も愛する夫のために女が容を作る如くに、人間のために一層美しくなつて感謝を表はさうと努めるのであらうか。たしかに樹木は美しい奴隷の如くに、その美で人間の心を懷け得たのである。即ち日本人の愛情を占め得たのだ。この遊園へ野卑な種類の外客が來たものと見える。『樹木ヲ損ズベカラズ』と英語で記したものを掲げるのが必要と考へられてゐるから。

 

[やぶちゃん注:百段もある階段上に立つ神社である(でも神社は小さいらしい)。その境内背後には公園か遊園地のような場所があり、桜が美しい。花壇がある。人工のグロッタがある。盆景のようなミニチュアの山水がある。ブランコがある。亭(ちん)がある。かなり凝った造りの近代的な公園で横浜市外全景が見渡せるという。横浜最古の公園は中区山手町にある日本初の洋風公共庭園山手公園で居留民により整備がなされて、明治三(一八七〇)年六月四日に開園しており、しっくりくる印象はここしかない(と言っても私は行ったことがない)。しかしでは、この神社はどこなんだろう? 地図上では見当たらない。横浜通の方、眼から鱗の同定をお願いしたい。201586日追記】先に最初の寺を本覚寺と同定して呉れた教え子から、これは元町百段とその上の浅間神社そして百段公園ではないかという指摘を受けた。私はこの公園に行ったことがないが、地図で見ると、山手公園の北北東四百五十メートル、元町商店街の東南百二十メートルの丘陵上にある(外人墓地の西二百四十メートル位置)。沢原馨氏のサイト「横浜線沿線散歩」の元町百段公園を見ると、現在の同公園解説プレートからとして、『公園のある辺りは、横浜開港時から大正期にかけて浅間山の見晴台と呼ばれており、港や関内地区を一望し、遠くは神奈川宿の旅籠や茶屋までが見渡せたという。元町の鎮守である厳島神社の末社である浅間神社が祀られ、小さな茶屋もあって外国人観光客も訪れていたらしい。その当時、元町二丁目と山手の丘上とを繋いで急な石段があった。石段は百一段あったそうだが、人々は「百段」と呼んで親しんでいたという。その「百段」は残念ながら関東大震災で崩れてしまい、現在は残っていない』とある。ここにある厳島神社はかろうじて行ったことがあり、この公園の西南西百六十五メートルほどの元町商店街の山手側の裏通りにあって、ここで引用文にあるこの厳島神社とその『末社である浅間神社』(神社の末社である浅間社が本社の上方のこういう位置関係にあるのはすこぶる一般的なものである)の二つの社名は先に示した、個人ブログ「ケペル先生のブログ」の「小泉八雲来日」に出る。ここと見て間違いあるまい。さらに別な教え子が横浜開港資料館百段の写真を教えてくれた。凄いぞ! 白い笠の車引きの「チア」さんが、写真の左側に映ってるゾ! なお、「横浜旅行 クチコミガイド」の元町百段公園(横浜市中区山手町)によれば、この浅間神社は既に廃されてないことが分かり、また、この現在のこの百段公園の不思議な点として、その参道であったのが百段階段(実際には百一段あったらしい)であったにも拘らず、「浅間神社跡」という名を冠していないこと、また、『山手町にあるのに「元町」の名を冠していることだろうか』と述べておられる(リンク先は写真豊富で必見)。

「箝つて」「はさまつて」と訓じているのであろう。

「サトウ氏」イギリスの外交官でイギリスに於ける日本学の基礎を築いたサー・アーネスト・メイソン・サトウ(Sir Ernest Mason Satow  一八四三年~一九二九年)。イギリス公使館の通訳・駐日公使・駐清公使を務めた。日本名を「佐藤愛之助」又は「薩道愛之助」と称した。初期の日本滞在は一時帰国を考慮しなければ実に一八六二年から文久二(一八八三)年に及び、後の駐日公使としての明治二八(一八九五)年から明治三〇(一八九七)年を併せると延べ二十五年間になる。詳細は参照したウィキアーネスト・サトウを参照されたい。

「アストン氏」イギリスの外交官で日本学者のウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston 一八四一年~一九一一年)。十九世紀当時、始まったばかりの日本語及び日本の歴史の研究に大きな貢献をした、アーネスト・サトウ、バジル・ホール・チェンバレンと並ぶ初期の著名な日本研究者である。詳細は参照したウィキの「ウィリアム・ジョージ・アストンを参照されたい。

「チエムバリン氏の『日本風物誌』」既注のイギリスの日本研究家で東京帝国大学文学部名誉教師バジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain 一八五〇年~一九三五年)が書いた“Things Japanese”。一八九〇年から一九三六年までで六版を重ねた、アルファベット順項目別に書かれた日本文化事典。なお、ここでハーンは鳥居の起源について注しているので、以下にウィキ鳥居」の「起源」のパートを一部引用しておく(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『鳥居の起源については諸説あり、考古学的起源についてはっきりしたことは分かっていない。単に木と木を縄で結んだものが鳥居の起こりであると考えられる。文献に徴すれば古くは「於不葦御門(うへふかずのみかど)」(皇太神宮儀式帳)と称して、奈良時代から神社建築の門の一種としている。いずれにせよ、八世紀頃に現在の形が確立している』。『そのほか主要な説として、天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から誘い出すために鳴かせた「常世の長鳴鳥(とこよのながなきどり)」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を置いたことが起源であるとする説、インド仏教にみられるトラナや中国の華表や鳥竿、牌楼(ぱいろう)、朝鮮半島の紅箭門(こうぜんもん・ホンサルムン)』『雲南省とビルマとの国境地帯に住むアカ族(英: Akha)の「村の門(ロコーン)」など海外に起源を求める説などがある』。『語源についても同様に不明である。鶏の止まり木を意味する「鶏居」を語源とする説、止まり木(あるいは神前止まり木)説、「とおりいる(通り入る)」が転じたとする借字説、トラナを漢字から借音し表記したとする説などがある。Karow&Seckelは鳥居の名称を鳥(Vogel)そのものに求め、死者の家として家屋の中心部だけを残して崇敬の対象としたとの説をとる』。『構造そのものに着目した説としては、鳥居桁(架木)説とでも呼ぶもので、そもそも建築用語として高欄の横木の最上部のものを鳥居桁と呼ぶことは奈良時代の資料から明らかになっており、障子の上桁の横木を鴨居と呼ぶのと同じく、「トリイ」とは古来からの建築用語であり、これが神社門に転じたとする説である。奈良時代に「トリイ」の語は建築用語として存在し、平安初めに一般神社門は「トリイ」と俗称され、平安中期にはこの名称が庶民によって用いられたとする』とある。また、後の部分では注連繩(しめなわ)についてもハーンは触れているので、私がかつて大変興味深く読まさせて戴いた注連縄研究会大友正道氏の注連縄豆知識をリンクさせておく。
 
「花綵」「はなづな」或いは音で「カサイ」と読む。植物の花・実・葉などを綱状に編んだ飾り。或いは、それを模して造った陶器や建築などの装飾を指す。懸け花装飾のこと。

「天手力雄命」老婆心乍ら「あめのたぢからのをのみこと」と読む。言わずもがな、天照大神の岩戸隠れの際に岩戸の脇に控えて、天照大神が岩戸を少し開けて顔を覗かせた時、岩戸を引き開けた剛力神。

「太玉命」「ふとだまのみこと」と読む。天照大神の岩戸隠れの際に智神思兼(おもいかね)が考えた策で良いかどうかを占うために天児屋命(あめのこやねのみこと)とともに、太占(ふとまに:鹿の肩甲骨などを用いた卜占)を行った上で人形に模した八尺瓊勾玉や八咫鏡などを下げた天の香山の五百箇真賢木(いおつまさかき)を捧げ持って天照大神が岩戸から顔を覗かせると同時にその前に鏡を差し出した神である。天孫降臨の際には瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に従って天降るよう命ぜられて五伴し、「日本書紀」の一書にあっては天児屋命と共に天照大神を祀る神殿伊勢神宮の守護神となるよう命ぜられたとも書かれているという(以上は主にウィキフトダマに拠った)。

「チエムバリン教授の譯した、かの神道の古い神話」チェンバレンが滞日中の明治一五(一八八二)年(当時は東京海軍兵学寮(後の海軍兵学校)で英語を教えていた。東京帝国大学外国人教師となったのは四年後の明治十九年)に「古事記」を英訳した“Kojiki”。]

 

Sec. 8

'Tera?' queries Cha, with his immense white hat in his hand, as I resume my seat in the jinricksha at the foot of the steps. Which no doubt means, do I want to see any more temples? Most certainly I do: I have not yet seen Buddha.

'Yes, tera, Cha.'

And again begins the long panorama of mysterious shops and tilted eaves, and fantastic riddles written over everything. I have no idea in what direction Cha is running. I only know that the streets seem to become always narrower as we go, and that some of the houses look like great wickerwork pigeon-cages only, and that we pass over several bridges before we halt again at the foot of another hill. There is a lofty flight of steps here also, and before them a structure which I know is both a gate and a symbol, imposing, yet in no manner resembling the great Buddhist gateway seen before. Astonishingly simple all the lines of it are: it has no carving, no colouring, no lettering upon it; yet it has a weird solemnity, an enigmatic beauty. It is a torii.

'Miya,' observes Cha. Not a tera this time, but a shrine of the gods of the more ancient faith of the land—a miya.

I am standing before a Shinto symbol; I see for the first time, out of a picture at least, a torii. How describe a torii to those who have never looked at one even in a photograph or engraving? Two lofty columns, like gate-pillars, supporting horizontally two cross-beams, the lower and lighter beam having its ends fitted into the columns a little distance below their summits; the uppermost and larger beam supported upon the tops of the columns, and projecting well beyond them to right and left. That is a torii: the construction varying little in design, whether made of stone, wood, or metal. But this description can give no correct idea of the appearance of a torii, of its majestic aspect, of its mystical suggestiveness as a gateway. The first time you see a noble one, you will imagine, perhaps, that you see the colossal model of some beautiful Chinese letter towering against the sky; for all the lines of the thing have the grace of an animated ideograph,—have the bold angles and curves of characters made with four sweeps of a master-brush. [2]

Passing the torii I ascend a flight of perhaps one hundred stone steps, and find at their summit a second torii, from whose lower cross-beam hangs festooned the mystic shimenawa. It is in this case a hempen rope of perhaps two inches in diameter through its greater length, but tapering off at either end like a snake. Sometimes the shimenawa is made of bronze, when the torii itself is of bronze; but according to tradition it should be made of straw, and most commonly is. For it represents the straw rope which the deity Futo-tama-no-mikoto stretched behind the Sun-goddess, Ama-terasu-oho-mi-Kami, after Ame-no-ta-jikara- wo-no-Kami, the Heavenly-hand-strength-god, had pulled her out, as is told in that ancient myth of Shinto which Professor Chamberlain has translated. [3] And the shimenawa, in its commoner and simpler form, has pendent tufts of straw along its entire length, at regular intervals, because originally made, tradition declares, of grass pulled up by the roots which protruded from the twist of it.

Advancing beyond this torii, I find myself in a sort of park or pleasure-ground on the summit of the hill. There is a small temple on the right; it is all closed up; and I have read so much about the disappointing vacuity of Shinto temples that I do not regret the absence of its guardian. And I see before me what is infinitely more interesting,—a grove of cherry-trees covered with something unutterably beautiful,—a dazzling mist of snowy blossoms clinging like summer cloud-fleece about every branch and twig; and the ground beneath them, and the path before me, is white with the soft, thick, odorous snow of fallen petals.

Beyond this loveliness are flower-plots surrounding tiny shrines; and marvellous grotto-work, full of monsters—dragons and mythologic beings chiselled in the rock; and miniature landscape work with tiny groves of dwarf trees, and Lilliputian lakes, and microscopic brooks and bridges and cascades. Here, also, are swings for children. And here are belvederes, perched on the verge of the hill, wherefrom the whole fair city, and the whole smooth bay speckled with fishing-sails no bigger than pin-heads, and the far, faint, high promontories reaching into the sea, are all visible in one delicious view—blue-pencilled in a beauty of ghostly haze indescribable.

Why should the trees be so lovely in Japan? With us, a plum or cherry tree in flower is not an astonishing sight; but here it is a miracle of beauty so bewildering that, however much you may have previously read about it, the real spectacle strikes you dumb. You see no leaves—only one great filmy mist of petals. Is it that the trees have been so long domesticated and caressed by man in this land of the Gods, that they have acquired souls, and strive to show their gratitude, like women loved, by making themselves more beautiful for man's sake? Assuredly they have mastered men's hearts by their loveliness, like beautiful slaves. That is to say, Japanese hearts. Apparently there have been some foreign tourists of the brutal class in this place, since it has been deemed necessary to set up inscriptions in English announcing that 'IT IS FORBIDDEN TO INJURE THE TREES.'

 

2 Various writers, following the opinion of the Japanologue Satow, have stated that the torii was originally a bird-perch for fowls offered up to the gods at Shinto shrines—'not as food, but to give warning of daybreak.' The etymology of the word is said to be 'bird-rest' by some authorities; but Aston, not less of an authority, derives it from words which would give simply the meaning of a gateway. See Chamberlain's Things Japanese, pp. 429, 430.

 

3 Professor Basil Hall Chamberlain has held the extraordinary position of Professor of Japanese in the Imperial University of Japan—no small honour to English philology!

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