フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« ブログ710000アクセス突破記念 火野葦平 魚眼記  | トップページ | 小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第三章 お地藏さま (六) »

2015/08/23

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第三章 お地藏さま (五)

 

       五

 

 蔭のさした阪道を下りると、三尺位の高さの六個の小さな像が、一枚の長い臺石の上に、一列に立つてゐるのに、私は出逢つた。第一の像は佛教の抹香函、第二は蓮華、第三は巡禮の杖を持ち、第四は數珠を爪繰り、第五は合掌祈禱の姿、第六は頂端に六個の輪の附いた錫杖を片手に持ち、他の片手には諸願成就の力ある神祕的な、如意寳珠を持つてゐる。が、六つの顏はすべて同じい。各たゞ姿勢と標章の性質が異るだけだ。して、皆同じ樣な微笑を洩らしてゐる。いづれの像の頭にも白木綿の嚢が下がつてゐて、皆小石が一杯入つてゐる。して、像の足許にも、膝の上にも、肩の上にも、小石が高く積み上げてある。石造の後光の上にまで、細い小石が落ちないやうに載せてある。すべて是等のやさしい子供らしい顏は、古風で、不思議で、しかし、何とも云へなく人を感動させる。

[やぶちゃん注:「三尺位の高さ」原文は“about three feet high”。「三尺」は九十センチメートルで、三フィートは九十一センチメートルほど。]

 

 これは普通六地藏と呼ばれ、かゝる群像は幾多日本の墓地に見られる。これは日本の通俗信仰に於て、最も美はしく優しい像、子供の靈魂の世話をして、心配な場所で慰め、惡鬼から救つて呉れる、あの殊勝な佛を現したものである。『しかし、あの像のほとりに積み上げた小石は、どうした譯です?』と私は問うた。

[やぶちゃん注:「六地藏」墓地の六地蔵は極めて一般的であり、当時は未だ海龍山本泉寺増徳院の墓地であったそこに六地蔵があって全くおかしくない。多大実在したか、今もするか、それがまたハーンの見たものと同一像であるかどうかを私自身が容易に検証出来ずにいるだけのことである。何方か、出来れば検証して戴きたいというのが、身動きの取れない私の正直な本音なのである。因みにウィキの「地蔵」には(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)、『日本では、地蔵菩薩の像を六体並べて祀った六地蔵像が各地で見られる。これは、仏教の六道輪廻の思想(全ての生命は六種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)に基づき、六道のそれぞれを六種の地蔵が救うとする説から生まれたものである。六地蔵の個々の名称については一定していない。地獄道・餓鬼道、畜生道・修羅道・人道・天道の順に檀陀(だんだ)地蔵・宝珠地蔵・宝印地蔵・持地地蔵・除蓋障(じょがいしょう)地蔵・日光地蔵と称する場合と、それぞれを金剛願地蔵・金剛宝地蔵・金剛悲地蔵・金剛幢地蔵・放光王地蔵・預天賀地蔵と称する場合が多いが、文献によっては以上のいずれとも異なる名称を挙げている物もある。像容は合掌のほか、蓮華・錫杖・香炉・幢・数珠・宝珠などを持物とするが、持物と呼称は必ずしも統一されていない。日本では、六地蔵像は墓地の入口などにしばしば祀られている。中尊寺金色堂には、藤原清衡・基衡・秀衡の遺骸を納めた3つの仏壇のそれぞれに六体の地蔵像が安置されているが、各像の姿はほとんど同一である』とある。因みに私は鎌倉六地蔵の側の高浜虚子の娘が嫁に行った先の隣りで生まれた。――私を守っている地蔵はきっとあの鎌倉時代の処刑場の跡に建てられた六地蔵に違いない――と勝手に思っている人間でもあることを告白しておく。]

 

 『それは、或人の説に、子供の靈魂は、死後に子供が行く場所の賽ノ河原で、懺悔の苦業として、小さな石塔を建てねばならぬからです。鬼が來て、子供が塔を築くや否や倒すのです。して、鬼は子供を嚇したり、苫しめたりしますが、子供達が地藏の方へ走つて行くと、地藏は大きな袖の下へ子供を隱して、慰めてやつて、鬼を去らせます。だから、誰でも心から祈つて、地藏の膝や足の上ヘ一つの石を置く毎に、賽ノ河原のある子供の靈魂の爲めに、長い苦行の助けをしてやる譯になります』

 地藏の笑の如く優しい笑を帶びて、右の話を私に語つた佛教の靑年學生は、また云つた。

 『すべて子供は、死ぬると、賽ノ河原に行かねばなりません。そこで地藏と一緒に遊ぶのです。賽ノ河原は私共の下、土地の下にあります。』

 

   註一 地藏及び他の神佛の前へ石を積む

   習慣の眞正の起原には、解かつてゐない。

   それは有名なる法華經の一節に基く。

     若於曠野中   積土成佛廟

     乃至童子戯   聚沙爲佛塔

      ――妙法蓮華卷第一、方便品第二

   註二 地藏はもと梵語のクシテイ・ガル

   パ(地藏)だと東洋學者は云つてゐる。

   チエムバリン氏の説の如く、地藏と耶蘇

   (ジーザス)の音が類似せるは、『全くの

   偶合』に過ぎない。しかし日本では、地

   藏は全然變化してしまつて、正しく日本

   の諸佛中での最も日本的なものと云ひ得

   る。「賽ノ河原口吟之傳(クチズサミデン)」

   といふ佛教の珍らしい古書によると、賽

   ノ河原傳説は悉く日本に起原を發し、西

   曆九百四十六年に崩御された朱雀天皇の

   御宇、天慶六年に空也上人が初めて書い

   たものでゐる。空也上人が京都に近い西

   院といふ村の賽ノ川〔現今の芹川だと云

   はれる〕の河原で、一夜を過したとき、

   冥界に於ける子供の狀態につき御告げを

   受けたのだといふ。〔その書には、傳説が

   斯くの如くに載つてゐる。が、チエムバ

   リン教授は現今書かるゝ賽ノ河原といふ

   文字は、『靈魂の河原』を意味することを

   説いてゐる。また現代の日本の信仰では、

   その河を冥途に置いてゐる)この神話の

   眞正の歷史はどうであらうとも。これは

   正しく曰本のものであゐ。して、地藏を

   死んだ子供の愛護者、遊び相手とする觀

   念は日本のものである。

   通俗的形式の地藏は、まだ他にいろいろ

   ある。最も普通のは姙歸が祈願をかける

   子安地藏である。日本の道路に地藏の像

   の見られないのは殆ど稀だ。地藏はまた

   巡禮者の守護者だから。

[やぶちゃん注:「註一」は以下の原文注(注番号は「2」)と照応させると分かるが、「法華経」経文の一部が省略されてしまっている。これは厳密には「法華経」巻第一の「方便品第二」の「第二過去佛章」の「人天開會」にある、

   *

諸佛滅度已

供養舎利者

起万億種塔

金銀及頗梨

車渠與瑪瑙

枚瑰瑠璃珠

淸淨廣厳飾

莊校於諸塔

或有起石廟

栴檀及沈水

木櫁幷餘材

甎瓦泥土等

若於曠野中

積土成佛廟

乃至童子戲

聚沙爲佛塔

如是諸人等

皆已成佛道

若人爲佛故

建立諸形像

刻彫成衆相

皆已成佛道

或以七寳成

鍮石赤白銅

白鑞及鉛錫

鐵木及與泥

或以膠漆布

嚴飾作佛像

如是諸人等

皆已成佛道

綵晝作佛像

百福莊嚴相

自作若使人

皆已成佛道

乃至童子戲

若草木及筆

或以指爪甲

而晝作佛像

如是諸人等

漸漸積功德

具足大悲心

皆已成佛道

但化諸菩薩

度脱無量衆

 諸仏滅度し已(を)はりて

 舍利を供養する者

 万億種の塔を起てて

 金銀及び頗黎(はり)

 車渠(しやこ)と碼碯(めなう)

 枚瑰(まいくわい)・瑠璃珠(るりしゆ)とをもつて

 淸淨に廣く嚴飾し

 諸の塔を莊校し

 或ひは石廟を起て

 栴檀(せんだん)及び沈水(ぢんすゐ)

 木樒(もくみつ)並びに餘の材

 甎瓦(せんぐわ)・泥土等をもつてするあり

 若しは曠野の中に於いて

 土を積んで佛廟(ぶつみやう)を成し

 乃至(ないし)童子の戲れに

 沙を聚めて佛塔を爲せる

 是くのごとき諸人(しよにん)等(ら)

 皆已に佛道を成(じやう)じき

   *

の下線部分(やぶちゃん)が原注には引かれているのである。なお、引用原文と訓読は作家隆慶一郎氏公式サイト「隆慶一郎わーるど」の「文献資料室」内の「法華経」を参考にしつつ、私の流儀に基づいて恣意的に正字化し、改訓読している(脱線も甚だしいのでもう二度と言わないが、例えば私は漢文の訓読では本邦の附属語である助動詞と助詞は必ず平仮名でなくてはならないと信ずる人間である――そうした絶対的規則性を示さなければ高等学校で漢文は絶対に教えられない、受験生の安心するような絶対的セオリーはいっかな構築出来ないからである――ので、「如き」「也」「哉」などがそのままに威厳あり気に鎮座しているなどというのは到底ゼッタイに許し難い訓読文だからなのである)。因みに「頗黎」は、赤や白などの鮮やかな異色彩の水晶を指し、時に仏教の「七宝」の一つとされる宝玉である。「莊校」は恐らく「しやうきやう(しょうきょう)」と読み、「莊」は謂う所の「厳かに仏像・仏塔・寺院建築などを荘厳(しょうごん)」する、「厳かに飾り立てる」の意であり、また「校」の方も全く同じく「正しく厳かに飾る」の意であるから、風化毀損したりした石塔・供養塔――というよりも原義本来の「スツーパ」――を綺麗に浄化し崩れ擦れ隠れた梵字彫琢などを再刻したり復元したりすることを言っているものと思われる(全くの勝手な推理であるが)。他に注したい語句もないではないが、五月蠅くなって、何時までも終わらなくなるので、ここは読者各自の自己研究として丸投げすることにする。悪しからず。私の如きアンチ・アカデミストに頼り切っては、あなたの智は何時までも借り物でしかない、愚昧なものである。心せられるがよい。

「賽ノ河原」「三途川の河原」を別に「賽の河原(さいのかわら)」とも呼ぶ。「賽の河原」と呼ばれる場所も、後述の恐山のものをはじめとして日本各地に実在する。ィキの「三途川」によれば、『賽の河原は、親に先立って死亡した子供がその親不孝の報いで苦を受ける場とされる。そのような子供たちが賽の河原で、親の供養のために積み石(ケアン)による塔を完成させると供養になると言うが、完成する前に鬼が来て塔を破壊し、再度や再々度塔を築いてもその繰り返しになってしまうという俗信がある。このことから「賽の河原」の語は、「報われない努力」「徒労」の意でも使用される。しかしその子供たちは、最終的には地蔵菩薩によって救済されるとされる。ただし、いずれにしても民間信仰による俗信であり、仏教とは本来関係がない』。『賽の河原は、京都の鴨川と桂川の合流する地点にある佐比の河原に由来し、地蔵の小仏や小石塔が立てられた庶民葬送が行われた場所を起源とする説もあるが、仏教の地蔵信仰と民俗的な道祖神である賽(さえ)』(「塞」とも書く)『の神が習合したものであるというのが通説である』。『中世後期から民間に信じられるようになった。室町時代の『富士の人穴草子』などの御伽草子に記載されているのが最も初期のものであり、その後、「地蔵和讃」、「西院(さいの)河原地蔵和讃」などにより広く知られるようになった』とある。

「賽ノ河原口吟之伝」私は見たことも聴いたこともなく、標題も如何にも民間布教のための頗る怪しいものであるが、個人ブログ「takusankanの周易占いノート」の「さいの河原の地蔵尊 『賽ノ河原口吟之伝』」に注とともに示されてある。御興味のある向きはどうぞ。私は個人的にこうした面妖な宗教書には興味がない。そもそもが地蔵信仰や地獄信仰は中国で書かれた偽経に基づく極めて道教色の濃い現世利益道徳経みたような噴飯物としか考えていないからである。

「芹川」不詳。現在の京都府京都市伏見区下鳥羽西芹川町を流れる川か? 但し、本文にある西院からは南南東に七・五キロメートルも離れており、位置が合わない。識者の御教授を乞う。ウィキの「三途川」には『実在の川』として(それがモデルというのではなく、あくまで同名称の川の意ではあるが)、現在の群馬県甘楽郡甘楽町を流れる利根川水系白倉川支流の小河川(さんずがわ)千葉県長生郡長南町を流れる三途川宮城県刈田郡蔵王町を流れる三途川(さんずのかわ)青森県恐山を流れる三途川を挙げ、最後のそれに就いては、『青森県むつ市を流れる正津川』(しょうづがわ)『の上流部における別名。青森県むつ市の霊場恐山は、宇曽利山湖を取り囲む一帯のことであるが、この宇曽利山湖から流出する正津川を別名で三途川と呼ぶ。河川名の「正津川」も、仏教概念における三途川の呼称のひとつである。宇曽利山湖の周辺には賽の河原と呼ばれる場所もあり、積み石がされている』とあるが、「芹川」という名は見当たらない。識者の御教授を乞うが、全くの直感乍ら、原文は確かに“Serikawa”ではあるものの、「芹」は実は賽の河原のモデルの一つとされる「加茂川」の「茂」といやに似て居るのが気にかかるのである。

「西曆九百四十六年に崩御された朱雀天皇」第六十一代天皇朱雀天皇(延長元年七月二十四日(ユリウス暦九二三年九月七日)~天暦六年九月六日(ユリウス暦九五二年八月七日)の在位は満七歳の延長八年十一月二十二日(西暦九三〇年十二月十四日)から満二十二の天慶九年四月十三日(西暦九四六年五月十六日)は参照したウィキの「朱雀天皇」によれば、『治世中はこのほかにも富士山の噴火や地震・洪水などの災害・変異が多く、また皇子女に恵まれなかったこともあってか、朱雀天皇は早々と同母弟成明親王(後の村上天皇)に譲位し、仁和寺に入った。しかしその後、後悔して復位の』祈禱をしたともいうとあって、天暦六(九五二)年には出家し、その年の内に満二十九歳の若さで崩御している。

「天慶六年」ユリウス暦九四二年。朱雀帝数えで二十の時である。

「空也上人」(延喜三(ユリウス暦九〇三)年~天禄三(九七二)年)は天台宗空也派の祖。皇族の出とする説もあるが出自不詳。常に市中に立って庶民に念仏を勧め、貴賤を問わず幅広い帰依者を得、「阿弥陀の聖」「市の聖」と尊称された。諸国を巡礼しつつ道路や架橋などの社会事業にも尽くした。京都に疫病が流行した際には西光寺(後の六波羅蜜寺)を建立して平癒を祈った。光勝。時宗の一遍は空也を「わが先達」として敬慕した。比叡山を中心に行われた所謂、「山の念仏」に対して一般庶民の中に自らを潜ませて念仏を広め、後に口称念仏の祖或いは民間に於ける浄土教の先駆者と評価されている(他にも踊念仏や等の開祖とも仰がれるものの空也自身がこうした後の踊念仏を修したという事実は資料にはない。ここはウィキの「空也」に拠った)。朱雀帝の在位と合わせると、ここでハーンが言っていることが事実とすれば、帝となった延長八(九三〇)年十一月二十二日(空也は数え二十八歳)から天慶九(九四六)年四月十三日(空也四十四歳)の間ということになる。但し、同ウィキに延喜二二(九二二年)頃(数え二十)に『尾張国分寺にて出家』、「空也」と名乗ってより『在俗の修行者として諸国を廻り、「南無阿弥陀仏」の名号を唱えながら道路・橋・寺院などを造るなど社会事業を行い、貴賤(きせん)を問わず幅広い帰依者を得』た後、天慶元(九三八)年には『京都で念仏を勧め』、十年後の天暦二(九四八)年には『比叡山で天台座主・延昌のもとに受戒し、「光勝」の号を受ける。ただし、空也は生涯超宗派的立場を保っており、天台宗よりもむしろ奈良仏教界、特に思想的には三論宗との関わりが強いという説もある』とし、『貴族や民衆からの寄付を募って観音像や四天王像を造立』天暦四(九五〇)年より金字大般若経書写を始め、天暦五(九五一)年には『十一面観音像ほか諸像を造立(梵天・帝釈天像、および四天王のうち一躯を除き、六波羅蜜寺に現存)』、応和三(九六三)年、『鴨川の河原にて、大々的に金字大般若経供養会を修する。この際に三善道統の起草した「為空也上人供養金字大般若経願文」が伝わる。これらを通して藤原実頼・藤原師氏ら貴族との関係も深』まったとする。天禄三(九七二年)に『東山西光寺(京都市東山区、現在の六波羅蜜寺)において』数え七十歳で示寂とある(下線やぶちゃん)。この下線部の箇所こそが私はここに出る賽の河原空也伝承のルーツではあるまいかと私は思ったのだが、朱雀帝は既に没していて齟齬する。となると、今一つの可能性はそれより以前の、京で大々的に空也が念仏行を勧めた天慶元(九三八)年、朱雀帝在位八年目の数えで十六の時のことではなかったか?(記載がその五年後であるのは京での人脈が未だ形成されていなかったからではないか?) ただの憶測ではある。大方の識者の御批判を俟つ。]

 

 『して、地藏の衣には、長い袖がついてゐますから、子供達は遊ぶとき袖をひつぱります。それから、地藏の前へ小石を積んで面白がります。あの御覽の通り、像の邊に積んであるのは、子供達のために人々が置くのですが、大抵死んだ子供の母親が、地藏に祈願する際積むのです。尤も大人は死んでから、賽ノ河原へ行きません』

 

   註 結婚しなかつた人は例外である。

[やぶちゃん注:ウィキの「三途川」に、十世紀中頃の『日本の俗信として、「女は死後、初めて性交をした相手に手を引かれて三途の川を渡る」というものがあった』とされ、また、「蜻蛉日記」の作者として知られる藤原道綱母には、三途の川を女が渡る時には初めての男が背負うて渡る、といった意味の歌を詠んでいることなどから、『こうしたことからも、平安時代の頃より三途の川信仰が多様に日本でアレンジされていたことが分かる』とある。無論、これは変成男子(但し、これは釈迦も実際に差別的にはっきりと説いているのであるが)と同じく、仏教の致命的女性差別の悪信仰に他ならない。信仰がなかったりいい加減であったりする若い男女――特に女でその特異的使命としての子を産むという衆生(人)としての必要最低限の絶対実行義務履行していないと考えられた処女――は地獄にさえ落ちることが出来ず、この賽の河原で訳も分からず石を積む子らの亡者とともに居続けねばならないという、とんでもない話(こちらは恐らくは変成男子説に基づく偽経的説話と私は考えている)なのである。因みに言っておくと、お馴染みの死後の「地獄」に相当するものついても釈迦は具体的には述べておらず(但し、方便としての譬えではあるようにも聴くが)、彼はただ――そこは永遠に続く闇の世界があるのみ――とだけ述べているのであって、その実相の中に、現世的因果応報の復元たる刀剣・針・血膿・火焔・冷凍・灼熱や臼挽き溶銅吞ませ、といったような奇体失笑の責め苦あれこれなどはこれ、一切口にしていないはずである。]

 

 六地藏を去つてから、靑年學生は墓の間を案内し乍ら、他のさまざまな奇異な彫刻の像を示してくれた。

 中には妙に可憐なのもある。何れも皆面白い。數個の極めて美しいのもあつた。

 大抵光背を持つてゐる、古い基督教藝術に於ける聖徒の像に酷似した合掌の狀を現し、跪いてゐるのが澤山ある。あるものは、蓮華を持つて、冥想の夢に入つてゐる。大蛇のどぐろをまいた上に安坐せるもの、冠冕のやうなものを被つて、手が六本、一對は合掌祈願、他の手を擴げて、諸種の物をさし出し、平伏せる惡鬼の上に立てるものなどがある。今一つは、淺い浮彫の像で、無數の腕を持つてゐて、第一對の手は掌を合はせ、兩肩の背後から影が差した如くに、數へ切れぬほどの腕が諸方に朦朧と伸び出でて、詣種の物を示してゐる。これは祈願に對する答と、また恐くは全能の慈悲を象徴したのである。これは慈悲の女神、人の魂を救はんが爲めに涅槃の安樂を捨でた温和なる觀音の、諸形式の一つであつて、よく日本の綺麗な少女の姿に畫いてある。こゝのは千手觀音となつて現れてゐるのだ。すぐ側の大きな扁板に、その鑿削を加へた面の上部には、蓮座冥想の佛陀が浮彫になつて、下部には、兩手で目を塞いだのと、耳を塞いだのと、口を塞いだのと、三頭の奇怪な猿が刻んで現してある。『これは何の意味だらう?』と私が質ねた。私の友は三個の彫像の恰好を、一つ一つ眞似ながら、不明瞭な聲で答へた。

 『私は惡いものは見ませぬ。私は惡いことを聽きませぬ。私は惡いことを言ひませぬ』

 

 再三の説明のお蔭で、段々と私は一見して、幾らか色々の佛像の見分けがつくやうになつた。手に劍を持ち、ぴかぴか光る火に圍まれつゝ、蓮華の上に坐せる像は不動樣である。劍は智、火は力を示してゐる。こゝには片手に一ト卷きの繩を持つた冥想の像がある。これは佛陀であつて、繩は情慾を縛するのである。また最も穩かな優しい日本人の顏――小兒の顏――をして、眼を塞いで、頰に手枕をもたせ乍ら、涅槃の中に、眠れる佛陀もある。美しい處女の像が百合の上に立つたのは、日本の神聖處女(マドンナ)の觀音樣である。こゝに端然と坐つて、片千に瓶を持ち、片手を教師の態度らしく擧げたのは、靈魂の醫者、一切を癒す佛の藥師樣である。

 それから、また私は動物の像をも見た。佛陀誕生譚の鹿が、いかにも優美に雪白の石に彫られて、燈籠の頂上にゐる。ある墓には立派に彫つた魚、と云はんよりは寧ろ魚の觀念を、希臘藝術の海豚の如く、彫刻の目的上、美しく奇怪に作つたのが、石柱の頂を飾つてゐる。廣く開いて鋸齒を示せる顎は、死人の戒名を書いた石の上に載つて、背鰭と振り立てた尾は、企及し難き粧飾的意匠を凝らしてゐる。晃が木魚だといつた。僧侶の讀經の際、褥片を卷いた木槌で叩く、あの深紅と黄金色に塗つた、木製の空洞狀のものと同種の象徴である。最後に、ある處で私は、獵犬の如く、たわやかな形をした神話的種類の一對の動物が坐つてゐるのを見た。晃が狐だと云つた。成るほど今、その像の目的が解つてから眺めて見ると、狐であつた。理想化され、靈化されて、云はん方なく優美な狐である。灰色の石で刻まれ、細長く意地惡い、輝いた眼を有ち、啀んでゐるやうに見える怪獸である。米の神、お稻荷樣の從者で、正當に云へば、佛教の偶像ではなくて、神道に屬する。

[やぶちゃん注:「啀んでゐる」は「いがんでいる」と訓じている者と思われる。「啀(いが)む」とは獣などが牙を剥いて嚙みつこうとする意である。]

 これらの墓に刻んだ文字は、決して西洋の碑銘に似てゐない。ただ家族の名――死者及びその緣類の名と紋章だけだ。普通は花の紋章である。卒塔婆には、たゞ梵經の文字がある。

 更に進んでから、私は他の數個の浮彫の地藏を見た。一つの像は、餘りに立派な作品なので、私はそこを通り過ぎて了うのが苦しかつた。この死兒の伴侶を白い石で刻んだ、夢のやうな像は、美しい小兒の如くに、親切な眼を半ば閉ぢ、佛教藝術のみが想像し得たやうな微笑、無限の愛らしさと最上の柔和を持つた微笑を湛へて、天人らしい顏を見せてゐるのは、たしかに如何なる基督の像よりも美はしい。實際、地藏といふ理想は、極めて優れたものであるから、通浴の言葉に於ても、美麗な顏を地藏に譬へて、『地藏顏』と云つてゐる。

 

[やぶちゃん注:再度言うが、ここで主体となる六地蔵は現存するのか、するとすれば何処にどのようにあるのかは、後の宿題とする。この考証を始めると何時まで経っても先に進めぬからである。悪しからず。]

 

 

Sec. 5

Descending the shadowed steps, I find myself face to face with six little statues about three feet high, standing in a row upon one long pedestal. The first holds a Buddhist incense-box; the second, a lotus; the third, a pilgrim's staff (tsue); the fourth is telling the beads of a Buddhist rosary; the fifth stands in the attitude of prayer, with hands joined; the sixth bears in one hand the shakujo or mendicant priest's staff, having six rings attached to the top of it and in the other hand the mystic jewel, Nio-i ho-jiu, by virtue whereof all desires may be accomplished. But the faces of the Six are the same: each figure differs from the other by the attitude only and emblematic attribute; and all are smiling the like faint smile. About the neck of each figure a white cotton bag is suspended; and all the bags are filled with pebbles; and pebbles have been piled high also about the feet of the statues, and upon their knees, and upon their shoulders; and even upon their aureoles of stone, little pebbles are balanced. Archaic, mysterious, but inexplicably touching, all these soft childish faces are.

Roku Jizo—'The Six Jizo'—these images are called in the speech of the people; and such groups may be seen in many a Japanese cemetery. They are representations of the most beautiful and tender figure in Japanese popular faith, that charming divinity who cares for the souls of little children, and consoles them in the place of unrest, and saves them from the demons. 'But why are those little stones piled about the statues?' I ask.

Well, it is because some say the child-ghosts must build little towers of stones for penance in the Sai-no-Kawara, which is the place to which all children after death must go. And the Oni, who are demons, come to throw down the little stone-piles as fast as the children build; and these demons frighten the children, and torment them. But the little souls run to Jizo, who hides them in his great sleeves, and comforts them, and makes the demons go away. And every stone one lays upon the knees or at the feet of Jizo, with a prayer from the heart, helps some child-soul in the Sai-no-Kawara to perform its long penance. [2]

'All little children,' says the young Buddhist student who tells all this, with a smile as gentle as Jizo's own, 'must go to the Sai-no- Kawara when they die. And there they play with Jizo. The Sai-no-Kawara is beneath us, below the ground. [3]

'And Jizo has long sleeves to his robe; and they pull him by the sleeves in their play; and they pile up little stones before him to amuse themselves. And those stones you see heaped about the statues are put there by people for the sake of the little ones, most often by mothers of dead children who pray to Jizo. But grown people do not go to the Sai-no-Kawara when they die.' [4]

And the young student, leaving the Roku-Jizo, leads the way to other strange surprises, guiding me among the tombs, showing me the sculptured divinities.

Some of them are quaintly touching; all are interesting; a few are positively beautiful.

The greater number have nimbi. Many are represented kneeling, with hands joined exactly like the figures of saints in old Christian art. Others, holding lotus-flowers, appear to dream the dreams that are meditations. One figure reposes on the coils of a great serpent. Another, coiffed with something resembling a tiara, has six hands, one pair joined in prayer, the rest, extended, holding out various objects; and this figure stands upon a prostrate demon, crouching face downwards. Yet another image, cut in low relief, has arms innumerable. The first pair of hands are joined, with the palms together; while from behind the line of the shoulders, as if shadowily emanating therefrom, multitudinous arms reach out in all directions, vapoury, spiritual, holding forth all kinds of objects as in answer to supplication, and symbolising, perhaps, the omnipotence of love. This is but one of the many forms of Kwannon, the goddess of mercy, the gentle divinity who refused the rest of Nirvana to save the souls of men, and who is most frequently pictured as a beautiful Japanese girl. But here she appears as Senjiu-Kwannon (Kwannon-of-the-Thousand-Hands). Close by stands a great slab bearing upon the upper portion of its chiselled surface an image in relief of Buddha, meditating upon a lotus; and below are carven three weird little figures, one with hands upon its eyes, one with hands upon its ears, one with hands upon its mouth; these are Apes. 'What do they signify?' I inquire. My friend answers vaguely, mimicking each gesture of the three sculptured shapes:-'I see no bad thing; I hear no bad thing; I speak no bad thing.'

 

Gradually, by dint of reiterated explanations, I myself learn to recognise some of the gods at sight. The figure seated upon a lotus, holding a sword in its hand, and surrounded by bickering fire, is Fudo- Sama—Buddha as the Unmoved, the Immutable: the Sword signifies Intellect; the Fire, Power. Here is a meditating divinity, holding in one hand a coil of ropes: the divinity is Buddha; those are the ropes which bind the passions and desires. Here also is Buddha slumbering, with the gentlest, softest Japanese face—a child face—and eyes closed, and hand pillowing the cheek, in Nirvana. Here is a beautiful virgin-figure, standing upon a lily: Kwannon-Sama, the Japanese Madonna. Here is a solemn seated figure, holding in one hand a vase, and lifting the other with the gesture of a teacher: Yakushi-Sama, Buddha the All- Healer, Physician of Souls.

Also, I see figures of animals. The Deer of Buddhist birth-stories stands, all grace, in snowy stone, upon the summit of toro, or votive lamps. On one tomb I see, superbly chiselled, the image of a fish, or rather the Idea of a fish, made beautifully grotesque for sculptural purposes, like the dolphin of Greek art. It crowns the top of a memorial column; the broad open jaws, showing serrated teeth, rest on the summit of the block bearing the dead man's name; the dorsal fin and elevated tail are elaborated into decorative impossibilities. 'Mokugyo,' says Akira. It is the same Buddhist emblem as that hollow wooden object, lacquered scarlet-and-gold, on which the priests beat with a padded mallet while chanting the Sutra. And, finally, in one place I perceive a pair of sitting animals, of some mythological species, supple of figure as greyhounds. 'Kitsune,' says Akira—'foxes.' So they are, now that I look upon them with knowledge of their purpose; idealised foxes, foxes spiritualised, impossibly graceful foxes. They are chiselled in some grey stone. They have long, narrow, sinister, glittering eyes; they seem to snarl; they are weird, very weird creatures, the servants of the Rice-God, retainers of Inari-Sama, and properly belong, not to Buddhist iconography, but the imagery of Shinto.

No inscriptions upon these tombs corresponding to our epitaphs. Only family names—the names of the dead and their relatives and a sculptured crest, usually a flower. On the sotoba, only Sanscrit words.

Farther on, I find other figures of Jizo, single reliefs, sculptured upon tombs. But one of these is a work of art so charming that I feel a pain at being obliged to pass it by. More sweet, assuredly, than any imaged Christ, this dream in white stone of the playfellow of dead children, like a beautiful young boy, with gracious eyelids half closed, and face made heavenly by such a smile as only Buddhist art could have imagined, the smile of infinite lovingness and supremest gentleness. Indeed, so charming the ideal of Jizo is that in the speech of the people a beautiful face is always likened to his—'Jizo-kao,' as the face of Jizo.

 

2 'The real origin of the custom of piling stones before the images of Jizo and other divinities is not now known to the people. The Custom is founded upon a passage in the famous Sutra, "The Lotus of the Good Law."

'Even the little hoys who, in playing, erected here and there heaps of sand, with the intention of dedicating them as Stupas to the Ginas,- they have all of them reached enlightenment.'—Saddharma Pundarika, c. II. v. 81 (Kern's translation), 'Sacred Books of the East,' vol. xxi.

 

3 The original Jizo has been identified by Orientalists with the Sanscrit Kshitegarbha; as Professor Chamberlain observes, the resemblance in sound between the names Jizo and Jesus 'is quite fortuitous.' But in Japan Jizo has become totally transformed: he may justly be called the most Japanese of all Japanese divinities. According to the curious old Buddhist book, Sai no Kawara Kuchi zu sams no den, the whole Sai-no-Kawara legend originated in Japan, and was first written by the priest Kuya Shonin, in the sixth year of the period called TenKei, in the reign of the Emperor Shuyaku, who died in the year 946. To Kuya was revealed, in the village of Sai-in, near Kyoto, during a night passed by the dry bed of the neighbouring river, Sai-no-Kawa (said to be the modern Serikawa), the condition of child-souls in the Meido. (Such is the legend in the book; but Professor Chamberlain has shown that the name Sai-no-Kawara, as now written, signifies 'The Dry Bed of the River of Souls,' and modern Japanese faith places that river in the Meido.) Whatever be the true history of the myth, it is certainly Japanese; and the conception of Jizo as the lover and playfellow of dead children belongs to Japan. There are many other popular forms of Jizo, one of the most common being that Koyasu-Jizo to whom pregnant women pray. There are but few roads in Japan upon which statues of Jizo may not be seen; for he is also the patron of pilgrims.

 

4 Except those who have never married.

 

« ブログ710000アクセス突破記念 火野葦平 魚眼記  | トップページ | 小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第三章 お地藏さま (六) »