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2015/08/26

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第五章 盆市にて (四)

        四

 

 老人町は町幅が非常に狹い。手を伸ばすと、兩側の小さな店肆の前に垂れてゐる看板模樣を染拔いた暖簾に、直ぐ觸れるばかりだ。して、是等の箱形の家は、實際玩具の家のやうに見える。晃の住んでゐる家には、店もなく、また小さな二階もなくて、他の家よりも更に小さい。それは全く閉まつてゐた。晃は入口になつてゐる處の木造の雨戸を繰つた。それから、そのつぎに閉まつてゐる障子を開けた。かやうにして開け放された小さな家屋は、輕げな素木の木細工や、著色の紙屛などで、大きな鳥籠のやうに見えた。が、地上から高くしてある床に敷いた葦の疊は、新鮮で、心地よい香を放つて、淸らかであつた。して、そこへ上がるため靴を脱ぐ時に、私は室内すべて小綺麗なことを見た。

[やぶちゃん注:この「老人町」の叙述は私が先に推定した現在の横浜市中区翁町とよく一致する。]

 『主婦(おかみ)さんは外出したのです』と、晃は云つて、室の眞中へ火鉢を据ゑ、その傍に私が坐るため小さな敷物を擴げた。

 『これは何です?』壁に紐でぶら下がつてゐる薄い板を指して聞いた。それは枝の中央から切つて、兩緣に沿つて樹皮が殘され、その表面には、二列の不思議な記號が美しく繪いてある。

 『それは曆です』と、晃が答へた。『右側は三十一日ある月の名、左側は、小さな月の名です。さあ、ここに佛壇が御座います』

 日本の客間の構造上、是非無くてならぬ凹間に、飛島を繪いた簞笥が置いてあつて、その上に佛壇が立つてゐた。それは漆と金泥塗りの小厨子で、寺の門のやうな恰好の小さな戸が附いてゐる。餘程奇異な、非常に破損した厨子で、片方の戸は蝶番ひが失せ、漆には罅隙(び)が入り、金色は褪めてゐても、雅致あるものであつた。晃は一種の憐み深さうな微笑を呈し乍ら、それを開けた。して、私は佛像を見ようと、内を覗いて見た。佛像は一つも無い。たゞ木牌に紙片を張り着けて、假名の文字――死んだ女兒の名――が書いたのと、萎れかかつた花を插せる花瓶、觀音像の小さな版畫、線香灰の入つた鉢だけがあつた。

[やぶちゃん注:こうした暦は、日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 大小暦に出る「図―495」が参考になろう(リンク先は私の電子テクスト)。]

 『明日、主婦さんは、これを飾つて、小さな佛さんに、食物を供へるでせう』と、晃は云つた。

 

 室の向側に、佛壇に面して、天井から垂れた珍らしく、可愛らしい、をかしげな、白色と紅色を帶びた假面があつた。丸ぽちやの笑ひ顏をしで、顯の上には二個の神祕的な點が印されてゐる。これはお多福【註】の顏だ。開けた障子から入込む柔かな氣流につれて、ぐるぐる囘はる。すると、笑のために半ば閉ぢた可笑しげな黑眼が、私の方を眺める毎に、私も徴笑を禁じ得なかつた。して、更に高く吊つてあるのは、神道の小さな御幣、神樂の時に被るやうな小さな冠、神々の手に持つ如意寳珠を厚紙で眞似たもの、小さな人形、少しの風にでも囘轉する小さな風車、その他、緣日に社寺の境内で賣つてゐるやうな、主もに象徴的な、名狀し難い玩具など、すべて死んだ幼兒の遊び道具であつた。

 

    註。幸運の神。

[やぶちゃん注:「お多福」ウィキおかによれば(下線やぶちゃん)、『古くから存在する日本の面(仮面)の一つで』、『丸顔、鼻が低く、額は広く、頬が丸く豊かに張り出した(頬高)特徴をもつ女性の仮面であり、同様の特徴を持つ女性の顔についてもそう呼ぶ』。『お亀、阿亀(おかめ)とも書き、お多福、阿多福(おたふく)、文楽人形ではお福(おふく)、狂言面では乙御前(おとごぜ)あるいは乙(おと)ともいう』。『この滑稽な面の起源は、日本神話の女性、日本最古の踊り子であるアメノウズメであるとされ』、アメノウズメは七世紀の『律令制下の神祇官に属し神楽等を行った女官、猿女君の始祖で』あるという(「猿女君(さるめのきみ/「猨女君」とも書く)」は古代より朝廷の祭祀に携わってきた氏族の一つで、アメノウズメを始祖とするとされる。姓は「君」は姓であり、日本神話においてアメノウズメが岩戸隠れの際に岩戸の前で舞を舞ったという伝承から鎮魂祭での演舞や大嘗祭における前行などを執り行った猿女を貢進した氏族。氏族の名前は、アメノウズメが天孫降臨の際にサルタヒコと応対したことにより、サルタヒコの名を残すためにニニギより名づけられたものであると神話では説明され、実際には「戯(さ)る女」の意味であると考えられている。本拠地は伊勢国と想定されるが一部は朝廷の祭祀を勤めるために大和国添上郡稗田村(現在の奈良県大和郡山市稗田町)に本拠地を移し、稗田姓を称した。他の祭祀氏族が男性が祭祀に携わっていたのに対し、猿女君は女性、すなわち巫女として祭祀に携わっていた。それ故に他の祭祀氏族よりも勢力が弱く、弘仁年間には小野氏・和邇部氏が猿女君の養田を横取りし、自分の子女を猿女君として貢進したということもあったとウィキ猿女君にはある)『素顔を原則とする狂言において、仮面を使用するのは老人、醜女、神・仏、鬼、動植物の類であるが、「乙」(乙御前)は醜女に当たる』。『狂言面の起源とその時期について、詳細は不明であるが、能面と関係しており作者もほぼ共通しているとみられている』。『したがって、能面なるものが完成をみる室町時代から江戸時代初期にかけての時代』(十四世紀から十七世紀)に、『狂言面としての「乙」(乙御前)も完成をみると考えられ』ている。『「乙」(乙御前)の狂言における役割は、男に逃げられる醜女、姫鬼、福女で』、『「乙御前」とはもともと「末娘」の意味であり、狂言『枕物狂』ではその意味に用いられたセリフが存在』し、そこから『転じて「醜女」の意になり、狂言面「乙」(乙御前)となった』 とし、「乙御前」が登場する狂言としては「釣針」「仏師」「六地蔵」等である。『「おたふく」という名称は、狂言面の「乙」(乙御前)の「オト」音の転訛ともいわれ』、『ほかにも「福が多い」という説と、頬が丸くふくらんだ様から魚の「フク」(河豚・ふぐ)が元という説もある』(但し、ここの引用元には要出典要請がかけられてある)。『「阿多福」は、「阿多福面」(おたふくめん)の略であり、醜い顔であるという意図で女性に対して浴びせかける侮辱語として使用されることがある』。「おふく」は室町時代(十四世紀から十六世紀)には『すでに出現していた大道芸、新春の予祝芸能を行う門付芸「大黒舞」で、大黒天を中心に、えびすの面を覆った人物とともに、同様に覆面で、連れ立って現れたキャラクターであり、『「おふく」という名称は、とくに江戸時代初期』(十七世紀)『に大坂(現在の大阪府大阪市)で生まれた文楽でとくに使用されるもので、文楽人形の首(かしら)の一つの名称でもある』。『下女、あるいは下級・端役の女郎役のもので』、近松門左衛門の浄瑠璃『傾城反魂香』(宝永五(一七〇八)年初演)にも、『「姫君はさて置き、たとへ餅屋の御福でも」というフレーズで、姫君と「餅屋の御福」を比較し、つまり餅屋の店員の不細工な女であっても、という扱いで登場している』。文政二(一八〇五)年発刊の「扁額軌範」所載の正徳二(一七一二)年の銘を持つ「七福神戯遊之図」には、『七福神に加えて、布袋に酌をする』八体目の『女神が描かれており、これが「お福」または「乙御前」であるとの説明書きが付随しているという』。文化年間(一八〇四年から一八一七年)に『発表された『街談文々集要』によれば、「お福」は父を「福寿」、母を「お多福」とし、「西ノ宮夷」(現在の西宮神社、兵庫県西宮市)支配下の「叶福助」の妻だという設定が記載されている』。『宮田登によれば、近世に流行する、福助、お多福、福太郎、福太夫、そして「お福」は、狂言の世界には先行して登場しているとい』い、『同じころ、京都の陶芸家・仁阿弥道八が、「お福」の土人形をつくっている』。『「おかめ」という名称は、それらに比較して時代は新しく、とくに近世』(十七世紀から十九世紀)の江戸の里神楽(一般的に「神楽」と言われるもので「里神楽」という語は「御神楽(おかぐら)」と対比して用いられ、狭義には関東の民間の神楽を指す)で使用されるものである。『名称の由来は、顔と頬の張り出した形が「瓶」(かめ)に似ていることから名付けられた、とされるが、室町時代の巫女の名前からという説もあるため、はっきりしない。里神楽等で道化やモドキ役の女性として使われることもあり、男性の仮面である「ひょっとこ」と対に用いられる』。『その役どころから人気が高く、熟練芸能者の演じるところとされ『「おかめ」は、近世以降の民間芸能に使用され、日本各地の田遊における「はらみ女」、愛知県北設楽郡に現在も伝わり重要無形民俗文化財に指定されている霜月神楽である「花祭」では「巫女のお供」、獅子舞や各種の祭礼行列では道化として登場する』。『「福を呼ぶ面相」であるとして愛され、酉の市の大熊手にも取り入れられている』。『本来古代において、太った福々しい体躯の女性は災厄の魔よけになると信じられ、ある種の「美人」を意味したとされている。だが縁起物での「売れ残り」の意味、あるいは時代とともにかわる美意識の変化とともに、不美人をさす蔑称としても使われるようになったとも言われている』とある。下線部と「お多福」という漢字表記(ただの当て字の可能性もある訳であるが)からも福の神(ハーンの注する「幸運の神」として認識されていたことは間違いないと思われ、正月の福笑いもそうした福を呼び込むための予祝行事の遊戯化と推理すると、私は腑に落ちるのである。]

 

 『今晩は!』と、頗るやさしい聲が私の後から叫んだ。主婦は彼女の佛間に外人が興味を持つのを嬉しがつてゐるかの如く微笑を洩して、そこに立つてゐた。極めで貧しい階級の中年頃の女で、美しくはないが、極めて親切さうな顏をしてゐた。私共は彼女の挨拶に應答をした。して、私が火鉢の前の小さな敷物の上に坐る際、晃が彼に何か囁いたので、すぐに湯を沸かすため、小さな藥鑵が焜爐の上に掛けられた。私共は茶を薦められるのであつた。

[やぶちゃん注:「晃が彼に何か囁いたので」原文は“Akira whispers something to her”であるから、この「彼」は「彼女」(晃の母)の誤りである。]

 晃が私に面して火鉢の向側に坐つたとき、私は彼に質ねた。

 『位牌に書いてあつたのは何といふ名でした?』

 晃は答へた。『あれは眞の名ではありません。本名は裏に古いてあります。死んでから僧侶が別の名を與へます。死んだ男兒は良智童兒、女兒は妙容童女となつてゐます』

 私共が話をしてゐると、主婦は佛壇に近寄り、戸を開き、中のものを整頓し、燈明を點じてから、合掌稽首して祈念を始めた。私共が側に居るのも、喋つて居るのも一向無頓着の樣子は、世間の思惑が何うであらうと介意せずに、正しいこと、美はしいことを行ひ馴れた人の如くであつた。彼女の祈りの天晴れ飾り氣の無い誠實さは、世の中の貧しい人々、ラスキンが賞賛して『これらの人々こそ世の中で最も神聖だ』と云つた人々のみ有する種類のものであつた。私は彼女の心が如何なる言葉を囁いてゐるかをしらなかつた。たゞ時々靜かに唇で息を吸ひ込む、柔かなシユーシユー響く音を聞くのみであつや。それはこの親切なる國民に取つては、人を悦ばせようとする最も謙遜なる願望を示すのである。

[やぶちゃん注:「ラスキン」原文は“Ruskin”。これは十九世紀イギリス・ヴィクトリア時代を代表する評論家・美術評論家であったジョン・ラスキン(John Ruskin 一八一九年~一九〇〇年)のことか? 彼は『芸術家のパトロンであり、設計製図や水彩画をこなし、社会思想家であり、篤志家であった。ターナーやラファエル前派と交友を持ち、『近代画家論』を著した。また、中世のゴシック美術を賛美する『建築の七燈』『ヴェニスの石』などを執筆した』と参照したウィキジョン・ラスキンにはある。夏目漱石の「三四郎」の第二章にもラスキンの名が登場するように、日本では明治末から大正にかけて彼の建築やデザインに関わる芸術論は一世を風靡したらしい(ここはネット上の情報に拠る)。私は彼の作品を親しく読んだことがなく、ハーンの引用の出典は不詳。ただ、附言しておくと、彼は来日経験はなく、また少なくとも日本美術に対しては頗る冷淡であったらしい(やはりネット上の情報に拠る)。]

 

 この優しい、些やかな儀式を見守り乍ら、私は私自身の生命の神祕内に、朧ろげ乍ら動いてくる或るものを感じた――漠然と、云ひやうなくも親しみの感ぜられる、先祖傳來の記憶の如く、二千年間忘れられてゐた感覺の復活の如くであつた。それは不思議にも私の微かな古代世界の知識と混じ合つてゐるやうに思はれた。古代世界でも家庭の神として、生前に愛した死人を祭つたのであつた。して、こゝにはラーリーズ【譯者註】が影をさしてゐる如く、この世のものならぬ奇異な優しさがあつた。

 

     譯者註。羅馬の家庭の神。

[やぶちゃん注:「ラーリーズ」原文は“Lares”。古代ローマ時代の守護神的な神々(複数)である「ラレース」(Lares/古い綴りは Lasesのこと。ウィキの「ラレース」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『単数形はラール(Lar)。その起源はよくわかっていない。家庭、道路、海路、境界、実り、無名の英雄の祖先などの守護神とされていた。共和政ローマの末期まで、二体の小さな彫像という形で祭られるのが一般的だった』。『ラレースは、その境界内で起きたあらゆることを観察し、影響を与えると考えられていた。家庭内のラレース像は、家族が食事中はそのテーブル上に置かれた。家族の重要な場面では、ラレース像が必須となっていたと見られている。このため古代の学者らはこれを「家の守護神」に分類していた。古代ローマの作家の記述を見ると、ラレースと同様の家の守護神とされていたペナテースを混同している場合もある。ローマ神話の主な神々に比べると守備範囲も力も小さいが、ローマの文化には深く根付いていた。アナロジーから、本国に戻るローマ人を ad Larem (ラレースに)戻ると称した』。『ラレースはいくつかの公けの祭りで祝福され礼拝された。中には vici(行政区)全体を守護するとされたラレースもある。また、ラレースを祭った交差点や境界線にある祠(コンピタレス; Compitales)は、宗教、社会生活、政治活動の自然な焦点となっていた。これらの文化はローマ帝国初期の宗教・社会・政治改革に取り込まれた。ラレースを家庭内に祭るという文化は変化しなかったようである。これらは少なくとも紀元四世紀まで持ちこたえた』。『ラールは小さく若々しく活発な様子で、一見したところ男性である。踊り子のように、爪先立ちしているか、片脚で軽くバランスを取っている。片手に角杯(リュトン)を持って掲げ、乾杯か献酒をしているように見える。もう一方の手は低く構え、浅い献酒皿(パテラ)を持っている(稀にシトラと呼ばれる鉄製のワインバケットを持っていることもある)。服装は、短いチュニックに帯を締めた形で、プルタルコスによればそのチュニックは犬の毛皮でできている』(「チュニック」(英:tunic/仏:tuniqueとは、衣服の名称の一つ。丈が長め(腰から膝ぐらいまで)の上着を指す。チュニックの語源は古代ギリシャ・ローマや中世の東ローマ帝国で用いられていた「トゥニカ」(羅:tunicaであり、これは貫頭衣から発展した筒型衣全般を指す。その長さも地面に達するものから膝丈程度の長いものが主であった、とウィキの「チュニック」にある)。『ラールの像や絵画はどれもこの基本形に忠実で、若干のスタイル上の変化が見られるだけである。現存する祭壇の絵画には、同一の二体のラレースが描かれている。そのためオウィディウスのころにはラレースは双子の神々だと解釈されていたが、常にそうだったという証拠はない』。彼らラレースや他の家庭の神々を祭祀した家庭内に設けられた小さな祭壇を「ララリウム」(複数形はララリア)と呼ぶが、『考古学上の証拠から、その家族の守護神を含めた複数の下級の神々を祭っていたことがわかっている』。現在でも『ポンペイのものはほぼ最高の状態で保たれて』おり、『神々の絵の周囲には古代の寺院を模した石造りの枠がある。周囲の壁にも神々と神話の場面が描かれており、見るものに強烈な印象を与える』。『ララリウムは住居内の様々な部屋、寝室、今では用途が不明な部屋、特に台所や店舗などにあり、そこにラレースと共にペナテースが共存していた。その多くは小さな壁龕であり、稀に壁から突き出したタイル張りのものもあった。どちらも装飾は簡素だが大事にされていた』ことが良く判る。『家庭内のラレースは、外に対して演劇的にディスプレイする役割も持っていたが、文献によればもっと親密な守護神的役割も持っていた。家庭内のララリウムは、家族の変化と連続性のシンボルのための神聖な保管所でもあった。少年が成人すると、ラレースにお守り(ブラ)を捧げてから成人用のトガを着用し、最初の髭は切り落としてララリウムに保管した。少女は成人して結婚する前の夜に、幼少期に遊んだ人形やボールなどをラレースに捧げた』。『結婚の日、花嫁は花婿の家の神に忠誠を誓った。結婚によって主婦となる場合、夫とともにその家庭の礼拝の共同責任者となった』。以上を読んだだけでも、晃の母親が家のささやかな仏壇に敬虔な作法で祈りを捧げる様を見て、この遠き古きローマの家庭神ラレースを思い出したことは、すこぶる納得出来ると言える。]

 

 短い祈念を了へてから、彼女はまた焜爐の方へ向つた。彼女は晃と語つたり、笑つたりして、茶を入れ、小さな湯呑に注いで、私共に薦めた。跪いた優美な姿勢は、六百年來日 本婦人が茶を進めるときの傳統的態度であつた。實際、日本の婦人の生活の少からざる部 分は、このやうに小さな湯呑で茶を饗するために費されるのだ。幽靈としてさへ、歸人は 通俗の版畫の中に茶を薦める有樣に畫いてある。日本の幽靈の畫の中で、私が最も哀れを 催ふしたのは、女を殺してから、悔恨に惱まされた人に、その女の幽靈が恭しく跪いて小さな茶椀を薦めてゐる圖であつた!

[やぶちゃん注:この幽霊が誰の如何なる怪談絵であるか、思い至らない。多量の近世怪談画集を所持はしているが、前頭葉損傷後はどうも緻密に精査する気力が減衰した。是非とも識者の御教授を乞うものである。]

 

 晃が起ち上つて、『それでは、盆市へ行きませう。主婦さんも、やがて盆市へ買物に出かけねばなりません。それにもう日も暮れかけました。左樣なら!』

 私共が小さな家を出かける時は、實際殆ど暗かつた。町筋の上空に連つた星は、細長い 天の一片を塗つてゐた。折々生温い微風が吹いて、長く續いた軒頭の暖簾を搖り動かし、散歩によい美しい夜であつた。市場は町外づれの挾い通りにあつた。藏德院の丘の麓で、僅か十町ばかりを隔てた元町にあつた。

[やぶちゃん注:ハーンは恐らく、「ある」ことに吃驚している。それは盆市の場所が「第三章 地藏」で既に訪れた馴染みの「藏德院」のすぐ傍であり、しかもそこは彼の泊っていたと考えられるグランド・ホテルの直近でもあったからである。夜も暗くなって遠くからホテルに戻る(仮に人力車を求めてもつかまらない場所の可能性もある)というのは、晃が付き添っていてもハーンには未だ治安上の不安があったに違いないからである。

「十町」凡そ一・一キロメートル。但し、旧徳蔵院(現在の元町プラザ)を起点として一キロでは、少なくとも現在の元町地区からはどこも外にはみ出してしまう。寧ろ、ここは文脈から考えると、晃の家(現在の寿町と推定)からの距離ではあるまいか? そう仮定して徒歩実測を試みると、丁度、現在の元町商店街の中央辺り、元町三丁目か二丁目附近が同距離となるからである。しかもここは丘の麓である。この盆市の行われた場所を御存じの方は是非とも御教授を乞うものである。]

 

Sec. 4

It is so narrow, the Street of the Aged Men, that by stretching out one's arms one can touch the figured sign-draperies before its tiny shops on both sides at once. And these little ark-shaped houses really seem toy-houses; that in which Akira lives is even smaller than the rest, having no shop in it, and no miniature second story. It is all closed up. Akira slides back the wooden amado which forms the door, and then the paper-paned screens behind it; and the tiny structure, thus opened, with its light unpainted woodwork and painted paper partitions, looks something like a great bird-cage. But the rush matting of the elevated floor is fresh, sweet-smelling, spotless; and as we take off our footgear to mount upon it I see that all within is neat, curious, and pretty.

'The woman has gone out,' says Akira, setting the smoking-box (hibachi) in the middle of the floor, and spreading beside it a little mat for me to squat upon.

'But what is this, Akira?' I ask, pointing to a thin board suspended by a ribbon on the wall—a board so cut from the middle of a branch as to leave the bark along its edges. There are two columns of mysterious signs exquisitely painted upon it.

'Oh, that is a calendar,' answers Akira. 'On the right side are the names of the months having thirty-one days; on the left, the names of those having less. Now here is a household shrine.'

Occupying the alcove, which is an indispensable part of the structure of Japanese guest-rooms, is a native cabinet painted with figures of flying birds; and on this cabinet stands the butsuma. It is a small lacquered and gilded shrine, with little doors modelled after those of a temple gate—a shrine very quaint, very much dilapidated (one door has lost its hinges), but still a dainty thing despite its crackled lacquer and faded gilding. Akira opens it with a sort of compassionate smile; and I look inside for the image. There is none; only a wooden tablet with a band of white paper attached to it, bearing Japanese characters—the name of a dead baby girl—and a vase of expiring flowers, a tiny print of Kwannon, the Goddess of Mercy, and a cup filled with ashes of incense.

'Tomorrow,' Akira says, 'she will decorate this, and make the offerings of food to the little one.'

Hanging from the ceiling, on the opposite side of the room, and in front of the shrine, is a wonderful, charming, funny, white-and-rosy mask— the face of a laughing, chubby girl with two mysterious spots upon her forehead, the face of Otafuku. [2] It twirls round and round in the soft air-current coming through the open shoji; and every time those funny black eyes, half shut with laughter, look at me, I cannot help smiling. And hanging still higher, I see little Shinto emblems of paper (gohei), a miniature mitre-shaped cap in likeness of those worn in the sacred dances, a pasteboard emblem of the magic gem (Nio-i hojiu) which the gods bear in their hands, a small Japanese doll, and a little wind- wheel which will spin around with the least puff of air, and other indescribable toys, mostly symbolic, such as are sold on festal days in the courts of the temples—the playthings of the dead child.

'Komban!' exclaims a very gentle voice behind us. The mother is standing there, smiling as if pleased at the stranger's interest in her butsuma— a middle-aged woman of the poorest class, not comely, but with a most kindly face. We return her evening greeting; and while I sit down upon the little mat laid before the hibachi, Akira whispers something to her, with the result that a small kettle is at once set to boil over a very small charcoal furnace. We are probably going to have some tea.

As Akira takes his seat before me, on the other side of the hibachi, I ask him:

'What was the name I saw on the tablet?'

'The name which you saw,' he answers, 'was not the real name. The real name is written upon the other side. After death another name is given by the priest. A dead boy is called Ryochi Doji; a dead girl, Mioyo Donyo.'

While we are speaking, the woman approaches the little shrine, opens it, arranges the objects in it, lights the tiny lamp, and with joined hands and bowed head begins to pray. Totally unembarrassed by our presence and our chatter she seems, as one accustomed to do what is right and beautiful heedless of human opinion; praying with that brave, true frankness which belongs to the poor only of this world—those simple souls who never have any secret to hide, either from each other or from heaven, and of whom Ruskin nobly said, 'These are our holiest.' I do not know what words her heart is murmuring: I hear only at moments that soft sibilant sound, made by gently drawing the breath through the lips, which among this kind people is a token of humblest desire to please.

As I watch the tender little rite, I become aware of something dimly astir in the mystery of my own life—vaguely, indefinably familiar, like a memory ancestral, like the revival of a sensation forgotten two thousand years. Blended in some strange way it seems to be with my faint knowledge of an elder world, whose household gods were also the beloved dead; and there is a weird sweetness in this place, like a shadowing of Lares.

Then, her brief prayer over, she turns to her miniature furnace again. She talks and laughs with Akira; she prepares the tea, pours it out in tiny cups and serves it to us, kneeling in that graceful attitude— picturesque, traditional—which for six hundred years has been the attitude of the Japanese woman serving tea. Verily, no small part of the life of the woman of Japan is spent thus in serving little cups of tea. Even as a ghost, she appears in popular prints offering to somebody spectral tea-cups of spectral tea. Of all Japanese ghost-pictures, I know of none more pathetic than that in which the phantom of a woman kneeling humbly offers to her haunted and remorseful murderer a little cup of tea!

'Now let us go to the Bon-ichi,' says Akira, rising; 'she must go there herself soon, and it is already getting dark. Sayonara!'

It is indeed almost dark as we leave the little house: stars are pointing in the strip of sky above the street; but it is a beautiful night for a walk, with a tepid breeze blowing at intervals, and sending long flutterings through the miles of shop draperies. The market is in the narrow street at the verge of the city, just below the hill where the great Buddhist temple of Zoto-Kuin stands—in the Motomachi, only ten squares away.

 

2 A deity of good fortune

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