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2015/08/20

夢野久作 日記内詩歌集成(Ⅵ) 昭和元(一九二六)年 (全)

 

 昭和元年(一九二六)

 

 

 

 一月一日 金曜 

初東風や神代も同じ松の音

 

[やぶちゃん注:「初東風」老婆心乍ら、「はつごち」(濁音化するのが一般的)と読む新年の季語。年初になって初めて吹く東風(こち)、東からの風を指す。「東風(こち)」という響きには古来より春の訪れを感じさせる語感を強く含むものの、鑑賞上、通常実際には未だ冷たい風であることが多い点に注意が肝要なところではあろうが、この元日の日記冒頭には『天氣よく暖し。白雲棚引き、東風松の梢を渡る。暖き日の下小鳥なき渡る』とあり、午後にはごった返す香椎宮(かしいぐう:現在の福岡県福岡市東区香椎にある当時の官幣大社香椎宮。縁起によれば仲哀天皇九(二〇〇)年に神功皇后自ら祠を建てて仲哀天皇の神霊を祀ったのを起源とし、次いで神功皇后宮が元正天皇の養老七(七二三)年に皇后自身の神託に拠って朝廷が九州に詔りして社殿の造営を始め、聖武天皇の神亀元(七二四)年に竣工したもの。古えは両宮を併せて「香椎廟」と称したが、戦後の現在は単に「香椎宮」と称する。以上は香椎宮公式サイト内の記載に拠る)に初詣でし、句の前には『夜に入りて益々あたゝかし』とあるから、この句に限っては殊更に東風に冷気を感ずる必要は、ない。]

 

 

 

 一月十二日 火曜 

 葦津宮崎宮司胃癌治療先日見舞に行きしに、本朝葉書來る、和歌一首

 

  九女と猶都貴努惠の露にぬれて

   川良御忘るゝ日を暮しをり。

 

  うれし、わが返し

 

 まもります神の心をきそめせみ

  枕近き筥松の風

 

 病まば病めゐえなはゐえよ武士の

  矢竹の心にたゆみならめや

 

 みいたつきなぞゐえざらむ神松の

  綠を守る君にしあれば

 

 君が爲祈る心をうけ給へ

  心つくしの筥崎の神

 

 うつくしげ筥崎の松吹く風は

  世をすゝしめの神のこえこえ

 

[やぶちゃん注:全文掲載。最後の一首の「こえ」はママ。「こえこえ」の後半は底本では踊り字「〱」。「葦津宮崎宮司」は底本注に『葦津洗造、杉山家の氏神である筥崎宮の宮司』とある。現在の福岡県福岡市東区箱崎にある「筥崎宮」は「筥崎八幡宮」とも称し、宇佐・石清水両宮とともに「日本三大八幡宮」の一つに数えられる神社。旧筑前国一宮で当時の社格は官幣大社(現在は神社本庁別表神社)。筥崎宮公式サイト内の記載によれば、『御祭神は筑紫国蚊田(かだ)の里、現在の福岡県宇美町にお生まれになられた応神天皇(第十五代天皇)を主祭神として、神功皇后、玉依姫命がお祀りされています。創建の時期については諸説あり断定することは困難ですが、古録によれば、平安時代の中頃である』延喜

二一(九二一)年に醍醐天皇の神勅により宸筆の「敵国降伏」が『下賜され、この地に壮麗な御社殿を建立』、延長元(九二三)年には『筑前大分(だいぶ)宮(穂波宮)より遷座したことになっております。創建後は祈りの場として朝野を問わず篤い崇敬を集めるとともに、海外との交流の門戸として重要な役割を果たしました』とする。『鎌倉中期、蒙古(もうこ)襲来(元寇)のおり、俗に云う神風が吹き未曾有の困難に打ち勝ったことから、厄除・勝運の神としても有名です。後世は足利尊氏、大内義隆、小早川隆景、豊臣秀吉など歴史に名だたる武将が参詣、武功・文教にすぐれた八幡大神の御神徳を仰ぎ筥崎宮は隆盛を辿りました。江戸時代には福岡藩初代藩主黒田長政、以下歴代藩主も崇敬を怠ることはありませんでした。明治以降は近代国家を目指す日本とともに有り』、明治一八(一八八五)年には官幣中社に、大正三(一九一四)年には『官幣大社に社格を進められ、近年では全国より崇敬を集めるとともに、玉取祭や放生会大祭などの福博の四季を彩る杜(もり)として広く親しまれています』とある。因みにこの筥崎宮楼門にある、元寇襲来の際の戦勝を祈願して亀山上皇が書いたとされ、戦前最後の幻の十銭切手で奇体な高値(三百万円とも)がつく「敵国降伏」という宸筆額で知られるが、この「敵國降伏」という宸筆はこれ以外に現在『伝存する第一の神宝であり紺紙に金泥で鮮やかに書かれて』おり、縦横約十八センチメートルで『全部で三十七葉あ』ると筥崎宮公式サイトには書かれている。『社記には醍醐天皇の御宸筆と伝わり、以後の天皇も納めれられた記録があります。特に』文永一一(一二七四)年の『蒙古襲来により炎上した社殿の再興にあたり亀山(かめやま)上皇が納められた事跡は有名で』、『楼門高く掲げられている額の文字は文禄年間、筑前領主小早川隆景が楼門を造営した時、謹写拡大したもの』とあるから、実はレプリカということであることが判る。]

 

 

 

 一月二十五日 月曜 

 餘は社に、久良は子供を迎へに通町へ。姉やはそのお供して、午前十一時四十八分和白發新博多へ。天氣よくあたゝかし。

 夜、崇福寺にて赤泥社短歌會、初め竹雨、選風、余僅三人歌十四首、選評中禪僧數名傍聽に來る。森太郎來る。夜、十一時通町へとまる。

 

街に住めば物音多く思ひ多し

  シミシミの花は咲けども

 

[やぶちゃん注:「」=「艹」(上)+{「並」から上部の一画及び二画を外したもの}(下)。意味も読みも不詳。「草」の異体字かと考えて中文サイトも縦覧したが見当たらない。「シミシミグサ」「シミシミサウ(シミシミソウ)」といった和名の顕花性植物(藻類を含む水棲性植物(様)類の可能性もあるか)も見当たらない。福岡固有の方言和名か? 一つだけふと浮かんだのは、仏事に供えるところの知られた被子植物綱アウストロバイレヤ目  Austrobaileyales マツブサ科に属するシキミ Illicium anisatum である(因みに本種は全草有毒で、種子に多く含まれるアニサチン等はヒトを死に至らあせる極めて高い強毒性の植物であることは、あまり知られているとは思われないので特に記しておきたい。詳しくは以下のリンク先を参照されたいが、例えばシキミを挿した仏前の水が腐りにくいのもこれによるものであろうと思われる)。これならば季節的には開花が一致する(葉の付け根から一つずつ出て春に咲き、花びらは淡黄色で細長く、やや捩じれたような印象を与える)。また、佐賀県唐津のJA直売所の関係者の記載の中に『当店でも、菊や、ユリ、シバ、しきみ(シミ)など取り揃えています』とあり、少なくとも佐賀唐津ではシキミを「シミ」と呼称していることが判った。また、ウィキの「シキミを見ると、中国では「莽草」、厳密には「日本莽草」と呼ばれ、『生薬としては日本でも莽草(ボウソウ)の名称を使う』とあるのであるが、この「莽」という漢字は見れば見るほど、ここに出る奇体な「」【=「艹」(上)+{「並」から上部の一画及び二画を外したもの}(下)】の字とよく似ているようにも私には見えるのである。ただフローラ系は私の守備範囲でなく、最早、これ以上の新発見は望めない(正直、関心が及ばないからである。悪しからず)。どうか、識者の御教授を乞うものである。

「崇福寺」位置的に見て現在の福岡県福岡市博多区千代にある臨済宗大徳寺派横岳山勅賜萬年崇福禅寺(そうふくぜんじ)であろう。福岡藩主黒田家の菩提寺としても知られ(夢野久作の先祖は杉山姓を称してより代々、黒田藩公侍臣御伽衆馬廻役を仰せ遣った旧藩の名臣名家でもあった)、嘗ては寺域も広大で海岸の千代の松原まで続く壮麗な伽藍であったが、福岡大空襲によってほぼ灰燼に帰したとウィキの「崇福寺福岡市にある。

「赤泥社」西原和海編「夢野久作著作集 1」の解題から察するに、夢野久作が勤務していた『九州日報』社内の短歌同好会の名と思われる。私の『夢野久作詩歌集成 始動 「赤泥社詠草」1』以下及び私の注等を参照されたい。底本の別注には『加藤介春。夢野久作等の詩の会』とはある。

「森太郎」不詳。]

み佛もゆるしてたもれ月のよさに

  み寺の庭に尿するなり

 

[やぶちゃん注:「尿する」老婆心乍ら、「すばりする」と読む。]

 

思ひ無く松原ゆけばいつしかに

  冬の日落ちて小鳥鳴き渡る

 

 お寺にて、キナコ餅を喰ひたるにつかえたり、胃散を飮む。

 

[やぶちゃん注:以上、関連性を考えて日記全文を示した。]

 

 

 

 二月一日 月曜 

縣廳にゆき、水産新聞の證書を受け取る。

豐吉君に皷をことづける。

――朝、朝鮮の伯父とナマコとオキユートを喰ふ。

 

[やぶちゃん注:「皷」これは実際の鼓のことではなく、後の推理小説「あやかしの鼓」のことであろう。この一月(初出は一月十日で『終日「皷」の原稿を書く』とある)より熱心に執筆、この後の五月には本作を『新青年』の創作推理小説募集に応募し、美事、二等に入選している(この時初めて夢野久作のペン・ネームを用いた)。

「豐吉」恐らくは夢野久作妻クラの弟である鎌田豊吉のことと思われる。底本注に『社会主義運動に入り、八幡製鉄所のストライキを指導し、浅原健三と共に活躍、治安当局の追及を受け』たために、この昭和元年頃には父鎌田良一とは関係が悪化していたとある。ここは草稿であった「あやかしの鼓」を読んで貰ったということのようにも読める(実際、これ以前に親族等に読んで貰うシーンが出る)が、しかし「ことづける」というのはどうもそうではないらしい。事実、この後、五月八日の二等当選の手紙まで「あやかしの鼓」についての記載は日記中に、ない。ということはこれは既にして決定稿であって、理由は不明乍ら、どうもこの鎌田豊吉を介して、この後に『新青年』に応募されたものと読むのが正しいように思われる。別な底本注によると、彼は後に実家から遂に『廃嫡され、困窮の中に死』んだとある。

「オキユート」現行では「おきゅう」「おきうと」と表記発音するのが一般的な、福岡県福岡市を中心に食されている海藻の加工食品である。「お救人」「浮太」「沖独活」等とも表記されるらしい。成分の実に九十六・五%は水分で、残りの内、タンパク質が〇・四%、炭水化物が三%、灰分が〇・二%と栄養は頗る低いが、独特の食感などが評価される。かく言う私も好物である。参照したウィキの「おきゅうと」によれば、『伝来は諸説あるが、「佐渡の『いごねり(えごねり)』が、博多に伝わった」とする説がある。江戸時代の『筑前国産物帳』では「うけうと」という名で紹介されている。もともとは福岡市の博多地区で食べられていたようだが、その後福岡市全体に広がり、さらには九州各地に広がりつつある。福岡市内では、毎朝行商人が売り歩いていた。福岡市内を中心に、おきゅうと専門の製造卸は』昭和七二(一九九七)年頃でも凡そ十店はあったらしい。一方で一九九〇年(昭和六十五年)代以降、福岡県内では原料である紅藻類の一種エゴノリ(アーケプラスチダ界  Archaeplastida 紅色植物門紅藻綱イギス目イギス科エゴノリ属 Campylaephora エゴノリ Campylaephora hypnaeoides)の不漁が続いており、二〇〇〇年代に入ってからは、現地では有意な大量生産が困難となり、『石川県の輪島市などから仕入れている。また、主食が米飯からパンなどに移っていることからかつてに比べて消費が低迷している』。『作り方は、原料のエゴノリ(「えご草」、「おきゅうと草」、博多では「真草」とも呼ばれる)と沖天(イギス、博多ではケボとも呼ばれる)をそれぞれ水洗いして天日干しする』(但し、状態を見ながら一~三回、これを繰り返す)。この時の歩留まりは七割程度であるが、『この工程を省くと味が悪くなり黒っぽい色のおきゅうとができるため、手間を惜しまない事が重要である。次に天日干ししたえご草と天日干しした沖天をおおよそ』七対三の割合で『酢を加え煮溶かしたものを裏ごしして小判型に成型し常温で固まらせる。 博多では、小判型のおきゅうとをくるくると丸めたものが売られている』。『おきゅうとの良し悪しの見分け方として、あめ色をして、ひきがあるものは良く、逆に悪いものは、黒っぽいあめ色をしている。また、みどり色をしたものは、「おきゅうと」として売られているがまったくえご草が使われていないものもあり、天草が主原料の場合は「ところてん」であり「おきゅうと」ではない』。『新潟県や長野県では、えご草のみを原料としたほとんどおきゅうとと製法が同じ「えご(いご)」「いごねり(えごねり)」が食べられている。 おきゅうととの製法上の相違点は、えご草を天日干しせず、沖天を使用しないところである』。食べ方は、五ミリメートルから一センチメートルの『短冊状に切り、鰹節のうえに薬味としておろし生姜またはきざみねぎをのせ生醤油で食べるか、または芥子醤油やポン酢醤油やゴマ醤油などで食べるのが一般的である。もっぱら朝食の際に食べる』。変わった呼称であるが、この『語源については諸説あ』って、『沖で取れるウドという意味』・『キューと絞る手順があるから』『享保の飢饉の際に作られ、「救人(きゅうと)」と呼ばれるようになった』・『漁師に製法を教わったため、「沖人」となった』といった説があるそうである。『第二次世界大戦前、博多の町では明け方より、他の地方の納豆売りしじみ売りのように、おきゅうと売りが売り歩いたとい』い、その『掛け声は『おきうとワイとワイ、きうとワイ』というものだったと』ある。『山形県、秋田県、新潟県、長野県安曇野地方で食べられている「えご」(「いご」「えごねり」「いごねり」ともいう)や宮崎県の「キリンサイ」も、形は少し違うが紅藻類の海草を使う点で共通しており、同様の食品である』(個人的にはキリンサイの食感は堪えられない。石垣島で食して以来、大好物なのだが、本土ではまず入手困難である)。『えごは飢饉の際、漁師が見つけた海草を煮詰めて固めたもので、飢えをしのいだ事が由来とされ』、『福岡出身の実業家・出光佐三など、味を懐かしんで東京まで取り寄せて食べていたという例も多い』ともある。]

 

日本中豆子はお酌にきまつてる

 

[やぶちゃん注:句意不詳。識者の御教授を乞う。]

 

豆を撒くたんびに子供飛び上り

 

獨物豆も撒かずに寢てしまひ

 

女房が死水を取るいゝ役者

 

胎毒の後家の弗箱喰ひ破り

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「弗箱」は「ドルばこ」である。]

 

私は渡者ですがと渡者云ひ

 

 

 

 二月十八日 木曜 

[やぶちゃん注:前略。]

 夜、石井宅にて千代子の送別宴、出たらめ句會を催す。田中、中村、板東、榊、杉山叔父、石井、千代子、我。

 

[やぶちゃん注:「千代子」姻族の一人。夢野久作の異母妹たみ子の夫石井俊次の末妹。最後の句に「丸髷」とあることから、婚姻離福の送別会と推察する。]

 

渡場にカラ傘一つ春の雨

 

ヒザとヒザ物音もなし春の雨

 

君去りて初丸髷は癪のたね

 

等、夕吟出づ。

 

 二月二十日 土曜 

 

海苔そだやどこかひそかに夜の音

 

何を見にやどかりのぼる海苔の竹

 

海苔にまじる小魚も春の光り哉

 

ストーブの灰はくづれぬみつめ居る

 おのが心の何かくづれぬ

 

 

 

 二月二十二日 月曜 

 春さめのふる。

 

傘さして松原ゆくたれ誰やらむこの暮さめのしつかなる夕

 

野鼠の黑き姿の見えかくれ春のひろ野のはてなく光る

 

縣廳の玄關の靴ぬぐひ靴ぬぐふわれの小さき心

 

往來まで洩るゝ何かのアンコール何故となく唾はきてゆく

 

小夜を汽車過ぎゆけば驛長はサフランの鉢抱えてかへる

 

鐵砲を打つてみたいと思ふ心春靑々とたそがれてゆく

 

 

 

 二月二十五日 木曜 

 五時五十分の汽車にて歸る。

 

川端のまひるの月のつゝましや水の音にも湯ぬべく見えて

 

[やぶちゃん注:下の句「湯むべく見えて」読みも意味も不詳。識者の御教授を乞う。]

 

山々はまだあかるきにおのがじゝねむりて春の月を迎へぬ

 

町中でお月樣がと立ちとまる吾が兒を叱りふと涙ぐむ

 

煙突の煙がどうしても書けないといふこどもは偉大なる藝術家なるかな

 

何故に兒を叱るかと妻のいふそれを叱りてふと涙ぐむ

 

春の海石垣の上を白猫のあゆみあゆみてたそがれてゆく

 

[やぶちゃん注:「あゆみあゆみて」の「あゆみあゆみ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

何やらむ白き煙の立ちて居り消えんともせず春の山暮れぬ

 

春の月東の山に浮かみ出でぬ紡績の如く雨の長さよ

 

星まばらすみ渡る春の月の下雪化粧ひそやかに眠る

 

 

 

 二月二十七日 土曜 

 昨日よりの頭痛(何かの中毒らし)絶食のためやつと止みたり。されども午后二時に到り仕事進まざるため、パンと乳を攝れり。

 加藤君の詩集、眼と眼の評を書く。加藤君喜び詩を入れる。

 午后四時二十分妻子と共に、新博多發和白にて牛肉を買ひて歸り、ニンニクと共に煮て喰ふ。美味し。

 

輪轉機轟とまひ出すたまゆらを危く昂ふる吾が心かな

 

落日のなやみさらはう崖のかなた靑くうるめる春の月出づ

 

 

 

 二月二十八日 日曜 

 朝七時半起床。雨戸を開けば春霞棚引きたり。香椎郵便局長に會ひて、電話のこと相談。箱崎にてテニス。朝食林檎一つ。

 夜、靜かに耳鳴る。

 

わが昔の心見出でし悲しさよ、わが妻の弟父を怨める。

 

おろかなる戀なりけりとわが傍に、ねむれるものゝ鼻息をきく。

 

[やぶちゃん注:一首目は以前にも少し注したがここの底本注にも、『夢野久作の妻の実家、鎌田家において、父鎌田昌一と』、社会主義運動にどっぷり身を投じてしまっていた『弟鎌田豊吉の間に思想上、家庭上の』深刻な『対立があり、大きな激しい闘争が行われていた』ことに基づく一首であるとある。]

 

 

 

 三月三日 水曜 

 

輪轉機轟ろまひ出すたまゆらの、おさな心はひとり悲しも。

 

 

 

 三月十八日 木曜 

 朝、伊藤君と筥崎にてテニス。

 午后四時二十五分新博多發列車にて、妻と落ち合ふ。

 

花をやつたあとから札を勘定し

 

櫛卷の素顏であるくニクラシさ

 

髮一つあだにほつれぬ美人也 

 

 

 四月二十三日 金曜 

 石井にゆき、ひるねし、香椎へ歸り、うたひの原稿書く。雨ふる。

 

吾家の朝の光りに、裏畠の苺の花の數へられつゝ

 

汽車の窓に並びて蜂の一つ飛ぶ、春の光りのたまゆらなりけり



 四月二十六日 月曜 

 

けふも亦あだに暮しつ限り無き、生無身と思ひ知りつゝ。

 

[やぶちゃん注:「生無身」全くの勝手乍ら、私は「しやうむしん(しょうむしん)」と読み、「父母未生以前 (ぶもみしょういぜん)」と同義と読。自我の存在しない仏教世界に於ける絶対無差別無二の境地である無我の境地、即ち真の実相たる「空」の識界と採る。大方の御批判を俟つ。]

 

 

 

 五月八日 土曜 

 

苺の花一つ一つにたそがれて、やがてみそらに生いでにけり。

 

[やぶちゃん注:「一つ一つ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

 

 

 五月十一日 火曜 

 朝、風強く。午后凪ぐ。

 終日、精神生理學の原稿を書く。

 

正夢の話をきけば寢小便

 

夢ばかり見てゐると書く噓ばかり

 

夢に見たが眞綿で首のしめ初め

 

何だいとよくよく見れば瞳のゴミ

 

[やぶちゃん注:「よくよく」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

思案ごと忘れて瞳のゴミを取り

 

夢を見るやうな眼つきで暗を掘り

 

夢の場面やる本人の馬鹿らしさ

 

人間萬事夢だと坊主錢を取り

 

[やぶちゃん注:「精神生理學の原稿」言わずもがな乍ら、後の「ドグラ・マグラ」の初期稿のことを指す。因みに「ドクラ・マグラ」は(松栢館書店からの単行本出版)実にこの九年後の昭和一〇(一九三五)年一月のことであった。]

 

 

 

 五月二十日 木曜 

 午后三時五十三分本線にて出福。河原田にて原稿紙を買ひ、梅津を見舞ひ古賀にゆき、柴藤にてうたひうたふ。

 

 

 

 五月二十三日 日曜 

[やぶちゃん注:前略。]

 朝來雨模樣、暗雲西に去る。密柑の花白く香氣甚し。觸るればバラバラと落つ。

 

空暗く思ひも暗きたそがれを、みかんの花のホロホロと落つ

 

[やぶちゃん注:「バラバラ」「ホロホロ」の後半は底本では孰れも踊り字「〱」。]

 

 

 

 六月六日 日曜 

 晴天。家のねづみふえたり。トマト芽立ち、蛇出て空靑し。秋蟲の聲はやきこゆ。

 午前原稿。

 チソ、タデ、トマトを植ゆ。

 

永き日の夕日ざししみじみふりかへり、

 縞ある蛇の笹の集わたる。

 

蚊多し。

 

[やぶちゃん注:「原稿」はここのところほぼ毎日記している「狂人」という作品、即ち、後の「ドクラ・マグラ」の初稿である。]

 

 

 

 六月十四日 月曜 

 

大あくび待合室をねめまはし

 

大あくび前の美人をふとにらみ

 

あくびして睨んでもまだ座つてゐ

 

湯のぬるさあくびの尻が歌になり

 

おいしさうにあくびをたべてニツコリし

 

きんたまがのどまであがる大あくび

 

基督の先祖に八つのコブがあり

 

大あくびガマ口だけは握つてゐ

 

標本になつたが瘤の名譽也

 

瘤つきになつて嬶のお伴をし

 

終電車あくびとあくび二人切り

 

 

 

 六月十七日 木曜 

 

永き日を蟻のあゆみのもどかしさ、

 切れ凧の枝にかゝりて又しばし

 

 

 

 六月二十日 日曜 

 終日蒸し暑く、夜に入りて曇る。トマト等に水をやる。原稿を書き。夕食にカン詰めのハムライスとジヤガ芋をたべる。龍丸にお話しをして寢る。

 

友のくれしくるはしき花咲きいでぬ

 名を思ひ出でず夏の夕ぐれ

 

痛々しくダリヤしぼみぬ狂はしき

 姿おはりぬ風無き夕ぐれ

 

高くかける信天翁のみ目にしみて

 スコナーの海にくれ果てむとす

 

君は君が悲しみのため涙ながす

 われはわがために吐息するなる

 

[やぶちゃん注:「スコナー」英語に“scorner”があり、発言又は表情によって軽蔑を表す人を指すが、三首目の意はそれでは私には汲めない。識者の御教授を乞う。]

 

 

 六月二十一日 月曜

 土赤く、山綠に空靑く、風無く雲亦無し、何とも云へぬ好晴なり。

 終日原稿書き、夕方より畠に灌水す。

 夕食、ニラとキヤベツ卷き。龍丸又話をせがむ。

 

更くる夜をうちつれてなく雨俺ひとり淋しく眼をとづれば

 

月出でず蛙もなかず只一人ひろ野のはてに來は來つれども

 

妻子にも告げ得でありぬ年毎につばなのゆらぐ吾家の淋しさ

 

吾好む夏の夕べの甘ずゆきトマトの葉に赤き日しづむ

 

土に居てトマトをしやぶりながむれば夏の夕日の甘ずゆきかな

 

[やぶちゃん注:「つばな」単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica の初夏に出る穂のこと。細長い円柱形を成し、葉よりも高く伸び上がって、ほぼ真っ直ぐに立つ。分枝はなく、真っ白の綿毛に包まれており、よく目立つ。種子はこの綿毛に風を受けて遠くまで飛ぶ(ウィキの「チガヤに拠った)。個人的に私の大好きな花である。]

 

 

 

 六月二十二日 火曜 

 

山つゝじ赤々咲きぬ薄ら日に鳥の遠音のさす丘の上

 

まんまんと汐滿ち足らひ鐵橋のはるかに赤く春の陽しづむ

 

[やぶちゃん注:「まんまん」の後半は底本では孰れも踊り字「〱」。]

 

ましろなる煉瓦の家を建てをへて工科大學に秋早く來ぬ

 

曇り日の下に立ち並ぶ材木のにほひしみじみ春闌けにけり

 

[やぶちゃん注:「しみじみ」の後半は底本では孰れも踊り字「〲」。]

 

初夏の靑空嬉し馬の香のひそやかにして材木並べり

 

 

 

 六月二十三日 水曜 

 

寢苦しく曉かけてながめしが鐵錆色の雲に入る月

 

砂ほこりポプラ並木のゆらぐ見ゆ春のおはりの町の行手に

 

いつしかに桐の花咲き靑空のそこはかとなく雲の漂ふ

 

吾が心狂ひ得ぬこそ悲しけれ狂へと責むる鞭をみつめて

 

實直なるズボンの裾の悲しさよともしびしげき眞夏の夕暮れ

 

靑空より直線に來る光り海岸にある吾家うれしも

 

 

 

 六月二十四日 木曜 

 

乞食僧のおろかなる顏よぎりゆく石南花の咲く門の晝過

 

萬卷の書物も悲し圖書館のま夏まひるを人のゐねむる

 

 

 

 六月二十八日 月曜 

 昨今、今日より田植えの爲學校休み也。

 終日雨ふる。

 

小さき蟲ら悲しき聲をして死ぬる

 燈を見れば夜ふけわたる。

 

 

 

 七月三十一日 土曜 

 

物かけばペンの響きに蟲の音に秋の音する夏のたそがれ

 

はるかなる月の影かなしづかなるわが心悲しく靜かに

 

 

 八月十五日 日曜 

 關門の大空に、月はるかなり。

 

われふるさとに春はるかなり

 

明日開く朝顏の數夢に入る

 

朝顏の數をつくして小雨哉

 

朝顏や誰が蒔き捨てし野雪隱

 

 

 

 八月十六日 月曜 

 

朝顏の數を數ふる吾が兒哉

 

夕顏や眞上に光る一つ星

 

朝顏の名を思ひつかず水を遣る

 

 

 

 八月十七日 火曜 

 

朝顏や今年も隣から咲いて來る

 

朝顏や九尺二間を幾並び

 

[やぶちゃん注:「九尺二間」これは縦横で「九尺」は約二百七十センチメートル、「二間」三百六十センチメートルであるから、二・七×三=九・七二平方メートルとなり、通常の一坪は凡そ約三・三平方メートルであるから、この朝顔を植えたスペースは凡そ三坪はあったことになる。]

 

云はぬとして云ひ得ぬ心筆取りて

 

つながりもなきことば並ぶる

 

 

 

 八月十八日 水曜 

 

風狂ひ草なびき伏し雲かけり、わがさけぶ聲きえきえとなる。

 

山も海もまぶしく光り小蒸氣の、潮に逆ひゆるゆるとゆく。

 

[やぶちゃん注:「きえきえ」「ゆるゆる」の後半は底本では孰れも踊り字「〱」。]

 

 

 

 八月十九日 木曜 

 

お前さんが馬鹿だからと嬶云ひ

 

利口なら歸りはせぬと亭主云ひ

 

 

 

 八月二十日 金曜 

 

秋の夜更け蟲一つなき、わが眼玉いよいよ大きく開きゆくかな

 

わがあゆみたゆみがちなりゆく道の、ましろく遠く秋の目しづむ

 

あの星まで何里あるかと忰きゝ

 

東京へ來ると電車に乘らぬ也

 

タキシーさなど忰は口で吹き

 

 

 

 八月二十三日 月曜 

 朝、梅津正保君と博多驛より出發。正保君戸畑下車。余、小倉下車。森安雄君の處に行き綾子以下に會ふ。

 綾子曰く、安雄さん默つて家を建てた。

 安雄君曰く、我性分也。安雄君ビールを飮みて氣焰を擧ぐ。余又擧ぐ。

 釜關連絡船景福丸にて朝鮮に向ふ。月淸く風無し。

 

  明月の關門の空はるかなり、われ故郷に又はるかなり。

 

[やぶちゃん注:この日から八月二十九日に下関に帰着するまで実質滞在五日ほど、大韓民国の釜山などを夢野久作は訪問している。特異点であり、最後の一句も詩文調なれば、全文を掲示した。]

 

 

 

 十月十五日 金曜 

 朝、空一面に灰色の雲、土と草葉濡れてかゝやき、コスモス白く美しく淋し。

 

曇り日のコスモス白く美しく

 されどさみしく亂れ咲く哉

 

 小菜を負ひて香椎より出福福。中野邸に到りテニス。午后、安田にてけいこ。鶴原、權藤、安田、戸次、佐藤。

 夜、幼稚園にてけいこ。猩々、羽衣。

 

コスモスの白く亂るゝ淋しさよ

 

降るみふらずみ暮るゝたそがれ

 

 

 

 十月三十一日 日曜 

 修猷館にて先生と庭球、四組をたふす。山口のコートにてテニス。

 柴藤にとまる。柴藤、熊坂の形のけいこ。

 

ほんとうに彼は彼なり醉ひしれて

 或る夜の溝に落ちて死にけり

 

 鎌田一家來られ、家の山の松茸をとらる。喜ばれし由。

 

[やぶちゃん注:以下、この年は総じて「十二月三十一日 金曜」迄、実に小まめに日記が記されているが、以上以外には、私が詩歌と断ずる章句は認められなかった。くれぐれも底本を熟読されんことを。]

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