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2015/08/27

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第六章 盆踊 (一)

 

       第六章 盆踊 

 

         一

 

 山を越えて、古代の神國、出雲へ行く。太平洋から日本海へ、強い車夫に車を曳かせて四日間の旅。何故といふに、私共は最も人の通らぬ、最も遠い道【譯者註】を取つたから。

 

 

    譯者註。山陽道から中國山脈を越えて

    山陰道へ行く從來の道筋は、行先に從

    つて姫路、岡山、尾道、廣島をそれぞ

    れ起點とする。ヘルン先生は岡山より

    津山へ入り、それから烏取街道へ出で

    て、更に轉じて松江へ向はれたのであ

    る。

 

 この長い道筋の大部分は、谷間を通じてゐる。道が上つて行くと、谷は更に高い谷に續 いて、兩側の山と山に挾まれた稻の田は、堤坡を築いた高臺を連ねて傾斜が昇つて、大きな綠色の階段の如く見える。谷の上には、松や杉の薄暗い森があつて、森に蔽はれた絶巓の上には藍色の遠山がぬつと聳えて、灰色な水蒸氣の瘠せた影法師が、またその上に浮いてゐる。空氣は生温るくて風が無い。遠方は細かい霞が、紗を張つてゐる。して、この極めて優美な靑空、私が從來見た如何なる空よりも高いやうに私の目に映ずる。この日本の空には、毎日たゞ僅かの纎絲の如き、幽靈の如き、透明な、白いぷらぷら迷つてゐるものがあるのみだ。雲の精ともいふべきものが、風に乘つてゐるのだ。

 道が昇つて行くにつれ、折々稻の田の無くなることがある。大麥、藍、燕麥、綿などの 畠が暫くの間、道路に沿つで續く。それから、道はまた森の影へ突入する。何よりも時々路傍にある杉の森は驚異だ。熱帶以外では、私は未だ濃密と垂直の、これと比較すべき森 を見たことがない。幹は一本々々柱の如く眞直で露骨だ。前前全體は、高く聳えた靑白い柱の無限な習合が、うす暗い簇葉の雲の中へ沒してゐる觀を呈する。頭上を仰ぎ見れば、 暗中に消え失せる枝の外には、何も識別されぬほど、葉が繁つてゐる。して、靑白い樹幹 の柵に折々開いた隙間から向うを見ると、奧は夜の黑さで、ドーレーの樅の森の畫のやうだ。

 

    譯者註。ドーレーは十九世紀後半期の

    佛國畫家。

 

 もはや大きな町は無い。たゞ山隈に巣籠つた草葺き家の村ばかりだ。村毎に、佛教の寺 が灰靑色の瓦を疊んだ、彎曲せる屋根を、茅屋の群がる上から現し、また、神道の祀祠の前には、石又は木で造つた一大文字のやうな鳥居が立つてゐる。しかし、佛教の方がまだ 優勢だ。山の頂上には寺があつて、佛陀や菩薩の像が、里程標の如く精確に路傍に立つて ゐる。往々、村の寺が非常に大きいので、周圍の農民の小舍が納屋のやうだ。かゝる賤し い村で、何うして、かほど費用のかかる祈願の堂宇が支へて行けるだらうかと、旅人は不 思議に思はざるを得ない。また到る處に優しい信仰の象徴が見える。その經文や記號が岩 の面に刻んである。その聖像は路傍の蔭から微笑してゐる。加之、時には山水の恰好まで も、信仰の靈によつて形成されたやうで、丘陵が祈りの如く柔かに昇つてゐる處もある。或る山の絶頂は釋迦の頭の如く圓屋根形をなして、そこに生ぜる黑い盛り上つた葉狀體は、釈迦の捲毛(ちゞれげ)の叢とも見えた。

 が、日を經て、私共が次第に西の方の奧へ入るに從つて、段々と寺が減じて來た。私共 が通り過ぎて行く邊の寺は、小さくて、貧乏らしく、路傍の佛像は稀になつた。しかし、 神道の象徴が次第に多くなり、宮の構造も大きく高くなつた。それから、鳥居が到る處に 見えて、一層高く聳えた。村の入口や、奇怪な石造の獅子と狐によつて守護された境内の入口や、神聖な森の薄明かりの奥に鎭座する、寂びた社祠へ、老松古杉の繁つた間を通じ行く苔蒸す石段の前などに、いつも鳥居が立つてゐた。

 ある一小村で、大きな神社の鳥居をくゞつた處に、特異な小祠があつたので、好奇心に 驅られて、それを探討させざるを得なかつた。鎖された戸の前には、澤山の短い瘤の多い 杖、即ち小型の棍棒が立てかけてあつた。晃が大膽にもそれを取除け、戸を開けて、私に内部を見せた。たゞ面――天狗の面があるのみであつた。巨大な鼻を有し、何とも云へなく怪奇で、私はそれを眺めたことを悔ひた。

 棒は献納の品である。それ宮へ寄進すると、天狗が敵を撃退して呉れると信ぜられてゐる。すべて日本の繪畫彫刻では、惡鬼の形に現してあるけれども、天狗樣は低級の神なので、擊劔並びに一切武道の守護神である。

 それから、また他の變化も次第に明白になつた。晃は最早土地の人の言葉を理解し得な  いと不平をこぼした。私共は方言の地域を通過してゐるのだ。家屋の作り方もまた日本の 東北部の田舍と異つてゐる。高い藁葺屋根には、屋背の棟木に平行して、一尺ほど高めた竹の柱に、藁束を附けて、珍異な飾が施してある。百姓の皮膚の色も東北部に於けるよりは黑い。また東京附近の女に見るやうな美しい薔薇色の顏は見られなくなつた。百姓の帽 子も變つてゐる。奇妙にも庵笠と呼ばれて、路傍の小さな庵寺の藁屋根の如く尖つてゐる。

 天氣が暖か過ぎるので、着物が重苦しくなつた。小さな村を通るときに、私は健康さうな、さつぱりした裸體を澤山見受けた。綺麗な裸の子供や、腰に一枚の柔かな狹い白布を纏つたまゝで、疊敷の床の上に寢てゐる褐色の大人や少年を見た。微風を入れるため、家の障子は悉皆外づしてある。男子の體格は輕やかに軟靭らしく、筋肉には角が立たないで、輪廓はいつも滑かだ。大抵何れの家の前にも、小さな藁莚の上に藍を擴げて、日光に乾してあつた。

 田舍の人達は驚異の目を張つて、外人を注視した。私共が立佇つたいろいろの所で、老人が近寄つてきて、私の衣服に手を觸れては、恭しく敬禮したり、人懷かしい徴笑を浮べたりして、彼等の極めて天眞爛漫たる好奇心に對する詑びを表した。また私の通辯人に向つて、さまざまの寄異な質問を發した。これほど温和で、親切な顏を私は未だ見たことがなかつた。して、その顏は裏面の精神を反映してゐた。一聲も怒りの言葉を聞かなかつたし、また一つの不親切な擧動も目擊しなかつた。

 

 旅行して進むほどに、毎日々々土地の景色が美しくなつた――火山國にのみ見出される、あの變幻奇怪な風景美なのだ。暗い松や杉の森、この遠く微かな夢の如き空、柔かな白い光線を除けば、この途中、私は再び西印度にゐて、ドミニカ島や、マルチニーク島の峯巒を、迂餘曲折して登つて行くやうに想像した場合があつた。また實際、私は地平線のかなたに棕櫚樹や木綿の形を探し求めたこともあつた。が、森の下の谷や傾斜面の一層輝ける綠色は、若い籐のそれではなく、稻の田のそれであつた。農家の庭園位な、小さな稻の田が、何千といふほど狹い迂曲した堤坡で、互に界をして連つてゐた。

 

[やぶちゃん注:ハーバー社と絶縁する前後にハーンは横浜海軍病院勤務の米国海軍主計官ミッチェル・マクドナルド(既注)の紹介で知り合った東京帝国大学教授バジル・ホール・チェンバレン(既注)と、かつてアメリカでの記者時代に知遇を得ていて当時は文部普通学務局長の地位に就いていた服部一三(嘉永四(一八五一)年~昭和四(一九二九)年)の斡旋によって、島根県立松江中学校英語教師に着任することが決まっていた。参照した上田和夫氏の年譜(新潮文庫昭和五〇(一九七五)年刊「小泉八雲集」)では、松江への出発を八月末とする。但し、平井呈一氏の恒文社一九九八年刊「対訳 小泉八雲作品抄」末に載る略年譜では出発を八月上旬としている。しかし、平井氏の説を採ってしまうと、前章の盆市体験の説明がつかなくなる。私は現時点ではあくまで上田氏の八月末説を採る。なお、ここで落合氏の注を参考に推定実測すると、二百四十キロメートルもの道のりを人力車で四日間で走ったことになる。一日六十キロメートル、人力車の時速は八~十キロメートルであるから可能ではあるがしかし、途中、中国山地越えをしており(しかも通訳兼書生の真鍋晃も同道)、これはなかなか尻の痛くなるハードな旅である。

「堤坡」「ていは」と読み、「坡」は傾斜地或いは傾斜を持った堤(つつみ)のことであるから、所謂、畦(あぜ)・畦道のことである。

「ドーレー」フランスの画家ポール・ギュスターヴ・ドレ(Paul Gustave Doré 一八三二年~一八八八年)。彼はダンテ・バルザック・ラブレー・ミルトン・バイロンといった巨匠の挿絵画家としても知られ、イギリス版聖書やエドガー・アラン・ポー「大鴉」等の挿絵も手がけ、生前から国際的にその名を知られていた(ここまではウィキの「ギュスターヴ・ドレ」に拠った。平井呈一氏の訳の割注には、彼の描いた『バルザックの「風流滑稽譚」の挿絵は有名で、八雲はこよなく愛好した』とある。彼の風景画と言っても頗る幻想性や宗教性が強く、何とも言えぬ陰鬱怪奇なものが多いように私は感じる。そういう点では八雲が偏愛したというのは多少は分からぬではない。

「小型の棍棒」私は天狗信仰には詳しくないが、これは直感的には天狗の鼻から導かれる陽物崇拝に基づく男根をシンボライズしたもののように思われるが如何? 識者の御教授を乞うものである。

「庵笠」不詳。平井呈一氏は『あんがさ』とルビを振る。かなり南であるが佐賀県で「甚八笠(じんぱちがさ)」と呼ばれるものが形態的には似ているように思われる。グーグル画像検索「甚八笠」をリンクしておく。思うにこれは晴天のサン・バイザーと同時に降雨時の雨笠の両実用性を考えた形状のように私には見える。識者の御教授を乞う。
 
「ドミニカ島」カリブ海の西インド諸島を構成する小アンティル諸島南部ウィンドワード諸島(西インド諸島南アメリカ大陸寄りの最南方部分に連なる小規模な島々)最北部に位置する島。当時はイギリス植民地であった。一四九三年にコロンブスが来島、その日がたまたま日曜日(スペイン語:
domingo ドミンゴ)であったことからドミニカ島と命名されたとする。一六三五年にフランスが植民地化、一七六三年、パリ条約によりフランスからイギリスの植民地と決まったものの、両国間で領有権が争われ続け、実に四十二年後の一八〇五年になってイギリスの植民地となった。その後、一九五八年に西インド連邦に加盟するも、四年後の一九六二年には西インド連邦自体が解体され、一九六七年にはイギリス領西インド連合州の一州となり、この時、遂に自治を獲得、一九七八年に晴れてイギリス連邦加盟国として独立、ドミニカ国となった(以上は主にウィキドミニカ国」を参照したが、注意されたいのはドミニカ島の東北東、千キロメートルも離れた西インド諸島大アンティル諸島中のキューバ島に次ぐ巨大な島イスパニョーラ島東部(島の西2/3。残りの東1/3はハイチ)に位置するドミニカ共和国とこのドミニカ国は全く別な国であるので注意されたい)。ハーンは三十代の後半、一八八七年(本邦は明治二十年)三十七歳の時に未知の新天地を求めて西インド諸島を彷徨した。次注も参照のこと。

「マルチニーク島」カリブ海に浮かぶ西インド諸島の中のウィンドワード諸島に属する島で、フランス植民地(ハーン訪問時も同じ)。現在も海外県(飛地)の一つである。海を隔てて北にドミニカ国が、南にイギリス連邦加盟国セントルシアが接する。参照したウィキマルティニークによれば、『「世界で最も美しい場所」とコロンブスに呼ばしめ、彼を魅了したマルティニーク島の語源は島に住んでいた、カリブ人の言葉でマディニーナ(Madinina、花の島)、またはマティニーノ(Matinino、女の島)がマルティニークの語源になっている』とある。上田和夫氏の年譜によれば(新潮文庫)、ハーンは前述の放浪の際、同年七月にこのマルティニーク島を訪れ、その熱帯独特の美しさに魅せられ、一度ニューヨークに戻った後(九月)、十月には再びマルティニークへ渡島、それより一年半(離島は来日する一年前の一八八九年五月)に亙って当時の県庁所在地で「カリブの小パリ」と賞された島の北西部のサン・ピエール(Saint Pierre)に住み、紀行・見聞記・小説を書き続けた(但し、サン・ピエールは後の一九〇二年五月八日、町の近くにあるプレー山が噴火、火砕流によって崩壊、死者は約三万人に達し、陸上にいた人の内で生存者はわずか三人のみだったという。この噴火後、マルティニークの県庁は島の中西部のフォール・ド・フランスに移されている)。ハーンは来日する前月(明治二三(一八九〇)年三月)にこのマルティニークの優れた紀行文十六篇を納めた「仏領西インドの二年間」を公刊している。

「峯巒」山の峰或いは山。

 

 

Chapter Six

 

Bon-odori

 

Sec. 1

Over the mountains to Izumo, the land of the Kamiyo, [1] the land of the Ancient Gods. A journey of four days by kuruma, with strong runners, from the Pacific to the Sea of Japan; for we have taken the longest and least frequented route.

Through valleys most of this long route lies, valleys always open to higher valleys, while the road ascends, valleys between mountains with rice-fields ascending their slopes by successions of diked terraces which look like enormous green flights of steps. Above them are shadowing sombre forests of cedar and pine; and above these wooded summits loom indigo shapes of farther hills overtopped by peaked silhouettes of vapoury grey. The air is lukewarm and windless; and distances are gauzed by delicate mists; and in this tenderest of blue skies, this Japanese sky which always seems to me loftier than any other sky which I ever saw, there are only, day after day, some few filmy, spectral, diaphanous white wandering things: like ghosts of clouds, riding on the wind.

But sometimes, as the road ascends, the rice-.fields disappear a while: fields of barley and of indigo, and of rye and of cotton, fringe the route for a little space; and then it plunges into forest shadows. Above all else, the forests of cedar sometimes bordering the way are astonishments; never outside of the tropics did I see any growths comparable for density and perpendicularity with these. Every trunk is straight and bare as a pillar: the whole front presents the spectacle of an immeasurable massing of pallid columns towering up into a cloud of sombre foliage so dense that one can distinguish nothing overhead but branchings lost in shadow. And the profundities beyond the rare gaps in the palisade of blanched trunks are night-black, as in Dore's pictures of fir woods.

No more great towns; only thatched villages nestling in the folds of the hills, each with its Buddhist temple, lifting a tilted roof of blue-grey tiles above the congregation of thatched homesteads, and its miya, or Shinto shrine, with a torii before it like a great ideograph shaped in stone or wood. But Buddhism still dominates; every hilltop has its tera; and the statues of Buddhas or of Bodhisattvas appear by the roadside, as we travel on, with the regularity of milestones. Often a village tera is so large that the cottages of the rustic folk about it seem like little out-houses; and the traveller wonders how so costly an edifice of prayer can be supported by a community so humble. And everywhere the signs of the gentle faith appear: its ideographs and symbols are chiselled upon the faces of the rocks; its icons smile upon you from every shadowy recess by the way; even the very landscape betimes would seem to have been moulded by the soul of it, where hills rise softly as a prayer. And the summits of some are domed like the head of Shaka, and the dark bossy frondage that clothes them might seem the clustering of his curls.

But gradually, with the passing of the days, as we journey into the loftier west, I see fewer and fewer tera. Such Buddhist temples as we pass appear small and poor; and the wayside images become rarer and rarer. But the symbols of Shinto are more numerous, and the structure of its miya larger and loftier. And the torii are visible everywhere, and tower higher, before the approaches to villages, before the entrances of courts guarded by strangely grotesque lions and foxes of stone, and before stairways of old mossed rock, upsloping, between dense growths of ancient cedar and pine, to shrines that moulder in the twilight of holy groves.

At one little village I see, just beyond, the torii leading to a great Shinto temple, a particularly odd small shrine, and feel impelled by curiosity to examine it. Leaning against its closed doors are many short gnarled sticks in a row, miniature clubs. Irreverently removing these, and opening the little doors, Akira bids me look within. I see only a mask—the mask of a goblin, a Tengu, grotesque beyond description, with an enormous nose—so grotesque that I feel remorse for having looked at it.

The sticks are votive offerings. By dedicating one to the shrine, it is believed that the Tengu may be induced to drive one's enemies away. Goblin-shaped though they appear in all Japanese paintings and carvings of them, the Tengu-Sama are divinities, lesser divinities, lords of the art of fencing and the use of all weapons.

And other changes gradually become manifest. Akira complains that he can no longer understand the language of the people. We are traversing regions of dialects. The houses are also architecturally different from those of the country-folk of the north-east; their high thatched roofs are curiously decorated with bundles of straw fastened to a pole of bamboo parallel with the roof-ridge, and elevated about a foot above it. The complexion of the peasantry is darker than in the north-east; and I see no more of those charming rosy faces one observes among the women of the Tokyo districts. And the peasants wear different hats, hats pointed like the straw roofs of those little wayside temples curiously enough called an (which means a straw hat).

The weather is more than warm, rendering clothing oppressive; and as we pass through the little villages along the road, I see much healthy cleanly nudity: pretty naked children; brown men and boys with only a soft narrow white cloth about their loins, asleep on the matted floors, all the paper screens of the houses having been removed to admit the breeze. The men seem to be lightly and supply built; but I see no saliency of muscles; the lines of the figure are always smooth. Before almost every dwelling, indigo, spread out upon little mats of rice straw, may be seen drying in the sun.

The country-folk gaze wonderingly at the foreigner. At various places where we halt, old men approach to touch my clothes, apologising with humble bows and winning smiles for their very natural curiosity, and asking my interpreter all sorts of odd questions. Gentler and kindlier faces I never beheld; and they reflect the souls behind them; never yet have I heard a voice raised in anger, nor observed an unkindly act.

And each day, as we travel, the country becomes more beautiful— beautiful with that fantasticality of landscape only to be found in volcanic lands. But for the dark forests of cedar and pine, and this far faint dreamy sky, and the soft whiteness of the light, there are moments of our journey when I could fancy myself again in the West Indies, ascending some winding way over the mornes of Dominica or of Martinique. And, indeed, I find myself sometimes looking against the horizon glow for shapes of palms and ceibas. But the brighter green of the valleys and of the mountain-slopes beneath the woods is not the green of young cane, but of rice-fields—thousands upon thousands of tiny rice-fields no larger than cottage gardens, separated from each other by narrow serpentine dikes.

 

1 The period in which only deities existed.

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