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2015/08/23

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十一章 瀬戸内海(全)

 

 第二十一章 瀬戸内海

 

 我々は八月十日、京都を後にして瀬戸内海へ向った。途中大阪で二日を送ったが、ここで我々は、陶器と絵画を探っているフェノロサ、有賀両氏と落ち合った。河上でお祭り騒ぎが行われつつあったので、ドクタアは大きな舟をやとい、舞妓、食物、花火その他を積み込んだ。我々はグリノウ氏も招いた。それは大層楽しい一夜で、河は陽気な光景を呈した。遊山船は美しく建造され、底は広くて楽に坐れ、完全に乾いている。そしてゆっくりと前後に行きかう何百という愉快な集団、三味線と琴の音、歌い声と笑い声、無数の色あざやかな提灯(ちょうちん)、それ等は容易に記憶から消えさらぬ場面をつくり出していた。米国の都邑の殆どすべてに、河か入江か池か湖水かがある。何故米国人は、同様な祭日を楽しむことが出来ないのであろうか。だが、水上に於るこのような集合は、行儀のいい国でのみ可能なことではある。

[やぶちゃん注:以前にも少し記したが、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、モースは陶器の窯や名匠らとの邂逅、さらに現実的要請としての陶磁器蒐集のため、『京都には訪ねるべき場所が山ほどあった。しかし、それを後回しにした一行は十日に京都を出て、大阪で二日を過ごしたのち、小さな汽船で瀬戸内海を広島へ向う。広島でも陶器あさりをしたモースは、ここでフェノロサおよび有賀と別れ、八月十吾にビゲローとともに和船で岩国に向け出発。ここから先はかつてのモースの教え子、田原栄が通訳の役目を果たした。田原はのち東京専門学校(現早稲田大学)で理科を教えた人である』とある。

「河上でお祭り騒ぎが行われつつあった」祭り嫌いの私には不詳。現行の八月十日・十一日に行われている「法善寺横丁まつり」のことか? 識者の御教授を乞う。因みに、大阪でのモースの具体的な動向は良く知られていないらしい。]

 

 我々は朝の五時、小さな汽船で、安芸国の広島に向って、京都を立った。我々は汽船の一方の舷側に、かなり大きな一部屋を、我々だけで占領した。この船は日本人の体格に合わせて建造されたので、船室や通路が極めて低く、我々は動き廻る度ごとに、間断なく頭をぶつけた。航海中の大部分を我我は甲板で、美しい景色に感心した。午後六時広島の沖合に着き、我々を待っていた小舟に乗りうつって、一時間ばかり漕いで行ったというよりも、舟夫たちはその殆ど全部を、浅い水に棹さして、河の入口まで舟をはこばせた。それは幅の広い、浅い河で、我々は堂々と積み上げた橋の下を、いくつかぬけて、ゆっくりと進んで行った。両岸には、多く黒塗りの土蔵をのせたしっかりした石垣が並んでいた。まだ早いのだが、あまり人影は見えず、灯も僅かで、河上の交通は無い。この外観は我々に、非常な圧迫的な、憂欝な感を与えた。大阪の商業的活動と、この陰気な場所との対照は、極端なものであった。これは人口十万人の都会である。而もその人々は、虎列刺(コレラ)が猖獗を極めているからでもあろうが、みんな死んで了ったかの如くである。

[やぶちゃん注:「我々は朝の五時、小さな汽船で、安芸国の広島に向って、京都を立った」の「京都」には底本では直下に石川氏による『〔?〕』という意味が齟齬してよく意味が解らないことを意味する割注が入る。前段の私の注を参照。但し、ここはモースがメモ類や日記などを参考にしながら、かなり自由に書いている感じがあり、その際、単純に時間と場所に齟齬が生じたものと私は考えている。

「人口十万人の都会」広島市公式サイト内の記載に明治二一(一八八八年)四月の市制町村制公布があり、翌二二(一八八九)年四月一日に広島は全国で最初の市の一つとして市制を施行したとあり、その時の面積は約二十七平方キロメートル・戸数は二万三千八百二十四戸・人口は八万三千三百八十七人であったとある。広島県公式サイトでは、この明治二三(一八九〇)年十二月三十一日時点での広島県の実質総人口に近い推定値(各県の入出寄留者の差数を各県別の入出寄留者数の比で各県に按分修正して算出し、それによって統計的補正を加えたという現住推計人口を言う「現住人口 (乙種)」数値)は百三十一万八千三百人で全国四十二位であったともある。これから考えると、モースの明治十五年段階での人口十万人というのはどう見ても大ドンブリとしか思われない。]

 

 我々は旅館を見出すのにとまどった。あすこがいいと勧められて来た旅館は、虎列刺で主人を失ったばかりなのである。で我々は飢えた胃袋と疲れた身体とを待ちあぐみながら、黒色の建物の長い行列と、背の高い凄味を帯びた橋と、いたる所を支配する死の如き沈黙とに、極度に抑圧されて、一時間ばかり舟中に坐っていた。最後に我々を泊めてくれる旅館が見つかったので、河を下り、対岸に渡って、その旅館の裏手ともいうべき所へ上陸した。荷物を持ち出し、石段を上って、長い、暗い、狭い小路を歩いて行くと、我々はいまだかつて経験しなかった程小じんまりした、最も清潔な旅館に着いた。フェノロサと有賀とは、西洋料理店があることを聞き、我々を残して彼等がよりよき食物であろうと考えるものを食いに行ったが、ドクタアと私とは、運を天にまかせて日本食を取ることにし、実に上等の晩飯にありついた。

 

 翌朝私は早くから、古い陶器店をあさりに出かけた。旅館の日本人の一人が私の探求に興味を持ち、親切にも私を、私が求める品を持っていそうな商人のすべてへ、案内してくれた。彼はまた商人達に向って、彼等が集め得るものを持って、私に見せるために旅館へ来いといった。その結果、その日一日中、よい物、悪い物、どっちつかずの物を持った商人の洪水が、我々の部屋へ流れ込んだ。前夜の、所謂西洋料理に呆れ果てたフェノロサは、広島と、これから行こうとする宮島及び岩国に対する興味をすべて失って了い、有賀と一緒に大阪と京都とへ向けて引き返した。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、『大阪で二日を過ごしたのち、小さな汽船で瀬戸内海を広島へ向う。広島でも陶器あさりをしたモースは、ここでフェノロサおよび有賀と別れ、八月十日にビゲローとともに和船で岩国に向け出発。ここから先はかつてのモースの教え子、田原栄が通訳の役目を果たした。田原はのち東京専門学校(現早稲田大学)で理科を教えた人である』とし、『モースは今回日本に来てまもなく、元岩国藩主吉川経建(きっかわつねたけ)』(「吉川経健」が正しく、「第十九章 一八八二年の日本 石人形」や前章の「第二十章 陸路京都へ 箱根峠越え」に登場する。それらの私の注を参照されたい)『の東京の邸宅に招かれたことがあった。その吉川の世話で、岩国の多田窯』(多田焼は岩国藩の藩窯として栄えた焼き物で元禄一三(一七〇〇)年に当時の藩主(年代からは第五代領主吉川広逵(ひろみち)である)が京都から陶工を招いて多田の住人に陶技を伝授させたのが始まりとされる。白土に青磁釉がかかって表面に細い罅(貫入)が入るのを特徴とする。寛政年間に途絶えてしまったが、第二次世界大戦後の昭和四七(一九七二)年に陶芸家田村雲溪の手によって多田焼の火が甦り、昭和五六(一九八一)年には美川町河山に登り窯を移転、現在が二代雲溪が窯を継承している)『の跡を尋ね、また多田の陶器そのほかを集めるために岩国を訪問したのである。モースはこのとき、その地にあったマニファクチュア的な紡績場も見学した。これは、維新後の藩士の生活を救うために吉川経建などが援助して建設したもので、ほかに製紙場と印刷工場も同じ目的でつくられたという。その紡績工場には、三〇名の男性と一〇〇人以上の女性がいたが、男性はみな元藩士で、袴(はかま)を着けて働いていたとある。女性はその子女であろうか。機械はすべて木製で、屈強な元武士二人が踏み車を踏んで機械に動力を与えていたなど、当時の模様をよく伝える』。『モースとビゲローは岩国から宮島をまわって広島に帰り、広島から汽船で神戸に戻った。モースが宿の部屋に所持金と懐中時計を残したまま遍間留守にしたが、金と時計に他人が手を触れたあともなかったという話を前に記したが、それはこの広島の宿でのことである』。『神戸に戻ったのは八月二十二日頃、その神戸で三日間過ごしたのちモースは大阪へ行き、ついで和歌山へ向った』とある。]

 

 八月十五日、ドクタア・ビゲロウと私とは、清潔な新造日本船にのって、瀬戸内海の旅に出た。旅館を退去する前に、ふと私は日本の戎克(ジャンク)なるものが、およそ世界中の船舶の中で、最も不安定なものであり、若し我々が海へ落ちるとしたら、私の懐中時計は駄目になって了うということを考えた。それに、岩国では日本人達のお客様になることになっているのだから、そう沢山金を持って行く必要も無い。そこで亭主に、私が帰る迄時計と金とをあずかってくれぬかと聞いたら、彼は快く承知した。召使いが一人、蓋の無い、洗い塗盆を持って私の部屋へ来て、それが私の所有品を入れる物だといった。で、それ等を彼女が私に向って差出している盆に入れると、彼女はその盆を畳の上に置いた儘で、出て行った。しばらくの間、私は、いう迄もないが彼女がそれを主人の所へ持って行き、主人は何等かの方法でそれを保護するものと思って、じりじりしながら待っていた。然し下女はかえって来ない。私は彼女を呼んで、何故盆をここに置いて行くのかと質ねた。彼女は、ここに置いてもいいのですと答える。私は主人を呼んだ。彼もまた、ここに置いても絶対に安全であり、彼はこれ等を入れる金庫も、他の品物も持っていないのであるといった。未だかつて、日本中の如何なる襖にも、錠も鍵も閂(かんぬき)も見たことが無い事実からして、この国民が如何に正直であるかを理解した私は、この実験を敢てしようと決心し、恐らく私の留守中に何回も客が入るであろうし、また家中の召使いでも投宿客でもが、楽々と入り得るこの部屋に、蓋の無い盆に銀貨と紙幣とで八十ドルと金時計とを入れたものを残して去った。

[やぶちゃん注:「八十ドル」は変動相場であるが、明治時代の相場の一つの指標とされる一ドル=二万円換算なら、実に百六十万円に相当する。それに金時計となれば、マワシ方によれば恐らく二百万円ぐらいにはなりそうな感じがする(!)。その場に私が居なくてよかった。私ならゼッタイ盗んでる。]

 

 我々は一週間にわたる旅をしたのであるが、帰って見ると、時計はいうに及ばず、小銭の一セントに至る迄、私がそれ等を残して行った時と全く同様に、蓋の無い盆の上にのっていた。米国や英国の旅館の戸口にはってある、印刷した警告や訓警の注意書を思い出し、それをこの経験と比較する人は、いやでも日本人が生得正直であることを認めざるを待ない。而も私はこのような実例を、沢山挙げることが出来る。日本人が我国へ来て、柄杓が泉水飲場に鎖で取りつけられ、寒暖計が壁にねじでとめられ、靴拭いが階段に固着してあり、あらゆる旅館の内部では石鹸やタオルを盗むことを阻止する方法が講じてあるのを見たら、定めし面白がることであろう。

 

 閑話休題、我々の戎克には舟夫四人に男の子一人が乗組み、別に雑用をするために旅館から小僧が一人來た。我々は運よく、以前私が大学で教えた田原氏に働いて貰うことが出来た。彼は通訳として、我我と行を共にしたのである。時々風が落ちて、舟夫達は長い、不細工な櫓(ろ)で漕いだ。世界中で最も絵画的な、葉しい水路を、日本の戎克で航行するという経験は、まさに特異なものであった。船室の屋根の上に座を占めたドクタアが、如何にもうれしそうに楽々としているのを見て、私も実によろこばしかった。マニラ葉巻の一箱を横に、積み上げた薦(こも)によりかかった彼は、その位置を終日占領して、居眠りをするか、実に実しい変化に富んだ景色に感心するかであった。宮島を通過する時、田原氏は我々にこの島に関する多くの興味ある事実を物語った。我々は島の岸に大きな神社が、廊下の下に海水をたたえているのを見た。また海中からは、巨大な鳥居が、その底部を半ば潮にかくして立っていた。これ等はすべて、はじめは海岸を去る地点の島上に建てられたのである。この効果は素晴しい。島が、砂浜を除いては海中から垂直に聳え、相当な高さの山が甚だ嶮しく屹立しているからである。人は比較的新しい時代に於て、海岸線のこの低下を引き起した、途方もない震撼が、如何なるものであったかを考えることが出来る。沿岸いたる所に、人は隆起と低下のかかる証例を見受ける。

 

 晩方になると風が出た。舟はその風に吹かれて、やがて小さな漁村に着き、我々はそこで十時に上陸した。我々の主人役は、我々を出むかえる役の人をそこに終日いさせたので、彼はいく度もお辞儀して我々に挨拶し、一人ずつの為に車夫を二人つけた人力車を用意していた。荷物のことですこし暇取った後、我々はそこから数マイルはなれた、美しい谷間にある岩国へ向った。それはまことに気持のよい夜であった。すべての物が目新しく見えた。棕櫚(しゅろ)やサバル椰子(やし)は茂り、亜熱帯性の植物は香を放ち、車夫は狂人のように走り且つ叫んだ。一日中戎克の内に閉じこめられた後なので、実に気持よかった。それは忘れられぬ経験であった。

[やぶちゃん注:「数マイル」一マイルは凡そ一・六キロメートルであるから、九・六~十キロメートル強か。

「サバル椰子」狭義には単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科タリポットヤシ亜科タリポットヤシ(サバル)連サバル亜連サバル属サバル椰子 Sabal Adans を指すが、本当に本種であるかどうかはやや疑問な気がする。]

 

 我々が岩国の村へ入ると、人々はまだ起きていた。彼等が町に並び、そして私がそれ迄に見たことのないようなやり方で、我々をジロジロ見たところから察すると、彼等は我々を待ち受けていたものらしい。最後に外国人が来てから、七年になるという。群衆から念入りに凝視されると、感情の奇妙な混合を覚える。ある点で、これには誠に面喰う。あらゆる動作が監視されつつあることを知ると共に、吾人は我我の動作のある物が、凝視者にとって如何に馬鹿げているか、或は玄妙不可思議であるかに違いないと感じる。吾人は無関心を装うが、而も凝視されることによって、威厳と重要さとが我身に加ったことを自認する。我等は特に彼等の注意心を刺戟するような真似をする。一例として、我国の現代の婦人と同様に、日本人はポケットなるものを知らぬのだが、何かさがしてポケットを裏返しにしたり、又、如何にもうるさそうな身振をして、笑わせたり、時に自分自身が、愚にもつかぬ真似をしていることに気がつくが、而もそれは、冷静で自然であることを示すべく、努力している結果なのである。

 

 吉川氏の使者は我々を公でない旅館に案内した。ここは昔は、大名家の賓客に限って招かれ、そして世話された家なのであるが、今や我々のために開かれ、吉川家の宝物の中から美しい衝立やかけ物がはこばれて、我々が占めるべき部屋にかざられた。美味な夕餐が出た後、午前一時、我々は床についた。障子の間のすき聞から覗くと、大きな一軒の小屋がけに薄暗い光が満ち、芝居が行われつつあった。その他にも小屋が数軒見え、呼売商人が叫んでいたことから、私は何等の市か祭礼かがあることを知った。それ等の後と上とは、完全な闇であった。

[やぶちゃん注:「何等の市か祭礼かがあることを知った」不詳。次段の景観から見て錦帯橋の鵜飼か?]

 

 翌朝、障子を押し開いた我々の日に接した景色は、この上もなく美しいものであった。目の前は広い河床で、その底に丸い石や砂利は完全に姿を現し、その向うには絵画的な山が聳え、右にはあの有名な、筆や言葉では形容出来ぬ、彎曲した桁構(けたがまえ)の橋がある。朝飯が終ると、吉川家に雇れている各種の役人が、敬意を表しに来たが、その一人の三須氏は、吉川氏がここに設立した原始的な木綿工場の支配人で、古い木版画に見るような顔をした、昔の忠義な家来の完全な典型である。また吉川家の遠縁にあたる吉川氏は、万般の事務を見る人だが、ニコニコした気持のいい、最も愛想のよい顔をしていた。その他名前を覚え切れぬ多数の人が来たが、皆我々の気安さに甚大の注意を払ってくれた。彼等はいう迄もなく日本服を着ていたが、それは完全なものであった。事実、この訪問期間を通じて、我々は外国風なものは一切見なかった。若し彼等が帯刀していたら、我我は封建時代に於ると同様の日本を見たことになったのである。動作、習慣、礼譲……刀を除いてはすべて封建日本であった。そしてそれは田園詩の趣を持っていた。

 

 朝我々は町をあちらこちら、骨董屋を見て歩いた。正午正餐が終ると我々は屋根舟で、河上数マイルのところにある多田の窯の旧跡を見に連れて行かれた。これは百八十年前に出来たのだが、久しく廃れている。一人の男が舳に立って竿を使うと、別の一人が前方の水の中に入り、長い繩で舟を引く。そして我我は柔かい筵によっかかって、寒天菓子や砂糖菓子や生菓子やお茶の御馳走になるのであった。我々は早瀬をのぼり、何ともいえぬ程美しい景色の中を、暗い森林の驚く可き反影が細かく揺れる穏かな水面を、静に横切った。最後に、最も絵画的な場所で上陸すると、そこにはすでに数名の人が待っていて、我々に此上もなく丁寧なお辞儀を、何度もくり返した。すこし歩くと、窯の跡に出たが、今やまったく荒廃し、竹の密生で覆れている。ここの最後の陶工の一人であった老人が、我々に多田陶器とその製作順序とに就て話をし、しばらくあたりを見た後我々は一軒の家へ行き、そこで昼飯が出された。どうも二時間に一度位ずつ、正餐か昼飯かを御馳走になっているような気がする。この場所には多田、味名、亀甲等の標本があり、そのある物は我々に贈られ、他のものは機会があって私が買った。

[やぶちゃん注:「百八十年前」モースの訪れたのが明治一五(一八八二)年、伝承では多田窯創成は元禄一三(一七〇〇)年であるから百八十七年前となり、まず合致する。

「味名」焼き物或いは窯の名らしいが場所も形状も不詳。識者の御教授を乞う。

「亀甲」亀甲焼。現在の大阪市十三(じゅうそう)の焼き物で「吉向焼」とも呼ぶ。文久元(一八六一)年頃に吉向治兵衛が大阪の十三に開いた窯で、彼の通称であった亀次に因んで「亀甲焼」といったが、大阪寺社奉行水野から「吉向」を拝領したという。陶技・意匠に優れており、近世屈指の名工に数えられて後に江戸に移って文久元(一八六一)年に没した。五代目の時に二家に分かれて現行の東大阪市日下町の十三軒と、杖方市の松月軒がそれを継承するという(個人ブログ「娘への伝言」の全国の焼物一覧のこちらの記載に拠った)。]

 

 八時頃舟へ向った。屋根の辺には派手な色の提灯がさがり、我々は岩国へ向って速く、気持よく舟を走らせた。侍者達は我々の到着を待ち受けており、すぐ我々をある建物へ案内したが、そこでドクタアと私とは風致に富む小さな茶の部屋で行われた茶の湯の会に参加し、美味な粉茶を飲んだ。この儀式的なことが終ると我々は隣室で正餐の饗応を受けた。それが済むと、今度は地方劇場の一つへ行ったが、観客は劇その物よりも我々の方を余程面白い見世物と思ったらしく、老若男女を問わず、私がそれ迄日本で経験したことが無い仕方で我々を凝視し、そして我々の周囲に集った。最後に我々は、その一日の経験で疲れ切って寝床に入った。この日の経験はすべて新奇で気持よく、もてなし振り、礼譲、やさしい動作等で、我々に古い日本の生々とした概念を与えた。

 

 翌朝我々は、またしても忙しい日を送る可く、夙く起きた。十時、三須氏が、前に書いた木綿工場へ我々を案内するためにやって来た。将軍家がくつがえされた一八六八年の革命後、吉川公は東京に居を定めた。この地方の政府はミカドの復興に伴ういろいろな事件で混乱に陥り、家臣の非常な大多数が自力で生活しなければならなくなり、この大名の以前の隷属者達のために何等かの職業を見つける必要が起った。吉川公の家来であるところの紳士が数名、仲間同志で会社を組織し、そして紡績工場を建てた。この計画は吉川公も奨励し、多額な金をこの事業に投資した。今日では広い建物いくつかに、木綿布を製造するすべての機械が据つけてある。これ等は粗末な、原始的な、木造の機械ではあるが、而も皆、我国の紡績工場にある大きな機械に似ている。

 

 百人以上の女と三十人の男とが雇れているが、男が全部袴をはき、サムライ階級に属することを示している。糸以外にこの工場は、一年に十万ヤードに近い木綿布を産出する。二人の強そうなサムライが、踏み車を辛抱強く踏んで、機械のある部分に動力を与えているのは、面白かった。また外にある部屋には、ある機械を動かす装置があり、これもまたサムライが廻転していたが、彼等は、我々が覗き込むと席を下りて丁寧にお辞儀をした。事実、建物の一つの二階にある長い部屋を歩いて行くと、事務員が一人残らず――事務員は多数いた――我々にお辞儀をした。部屋のつきあたり迄行くと、そこには床の上に大きな絨氈(じゅうたん)が敷いてあり、我々にお茶が出た。そこで事務所に雇れている事務員その他四、五人ずつやって来て、我々が膝をついた位置にいたので、膝をついてお辞儀をした。我々が工場の庭に入った時から、工場を見廻っていた最中、人々は皆三須氏と我々とにお辞儀をしたが、三須氏が職工に対して如何にも丁寧で親切であるのは興味深く思われた。彼はドクタアの強力な郭大鏡を借りて職工達に、織物は郭大するとどんなに見えるかを示した。

[やぶちゃん注:「十万ヤード」九十一・四四キロメートル相当。]

 

 事務所の入口には、事務員、職工、従者等の名前がかけてあった。彼等は互助会を組織し、病人が山来た時に救うために少額の賦課を払う。我々をこの上もなく驚かしたのは、埃や油がまるで無いことであった。どの娘も清潔に、身ぎれいに見え、誰でも皆愉快そうで、この人達よりも幸福で清潔な人達は、私は見たことがない。ラスキンがこれを見たら、第七天国にいるような気がするだろう。

[やぶちゃん注:「ラスキン」十九世紀のイギリス・ヴィクトリア時代を代表する評論家・美術評論家であったジョン・ラスキン(John Ruskin 一八一九年~一九〇〇年)のことであろう。ラスキンには建築に対する基本的な考え方を示す「建築の七灯」という定言があるが、その七は「服従の灯」で――ここでモースが皮肉たっぷりに言っているのがそれを暗示する揶揄であるかどうかは別として、それは――建物とは英国国家やその文化及び信仰を体現するものでなくてはならない――というものであった。]

 

 このような興味ある経験の後、我々は大きな部屋へ招かれた。そこには職工全部が、クエーカー教徒の集会みたいに、娘達は部屋の一方側に、男達はその反対側に席を占めていたが、驚いたことには、私に田原氏を通訳として、一場の講演をしろというのである。私は蟻を主題に選んだ。黒板は無かったが、彼等は皆非常に興味を覚えたらしく見えた。私の以前の学生の山県氏もそこにおり、六角敷(むずかし)いところへ来ると手伝ってくれた。

[やぶちゃん注:「六角敷(むずかし)い」はママ。]

M665

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 それが終ると我々は、この建物の三階の、一種の展望台になっているところへ登った。ここからは川の谷と附近の素晴しい景色が見られる。あたりに椅子を置いた食卓から、気分を爽やかにするような正餐が供され、数人のハキハキした娘が、奇麗な着物を着てお給仕をしてくれた。また三人の美少年も同様に給仕したが、その一人は、前日私につききり、持っている扇子で屢々私を扇いだ。その日すでに二度食事をしたにかかわらず、正餐は誠に美味であった。まったく日本料理が何度でも食えることは、驚くばかりである。私は田原氏から、どこか遠くの方にいる有名な料理番が特に呼ばれ、そしてこの地方で出来る最上の材料が集められたのだと聞いた。食卓と皿との外見は、実に芸術的であった。殊にある皿は、その中央から樹齢四十年という美しい矮生の松が生え、また刺身を入れた皿は、その中央に最も優雅な木の葉の細工を持つ、長さ五フィートの竹の筏(いかだ)の上にのっていた。それ等は両方とも、漆塗の台で支えてあった。図665はそれ等を非常に乱暴に写生したものである。これは我々の送別宴で、この芸術的な、そして気持のいい事柄が行われた場所は、紡績工場の三階なのである!

[やぶちゃん注:「五フィート」約一・五メートル。]

 

 綿工場の外に製紙工場と、それに関係した印刷工場とがある。ここでは書物、冊子、その他印刷に関係のある仕事がすべて行われる。

 

 四時、我々は工場を退去し、数名の紳士に伴われて宿舎に帰った。そこには人力車が待っていたので、最後のさよならを告げた。白い木綿の大きな四角い包が我々の各々に贈られた。ドクタアは、岩国の有名な刀鍛冶がつくった、木の箱に入った刀を二振(ふり)手に入れ、私は数個の古い岩国陶器を貰った。我々は世話をしてくれた二十二人の人々に、僅かな贈物をすることが出来た。旅館の勘定をしてくれというと、それは既に支払ってあるとのことで、更に海岸までの人力車も、支払済みであった。事実、我々は文字通り、これ等のもてなし振りのいい人々の掌中にあったのである。その後、我々は吉川氏が、我々をむかえる準備のために、人を一人、東京から差しつかわしたことを知った。最後に我々は、何百というお辞儀に取りまかれて出発した。そして日本民族、殊に吉川公と、政治的の変化があったにもかかわらず、吉川公に昔と同じ忠誠をつくす彼の忠義な家来達に対する、圧倒的な感謝の念と愛情とを胸に抱いて、速に主要街路を走りぬけて田舎に出た我々を、好奇心の強い沢山の顔が、微笑を以て見送るのであった。

 

 気持よく人力車を走らせながら、牧場や稲田から静かに狭霧(さぎり)が立ちのぼり、暗色の葺屋根が白い霧に影絵のように浮び、その向うには黒い山脈が聳えるという、驚く可き空気的の効果の中で、我々は我々の顕著な経験を、精神的に消化した。海岸の小村に着くと、驚く可き庭園の中にある小さな茶店へ連れて行かれ、ここで茶菓の饗応を受け、最後に戎克に乗りうつるや、いくつかの箱に入った菓子箱が贈られた。

 

 次に我々はそこから十二マイル離れた、日本で最も絵画的で且つ美しい景色の一とされている宮島の村へ寄った。風がまるで無いので、舟夫達は十二マイルにわたって櫓を押した。香わしい南方的の空気の中で、甲板に坐って八月の流星を見ながら、我々が楽しんだ特異的な経験を思い浮べることは、まことに愉快であった。ある、特に美し流星は、私がドクタアの注意をそれに引いてからも、まだあきらかに姿を見せていた。

[やぶちゃん注:「十二マイル」凡そ十九・三メートル。]

 

 真夜中、宮島に着いた我々は、古めかしく静かな町々を通って、深い渓間にある旅館へ行き、間も無く床について眠た。翌朝(八月十七日)障子をあけた我々は、気持のよい驚きを感じた。目の前が、涼しくそして爽快な、美しくも野生味を帯びた谷なのである。鹿が自然の森林から出て来て、優しい目つきで我々を見た。その一匹は、我々の部屋の前のかこいの中にまで入って来て、西瓜の皮を私の手から食った。私は、これ等の鹿は一定の場所に閉じ込められ、餌馴されているのだろうと考えたが、数時間後町を歩いていると、そこにも彼等はいて、そして私は、彼等が幽閉されているのでもなければ、公園にいる標本でもなくて、山から下りて来たのであることを知った。換言すれば、彼等は一度も不親切に取扱われたことの無い、野生の鹿なのである。

M666

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 有名な神社には、いろいろな画家の手になる絵で装飾した長い廻廊がある。絵の、ある物は非常に古く、その細部が部分的に時代による消滅をしているが、我々はそれ等を二時間もかかって調べた。古い竹根の形をした珍物や、六才の男の子が描いた興味の深い竹の絵や、目につく鹿の彫刻等もあり、その彫刻の一つには彫刻家が使用した鑿(のみ)がぶら下がっていた。神社は古さ七百年程、廊下の一つの近くに立っている石灯籠も七百年を経たものである。図666はそれである。谿谷に近い町には、家々に水を供給する、奇妙な構造の導水橋がある。我々の旅舎の近くにあるものの構造は、非常に原始的である。石を大きく四角に頼み上げたものの上に、これも大きな木造の水槽があり、その側面に開いている穴から出る水流が竹の導水管に流れ込むこと、図667に示す如くである。これらの導水管は、村の各家に達する地下の竹管に連っている。また別の谿谷では、竹の樋が水を遠距離にわたって導く。ある場所には、668に示すように、箱に入れた竹の水濾しが使用してあった。これ等各種の装置に依て、この上もなく清冽な山の清水の配給を受ける。

[やぶちゃん注:「七百年前」厳島神社の社伝によれば、同社は推古天皇元(ユリウス暦五百九十三)年に当地方の有力豪族であった佐伯鞍職(さえきのくらもと)が社殿造営の神託を受けて勅許を得、御笠浜に社殿を創建したことに始まるとされているから、この明治二三(一八九〇)年からだと千二百九十七年前、「七百年前」なら(一一九〇)年、文治六・建久元年となり、っこは旧主平家滅亡後も源氏を始めとして時の権力者の崇敬を受けているから、境内内建築物としては別におかしな感じはしない。]

M667

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M668

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 門を自動的に閉じる簡単な装置を図669で示す。上方の横木から錘(おもり)が下っていて、その重さによって門は常に閉じてあるが、人が入る時には、錘が数回、門にぶつかって音を立て、かくて門鈴の役もつとめる。村の主要街を自由にぶらつき廻る鹿が、ともすれば庭園内に入り込みやすいので、この装置をして彼等の侵入を防止する。

M669

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 宮島は非常に神聖な場所とされているので、その落つきと平穏さとは、筆舌につくされぬ程である。この島にあっては、動物を殺すことが許されなかった。数年前までは、人間とてもここでは死ぬことが出来なかったそうである。以前は、人が死期に近づくと、可哀想にも小舟にのせられて、墓地のある本土へと連れて行かれた。若し、山を登っている人が偶然、血を流す程の怪我をしたとすると、血のこぼれた場所の地面は、かきとって、海中に投げ込まねばならなかった。これは召使いや木彫工や、店番や、その他どこにでもいるような村民が構成する村である。如何なる神秘に支配されて、彼等は行儀よく暮すのか? 何故子供達は、常にかくも善良なのか? 彼等は女性化されているのか? 否、彼等は兵士としては、世界に誇る可きものになる。

 

 私は小さな舟にのって、広島へ帰る可く本土へ渡った。ドクタアは、もう一晩宮島で泊ることにした。沿岸を航行する人は、石で出来た巨大な壁が数マイルにわたって連り、海上からは防波堤のように見えるものがあるのに気がつく。広島への帰途、その上を人力車で走るにいたって、我々は初めてこれ等の構造物が持つ遠大な性質、換言すれば意味が判った。百年も前に建てられたこれ等の壁は、海底を、農業上の目的に開墾するためのものなので、かくて回収した土地の広さは、驚く程である。沿岸は截(き)り立っていて山が高く、山の尾根が海から岬角(みさき)のようにつき出て、その間々に広い入江をなしている。壁はこれ等の岬角の先端から先端へと築かれ、かこい込んだ地域には土を入れて、今や豊饒な耕作地となっている。壁の上には広い路があり、そこを人力車で行くことは愉快であった。八時に広島へ着いた私は、いう迄もないが、先ず時計と金とを求めて私の部屋へ行ったが、それ等は前にもいったように、そのままでそこにあった。

 

 風邪を引いた上に、腹具合まで悪くなったので、翌日は終日床匠についていたが、骨董屋達が古い陶器を見せにやって来て、私は私の蒐集を大いに増大させた。通弁なしでも結構やって行ける。私は、日本中一人で旅行することも、躊躇しない気でいる。翌日ドクタアが到着して、群り来る商人相手に一日を送った。出かけるばかりの時になって我々は、商人達が大きな舟を仕立て、五マイル向うの汽船まで我我を送り度いといっていることを知った。舟にのって見て、これはとばかり驚いた。それは見事な遊山船で、芸者、立派な昼飯、その他この航行を愉快にするものがすべて積み込んである。このようにして彼等は、我々に対する感謝の念を示そうとしたのである。別の舟には我々の数名の日本人の友人が乗って送りに来たが、その中には数年前、私が大阪に近いドルメンを調べた時知り合いになった天草氏もいた。出発するすぐ前に、田原氏の知人が敬意を表しに来たので、私は私が提供し得る唯一の品なるブランデーを、すこし飲みませんかとすすめた。すると彼は、普通の分量よりも遙かに沢山注いだので、私は彼に、それが非常に強く、そんなに飲んだら参って了うと警告したが、彼は「ダイ ジョーブ、ヨロシイ」といった。彼が如何に早くこの酒の影響を受けたかは、興味も深く、また滑稽であった。我々が乗船した時には、彼はすでに怪奇的ともいうべき程度に酔っぱらって了い、最後に、河岸に上陸させねばならぬ程泥酔したが、そこで彼は、我々が見えなくなる迄、笑ったり、歌ったり鳴吐(どな)ったりした。

[やぶちゃん注:「五マイル」凡そ八キロメートル。

「天草氏」第十七章 南方の旅 八尾の高安古墳を調査するに出る『大阪専門学校の』『天草両教諭』である。]

 

 我々は間もなく汽船に着き、気持のいい主人役の人々に別れを告げてから、明かに最も矮小な日本人の為につくられた、小さくて低い代物に乗りうつった。その結果、我々はすこしでも動き廻れば背中がつかえるか、頭をぶつけるかで、ドクタアはこの背骨折りの経験中、絶えず第三の誡命を破った。

[やぶちゃん注:「第三の誡命」底本では直下に石川氏による『〔「汝の神エホバの名を、妄(みだり)に口にあぐべからず」〕』という割注が入る。原文は“and the Doctor repeatedly broke the third commandment during his back-breaking experiences.”。この訳文と原文からお分かり戴けると思うが、日本人が「伊弉諾(いさなき)」とか「いさなみ」とか「やまとたける」、或いは「釈迦」と「阿弥陀」平気で口にして何とも思わないが、これは世界宗教的に見れば極めて異様奇体なとんでもないことなのであって、通常のキリスト教徒は濫りに神の名である「ヤハゥエ」「ヤーベ」「エホバ」という語を発音したり、書いたりはしないのである。トンデモ本の王者にして明らかに智慧の足りない発言しか出来ないボロクソ超常研究家飛鳥昭雄の著作に、古くから人気のある似非科学の、太陽を挟んで地球の真反対位置に(だから絶対見えないし観測出来ないというのだが)地球と全く同様の惑星が存在し、その惑星、公転周期や軌道は地球と位置が違う以外は地球と全く同じであってヒトと同等或いはそれ以上の知性や科学力を有して、同様の生物群が棲息している、しかも宇宙を致命的に汚損し続けている地球を監視している、なんどという「反地球」をぶち上げ、その惑星は以前から世界中のその真相を知る人々によって太陽系第十二番惑星反地球「ヤハウェ」と呼ばれて広く知られている、とこの狂人は一九七〇年代以降よりずっと主張し続けているのであるが、この阿呆な本の題名を当時中学生であった私は見た瞬間、「こんな名前、欧米のキリスト教徒がつけるはずがないよ」と幼い乍らに鼻でせせら笑ったのを鮮やかに思い出すのである。]

 

 我々は夜の十一時に出帆し、その翌日と翌夜、時時止りながら航行を続け、朝神戸に着いた。この航海ぐらい惨めなものは無かった。たいてい雨が降り続き、我々は日本人の一家族と共に小さな室に閉じこめられていたが、隣の部屋には日本人が十八人入っていた。彼等は皆礼儀正しく、静かだった。彼等が他の国の住民であったなら、我々はもっと苦しんだ――これ以上の苦痛があり得るものとすれば――ことだろうと思う。寝台も椰寝床も無いので、我々は床にねむり、日本食は言語同断であり、私は広島に於る病気から回復していなかった。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、『神戸に戻ったのは八月二十二日頃、その神戸で三日間過ごしたのちモースは大阪へ行き、ついで和歌山へ向った』とある。明治一五(一八九〇)年八月二十二日は金曜日である。この文面から察するに、モースが最も恐れていたのは、コレラ(当時の死亡率は相対的にはかなり高いものと認識されていた)への罹患で、そうした意味でも過度にナーバスになっていたのではあるまいかと察せられる。]

 

 神戸に着くと、我々は何かを食う為に、英国流の旅館へかけつけた。二週間以上も、我々は日本食ばかりで生きていたのである。その多くは最も上等であったが、それが如何によくっても、朝飯は我々を懐郷病(ホームシック)にする。で我々は、殆ど狂気に近い喜悦を以て、英国流の食事をたのしんだ。

 

 ここ一週間、私は物を書くことと、食うことと以外に、大した仕事はしなかった。

 

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