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2015/09/09

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 佐助谷

    ●佐助谷

佐助〔助もと介に作る〕谷は。源氏山の西南に在り。谷内甚た濶大(くわつだい)にして。小谷多し。字御所入と云所に。平經時の舊跡あり。光明寺記主傳に。平經時佐介谷に隱居し。專修念佛して卒(そつ)すと見ゆ。其の奧に越後守時盛の舊跡あり。東鑑に寬元四年六月廿七日入道大納言家〔賴家〕越後守時盛が佐介の第に渡御し給ふとあり。證とすべし。又寺の内と云ふ所あり。國淸寺の跡といふ。俗に光明寺畠といふ所あり。こゝは蓮華寺〔光明寺もとこゝに在りて蓮華寺といふ〕の跡なり。藥師堂の跡もありといひ傳ふ。

隱れ里は谷の奧右手の路(みち)窮(きはま)り所に在る大岩窟(だいがんんくつ)なり。中に錢洗水あり。福神(ふくじん)錢(ぜに)を洗ひ給ふとの俗説を傳ふ。鎌倉五水の一たり。

佐助稻荷社左の方谷の最奧に在り。鳥居を過ること六所。阪路の上に鎭祀(ちんし)す。每年二月の初午(はつうま)の日には。鎌倉中の男女こゝに參詣する者甚た多し。

[やぶちゃん注:「御所入」「新編鎌倉志卷之五」には以下のようにある。私の注と一緒に引く。

   *

御所入(ごしよのいり) 此の谷(やつ)[やぶちゃん注:佐介谷を指す。]の内にあり。古老の云、平の經時(つねとき)の住せし所也と。按ずるに、【光明寺記主の傳】に、平の經時、佐介が谷に隠居し、專修念佛して卒(そつ)すとあり。經時の墓、佐々目の山の麓(ふもと)にあり。此の所より遠からず。

[やぶちゃん注:付図を見る限りでは、現在の銭洗弁天への登り道の下方南の平地であるが、「御所入」とは如何にも奇妙な地名である。通常「御所」は大臣・将軍、親王以上の皇族の居所や本人を指すが、そのような人物が当地に居を構えた記録はない。「鎌倉攬勝考卷之一」の「地名」にある「御所入」の項では、先の「佐介谷」に引用されている北条時盛の屋敷をこことし、寛元四年に、ここに前将軍頼経が入御したことと、更にやはり同所「入道勝圓」の屋敷に文永三年七月、宗尊親王が渡御されたという「吾妻鏡」の記事を引き合いに出して「御所入」を説明しているのだが、どうも説得力に欠くように思われる。これでは市内には無数の「御所入」が出現することになろう。東京堂出版の「鎌倉事典」の「御所入」では、『常盤にある「殿ノ入」「御所之内」などという地名は、執権北条政村邸、浄明寺の「御所ノ内」は足利氏に由来するものであろう』とし、『鎌倉には、ほかにも御所谷などの地名が残されていて、いずれもが有力武将の屋敷跡とされている』と記すのだが、やはり私には目から鱗とはいかない。もっと説得力のある見解を求む。

「佐々目の山の麓」とは、甘縄神明社の東の尾根を隔てた佐々目ヶ谷の奥の峰を言うか。そこならば確かにこの御所入からは一キロもなく、遠くない。また、そこに北条経時の墳墓があったことは、「鎌倉攬勝考卷之九」の「北條武藏守平經時墳墓」の記載に明らかである。以下に引用する。

 

經時は、兼て別業を佐々目谷へ構へ、寛元四年四月十九日、病に依て職を辭し、執權を弟時賴に讓り、落髮し、同年閏四月朔日に卒す。佐々目山の麓に葬り、後此所に梵字を營み、長樂寺と號すとあり。今は其墳墓しれず。

 

第四代執権北条経時の墓は現在、彼が開基である海岸に近い光明寺のやや高台にある。ところが「新編鎌倉志卷之七」の光明寺の項には経時墓の記載がない。これは一体、何を意味するのであろう。按ずるに、この卷之五の記載によって、「新編鎌倉志」の時代には「攬勝考」の言う長楽寺の跡さえ既になかったが、辛うじて経時の墓はそこにあったことが分かる(『經時の墓、佐々目の山の麓にあり。此の所より遠からず』)。しかし、「攬勝考」の頃にはその墳墓が消失していた(『今は其墳墓しれず』)。しかしそれ以前の何時の頃にか、彼の墓石の一部はこの佐々目ヶ谷から光明寺に移されていた。ところが光明寺開山塔と一緒にそれを置いたがために、「攬勝考」の頃には、少なくとも一般には、それが経時の墓との認識がなされていなかったのではなかろうか。識者の御教授を乞うものである。]

   *

「平經時」北条経時(元仁元(一二二四)年~寛元四年閏四月一日(一二四六年五月十七日))は第四代執権(在任は仁治三年六月十五日(一二四二年七月十四日)~寛元四年三月二十三日(一二四六年四月十日)で第三代執権泰時の嫡男北条時氏の長男。前の引用にも記したが、ウィキの「北条経時」によれば、第五代執権となる北条時頼の同母兄で、『父の時氏』も『早世し、その他の北条泰時の子である北条時実も暗殺されていたため』(家人高橋次郎によって殺害されたのであるが、理由は極めてプライベートなもので殺された時実側にも責任があったものと推定されている)、早くから『嫡孫の経時が泰時の後継者と目されていた』。但し、若死にしていることからも分かるように、後年は執権の激務に加えて病気が重なり、四月十九日に『出家して安楽と号し』て直ぐ、凡そ十日後に死去している。「吾妻鏡」を見る限り、『佐介谷に隱居し。專修念佛して卒す』というような穏やかな死とは凡そ読めず、ここには「光明寺記主傳」自体の作為が窺われる。ウィキを読まれると分かるように、彼から時頼への執権交替には何やらん極めて胡散臭いものが感じられることと無縁ではあるまいと私は思っている。

「光明寺記主傳」光明寺開山の良忠の伝記と思われるが、詳細書誌は不詳。

「越後守時盛」北条時盛(建久八(一一九七)年~建治三(一二七七)年)。連署北条時房嫡男。佐介流北条氏祖で佐介時盛とも称した。異母弟朝直の大仏流との政争に敗れて、人生の後半は幕政からも離れ、不遇であったと推定される。

「寬元四年」一二四六年。

「寺の内と云ふ所あり。國淸寺の跡といふ」「新編鎌倉志卷之五」には以下のようにある。

   *

國淸寺(こくしやうじ)の跡 此内に寺(てら)の内(うち)と云ふ処あり。國淸寺の跡と云ふ。「鎌倉大草子」幷に「上杉禪秀記」に、上杉憲顯(うへすぎのりあき)の建立也とあり。今按ずるに、「扶桑禪林諸祖傳」に、松嶺秀和尚の傳に、上杉大全居士長基(うへすぎだいぜんこじちやうき)、豆州の國淸寺を遷(うつ)して、湘江の佐谷(さこく)に鼎建(ていけん)すとあり。大全(だいぜん)居士は、安房の守憲定(のりさだ)なり。長基(ちやうき)は其の法名なり。明月院道合憲方(だうかふのりかた)が子にて、憲基が父なり。憲顯がためには孫なり。【空華集】に豆州の國淸寺は、昔し律院にて、高雄(たかを)の文覺上人の舊宅也。上杉憲顯、律を革(あらた)めて禪とし、佛國禪師の弟子無礙謙公を開山祖とすとあり。【鎌倉九代記】に、憲顯を、伊豆の國淸寺に葬る。法名は國淸寺殿桂山道昌(けいざんだうしやう)と云ふ。然るときは、憲顯は伊豆の國淸寺を再興せられ、其の孫憲定が時に、伊豆の國淸寺を此所に遷したるを。【大草子】【禪秀記】には、憲顯が建立とかきたり。又滿隆、禪秀が亂の時、持氏は憲基の亭(てい)に居せられしを、岩松(いはまつ)治部大夫・澁川(しぶかは)左馬の介が手の兵(つはもの)、國淸寺に火をかけゝれば、餘煙佐介(さすけ)の亭に、もへかゝるとあり。其の後は絶へたり。本尊は、今伊豆の國淸寺に在りと云ふ。

   *

この「國淸寺の跡」は「鎌倉廃寺事典」附録の「鎌倉廃寺地図」では、佐助ヶ谷の前の法住寺の北の尾根を越えた位置に指示されてある。伊豆の国清寺は弘安二(一三六二)年、鎌倉公方足利基氏の執事を務めた畠山国清が創建したと言われ、後に慶安元(一三六八)年、関東管領上杉憲顯が亡父憲房の菩提のために中興したと伝えられている。「鎌倉廃寺事典」によれば、この佐介ヶ谷の国清寺も上杉憲顯が亡父憲房の菩提のために建立したものと考えられ、両寺院には何らかの関係があることは推測されるとあり、ここに記されるような同一寺院の移築再建といった解釈はしていない。なお、現在の伊豆の国清寺は公式には本尊を観音菩薩としながら、釈迦堂と称する仏殿があってそこに釈迦如来像があり、これを本尊とするネット上の記載もある。もしかすると、これが「本尊は、今伊豆の國淸寺に在りと云ふ」というここの記載と関連するものだろうか。識者の御教授を乞うものである。

「光明寺畠といふ所あり。こゝは蓮華寺〔光明寺もとこゝに在りて蓮華寺といふ〕の跡なり」やはり「新編鎌倉志卷之五」には以下のようにある。

   *

蓮花寺(れんげじ)の跡 今、俗に光明寺畠(くはうみやうじはたけ)と云ふ。光明寺、本(もと)此の地にあつて、蓮華寺と號す。後に光明寺と改む。「鎌倉大(をほ)日記」に、建長三年、經時の爲に、佐介に於て蓮華寺建立、住持良忠とあり。良忠、此の谷(やつ)に居住ありしゆへに、佐介の上人と云ふなり。光明寺の條下及び「記主上人の傳」に詳か也。

   *

以上の場所は現行、現在の鎌倉市佐助二丁目(トンネルを越えた法務局前の四つ角の西南地域)に比定されている。「鎌倉佐介浄刹光明寺開山御伝」には、『然阿良忠が仁治元年(一二四〇)二月、鎌倉に入り、住吉谷悟真寺に住して浄土宗を弘めていた。時の執権経時は良忠を尊崇し、佐介谷に蓮華寺を建立して開山とし、ついで光明寺とその名を改め、前の名蓮華の二字を残して方丈を蓮華院となづけた。寛元元年(一二四三)五月三日、吉日を卜して良忠を導師として供養した』と記されてあり(「鎌倉廃寺事典」より引用)、更に「風土記稿」によれば、この時に現在の材木座の位置に移転したように記しているが、この記載には多くの疑問がある、と記す。推測としては佐介の現在地で、悟真寺→蓮花寺→光明寺(その時、方丈を蓮華院とし、現在位置に移転)という過程が浮かび上がるのだが、「鎌倉廃寺事典」の蓮花寺の項では、この「蓮花寺」とは違う同名異寺が存在した可能性をも示唆している。

「藥師堂の跡」同じく「新編鎌倉志卷之五」には以下のようにある。

   *

藥師堂の跡 里老の云、此の谷(やつ)の入口(いりくち)の東南に、昔は藥師堂有りと云ひ傳ふ。然れども今、其の所分明ならず。按ずるに「東鑑」に、正嘉二年正月十七日、秋田の城の介泰盛が甘繩(あまなは)の宅より火出てゝ、南風頻りに吹て、藥師堂の後(うしろ)の山を越へて、壽福寺等燒失すとあり。泰盛は盛長が孫なり。盛長が屋敷、甘繩明神の東にあれば、藥師堂其の北にあたれり。「鎌倉大草子」に、禪秀亂の時、持氏は憲基の亭(てい)に取り籠(こも)られしが、藥師堂表(をもて)へは、結城(ゆうき)彈正の少弼、二百騎にて向へらるとあり。持氏の時まで有りつる歟。

   *

この「藥師堂」は「鎌倉廃寺事典」でも位置が特定されておらず、また本文の記載の殆どが、この「新編鎌倉志」の記述に依拠している。但し、この「盛長が屋敷、甘繩明神の東にあれば、藥師堂其の北にあたれり」という記述からすると、現在同定されている長楽寺若しくはその東の万寿寺(いずれも廃寺)の何れかとほぼ同位置にあったものと考えられる。

「隱れ里」「新編鎌倉志卷之五」からそのまま私の注も併せて示す。

   *

隱里(かくれざと) 稻荷の近所にある。大巖窟を云ふなり。

[やぶちゃん注:「ある」は影印でもママ。現在の銭洗弁財天宇賀福神社の由緒によれば、頼朝が巳年であった元暦二・文治元(一一八五)年の巳の月(旧暦四月)巳の日に、ここの宇賀福神が翁となって立ち、西北の仙境に湧く福水で神仏を供養すれば天下は泰平に治まるという夢告に従い、ここに霊水を発見、洞を穿って社を建立し宇賀神を祀ったと伝承されている。次項に記される「錢洗水」の信仰は、下ること七十二年後の同じ巳年であった正嘉元(一二五七)年の仲秋に、時の執権北条時頼が、頼朝の遺徳に加えて、五行で「金」の「辛巳かのとみ」(=金富)「成る」「かね(=金)の日」なればこそ民草に福徳が授けられる日であるとして参詣を勧めたことに始まるとされ、同時に、祀られた弁財天を信仰し、この霊水で洗い清めるならば、元来が不浄である金銭をも清浄なる福銭と化すという習慣も生まれたようである。時期的に鎌倉新仏教である日蓮の法華経による現世利益思想とシンクロナイズしているのが面白い。]

   *

次いで『錢洗水(ぜにあらひみづ) 隠里の巖窟の中にあり。福神錢を洗ふと云ふ。鎌倉五水の一つ也』と続く。既にお分かりのように現在の銭洗弁財天である。

「佐助稻荷社」最後も「新編鎌倉志卷之五」から引く。単に「稻荷社」と項立てする。

   *

稻荷社 此の谷の内にあり。山林茂りたる地なり。扇が谷華光院の持分(もちぶん)なり。毎年二月の初午(はつむま)の日、鎌倉中の男女參詣多し。雪の下等覺院に、尊氏の證文一通あり。其の文に、凶徒對治祈禱の事、殊可被致精誠之状如件(殊に精誠を致さらるべきの状、件のごとし)、延文四年十二月十一日、佐介が谷の稻荷社別當三位僧都の御房とあり。尊氏の判あり。

   *

現在の銭洗弁財天に付随して見える佐介稲荷である。「鎌倉攬勝考卷之三」でも『佐介谷稻荷社』とあり、現在のように「佐介稲荷」と呼称されるようになったのは比較的新しいか。但し、本社はこの地の地名の由来の淵源に関わるものともされる。伊豆蛭ヶ小島に配流の身となっていた頼朝の夢枕にここの稲荷神が翁となって立ち、天下統一を予兆して平家討伐を慫慂、蜂起して開幕に至った。建久年間(一一九〇年~一一九八年)、頼朝は夢告成就を以て本社を見出し、畠山重忠に命じ、ここを霊地と定め、社殿を造営させたとする。かつて頼朝が兵衛の佐であったことから、一般に彼を佐殿すけどのと呼称するが、その「佐」殿を「助」けた神ということで「佐助稲荷」と言われたとするものである。しかし、「新編鎌倉志」の先行する箇所にも記載がある通り、古くは「佐介」という表記ばかりが残っている。神聖なる故事に於いて表記を変えることはしばしば見られることであるが、ならばこそ「新編鎌倉志」の編者がこの超弩級に大切な地名由来譚を見落とすはずがないと私は思う。「鎌倉攬勝考」でも語られないということは、実は本社の頼朝由来の縁起自身の伝承が決して古いものではないということを意味しているように感じられるのであるが、如何であろう?]

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