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2015/09/21

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十章 美保の關にて (二) 附 折口信夫「鷄鳴と神樂と」(附注)

        二

 

 雄雞が美保の關の大明神にかくも嫉視され、土地から放逐されてゐる譯には諸説あるが、その要領はかうである。古事記にある通り、大國主命の子、事代主命は美保の岬に行つて鳥を追ひ魚を漁つてゐた。また他の理由もあつて夜間外出をしたが、夜の明けぬ内に家ヘ歸らねばならなかつた。信賴した召使の雄雞が、命の歸るべき時刻がくると、元氣よく鳴く任務を帶びてゐた。然るにある朝、雞がその務を忘れたので、命は慌てて舟に歸り、橈を取落し、兩手で水を搔いて、獰惡な魚に手を嚙まれた。

 美保の關へ行く途中に當る中海に沿ふた安來町の人民は、この事代主命を頗る崇敬してゐるが、安來には澤山雞も居れば卵もある。また安來の卵は大いさといひ質といひ無類である。それで安來の町民は、美保の關の人々のやり方よりも、卵を食べた方が一層よく明神に仕へ奉る所以であると主張してゐる。それは人が雞を一羽食べるか、卵を一個嚥めば、事代主命の敵を一つ滅すことになるから。

 

[やぶちゃん注:「古事記にある通り、大國主命の子、事代主命は美保の岬に行つて鳥を追ひ魚を漁つてゐた。また他の理由もあつて夜間外出をしたが、夜の明けぬ内に家ヘ歸らねばならなかつた。信賴した召使の雄雞が、命の歸るべき時刻がくると、元氣よく鳴く任務を帶びてゐた。然るにある朝、雞がその務を忘れたので、命は慌てて舟に舟に歸り、橈を取落し、兩手で水を搔いて、獰惡な魚に手を嚙まれた」私が前の章で注した伝承とは細部がやや異なるが、同話である。まず、注意しなければならないのは、「古事記にある通り、大國主命の子、事代主命は美保の岬に行つて鳥を追ひ魚を漁つてゐた。また他の理由もあつて夜間外出をした」の部分、「古事記にある通り」なのは「大國主命の子、事代主命は美保の岬に行つて鳥を追ひ魚を漁つてゐた」の箇所だけで、以下の「また他の理由もあつて夜間外出をした」以下の続く鶏忌避伝承部分は「古事記」には載っていない(少なくとも私の知る限りでは載っていないと思う)という点である。これは実はハーンの原文でははっきりとそこが区別されているのが判るのであるが、落合氏の訳では恐らくは多くの人が「古事記」にこの伝承が総て載っているものと勘違いしてしまうように思われる(落合氏は「また他の理由もあつて」でそれが伝わると考えたのかも知れないが、それはひどく誤った思い込みであるとしか言えないと私は思う)。則ち、ハーンはこの事代主命が美保の岬に行って「鳥を追ひ魚を漁」(すなど)りしているという箇所を“'to pursue birds and catch fish.'”と、アポストロフィーで囲っているからである。これは実は以前に注した、まさに「古事記」の「国譲り」神話の部分で、葦原の中つ国を譲れと天孫の御使いに迫られた際、大国主神が『僕(あ)はえ白(まう)さじ。我が子八重事代主(やへことしろのぬし)の神これ白すべし。然れども鳥の遊び漁(すなど)りして、御大(みほ)の前(さき)に往(ゆ)きて、いまだ還(かへ)り來ず』(武田祐吉先生の訓読を参考にしつつ、読み易く書き換えた)――私はそれにお答え申すことが出来ない。……それには、我らの子たる八重事代主の神(=事代主神)がお答え申すであろう。……しかし今は、鳥打ちや海釣りをしに、美保の岬へ行ったままで、未だ帰って来ておらぬ。――という父大国主神の言葉の『鳥の遊び漁(すなど)りして』の箇所を引いたに過ぎないのである。「また他の理由もあつて夜間外出をしたが、夜の明けぬ内に家ヘ歸らねばならなかつた」の箇所は妻問婚という特異な本邦の結婚形態を説明しないといけなくなり、ハーンは単にそれを注などで書くのも面倒と思ったものであろう。「然るにある朝、雞がその務を忘れたので」こちらの伝承では鳴かずに曙に至ったことに気づいて(暁では分からない)「命は慌てて舟に歸」ろうとしたという別なシチュエーションである。この方が大方の人々の映像上はくっきりと見えて面白いとは思う。私好みの映像では寧ろ、誤って早く鳴いてしまったという闇夜に鮫に喰いつかれるというヴァージョンの方が好きなホラー・イメージではある。しかし乍ら、神話学上の類型の伝承や、日輪(=天照大神)に照らされる(=見られる)こと、妻問婚で夜が明けて帰るというはあってはならない禁忌性を考えるならば、この鳴き忘れたの方が古形のようにも思われる。「橈を取落し」(「橈」は「かい」で「櫂」に同じい)この方が慌てて持ってくるのを忘れるというボケより遙かにマシである。「兩手で水を搔いて」巨体の神々ならばこれもありだろうが、私は何故か、足のイメージの方がしっくりくる(手で書くのは如何にも汗だくの必死で形相も変わる。神らしくないからかも知れぬ)。「獰惡な魚に手を嚙まれた」原文は“the wicked fishesで、“wicked”は形容詞で、「道徳的に邪悪な」「不道徳な」「不正な」「悪意のある」「意地悪な」の意、しかも「魚」は複数形である。何故、ハーンはここで前の第九章「潜戸(くけど)」の“Sec. 4”で効果的に用いた、“SAME”或いは、そこで欧米読者向けに更に附したところの“Sharks”を用いなかったのだろう? 私はその効果は絶大だと思うのだが、すこぶる不審である。もしかするとハーンは欧米の読者に鮫と示すと、食いちぎられて手や足がなくなる、ということは片手或いは両手(ハーンの解説ではその可能性の方が実は高い。後述)が欠損しているのか? と思われるのを嫌ったのか? しかし、何処の神話にあっても神は容易に身体を元通りに蘇生させることが多いんだがなあ? それからもう一つ、何故、この原文の鮫、複数形なんだろう? 複数形である必要は櫂代わりにしている両手を喰われたと読むしかない。――鮫に食いちぎられて両腕のない恵比須……なかなか凄いぞ!……諸星大二郎の稗田礼二郎に調べさせたいもんだ。或いは、これは因幡の白兎の複数の鰐(鮫)のイメージの影響だろうか? 徒然なるままに妄想(もうぞう)すると、これ、実にとめどなく、妖しく楽しく「狂ほしく」なってくるではないか……

 閑話休題。因みに折口信夫(おりくちしのぶ/「おりくち」と濁らないのが正しい)は「鷄鳴と神樂と」(『やまと新聞』大正九(一九二〇)年一月発行)でこの伝承を解説している。それほど長くないので以下に引用する。底本は昭和五七(一九八二)年中公文庫版「折口信夫全集第二巻 古代研究(民俗學篇1)」を用いた。活字の大小があるが一部を除き、同ポイントで示したなお、改行後の行頭一字空けがないのは折口(大学二年の日本文学演習(中古)で発表をした際に「折口が」と呼び捨てにしたら教授から、その場で『「先生」をつけなさい!』と叱られた。私の後の連中が皆、「折口先生が」とわざとアクセントを「先生」に置いて発表し、教授が苦笑いをしていたのを思い出した。さればここは敢えて総て「折口」で通す)癖である。拗音表記とそうでない表記が混在しているのはママである。踊り字「〱」「〲」は正字化した。場所によっては改行が分からなくなる虞れがあるので各段落の後は一行空けた。必要に応じて当該段落の後に禁欲的に注を挟んだ。

   ※   ※   ※

 

 鷄鳴と神樂と

 

 には鳥は かけろと鳴きぬなり。起きよ。おきよ。我がひと夜妻。人もこそ見れ(催馬樂)

 

此歌などが、わが國の戀歌に出て來る鷄の扱ひ方の、岐れ目であるらしい氣がする。平安朝以後の鷄に關聯したものは、どれもこれも「きつにはめなむ」(伊勢物語)と憎んだ東女を、權輿に仰いで來た樣である。其と言ふのが、刺戟のない宮廷生活に馴れた男女の官吏たちは、戀愛以外には、すべての感覺の窓を閉した樣な暮しをつゞけて居た。歌の主題と言へば、彼等の經驗を超越して居る事を條件とする歌枕に、僅かに驚異の心を寄せるばかりだつたからである。貧しい彼等の經驗には、一番鷄・二番鷄に、熟睡を破られる田舍人さへも、珍らしく思ひなされたのである。待つ宵の小侍從・ものかはの藏人の贈答なども、單に空想と空想との鉢合せに過ぎないのであつた。世は徳川になり、明治・大正になつても、のどかな歌びとたちは、尚「曉別戀」といへば、鷄を引きあひに出すことは忘れないで居る。

[やぶちゃん注:「きつにはめなむ」「伊勢物語」第十四段に出る。彷徨して陸奥(みちのく)の国へ赴いた京の男に恋をした田舎娘が、

 なかなかに戀に死なずは桑子(くはこ)にぞ

    なるべかりける玉の緒(を)ばかり

(恋焦がれて死ぬぐらいなら束の間でも仲の好い蚕(かいこ)になればよかったわ!)

と歌を贈ってきたので抱いてやった。その後朝(きぬぎぬ)の別れの後、また、

 夜も明けばきつにはめなでくたかけの

    まだきに鳴きてせなをやりつる

(鳴いてあの人を帰してしまった、あん畜生! 夜が明けたら、早くも鳴きくさった、あの腐った鶏(とり)めを水桶(みずおけ)ん中にぶち嵌めて溺れ殺してやる!)

と詠んだ。しかし男は京に帰るとて、

 栗原のあねはの松の人ならば

    都のつとにいざといはましを

(栗原のあねはの松〔現在の宮城県栗原市金成姉歯(きんなりあねは/「金成」は旧町名)にあった著名な美松で歌枕〕が人であったなら――あなたがそれなりに美しい人だったなら、都の土産にと、いざ伴わん、と言ったであろうが……)

と皮肉に詠んだつもりが、女はえらく喜んで「あの人はあたいを思うていて呉れようじゃ!」と言った、という以下にも田舎娘を馬鹿にしたいやな一章である。「きつ」は丸太を一部刳り抜いた水を入れるための桶の意の東国方言であり、石田穣二訳注「伊勢物語」(和歌表記はこれを一部、参考にした)の補注によれば「はめなで」は『「嵌めなむ」の意の方言と解したい』(同一一六頁)とある。

「權輿」「けんよ」と読む。(ニワトリを憎むようになったその)始まりの意。権は「秤(はかり)の錘(おもり)」、輿は「車の底の部分」の意で、孰れもそれらを作製する際に最初に作る部分であるところから、「物事の始まり」「事の起こり」「発端」「濫觴」の意となった。

「待つ宵の小侍從・ものかはの藏人の贈答」「平家物語」「卷第五」の「月見」に基づく謂いであろう。「待つ宵の小侍從」(まつよいのこじじゅう 生没年未詳)は平安末期の女流歌人。紀光清の娘で二条天皇に出仕して崩御後は太皇太后多子(ますこ)に、その後は高倉天皇にも仕えた。「物かはの藏人」(ものかはのくろうど)は藤原経尹(つねただ 生没年未詳)のこと。同時期の歌人。上西門院(じょうさいもんいん)の蔵人で徳大寺実定(さねさだ)が福原から大宮御所に妹藤原多子(たし)を慰問したとき随従、翌朝、別れをおしむ小侍従(こじじゅう)に実定の命(めい)によって和歌を贈った、それを指す(因みにこれによって彼は「ものかはの藏人」と呼ばれるようになった)。面倒なのであるが、まず「待つ宵の小侍從」という渾名とその濫觴の和歌から説明が必要なので、簡単に「平家」の同箇所を荒っぽくダイジェストすると、

   *

藤原多子(たこ)の御所に仕えていた小侍従が、御前にて「待つ宵と、帰る朝(あした)では、孰れの哀れさがまさっているであろう?」と質され、

 待つ宵の更け行く鐘の聲聞けば

    歸る朝(あした)の鳥はものかは

(恋しい人を待つ宵の更け行く鐘の音を聞くと、帰る朝(あした)の鳥など、これ、ものの数では御座いませぬ)

と答えたことから、彼女は「待つ宵の小侍從」と呼ばれるようになった。

 さて、

贈答の和歌のみ引く。まず、蔵人藤原経尹の贈った歌、

 物かはと君が云ひけむ鳥の音(ね)の

    今朝しもなどか悲しかるらむ

(「ものかは」と、かつてあなたが詠まれた鳥の音(ね)は、今朝はどうしてこんなにも哀しげに聴こえのでしょう?)

 待宵の小侍従は、即座に、

 待たばこそ更(ふ)け行く鐘もつらからめ

    歸る朝(あした)の鳥の音ぞうき

(思う人を待つ身なればこそ、更けゆく鐘も恋しくてつらいものですが、しかし、これを一期として、もしや今生これが、(こんじょう)の別れともなるかも知れぬと思えばこそ、朝の鳥の音の方が遙かに憂い沈んで哀しいので御座います。)

と返した、というのである。

   *

この小侍従、恐るべき才媛である。しかし確かに「才」走り過ぎて私には愛おしくはなく、折口が「單に空想と空想との鉢合せに過ぎない」と言っているのも、そういう意味で大いに首肯出来る

「曉別戀」歌題の一。一般には歌題は音読みするように思われるから、「ぎやうべつれん(ぎょうれつるれん)」と読んでおく。]

 

催馬樂の中でも、右の歌などは、都に居ては到底、出來る筈のない歌であつた。同じく鷄・戀・曉を一首に結んでも、萬葉びとは、まだ固定せぬ歌ぐちを見せてゐる。

 

 もの思ふと 眠(イ)ねず起きたる朝明(アサケ)には わびて鳴くなり。庭つ鳥さへ (萬葉集卷十二)

[やぶちゃん注:三〇九四番歌。「庭つ鳥」が飼い鳥のニワトリ。]

 

さうしたはでな心持ちから、飛び離れた挽歌にさへ、鷄は現れて居る。

 

 庭つ鳥 かけの垂り尾の亂り尾の 長き心も思ほえぬかも(同、卷七)

[やぶちゃん注:一四一三番歌。「挽謌」のパートに入る。「かけ」は原文「可鷄」で「庭つ鳥」(家で飼う鳥)の「かけ」(ニワトリ)の意。言わずもがな乍ら、上句総てが「長き」を引き出す序詞に過ぎない。「長き心」とは永遠不変のゆったりした穏やかな心であり、それを持つことは最早、出来なくなってしまったなあ、という広義の生涯的感懐嘆息である。]

 

我々の祖先が、鷄から聯想したものは、必しも戀ばかりではなかつた。けれども此國の文藝生活の夜明けと共に、鷄の垂り尾ではないが、戀ひ心の纏綿して居るのも事實である。其は、彼らの生活が、どうしてもさうなくてはならぬやうになつて居たからである。彼ら男女のなからひには、必鷄が割り込んで來た爲である。一夜妻(ヒトヨヅマ)の樣に、向うからしかけるのは特別、普通は男から女の家に出向いて鷄鳴に催されて歸つて來るのが、婚約期間の習俗であつたとすれば、鷄の印象が長い長い古代の情史の上に、跡を牽くのも尤な事である。併しながら、きぬぎぬの別れを鷄のせゐにして、かさ怨みを無邪氣な家畜に投げつけるのは、よほど享樂態度を加へてからの話である。

 

隱國(コモリク)の泊瀨小(ヲ)國に、さ婚(ヨバ)ひに我(ア)が來れば、たな曇り 雪はふり來ぬ。さ曇り 雨はふり來ぬ。野(ヌ)つ鳥雉(キヾシ)はとよみ、家つ鳥鷄(カケ)も鳴き、さ夜は明け 此夜は明けぬ。入りて朝寢む。此戸開かせ(萬葉卷十三)

[やぶちゃん注:三三一〇番歌。作者未詳である。講談社文庫中中西進全訳注では(恣意的に正字化した)、

   *

 隱口(こもりく)の 泊瀨(はつせ)の國に さ結婚(よばひ)に わが來れば たな曇(くも)り 雪は降り來(く) さ曇(くも)り 雨は降り來(く) 野(の)つ鳥 雉(きぎし)はとよみ 家つ鳥 鷄も鳴く さ夜は明け この夜は明けぬ 入りてかつ寢む この戸開かせ

   *

と表記する。「隱國(コモリク)の泊瀨小(ヲ)國」とは現在の奈良県の長谷寺周辺桜井市初瀬に相当する。「隱國」は山に囲まれた国の意。前出の中西進氏によれば、これは「古事記」の『八千矛を主人公とした歌謡と原形は同じ』(「八千矛」は八千矛神(やちほこのかみ)大国主命の異称である。これは折口も次で述べている)であり、さればこれはプライベートな妻問いのなかなか中に入れて呉れないリアルな描景などではなくて、以下で折口も解析しているように『泊瀬の神事歌物語』であると解読しておられる。]

 

答への歌から見ると、泊瀨天皇などの傳記に關係した短篇敍事詩の謠化したものらしい。後朝をわびるどころではない。入りて朝寢むとまで、感傷せずに言うて居る。鷄が入り込むと、どゞいつ・端唄の情歌色彩を帶びて來るものであるが、其がないのは、時代である。右の歌が離れて來た元の形と見える八千矛神の妻訪ひの歌なども、

[やぶちゃん注:「答への歌から見ると、泊瀨天皇などの傳記に關係した短篇敍事詩の謠化したもの」確かに前の三三一〇番歌に対する女からの反歌(三三一二番歌)の中には、ズバリ、「よばひ爲(せ)す わが天皇(すめろき)よ」と出る。「泊瀨天皇」第二十一代雄略天皇天皇をモデルとするか? 彼は「大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)」「大長谷若建命」「大長谷王」等の異名を持ち、彼はこの現在の初瀬の辺りに「泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)」を置いたともされる(但し、考古学的論拠はない)。

「後朝をわびる」訪れが遅くなって本来の「後朝」の別れの時刻となってしまったこと「をわびる」の意であろう。]

 

 …處女の寢(ナ)すや板戸を 押(オソ)ぶ

 らひ、我が立たせれば、引(ヒコ)づらひ、

 我が立たせれば 靑山に鵺は鳴き、さ野つ鳥

 雉はとよむ。にはつどり鷄(カケ)は鳴く。

 慨(ウレタ)くも鳴くなる鳥か。此鳥も、う

 ち病めこせね。…(古事記上)

[やぶちゃん注:これは「古事記」の「上つ卷」の所謂、「八千矛(やちほこ)の神の物語」と通称される部分の一般に「古事記」歌謡の第二番歌とされる最初の方に出る長い歌である。冒頭とその歌までを引く(底本は武田祐吉氏の「古事記」に拠る)。

   *

 この八千矛の神、高志(こし)の國の沼河比賣(ぬなかはひめ)を婚(よば)はむとして幸行(い)でます時に、その沼河比賣の家に到りて歌よみしたまひしく、

  八千矛の 神の命は、

  八島國 妻求(ま)きかねて、

  遠遠し 高志の國に

  賢(さか)し女(め)を ありと聞かして、

  麗(くは)し女を ありと聞こして、

  さ婚ひに あり立たし

  婚ひに あり通はせ、

  大刀が緒も いまだ解かずて、

  襲(おすひ)をも いまだ解かね、

  孃子(をとめ)の 寢(な)すや板戸(いたと)を

  押(お)そぶらひ 吾(わ)が立たせれば、

  引こづらひ 吾が立たせれば、

  靑山に 鵼(ぬえ)は鳴きぬ。

  さ野(の)つ鳥 雉子(きぎし)は響(とよ)む。

  庭つ鳥 鷄(かけ)は鳴く。

  うれたくも 鳴くなる鳥か。

  この鳥も うち止(や)めこせね。

  いしたふや 天馳使(あまはせづかひ)、

  事の 語りごとも こをば。

 ここにその沼河日賣、いまだ戸を開かずて内より歌よみしたまひしく、

  八千矛の 神の命。

  ぬえくさの 女(め)にしあれば、

  ……[やぶちゃん注:以下略。当該箇所全文はウィキブックスの「古事記/上卷」(但し、「上つ卷」全体は未完)が注もついていてよい。]

   *

以上の歌の終りから終りから十行目の箇所から同じく終りから三行目までの、

  孃子(をとめ)の 寢(な)すや板戸(いたと)を

  押(お)そぶらひ 吾(わ)が立たせれば、

  引こづらひ 吾が立たせれば、

  靑山に 鵼(ぬえ)は鳴きぬ。

  さ野(の)つ鳥 雉子(きぎし)は響(とよ)む。

  庭つ鳥 鷄(かけ)は鳴く。

  うれたくも 鳴くなる鳥か。

  この鳥も うち止(や)めこせね。

の箇所が折口の引いた部分の相応する。は武田祐吉訳注中村啓信補訂の角川文庫版「古事記」では以下のように訳されてある。なお、訳中の敬語は自敬表現であるので注意。

   《引用開始》

  娘さんの眠っておられる板戸を

  押しゆすぶり立っていらっしゃると、

  引き試みて立っていらっしゃると、

  青い山では鵼(ぬえ)が鳴いている。

  野の鳥の雉(きじ)は叫んでいる。

  庭先で鶏も鳴いている。

  腹が立つさまに鳴く鳥だな。

  こんな鳥はたたいて鳴き止めさせてくれ。

   《引用終了》]

 

とあるのを見れば、まだ處女に會はないのである。鷄を咒うては居ても、東女の情癡の曲折あるのから見ると、ずつと單調な、言はゞ、がむしゃらのむしゃくしゃ腹を寓した迄の話である。鷄を以て、趣きある戀愛の一場面をこしらへて行かうとはして居ない。けれども、若し鷄の音が、古代の歌謠に、ちつとでも、きぬぎぬの怨みを含めて居るとすれば、其には、もつともつと大きな原因から來て居るのである。

[やぶちゃん注:「咒う」は「呪(のろ)う」に同じい。]

 

出雲美保關の美保神社に關聯して、八重事代主神の妻訪ひの物語がある。此神は、夜毎に海を渡つて、對岸の姫神の處へ通うた。此二柱の間にも、鷄がもの言ひをつけて居る。海を隔てた揖夜(イフヤ)の里の美保津姫の處へ、夜毎通はれた頃、寢おびれた鷄が、眞夜中に間違うたときをつくつた。事代主神はうろたへて、小舟に乘ることは乘つたが、櫂は岸に置き忘れて來た。據なく手で水を搔いて戻られると、鰐が神の手を嚙んだ。此も鷄のとがだと言ふので、美保の神は、鷄を憎む樣になられた。其にあやかつて、美保關では鷄は飼はぬ上に、參詣人すら卵を喰ふことを戒められて居る。喰へば必、祟りを蒙ると言ひ傳へて居る。

[やぶちゃん注:まさにハーンがここで語った箇所である。ここで寝ぼけて真夜中に鬨を挙げたことになっており、しかし、櫂は「手」である。本伝承には多様なヴァリエーションがあることがこれでも判る。

「寢おびれた」寝ぼけた。ラ行下二活用自動詞「寢おびる」である。「おびる」は自動詞で、多くはまさにこの「寝おびる」の形で「ぼける」「ぼんやりする」の意に用いる(「ねおびる」は別に、恐ろしい夢などを見て怯えて目覚めるの意ともされる)。

「據なく」「よんどころなく」と読む。]

 

鷄を憎まれる神樣は、國中にちょくちょくある。名高いのは、河内道明寺の天滿宮である。

[やぶちゃん注:「河内道明寺の天滿宮」現在の大阪府藤井寺市道明寺にある道明寺天満宮(どうみょうじてんまんぐう)。ウィキの「道明寺天満宮」によれば、『祭神は菅原道真公、天穂日命』(あめのほひのみこと:天照大神と素戔嗚の誓約の際に天照大神の右の鬟(みずら)に巻いた勾玉(まがたま)から成った男神)『と、菅原道真公のおばに当たる覚寿尼公』で、現在は『隣接して道明寺という真言宗の尼寺がある』。『この地は、菅原氏・土師氏の祖先に当たる野見宿禰の所領地と伝え、野見宿禰の遠祖である天穂日命を祀る土師神社があった。仏教伝来後、土師氏の氏寺である土師寺が建立された。伝承では聖徳太子の発願により土師八島がその邸を寄進して寺としたという』。『平安時代、土師寺には菅原道真公のおばに当たる覚寿尼公が住んでおり、道真公も時々この寺を訪れ、この寺のことを「故郷」と詠んだ詩もある』。延喜元(九〇一)年、『大宰府に左遷される途中にも立ち寄って、覚寿尼公との別れを惜しんだ。道真公遺愛の品と伝える硯、鏡等が神宝として伝わ』る。『後に、道真自刻と伝える十一面観音像を祀り、土師寺を道明寺に改称した』(天暦元(九四七)年のこととされる)。『道真ゆかりの地ということで、道明寺は学問の神としての信仰を集めるようになった。明治の神仏分離の際、道明寺天満宮と道明寺を分け、道明寺は道を隔てた隣の敷地に移転した』とある。]

 

 鳴けばこそ 別れも急げ。鷄の音の 聞えぬ里の曉もがな

[やぶちゃん注:まさに前注で示した道真が左遷の別離に覚寿尼を訪れた際に詠んだものと伝えられる和歌である。実際にネット上の記載を見ると、この里ではごく最近までニワトリを飼わなかったと書かれている。この「學問の神樣にも似合はない妙な」和歌はしかし、道真伝説にありがちな一種の呪文風の偽物のように私には見える。]

 

と學問の神樣にも似合はない妙な歌を作つて、養女苅屋姫に別れて、筑紫へ下られてから、土師(ハジ)の村では、神に憚つて、鷄は飼はぬことになつた(名所圖會)。此などは、學德兼備の天神樣でさへなければ、苅屋姫をわざわざ娘は勿論、養女であつた、と言ふ樣な苦しい説明をする必要もなかつた筈である。

[やぶちゃん注:「名所圖會」「摂津名所図会」のことか。寛政八(一七九六)年から二年後の寛政十年に刊行された摂津国の通俗地誌で観光案内書。九巻十二冊。]

 

女の許へ通ふといふ事は、近代の人の考へでは、村の若衆を外にしては、眉を顰めてよい淫風であつた。天神樣が、隱し妻の家からの戻りに、鷄の音を怨まれたとあつては、あまりに示しのつかぬ話である。其處に家から來た娘と、別れを惜む事になつて來ねばならぬ訣がある。思ふに、土師の村の社には、いつの頃にか、美保式の神婚の民譚がついて居たのを、たつた一點を改造した爲に、辻褄の合うた樣な、合はぬ樣な話が出來上つたのであらう。事實、天神・苅屋親子關係を信じきつて居る今時の役者たちすら「手習鑑」の道明寺の段で、一番困るのは、右の子別れだ相である。女夫の別れと見えぬ樣との、喧しい口傳もあると聞いて居る。妙な處に、尻尾の殘つて居るものである。

[やぶちゃん注:「手習鑑」「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」。人形浄瑠璃及び歌舞伎の演目で五段続き。延享三(一七四六)年八月に大坂竹本座で初演。初代竹田出雲・竹田小出雲・三好松洛・初代並木千柳による合作で、文楽では人気の演目である。梗概その他はウィキの「菅原伝授手習鑑」を参照されたい。]

 

あの芝居で、今一つの中心は、東天紅の件であるが、目に見えぬ過去からの網の目が、淨瑠璃作者の頭にかぶさつて居た爲に、宿禰太郎夫婦の死と言ふ樣な大事件を以て解決せねばならなかつたのである。

[やぶちゃん注:「東天紅」「菅原伝授手習鑑」の二段目の内の三段目の「東天紅(とうてんこう)の段」のこと。ウィキの「菅原伝授手習鑑」によれば、その梗概は、『立田の夫である宿禰太郎と、その父の土師兵衛は時平の側に一味していた。太郎たちは鶏を通常よりも早く鳴かせて夜明けと思わせ、それによって丞相を館より連れ出したのちに殺そうとしていたのである。だがそれを立田に聞かれたので、太郎と兵衛は立田をだまし討ちにして殺し、その死骸を館の庭の池に投げ込んで隠す。そのとき兵衛は鶏を鳴かす工夫を思いつく。すなわち鶏は死骸を近づけても鳴くことから、鶏を挟箱の蓋に乗せて池に浮かべると、はたして鶏は鳴いて時を告げた』とある。]

 

今日でも、まだ到る處の宮々に、放ち飼ひの鷄を見かける。ときをつくらせたり、靑葉の杉の幹立の間に隱見する姿を、見榮(ハヤ)さうと言つた考へから飼うて置くのでない事は、言ふ迄もない。あれは實は、あゝして生けて置いて、いつ何時でも、神の御意の儘に調理してさし上げませう、とお目にかけて置く牲料(ニヘシロ)で、此が即、眞の意味のいけにへなのである。

 

白い鷄が神饌に供へられる事は、其例多く見えて居るが、必しも白い物ばかりを飼うて居た訣ではなく、偶々、民家の家畜の中にも、白い羽色のが生れると、獻るべき神意と信じ、御社へあげあげして來た事であらう。古風な江戸びとは、いまだに卵を産まなくなつた鷄を、淺草寺の境内へ放しに行く。内容は變つても、尠くとも、形式だけはまだ崩れないで居る一例である。喰べると癩病になると言はれる鳥に、燕・鷲竝びに、此鷄がある。前二者は、喰べろと言はれても遠慮する人が隨分とあり相である。が鷄を封ぜられては困る者、啻にかしは屋ばかりとは言はれまい。

[やぶちゃん注:「偶々」は底本では「々」ではなく、本作と同じく「〻」を用いている。生理的に嫌いなので代えた。太字「かしは屋」は底本では傍点「ヽ」。

「獻る」「たてまつる」と訓じていよう。

「喰べると癩病になると言はれる鳥に、燕・鷲竝びに、此鷄がある」非科学的な誤った俗信であることは言うまでもない。「癩病」(らいびやう(らいびょう))現行では使用すべきではなく、「ハンセン病」に読み換えられたい。]

 

鷄には、特に白と言ふ修飾が加つて居るので、息をつく。豐後大野郡邊では、白い鷄を喰ふと、かったいになる(郷土研究第三卷)と言ひ習はして居る。白鷄が、神の牲料と信じて居たればこそ、其を横どりする者は、極刑を受けると考へられたので、原因を振り落して、單に結果だけが言ひ傳へられたものと思ふ。考へ方によつては、白い鷄でなくても、鷄はすべて、ある神專用の牲料と思はれたであらう。美保關で卵を喰はぬと言ふのも、一つ起りから出た事は察せられる。山陽・畿内の二村の鷄を飼はぬのも、神の占め給うた家畜なるが故に、善い意味からは御遠慮申し、惡い意味からは不時の御用命を迷惑がつて、忌み憚つて來たものと言はれよう。併し此を以て直ちに、事代主神婚譚を構成した原因などゝはきめられない。畢竟は相當因緣を持つた民間傳承が、お互に別々に進んで來る中に、相合すべき狀態になると、他の一つは、其に引きよせられるものと見てさしつかへはない。お互に原因になり、結果になる事が出來るのである。

[やぶちゃん注:「豐後大野郡」大分県の南部にある豊後大野市(ぶんごおおのし)。

「かったい」ハンセン病の旧別名であり、これも差別用語として現行では使用するべき語ではない。この辺り、時代的背景を考慮しながらも、折口の中にある差別的意識をも批判的に読み解くべきである。

「山陽・畿内の二村」「二ヶ村」に同じい。美保関村と道明寺村と思われが、それなら「山陽」ではなく「山陰」のはずである。山陽地方にニワトリを飼わない村があって少しもおかしくないが(美保関の言代主のタブーの伝承の南下、道真の大宰府への下向ルートから)、しかし、前文には具体な山陽の鶏禁忌の村の記載がない。不審である。]

 

神妻訪ひの話に、鷄の參與するのも、田舍人の生活が、其儘幽界の方々の上にもあることゝ信じて、言ひ出したことは勿論であるが、今一つ、鷄がとんでもない憎まれ者になる訣は、責任を轉嫁したり、情癡趣味に浸つたりすることを知らなかつた萬葉びと以前の、古代の男女關係ばかりからは、何とも合點が行きかねる。今でも古風を存して居ると信ぜられて居る祭りの中心行事は、必、眞夜中に行はれる。鷄鳴がほゞ神事の終りと一致する樣に、適當に祭式をはこばねばならなかつたものと見えて、日の出にかつきり主要な部分をしまうて居なければ、今年の作物に祟ると信じてゐる地方が多い。

 

其例に、信州下伊那新野の伊豆權現の正月十五日の祭禮がある。東天紅なる時は、正に顯・幽兩界の境目で、祭りに招き降された神が社からあがられるのは、此時刻である。此刻限にぴつたり神あげをする事は、神にも人にも、都合のよいことである。鷄鳴以後迄、神を止めて置かうとしたら、神の迷惑はどの樣であらう。また若し其に先だつて、鳴き立てる鷄があつたら、神は事をへぬ中に、はふはふ退去にならねばならぬ。鷄をして、さやうな僞りを告げさせた責任者として、人間もとんだ罰を蒙らねばならなかつたであらう。時ならぬ鷄の宵鳴きを、色々の凶事の前兆に結びつけて居るのは、やはり此處に本のあるのを忘れての事と思はれる。

[やぶちゃん注:流石は折口である。「鷄鳴」と「神事」との接点、神界(ハーンの謂うところの「靈的」なる世界との通路にニワトリは屹立しているのであり、そうした神聖のシンボルが反側的に凶兆に結びつくおかしな現象は神話や伝承の中に普通に見られることなのである。]

 

鷄の音に驚かされて、爲すこと遂げずに退散した話、うろたへて身を傷けた話など、神・佛・妖怪などの上にかけられた例が、此國にも澤山ある。

 

大歌所のひるめの歌

 

さひのくま 檜隈川に駒とめて、しばし水かへ。かげをだに見む(古今卷二十)

[やぶちゃん注:「古今和歌集」の「卷第二十」の「大歌所御歌(おほうたどころのおほむうた)」(「大歌所」とは八世紀後半に設置された宮中の役所で、新嘗祭など節会に供奉する令外の部署でそこで管理・伝承するところの歌をかく言った)の一首(一〇八〇番歌)であるが、やや現行の読み方と異なる、というか、折口は「万葉集」によって補正している。小島憲之・新井栄蔵校注の岩波新日本古典文学大系「古今和歌集」(一九八九年刊)によれば(恣意的に正字化した。後に附した( )内の訳は同書からの引用である)、

   *

   日靈女(ひるめ)の歌(うた)

 さゝのくまひのくま河に駒(こま)とめてしばし水飼(あ)へかげをだにみむ

(『ささの隈(くま)の地の「檜隈川」、奥まった所ををいうその名の「陽(ひ)の隈」にちなむここで、馬を駐めてしばらくなりと水を飲ませよ。水に映る「陽」の光りをせめて大神のみ影として拝みたいのです』)

   *

「ひるめ」は日輪の神で天照大神のこと。「さゝのくまひのくま河に」大系の注によれば、「万葉集」の「卷第十二」の三〇九七番歌、

 さ檜隈(ひのくま)檜隈川に馬留(とど)め馬に水飼(か)へ我れ外(よそ)に見む

(どうか、檜隈(ひのくま)を流れる檜隈川に馬を留めて、馬に水を飲ませてやって下さい。そうして、あなたの姿をそっと、離れたところから垣間見ましょう)

の一句目と二句目を転じた表現か、とある。「さ檜隈(ひのくま)檜隈川」の「檜隈川」は現在の高松塚古墳の南方の奈良県高市郡明日香村大字檜前(ひのくま)を流れる川。頭の「さ」は美称の接頭語である。]

 

と言ふのは、元は大部分、萬葉集に見えた戀歌である。其が如何にもおなごり惜しいと言つた心持ちを湛へて居る處から、恐らくは、神あげの節に謠はれることになつて居たらうと言へる。暫くでも長く居て頂いて、完全に祭りの心を享けて貰はねばならぬ。神事いまだ終らざるに、神あがりあつては一大事である。常世の長鳴き鳥は、此時間の調節者として、必要であつたのである。なぜなら、鷄の鳴き止まぬ中は朝であつて、而もまだ夜であつたから、神事に與る役目の重さは如何ばかり強い印象を、昔びとの心から心へ、傳へて來たことであらう。人力に能ふ限りは、朝と夜の交叉點をうまく處理して行くが、ある程度以上は鳥賴みであつた。

[やぶちゃん注:「與る」老婆心乍ら、「あづかる(あずかる)」と訓ずる。]

 

こゝに人間の妻訪ひに於けるよりも、もつともつと色濃く、庭つ鳥の神婚譚に入り込んで來ねばならなかつた訣のある事が、既にしのゝめのほがらにあなた方の胸に這入つた事であらうか。

[やぶちゃん注:「ほがら」形容動詞「朗らか」の語幹だけを名詞として用いる、形容動詞語幹の用法の一つである。「明るく光ること」「空が曇りなく晴れやかなこと」「広く開放された状態」ひいてはそこから見るものの側の「心が晴れ晴れとしていること」「拘りなく快活なこと」所謂、「明朗」をも暗に含んだ語であり、ここでも折口はそうした多層的意味を込めていると思われる。]

 

神事の終りに、唯一度拍子とるだけが役目の鷄を、合奏團の大事な一員と考へられて居る。此は、天の窟戸開きの條の誤解である。心を澄して御覽なさい。神道のほんとうの夜明けの光りは、今思はぬ方角からさしかゝつて居る。

[やぶちゃん注:「ほんとう」はママ。]

   ※   ※   ※]

 

 

Sec. 2

Concerning the reason why the Cock is thus detested by the Great Deity of Mionoseki, and banished from his domain, divers legends are told; but the substance of all of them is about as follows: As we read in the Kojiki, Koto-shiro-nushi-no-Kami, Son of the Great Deity of Kitsuki, was wont to go to Cape Miho, [1] 'to pursue birds and catch fish.' And for other reasons also he used to absent himself from home at night, but had always to return before dawn. Now, in those days the Cock was his trusted servant, charged with the duty of crowing lustily when it was time for the god to return. But one morning the bird failed in its duty; and the god, hurrying back in his boat, lost his oars, and had to paddle with his hands; and his hands were bitten by the wicked fishes.

Now the people of Yasugi, a pretty little town on the lagoon of Naka- umi, through which we pass upon our way to Mionoseki, most devoutly worship the same Koto-shiro-nushi-no-Kami; and nevertheless in Yasugi there are multitudes of cocks and hens and chickens; and the eggs of Yasugi cannot be excelled for size and quality. And the people of Yasugi aver that one may better serve the deity by eating eggs than by doing as the people of Mionoseki do; for whenever one eats a chicken or devours an egg, one destroys an enemy of Koto-shiro-nushi-no-Kami.

 

1 Mionoseki

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