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2015/09/10

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (三)

       三

 

 一時間半の間、左右の山脈は交互に船に近寄つたり、遠退いたりする。綺麗な靑い山々が船の方へ走つてくる。綠色に變はる。やがで徐々と船の後方へ流れ去つて、またすべて靑くなる。だが眞正面の遠山は不動不變、始終幽靈のやうだ。突然船は眞直に陸地へ方向を轉じた。陸地は非常に低いので、全く不意に見えてきたのであつた。して、田地の間の狹い川をぷつぷつと煙を吐き乍ら、運河の堤畔にある風變りな、舊式の小綺麗な莊原村ヘ上ぼつて行つた。こゝで杵築まで車を雇はねばならぬ。

 就寢前に杵築へ着かうと思へば、莊原をあまり見る時間がないので、たゞ一筋の長い廣い町を通りがけに見ただけで(綺麗な町だから、一日こゝで暮し度く思ふ程だ)、車は小さな町から、開豁な田舍の一望田地の廣い平地を突進した。道路は唯廣い堤防で、二臺の車がその上で辛つと互に代はり合つて越せるだけの幅だ。道の兩側には壯大な平野が、白い水平線を遮った山脈で限られてゐる。私共が久木村から上直江の田舍道へ出ると、雄大な靜かさ、夢の如き平和といふ大きな感じや、輝いた柔かな蒸汽のやうな光りが一切の物を被ふてゐる。左方の鋸齒狀の山脈は「しゆさい【譯者註一】」山で、際立つた綠色を呈し、其上には大黑山の巨峯が蔽ひかぶさつてゐる。大黑山は神の名から來たのだ。もつと遠く、右に當つて、草の紫色を帶びた北山(きたやま)の、大きな峻嶺が、日沒の方へ盛んな列をなして、綿々連旦し、西へ伸びるに從つて、微かになり、最後にいかにも幽靈のやうに、ぱつたり遠い空ヘ消え失せてしまう。

 この眺めは綺麗ではあるが、數時間立つても、景色に變化がない。始終道路は紙の羽をつけた祈願の矢が白く點綴せる、數哩に亘つた田圃の間を曲って行く。始終際涯なきぶつぶつの音の如く、蛙の鳴聲がする。始終左の緑色の山、右の紫色の山は、色彩を帶びた妖怪の丈高い行列となつて、西方へ去るに從つて色褪せて、恰も空氣であつたかの如く、たうとう無に歸してしまう。風物の單調が破られるのは、たゞをりをり綺麗な日本の村の中を通つたり、路傍に地藏や、道の曲がら角に珍らしい像が現れたり、または簸の川の堤上にあつた、『出雲松菊助』と刻せる花崗石の大きな扁額のやうな、力士の墓があるためであつた。

 しかし神門郡に達して、幅は廣くても、淺い川を越えると、新しい點が景色に現れた。左方の山嶺の上に、その輸廓から推せば、嘗て大きな火山であつたのと認めらるゝ、丁度鞍狀をなせる、靑い大影法師が、ぬつと屹立してゐる。これは種々の名を帶びてゐるが、昔は佐比賣(さひめ)山と呼ばれたのであつた。して、この山には神道の傳説【譯者註二】がある。

 創世の時代に、出雲の神が、國を見渡して、『出雲の國は狹布(さぬ)の稚國(わかくに)なるかも。初國小さく作らせり。故(かれ)、作り縫はむ』といつたといふことである。それから、彼はあたりを見廻して、朝鮮の方を眺めると、適當な土地を發見した。彼は大きな綱を以て、そこから四つの島を引きよせて、それを出雲に附け加へた。第一の島は八百丹(やほに)と呼ばれて、現今杵築のある土地を成した。第二の島は狹田(さだ)の國【譯者註三】と呼ばれて、現今すべての神々が毎年最初杵築に集まつてから、第二回目の會合をする社殿のある土地である。第三の島は闇見(くらみ)の國と呼ばれて、現今島根郡【譯者註四】を成してゐる。第四の島は稻の田の護符を信徒に授ける社殿【譯者註五】の建ってゐる土地となつた。

 さて、海を越えて是等の島をそれぞれの場所へ引きよせるのに、その神は綱の弶を大山と佐比賣山にかけた。で、兩方とも今日まで、その驚くべき綱の痕を印してゐる。またその綱は、一部は夜見(よみ)ケ濱といふ古代の長い島となり、また一部は薗(その)の長濱となつた。

 

    註。夜見ケ濱は今では、しつかり本

    土と合した。地文學者や地質學者に

    取つて珍らしい興昧ある、澤山の異

    常なる變化が、出雲海岸並に湖水附

    近に実際起つた。今でも毎年、ある

    變化が發生する。私も數囘珍らしい

    のを見た。

 

 堀河を過ぎてからは、道が狹くなり、また段々凸凹が多くなつた。が、北山の山脈へ次第に近寄つた。日沒頃には、林相の詳細が認めらるゝほど、その山に迫まつた。道が昇り始めた。私共は暮れ行く中を徐々と登つて行った。たうとう前面にきらきら輝く燈火の群が見えた。私共は神都杵築に達した。

 

    譯者註一。この山の名に就いては、

    疑を附しおく。

    譯者註二。現今の三瓶山。

    譯者註三。佐陀神社は松江の西北二

    里、佐陀村にある。

    譯者註四。島根郡は郡の併合の結果、

    現今は八束郡の東北全郡。

    譯者註五。美保神社。出雲國の最東

    北端。

 

[やぶちゃん注:二個所ある「しまう」はママ(以降、この注は略す)。

「莊原村」「しやうばらむら(しょうばらむら)」と読む。現在の出雲市斐川町荘原(しょうばら)。現在は宍道湖の西南端の新建川(しんたてがわ)を少し遡ったところにある(現在、この新建川河口左岸には出雲空港がある)。

「開豁」「かいくわつ(かいかつ)」と読み、広々として眺めのよいさま。

「辛つと」「やつと(やっと)」と訓じておく。

「白い水平線」原文“the white horizon”。水平線とすると宍道湖しか考えられないが、進行方向の真後ろでおかしい。これは平井呈一氏のように、靄った「地平線」の誤りであろう。

「久木村」旧荘原村の西北に接した旧村であるが、現在の地図上の地名では現認出来なかった。

「上直江」直江村は旧荘原村の西、旧久木村の南に接していた村で南北にやや長いから、ルート上からも現在の斐川町直江附近と思われる。丁度、斐伊川を挟んで現在の出雲市とほぼ対称位置にあった村である。

『「しゆさい」山』落合氏も疑問を呈しておられるが、不詳である。現在の地図上ではハーンの言うように大黒山の北にはそのような名前の山は見当たらないし、その周囲にもこの発音と類似する山はない。可能性としては位置的には出雲空港カントリー倶楽部辺りが怪しい感じはするが、出雲の古地図でも見ない限りは何とも言えない。

「大黑山」現在の斐川町の南東部に位置する標高三百十五メートルの山。八ヶ岳原人氏の個人サイト内の「大黒山と大国主命」によれば、『神代の昔、大黒さんと言われている大国主命がスクナビコナの神とこの山に登り、出雲の国に稲作を広めたり、海のものを多く取ったりして国を豊かにしよう、と平野や内海を眺めて相談をなさったところ、といわれています』。『頂上近くには大きな岩がありますが、その岩が二神がお立ちになって国内を眺められたところ、といわれています』とある。

「北山」これは幾つかの山屋の方の記載を見るに、出雲北山で、北方部の出雲大社の方へ連なっている旅伏山・鼻高山・弥山の峰々の包括呼称と思われる。

「連旦」「連担(れんたん)」か。それぞれが拡大することによって連なって相互に融合することをいう。

「數哩に亘つた田圃の間を曲って行く」くどいが「哩」はマイルで一マイルは約一・六一キロメートル。後に斐伊川以西の旧郡「神門郡」(かんどぐん/かんどのこほり)が出てくるから、試みに斐伊川までの荘原からの距離を実測してみると、八~九キロメートルはある。

「簸の川」斐伊川。因みにこの川は「古事記」の「肥の川」、「日本書紀」の「簸の川」に比定される川で「国引き」や「八岐大蛇」と関係するとされる日本神話に彩られた川である。

「出雲松菊助」不詳。識者の御教授を乞う。

「神門郡」前の注で示した通り、「神門」は「かんど」と読む。ウィキの「神門郡」によれば、古代に於いては、『律令制の施行により制定されたと考えられる。『出雲国風土記』によれば、伊加曾然(いかそね)という者がこの地に神門を奉ったことにより神門臣の姓を賜り、その神門臣が定住したのでその地を「神門」と呼ぶようになったとされる。郡家は古志郷にあった』とあり、明治一二(一八七九)年に行政区画として発足した際の、『当時の郡域は、出雲市の一部(西谷町・佐田町須佐・佐田町朝原・佐田町原田・佐田町反邊・佐田町大呂・多伎町神原を除く斐伊川以西かつ武志町、稲岡町、里方町、日下町、矢尾町、大社町各町以東)、大田市の一部(山口町佐津目・山口町山口)にあたる』とある。

「佐比賣(さひめ)山」落合氏も注されておられる通り、これは現在の島根県のほぼ中央部の大田市及び飯南町に跨って聳える三瓶山(さんべさん)の古名である。標高千百二十六メートルで周囲を囲むピーク群は溶岩円頂丘である。参照したウィキの「三瓶山」によれば、『石見国と出雲国の国境に位置する三瓶山は、『出雲国風土記』が伝える「国引き神話」に登場』し、ハーンが以下に述べるように、『三瓶山は鳥取県の大山とともに国を引き寄せた綱をつなぎ止めた杭とされている』とあり、「出雲国風土記」では「佐比売山(さひめやま)」の名で記されている、とある。事実、この「佐比売」の名は、昭和二九(一九五四)年に『大田市に合併するまでの地名「佐比売村」として残っていた』ともある。因みに斐伊川を渡った現在の出雲市駅附近からだと、南西約二十八キロメートルに位置している。以下、ウィキ国引き神話を引いておく。国引き神話は『出雲国に伝わる神話の一つである』が、「古事記」「日本書紀」には『記載されておらず』、「出雲国風土記」冒頭の「意宇郡」の最初の部分に書かれている神話である。『当初、作られた出雲国は「八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)」によれば「狭布(さの)の稚国なるかも、初国小さく作らせり、故(かれ)、作り縫はな」という失敗作であったという』。『「狭布」すなわち国の形は東西に細長い布のようであった』ため、『八束水臣津野命は、遠く「志羅紀(新羅)」「北門佐岐(隠岐道前)」「北門裏波(隠岐道後)」』「高志(越)」の『余った土地を裂き、四度、「三身の綱」で「国」を引き寄せて「狭布の稚国」に縫い合わせ、できた土地が現在の島根半島であると』し、この時、『国を引いた綱はそれぞれ薗の長浜(稲佐の浜)と弓浜半島になった。そして、国引きを終えた八束水臣津野命が叫び声とともに大地に杖を突き刺すと木が繁茂し「意宇の杜(おうのもり)」になったという』。

「狹布(さぬ)の稚國(わかくに)」細長い布切れのような、如何にも小さな国の意か。

「弶」「くひち(くいち)」或いは「くびち」「わな」などと訓ずる。原義は網を張る・罠を掛けるの意であるが、ここは繩を固定するために端を輪状にした部分を指すものと考えられる。

「夜見ケ濱」現在の鳥取県西部の米子市と境港市に連なる弓ヶ浜(ゆみがはま)とその半島であろう。ウィキ弓ヶ浜半島には、『弓浜(きゅうひん)半島、夜見ヶ浜半島、五里ヶ浜ともいわれる』とし、『古くは島であったと考えられている。『出雲国風土記』には「伯耆の国郡内の夜見の嶋」とあり、『伯耆国風土記』逸文には「夜見島」の北西部に「余戸里」(現在の境港市外江町付近)が存在したと記されている』とあり、また、『半島の形成は平安時代頃であるとされ、これを裏付けるように半島全域から平安期の土器片が発見されている』。応永五(一三九八)年に『成立した『大山寺縁起絵巻』には弓ヶ浜半島が描かれており、『境港市史』ではこれを鎌倉時代の様子ではないかと指摘している』とある。

「薗の長濱」現在の出雲市大社町にある砂浜海岸稲佐の浜(いなさのはま)附近。ウィキ「」によれば、『国譲り神話の舞台でもあり、「伊那佐の小濱」(『古事記』)、「五十田狭の小汀」(『日本書紀』)などの名が見える。また稲佐の浜から南へ続く島根半島西部の海岸は「薗の長浜(園の長浜)」と呼ばれ、『出雲国風土記』に記載された「国引き神話」においては、島根半島と佐比売山(三瓶山)とをつなぐ綱であるとされている』とある。

「澤山の異常なる變化が、出雲海岸並に湖水附近に実際起つた。今でも毎年、ある變化が發生する。私も數囘珍らしいのを見た」どのような変化であったものか? 落盤や隆起や液状化現象か? 具体に示さないところがこれまた怪奇幻想ハーン流と言うべきか。

「堀河」現在の出雲市大社町堀川で、高浜川の下流河口付近を指すものと思われる。南南西一・八キロメートル圏内である。

「佐陀神社」現在の島根県松江市鹿島町佐陀宮内にある佐太(さだ)神社。ウィキの「佐太神社」に『正殿の主祭神である佐太御子大神は『出雲国風土記』に登場する佐太大神と考えられる。佐太大神は神魂命』(かみむすび)『の子の枳佐加比売命』(きさがひひめ/蛤貝比売(うむぎひめ)とも呼ぶ)『を母とし、加賀の潜戸』(かかのくけど:前出既出で後掲される)『で生まれた。神名の「サダ」の意味には「狭田、すなわち狭く細長い水田」という説と「岬」という説とがある』とある。

「島根郡」ウィキの「島根郡」によれば、明治一二(一八七九)年に『行政区画として発足した当時の郡域は、松江市の一部(大根島・江島を除く大橋川以北かつ浜佐田町、薦津町、下佐陀町、上佐陀町、鹿島町名分、鹿島町御津以東)にあたる』とあり、古えには『律令制の施行により制定されたと考えられる。『出雲国風土記』では、国引き神話の八束水臣津野命(やつかみずおみつの)が発した言葉による命名としている』とある。

「八束郡」「やつかぐん」と読む。ウィキの「八束郡によれば、明治二九(一八九六)年に『行政区画として発足した当時の郡域は、松江市の大部分』(但し、市街地の一部を除く)『および出雲市の一部(美野町・野郷町・地合町)にあたる』とある。これも結局、松江市となり最後まで残っていた東出雲町が二〇一一年に松江市に編入されて八束郡も消滅した。

「美保神社」現在の松江市美保関町美保関にある美保神社。最後もウィキの「美保神社から引く。事代主神系えびす社三千余社の総本社と自称し(引用元には『えびす云々ではなく事代主神を祀る神社の総本宮の意と思われる』と注する)、『えびす神としての商売繁盛の神徳のほか、漁業・海運の神、田の虫除けの神として信仰を集める。また、「鳴り物」の神様として楽器の奉納も多い』。『右殿に大国主神の子の事代主神、左殿に大国主神の后の三穂津姫』(みほつひめ)『を祀る』とし、補注で『(三穂津姫命は大国主神の幸魂奇魂(さきみたま・くしみたま)である「大物主神」の后神。事代主命は神屋楯比売神(かむやたてひめ)と大国主神との間の子供なので義理の母親にあたる)』とある。「出雲国風土記」には、『大穴持命(大国主神)と奴奈宣波比売命(奴奈川姫命)の間に生まれた「御穂須須美命」が美保郷に坐すとの記述がある。元々の当社の祭神は御穂須須美命のみであったのが、記紀神話の影響により事代主神と三穂津姫命とされたものとみられる』。創建の由緒は不詳ながら、八世紀に編纂された「出雲国風土記」の『神社台帳に記載される古社である。延喜式神名帳では小社に列する』。『中世より横山氏が神職を世襲した。近世ごろから「大社(出雲大社)だけでは片詣り」と言われるようになり、出雲大社とともに参拝者が増えるようになった。出雲大社とあわせて「出雲のえびすだいこく」と総称される』とある。なお、原注では“Mionoseki”となっているが、ハーンには「みほ」が「みお」と聴こえたものか?]

 

 

Sec. 3

For an hour and a half the ranges to left and right alternately recede and approach. Beautiful blue shapes glide toward us, change to green, and then, slowly drifting behind us, are all blue again. But the far mountains immediately before us—immovable, unchanging—always remain ghosts. Suddenly the little steamer turns straight into the land—a land so low that it came into sight quite unexpectedly—and we puff up a narrow stream between rice-fields to a queer, quaint, pretty village on the canal bank—Shobara. Here I must hire jinricksha to take us to Kitzuki.

There is not time to see much of Shobara if I hope to reach Kitzuki before bedtime, and I have only a flying vision of one long wide street (so picturesque that I wish I could pass a day in it), as our kuruma rush through the little town into the open country, into a vast plain covered with rice-fields. The road itself is only a broad dike, barely wide enough for two jinricksha to pass each other upon it. On each side the superb plain is bounded by a mountain range shutting off the white horizon. There is a vast silence, an immense sense of dreamy peace, and a glorious soft vapoury light over everything, as we roll into the country of Hyasugi to Kaminawoe. The jagged range on the left is Shusai- yama, all sharply green, with the giant Daikoku-yama overtopping all; and its peaks bear the names of gods. Much more remote, upon our right, enormous, pansy-purple, tower the shapes of the Kita-yama, or northern range; filing away in tremendous procession toward the sunset, fading more and more as they stretch west, to vanish suddenly at last, after the ghostliest conceivable manner, into the uttermost day.

All this is beautiful; yet there is no change while hours pass. Always the way winds on through miles of rice-fields, white-speckled with paper-winged shafts which are arrows of prayer. Always the voice of frogs—a sound as of infinite bubbling. Always the green range on the left, the purple on the right, fading westward into a tall file of tinted spectres which always melt into nothing at last, as if they were made of air. The monotony of the scene is broken only by our occasional passing through some pretty Japanese village, or by the appearance of a curious statue or monument at an angle of the path, a roadside Jizo, or the grave of a wrestler, such as may be seen on the bank of the Hiagawa, a huge slab of granite sculptured with the words, 'Ikumo Matsu kikusuki.'

But after reaching Kandogori, and passing over a broad but shallow river, a fresh detail appears in the landscape. Above the mountain chain on our left looms a colossal blue silhouette, almost saddle-shaped, recognisable by its outline as a once mighty volcano. It is now known by various names, but it was called in ancient times Sa-hime-yama; and it has its Shinto legend.

It is said that in the beginning the God of Izumo, gazing over the land, said, 'This new land of Izumo is a land of but small extent, so I will make it a larger land by adding unto it.' Having so said, he looked about him over to Korea, and there he saw land which was good for the purpose. With a great rope he dragged therefrom four islands, and added the land of them to Izumo. The first island was called Ya-o-yo-ne, and it formed the land where Kitzuki now is. The second island was called Sada-no-kuni, and is at this day the site of the holy temple where all the gods do yearly hold their second assembly, after having first gathered together at Kitzuki. The third island was called in its new place Kurami-no-kuni, which now forms Shimane-gori. The fourth island became that place where stands the temple of the great god at whose shrine are delivered unto the faithful the charms which protect the rice-fields. [4]

Now in drawing these islands across the sea into their several places the god looped his rope over the mighty mountain of Daisen and over the mountain Sa-hime-yama; and they both bear the marks of that wondrous rope even unto this day. As for the rope itself, part of it was changed into the long island of ancient times [5] called Yomi-ga-hama, and a part into the Long Beach of Sono.

After we pass the Hori-kawa the road narrows and becomes rougher and rougher, but always draws nearer to the Kitayama range. Toward sundown we have come close enough to the great hills to discern the details of their foliage. The path begins to rise; we ascend slowly through the gathering dusk. At last there appears before us a great multitude of twinkling lights. We have reached Kitzuki, the holy city.

 

4 Mionoseki.

5 Now solidly united with the mainland. Many extraordinary changes, of rare interest to the physiographer and geologist, have actually taken place along the coast of Izumo and in the neighbourhood of the great lake. Even now, each year some change occurs. I have seen several very strange ones.

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