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2015/09/01

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (六)

        六

 

 極めて珍異な小さな物が、今徐々と河に浮んで下つてくる。讀者が恐らくは想像がつきまいと思ふ。

 佛と仁慈の神が貧民階級の日本人に拜せられる唯一の神ではない。惡の神、少くともその幾つかに向つて、或る場合には程よく和解を求める。して、その神が救ひ救ひ難き災害を加へないで、唯一時的の不幸を施すに止め給ふときには、御禮の献納品をする。(要するに、これは西印度諸島で、大暴風のため二萬二千人の生命が滅ぼされた後、颱風季の終りになつて感謝祭を營むのと同じい道理だ)だから、疫病の神、風邪の神、痘瘡の神、その他種種の惡神に祈禱を捧げることがある。

 さて、ある人が痘瘡から囘復の見込充分になつた場合、痘瘡の神に御馳走を捧げる。また狐に憑かれた場合、狐が立退くと誓つたならば、お狐樣に御馳走を捧げる。三度藁、即ち米俵の一端を塞ぐため用ひる藁の小さな席の上に、土器を載せる。土器には稻荷樣と痘瘡の神が、非常に好いてゐると云はれる赤豆飯を盛る。御幣をつけた小さな竹條を、藁席か、赤豆飯の中に插しておく。して、御幣の色は赤でなくてはならぬ。(他の神々の御幣はいつも白いことを注意せねばならぬ)それから、この献品を樹木に懸けたり、または囘復した人の家から、可なり隔てた川へ流す。これを神流しといふ。

    註。 『災をなす神に對しては、その

    怒を和らげることを求めて、神怒に觸

    れた者が、罰を受けぬやうにすべきで

    ある』これは神道の大家平田篤胤の語

    である。『純粹なる神道の復興』と題

    するサトウ氏の論文に見えた。

 

[やぶちゃん注:「想像がつきまいと思ふ」はママ。

「痘瘡の神」「痘瘡」は疱瘡、天然痘のこと。明治になって一回目の大流行は明治一八(一八八五)年から翌々年の二〇年で死者三万二千人、第二回目の大流行はこのハーン来日から二年後の明治二五(一八九二)年から翌々年の明治二七で死者二万四千人であった。因みにこの後も大正期や戦後の引き上げの際に大流行を起しており、本邦の天然痘患者はやっと昭和三〇(一九五五)年の天然痘患者一人を最後にゼロとなり、WHOによる「世界天然痘根絶」宣言が行われたのは一九八〇年のことであった。以上はエドワード・ジェンナーの牛痘種痘法成功よりも六年も前に既に種痘による予防接種を行っていた種痘の真の創始者(彼のそれは牛痘ではなく天然痘患者から採取した膿(痘痂)を使った人痘法であった)である秋月藩医緒方春朔の顕彰サイトの「天然痘関係歴史略年表」に拠った。「痘瘡の神」はウィキ疱瘡神(ほうそうがみ/ほうそうしん)によれば(注記号を省略した。下線はやぶちゃん)、『疱瘡(天然痘)を擬神化した悪神で、疫病神の一種で』、『疱瘡神は犬や赤色を苦手とするという伝承があるため、「疱瘡神除け」として張子の犬人形を飾ったり、赤い御幣や赤一色で描いた鍾馗の絵をお守りにしたりするなどの風習を持つ地域も存在した。疱瘡を患った患者の周りには赤い品物を置き、未患の子供には赤い玩具、下着、置物を与えて疱瘡除けのまじないとする風習もあった。赤い物として、鯛に車を付けた「鯛車」という玩具や、猩々の人形も疱瘡神よけとして用いられた。疱瘡神除けに赤い物を用いるのは、疱瘡のときの赤い発疹は予後が良いということや、健康のシンボルである赤が病魔を払うという俗信に由来するほか、生き血を捧げて悪魔の怒りを解くという意味もあると考えられている。江戸時代には赤色だけで描いた「赤絵」と呼ばれるお守りもあり、絵柄には源為朝、鍾馗、金太郎、獅子舞、達磨など、子供の成育にかかわるものが多く描かれた。為朝が描かれたのは、かつて八丈島に配流された為朝が疱瘡神を抑えたことで島に疱瘡が流行しなかったという伝説にも由来する。「もて遊ぶ犬や達磨に荷も軽く湯の尾峠を楽に越えけり」といった和歌もが赤絵に書かれることもあったが、これは前述のように疱瘡神が犬を苦手とするという伝承に由来する』。『江戸時代の読本『椿説弓張月』においては、源為朝が八丈島から痘鬼(疱瘡神)を追い払った際、「二度とこの地には入らない、為朝の名を記した家にも入らない」という証書に痘鬼の手形を押させたという話があるため、この手形の貼り紙も疱瘡除けとして家の門口に貼られた。浮世絵師・月岡芳年による『新形三十六怪撰』に「為朝の武威痘鬼神を退く図」と題し、為朝が疱瘡神を追い払っている画があるが、これは疱瘡を患った子を持つ親たちの、強い為朝に疱瘡神を倒してほしいという願望を表現したものと見られている』(引用先に画像有り)。『貼り紙の事例としては「子供不在」と書かれた紙の例もあるが、これは子供が疱瘡を患いやすかったことから「ここには子供はいないので他の家へ行ってくれ」と疱瘡神へアピールしていたものとされる』。『疱瘡は伝染病であり、発病すれば個人のみならず周囲にも蔓延する恐れがあるため、単に物を飾るだけでなく、土地の人々が総出で疱瘡神を鎮めて外へ送り出す「疱瘡神送り」と呼ばれる行事も、各地で盛んに行われた。鐘や太鼓や笛を奏でながら村中を練り歩く「疱瘡囃子」「疱瘡踊り」を行う土地も多かった』。『また、地方によっては疱瘡神を悪神と見なさず、疱瘡のことを人間の悪い要素を体外に追い出す通過儀礼とし、疱瘡神はそれを助ける神とする信仰もあった。この例として新潟県中頚城郡では、子供が疱瘡にかかると藁や笹でサンバイシというものを作り』、発病の一週間後に『それを子供の頭に乗せ、母親が「疱瘡の神さんご苦労さんでした」と唱えながらお湯をかける「ハライ」という風習があった』。『医学の発達していない時代においては、人々は病気の原因とされる疫病神や悪を祀り上げることで、病状が軽く済むように祈ることも多く、疱瘡神に対しても同様の信仰があった。疱瘡神には特定の祭神はなく、自然石や石の祠に「疱瘡神」と刻んで疱瘡神塔とすることが多かった。疫病神は異境から入り込むと考えられたため、これらの塔は村の入口、神社の境内などに祀られた。これらは前述のような疱瘡神送りを行う場所ともなった』(民俗社会に於いては「川」は異界・冥界との境・通路であったことに注意されたい)。『昔の沖縄では痘瘡のことをチュラガサ(清ら瘡)といい、痘瘡神のご機嫌をとることに専念した。病人には赤い着物を着せ、男たちは夜中、歌・三線を奏で痘瘡神をほめたたえ、その怒りをやわらげようと夜伽をした。地域によっては蘭の花を飾ったり、加羅を焚いたり、獅子舞をくりだした。また、琉歌の分類の中に疱瘡歌があり、これは疱瘡神を賛美し、祈願することで天然痘が軽くすむこと、治癒を歌った歌である。形式的には琉歌形式であるが、その発想は呪術的心性といえよう』。『幕末期に種痘が実施された際には、外来による新たな予防医療を人々に認知させるため、「牛痘児」と呼ばれる子供が牛の背に乗って疱瘡神を退治する様が引札に描かれ、牛痘による種痘の効果のアピールが行われた。種痘による疱瘡の予防が一般化した後も、地方によっては民間伝承における疱瘡神除けの習俗が継承されていた。例として兵庫県多紀郡篠山町(現・篠山市)では、予防接種から』一週間ほど後、『御幣を立てた桟俵に笹の葉、赤飯、水引などを備え、道端に送る風習があった大阪府豊能郡能勢町でも「湯がけ」といって、同様に種痘から』十二日目に『紐を通した桟俵に赤い紙と赤飯を備えて疱瘡神を送った。千葉県印旛郡では疱瘡流行時、子女が万灯を肩に鼓を打ちながら村を囃して歩くことが』明治一〇(一八七七)年頃まで『続けられていた。接種の際に赤い御幣、赤飯、食紅の印を付けた饅頭などが供えられることも多かった』。二十一世紀に『入っても、赤い御幣などの疱瘡神を家庭で祀っている例があり、疱瘡神の加護によって疱瘡を患うことのなかったことの感謝の念が今なお残っているものと見られている。前述の疱瘡囃子や疱瘡踊りが伝統行事として行われている土地も多く、茨城県では土浦市田宮地区の疱瘡囃子が、鹿児島県では薩摩郡入来町(現・薩摩川内市)や大浦町(現・南さつま市)などで行われていた疱瘡踊りが、それぞれ県の無形民俗文化財に指定されている』とある。私はここにあるように、疱瘡神は赤を嫌うと認識していたが、ハーンは赤を好むと述べている。ここでは生血のシンボルとする興味深い説も示されているが、やや疑問な気がする。私は寧ろ、ここでハーンが稲荷神と疱瘡神を一緒に述べていることからみて、「赤」飯を好む「赤い」鳥居のお稲荷様と習合した結果ではないかと想像するのであるが、如何? 大方の御批判を俟つものではある。

「註。『災をなす神に對しては、その怒を和らげることを求めて、神怒に觸れた者が、罰を受けぬやうにすべきである』これは神道の大家平田篤胤の語である。『純粹なる神道の復興』と題するサトウ氏の論文に見えた。」平井呈一氏はこの注を以下のように訳しておられる。

   《引用開始》

「禍津日神(まがびかみ)は和め奉りて、蔑如(ないがしろ)にし奉れるものの神罰を逃(のが)れしむべし。」これは神道の大家、平田篤胤のことばである。サトー氏の論文「神道の復活」による。

   《引用終了》

平田篤胤のどの著作中の言葉かは私には不明であるが、彼は本居宣長との論争の中で災厄の神とされる禍津日神(まがつひのかみ)は実は善神であるとしているとウィキ禍津日神にあり、『篤胤によると、禍津日神は須佐之男命の荒魂であると』し、『全ての人間は、その心に禍津日神の分霊と直毘神(篤胤は天照大神の和魂としている)の分霊を授かっているのだと』主張、『人間が悪やケガレに直面したとき、それらに対して怒り、憎しみ、荒々しく反応するのは、自らの心の中に禍津日神の分霊の働きによるものだとした』。『つまり、悪を悪だと判断する人の心の働きを司る神だというのであ』り、『またその怒りは直毘神』(なおびのかみ/なほびのかみ:穢れを払って禍(まが)を直す神)『の分霊の働きにより、やがて鎮められるとした』とある。私は個人的には平田の説に大いに賛成である。「『純粹なる神道の復興』と題するサトウ氏の論文」「サトウ氏」はイギリスの外交官でイギリスに於ける日本学の基礎を築いたサー・アーネスト・メイソン・サトウ(Sir Ernest Mason Satow)で既注。「純粹なる神道の復興」は、祝詞(のりと)の英訳を含む、彼の日本滞在中(三度目の明治一〇(一八七七)年一月から明治十三年まで。駐日特命全権公使としての来日はその後の明治二八(一八九五)年のことであった)の著作である“Ancient Japanese rituals and the revival of pure Shinto”1878–1881)と思われる。]

 

 

Sec. 6

A very curious little object now comes slowly floating down the river, and I do not think that you could possibly guess what it is.

The Hotoke, or Buddhas, and the beneficent Kami are not the only divinities worshipped by the Japanese of the poorer classes. The deities of evil, or at least some of them, are duly propitiated upon certain occasions, and requited by offerings whenever they graciously vouchsafe to inflict a temporary ill instead of an irremediable misfortune. [4] (After all, this is no more irrational than the thanksgiving prayer at the close of the hurricane season in the West Indies, after the destruction by storm of twenty-two thousand lives.) So men sometimes pray to Ekibiogami, the God of Pestilence, and to Kaze-no-Kami, the God of Wind and of Bad Colds, and to Hoso-no-Kami, the God of Smallpox, and to divers evil genii.

Now when a person is certainly going to get well of smallpox a feast is given to the Hoso-no-Kami, much as a feast is given to the Fox-God when a possessing fox has promised to allow himself to be cast out. Upon a sando-wara, or small straw mat, such as is used to close the end of a rice-bale, one or more kawarake, or small earthenware vessels, are placed. These are filled with a preparation of rice and red beans, called adzukimeshi, whereof both Inari-Sama and Hoso-no-Kami are supposed to be very fond. Little bamboo wands with gohei (paper cuttings) fastened to them are then planted either in the mat or in the adzukimeshi, and the colour of these gohei must be red. (Be it observed that the gohei of other Kami are always white.) This offering is then either suspended to a tree, or set afloat in some running stream at a considerable distance from the home of the convalescent. This is called 'seeing the God off.'

 

4 'The gods who do harm are to be appeased, so that they may not punish those who have offended them.' Such are the words of the great Shinto teacher, Hirata, as translated by Mr. Satow in his article, ~ The Revival of Pure Shintau.

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