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2015/09/08

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 景淸牢蹟

    ●景淸牢蹟

假粧坂へ登る道左に大なる巖窟あり。土人上總七郞兵衞景淸〔景淸は淸盛が侍所の別當上總介忠淸が三男にして身の丈長大にして勇猛なり源平鬪爭の際戰勝功を顯し世に惡七兵衛と呼る〕か牢と傳ふ。景淸は平家滅亡の後。建久六年三月。將軍賴朝南都東大寺の大佛供養として上洛せし時。出て降人となりしかは。和田義盛に預らる。義盛倶して鎌倉に下り。其家に召籠(めしこめ)て置しか。屢(しばしば)不遜の擧ありしかは。義盛辭し申すに任せ。改て八田知家か許に置かる。かくて數月(すうげつ)を經(ふ)れと。恩免の沙汰なかりしかは。景淸躬から漿水を斷て翌七年三月七日に死せりと云ふ。かゝれは只召預られしのみ。牢中に籠(こめ)られしにはあらし。或は云。景淸鎌倉に下らは籠置(こめおか)んが爲豫て作り設しかと。遂に下らさりしなりとも云へと。東鑑に賴朝建久六年二月十四日。上洛有て同年七月八日。鎌倉に著御(ちやくぎよ)。時に義盛知家も供奉す。しかれは景淸か死。建久七年とあれは。鎌倉にて死せしなるベし。此土牢(つちらう)に在しと云は信し難し。洞窟は土人か作爲して人を誑(あざむ)けるものか。

土牢を少し離れて海藏寺に至る道の左側(さそく)に奧深(おくふか)き巖窟(がんくつ)あり。中に景淸の爲に建る碑(ひ)あり。是れ前の土牢の缺落(かけお)ちて舊形を存せさるより近頃新に故に碑を建てたるものなりと云ふ。

[やぶちゃん注:私の電子テクスト鎌倉九」より引く。

    *

景淸牢跡 扇ケ谷より假粧坂へ登る道端の左に、洞窟あり。上總七兵衞尉景淸が牢なりといふ。或は云、景淸は鎌倉へ來らず。【東鑑】にも景淸が事見へず。【長門本平家物語】に、建久六年三月十三日、右大將家東大寺供奉の時、上總ノ惡七兵衞景淸、鎌倉殿へ降人と成て參りければ、和田義盛に預けらる。然るに無體我儘なること多ければ、義盛もてあまし、餘人に預け給ふべしと申けるゆへ、其後八田知家に預給ふといふ。或はいふ、景淸も、預り人は替れども、宥免の沙汰もなければ、助けられまじきことを知て、其後は醤水を斷て、同七年三月七日に死けるといふ。右大將家、建久六年二月十四日御上洛、同年七月八日鎌倉へ還御とあり。義盛・知家も供奉せり。景淸が死去は翌年なれば、鎌倉へ知家が具して來り、鎌倉にて死せし事は、【日本史】等にも載たり。土の牢に入たるといふはなき事にて、洞窟は、土人が設て人をあざむけるものなり。偖景清が事は、古くよりつくり物語、又は戯作の僻名本などに事たるは、皆僞ごとにて、淸水觀音を信じ、冥助を得たる事は、主馬の盛久が事によそへ、鄙人の姿にやつし、右大將家を伺ひねらひしことは、兄忠光が義烈に似せ、或は賴朝卿の御服を乞得て、短刀をもて悉く裂切て、存念散ぜりとて、眼をつき潰し、盲人となりしなどいふ事は、豫讓が行ひにやつせり。是等の事、景淸が仕業には一つもなき事にして、忠光が義烈の事を、景淸なりと世人思へる者多し。又云、平氏家人、降人と成て出たるもの多けれど、大抵御ゆるしを得て、御家人に召仕はれけるゆへ、景淸も降人と成て出たるならん。御者免の御沙汰なき内は、囚人なれば、夫々に預け置れしが、年月を經ても御沙汰なきは、右大將家も思慮を廻らされ、景淸が親は、平家武者所別當上總介忠淸が子なり。景淸が兄忠光も、義烈を顯し誅殺せられ、景淸も容貌身體長大にして、力量人に超へ、武勇勝れるものなれば、容易に御者免なきも故ある事にて、且降人と成て出たれば、其疑ひありといへども、させる凶惡をなせしにもあらねば、刑にも處しがたく、日數經し内には、彼ももと常人ならねば、終には何事をか計りけんと、兼て思慮をめぐらされし事なるべし。

   *

この引用文中の「醤水を斷て」は「醤」は最低限の口にするものとしての舐め味噌を指して、食物や水といった口にするものを一切断つことを言っているのであろう。この植田の推理は、細かい部分に拘った(それは私に似ているのだが)かなりねちっこい(故に好きなのだが)ものである。

「建久六年」一一九五年。

「豫て」「かねて」と読む。あらかじめ、の意。

「設しか」「まうけ(もうけ)しか」と読む。

「此土牢に在しと云は信し難し。洞窟は土人か件爲して人を誑けるものか」私にはこの時代、一般に降人に対する処遇は想像に反して屋敷内の座敷牢のような場所や、屋敷内ではかなり自由な行動が許された軟禁が多かったように感ぜられる。まことしやかに復元されている護良親王土牢のような噴飯物同様、私もこの記者の疑義には大いに賛同する。この手の話は八割方、眉に唾つけておいた方が良い。

「漿水」恐らくは「こんず」と読んでおり、引用の「醤水」と似たような言いである。「漿」「濃漿」とも書き、「濃水(こみず)」からの転で、米を煮た汁、重湯(おもゆ)のことである。]

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