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2015/09/16

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 葛西谷/塔辻/妙隆寺/大巧寺/夷堂橋

    ●葛西谷

葛西谷は寳戒寺の境内(けいだい)川(かは)を越(こえ)て東南の谷なり、山の下に古への靑龍山東勝寺の舊跡あり、東勝寺は關東十刹の内にして、開山は西勇和尚退耕行勇の法嗣(ほふし)也(なり)と云ふ、今は寺亡(てらうせ)にして、太平記に相摸入道殿千餘騎にして葛西谷に引籠(ひきこも)り給へひければ、諸大將の兵共は東勝寺に充滿(みちみち)たり、是は父祖代々の墳墓の地なれば、爰にて兵共に防矢(ふせぎや)射させて心閒に自害せん爲也とあり、又相摸入道殿も腹切り給へば總(そう)して其門葉たる人二百八十三人、我先にと腹切、屋形(やかた)に火を懸(かけ)たれば猛火盛んに燃上り、黑煙(こくえん)天を翳たり、後に名字を尋ぬれば、此一所にて死する者總(すべ)て八百七十餘人也鳴呼(あゝ)此日何なる日ぞや、元弘三年五月二十二日と申に平家九代の繁昌(はんじやう)一時に滅亡して、源氏多年の蟄懷(ちつくわい)一朝に開(ひらく)る事を得たりとあり、今山腹の巖窟(がんくつ)に一基の墳墓を存す、曰く北條一門主從腹切やぐらと、又昔此の山上に彈琴松(ことひきのまつ)と云あり、松風(まつかぜ)の音尋常にかはれりとなむ、梅花無盡藏にものせたれどいつしか枯れにき。

[やぶちゃん注:「東勝寺」宝戒寺の南西二〇〇メートルの葛西ヶ谷の山裾にあった。現在の北条高時腹切りやぐらのすぐ下方一帯。開山退耕行勇、開基北条泰時で、嘉禄元(一二二五)年に執権となった泰時が北条氏の私的な菩提寺として建立したものであるが、元来、有事の際の城砦としての機能を持っていたことは、ここに最後に高時以下、北条一門が籠って自刃したことからも分かる。

「元弘三年」一三三三年。

「源氏多年の蟄懷」「蟄懷」は「ちつくわい(ちっかい)」と読む。心中の不満。鎌倉幕府に於いて得宗政治を敷いた北条氏は平氏であり、幕府殲滅の実動勢力であった足利尊氏や新田義貞は孰れも源氏である。

「彈琴松」新編鎌倉七」にさえ「今はなし」とある。次注参照。

「梅花無盡藏」は室町時代の禅僧歌人で太田道灌の知己でもあった万里集九(ばんりしゅうく 正長元(一四二八)年~?)の東国紀行。「梅花無尽蔵」の文明十八(一四八六)年の記事には、この東勝寺旧跡に至って「彈琴松を看る」とあり、室町後期まではこの松が残っていたことが分かる。]

 

    ●塔辻

塔辻は、寳戒寺の南の方(かた)、路の傍に石塔あり、里俗北條屋敷の下馬(げば)なりと云傳ふ。按するに大平記に高時滅亡の時、安東左衛門入道聖秀、いさや人々とても死せんずる命(いのち)を御屋形(おんやかた)の燒跡にて心閒に自害して鎌倉殿の御耻(おんはぢ)を洗(そゝ)かんとて、討殘(うちのこ)されたる郎等(らうだう)百餘騎を相從へて小町口へ打蒞む、先々出仕の如く塔辻にて馬より下(おる)と有、寳戒寺は北條屋敷なれば、此邊下馬と見へたり。

[やぶちゃん注:「塔辻」「とうのつじ」と読む。
 
「安東左衛門入道聖秀」安東聖秀(あんどうしょうしゅう ?~正慶二・元弘三(一三三三)年)は北条高時の臣従した武将。鎌倉攻めの先鋒新田義貞の妻の伯父であった。「太平記」の「安東入道自害の事」には、稲村ケ崎で義貞軍と戦って敗れ、北条屋敷へ帰参した時には既に屋敷は焼け落ち、一門は東勝寺に落ちていた。聖秀は屋敷では誰一人として腹かっ切って自害した者はないと聞いて口惜しがり、本文引用の覚悟を述べた。その直後、義貞の妻から投降を勧める使いが来たが、聖秀は恥を恥とも思わぬ降伏を拒絶、『一度は恨み一度は怒って彼の使の見る前にて、其の文を刀に拳り加へて、腹掻切りてぞ失せ給ひける』とある。凄絶であるが、それだけに私の好きな「太平記」の一シークエンスでもある。]

 

    ●妙隆寺

妙隆寺は小町の西頰にあり、叡昌山と號す、法華宗、中山の末寺なり、開山は日英、二代目は日親、堂に像あり、寺の後(うしろ)に池あり行の池といふ、日親(につしん)此池に手を浸し、一日に一指つゝ十指の爪をはなし、百日の間に本(もと)の如く生復(はへかへ)らば、所願成就と誓ひ出る血を此池にて洗ひ、その水を滴で曼荼羅を書(かく)、爪切(つめきり)の曼荼羅と云て此寺に有しを、法理(はふり)の異論に依て、住持退院の時盜み去しとなり。

[やぶちゃん注:

「西頰」「にしがは」(西側)と読む。

「中山」とは正中山法華経寺。千葉県市川市中山にある文応元(一二六〇)年創立の日蓮宗大本山寺院で、中山法華経寺とも呼ばれる。

「日親」(応永十四年(一四〇七)年~長享二(一四八八)年)は日蓮宗のファンダメンタリズムである「不受不施義」を最初に唱えたとされる人物で、その経歴も一繩ではいかない。永享五(一四三三)年、中山門流総導師として肥前国で布教活動を展開するが、その折伏の激烈さから遂には同流から破門されてしまう。同九(一四三七)年には上洛して本法寺を開くが、六代将軍足利義教への直接説法に恵まれた際、「立正治国論」を建白して不受不施を説いて建言の禁止を申し渡されてしまう。永享十二(一四四〇)年にはその禁に背いたとして投獄、本法寺は破却される。その捕縛の際、焼けた鉄鍋を被せられるという拷問を受けて、その鍋が頭皮に癒着、生涯離れなくなったため、後、その鍋を被った奇態な姿のままに説法を説いたという伝説が誕生、「鍋かぶり上人」「鍋かぶり日親」と呼ばれるようになった。翌嘉吉元(一四四一)年、嘉吉の乱で義教が弑殺されて赦免、本法寺を再建している。寛正元(一四六〇)年、前歴から禁ぜられていた肥前での再布教を行ったために再び本法寺は破却、八代将軍足利義政の上洛命令を受けて京都に護送、細川持賢邸に禁錮となったが、翌年寛正四(一四六三)年に赦され、町衆の本阿弥清延の協力を得て本法寺を再々建している(以上は主にウィキの「日親」を参照した)。折伏ガンガン、ファンダメンタル不受不施派、カンカンに熱した鉄鍋被り、自分で十指の爪を抜く――かなり危険がアブナイ、御人である。

「爪切の曼荼羅」「法理の異論に依て、住持退院の時盜み去しとなり」「鎌倉市史 社寺編」には『不受不施派の住職が持ち去ったのであろう』としている。不受不施派は江戸幕府が強烈に弾圧したことで知られ、それでも(いや、だからこそ)それを志向する日蓮僧や宗徒は思いの外、多かったようである。]

 

    ●大巧寺

大巧寺は小町の西頰にあり、相傳昔は長慶山正覺院大行寺と號し、眞言宗にて梶原屋敷の内(うち)にあり、後に大巧寺と改め此地に移すとなり、昔し日蓮妙本寺在世の時此寺法華宗となり、日澄上人を開山とし妙本寺の院家になれり。

[やぶちゃん注:「大巧寺」「だいぎやうじ(だいぎょうじ)」と読む。ここは我が藪野家の歴史の地である。僕の祖父が亡くなって四人の子を抱えた祖母はまず大巧寺おんめさまに落ち着いたのであった(後、大町に居を構えた)。

「梶原屋敷の内にあり」とあるのは「後に」「此の地に移す」で分かるように、この寺は元は十二所の梶原屋敷内にあった。寺伝によれば、源頼朝がこの十二所の大行寺で軍評定をして合戦に臨んだところ、勝利を得たことから寺号を大巧寺と改め、その後にこの地に移転したとある。

「院家」この場合は、本寺を補佐して諸種の法務を行う寺院をいう。]

 

    ●本覺寺

木覺寺は大巧寺の南鄰(なんりん)にあり、妙叡山と號す、身延山の末寺なり開山日出上人永享年中草創す、東國法華宗の小本寺にして、本尊は釋迦、文殊、普賢の三尊なり、本堂の傍に身延山分骨堂あり、又當寺内に五郞正宗の碑建てり。

[やぶちゃん注:現在の本覚寺の山門がある場所の前には当初、夷堂と呼ばれる堂があった(現在、昭和五十六(一九八一)年に再建されたものが山門内にある)が、これは頼朝が開幕の折り、幕府の鬼門にあたる方向の鎮守として建てたとされる天台宗系のものであった。文永十一(一二七四)年、佐渡配流から戻った日蓮がこの夷堂に一時期滞在し、目と鼻の先の小町大路で辻説法を展開した由縁から、後の永享八(一四三六)年、一乗院日出が夷堂を天台宗から日蓮宗に改めてこの本覚寺を創建したとされる。 後、身延山を再興した第二世行学院日朝は、身延山への参詣が困難な老人や女性のため、身延山より日蓮の遺骨を分骨して本覚寺に納めた。そこから当寺は「東身延」とも呼称される。この夷堂は、本覚寺創建時には境内に移された模様であるが、明治の神仏分離令で寺と分離されてしまい、同地区の七面大明神・山王台権現を合祀して蛭子神社となったが、夷堂再建後に夷神は戻されたという(以上はウィキの「本覚寺」に拠った)。

「小本寺」「こほんじ」と読むと思われる(新編鎌倉七」の「本覺寺」ではそうルビを振っている)。本末制度の一寺格。寛文五(一六六五)年に第四代将軍徳川家綱により発布された「宗門改帳」及び「諸宗寺院法度」によって宗門支配が強化されたが、平安時代からあった本末制度も元禄五(一六九二)年に厳密な見直しが行われ、全ての下位の寺が本山の管理下に置かれた。上から順に本山・本寺・中本寺・小本寺・直末寺・孫末寺といった系統で纏められた。本記載以後に中本山となり、昭和四十九(一九七四)年に由緒寺院(日蓮宗系で日蓮や宗派の顕著な事蹟を持つ寺院を言う)として本山に昇格した。

「五郞正宗の碑」「鍛冶正宗屋敷跡」の項の注に記したように、本覚寺には現在も本伝岡崎五郎正宗墓や正宗顕彰の碑がある。]

 

    ●夷堂橋

夷堂橋は座禪川の下流、小町と大町との境に架す、昔は此邊に夷三郞社ありしとなり。

[やぶちゃん注:この叙述は新編鎌倉七」の「夷堂橋」をそのまま持って来たものなのであるが、どうも今回、不審を覚えた。ここでは昔、この辺に「夷三郞社」、そのお堂があったから橋をこう名付けたというニュアンスで書かれているからである。何故、それが疑問かというと、前の本覚寺の注で述べたように、この場所(現在の本覚寺の山門附近)には本覚寺が建つ前に、「夷堂(えびすどう)」と呼ばれる堂があった(現在、昭和五十六(一九八一)年に再建されたものが山門内にある)が、これは頼朝が開幕の折り、幕府の鬼門にあたる方向の鎮守として建てたとされる天台宗系のものであったとされるからである。ここから考えると、これは天台宗系の鬼門封じの堂であって、以下に述べるように神道及びそれに習合した非仏教系の土地神の由緒とは縁がないからである。いや、もしかすると、それらをみんな総て呑み込んで習合してしまった結果こそが夷堂であったのかも知れない。大方の御批判を俟つものではある。

「夷三郎」は現在でも夷神の別名として通用しているが、本来は「夷」と「三郎」は異なった神であったものと考えてよい。「三郎」はイサナキとイサナミの最初に産んだ奇形児蛭子とも、大国主命(大黒)の三番目に生まれた子の事代主命とも言われ、後者が出雲の美保崎で命が魚を釣ったという伝承から「三郎」は魚と釣竿を持った姿で描かれる祀られるようになったともされる。それに海神・漂着神・来訪神として複雑に習合を繰り返してきたらしい夷神に更に習合して夷三郎という一体神化が行われたらしい。後にここに建てられる蛭子神社は明治新政府の神仏分離と習合祭祀という極めて政治的行為であったが、偶然にも「蛭子」を神社名として、夷神のルーツを遠望させる形見となっているのは面白い。]

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