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« 小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (八) | トップページ | (かなしみは……)   立原道造 »

2015/09/12

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (九)

       九

 

 千家尊紀は若い、元氣のよい人だ。そこに私の眼前に、その古代埃及希臘の僧侶風な不動の姿勢、その奇異な高い冠、その豐富な捲毛の髯と、その彫像のやうな波形を打たせて身邊に擴がつてゐる、ゆつたりした、雪白の神官裝束で、彼が坐してゐるとき、彼は私に取つては、舊日本の繪畫によつて古代の王公貴人や、英雄の莊嚴なる風姿に就て、私が想像してゐた、一切の面目を代表したものであつた。彼の人物の威嚴だけでも、尊敬を禁ぜざらしめる。しかし、その尊敬の感情と伴つて、私の心中にはまだ、日本で最も古い國の民衆によつて彼に拂はれる深い恭敬、彼の掌中にある無限の靈的權能、彼の血統の宏遠なる尊貴といふ考が、突如閃過したのであつた。で、私の尊敬は進んで畏懼に近い感情となつた。たゞ一個の神聖なる彫像――神に祀られた彼の遠祖の一人の彫像と思はるゝほど、彼は泰然不動である。が、初めの數瞬間の嚴肅は、彼の親切げな黑眼を依然凝乎と私の顏に注ぎ乍らも、彼の豐かな低音で發せられたる最初の言葉で愉快に破られた。それから私の通辯人が、彼の挨拶を譯した――その長い慇懃な文句に對するに、私は出來る限り立派な應答を以てし、私に與へられた特別の厚意に向つて感謝を表した。

 宮司は晃を通して答へた。『歐洲人で大社へ昇殿を許されたのは、貴下が最初です。杵築を訪ねた他の歐洲人で、境内へ入ることを許されたものは少々ありますが、貴下だけが神殿へ入ることを許されたのです。以前には、唯だ普通の好奇心から、こゝを訪ねようとした者は、境内へさへも近寄ることを許されなかつたのです。しかし西田氏【譯者註】の書面に御來遊の趣旨が認めてありましたので、かやうに欣然御案内申上げる次第です」

    譯者註。當時松江中學校の教頭たり

    し西田千太郎先生。今は故人。松江

    市の人、始め心理及教育を專攻した

    る鋭利の頭腦は、後轉じてまた英語

    の教授に發揮せられ、全校推畏の中

    心であつた。ヘルン先生の在校中、

    最も親密の間柄であつた。

 

 私は謝意を述べた。して、第二回の敬禮の後、會話は晃の仲介を經て續いた。

 私は尋ねた。『杵築のこの大社が、伊勢の神宮よりは古いではありませんか?』

 

 宮司は答へていふ。『ずつと古いのです。實際年代がよくわからないほど、古いのです。天照大御神の御命令によつて、神々ばかり住んでゐられた時代に、初めて建築されたからです。その當時は、非常に壯大なもので、高さ三十二丈、梁や柱は今頃の材木では作れない位巨大なもので、全體の組立を長さ一千尋の栲の繩で括つてあつたのです。

 『始めて改築のあつたのは、垂仁天皇の時でした。柱は皆澤山の大きな木材を集めて、大きな鐡の輪でしつかり縛り合せたのでしたから、鐡輪の構造と呼ばれたのです。この社殿も壯麗ではありましたが、神々が御造營になつた最初の宮よりは餘程劣つて、高さは唯十六丈でした。

 

    註。チエムバリン氏譯、古事記所載

    の珍らしき傳説參照。

 

 『第三囘目には齊明天皇の御代に改築せられて、高さはただ八丈でした。それ以來、大社の構造は決して變りません。當時用ひられた設計圖案が、現在の社殿の建築に於て、最も些細の點に至るまで嚴密に保存されてゐます。

 『大社の改築は二十八囘に及んでゐます。六十一年目毎に改築する習慣なのです。が、長く内亂の續いた時代には、百年間以上も修繕さへ出來なかつたのです。大永四年尼子經久が出雲の國守となつた時、大社を佛僧の管理に委ね、附近に堂塔を建立し、神聖なる傳説を汚しましたが、毛利元就が尼子氏に代つてから、社殿を淸め、荒廢してゐた儀式祭典を興したのです」

 私は尋ねた。『社殿が現在よりも、もつと大規模であつた時代に、建築用材は出雲の森林から獲られたのですか?』

 神官佐々氏が答へた。『天仁三年七月四日、百本の大きな樹木が杵築の悔岸へ漂流してきて、潮のため濱へ乘上げたと錄されてあります。その材木で永久三年に改築が出來ました。その社殿は「流れてきた木の建築」と呼ばれました。また同年、長さ十五丈もある大木の幹が因幡國、宮ノ下村の宇部の社といふ宮に近い海濱へ漂着しました。人々がそれを切らうとして見ると、怖ろしげな大蛇がそれを卷いてゐたので、皆驚愕して、宇部の社の神に助けを求めました。すると、神が顯れて、「出雲大社の改築毎に、何れの國からも、そこの神々の一人が材木を送るのだ。今囘わが番に當つてゐる。だからわがこの大木を以て造營を急いで呉れ」と云つたまゝ、その姿は消えました。かやうな諸記錄に因つて、神神がいつも大社の建築を監督したり、助け玉ふたことがわかります』

 私は問ふた。『神有月の間、大社のどの邊に神々はお集まりになりますか?』

 佐々氏は答へた。『内苑の東西兩側に十九社と申す長い建物がありますが、その十九個の宮のいづれにも祭神がないのです。で、神々がお集まりに玉ふのは、その十九社だらうと思はれます』

 『それから、毎年他國からの參拜者は、幾何でせうか?」と、私は問ふた。

 『約二十五萬人です。しかし農民階級の狀況如何に因つて、數に增減があります。豐年であれば、その數が增します。滅多に二十萬を下りません』と、宮司が答へた。

 

[やぶちゃん注:「千家尊紀は若い、元氣のよい人だ」既注であるが、当時の宮司千家尊紀は満三十歳、ハーンは四十であった。

「閃過」「せんくわ(せんか)」と音読みしておく。が閃光のようにぱっと過(よ)ぎること。

「畏懼」「ゐく(いく)」で、畏(おそ)れ憚ること。恐懼 (きょうく)に同じい

「西田千太郎」既出既注

「推畏」見かけない熟語であるが「すいゐ(すいい)」と読んでおく。「推」には押し戴く・奉る・奉戴するの意があるから、その人格と博識故に、当時の松江中学全校に於いて、真っ先に畏(かしこ)まって押し戴く一番の教師であった、という意であろう。

「杵築のこの大社が、伊勢の神宮よりは古いではありませんか?」「国立国会図書館レファレンス協同データベース」の島根県立図書館の事例「出雲大社の創建は何年か知りたい」の回答の情報によれば、出雲大社社務所編「出雲大社由緒略記」改訂二十三版・出雲大社社務所一九七二年刊に、「造営遷宮」では、神代に天照大神の勅命により諸神が参集して建築したとされ、人皇の世になってからは垂仁(すいにん)天皇二十三年(西暦では紀元前七年とする)に造営(日本書紀)、斉明天五(六五九)年に厳神宮を修造(日本書紀)などの記載あるとし、二〇〇五年学生社刊の椙山林継他共著「古代出雲大社の祭儀と神殿」の「社殿の創建はいつか」には、『社殿としての出雲大社の存在が、どの時期までさかのぼって確認できるか、は考古学的に裏付ける手がかりがない、とし』つつ、社殿は七世紀代に遡る可能性はあるとし、「キツキ」という地名が六百九十年代には『あるので、神殿を伴った建物として存在していた。日本書紀の記述より斉明天皇までに遡れるのではないか、としている』とある。一方、伊勢神宮の創建に関しては「堀貞雄の古代史・探訪館」の「伊勢神宮」に、『内宮の荒祭宮の境内では5~6世紀頃の遺物が出土し、「荒祭宮祭祀遺跡」と呼ばれる遺跡がある』。『一方、外宮では9世紀初頭の遺物が最古の例であることから、内宮の立地する場所が古くからの祭祀の場だったことは確実とされる』。『従来から内宮と外宮は距離的に離れすぎていることで、元は別の神の祭殿があったのを外宮に置き換えたのではないかとの説がある』。『皇大神宮の説明にも「古来の大祭、神御衣祭を受けられるのは、内宮と荒祭宮のみであることからも、この宮の特別な神位がうかがわれます」とあるが、瀬織律姫の名は公表されていない。今も皇大神宮の極秘とされている』。壬申の乱(六七二年)の『混乱が鎮まり、律令国家を目指していた時期に、中華王朝の皇帝が奉祭する祖霊廟と様式が異なるが、日本国の天皇家の祖霊廟としての風格を備えた神宮創建(あるいは大改造)に着手し』、六九〇年頃に伊勢神宮の内宮、六九八年頃には『外宮が完成したものと思われるが起源に関する史料がない』とある。『伊勢神宮の成立について確かなのは、現在地での成立が文武天皇』の六九八年『であること。彼は律令体制を築いた天武・持統両実力天皇の孫。伊勢神宮は『日本書紀』と同様に、日本国の体制固めのための歴史や祭祀整備の一環であるが、天武天皇は完成を待たずに死去した』とある(下線は総てやぶちゃん)。古代の神の祭儀場としての杵築(出雲)大社の前身の創建は確かに非常に古いには違いにないが、少なくともここで細かな数値説として出るところの、斉明天五年の六五九年と伊勢神宮の文武天皇の六九八年とでは、「ずつと古い」とはこれ、ちょっと言えない。

「三十二丈」約九十六・九七メートル。

「一千尋」約一・八三キロメートル

「栲」原文によって「たく」と読んでいるが、この部分の原注によってこれは和紙の原料とされるイラクサ目クワ科コウゾ属コウゾ Broussonetia kazinoki × Broussonetia papyrifera のことを指していることが判る。ウィキの「コウゾ」によれば、『楮の皮の繊維は、麻に次いで長く繊維が絡み合う性質が強く、その紙は粘りが強く揉んでも丈夫な紙となる』とあるから、紙に加工す以前の状態のものを大木を引く繩としたものであろう。

「垂仁天皇」前注参照。第十一代天皇とする。第十代崇神天皇の第三皇子。存在が疑われてきたが、近年は実在説が高まっているとウィキの「垂仁天皇」にはある。

「鐡輪の構造」「鐡輪」は「かなわ」と読む。聳え立つ社殿を支える三本の柱材と補助材を大きな鉄の輪で締めて固定したもので、この宮大工の手法は後の松江城天守閣の特殊構造に応用されている(これは国立松江工業高等専門学校名誉教授島田成矩氏のこちらの記事拠った)。

「十六丈」四十八・四八メートル。

「古事記所載の珍らしき傳説」「中つ巻」の垂仁記の中の、垂仁天皇の第一皇子で永く言葉を話せなかった(それをそこでは出雲大神の祟りとするのであるが)「本牟智和氣(ほむちわけ)の御子(みこ)」に纏わる条々に出る、出雲の仮御殿造営、続く「肥長比賣(ひながひめ)」との同衾から覗き見による姫の蛇体露見、御子の逃走の物語を言うか。ハーンがここで指し示す具体的なターゲットとして「古事記」どの部分の伝説を指してゐるのかが私には今一つよく分からないのである。識者の御教授を乞うものである。

「齊明天皇」(五九四年~六六一年)は女帝。舒明天皇の皇后で中大兄・大海人両皇子(天智・天武両天皇)の母。六四二年に第三十五代天皇皇極天皇として即位し、大化改新で退位するも六百五十五年に重祚して第三十七代斉明天皇となった(第三十六代は孝徳天皇)。宮殿や饗宴施設の建設など飛鳥に於いて相次いで大土木工事事業を敢行した。六百六十一年に遠征先の九州で死去した。詳細はウィキの「斉明天皇」などを参照されたい。

「八丈」二十四・二四メートル。

「大永四年」一五二四年。

「尼子經久」(長禄二(一四五八)年~天文一〇(一五四一)年)は戦国大名。出雲守護代清定の子。初め守護代、後に一時、流浪したものの、後に月山富田城(がっさんとだじょう:現在の島根県安来市広瀬町にあった)富田城主となって毛利元就と対抗、山陰に強大な勢力を伸長した。

「天仁三年」一一一〇年。

「永久三年」一一一五年。

「十五丈」四十五・四五メートル。

「因幡國、宮ノ下村の宇部の社」現在の鳥取県鳥取市国府町(こくふちょう)宮下(みやのした)にある宇倍(うべ)神社。鳥取砂丘の南東八・五キロメートルの内陸、現在の山陰本線鳥取駅からは東南東に四・二キロメートルの位置にある。祭神は武内宿禰命。同神社公式サイトウィキ宇倍神社リンクしておくが、孰れにも出雲大社との関係性の記載はない。

「十九社」本殿外周左右に配置されてある計二棟の建物。出雲大社公式サイト内の末社」の「十七社」には、『神在祭の間』(旧暦の十月十一日から十七日までの間)、『集われた全国各地の神々の宿所となる社です。通常は全国各地の神々の遙拝所です』とある。先日の「ブラタモリ」で見たが、かなり地味な建物で下手をすると見過ごしてしまう感じがした。]

 

 

Sec. 9

Senke Takanori is a youthful and powerful man. As he sits there before me in his immobile hieratic pose, with his strange lofty head-dress, his heavy curling beard, and his ample snowy sacerdotal robe broadly spreading about him in statuesque undulations, he realises for me all that I had imagined, from the suggestion of old Japanese pictures, about the personal majesty of the ancient princes and heroes. The dignity alone of the man would irresistibly compel respect; but with that feeling of respect there also flashes through me at once the thought of the profound reverence paid him by the population of the most ancient province of Japan, the idea of the immense spiritual power in his hands, the tradition of his divine descent, the sense of the immemorial nobility of his race—and my respect deepens into a feeling closely akin to awe. So motionless he is that he seems a sacred statue only— the temple image of one of his own deified ancestors. But the solemnity of the first few moments is agreeably broken by his first words, uttered in a low rich basso, while his dark, kindly eyes remain motionlessly fixed upon my face. Then my interpreter translates his greeting—large fine phrases of courtesy—to which I reply as I best know how, expressing my gratitude for the exceptional favour accorded me.

'You are, indeed,' he responds through Akira, 'the first European ever permitted to enter into the Oho-yashiro. Other Europeans have visited Kitzuki and a few have been allowed to enter the temple court; but you only have been admitted into the dwelling of the god. In past years, some strangers who desired to visit the temple out of common curiosity only were not allowed to approach even the court; but the letter of Mr. Nishida, explaining the object of your visit, has made it a pleasure for us to receive you thus.'

Again I express my thanks; and after a second exchange of courtesies the conversation continues through the medium of Akira.

'Is not this great temple of Kitzuki,' I inquire, 'older than the temples of Ise?'

'Older by far,' replies the Guji; 'so old, indeed, that we do not well know the age of it. For it was first built by order of the Goddess of the Sun, in the time when deities alone existed. Then it was exceedingly magnificent; it was three hundred and twenty feet high. The beams and the pillars were larger than any existing timber could furnish; and the framework was bound together firmly with a rope made of taku [11] fibre, one thousand fathoms long.

'It was first rebuilt in the time of the Emperor Sui-nin. [12] The temple so rebuilt by order of the Emperor Sui-nin was called the Structure of the Iron Rings, because the pieces of the pillars, which were composed of the wood of many great trees, had been bound fast together with huge rings of iron. This temple was also splendid, but far less splendid than the first, which had been built by the gods, for its height was only one hundred and sixty feet.

'A third time the temple was rebuilt, in the reign of the Empress Sai- mei; but this third edifice was only eighty feet high. Since then the structure of the temple has never varied; and the plan then followed has been strictly preserved to the least detail in the construction of the present temple.

'The Oho-yashiro has been rebuilt twenty-eight times; and it has been the custom to rebuild it every sixty-one years. But in the long period of civil war it was not even repaired for more than a hundred years. In the fourth year of Tai-ei, one Amako Tsune Hisa, becoming Lord of Izumo, committed the great temple to the charge of a Buddhist priest, and even built pagodas about it, to the outrage of the holy traditions. But when the Amako family were succeeded by Moro Mototsugo, this latter purified the temple, and restored the ancient festivals and ceremonies which before had been neglected.'

'In the period when the temple was built upon a larger scale,' I ask, 'were the timbers for its construction obtained from the forests of Izumo?'

The priest Sasa, who guided us into the shrine, makes answer: 'It is recorded that on the fourth day of the seventh month of the third year of Ten-in one hundred large trees came floating to the sea coast of Kitzuki, and were stranded there by the tide. With these timbers the temple was rebuilt in the third year of Ei-kyu; and that structure was called the Building-of-the-Trees-which-came-floating. Also in the same third year of Ten-in, a great tree-trunk, one hundred and fifty feet long, was stranded on the seashore near a shrine called Ube-no-yashiro, at Miyanoshita-mura, which is in Inaba. Some people wanted to cut the tree; but they found a great serpent coiled around it, which looked so terrible that they became frightened, and prayed to the deity of Ube- noyashiro to protect them; and the deity revealed himself, and said: "Whensoever the great temple in Izumo is to be rebuilt, one of the gods of each province sends timber for the building of it, and this time it is my turn. Build quickly, therefore, with that great tree which is mine." And therewith the god disappeared. From these and from other records we learn that the deities have always superintended or aided the building of the great temple of Kitzuki.'

'In what part of the Oho-yashiro,' I ask, 'do the august deities assemble during the Kami-ari-zuki?'

'On the east and west sides of the inner court,' replies the priest Sasa, 'there are two long buildings called the Jiu-kusha. These contain nineteen shrines, no one of which is dedicated to any particular god; and we believe it is in the Jiu-ku-sha that the gods assemble.'

'And how many pilgrims from other provinces visit the great shrine yearly?' I inquire.

'About two hundred and fifty thousand,' the Guji answers. 'But the number increases or diminishes according to the condition of the agricultural classes; the more prosperous the season, the larger the number of pilgrims. It rarely falls below two hundred thousand.'

 

11 Taku is the Japanese name for the paper mulberry.

 

12 See the curious legend in Professor Chamberlain's translation of the Kojiki.

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