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2015/09/02

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (七)・(八)

         七

 

 鐡柱の長い、白い橋は如何にも近代式である。實際この春盛大な開通式を擧げたばかりだ。極く古い習慣によれば、新橋の落成した場合、界隈での一番果報者が渡初めをする。それで松江の役所で搜し出したのは、二名の高齡者であつた。二人とも妻を持つてから半世紀以上にもなるし、十二人も子を有つて、それが一人缺けてゐなかつた。この老人達が妻女共を伴れ、後からは成人した子や孫や曾孫が附隨つて、渡初めをした。歡呼の聲がどよめき、煙火が揚げられ、祝砲が鳴つたのであつた。

 しかし古い橋は、水の上に彎形に架かつて、數多き橋柱に支へられ、無茶な種類の長肢の百足虫のやうで、今度の新しい橋梁よりも遙かに美觀であつた。三百年間も儼然と河に跨り、且つ獨特の傳説を有つてゐた。

 慶長時代に出雲の大名となった堀尾吉晴が、始めてこの河口へ橋を架けようとした時、大工が幾ら骨折つても駄目であつた。柱を支へる堅固な河底が無いやうであつた。澤山巨石を投げ込んで見たが、何の甲斐も無かつた。晝間の作業は夜の間に流されたり、丸呑みにのみこまれたからである。しかし畢竟、橋は架つた。が、直ぐに柱が沈み出した。それから洪水のために半數の柱が流された。修復をすれば、また壞はれる。そこで人身御供をして、水神の怒を宥めることとなつた。水流の最も意地惡い、中央の柱の根元へ、一人の男を生きながらに埋めた。それから橋は三百年間びくとも動かなかつた。

 犧牲になつた男は、雜賀町に住んでゐた男源助といふ者であつた。それはまちのない袴を着けて橋を渡る者があれば、それを埋めることに決めてあつた。すると、まちのない袴を穿いてゐた源助が、渡らうとしたので、犧牲になつた。その譯で、最中央の橋柱は源助柱と名が附いてゐた。月の出ない宵には――いつも二時から三時までの深更に――その柱の邊を鬼火が飛んださうである。して、諸外國に於けると同じく、幽靈の火は日本に於ても大概靑いものと聞いてゐるが、この火の色は赤であつたさうだ。

    註。まちは袴の腰に縫ひつけた厚紙、

    又はその他の材料の堅い片で、袴の

    折目を正しくするためのものである。

 

[やぶちゃん注:ここで語られるのは、大橋川に架かる「大橋」或いは「松江大橋」とも呼ばれるものである。ウィキの「大橋 (大橋川)によれば、ハーンがここで描写しているのは明らかに近代的な鉄製トラス橋となった第十五代目のそれで、ハーンが松江に来た翌年の明治二四(一八九一)年の竣工とある(ハーンは明治二十三年の八月末に松江の大橋そばの富田屋に入っているのにも拘わらず「この春」と言っているのに注意されたい)。第十四代目の橋は弘化四(一八四七)年の竣工であるから、ハーンの描写とは全く合わない。即ち、この部分は実は時間差で語られている一種の文学的虚構であることが判るのである。だからこそハーンが「しかし古い橋は、水の上に彎形に架かつて、數多き橋柱に支へられ、無茶な種類の長肢の百足虫のやうで、今度の新しい橋梁よりも遙かに美觀であつた」と断言しているのは、当時の前の橋の最後の美しい原風景の最後を(既に架け替え工事中ではあったと思われるものの)、辛くも松江到来の折りに視認していたのだということを暗に示している、と私は読む。なお更に言えば、この橋のさらに前身は「白潟橋(しらかたはし)」或いは「カラカラ橋」などと呼ばれる竹製の人しか通れないような橋であったという。ハーンが先の「五」の冒頭をまさに「カラカラ」と聴こえてくる下駄の音から始めたのは偶然と思うが、私は何か、不思議にハーンの持つ集合的無意識の霊性を感じてしまうのである。

「儼然」老婆心乍ら、「嚴然(厳然)」に同じい。厳(いか)めしく厳(おごそ)かな、動かし難い威厳のあるさまの意。

「堀尾吉晴」(天文一三(一五四四)年~慶長一六(一六一一)年)は大名ではあったが、当時は藩主ではなく、出雲松江藩初代藩主忠氏の実父で既に隠居の身であった(詳しくはウィキの「堀尾吉晴」を参照)。忠氏は慶長五(一六〇〇)年の関ヶ原の戦いで家康方の東軍に与して山内一豊と城提供の策を謀議、父に代わって東軍側として関ヶ原前哨戦に武功を立て、その論功行賞で出雲松江二十四万石に加増転封(当時、数え二十三)、父とともに協力して藩政を行なった。慶長十六年に松江城を建造したものの、吉晴は同年六月十七日に死去している。但し、吉晴のウィキの記載には、『吉晴は実際には藩主になっていないが、忠氏時代には忠氏と二元政治を行ない、忠晴時代には若年の忠晴に代わって政務を代行していたことから、松江藩の初代藩主として見なされることが多い』とあるから、ハーンの謂いは決しておかしくない。ウィキの「堀尾忠氏」(それによれば吉晴の次男とも長男――兄金助養子(吉晴弟の実子)説による――とも伝える)もリンクさせておく。

「三百年間」ウィキの「大橋 (大橋川)には、慶長一二(一六〇七)年に『堀尾吉晴が松江城建築のために架橋工事を始め、翌年、初代にあたる』百五十三メートルの『木の橋が完成する。北の末次と南の白潟の間にある唯一の橋として使われ、他の所属の船は南詰の渡海場(船着き場周辺)で必ず荷物を降ろさなければならなかった』とある。ハーンの来訪は明治二三(一八九〇)年であるから厳密には起工からは数えで二百八十四年ではある。

「雜賀町」現在の松江市雑賀町(さいかまち)。大橋南詰から南及び南南東に凡そ一キロメートル圏内にある。

「源助」ネット上の複数の情報では足軽人足であったとする。彼に就いての伝説はネット上でも多く見られるが、取り敢えず松愛会・山陰支部公式サイト内の「松江大橋と源助」及び逸匠冥帝氏の「日本伝承大鑑」の「松江大橋 源助柱」をリンクさせておく。前者のリンク先によれば、マチのない袴ではなく、『横縞の継ぎをした袴という説もある』と補説されてある。

まちのない袴」袴の中に襠(まち/中仕切り)がない「行灯袴(あんどんばかま)」(見た感じが行灯に似ているからと呼ばれる。なお、襠のあるキュロット状のものは「馬乗袴(うまのりばかま)」と称する)。行灯袴は袴が町人の間でも穿かれることの多くなった江戸後期に発案されたものとウィキの「袴」にはあり(しかしだとすると江戸前期のシークエンスと齟齬する。これはウィキの記載が正しいとすれば頗る不審で、寧ろ、前注にある通り実は『横縞の継ぎをした袴』であった可能性が浮上して来るように私には思われる)、一種のスカートのような袴である(但し、純和袴(わばかま)であって、大正期に誕生するスカートを確信犯で真似た女袴(おんなばかま)とは外見上は似て見えるものの本質的に異なる)。ただやはり当初は専ら婦人用であったらしいが、後には男も穿くようになった。]

 

 

Sec. 7

The long white bridge with its pillars of iron is recognisably modern. It was, in fact, opened to the public only last spring with great ceremony. According to some most ancient custom, when a new bridge has been built the first persons to pass over it must be the happiest of the community. So the authorities of Matsue sought for the happiest folk, and selected two aged men who had both been married for more than half a century, and who had had not less than twelve children, and had never lost any of them. These good patriarchs first crossed the bridge, accompanied by their venerable wives, and followed by their grown-up children, grandchildren, and great-grandchildren, amidst a great clamour of rejoicing, the showering of fireworks, and the firing of cannon.

But the ancient bridge so recently replaced by this structure was much more picturesque, curving across the flood and supported upon multitudinous feet, like a long-legged centipede of the innocuous kind. For three hundred years it had stood over the stream firmly and well, and it had its particular tradition.

When Horio Yoshiharu, the great general who became daimyo of Izumo in the Keicho era, first undertook to put a bridge over the mouth of this river, the builders laboured in vain; for there appeared to be no solid bottom for the pillars of the bridge to rest upon. Millions of great stones were cast into the river to no purpose, for the work constructed by day was swept away or swallowed up by night. Nevertheless, at last the bridge was built, but the pillars began to sink soon after it was finished; then a flood carried half of it away and as often as it was repaired so often it was wrecked. Then a human sacrifice was made to appease the vexed spirits of the flood. A man was buried alive in the river-bed below the place of the middle pillar, where the current is most treacherous, and thereafter the bridge remained immovable for three hundred years.

This victim was one Gensuke, who had lived in the street Saikamachi; for it had been determined that the first man who should cross the bridge wearing hakama without a machi [5] should be put under the bridge; and Gensuke sought to pass over not having a machi in his hakama, so they sacrificed him Wherefore the midmost pillar of the bridge was for three hundred years called by his name—Gensuke-bashira. It is averred that upon moonless nights a ghostly fire flitted about that pillar—always in the dead watch hour between two and three; and the colour of the light was red, though I am assured that in Japan, as in other lands, the fires of the dead are most often blue.

 

5 Machi, a stiff piece of pasteboard or other material sewn into the waist of the hakama at the back, so as to keep the folds of the garment perpendicular and neat-looking.

 

 

 

       八

 

 或人の話によると、源助は人の名でなく、年號の名を訛つたのだといふ。が、この傅説は非常に深く信ぜられてゐて、この新橋の建築中、幾千の田舍者が市へ出るのを怖れてゐた。といふのは、新しい犧牲が必要で、田舍者からそれを選ぶといふこと、また依然昔風を守つて髷に結つてゐるものから選ぶといふことの噂がたつたからである。それが爲めに數百の老人が髷を切り捨てた。すると、また初日に新しい橋を通行するものの内で、千人目のものを捕へて、源助のやうに處する旨、警察に祕密の命今が下つてゐるといふ噂傳はつた。で、いつも百姓で賑ふ稻荷祭にも、今年はあまり人出が無かつた。して、この地方の商賣に取つては、數千圓の損失だといふことであつた。

 

[やぶちゃん注:私はこの源助の話を読むと……前に「第三章 お地藏さま 六」で注した……ハーンが人力車で渡ったかもしれない横浜の弁天橋に……明治六(一八七三)年……ラシャメンの産んだ混血の少年四人が……人柱となって埋められたという事実を知ったら……ハーンはどう思っただろう……と……ついつい考え込んでしまうのである……。

「源助は人の名でなく、年號の名を訛つたのだ」ネット上で元号誤認説を探してみたが見当たらない。識者の御教授を乞う。]

 

 

Sec. 8

Now some say that Gensuke was not the name of a man, but the name of an era, corrupted by local dialect into the semblance of a personal appellation. Yet so profoundly is the legend believed, that when the new bridge was being built thousands of country folk were afraid to come to town; for a rumour arose that a new victim was needed, who was to be chosen from among them, and that it had been determined to make the choice from those who still wore their hair in queues after the ancient manner. Wherefore hundreds of aged men cut off their queues. Then another rumour was circulated to the effect that the police had been secretly instructed to seize the one-thousandth person of those who crossed the new bridge the first day, and to treat him after the manner of Gensuke. And at the time of the great festival of the Rice-God, when the city is usually thronged by farmers coming to worship at the many shrines of Inari this year there came but few; and the loss to local commerce was estimated at several thousand yen.

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