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2015/09/22

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十二章 京都及びその附近に於る陶器さがし 風景スケッチ(その3)

M675

図―675

M676

図―676

 

 街道のある場所で休んだ時、よくある種の吸物に入っている、一種の変った食物を製造していた。これは艶々した黄色で、紙のように薄く、味とては別に無い。大豆から奇妙な、且つ簡単な方法でつくり出す。先ず豆を非常にやわらかくなる迄、大きな釜で煮、臼にかけて細かく挽いて糊状になし、水をまぜ、外国から輸入する、ある種の染料で色をつける(図675)。そこでこれを四角く仕切られた浅い水槽へ入れるが、その下には炭火があり、常にとろとろと煮立て続ける。するとその表面が煮た牛乳か、ココアの一杯に於るが如く凝結するので、かくて構成される薄膜を、細い竹の箸で巧みに取り上げ、ひっかけて乾燥させる(図676)。別の薄膜も、出来るに従って、忙しく働きつつある娘に、すばやく取り上げられる。

[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、湯葉である。]

 

 和歌山に近い紀伊の平原に入った時の景色は、まことに奇麗であった。ひろびろとした稲田のあちらこちらには、褐色の葺屋根と白い壁とを交えた黒い瓦屋根の百姓家が数軒ずつかたまり、その上には深く暗色に茂る葉の、面白い形の木が聳えるのだが、それがすべて何マイルにわたる最も艶々した緑色の、完全に平坦な敷物の上に散在している。和歌山の位置は、地平線上に高くぬきんでて、周囲の景色の中での目立つ特徴をなすお城によって、遠方からでもそれと知られる。

M677

図―677

 

 ある国から他の国へ旅行すると、いろいろなことが違っているのに気がつく。瓦葺きの屋根の変種に就ては、この日記ですでに述べるところがあった。図677は紀伊で使用される犂(すき)の一種である。これは山城で用いられるものと同様であるが、それ程頑丈でもなければ、また優雅でもない。

 

 我々は夕方の六時に、和歌山へ着いた。この都会は低い丘陵の上に、大きな立木に取りかこまれて位置する。五万か六万の人口を持っているのだが、それにもかかわらず、簡素で静かである。町の内を、人力車を走らせて行くと、人々は熱心な有様で我々を凝視した。ある場所を訪れる外国人の数は、そこで我々が受ける凝視の量と質とによって推測することが出来る。我々は、外国人がめったに和歌山に行かぬことと判断した。我々は清潔な旅籠(はたご)屋を見つけた。何かを喰い、そして床につくことは、よいものである。翌朝我々は、例の如く陶器をさがしに出かけて沢山手に入れた。翌日も、最初の日と同じことをくり返した。

 

 その日の午後、田原氏と私とは、小漁村和歌浦へと人力車を走らせた。ここは海岸から一寸入った場所で、遠方には美しい山々が聳えている。その山の一つの中腹には、大きなお寺が落陽の光に輝いていた。我々が越した一つの小さな橋の上では、大人や子供の群が蜻蛉(とんぼ)を捕えて遊んでいた。彼等は正規的な捕虫網を持っていたが、ある一人は両手を自由にしておくために、四匹の蜻蛉を翅(はね)を後に廻して、口でくわえていた。また一人の男の子は、同じようにした蜻蛉数匹を、指の間にはさんでいた。子供達は、蜻蛉の胸と腹との間に糸を結びつけて遊ぶ。虫は飛びながら、軽い糸を数フィートぶら下げている。これは日本いたる所で見受ける子供の遊びである。

[やぶちゃん注:「和歌浦」(わかのうら)は和歌山県北部、現在の和歌山市南西部に位置する海浜を含む広域の景勝地で古来よりの歌枕でもある。ウィキ和歌浦によれば、現行の『住所表記での「和歌浦」は「わかうら」と読むために、地元住民は一帯を指して「わかうら」と呼ぶことが多い。狭義では玉津島と片男波を結ぶ砂嘴と周辺一帯を指すのに対し、広義ではそれらに加え、新和歌浦、雑賀山を隔てた漁業集落の田野、雑賀崎一帯を指す。名称は和歌の浦とも表記する』とあり、「万葉集」にも『詠まれた古からの風光明媚なる地で、近世においても天橋立に比肩する景勝地とされた。近現代において東部は著しく地形が変わったため往時の面影は見られない』ともある。『和歌浦は元々、若の浦と呼ばれていた。聖武天皇が行幸の折に、お供をしていた山部赤人が』、

 若の浦に 潮滿ち來れば 潟をなみ 葦邊をさして 鶴(たづ)鳴き渡る(「万葉集」巻第六(九一九番歌))

『と詠んでいる。「片男波」という地名は、この「潟をなみ」という句から生まれたとされる。また、『続日本紀』によれば、一帯は「弱浜」(わかのはま)と呼ばれていたが、聖武天皇が陽が射した景観の美しさから「明光浦」(あかのうら)と改めたとも記載されている』。『平安中期、高野山、熊野の参詣が次第に盛んになると、その帰りに和歌浦に来遊することが多くなった。中でも玉津島は歌枕の地として知られるようになり、玉津島神社は詠歌上達の神として知られるようになっている。また、若の浦から和歌浦に改められたのもこの頃であり、由来には歌枕に関わる和歌を捩ったともいわれる』とある。

「数フィート」一フィートは三十・四八センチメートルであるから、百九十センチメートルほどか。]

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