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2015/09/22

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 田代觀音堂

   ●田代觀音堂

田代觀音堂は普門寺と號す、妙本寺の東南なり、安養寺の末寺堂の額に白花山とあり、坂東巡禮札所の第三、本尊千手觀音なり、此西の方を田代屋敷と云、田代冠者(たしろくわんじや)信綱か舊跡、今は畠なり。

[やぶちゃん注:またしても「新編鎌倉志卷之七」の引き写しである。

   *

〇田代觀音堂〔附田代屋敷〕 田代(たしろ)の觀音堂は、普門寺と號す。妙本寺の東南なり。安養院の末寺、堂の額に、白花山(はくくはさん)と有り。坂東巡禮札所の第三なり。本尊、千手觀音なり。此の西の方を田代屋敷(たしろやしき)と云ふ。田代の冠者信綱が舊跡也。今は畠なり。

   *

この寺は永らく安養院と同位置或いは同一の寺とする誤った認識が一部にあった、或いはあったものと思われる。その証拠に、本『風俗画報』には、なくてはいけないはずの安養院の項がどこにいもない。これはまさしく、この記者が無批判に「新編鎌倉志」を引き写し、現地探索を怠った結果である。この寺、「新編鎌倉志卷之七」にある妙本寺の周辺を描いた絵図を見ても、妙本寺の東南東の一尾根越えた妙本寺の近在地に示されてある。これはどう見ても現在の安養院の位置ではない。現在、一部のガイドでさえ、この田代観音堂と安養院を同一に扱っているものが見受けられるが、リンク先の絵図を見ても分かる通り、位置的には安養院に近いものの、全く別個な寺院であって、そもそも「安養院」は「新編鎌倉志卷之七」でも、本『風俗画報』でも、この後に別に項立てして掲げられているのである。前にも述べたが、この雑誌片手に「田代觀音堂」を一所懸命探して汗だくになっている旅行者の徒労を考えると、記者の、あたかも現存するものとして無批判に引き写した罪は頗る重い。

 実はこの寺については『相模国風土記』に、

延宝八(一六八〇)年十月晦日の火事で安養院に移った

旨の記載がある。

 この年号に注目されたい。「新編鎌倉志」の元となった、

光圀自身の来鎌は延宝二(一六七四)年

で、その後に本書

「新編鎌倉志」の完成板行されたのは貞亨二(一六八五)年

であった。正に、

執筆途中に田代観音堂は移動してしまった

のであった。従ってこの「新編鎌倉志卷之七の絵図は辛くも残った、

本当の「田代觀音堂」の位置を伝えるもの

なのである。私は「新編鎌倉志」の編者らは、この全焼と観音像移動前に、この巻を校了してしまっており、こうしたアップ・トゥ・デイトに発生した鎌倉域内での大きな変異は全く反映されることがなかったものと推理するのである。

 因みに、幕末の文政十二(一八二九)年刊の植田孟縉(うえだもうしん)編の「鎌倉攬勝考卷之七」も、その事実を知らず、しかもここでも実地調査をせず、ご覧になれば分かる通り、ほぼそのままに書き写してしまった結果、あたかもその頃にも田代観音堂が実在したかのような、

   *

田代觀音堂 普門寺と班す。妙本寺の東南なり。安養院末、堂の額に白華山と有。本尊千手觀音、坂東第三番の札所。此の西の方を田代屋敷と唱ふ。田代冠者信綱が舊跡。今は畑なり。

   *

というとんでもない誤記載を犯しているのである。こうした無批判な引き写しが、遂には明治の近代最初の本格鎌倉ガイドブックにさえもおぞましくも引き継がれてしまったのである。無批判な引用をする記者はジャーナリズムの風上にも置けない。いやいや、未だに今日只今、同じようなことをして平然としている輩も、いるようだ。全く以って――危険がアブナいよ――

「田代信綱」(生没年不詳)は石橋山の戦で頼朝に従い、後、源義経の下で平家討伐に辣腕を振るった。後三条天皇後胤とも伝えられる人物である。]

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