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2015/09/15

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (一七)

       一七

 

 親切な宮司一行に別れを告げてから、神官佐々氏と外一名に案内されて、町の後ろの小灣、稻佐の濱へ行つた。佐々氏は和歌に巧みで、神道の歷史と尊い古典に通曉せる人で、濱邊を逍遙し乍ら、種々の珍らしい傳説を語つてくれた。

 この濱は今は人氣の盛んな海水浴場で、風通しのよい小さな宿屋や、綺麗な茶店が海岸に並んでゐるが、稻佐と呼ばれるのは、こゝで大國主神が始めて正勝吾勝勝速日天の忍穗耳の命に、その出雲の領土を讓るやうに請求されたといふ神道の傳説によるのだ。稻佐といふ語は『然か、否か?』の意だ。古事記第一卷第三十二章に、その昔譚が載せてある。私はその一部分を引用する。

 『この二柱の神(鳥船の神と健雷の神)出雲の國伊那佐の小濱に降り着きて、十掬劔を拔きて、浪の穗を逆に刺し立てて、その劔の前に跌み坐て、その大國主の神に問ひ給はく、『天照大御神高木の神の命もちて、問ひに使はせり。汝が領ける葦原の中つ國は、我が御子の知らさむ國と、言依し給へり。かれ汝が心奈何ぞ』と問ひ給ふ時に、答へまつらく、『僕は得申さじ、我が子八重言代主の神、これ申すべき』……かれこゝに、その大國主のに問ひ給はく、『今汝が子、事代主の神、かく申しぬ。まだ申すべき子ありや』と問ひ給ふ折しも、こゝにまた申しつらく、『また我が子、建御名方の神あり』……かく申し給ふ折しも、この建御名方の神、千引石を手末にさゝげて來て、「然らば力競せん」と云ふ』

 こゝの磯に稻佐宮といふ小祠が建つてゐて、力競に克つた武雷の神が祀つてある。して、濱邊に建御名方の神が指先きでもたげた大岩が、水から立上がつてゐるのが見える。それを千引の岩と呼ぶ。

 そよ吹く風に面した一軒の小亭へ神官達を招待して、私共は食事を共にした。色々の話を交へたが、特に杵築と國造に關してであつた。

 

[やぶちゃん注:「稻佐の濱」「いなさのはま」と読む。出雲市大社町の出雲大社社殿の真西凡そ一キロメートル強に位置する砂浜海岸。ウィキの「稲佐の浜」に、『国譲り神話の舞台でもあり、「伊那佐の小濱」(『古事記』)、「五十田狭の小汀」(『日本書紀』)などの名が見える。また稲佐の浜から南へ続く島根半島西部の海岸は「薗の長浜(園の長浜)」と呼ばれ、『出雲国風土記』に記載された「国引き神話」においては、島根半島と佐比売山(三瓶山)とをつなぐ綱であるとされている』とあり、出雲大社の神事である神幸祭(新暦八月十四日)と神迎祭(旧暦十月十日。今年二〇一五年の場合は十一月二十一日に相当し、実際に本年度例祭にはそう組まれてある)が行われる。浜の周辺には、

   《引用開始》

弁天島(べんてんじま) 稲佐の浜の中心にある。かつては弁才天を祀っていたが、現在は豊玉毘古命[やぶちゃん注:「とよたまひめ」と読む。]を祀る。

塩掻島(しおかきしま) 神幸祭においては塩掻島で塩を汲み、掻いた塩を出雲大社に供える。

屏風岩(びょうぶいわ) 大国主神と建御雷神[やぶちゃん注:後で注するが「たけみかづちのかみ」と読む。]がこの岩陰で国譲りの協議を行ったといわれる。

つぶて岩 国譲りの際、建御名方神[やぶちゃん注:後で注するが「たけみなかたのかみ」と読む。]と建御雷神が力比べをし、稲佐の浜から投げ合った岩が積み重なったといわれる。

   《引用終了》

があると記す。

「正勝吾勝勝速日天の忍穗耳の命」「まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと」と読む。天之忍穂耳命(あめのおしほみみ)の別名。ウィキの「アメノオシホミミ」によれば、「古事記」では『アマテラスとスサノオの誓約の際、スサノオがアマテラスの勾玉を譲り受けて生まれた五皇子の長男(『日本書紀』の一書では次男)で、勾玉の持ち主であるアマテラスの子とする』。『葦原中国平定の際、天降って中つ国を治めるようアマテラスから命令されるが、下界は物騒だとして途中で引き返してしまう』。『タケミカヅチらによって大国主から国譲りがされ、再びオシホミミに降臨の命が下るが、オシホミミはその間に生まれた息子のニニギに行かせるようにと進言し、ニニギが天下ることとなった(天孫降臨)』。『名前の「マサカツアカツ(正勝吾勝)」は「正しく勝った、私が勝った」の意、「カチハヤヒ(勝速日)」は「勝つこと日の昇るが如く速い」または「素早い勝利の神霊」の意で、誓約の勝ち名乗りと考えられ』『「オシホミミ(忍穂耳)」は威力(生命力)に満ちた稲穂の神の意』とし、合気道の開祖である『植芝盛平は正勝を「敵に屈せず、正しいことを行なって勝つ」、吾勝を「たゆまず修行し、己に勝つ」、勝速日を「相手と対峙した時にすでに勝っている」と解釈し、合気道の理念を表す用語とした』という。『稲穂の神、農業神として信仰されて』いる。

「然か、否か?」ここにハーンは注を附しているが、落合氏は省略している。平井呈一氏の訳を以下に引かさせて戴く。

   《引用開始》

 ここのことばは、註釈者本居によったのである。もっと簡単にいえば、「否か、然か」である。チェンバレン教授は、“No or Yes?”と訳して、変った語源だといっている。しかし、神道の信仰だと、本居のような解釈になるのであるから、その意味で、ここには、本居の釈語をあげておいた。

   《引用終了》

「古事記第一卷第三十二章に、その昔譚が載せてある」「古事記」の「上つ卷」の所謂、「国譲り」のシークエンスである。

「昔譚」「むかしばなし」と訓じていよう。

「鳥船の神」「とりふねのかみ」と読む。神が乗る船の名前、神名である。「船の鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)」「天鳥船神(あめのとりふねのかみ)」「天鳥船(あめのとりふね)」ともいう。ウィキの「鳥之石楠船神」によれば、『神産みの段でイザナギとイザナミの間に産まれた神で、鳥の様に空を飛べる。『古事記』の葦原中国平定の段では、天鳥船が建御雷神の副使として葦原中国に派遣された。『日本書紀』の同段では、事代主神の意見をきくために稲背脛を熊野諸手船、またの名を天鳩船という船に乗せて遣わしている』。『これとは別に、『日本書紀』の神産みの段本文で、イザナギ・イザナミが産んだ蛭児を鳥磐橡櫲樟船(とりのいわすふね)に乗せて流したとの記述がある。『先代旧事本紀』では、饒速日尊が天磐船(あめのいわふね)で天下ったとの記述がある』(このウィキの記載者はこれらも同一或いはごく同類の対象物と見做している感じである)。『神名の「鳥」は、船が進む様子を鳥が飛ぶ様に例えたとも、水鳥が水に浮かんで進む様に例えたともされる。「石」は船が堅固であることの意である。「楠」は、船は腐食しにくい楠の材で作られていたことによるものである』。『建御雷神が天鳥船とともに天下ったのは、雷神は船に乗って天地を行き来すると考えられていたためである』とある。

「健雷の神」雷神であると同時に剣の神とされ、相撲の元祖ともされる一神である。ウィキの「タケミカヅチ」によれば(記号の一部を変更・省略した)、『「古事記」では建御雷之男神・建御雷神、「日本書紀」では、武甕槌、武甕雷男神などと表記される。単に建雷命と書かれることもある』。別名を建布都神(たけふつ)、豊布都神(とよふつ)ともいう。『また、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)の主神として祀られていることから鹿島神(かしまのかみ)とも呼ばれる。鯰絵では、要石に住まう日本に地震を引き起こす大鯰を御するはずの存在として多くの例で描かれている』。『神産みにおいて伊弉諾尊(伊邪那岐・いざなぎ)が火神軻遇突智(カグツチ)の首を切り落とした際、十束剣「天之尾羽張(アメノオハバリ)」の根元についた血が岩に飛び散って生まれた三神の一柱である。剣のまたの名は伊都尾羽張(イツノオハバリ)という。「日本書紀」では、このとき甕速日神(ミカハヤヒノカミ)という建御雷の租が生まれたという伝承と、建御雷も生まれたという伝承を併記している』。『「出雲の国譲り」の段においては伊都之尾羽張(イツノオハバリ)の子と記述されるが、前述どおり伊都之尾羽張は天之尾羽張の別名である。アマテラスは、タケミカヅチかその父イツノオハバリを下界の平定に派遣したいと所望したが、建御雷が天鳥船(アメノトリフネ)とともに降臨する運びとなる。出雲の伊耶佐小浜(いざさのおはま)に降り立ったタケミカヅチは、十掬の剣(とつかのつるぎ)を波の上に逆さに突き立てて、なんとその切っ先の上に胡坐をかいて、大国主(オオクニヌシノカミ)に対して国譲りの談判をおこなった。大国主は、国を朝廷に譲るか否かを子らに託した。子のひとり事代主は、すんなり服従した。もう一人、建御名方神(タケミナカタ)(諏訪の諏訪神社上社の祭神)は、建御雷に力比べをもちかけ、手づかみの試合で一捻りにされて恐懼して遁走し、国譲りがなった。このときの建御名方神との戦いは相撲の起源とされている』。『「日本書紀」では葦原中国平定の段で下界に降される二柱は、武甕槌とフツヌシである。(ちなみに、この武甕槌は鹿島神社の主神、フツヌシは香取神社の主神となっている。上代において、関東・東北の平定は、この二大軍神の加護に祈祷して行われたので、この地方にはこれらの神の分社が多く建立する。)「日本書紀」によれば、この二柱がやはり出雲の五十田狭小汀(いたさのおはま)に降り立って、十握の剣(とつかのつるぎ)を砂に突き立て、大己貴命(おおあなむち、オオクニヌシのこと)に国譲りをせまる。タケミナカタとの力比べの説話は欠落するが、結局、大己貴命は自分の征服に役立てた広矛を献上して恭順の意を示す。ところが、二神の前で大己貴命がふたたび懐疑心を示した(翻意した?)ため、天つ神は、国を皇孫に任せる見返りに、立派な宮を住まいとして建てるとして大己貴命を説得した』。『また同箇所に、二神が打ち負かすべく相手として天津甕星の名があげられ、これを征した神が、香取に座すると書かれている。ただし、少し前のくだりによれば、この星の神を服従させたのは建葉槌命(たけはづち)であった』とある(以下、「神武東征」での活躍の記事などが続くが省略する)。

「十掬劔」「とつかのつるぎ」(十握剣)と読む。十束(とつか:「束」は長さの単位で拳一つ分の幅を指す)の長さの剣という一般名詞で、通常は刀身の長さが約六十五~七十センチメートル程度の直刀(ちょくとう)と考えられる。

「浪の穗を逆に刺し立てて」「逆に」は「さかに」或いは「さかさに」と訓じておく。海の波に頂点に剣の先を上にして立てて。

「跌み坐て」「あぐみゐて」と読む。その剣の切っ先の上にやおら、胡坐をかいて坐って。

「高木の神の命」「たかぎのかみのみこと」と読む。「たかみむすび」のこと。「古事記」では別に「高御産巣日神(たかみむすびのかみ)」、「日本書紀」では「高皇産霊尊」と書かれているが「古事記」のこのソーンでは「高木神」という名で名指されているが、ウィキの「タカミムスビ」によれば、『別名の通り、本来は高木が神格化されたものを指したと考えられている。「産霊(むすひ)」は生産・生成を意味する言葉で、神皇産霊神とともに「創造」を神格化した神で』『女神的要素を持つ神皇産霊神と対になり、男女の「むすび」を象徴する神であるとも考えられる』という。「古事記」によると、『天地開闢の時、最初にアメノミナカヌシが現れ、その次にカミムスビと共に高天原に出現したとされるのがタカミムスビという神で』、『子にオモイカネ、タクハタチヂヒメがいる』とする。『アメノミナカヌシ・カミムスビ・タカミムスビは、共に造化の三神とされ、いずれも性別のない神、かつ人間界から姿を隠している「独神(ひとりがみ)」とされている』。『この造化三神のうち、カミムスビとタカミムスビは、その活動が皇室・朝廷に直接的に大いに関係していると考えられたため、神祇官八神として八神殿で祀られた』。タカミムスビは、日本書紀」に於いては『天地初発条一書第四に「又曰く〜」という形式で登場しており、その他では巻十五の「顕宗紀」において阿閇臣事代が任那に派遣され壱岐及び対馬に立ち寄った際に名前が登場する』。なお、『アマテラスの御子神・アメノオシホミミがタカミムスビの娘タクハタチヂヒメと結婚して生まれたのが天孫ニニギであるので、タカミムスビは天孫ニニギの外祖父に相当する』。『アマツクニタマの子であるアメノワカヒコが、天孫降臨に先立って降ったが復命せず、問責の使者・雉(きぎし)の鳴女(なきめ)を射殺した』『ためタカミムスビにその矢を射返されて死んだという』とするが、「古事記」では『即位前の神武天皇が熊野から大和に侵攻する場面で夢に登場し、さらにアマテラスより優位に立って天孫降臨を司令している伝も存在することから、この神が本来の皇祖神だとする説もある』とある。こりゃ、面白い!

「領ける」「うしはける」と読む。武田祐吉先生の解釈によれば、「うし」は「主」、「はく」は佩く」で、自分のものとして占有支配するの意とある。

「葦原の中つ國」「葦原中津國」で日本神話に於ける高天原と黄泉国の間にあるとされる、我が国の国土の別称である。

「我が御子」「我が」は「あが」と読む。先に出た天照大神の子である正勝吾勝勝速日天の忍穗耳の命(天之忍穂耳命)

「知らさむ」治めるべき。支配するのが当然の。

「言依し給へり」「ことよさしたまへり」と読む。ここでは天照大神の言葉を伝言しているため、「ことよす」(言寄す+使役の助動詞「す」)で、ことづけさせなさった、と言っているのであろう。

「かれ」老婆心乍ら、上代語の「かれ」は「彼」ではない。接続詞「故(かれ)」で、それで・そこでの意である。

「答へまつらく」「まつらく」は現行、「白(まう)さく」(「申(まう)さく」に同じい)と読む。「く」は接尾語で、申すことには、の意。お答え申し上げたことには。

「僕は得申さじ」「僕」は卑称の一人称。拙者は何とも申しようが御座らぬ。

「我が子八重言代主の神」「八重言代主」は「やへことしろぬし」と読み、事代主の別名。

「……かれこゝに、その大國主のに」点線部に事代主が国譲りを受諾する部分が省略されている(ここで前に注したように事代主は威圧的強制譲渡要求に対し、呪詛を意味すると思われる逆手(さかで)の柏手を打って隠れてしまうのである)。「のに」は「の神に」の脱字と思われる。

「我が子、建御名方の神」ウィキの「建御名方神」より引く。まさにこの「古事記」の葦原中国平定(国譲り)の段において、大国主神の御子神として初めて登場する。「延喜式神名帳』」などには『南方刀美神の表記も見られる。長野県諏訪市の諏訪大社に祀られ、そこから勧請された分霊も各地に鎮座する』。『神統譜について記紀神話での記述はないものの、大国主神と沼河比売(奴奈川姫)の間の御子神であるという伝承が各地に残る』。『建御名方神は神(じん)氏の祖神とされており、神氏の後裔である諏訪氏はじめ他田氏や保科氏など諏訪神党の氏神でもある』。『建御雷神が大国主神に葦原中国の国譲りを迫ると、大国主神は御子神である事代主神が答えると言った。事代主神が承諾すると、大国主神は次は建御名方神が答えると言った。建御名方神は建御雷神に力くらべを申し出、建御雷神の手を掴むとその手が氷や剣に変化した。これを恐れて逃げ出し』、信濃国の『州羽(すわ)の海(諏訪湖)まで追いつめられた。建御雷神が建御名方神を殺そうとしたとき、建御名方神は「もうこの地から出ないから殺さないでくれ」と言い、服従した。この建御雷神と建御名方神の力くらべは古代における神事相撲からイメージされたものだと考えられている』。『なお、この神話は『古事記』にのみ残されており、『日本書紀』には見えない』。「諏訪大明神絵詞」などに『残された伝承では、建御名方神は諏訪地方の外から来訪した神であり、土着の洩矢神』(もりやしん/もれやしん:現在の長野県諏訪地方を中心に信仰を集めた土着神の名)『を降して諏訪の祭神になったとされている。このとき洩矢神は鉄輪を、建御名方神は藤蔓を持って闘ったとされ、これは製鉄技術の対決をあらわしているのではないか、という説がある』。『長野県諏訪市の諏訪大社を始め、全国の諏訪神社に祀られている。『梁塵秘抄』に「関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮」とあるように軍神として知られ、また農耕神、狩猟神として信仰されている。風の神ともされ、元寇の際には諏訪の神が神風を起こしたとする伝承もある。名前の「ミナカタ」は「水潟」の意であり元は水神であったと考えられる。ただし、宗像(むなかた)と関連があるとする説』や、『冶金、製鉄の神であるとする説もある』。また、『建御名方神は様々な形で多くの信仰を受けているので、『古事記』に記された敗残する神という姿は、中臣鎌足を家祖とする藤原氏が鹿島神宮の祭祀に関する家の出であり、同神宮の祭神である建御雷神を氏神として篤く信仰していたため、藤原氏が氏神の武威を高めるために、建御名方神を貶めたという説もある』とある。私はこの「たけみなかた」という響きが、慄っとするほど好きである。

「千引石」「千引の岩」伊弉諾の呪的逃走の最後で黄泉比良坂に「引き塞(そ)へ」た岩の名として知られるが、ここは一般名詞で、千人もの多人数で引くほどの巨大の岩の意である。

「手末にさゝげて」「手末」は「たなすゑ」で、後でハーンは「指先きでもたげた」と記すが、武田祐吉先生は『手の上にさし上げて』と訳しておられる。先の波の穂先の上に立てた剣の切っ先に胡坐をかくのに対するなら、独楽のようにそれを手の上に軽々と載せてさし上げて登場するのが、よい。

「力競」「ちからくらべ」と読む。]

 

 

Sec. 17

Having taken our leave of the kind Guji and his suite, we are guided to Inasa-no-hama, a little sea-bay at the rear of the town, by the priest Sasa, and another kannushi. This priest Sasa is a skilled poet and a man of deep learning in Shinto history and the archaic texts of the sacred books. He relates to us many curious legends as we stroll along the shore.

This shore, now a popular bathing resort—bordered with airy little inns and pretty tea-houses—is called Inasa because of a Shinto tradition that here the god Oho-kuni-nushi-noKami, the Master-of-the- Great-Land, was first asked to resign his dominion over the land of Izumo in favour of Masa-ka-a-katsu-kachi-hayabi-ame-no-oshi-ho-mimi-no- mikoto; the word Inasa signifying 'Will you consent or not?' [19] In the thirty-second section of the first volume of the Kojiki the legend is written: I cite a part thereof:

'The two deities (Tori-bune-no-Kami and Take-mika-dzuchi-no-wo-no-Kami), descending to the little shore of Inasa in the land of Izumo, drew their swords ten handbreadths long, and stuck them upside down on the crest of a wave, and seated themselves cross-legged upon the points of the swords, and asked the Deity Master-of-the-Great-Land, saying: "The Heaven-Shining-Great-August-Deity and the High-Integrating-Deity have charged us and sent us to ask, saying: 'We have deigned to charge our august child with thy dominion, as the land which he should govern. So how is thy heart?'" He replied, saying: "I am unable to say. My son Ya- he-koto-shiro-nushi-no-Kami will be the one to tell you." . . . So they asked the Deity again, saying: "Thy son Koto-shiro-nushi-no-Kami has now spoken thus. Hast thou other sons who should speak?" He spoke again, saying: "There is my other son, Take-mi-na-gata-no-Kami." . . . While he was thus speaking the Deity Take-mi-na-gata-no-Kami came up [from the sea], bearing on the tips of his fingers a rock which it would take a thousand men to lift, and said, "I should like to have a trial of strength."'

Here, close to the beach, stands a little miya called Inasa-no-kami-no- yashiro, or, the Temple of the God of Inasa; and therein Take-mika-dzu- chi-no-Kami, who conquered in the trial of strength, is enshrined. And near the shore the great rock which Take-mi-na-gata-no-Kami lifted upon the tips of his fingers, may be seen rising from the water. And it is called Chihiki-noiha.

We invite the priests to dine with us at one of the little inns facing the breezy sea; and there we talk about many things, but particularly about Kitzuki and the Kokuzo.

 

19 That is, according to Motoori, the commentator. Or more briefly: 'No or yes?' This is, according to Professor Chamberlain, a mere fanciful etymology; but it is accepted by Shinto faith, and for that reason only is here given.

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