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2015/09/26

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 藤九郎盛長の邸址

 藤九郎盛長の邸址

藤九郞盛長の屋敷趾は。甘繩明神の東の方の畠地をいふ。東鑑に治承四年十二月廿日武衛御行(みゆき)始めとして。藤九郞盛長が甘繩(あまなは)の家に入御し給ふとあり。其の後も往々に見ゆ。抑(そも)安達盛長は下野の人陰重にして器局(ききょく)あり。言論理致多し。將軍の伊豆に流るゝや。盛長之に從ひ。保護懇到。豪傑を招致し。八州を歷説(れきせい)す。聞者感激響應せり。將軍鎌倉に入り。功を論し賞を行ふ。盛長を以て上野奉行と爲し。尋(つい)て三河守護を攝せしむ。又丹後内侍を以て妻とし。時々邸に來りて游燕せしこと前にいへるが如し。二世の時太夫人北條氏〔政子〕命して政事を參决(さんけつ)せしむ。盛長髮を削(そ)りて蓮西と名(なづ)く。歿する年六十六。盛長儉約自奉し、餅𩝐蒸飯盛るに。朴葉を以てせしに。楮葉を用うる者あり。視て歎(たん)して曰く。是れ驕奢(きやうしや)の漸なりと。其の人となり以て見るべし。

[やぶちゃん注:これは一体、どこから引いたものか不明。今までと打って変わって異様に佶屈聱牙である。

「藤九郞盛長」「安達盛長」「蓮西」(保延元(一一三五)年~正治二(一二〇〇)年)頼朝の流人時代からの直参の側近。鎌倉時代後期まで勢力を保持した安達氏の祖。以下、ウィキの「安達盛長より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した。下線はやぶちゃん)。「尊卑分脈」では、『小田野三郎兼広(藤原北家魚名流)の子としているが、盛長以前の家系は系図によって異なり、その出自ははっきりしていない。足立遠元は年上の甥にあたる。盛長晩年の頃から安達の名字を称した』(「尊卑分脈」の件は後述)。『源頼朝の乳母である比企尼の長女・丹後内侍を妻としており、頼朝が伊豆の流人であった頃から仕える。妻がかつて宮中で女房を務めていた事から、藤原邦通を頼朝に推挙するなど京に知人が多く、京都の情勢を頼朝に伝えていたと言われている。また『曽我物語』によると、頼朝と北条政子の間を取り持ったのは盛長とされる』。『治承四年(一一八〇年)八月の頼朝挙兵に従い、使者として各地の関東武士の糾合に活躍。石橋山の戦いの後、頼朝とともに安房国に逃れる。その際、下総国の大豪族である千葉常胤を説得して味方につけた。頼朝が再挙して、鎌倉に本拠を置き関東を治めると、元暦元年(一一八四年)の頃から上野国の奉行人となる。文治五年(一一八九年)、奥州合戦に従軍。頼朝の信頼が厚く、頼朝が私用で盛長の屋敷をしばしば訪れている事が記録されている』。『正治元年(一一九九年)一月の頼朝の死後、出家して蓮西と名乗る。同年四月、二代将軍・源頼家の宿老として十三人の合議制の一人になり、幕政に参画。その年に三河国の守護となっている。同年秋に起こった梶原景時の弾劾(梶原景時の変)では強硬派の一人となり、翌年の正治二年四月二十六日(一二〇〇年六月九日)に死去。享年六十六。生涯官職に就く事はなかった』。『安達盛長の屋敷は現在の甘縄神社にあり、神社の前に「安達盛長邸址」の石碑が建っている。ここは、北条時頼の母、松下禅尼の実家であり、北条時宗の誕生の地でもある』。またここは、弘安八(一二八五)年十一月十七日に起った霜月騒動の際、後裔の権勢家安達泰盛が攻められて、一族郎党滅亡したところでもある。なお、同ウィキの注に、「尊卑分脈」では『盛長が「安達六郎」、遠元の父・遠兼が「安達藤九郎」と記され、盛長は遠兼の兄としている。盛長は正治二年(一二〇〇年)に六十六歳で没しているため、保延元年(一一三五年)生まれである。遠元は生没年不詳であるが、孫の藤原知光が仁安三年(一一六八年)生まれであることから、この段階で若く見積もって三十代後半と考えられ、一一三〇年代前半の生まれと推測される。したがって遠元は盛長よりも年長であり、『尊卑分脈』の兄弟順は逆で、実際の名乗りは遠兼が「六郎」、盛長が「藤九郎」であったと見られる』とある。

「武衞」源頼朝。

「御行始め」「みゆきはじめ」と読む。御成始(おなりはじめ)に等しい。皇族・摂家・将軍などの出行・来着を「御成」「御行」と称し、特に幕府にとって重要な将軍の正月儀礼の一つであった年初の出行のことをかく称した。

「陰重」口が重く、決して秘密を漏さない、あまり感情を表に出さない性格を指す語と思われる。

「器局」才能と度量。器量。

「保護懇到」主人を守り養い世話すること、極めて丁寧で行き届いていることを指す。隅々まで心が行き届き、この上なく親切なこと、真心を尽くして十分に言い聞かせることを意味する「懇到切至(こんとうせっし)」という「言志録」を出典とする四字熟語もある(「懇到」も「切至」もともに「懇ろに行き届くこと」をいう)。

「歷説(れきせい)」読みは「れきぜい」が正しいか。遊説(ゆうぜい)と同義であろう。

「上野奉行」前の「藤九郞盛長」の注の最初の下線部を参照。

「攝」治める。前の「藤九郞盛長」の注の二番目の下線部を参照。

「丹後内侍」(たんごのないし 生没年未詳)。ウィキの「丹後内侍より引く。『源頼朝の乳母である比企尼の長女。鎌倉幕府の御家人、安達盛長の妻。子に安達景盛、安達時長、島津忠久、源範頼室、他』(後の注に「吾妻鏡」で『丹後内侍の子と確認されるのは景盛のみで、他は系図による』とある)。「吉見系図」によれば、『京の二条院に女房として仕えており、「無双の歌人」であったという。惟宗広言と密かに通じて島津忠久を生み、離縁したのち関東へ下って安達盛長に嫁いだとしている。盛長は頼朝の流人時代からの側近であり、妻の縁で頼朝に仕えたと見られる。二条院には源頼政の娘二条院讃岐が女房として出仕している』。「吾妻鏡」によれば養和二(一一八二)年三月九日に『頼朝の妻、北条政子が嫡男・頼家を懐妊した際、着帯の儀式で給仕を務め』たとある。二人のいた『妹(次女・三女)は頼家の乳母となっている』。文治二(一一八六)年六月十日には、頼朝は丹後内侍の病気見舞に供の者二名のみを伴って、『盛長の屋敷を密かに訪れて見舞っている。頼朝は彼女のために願掛けをし、数日後に丹後内侍が回復するといくらか安堵したという』。『このように頼朝に近しい女性であった事から、後年、子の景盛が頼朝の子であるとする風説が出たり(『保暦間記』)、のちの島津氏が、祖の島津忠久を彼女と頼朝の子であると主張するなど、彼女を母とした二つの頼朝落胤説が見られるが、『吾妻鏡』をはじめとする当時の史料に丹後内侍が頼朝の子を産んだとする記録はない』とある。

「游燕」宴会を催すこと。

「二世」源頼家。

「太夫人北條氏〔政子〕命して政事を參决せしむ」前の「藤九郞盛長」の注の二番目の下線部を参照。

「儉約自奉」倹約することを以って何と日々の生活の楽しみとしていたことをいうのであろう。

「餅𩝐蒸飯舊」意味不明。識者の御教授を乞う。赤飯のようなものか?

「朴葉」「ほおば」。モクレン亜綱モクレン目モクレン科モクレン属ホオノキ Magnolia obovata の葉。大型の葉(生及び乾して使用)は芳香を持ち、しかも殺菌作用があるため、食材を包んで朴葉寿司・朴葉餅としたり、朴葉味噌や朴葉焼きの敷き具としてお馴染みである。

「楮葉」「ちよば(ちょば)」或いは「こうぞば」と読んでいるかは不明。イラクサ目クワ科コウゾ属雑種コウゾ Broussonetia kazinoki × B. papyrifera の葉か? コウゾはヒメコウゾ Broussonetia kazinoki とカジノキ Broussonetia papyrifera の雑種で和紙の原料としても知られるが、しかし、あの葉は食物を盛るには如何に小さい気がするのだが? 識者の御教授を乞う。

「驕奢」奢侈(しゃし) に耽ること。驕(おご)って贅沢なこと。

「漸なり」「漸」は「きざし」と訓じているか? ある状態となる「兆し」の意である。]

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