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« (かなしみは……)   立原道造 | トップページ | 小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (十) »

2015/09/13

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (一〇)

        一〇

 

 その他幾多の珍らしい事柄を、宮司と佐々氏は、それから私に話した。神苑や、柵や、森や、澤山の小祠と其祭神の尊稱や、殿内の九本の大きな柱の名を教へた。中央の柱は眞中の心柱といふことであつた。すべて境内のものは、鳥居や橋に至るまで、尊號を有する。

 すべての神社と同じく、大社の社殿は東向きであるが、殿内の大國主神の宮は、西向きであることを、佐々氏が私に注意した。同じ殿内にある、東向きの他の二宮には、大國主神第十七代の裔なる最初の出雲の國造と、賢明な國主で、有名の力士なる野見宿禰の父が祀つてある。垂仁天皇の御代に、當麻の蹴速といふ者が、誰も力に於て彼に匹敵するものはないと豪語した。野見宿禰は天皇の命今により蹴速と角力して、強く投げて倒したので、蹴速は絶命した。これが日本に於ける角力の濫觴であつた。で、力士は今猶力と技倆を野見宿禰に向つて祈る。

 他にも多くの宮があつて、悉く名を列擧すれば、神道の慣習や傳説に不案内な讀者に倦怠を與へざるを得ない。が、大國主神の傳説に現るゝ殆どすべての神は、こゝに住み玉ふものと信ぜられてゐる。こゝにそれらの宮がある。即ち、太陽の女神の髮に着けた寶玉から不思議に生まれて、神多理毘賣の命と呼ばれた美しい神――それから、幽界の大神の娘で、大國主神を愛して、その妻となるために、黄泉比良坂まで追ひかけて出てきた女――また杵築に於ける神の宴會のために、火鑽と赤い粘土の盤を始めて造つた、水戸の神の孫、櫛八玉の神――その他幾多の神々。

 

[やぶちゃん注:「中央の柱は眞中の心柱といふ」正確には「心御柱(しんのみはしら)」と呼ぶのが正しい。井上筑前氏の個人サイト「邪馬台国大研究」の「古代出雲大社建造の謎」に千家尊紀氏蔵の「金輪廻造営差書」の写真と、分かりやすく図像化した「現在の出雲大社の本殿平面図」が載る。近年の発掘調査や考古学上の復元によって、古い心御柱の跡の発見、最初期の驚くべき高さを持つ原形の神殿の推定復元などが盛んに行われているが、とりあえずその中でもビジュアル的にも非常に分かり易いページでもあるので是非ご覧あれ。同サイト内には「再び出土!出雲大社境内遺跡(巨大心御柱出土)」もある。必見!

「すべての神社と同じく、大社の社殿は東向きである」多くの神社が東向き(本殿の正面位置の方向を言っているので注意)であることは事実のようであるが、南向きのものが多くあり(寧ろ、現行はその方が多いという記事が散見。北向きは稀ともいう)、ハーンの言うような絶対的なものでは決してない。管見した神道風の一説によれば、神武東征の際、生駒山付近で敵が太陽を背に戦って来たために天皇方が一度敗れたので、次は迂回して太陽を背に東から攻めた、という言い伝えによる、なんどというまことしやかな濫觴を記すが、信じ難い。寧ろ、神社に東向きが多いとすれば、それは単に神仏習合によるものであって、正面が東を向くのであるから参拝者は当然、西、西方浄土を拝むように設えられたに過ぎないのではないかと私は思っている。「殿内の大國主神の宮は、西向きであることを、佐々氏が私に注意した」のはだからこそではないか? おぞましき仏教の影響を受けた当時の社殿の向きはくやしくも西方浄土を拝むという仏教徒の集合を残していはするが、それ以前の古形の大国主神はそれに背を向けて参拝するようになっている、これこそが本邦の固有の信仰の古形態を保存している証左だと佐々氏は言いたいのではなかろうか?

「大國主神第十七代の裔なる最初の出雲の國造」ウィキの「出雲国造」によれば、第十七代は出雲宮向(みやむき)と称し、允恭天皇元年(四一二年)に始めて国造となり「出雲」の姓を最初に賜った人物とされる(一説によれば允恭天皇元年ではなく反正天皇四年とも)が、孰れにしても記紀には見えない、とある。最初の出雲姓の国造の祖とするのは千家家家伝でも、かくするという。なお原文でお分かりの通り、ハーンは「國造」を「くにのみやつこ」ではなく「こくぞう」と音読みしている(古えは正しくは「こくそう」と濁らなかったと思われる)。

「賢明な國主で、有名の力士なる野見宿禰の父」ウィキの「出雲国造」その他によれば、天照大神第二子である天穂日(あめのほひ)の十三世の子孫で第十二代出雲国造とされる氏祖命(うぢのおやのみこと 鵜濡渟/宇迦都久怒 孰れも「うかつくぬ」と読む)のことである。「先代旧事本紀」(国造本紀)よれば、この宇迦都久怒が最初の出雲国造とされているという。「野見宿禰」は「のみのすくね」と読み、彼の子で土師(はじ)氏の祖とされる出雲国の勇士。ウィキの「野見宿禰」によれば、垂仁天皇の命によって当麻蹴速(たいまのけはや/たぎまのけはや/たえまくえはや 次注参照)と『角力(相撲)(『日本書紀』では「捔力」に作る)をとるために出雲国より召喚され、蹴速と互いに蹴り合った末にその腰を踏み折って勝ち、蹴速が持っていた大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を与えられるとともに、以後垂仁天皇に仕えた』。『また、垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命の葬儀の時、それまで行われていた殉死の風習に代わる埴輪の制を案出し、土師臣(はじのおみ)の姓を与えられ、そのために後裔氏族である土師氏は代々天皇の葬儀を司ることとなった』。『播磨国の立野(たつの・現在の兵庫県たつの市)で病により死亡し、その地で埋葬された』とされている。『埴輪創出についての考古学的な知見からは、記紀が語る上述のような伝説は史実ではないとされている』ものの、『こうした伝説も土師氏と葬送儀礼との関係から生まれたものであろうとの説があ』り、『それによると、まずその名前は、葬送儀礼の一環としての古墳の築営に際して、様々な条件を吟味した上での適当な地の選定ということが考えられ、「野」の中から墳丘を築くべき地を「見」定めることから「野見」という称が考案されたのではないかとし、次に相撲については、古墳という巨大な造形物を目の当たりにした人々が、これを神業と見て、その任にあたった土師氏の祖先はさぞかし大力であったろうとの観念に基づくものではないかと見る。そして、土師氏が古墳造営を含めた葬送儀礼全般に関わったことから、これを死の国と観想された出雲国に結びつけ、その祖先をあるいは出雲出身としたり、あるいは都と出雲の中間である播磨国に葬られたとしたのではないかと見、最後に火葬の普及などの変遷を経て古墳時代が終焉を迎える頃、その技術が不要とされた土師氏が、自らの祖先の功業を語る神話として大事に伝承したものであろうと説く。もっとも以上の説の当否はともかくとして、少なくとも野見宿禰が祖先として土師氏に崇められたことは確かである』とある。

「當麻の蹴速」(読みは前注を参照)はここに語られる勝負で垂仁天皇七年七月七日(「日本紀」に拠る)に死んだ勇士。ウィキの「当麻蹴速」によれば、「日本書紀」によると、『大和国の当麻邑(たいまのむら、現奈良県葛城市當麻)に住み、強力を誇って生死を問わない勝負をする者を欲していたため、これを聞いた垂仁天皇が出雲国から勇士であると評判の野見宿禰を召し寄せ、捔力(すまひ)で対戦させたところ、互いに蹴り合った後に、腰を踏み折られて死んだといい、蹴速の土地は没収されて、勝者の野見宿禰の土地となったという』。『「蹴速」という名前は、蹴り技の名手であったことを示すために名付けられたと推測されて』おり、『また、葛城市當麻には蹴速の塚と伝わる蹴速塚がある』後世、『野見宿禰と共に相撲の神とされ、両者が相撲を取った地であると伝える奈良県桜井市の穴師坐兵主神社の摂社、相撲神社に野見宿禰とともに祀られて』おり、『地元の奈良県葛城市當麻町には、蹴速の屋敷跡があると言う地元伝承が残っている』とある。また後世、七月七日に行われるようになった相撲節会(すまいのせちえ)はこの二人の勝負の日に因むという(「類聚国史」歳時部相撲条)とある。

「太陽の女神の髮に着けた寶玉から不思議に生まれて、神多理毘賣の命と呼ばれた美しい神」「神多理毘賣の命」は平井呈一氏は『かみたきりひめ』の『みこと』とルビを振っておられる。これは所謂、「たきりひめ」のことで、天照大神と素戔嗚尊の神産み比べ、誓約(うけひ)の際に生まれた五男三女神の中で、天照大神が須佐之男命の持つ剣を譲り受けて三段に打ち折って産んだ宗像三女神の一柱である。ウィキの「タキリビメ」によれば、「古事記」では多紀理毘売命、「日本書紀」では田心姫(たごりひめ)・田霧姫と表記されるとし、『別名奥津島比売命(おきつしまひめ)だが、『日本書紀』第三の一書では市杵嶋姫(市寸島比売・いちきしまひめ)の別名としている』とある。『神名の「タキリ」は海上の霧(きり)のこととも、「滾(たぎ)り」(水が激しく流れる)の意で天の安河の早瀬のこととも解釈される。日本書紀の「タゴリ」は「タギリ」が転じたものである』。『この女神を単独で祀る神社は少なく、宗像三女神の一柱として各地の宗像神社・厳島神社などで』祀られている。ここでハーン彼女が天照の「の髮に着けた寶玉から不思議に生まれ」たと言っているのは一見、おかしい。彼女の幾つかの髪飾り他を素戔嗚が受け取って噛み砕いて生まれたのは五柱の男神であるからである。しかし「古事記」を読むと、天照が剣を折った後あと、それに神聖な水を振りかけて囓(か)み、ぷっと霧の如く噴き出して生まれたのが多紀理毘売命とする、その剣を折った直後の箇所に「ぬらとももゆらに」という語が入っている。角川文庫版「古事記」で武田祐吉氏(昭和五六(一九八一)年刊の中村啓信氏補訂版)はこれに『玉の音もさやかに。剣の表現に玉の響きをいうのはおかしい。文脈に混乱がある』と脚注しておられる。これは直後の神聖な水をそれに注ぎかける際の輝きや音を言ったとすれば、私はそれほど違和感は感じないが、この錯文の可能性指摘や、誓約で男神と女神がそれぞれの持ち物を交換して神産みをするという複雑性から、ハーンのこの部分を誤って読解したか、記憶していたのではあるまいか? 私はハーンが全面的に依拠した可能性が高いチェンバレンの「古事記」を読んだことがないので、その記述も気になるところである。識者の御教授を乞う。

「幽界の大神の娘で、大國主神を愛して、その妻となるために、黄泉比良坂まで追ひかけて出てきた女」大国主の正妻となる素戔嗚の娘「すせりひめ」のことであろう。ウィキの「スセリビメによれば、「古事記」では「須勢理毘売命」・「須世理毘売命」、「先代旧事本紀」では「須世理姫」と表記し、「出雲国風土記」では須佐能袁命(すさのをのみこと)の娘で大穴持命(おおあなもち)の妻の「和加須世理比売命(わかすせりひめ)」が登場するが、これも同一の神と考えられる、とある。「古事記」には、『父の須佐乃男命とともに根の国に住んでいたが、葦原中国から八十神たちの追跡を逃れるために根の国を訪れた大穴牟遅命』(おおなむち:大国主の前の名)『と出会い、一目見てすぐに結婚した。須勢理毘売命が家に帰って大穴牟遅命を父に紹介したところ、父は大穴牟遅命を蛇のいる部屋や蜂とムカデのいる部屋に寝させた。須勢理毘売命は呪具である』「比礼」(ひれ:当時の女性が肩や腕に掛けた細長い布で、これを振ると呪的な力が発揮されるとされていた)『を大穴牟遅命に与えてこれを救った。また、須佐乃男命が頭の虱を取るよう命じ、実際にはムカデがいたのだが、須勢理毘売命は木の実と赤土を大穴牟遅命に与え、ムカデを噛み潰しているように見せかけるよう仕向けた。須佐乃男命は安心して眠ってしまい、その間に大穴牟遅命が須佐乃男命の髪を部屋の柱に縛りつけ、生大刀と生弓矢と天詔琴を持って須勢理毘売命を背負って逃げ出した。須佐乃男命は追いつけず、大穴牟遅命に大国主神の名を与え、須勢理毘売命を本妻とするよう告げた』(このシーンは既に注した)。『大国主は後から結婚した八上比売との間に、須勢理毘売命より先に子を得ていたが、八上比売は本妻の須勢理毘売命を畏れて子を置いて実家に帰ってしま』い、さらに大国主が越国(こしのくに:現在の福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部に相当する地域にあった)の沼河比売(ぬなかわひめ)『のもとに妻問いに行ったことに対して、須勢理毘売命は激しく嫉妬し、困惑した大国主は『大和国に逃れようとするが、それを留める歌を贈り、二神は仲睦まじく出雲大社に鎮座することとなった』、めでたし、めでたし、とある。……「今の私」から言わせれば……ふ~ん、いやはや……である……。

「また杵築に於ける神の宴會のために、火鑚と赤い粘土の盤を始めて造つた、水戸の神の孫、櫛八玉の神」「火鑽」は「ひきり」と読み、よく見る古代の火起こし機のこと。よく乾燥させたタブやスギなどを台木、「火鑽り臼(うす)」として「火鑽り杵(ぎね)」という木の棒を当て、激しく揉み合わせることで火を起こす、例の道具のことである。「火切り」「燧」などとも書く。「櫛八玉の神」は「くしやたまのかみ」と読む。個人サイト「記録」の「櫛八玉神によれば、「古事記」の国譲り神話に於いて『大国主命が国を譲って遠くに隠れ控えるかわりに、天神御子の住むような住居を要求し』、『出雲国多芸志の小浜(杵築の地)に神殿(出雲大社)が造られ、水戸神の孫・櫛八玉神が膳夫(料理人)となった』。『櫛八玉は鵜に変身して海底の埴(粘土)をとり「天の八十平瓫」(平らな土器)を作り』、『海藻を刈って燧白・燧杵を作り、火を鑽り出して、大国主命に対して、火を使って調理した魚を献る詞章(火鑽りの詞)を述べた』。『燧臼・燧杵とは火を鑽る板と棒の象徴であり、これをこすりあわせることにより作られた火で調理したものを神に献げた』。『出雲国造家では、国造の交代時に、火継式という儀式が行なわれ、そこでは床下の御食焼所において、火切板を使って火を鑽り、食物を炊いたとされ』ており、「古事記」の詞章である「火鑽りの詞」も、『その儀式において唱えられた壽詞を採用したものだとする説がある』とあり、『詞章には、「さわさわに控き依せ騰げて、打き竹の、とををとををに」という語がみられ、出雲風土記風(意字郡)のヤツカミヅオミヅノの国引き神話中にある 「霜黒葛くるやくるやに、河船のもそろもそろに」という形容に相通じるものがあり、これが、口で語られていたものであったことを髣髴させる』と評しておられる。『なお、多芸志の小浜の神殿は、文脈上、オオクニヌシが造ったとする説がある。これによれば、「火鑽りの詞」は大国主命が服従の意をあらわすために天神を饗応したことになる』ともある(下線やぶちゃん)。さて、その祖父祖母とする「水戸の神」は、「はやあきつひこ」及び「はやあきつひめ」のことで、ウィキの「ハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメ」よれば、「古事記」では「速秋津比古神」と「速秋津比売神」、「日本書紀」では「速秋津日命(はやあきつひのみこと)」と表記されている。ハーンは「古事記」でのこの二神(以下に見るように実際にはもっと複数対ある)の別名である「水戸神(みなとのかみ)」を用いているのである。『神産みの段でイザナギ・イザナミ二神の間に産まれた男女一対の神で、水戸神はその総称である。『日本書紀』の一書第六では「水門の神達を速秋津日命という」としている。『古事記』では、二神の間には以下の四対八柱の神が産まれたと記している。いずれも水に関係のある神で』、『沫那藝神(あはなぎのかみ)・沫那美神(あはなみのかみ)』、『頬那藝神(つらなぎのかみ)・頬那美神(つらなみのかみ)』、『天之水分神(あめのみくまりのかみ)・国之水分神(くにのみくまりのかみ)』、『天之久比奢母智神(あめのくひざもちのかみ)・国之久比奢母智神(くにのくひざもちのかみ)』と出る。『「水戸神」とはすなわち港の神の意味である。古代の港は河口に作られるものであったので、水戸神は河口の神でもある。川に穢を流す意味から、祓除の神ともされる。神名の「ハヤ」は川や潮の流れの速さを示し、かつ、河口の利用は潮の流れの速さに左右されることから出た神名とみられている。また、「アキツ」は「明津」で、禊によって速やかに明く清まるの意とする解釈もある』とある。]

 

 

Sec. 10

Many other curious things the Guji and his chief priest then related to me; telling me the sacred name of each of the courts, and of the fences and holy groves and the multitudinous shrines and their divinities; even the names of the great pillars of the temple, which are nine in number, the central pillar being called the august Heart-Pillar of the Middle. All things within the temple grounds have sacred names, even the torii and the bridges.

The priest Sasa called my attention to the fact that the great shrine of Oho-kuni-nushi-no-Kami faces west, though the great temple faces east, like all Shinto temples. In the other two shrines of the same apartment, both facing east, are the first divine Kokuzo of Izumo, his seventeenth descendant, and the father of Nominosukune, wise prince and famous wrestler. For in the reign of the Emperor Sui-nin one Kehaya of Taima had boasted that no man alive was equal to himself in strength. Nominosukune, by the emperor's command, wrestled with Kehaya, and threw him down so mightily that Kehaya's ghost departed from him. This was the beginning of wrestling in Japan; and wrestlers still pray unto Nominosukune for power and skill.

There are so many other shrines that I could not enumerate the names of all their deities without wearying those readers unfamiliar with the traditions and legends of Shinto. But nearly all those divinities who appear in the legend of the Master of the Great Land are still believed to dwell here with him, and here their shrines are: the beautiful one, magically born from the jewel worn in the tresses of the Goddess of the Sun, and called by men the Torrent-Mist Princess—and the daughter of the Lord of the World of Shadows, she who loved the Master of the Great Land, and followed him out of the place of ghosts to become his wife— and the deity called 'Wondrous-Eight-Spirits,' grandson of the 'Deity of Water-Gates,' who first made a fire-drill and platters of red clay for the august banquet of the god at Kitzuki—and many of the heavenly kindred of these.

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