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2015/09/26

生物學講話 丘淺次郎 第十四章 身體の始め(1) プロローグ / 一 卵の分裂

    第十四章 身體の始め

 

 自分の身體は初め如何にして出來て、如何なる狀態の時代を順次經過し來たつたかを知ることは、人生に就いて考へるに當つて最も必要である。これを知ると知らぬとでは、人生に關する觀念に非常な相違を生じ、場合によつては正反對の結論に達せぬとも限らず、またこれを知つて居ても暫く忘れて居ると、やはり異なつた觀念を抱くに至り易い。されば苟しくも人生を論ぜんとする者は、一通り生物個體の發生特に人間の身體の出來始めの模樣を知つて置く必要があらう。實はこの知識の缺けた者は人生を論ずる資格がないやうにも考えられる。本章と次の章とで述べる所は、人類及び普通の獸類の個體發生の歷史の中から、最も重要なと思われる點を幾つか拾ひ出して、その大體を摘んだものである。

 

 身體の發生に就いて特に忘れてはならぬのは、その始の極めて判然たることである。まだ顯微鏡を用ゐなかつた頃には、精蟲はいふに及ばず、小さな卵も知られずにあつたから、人間その他の獸類の子の出來るのは恰も無中に有を生ずる如き感があつて、その間に餘程神祕的の事情が存するやうに思はれたが、今日では母の卵巣から離れた一個の卵細胞と、父の睾丸から出て母の體内に入り來つた無數の精蟲の中の一疋とが、喇叭管内で出遇ひ相合して一の細胞となるときが、即ち子の生涯の始めであることが明になつた。精蟲が卵細胞内に潜り込み、核と核とが相合して、二つの細胞が全く一つの細胞となり終るまでは、まだ子なる個體は存在せぬが、これだけのことが濟めば、既に子なる個體がそこに居るから、個體の生命には判然たる出發點がある。地球上に初めて人間なるものが現れてから今日に至るまでに、生まれては死に、生まれては死にした人間の數は、實に何千億とも何兆とも算へられぬ程の多數であらうが、これが皆一人一人必ず父の精蟲と母の卵細胞との組合するときに新たに出來たのであつて、その前には決してなかつた人間である。そしてこれらの人間の精神的の作用も毎囘身體の發生に伴うて現れ、腦の大きさが一定の度に達すれば意識が生じ、腦が健全ならばさまざまの工夫を凝し、腦に腫物が出來れば精神が狂ひ、心臟麻痺によつて血液の循環が止まれば、腦に酸素が來なくなつて、意識は消滅してしまふ。これらは、肉體は死んでも魂はいつまでも殘ると信ずる人等の宜しく參考すべき事實であらう。

 

    一 卵の分裂

 

 人間も他の動物と同じく、個體の始めは單一な細胞である。受精の濟んだ卵細胞も、受精前の卵細胞も大きさは少しも違はず、外見は同じやうであるが、生存上の價値には非常な相違がある。人間の卵は受精前も受精後も直徑僅に一粍の五分の一に過ぎぬ球形の細胞でであるが、受精する機會を獲られなかつたものは、たゞ母體の組織から離れた一の細胞として、その運命は皮膚の表面や頰の内面から取れ去る細胞と同じく、結局捨てられて死ぬの外はない。これに反して、受精の濟んだ卵は始め暫くは單一の細胞であるが、これが基となつて種々複雜な變化・發育を遂げて、終に赤子となり成人となるのであるから、已にその種族を代表する一の個體と見做さねばならぬ。法律では何箇月以上の胎兒は人間と見做すが、それ未滿の胎兒は物品と見做すといふ規定があるとか聞いたが、これは素より便宜上の必要から止むを得ず造つた勝手の定めで、學問上からは何の根柢もない。理窟からいへば、受精の濟んだ卵の時代まで遡つても、やはり一個の人間に違ないから、我々は誰でも出來始めには、「アメーバ」や「ざうりむし」と同格の一細胞であつたといはねばならぬ。たゞ「アメーバ」や「ざうりむし」が獨立自營の生活をして居るに反し、親の體内に保護せられ親から滋養分の供給を受けて、寄生的の生活を營んで居たといふだけである。

[やぶちゃん注:「人間の卵は受精前も受精後も直徑僅に一粍の五分の一に過ぎぬ」ヒトの卵子の大きさは〇・一~〇・二ミリメートル。

「法律では何箇月以上の胎兒は人間と見做すが、それ未滿の胎兒は物品と見做すといふ規定があるとか聞いたが、これは素より便宜上の必要から止むを得ず造つた勝手の定めで、學問上からは何の根柢もない。理窟からいへば、受精の濟んだ卵の時代まで遡つても、やはり一個の人間に違ない」「根柢」は「根底」に同じ。物事や考え方の大本となるところ。根本。以下、ウィキの「人工妊娠中絶」から引用しておく(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『母体保護法の第二条第二項には、人工妊娠中絶を行う時期の基準は、「胎児が、母体外において、生命を保続することのできない時期」と定められており、妊娠二十二週未満とされた。以前は昭和五十一年までは通常二十八週未満、昭和五十一年~平成二年は通常二十四週未満、昭和五十三年に「妊娠満二十三週以前」の表現へ修正、平成二年以降に未熟児の生存可能性に関する医療水準の向上を受け、通常二十二週未満と基準期間が短縮された。また、個々の事例での生存可能性については、母体保護法指定医師が医学的観点から客観的に判断を加味すべきことも、付記および保健医療局精神保健課長からの同日通知で示された。厚生労働省の統計によれば、二〇〇八年に日本で行われた人工妊娠中絶は二十四万二千二百九十二件で、十五~四十九歳女子人口に対する比率は〇・八八%、出生百に対する中絶数の比率は二十二・二件(全妊娠のおよそ五人に一人弱)である。過去に遡ると、一九五五年に約百十七万件(全妊娠のおよそ二・五人に一人)、一九六五年に約八十四万件(全妊娠のおよそ三人に一人)、一九八〇年に約六十万件(全妊娠のおよそ三・五人に一人)、一九九〇年に約四十六万件(全妊娠のおよそ三・五人に一人)、二〇〇〇年に約三十四万件(全妊娠のおよそ四・五人に一人)となっている。一方、科学学術誌 Nature は、一九九六年に日本での中絶件数を年間四十一万件と報告されているが実際はその三倍程度の件数と推測されると報告した。一般に中絶というと未婚若年者のイメージが強いが、妊娠者が中絶を実施する割合は十歳代と並んで四十歳代が高くなっている。一九七五年頃には、十歳代の妊娠でも出産の割合が過半数なのに対し、四十歳代では九割近くが中絶している。ただし絶対数では、妊娠者自体の多さから二十~三十歳代が大半を占める。また、日本では他国に比べて中絶者に占める既婚者の割合が高い特徴があり、主流な避妊方法の違いとも相まって産児調節の一端を担ってきたことが窺える。近年は毎年一万件近く件数は減り続けており、二〇一二年は約十八万件である』。]

Usaginorannnobunretu

[兎の卵の分裂]

 

 さてかやうな單細胞のものが基となつて、如何にして無數の細胞からなる身體が出來上るかといふに、これまた「アメーバ」や「ざうりむし」の繁殖と違はぬ分裂法による。こゝに掲げた圖は兎の受精後の卵が順々に分裂して、細胞の數の殖えて行く有樣を示したもので、初め一個の球形の細胞は二分して楕圓形のもの二個となりこれがまた各々二分して都合四個となり、更に分裂して八個十六個三十二個六十四個といふやうに速に數が增すと同時に、各細胞の大きさは減じて忽にして小さな細胞の一塊となる。この時代には子の身體は恰も鹿の子餅か桑の實の如くに見えるから、桑實期と名づける。これと同じ狀態で獨立自營の生活をして居るものを求めると、水中に棲息する原始蟲類の群體が丁度その通りで、数十もしくは數百の同樣な細胞が一塊となり、相離れぬやうに透明な膠質のもので繫がつて居る。即ち「アメーバ」や「ざうりむし」に似たものが相集まり、一群體をなして水中に浮かんで居るのであるから、構造からいふと桑實期の幼兒と少しも違はぬ。

Gensityuruiguntai

[原始蟲類の群體]

 

 人間の受精した卵が分裂して細胞の數の殖える有樣を直接に見た者はまだ一人もない。その理由は説明するにも及ばぬ程明白なことで、人間の卵と精蟲とが出遇ふことは毎夜各處で行はれて居るが、受精後直に女を殺してその輸卵管内を調べることは一回も行はれぬからである。しかし人間のその後の發生が犬・猫・兎。鼠などとと全く同樣であり、且これらの獸類の桑實期に達するまでの變化が悉く一致して居る所から考へると、人間でも兎でもこの頃の發生狀態が全く同じであることは疑ない。これは類推ではあるが決して間違のない推察で、恰も明朝も太陽は東から出るであらうといふ推察と同じく、大地を打つ槌は外れても、こればかりは外れぬといふ位に確なものである。即ち人間の個體の出來始めは、前に述べた通り單一の細胞であるが、次には細胞の數が殖えて原始蟲類の群體と同樣の時代を經過する。そしてこの時代にはまだすべての細胞が同樣であつて、その間に少しも相違が見えず、また分業の行はれる樣子もない。或る人の計算によると、成人の身體は三十餘兆の細胞から成るとのことであるから、赤子の身體には約二兆の細胞があると見做して宜しからうが、これが皆最初の單一な細胞の分裂した結果である。一つから二つ、二つから四つといふやうに毎回二倍づつに殖えるとして、何回分裂すればこの數に達するかと算へて見ると、おおよそ四十囘ですむ。されば赤子の身體は細胞の數のみに就いていふと、恰も「アメーバ」が四十回も引き續いて分裂生殖を行うただけの細胞が一塊をなして居るものに相當する。たゞ「アメーバ」の方は何萬何億に殖えても皆同じやうな細胞であるが、人間の方は發生が進むに從うて、細胞間に分業が行はれ、追々複雜な組織や器官が出來るので、驚くほど違つた結果を生ずるのである。

[やぶちゃん注:「或る人の計算によると、成人の身體は三十餘兆の細胞から成るとのことであるから、赤子の身體には約二兆の細胞があると見做して宜しからう」ネット記載を見ると、まことしやかに幼児と成人の総細胞数は変わらないとうそぶいている発言をしばしば眼にするが、素人が考えてもヒトの人体を構成する細胞自体の大きさそのものは乳児だろうが成人だろうが基本、変わらないはずである(でなければ細胞は正常に機能せず、生存を維持出来ないはずである)。私の支持出来るとある現行のネット記載によれば、体重六十キログラムの大人で細胞数は六十兆程度、体重三キログラムの少し大きめの赤ん坊で細胞数は三兆程度とある。丘先生のこの記載の時代(初版大正五(一九一六)年)を考慮すれば、この齟齬は別段おかしくはなかろう。しかも、丘先生が数えた訳でもないのである。]

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