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2015/09/25

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 鎌倉政事堂の舊蹟

    ●鎌倉政事堂の舊蹟

今小路より飢渇畠に出る所。即ち天狗堂に在り總て陸田にて見るべき者なし今懷古の情に堪(たへ)されは聊か政所、問注所の事をいふべし。

政所別當一人。章疏を議し教令(けいれい)を出すを掌る令一人教命を掌る。號して執事と曰ふ。其の餘號して寄人曰ふ。寄は猶ほ會(くわい)のごとし。府中の庶務皆會决す。後又局(くよく)を分て恩澤奉行一人を置く。案主一人。土地人民貢賦(くぶ)の差。錢穀出納(せんこくすいとう)の政。總て之を領するを掌る。知家事一人。財穀奉給(ざいこくほうきう)の制。軍人諸客の賜與。及び府中奴碑の衣服祿食(ろくしよく)を給するを掌る。凡そ管内の賦租。物産豐約の宜。水陸道塗の利。地を相(さう)し便(べん)に從ふ。穀(こく)熟(じゆく)せされば則ち案主 知家事、巡檢以税を減(げん)す。凡そ政府土を割き邑を賜ふことあれは。之(これ)か教文(きやうもん)を爲る。案主知家事名を署す。其の下に家司(かし)數員(すうゐん)あり。局(きよく)を分て以て内外の務に給す。以上を常參官とす。其の他政府に隷(れい)する者。儒學博士一人司天官三人なり。元曆元年十月始て公文所を置き。大江廣元を別當と爲し。中原親能、藤原行政、足立遠元、大中臣秋家藤原邦通を寄人(きにん)と爲す。建久二年改て政所と稱す。令、案主、知家事を置く。其の後(の)ち變更(へんかう)あり。而して北條泰時時賴の教禁大に觀るベしと云ふ。

問注とは公事(くじ)を聽く所以なり。公事とは訴訟なり。凡そ民事は私決(しけつ)する能はす。以て公に訴ふ。故に公事といふ。公人問ふて其の辭を注す故に問注といふなり。執事一人。聽訴決獄を掌る。公事奉行三人局を分ちて民訴を聽く。

元曆元年十月始て之を置き。三善康信を以て執事と爲す。執事の任は常に政所に參す。凡そ訟を聽くは小事は自ら決し。大事は卽ち政府に入り。共に之を決す。初め奉行二員を置きしが。尋(つい)て增して三員と爲せり。其の下に祐筆數員あり。

問注所は。初め營中に設けしが。熊谷直實、久下直光と地を爭ひ相訴へし際(さい)。直實詰せられて恨怒に勝へす。西侍に入り自(みづか)ら髻(もとゞり)を截(き)りしより。之を罷め。二世の時に及て更に郭外に造る。卽ち此所なりと云。三世の初令を下し。凡そ公事狀(くじぜう)を獻するの後(の)ち。三日斷せざれは。吏(り)に罪あり。承久以來公事漸く滋し。乃ち其の吏員を增す。建長元年に及て。改(あらため)て引付(ひきつけ)三番と爲す。引付とは卽ち公事奉行なり。而して評定を以て之か頭人(たうにむ)と爲す。毎番十餘員(よゐん)。頭人の邸に就き。訟者を引て聽斷す。時賴執權に及び。頗る民理(みんり)に勤む。局務を廢して游燕する者は籍を除く。文永元年更に越訴奉行を置く。三年執權時宗建議し。引付を罷め頭人をして。皆問注所に入りて訴を聽かしむ。五年復た引付五番を置く。時賴貞時晚年民間(みんかん)の疾苦(しつく)を訪(と)ひ。摘發(てきはつ)甚た多し其の後ち執權其の人に非(あら)す。而して家令事を用ゐ。皆賄を以て成る。北條氏の政(せい)是(これ)に於て乎衰ふといふ。

[やぶちゃん注:突如、歴史学的な鎌倉幕府の組織解説となる。馬鹿にしていた記者であったが、それでも少しは骨があった。いい子だ!

「飢渇畠」「けかちばたけ」と読む。現在の六地蔵附近の古称。この西側当たりに鎌倉時代の刑場の跡があり、後も場所柄、耕作されずに荒れ地となっていたことから、かくも不吉なる名となったとも言われる。

「天狗堂」既出

「政所」ウィキの「政所」より引く。『鎌倉幕府の統治機構のひとつ。前身は公文所である。これは幕府を開いた源頼朝が上記のものと同じく従三位以上の公卿に許される政所開設の権利を獲得したことにより、自らの統治機構が律令制に基づく公的性格を帯びる意義を持ったことによる。鎌倉幕府においては、一般政務・財政を司った』。『公文所から政所と改称された時期については様々な見解があ』って、建久二(一一九一)年に『公文所が政所と改称されたとされる説』(本文はそれを採っている)と、元暦二・文治元(一一八五)年の改称とする二説がある(この年に源頼朝が三位以上(従二位)へ昇叙したことによって政所設置の資格を得たという根拠に基づく説)。『また、公文所と政所の連続性を否定して、大江広元が機能に重複する部分があった公文所と政所の別当を兼務した結果として公文所の機能が政所の機能に吸収されたとする説(「鎌倉市史」)もある』。

「問注所」訴訟事務全般を管轄する機関で元暦元(一一八四)年十月二十日に設置された。ウィキの「問注所」から鎌倉期のそれのみを主に引く。『「問注」とは、訴訟等の当事者双方から審問・対決させること、あるいはその内容を文書記録することを意味する。つまり「問注所」とは問注を行う場所を意味する。平安期には問注を行うための特定の場所は定められていなかったが、鎌倉幕府においては問注を行う場所として問注所を設置したのである』。『当時、日本は国内を二分する大規模内乱(治承・寿永の乱)の真っ直中にあったが、この内乱の中でも(又は内乱に乗じて)訴訟事案は多数発生しており、非公式に発足した関東軍事政権(後の鎌倉幕府)にとって、これらの訴訟を迅速・円滑に処理していくことが、確固たる政権として認められる条件の一つとなっていた『初代問注所執事(長官)には、三善康信が任命された。三善氏は三善清行の子孫に当たり、代々算道を家業としていた』。『康信は有能な役人として知られていたが、親類に源頼朝の乳母がいた縁もあって、初代執事として京から鎌倉へ招かれたのである。以降、問注所執事は鎌倉・室町期を通じて三善氏が世襲することとなる』。『なお、『武家名目抄』には「問注所は政所の別庁にて、ともに政事を沙汰する中にも、訴訟の裁判を本務とする所なり」(職名部(ハ)上)と記され、更に』「吾妻鏡」の建久二(一一九一)年正月十五日条に『書かれた職制においても、政所と侍所については行を改めて別当以下を記載しているのに対して、問注所については政所の項目の最後に「問注所執事」と』ただ一行で『記されていることから、初期の問注所は政所に属する』一機関であり、後に政所から分離して独立した機関となったとする説もある『当初、問注所は訴訟に対する裁判事務は行わず、武家棟梁である源頼朝へ訴訟事案を進達することを任務としていた。『吾妻鏡』には、頼朝邸内の東西にある小さな建物を問注所と号したとある。頼朝邸内に多数の訴人が集まり、怒号・喧噪が飛び交ったため、頼朝はそれにうんざりし問注所の移転を命じた。その結果』、建久一〇(一一九九)年四月一日に『問注所は別の場所へ移転されたが、その直前に頼朝は死亡していた。なお現在、移転後の地(現御成小学校前)には「問注所旧蹟碑」が立てられている』。『問注所は当初、訴訟・裁判事務全般を所管したが、訴訟事案の増加に伴い、次第に事案が滞り始め、事務処理の迅速化が求められるようにな』り、建長元(一二五〇)年十二月九日に『引付衆が新設された。引付衆は御家人の所領関係訴訟(所務沙汰)を扱い、問注所ではその他の民事訴訟(雑務沙汰)及び訴訟雑務(主に訴状の受理)を扱うという役割分担がなされた。ちなみに刑事事件の取扱い(検断沙汰)は侍所が所管した』。『以上の引付衆・問注所・侍所の所管地域は東国に限られており、西国については京の六波羅探題等が所管していた。すなわち問注所は東国の一般民事訴訟を取り扱っていたということになるが、そのうち鎌倉市中の一般民事訴訟については問注所ではなく政所が所管していた』とある。

「章疏」本来は「章」(仏典)の「疏」(注釈)を意味するが、ここは既に出された命令や定めた法文を解釈し、適応範囲を検討することであろう。

「教令」教え戒めて命ずること。法文に即して対応や処理を命ずること。

「政所別當」政所の長官。初代は大江広元であったが、後には執権又は連署が兼任するようになった(ウィキの「政所」に拠る。以下「寄人」まで同じ)。

「執事」政所執事は政所の上級職。政務に参与して主に会計を担当した。二階堂氏が世襲した。政所ではこの上に次官級の文書署判役たる「令(れい)」があったが、初代令も二階堂行政(後注)で、後には彼も広元とともに別当に格上げになっている。

「寄人」「よりうど(よりゅうど)」と読み、政所の雑用官。当初は「政所公人(くにん)」とも呼んだ。

「局」部局・部署。

「恩澤奉行」後に庶務の部局から分離されて奉行職として独立した、御家人の勲功を調査して恩賞の施行を掌った職であろう。勲功奉行。

「案主」「あんじゆ(あんじゅ)」と読む。政所の下級職で文案作成事務を担当した。

「貢賦」下位階層から差し上げる貢物と上から取り立てる税。寄付と租税。

「錢穀」現金と穀物。金品。

「知家事」「ちけじ」と読む。政所の下級職で案主とともに同じく文案作成事務を担当した。

「財穀奉給」御家人の俸禄給与。

「諸客」公家方や招聘した僧その他を指すのであろう。

「府中奴碑」幕府内の最下級の使用人。

「物産豐約の宜」農業商業の奨励政策の意か。

「以税を減す」「もつて税を」で、出来高を検分して必要ならば減税措置をとることであろう。

「邑」音「イフ(ユウ)」、訓「むら」。村である。

「爲る」「つくる」と訓じていよう。

「家司(かし)」通常は「けし」或いは「けいし」(これが本来の読み)と読む。政所・問注所・侍所の職員を指す。

「常參官」幕府の常任官。常に参府する官吏。

「隷する者」幕府に直接隷属する者。

「司天官」天文・暦術を担当した者。実際上は陰陽師なども行ったものと私は推測するが、陰陽師の数はもっと多かった。

「中原親能」(康治二(一一四三)年~承元二(一二〇九)年)は公卿。大江維光の子。大江広元の兄。後に外祖父明法博士中原広季の養子となった。斎院次官・式部大輔・掃部頭・美濃権守。幕府草創期に源頼朝に招かれて鎌倉に下向、側近として軍事・行政を補佐した(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「藤原行政」二階堂氏の祖二階堂行政(生没年未詳)のこと。大倉幕府直近の二階堂に居を構え、地名を名字とした。早くから頼朝に近侍して公文所寄人から政所令を経て、別当へと昇り、正治元(一一九九)年には評定衆の原形とされる幕府内合議制度たる十三衆の一人ともなった。

「足立遠元」(あだちとおもと 生没年未詳)は武蔵足立郡の在地武士。源氏の家人で平治の乱では頼朝の父義朝に従い、治承四(一一八〇)年には頼朝の平家追討軍に属した(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

「大中臣秋家」

「藤原邦通」(生没年未詳)下級公家の出身で大和判官代と称した。有職(ゆうそく)・諸芸に通じ、安達盛長の推挙によって伊豆配流中の源頼朝の右筆となった。治承四(一一八〇)年の頼朝の最初の蜂起である山木兼隆襲撃の際には、館の地形を探って絵図を認めたとされる(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

「教禁」泰時に始まる本格的な武家法制である御成敗式目などの武家の職務権限の明文化や禁制の法整備化を指していよう。

「三善康信」(みよしやすのぶ 保延六(一一四〇)年~承久三(一二二一)年)は母の姉が源頼朝の乳母であった縁故から、伊豆に配流された頼朝にしばしば使者を使って京都の情勢を知らせた。頼朝の求めに応じて元暦元(一一八四)年京都から鎌倉に下って初代問注所執事となり、法律と京都の政治に関する知識をもとに幕府トップ・クラスの実務官僚として重要な役割を果した(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「祐筆」ここは狭義の武家の職名で文書・記録を掌った書記担当官。

「熊谷直實、久下直光と地を爭ひ相訴へし際。直實詰せられて恨怒に勝へす。西侍に入り自ら髻を截りし」この事件については、私の電子テクスト北條九代記 問注所を移し立てらるの本文及び注に詳しく記してある。

「二世」源頼家。

「三世」源実朝。

「承久以來」一二一九年から一二二一年までであるが、承久三(一二二一年)年の承久の乱前後を境に、と言った方が頗る腑に落ちる。

「引付三番と爲す」引付(ひきつけ)は第五代執権北条時頼が御家人の領地訴訟裁判の迅速・正確性を目的として設置した訴訟機関の名称で、引付頭人(評定衆から北条一門三名が選ばれて兼帯)を頭に、引付衆(四~五名)及び個々の訴訟を分掌審理する実務担当の引付奉行人(引付右筆とも。四~五名)で構成されていた。「引付」は数方(「方」は「番」の意)に分れており、「一方」(一番)を単位として訴訟事件を一ヶ月の内で日数を分けて各訴訟を審理した。当初の方(番)数(規定審理訴訟数)は三方(三番)までであったことをここでは言っているものと思われる(後に五番まで増えた)。創設当時の「引付」の審理対象は御家人訴訟でのみあったが、後には土地・年貢などの処務沙汰をも対象とするようになり、本来の厳格性も薄れた上、次第に北条氏の若年者によって占められるようになって、評定衆への出世コースともなって、実質的な訴訟審理的な役割は薄らいだと言われている。

「民理」「理民(りみん)」のことか。民を治めること。治民。

「游燕」宴会にうつつをぬかすことか。

「文永元年」一二六四年。

「越訴奉行」「ゑつそぶぎやう(おっそぶぎょう)」と読む。新たに置かれた再審・越訴(判決の過誤に対する事後の救済手続きの中で、敗訴した者が判決に誤りがある旨を書面で訴え出て再審理を求めることを指す)に関する審理を担当した訴訟機関である「越訴方(おっそかた)」のこと。この文永元年にこれまで第一次審理担当の引付衆が担当していた中でも越訴を主に取り扱う部署として誕生した。ウィキ越訴方にこれば、『長である越訴頭人と引付衆の中から』二~三名の越訴奉行から『構成(越訴頭人も広義の越訴奉行に含む説もある(『関東評定伝』など))されていたが、越訴頭人は初代の頭人が金沢実時・安達泰盛であったように引付衆の中でも執権・連署を除く上首(最上位)もしくはそれに次ぐ御家人が任じられる慣例があった。一方、越訴奉行は実際の審理発生ごとに執権・連署・頭人以外の引付衆より選定され、頭人の指揮下で審理実務を担当した』。『その後、北条氏得宗による訴訟権限の掌握によって、判決に対する異議申立機関である越訴方の存在は疎外され、永仁の徳政令を機に廃止された。翌年の徳政令廃止とともに二階堂行藤・摂津道厳を頭人に任命して復置された。だが』、正安二(一三〇〇)年には、第九代執権で得宗の北条貞時の御内人五名が『越訴を担当するように命じられるなど、越訴を含めた得宗の訴訟権限支配が』顕著になった。これが以下の、しかし「其の後ち執權」が「其の人に非」ざる者になるや、「家令事を用ゐ」るようになり、しかも「皆」、「賄」(まひなひ/まいない」賄賂)を「以て」着任するようになって腐敗し、遂には「北條氏の政」(まつりごと)は、これ「に於て」か、「衰ふ」こととなったとか、と続くのであろう。]

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