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2015/09/27

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 長谷寺

    ●長谷寺

長谷寺觀世音堂は。長谷町の極端(つきあたり)になり。背に觀音山を負ひ。眺望絶佳にして。由井ケ濱一帶脚下に横(よこたは)れり。門に海光山の額を掲(かゝ)く、長谷寺子純の筆なり。右に方丈あり。石階を登りて曲折し。堂前に達す。鐘樓あり。文永元年甲子七月の銘を刻す。斷崖には石の玉垣を設く茶亭あり客を待するの旁(かたは)ら寫眞額等を鬻(ひさ)く。

觀音堂は。草葺にして。間口十間。觀音扉を附す。紫地(むらさきぢ)に卍字(まんじ)を白記(はくき)したる幕を掛く。左右に新製(しんせい)の水盤を列せり。但し本尊は十一面觀世音なり。常に鎖(とざ)して縱謁を許さす。左に竇あり。傴して入れは觀音の像を安置す。長二丈六尺六寸。龕中又た闇(くら)し。導僧轆轤長絙を以て燭籠(しよくらう)を引上け。其面を照す。益(けだ)し燭の上下に緣て。彷彿全身を見るを得。此本尊は大和國長谷の觀世音と同木の楠にて。大和は木の本。此は木の末といふ。阪東(ばんどう)巡禮所第四番なり。創建は天平八年なりといふ。堂内に如意輪〔安阿彌作〕勢至〔仝〕聖德太子〔作者不知〕。並に大和國長谷開山德道上人〔自作〕等の像を安置す。毎年六月十七日は。當寺の法會(ほふゑ)にて。遠近(をちこち)の貴賤こゝに群參す。鶴岡一の鳥居より凡そ十八町。

見存の觀音堂は正保二年に建(たつ)る所。今證左(しようさ)として其棟札を載す。

[やぶちゃん注:以下の新棟札は底本では全体が一字下げ。]

當寺者。觀音竪座之靈塲。威力自在之効驗。擧ㇾ世皆崇信之。雖ㇾ然大破年久不ㇾ能ㇾ興焉。方今爲武門永昌闔國治平之祈念。入圓通之境。開普門之道。乃使巧匠終土木之功。而所經營造替也。相摸州鎌倉長谷觀音堂。正保二年乙酉月日、若狹國主從四位上左近衛少將兼讃岐守源朝臣忠勝。奉行成田助右衛門尉。飯田新兵衛尉。大工桐山源四郎。

舊棟札は本寺光明寺に在り。此に據れば。慶長十二年七月に建てしと明かなり。其間卅九年を經たり。舊棟札の文は左の如し。

[やぶちゃん注:以下旧棟札は底本では全体が一字下げ。]

大日本國相摸州小坂郡鎌倉府海光山長谷寺。荒廢七零八落年久矣。於ㇾ玆征夷大將軍源朝臣家康修造再興。上棟不ㇾ日而成就。豈不觀音方便乎。伏願官門長保南山壽。久爲北闕尊。次冀佛法紹盛。的々相承億萬年。維時慶長十二年丁未七月十二日。大工吉野九郎右衛門。棟梁増田四郎左衛門尉。造營奉行石川吉兵衛尉。代官深津八九郎貞久。奉行伊奈備前守忠次。別當春宗敬白。

裏書

福山寶珠菴元英祥珪書焉。

[やぶちゃん注:「子純」「新編鎌倉志卷之二」の「杉本寺」の条に『子純は建長寺第百五十九世。子純和尚、諱は得公歟』とある。

「文永元年」一二六四年。

「十間」十八・一八メートル。

「二丈六尺六寸」八・〇六メートル。これは珍しく少な目。現在は九・一八メートルと公称する。本邦でも最大級の木彫仏である。

「轆轤長絙」「轆轤」は「ろくろ」でこの場合は滑車のこと、「長絙」は「ちやうくわん(とうかん)」と読んでいるか。長い組紐のこと。これは是非、私の電子テクスト小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(一二)をお読みあれ! 決して失望させませぬから!

「緣て」「よりて」と訓じていよう。

「天平八年」七三六年。

「德道上人」(斉明天皇二(六五六)年〜天平七(七三五)年)は、道明上人の弟子で、二人共に奈良長谷寺の開山と伝えられる真言僧。因みに長谷寺は、江戸初期の慶長十二(一六〇七)年の徳川家康による伽藍修復を期に浄土宗に改宗して、現在に至っている。

「鶴が岡一の鳥居より十八町許あり」「十八町」一・九六キロメートル。現在の一の鳥居を由比ヶ浜方向へ南下して、簡易裁判所の先を右に折れて真っ直ぐに、和田塚入口を抜けて由比ヶ浜通りに出て西行するコースをとっても一・六キロメートルほどしかないから不審に思われるかも知れない。これこそ、新編鎌倉の無批判な引き写しによる大変な誤りなのである。何故なら、この「新編鎌倉志」の時代の鎌倉の「一の鳥居」は現在の「三の鳥居」と呼称されている一番八幡宮に近い入口の鳥居を指しているからである。江戸時代と近代以降では呼び方が異なるのである。それを知らずに、この愚かな記者はそのままやらかしてしまった。観光ガイドブックとしては、いや、ジャーナリストとしては最早、致命的である。

「見存」見慣れぬ熟語である。現存の誤植か? 但し、「現存」という語はここまで記者は使用していないと思う。「けんぞん」或いは「見存(みあ)る」で、現に存して見るところの、の意か?

「正保二年」一六四五年。

「棟札」以下は、恐らく「新編鎌倉志卷之の「長谷寺」(或いはやはりその引き写しの「新編相模国風土記稿」)を引き写したものと思われる。されば私も私のそれから私の訓読文を含めて引き写す。

   *

 棟 札

當寺者、觀音竪座之靈場、威力自在之効驗、擧世皆崇信之、雖然、大破年久、不能興焉、方今爲武門永昌、闔國治平之祈念、入圓通之境、開普門之道、乃使巧匠終土木之功、而所經營造替也、相模州鎌倉長谷觀音堂、正保二年乙酉、月日、若狹國主、從四位上左近衞少將兼讚岐守源朝臣忠勝、奉行成田助右衞門尉、飯田新兵衞尉、大工桐山源四郎。

今の棟札なり。昔の棟札の寫し、光明寺にあり。其の文、左のごとし。

大日本國相模州、小坂郡、鎌倉府、海光山長谷寺、荒廢七零八落年久矣、於茲征夷大將軍源朝臣家康、修造再興、上棟不日而成就、豈不觀音方便乎、伏願、官門長保南山壽、久爲北闕尊、次冀佛法紹盛、的々相承、億萬年、維旹慶長十二年丁未七月十二日、大工吉野九郎右衞門尉、棟梁増田四郎左衞門尉、造營奉行石川吉兵衞尉、代官深津八九郎貞久、奉行伊奈備前守忠次、別當春宗、敬白、裡書、福山寶珠菴元英祥珪書焉。

[やぶちゃん注:以下、以上の新旧の棟札を影印本の訓点に従って書き下したものを示す。

 

《今の棟札》

  棟 札

當寺は、觀音竪座の靈場、威力自在の効驗、世を擧げて皆、之を崇信す。然ると雖ども、大破年久しく、焉を興すこと能はず、方に今、武門永昌、闔國治平の祈念の爲めに、圓通の境に入り、普門の道を開く。乃ち巧匠をして土木の功を終へしめて、經營造替する所なり。相模の州鎌倉長谷觀音堂 正保二年乙酉 月日 若狹の國主 從四位上左近衞少將兼讚岐守源朝臣忠勝タヾカツ 奉行成田助右衞門の尉 飯田新兵衞の尉 大工桐山源四郎

 

「闔國」は「かふこく(こうこく)」と読み、国中残る隈なく、の意。「正保二年」西暦一六四五年。「從四位上左近衞少將兼讚岐守源朝臣忠勝」は酒井忠勝(天正十五(一五八七)年~寛文二(一六六二)年)のこと。武蔵川越藩第二代藩主・若狭小浜藩初代藩主。第三代将軍徳川家光及び次代将軍家綱の老中・大老であった。

 

《昔の棟札》

  棟 札

大日本國相模の州、小坂の郡鎌倉府、海光山長谷寺、荒廢七零八落年久し。茲に於いて征夷大將軍源朝臣家康、修造再興す。上棟、日あらずして成就す。豈に觀音の方便ならずや。伏して願はくは、官門長く南山の壽を保ち、久しく北闕の尊と爲らんことを。次に冀はくは佛法紹盛、的々相承、億萬年、維旹(これとき)慶長十二年丁未七月十二日 大工吉野九郎右衞門の尉 棟梁増田四郎左衞門の尉 造營奉行石川吉兵衞の尉、代官深津八九郎貞久(さだひさ) 奉行伊奈(いな)の備前の守忠次(ただつぐ) 別當春宗 敬して白(いは)く

裡書(うらがき)

福山寶珠菴元英祥珪書す

 

「北闕」は宮中の北の門を言う。帝の北の守りの意。「維旹」は『このこと、時に』の意である。「裡書」の部分は編者によるものであろうと思われる。]

鐘樓 鐘の銘あり。如左(左のごとし)。

   *]

 

【2016年1月12日追加:本挿絵画家山本松谷/山本昇雲、本名・茂三郎は、明治三(一八七〇)年生まれで、昭和四〇(一九六五)年没であるので著作権は満了した。】

Ke_hase

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山本松谷「鎌倉江島名所圖會」挿絵 長谷寺の図(見開き)

[やぶちゃん注:明治三〇(一八九七)年八月二十五日発行の雑誌『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江島名所圖會」(第百四十七号)の挿絵八枚目。上部欄外中央に「鎌倉長谷寺の圖」と手書き文字でキャプションが記されてある(二枚目を参照)。私のスキャン機器のサイズの関係上、一枚目の全体図(ファイル名:ke hase)は右の母子の食事の景の方を重視して、左側を三センチメートル分、カットしてある(合成縮小しないのは私のフォト・ソフトと未熟な技術では必ずしも上手くいかないためである)。但し、左側の西瓜売りの嫗(おうな)と西瓜を食って床几でごろ寝をしている男(食った西瓜の皮らしいものが柱の蔭に見える)、中景の棟にとまる鴉と、その向うの藁葺屋根の上を飛ぶ鴉も、登場させないのは惜しいので底本図の左三分の二を二枚目として掲げた(こちらはコントラスト補正を加えていない)。

 明治期の観光地の古写真は人物が写り込んでいる場合、まず、絶対非演出の絶対リアリズムにはならない(それは現在の写真術の主義主張とは異なり、専ら屋外撮影では時間がかかってしかも静止を促した結果上、仕方がない)。

 ところがこの絵(鉛筆スケッチを元にした石板画)は、描かれる人物が誰一人として画家の眼を意識していない。

 しかも左右の屋内が、自然な形で透視描写とされていて、往時の庶民の日常がごく自然に見てとれるようになっている。

 そもそもこの一点透視画法の図絵は消失点である標題主題の長谷寺を鑑賞者は見ようとしない

 寧ろ、子細に描き込まれた、箱膳の食事風景、そこで子に飯をよそう母、子どもの引き馬の遊具(これは手製とも思えぬ。この物売り屋は廂に蜘蛛の巣がかかって、子沢山(三人を数える)だが、長谷寺の門前町の中では案外に繁昌していることが窺える)、犬相撲をしかけ合う子ら、車乗りの足萎え(こういう差別された賤民の風俗は写真に残されているものが案外に少ないし、今時のTVドラマなどでは自主規制放送コードでまず演出されない。我々が時代劇や近代ドラマで見る市井の沿道は、薬剤の臭いがプンプンするほどテツテ的に漂泊されてしまっている)、天秤棒を担いだ魚屋(鎌倉自慢の鰹でも運ぶものか)、悪戯鴉に石を投げようとしているでもするかのような少年(もしかすると鴉は一羽で、少年の投げた石で驚いて、棟の上の鴉が飛び立ったのが、実は左上の鴉ででもあるところの、異時空同一画面表現なのかも知れぬ)、菰(こも)掛けの馬を引く馬博労(ばくろう)が自分とそして恐らくは相方の馬にも分けてやる(しかし皮の部分)ために瓜(西瓜は奥左端に見える。店頭のそれは楕円の形上からして真桑瓜の類いであろう)を買い求めるさまなどなどを、鑑賞者は楽しむのである。いや。或いは、目には見えぬ中央の甍の中にある長谷観音の母のような広大無辺な慈悲の眼差しが、あまねく、しかも等しく、この市井のありとある衆生の上に注がれてでもいるかのようにも私には感ぜられるのである。

 

 因みに、これを私の持つ、幕末と明治二〇年代の長谷門前町の本絵とほぼ同じフレーム(二枚とももう少しフレーム・イン気味)の写真と比較してみたが、左右の藁葺屋根の形状と非常によく一致していることが判る。本図は確かなロケハンが行われた、しかも写真では決して撮ることの不可能な稀有のスカルプティング・イン・タイムなのである。]

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