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2015/09/17

北條九代記 卷第七 春日の神木 付 興福寺の衆徒蜂起

      ○春日の神木  興福寺の衆徒蜂起

同二十九日、六波羅の飛脚到來し、申しけるは、「去ぬる廿四日、南都の衆徒、春日社(かすがのやしろ)の神木(しんぼく)を捧(さゝ)げて、入洛すと聞えしかば、勅定に依て、在京の武士等を差向けて、防がせらる。木津河の邊に行合(ゆきあ)うて、春日の神人(じんにん)等(ら)と挑戰(いどみたゝか)ふ、神人等多く疵(きず)を蒙る。この訴に依て、藤氏(ふじうぢ)の公家、執柄(しつぺい)、公卿、悉く門を閉ぢて參内せず。その起(おこり)を尋ぬるに、石淸水(いはしみづ)八幡宮寺と、興福寺と、薪御園(たきゞのみその)、大住(おほすみ)、兩莊の用水(ようすゐ)の相論(さうろん)によつて、鬪諍(とうじやう)に及ぶ。興福寺の神人等、刀傷(にんじやう)に罹(かゝ)り、死亡の者多し。南都の衆徒、是を怒(いかつ)て、薪莊(たきゞのしやう)に押寄(おしよ)せ、在家六十餘宇を燒拂(やきはら)ふ。石淸水の神人、俄に神輿(じんよ)を洛中に振(ふ)り奉らんとす。勅定を以て石淸水の別當、成淸(じやうせい)法印に仰せられ。因幡國を寄進せらる。是に依て、石淸水の神輿入洛(じゆらく)の義は留(とゞま)りぬ。自今以後、若(もし)輒(たやす)く神輿を動(どう)じ奉りて、非分(ひぶん)の濫訴(らんそ)を致すに於いては、別當職を改補(かいふ)せらるべき由、堅く制禁せられたり。興福寺の衆徒等、是を聞きて、愈(いよいよ)憤(いきどほり)を含み、今この騷動に及べり。この事、公家の重事(ぢうじ)なるを以て、關東に仰遣(おほせつかは)さる。後藤〔の〕大夫判官基綱、行向う(ゆきむか)て、使を神木の御座所に遣(つかは)し、衆徒を宥(なだ)め申しければ、問答往返(もんだふわうへん)の後に、承服して、神木、御歸座あり。是に依て、殿下公卿以下、藤氏の輩、皆、參内し給ひけり。南都の衆徒、上部(うはべ)は、暫く靜(しづま)るに似たりといへもども、内證(ないしよう)深く公家を恨み奉り、嘉禎二年十月に、又蜂起して、城廓を構へて、楯籠(たてこも)りけり。六波羅より、使節を以て宥めらるれども、耳にも聞入れず。使者を打殺(うちころ)して、首を手蹀(てんがい)の門(もん)に晒(さら)せなんど云ひければ、評定を經て、騒動、靜(しづま)らん程まで大和國に守護人を居(す)ゑられ、衆徒の知行莊園を沒收(もつしゆ)して、地頭に補預(ふしあづ)けらる。畿内近國の御家人等(ら)を催し、南都の道々(みちみち)を取切りて、人の往還を留(とゞ)め、印東(いんどうの)八郎、佐原(さはらの)七郎以下、武勇(ぶよう)大力の兵を遣し、「衆徒、若(も)し打出て、敵對せば、更に優恕(いうじよ)の思(おもひ)を致さず、悉(ことごと)く打殺(うちころ)すべし」と仰出(おほせいだ)だされ、關東より計(はからひ)上せられけり。かゝりければ、城中兵粮(ひやうらう)の運送に難義(なんぎ)して、僧綱以下、皆ともに城を出でて寺に歸り、寺門を閉(とぢ)て佛事を修す。衆徒の心、宥(なだま)りて、靜謐(せいひつ)するうへは、公家武家ともに、惡(にく)み給ふべきことなし、よろしく天下の長久を祈るべしとて、寺家の所領殘らず返付(かへしつ)けられ、大和國の守護、地頭職をぞ留(とゞめ)られける。同十二月、將軍家を民部卿に任ぜられ、武藏守泰時を、左京權大夫に兼任せらる。京都鎌倉静謐する事、偏(ひとへ)に泰時の政務に依ると、上下の諸人、稱嘆(しようたん)せり。

 

[やぶちゃん注:主たる春日大社神木騒動と興福寺の衆徒蜂起事件の部分は「吾妻鏡」巻三十の文暦二(一二三五)年五月二十三日、七月二十四日、及び嘉禎元(一二三五/文暦二年九月十九日に改元)年十二月二十九日、及び巻三十一の嘉禎二(一二三六)年二月二十八日、十月二日・十月五日、十一月十四日等に基づき、最後の将軍頼経の民部卿叙任、泰時の左京権大夫補任は同「吾妻鏡」巻三十一の嘉禎二年十二月三日と十二月二十六日の記事に基づく(文暦二年は二十九巻と三十巻との重出部であるから注意)。

「同二十九日」文暦二(一二三五)年の十二月二十九日。但し、この「同」は実は正しくない。何故なら、前章の最後のクレジット(頼経疱瘡発症の記事)は、精緻に読んでみると、文暦二(一二三五)年の十一月十八日の発症記事で終わっているからである。則ち、その通りならばここは文暦二(一二三五)年の十一月二十九日でなくてはならないが、以下の記事は間違いなく「吾妻鏡」の十二月二十九日の記事内容に基づく叙述だからである。実際の「吾妻鏡」では疱瘡という診断はまだ出ず、「將軍家御不例」とあり、「疱瘡」が発現したのが十二月十八日であった。しかし、前章では「翌月」とか「十二月」のクレジットは遂に出ないのである。恐らく筆者は、十一月十八日の発症記事を「吾妻鏡」見つけて前章を執筆していたのだが、同じ「十八日」であった翌十二月十八日の疱瘡発現の記事を読み進めて書き続けるうち、同じ日付であったことから、この十一月を途中から十二月と思い込み、本章にそのままなだれ込んでしまった結果の錯誤ではなかったかと私は推理するものである。

「南都の衆徒」これは具体的には奈良興福寺の僧兵である。ウィキの「衆徒」によれば、『摂関家とのつながりが強かった大和国の興福寺は鎌倉時代に入ると、南都奈良やがて大和一国の支配権を得るようになった。本来同寺の衆徒は太政官符によって』二十名と『定められ、別当や三綱の補佐にあたることになっていた(官符衆徒)が、次第に一乗院・大乗院などといった有力な門跡が自己の発言力の増大のために国内の武士や名主などを御家人などと称して自己の衆徒に組み入れ、自院の学侶に率いさせて寺内や奈良の町の検断などに従事させた。また、神仏習合によって興福寺と一体化していた春日社の神人に組み入れられて同様の役割を果たすこともあり、こうした春日社神人を「国民」と呼んだ』。即ち、『国内の武士を自寺の衆徒として組み入れたために同国の武士(大和武士(やまとぶし))を指して衆徒と呼ぶ場合もあ』ったとあり、以降の惨状を見ても、これは明らかに武装集団であって、ただの門信徒でないことは明白である。なお、以下に出るこの神木強訴のプレの対立派である石清水八幡宮の神人による神輿(しんよ)による強訴事件(本文から京中には入らず未遂で鎮静したとある)と混同されないよう、注意されたい。

「春日社」現在の奈良市春日野町にある、かの春日大社のことである。前注にも出ているが、ウィキの「春日大社」にも、もともと『藤原氏の氏神・氏寺の関係から興福寺との関係が深く』、弘仁四(八一三)年に『藤原冬嗣が興福寺南円堂を建立した際、その本尊の不空絹索観音が、当社の祭神・武甕槌命の本地仏とされた。神仏習合が進むにつれ、春日大社と興福寺は一体のものとなっていった』とある。

「神木」前に引いたウィキの「春日大社」に、十一世紀末頃になると、『興福寺衆徒らによる強訴がたびたび行われるようになったが、その手段として、春日大社の神霊を移した榊の木(神木)を奉じて上洛する「神木動座」があった』とある、その神木である。

「木津河」木津川。現在の三重県及び京都府を流れる淀川水系の支流。

「神人(じんにん)」確かに「じんにん」とも呼ぶが、私は「じにん」の呼び名の方がしっくりくる。神社に隷属して雑役などを行った下級神職で「寄人(よりゅうど)」とも呼んだ。彼等は神職とはいうものの、差別社会の底辺層に位置されており、社頭や祭祀の警備をも主業務としたことから日常的に武器を携帯していた。ウィキの「神人」にも『平安時代の院政期から室町時代まで、僧兵と並んで乱暴狼藉や強訴が多くあったことが記録に残っている。このような武装集団だけでなく、神社に隷属した芸能者・手工業者・商人なども神人に加えられ、やがて、神人が組織する商工・芸能の座が多く結成されるようになった』と記されている。

「藤氏」藤原氏の門流。ここは本文で以下が読点であるが、実際には「藤氏」であるところの当時の摂政(「執柄」)であった藤原道家、及びそれを除いたところの藤原氏本流支流の「公卿」衆(摂政・関白以下の参議以上の現官及び三位以上の有位者(前官者をも含む)の総称)の意と思われる。

「執柄」摂政・関白の異称。別に漠然と政治上の実質的権力者をも指すこともあるが、ここは前者。

「その起を尋ぬるに……」以下、「吾妻鏡」を見てみよう。まずは文暦二(一二三五)年五月二十三日の条。

   *

○原文

廿三日乙夘。石淸水八幡宮寺與興福寺有確執。及喧嘩等之間。可計沙汰之旨。被下院宣之由。自六波羅被馳申之。是薪。大住兩庄用水相論之故也云々。仍被經其沙汰。差遣御使。遂實檢。就左右。可有議定之趣。今日所被仰遣也。

○やぶちゃんの書き下し文

廿三日乙夘。石淸水八幡宮寺と興福寺、確執(かくしふ)有りて、喧嘩等に及ぶの間、計(はから)ひ沙汰すべきの旨、院宣を下さるるの由、六波羅より之れを馳せ申さる。是れ、薪(たきぎ)・大住(おほずみ)の兩庄(しやう)、用水相論の故(ゆゑ)なりと云々。

仍つて其の沙汰を經(ふ)られ、御使を差し遣はして、實檢を遂げ、左右(さう)に就き、議定有るべきの趣き、今日、仰せ遣はさるる所なり。

   *

 次に「吾妻鏡」その二ヶ月後の文暦二(一二三五)年七月二十四日の興福寺衆徒薪荘襲撃事件を含む全記事を示す。当時の幕府の神経症的な宗教統制が判る。

   *

○原文

廿四日乙酉。稱念佛者。著黑衣之輩。近年充滿都鄙。横行所部。 宣旨雖及度々。未被對治。重可被 宣下之由。可被申京都云々。又石淸水神輿事。有其沙汰。是八幡宮寺與興福確執事。可遣御使之由。去五月被仰兩方之處。不奉待其左右。同六月四日。南都衆徒押寄薪庄。燒拂在家六十餘宇訖。宮寺可仰勅裁之處。同十九日。俄奉渡神輿於宿院之間。爲被尋問子細。雖被尋遣季繼宿禰。不及問答。剩神人等令浚礫史生爲末訖。然後捧解狀條々預勅許云々。仍宮寺嗷訴旁不可然之由。今日有沙汰。被仰遣別當成淸法印。倂被寄進因幡國。奉留神輿入洛畢。就無道之濫訴。浴非分之朝恩者。諸山諸寺濫行依不可斷絶。爲世爲人。始終不快事。自關東。爭不被計申哉。自今以後。若輙奉動神輿者。可被改補別當職之由。可被奏問。於餘所衆徒者。背貫首之所命。動蜂起事出來歟。至當宮神人者。非別當免許者。何致無道濫行哉。兼以可存知之由云々。

○やぶちゃんの書き下し文

小廿四日乙酉。念佛者と稱し、黑衣を著けるの輩、近年都鄙(とひ)に充滿し、所部に横行す。宣旨、度々に及ぶと雖も、未だ對治(たいぢ)せず。重ねて宣下せらるべきの由、京都へ申さるべしと云々。

又、石淸水の神輿(しんよ)の事、其の沙汰有り。是れ、八幡宮寺と興福寺の確執の事、御使を遣はすべきの由、去る五月兩方に仰せらるるの處、其の左右を待ち奉らず、同じき六月四日、南都の衆徒、薪庄(たきぎのしやう)へ押し寄せ、在家(ざいけ)六十餘宇(う)を燒き拂ひ訖んぬ。宮寺は勅裁を仰ぐべきの處、同十九日、俄かに神輿を宿院に渡し奉るの間、子細を尋ね問はられんが爲(ため)、季繼宿禰(すえつぐすくね)を尋ね遣はさると雖も、問答に及ず。剩(あまつ)さへ神人等、史生(ししやう)爲末(ためすゑ)を浚礫(りようりやく)せしめ訖んぬ。然る後、解狀(げじやう)を捧げ條々の勅許に預ると云々。

仍つて宮寺の嗷訴(がうそ)旁(かたが)た然るべからざるの由、今日、沙汰有り。別當成淸(じやうせい)法印に仰せ遣はさる。 倂(しかしなが)ら、因幡國を寄進せられ、神輿の入洛を留め奉り畢んぬ。無道(ぶだう)の濫訴(らんそ)に就き、非分(ひぶん)の朝恩に浴してへれば、諸山諸寺の濫行(らんぎやう)、断絶すべからざるに依つて、世の爲(ため)人の爲、始終不快の事、關東より、爭(いかで)か計(はから)ひ申されざらんや。今より以後、若(も)し輙(たやす)く神輿を動かし奉らば、別當職を改補せらるべきの由、奏問せらるるべし。餘所(よしよ)の衆徒に於ては、貫首(くわんじゆ)の命ずる所に背き、動(ややもす)れば蜂起の事、出來(しゆつたい)せんか。當宮の神人に至りては、別當免許するに非ずんば、何ぞ無道(ぶだう)の濫行(らんぎやう)を致さんや。兼て以つて存知すべきの由と云々。

   *

ここに出る「史生」は「しじやう(しじょう)」とも読み、下級官吏の一身分。律令制では中央諸官庁や諸国の主典(さかん)の下に属して公文書の書写や修理などに従った下級書記官である。「一分(いちぶ)の官」とか「ふみびと」「しせい」とも呼んだ。

 

本文注に戻る。

 

「薪御園(たきゞのみその)」現在の京都府の南西端に近い京田辺市薪里ノ内、旧薪村のこと。十世紀に石清水八幡宮に寄進され、ここで伐採乾燥させた薪を木津川を使って運び、石清水八幡宮の焚き物としたという。次の次の注も参照のこと。

「大住(おほすみ)」「薪御園」の西北直近(地図の地名上からは接触していた感じもする)にあった興福寺領大住荘(おおすみのしょう)。

「兩莊の用水の相論によつて、鬪諍に及ぶ」水争いから実際の戦闘行為に発展したというのであるが、この事件、相当に有名なものらしく、平凡社の「世界大百科事典」にはわざわざ「薪荘(たきぎのしょう)」の項が設けられており、それによれば(アラビア数字を漢数字に代え、コンマを読点に変更した)、『山城国綴喜(つづき)郡にあった石清水八幡宮領の荘園。薪薗(たきぎのその)とも呼ばれた。保元三年(一一五八)十二月三日の官宣旨に宮寺領として現れるのが史料上の初見であるが、後の史料によると薪薗は十世紀に石清水八幡宮に寄進されたという』。(嘉禎元(一二三五)年に『当荘の西北にある興福寺領大住(おおすみ)荘との間で用水相論が起こり、興福寺による薪荘在家(ざいけ)六十宇の焼打ち、石清水八幡宮神人(じにん)二人の殺害の結果、両荘の相論は石清水八幡宮と興福寺の両権門(けんもん)間の相論に拡大した。両者ともに神輿・神木をおし立てて朝廷に強訴(ごうそ)する大相論に発展したこの事件は、翌年、鎌倉幕府がついに大和国に守護・地頭を設置しようとしたことにより、いったんは鎮静化する。しかしその後も両荘の堺相論は続き』、実に四十五年後の弘安四(一二八一)年、『院宣によって当荘と大住荘は』「関東一円之地」『とされた。その後の歴史は詳しくはわからないが、南北朝期にはすでに石清水八幡宮領に還付されている』とある。

「改補」通常は「かいほ」であるが、「北條九代記」では一貫して「かいふ」とルビを振る。地位や官職を強制的に解任してすげ替えること。

「後藤大夫判官基綱」後藤基綱(養和元(一一八一)年~康元元(一二五六)年)は藤原秀郷の系譜を引く京武者後藤基清の子。ウィキの「後藤基綱」によれば、但し、『その活躍は武士としてよりも、文官に近い実務官僚としてであり、また歌人としても有名で』あり、説話集「十訓抄」の著者とする説さえもある。『承久の乱では軍奉行を務めたと見られ、後鳥羽上皇方に付いた父基清を幕府の命令により斬首し』、嘉禄元(一二二五)年には新設された『評定衆の一員となり、恩賞奉行や地奉行となっている。その後藤基綱が記した記録は、かなりの量が『吾妻鏡』に利用されていると見られる。恩賞奉行として四代将軍藤原頼経の側近でもあった為か』、寛元四(一二四六)年六月七日、『宮騒動によって評定衆を解かれ頼経とともに京に同行。その』六年後に再び引付衆として返り咲くものの、既に七十二という『高齢に達しており、後藤氏の名誉回復に近いものであったとも見られる』とある。『その子後藤基政は引付衆から六波羅評定衆となり、以降後藤氏は六波羅評定衆を世襲』した、とある。

「嘉禎二年十月に、又蜂起して……」「吾妻鏡」を見よう。まずは嘉禎二 (一二三六) 年十月二日と続く五日の条。

   *

○原文

二日丙戌。霽。六波羅飛脚參着。申云。自去月中旬之比。南都蜂起。搆城郭巧合戰。六波羅遣使者雖相宥彌倍増云々。

五日己丑。被經評議。爲鎭南都騷動。暫大和國置守護人。没收衆徒知行庄園。悉被補地頭畢。又相催畿内近國御家人等。塞南都道路。可止人々之出入之由。有議定。被撰遣印東八郎。佐原七郎以下殊勝勇敢壯力之輩。衆徒若猶成敵對之儀者。更不可有優恕之思。悉可令討亡云々。且各可欲致死之由。於東士者。直被仰含。至京畿者。被仰其趣於六波羅。又南都領在所。悉不可被知食之處。武藏得業隆圓密々與其注文於佐渡守基綱。基綱就送進關東。被新補地頭云々。

○やぶちゃんの書き下し文

二日丙戌。霽(は)る。六波羅の飛脚、參着し、申して云はく、

「去ぬる月中旬の比(ころ)より、南都、蜂起す。城郭を搆(かま)へ合戰を巧(たく)む。六波羅、使者を遣はし相ひ宥(なだ)むと雖も彌(いよいよ)倍増す。」

と云々。

五日己丑。評議を經られ、南都の騷動を鎭めんが爲(ため)に、暫く大和國に守護人を置き、衆徒知行の庄園を没收し、悉く地頭を補せられ畢んぬ。又、畿内近國の御家人等を相ひ催し、南都の道路を塞ぎ、人々の出入を止(とど)むべきの由、議定(ぎぢやう)有り。 印東(いんとうの)八郎、佐原七郎以下、殊に勝れたる勇敢壯力の輩を撰び遣はさる。衆徒、若し猶ほ敵對の儀を成さば、更に優恕(いうじよ)の思ひ有るべからず。 悉く討ち亡ぼさしむべしと云々。

且は、各々死に致らんと欲すべしの由、東士に於ては、直(ぢか)に仰せ含めらる。京畿の者に至りては、其の趣きを六波羅へ仰せらる。又、南都領の在所、悉く知(しろ)し食(め)さるべからざるの處、武藏得業隆圓、密々に其の注文を佐渡守基綱に與(あた)へ、基綱、關東に送り進ずるに就きて、地頭を新補せらると云々。

   *

 

本文注に戻る。

 

「手蹀(てんがい)の門」不詳。増淵勝一氏は『天蓋の門』とされ、『天蓋』の下に割注されて『仏像などの上にかざすきぬがさ』とされるのであるが、晒し首とするには如何にも場違いな場所と私には思われ、肯んじ難い(それほど当時の僧の知的レベルがおぞましく愚劣であったというならばそれでよいが)。だいたい、「蹀」の字は「がい」とは読めない。これは音で「チョウ」「ジョウ」で訓では「ふむ」(踏む)の意である。識者の御教授を乞う。

「印東八郎」将軍頼経の近侍という説をネット上で発見した。

「佐原七郎」不詳。

「優恕」犯罪や非法行為などの有責行為を大目に見て減刑や赦免すること。「優如」とも表記する。

「僧綱」「そうがう(そうごう)」と読み、本来は僧尼の統轄や諸大寺の管理運営に当たる僧の上位役職の総称。僧正・僧都(そうず)・律師が「三綱」、他に「法務」「威儀師」「従儀師」を置いて補佐させたが、平安後期には形式化しているので、ここでの謂いも問題にする必要はないと思われる。

「兵粮」兵糧(ひょうろう)。

「かゝりければ、城中兵粮の運送に難義して、僧綱以下、皆ともに城を出でて寺に歸り、寺門を閉て佛事を修す……」「吾妻鏡」の嘉禎二(一二三六)年十一月一日と続く十三日の条を引く。

   *

○原文

一日甲寅。霽。未尅。六波羅飛脚參著。南都去月十七日夜破城※退散。是於所領。被補地頭。被塞關之間。失兵粮之計。難聚人勢之故也云々。

[やぶちゃん字注:「※」「土」+「郭」。]

十三日丙寅。小雨灌。六波羅飛脚到着。南都蜂起既落居。自去二日。僧綱已下歸寺。開寺門。行佛事云々。

○やぶちゃんの書き下し文

一日甲寅。霽。未尅、六波羅の飛脚、參著す。南都、去ぬる月、十七日夜、城※を破りて退散す。是れ、所領に於ては、地頭を補せられ、關を塞がるるの間、兵粮(ひやうらう)の計を失ひ、人勢を聚(あつ)め難きの故なりと云々。

[やぶちゃん字注:「※」「土」+「郭」。]

十三日丙寅。小雨、灌(そそ)ぐ。六波羅の飛脚、到著す。南都の蜂起、既に落居(らくきよ)す。去ぬる二日より、僧綱已下、寺に歸り、寺門を開きて、佛事を行ふと云々。

   *

「未尅」午後二時頃。

 

本文注に戻る。

 

「同十二月」「吾妻鏡」によれば、十二月三日。

「左京權大夫に兼任せらる」「吾妻鏡」によれば、十二月十八日。]

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