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2015/09/24

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十二章 京都及びその附近に於る陶器さがし 風景スケッチ(その5)

 和歌山への旅は興味深々たるものであった。八月三十一日、我々は和歌山を立って奈良へ向った。最も美しい谷間を、二日にわたって人力車で行くのであった。我々の日本の旅で、ここ程魅力に富んだいい景色の多い所は他に無かった。晩方、我々は大和の国の五条という町へ着いた。川に沿う路の途中で、私はその外見はコネティカット河の上流に於る段丘とまったく同じだが、原因はまるで異る、正式な段丘構成を見た。

[やぶちゃん注:「八月三十一日、我々は和歌山を立って奈良へ向った。最も美しい谷間を、二日にわたって人力車で行くのであった」この記述からモースの奈良着は明治一五(一八八二)年九月一日夕刻六時(後述されてある)であったと推定出来る。「最も美しい谷間」「川に沿う路の途中」の渓谷や川は「紀の川」を指す(地図上表記では「紀ノ川」であるが河川法では「紀の川」と表記する)。

 

「原因はまるで異る、正式な段丘構成」小学館「日本大百科全書」の「紀ノ川」には『上流吉野川は峡谷の様相を示すが、中流粉河(こかわ)までの北岸には洪積段丘が、下流には複合扇状地がみられ』るとある。この洪積段丘とは洪積世(更新世)に堆積して出来た平野が隆起して台地化し、それが段丘を成している地形をいう。ウィキの「河岸段丘」を見ると、『地殻変動や、侵食基準面の変動がその形成原因となる。侵食力を失った河川が隆起や海面低下などにより再び下刻を行うと、それまでの谷底平野内に狭い川谷が形成される。谷底平野は階段状の地形として取り残され、河岸段丘が形成される。これとは逆に、山地からの土砂供給により、形成される堆積段丘というものもある』。『侵食が進んで河川勾配が侵食基準面に近付き侵食力が弱まると、段丘崖の下に新たな谷底平野が形成される。その後隆起などにより再び侵食力が強くなると新たな段丘崖が形成され、河岸段丘が多段になる。主に河岸段丘は内側に近づくにつれ、新しくなる』と形成過程を記す。ここには隆起や海面低下などの地殻変動によって形成されるタイプと、山地からの土砂供給によって形成される堆積段丘の二タイプがあると読める。或いは、前者の大きな地殻変動によって生ずる河岸段丘の中に於いて全く異なった現象を濫觴とする河岸段丘のタイプ、の意で述べているのかも知れない。「紀の川」は中央構造線の谷間を流れているため、隆起や海面低下といった地殻変動の影響を盛んに受けて河岸段丘が形成されたものであるが、コネチカット川上流域の河岸段丘の形成自体がよく分からないので何とも言い難い。地質学の専門家の御教授を乞うものである。]

 
 

M680

図―680

 

 五条では、一軒の家が建てられつつあって、恰も部屋の天井が如何に支持されるかが見られた。人は杉板ののっている細いたるきが、よしんば如何に杉板が薄いにせよ、それ等を支える可く余りに弱いことに気がつく。これ等の板の上側には長い桟が打たれ、この桟と、上方の屋根のたるきとに釘でとめた木が入れられる。天井の上と屋根の下の空間、即ち我国にあっては屋根裏部屋を構成する場所は、日本の家ではまるで利用されず、鼠の運動場になっている。五条で私は、消防小屋の写生(図680)をした。これは四年前、蝦夷の室蘭で写生した同様の家に似ている。喞筒(ポンプ)は屋根の下にぶら下っていて、乾燥してひびが入っているので、火事に際して使用すると、木に水がしみ込む迄は吃驚する位、水が各方面へほとばしり出る。

[やぶちゃん注:図680の上部には「噴水砲」と書かれているの分かり、その右手にはちょっと自信がないが英語で“jet water gun”と書かれているか? 中央に置かれた龍土水にも文字が書かれているようだが、これは読めない。

「五条」現在の奈良県南西部の南和地域の中心都市である五條市(ごじょうし)。表記についてはウィキの「五條市を参照されたい。ここではこの「五条」はこの表記で問題はないとのみ言っておく。

「四年前、蝦夷の室蘭で写生した同様の家に似ている」第十三章 アイヌ 22 雨の室蘭にての図415を参照。]

M681

図―681

 

 大和の八木という町で見たいくつかの葺屋根(図681)は、葺材の縁が重って現れている点で、蝦夷のアイヌ小舎の草屋根に似ているが、継続的な縁辺はアイヌの屋根に於るが如く、著しくつき出してはいない。

[やぶちゃん注:図681に添えられた英語はお手上げ。どなたか、解読をお願いモース!
 
「大和の八木」奈良県橿原(かしはら)市内膳町(ないぜんちょう)内の地名。次段の神武天皇陵よりも北、奈良寄りである。

M682

図―682

 

 我々は、朝五条を立ち、一日中気持よく人力車を走らせた後、六時奈良に着いた。大和の国へ入ってから私は路傍のそこここに、千年以上も経た青色の、釉をかけぬ、旋盤(ろくろ)で廻した陶器の破片を見た。古物学者はこの陶器を朝鮮のものとしているが、地面に沢山ちらばっていることからして、私はこれを、その製法は最初に朝鮮の陶工によって輸入されたが、日本のものであると考えた。これは墓や洞窟に関係があり、死を追念させる。奈良の近くで我々は最初の皇帝即ち神武天皇の墓所を通過した。それは大きな、四角い、上の平な塚で僅かに隆起し、清楚な、丈夫な石垣に取りかこまれている。それを見るべく主要路から入って行くと、恐しく暑く、私は写生を試みるべく余りにつかれていた。私はやっとのことで、奥の聖所の門を閉ざす南京錠を急いで写生した。これは大きな重重しい英銀製の品で、皇帝の命令が無くては絶対にあけることが出来ない(図682)。

[やぶちゃん注:「神武天皇の墓所」現在の神武天皇陵と治定されてある奈良県橿原市大久保町の「畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)」。公式の形式は円丘で、考古学名では「四条ミサンザイ古墳」「山本ミサンザイ古墳」「神武田古墳」などと呼称する(以上はウィキ神武天皇に拠った)。古墳羨道入口まで行けちゃったというのが今から考えると凄いし、南京錠のスケッチを残したモースも凄い。]

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