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2015/09/05

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (一三)

       一三

 

 大橋を渡り盡すと、小蒸汽船の着く埠頭の近所に、極小さな地藏堂がある。こゝに唐金の曳網が澤山藏してある。溺死者の死骸が揚らないとき、これを借りて川を曳く。死骸が見附かると、新しい網を寄進せねばならぬ。

 こゝから南へ半哩の間、學間と手習の神なる天滿宮へまで、天神町が延びてゐる。これは富商の町で、兩側の家々に紺暖簾が垂れて、白く染め拔いた屋號や看板の妙な文字が、湖水から吹く風毎に波動してゐる。廣い通をずつと向うへ、電柱の長い列が、白い遠景の中に小さくなつて行く。

 天神の社を越えてから、市はまた新土手川によつて區分されてゐる。この川に天神橋が架つてゐる。橋から向うの方に、また市街區域が丘陵の下まで伸び、且つ湖岸に沿つて曲つてゐる。しかし大橋川と新土手川に挾まれた部分が、市の最も富んだ、且つ繁華な區域であつて、澤山寺院の集つた所もある。この島になつてゐる區に、また劇場もあれば、角力場もあるし、遊樂の場所も大抵こゝにある。

 天神町と並行に寺町が走つてゐる。この町の東側には寺院がずらりと並んでゐる――瓦を戴ける御所風の土塀で固めた表側に、一定の間隔を置いては、堂々人を驚かすやうな山門がある。この長く續いた塀の上へ高く聳えてゐるのは、立派な反(そり)を打つた、重々しい輪廓をしてゐる灰靑色の屋根である。こゝでは凡ての宗派が仲よくして隣合つてゐる――日蓮宗、眞言宗、禪宗、天台宗、それから眞宗までも。眞宗は神さまを拜ませないので、出雲ではあまり行はれない。寺の境内の後には墓地があつて、その東にまた他の寺々があり、その先きにもまたある――佛教建築の集團が、小園細屋と交つて、廢巷斷路の迷宮をなしてゐる。

 今日も寺院を訪ねたり、金の後光を負ふて金蓮華の夢中に安坐せる古い佛像を眺めたり、珍らしい御守を買つたり、墓地の彫像を調べたりして、例の通り數時間を有益に費した。墓地では來てみる價値のある、夢をみてゐるやうな觀音や、徴笑を含んだ地藏を殆どいつも發見する。

 寺の廣い境内は、大昔から子供の遊び場であるから、民衆の生活を視ようと思ふ人には、興味深い場所である。代々世々幸福な幼兒が、そこて面白く遊んだものである。天氣のよい日には、毎朝乳母がやつでくる。弟妹分おんぶした娘がくる。澤山の子供が加はる。而して奇異な面白い遊戯をする。――鬼子つこ、蔭鬼、目くさんごつこなど。また、夏の長い夕方には、こゝは角力場となつて、角力の好かなものは勝手に人つて來るので、土俵場を築いた處もある。元氣な若い勞働者や、筋肉逞しい職人などが、一日の仕事がすんでから、力を試めしにこゝヘ來る。現今有名な角力取で、こゝで初土俵の名を揚げたものが一人ならずある。若者が自分の土地で、他の者に皆勝ちうる力量を示すと、今度は他地方の優勝者から挑戰を受ける。それに勝つた擧句には、技倆ある專門の人氣角力になれるのである。

 踊の催や、演説會もまた寺の境内でする。緣日にはまた極く珍しい玩具が賣られる――多くは宗教的の意味を持つてゐる。こゝには大きな老木もあり、人馴れた魚の滿ちた池もある。人影が水に落ちると、魚は餌を貰はうとして頭を擡げる。貴い蓮がその池に植わつてゐる。

 『泥中に生ずれども、淸らかなる花はその汚れに染まず。かくて誘惑の中にありても、心常に淸き人は蓮に譬へらる。されば蓮は佛具に刻まれ、或は畫かる。また釋迦如來の形を現すには必らず之を用ふ。極樂に行く者は金の蓮の萼に安坐せん』(ある生徒の英作文より)

 喇叭の音が奇異な町を通つて響く。すると、最後の寺の角を曲つて、一隊の若い立派な銃兵が行進してくる。佛國の輕裝歩兵に稍似た制服を着て、四人宛よく揃つて並んで、ゲートルをつけた脚が、すべて單獨の身體に附いてゐるやうである。列がぐるりとこちらヘ廻るときに、一本一本の銃劍が皆同一の角度をなして日光に映ずる。これは師範學校の生 徒が毎日の兵式操練をするのである。師範の先生は細胞組織の分離、スペクトラム分析、色覺の發達、グリスリン浸剤にバクテリヤを培養することなどに就て講義をする。しかし、生徒はそんな近代的知識があるからとて、決して謙遜な武士風の態度を失はないし、又封建時代の思想に陶冶された彼等の親しい老父母に對する恭敬を減じはしない。

 

[やぶちゃん注:「地藏堂」出雲市今市町北本町及び松江市寺町に店舗を持つ「仏壇の原田」公式サイト内のスタッフ・ブログ内の小汀泰久氏の『「えきて もどおー大橋川」その3』に(他サイトで調べると「えきてもどおー」とは出雲弁で「一寸行ってくる」の意味らしい)、『松江大橋の西灘は、湖上気船桟橋があり明治・大正の頃は、平田、宍道、荘原方面との水上交通の拠点であったようです。また、現在は龍覚寺の安置されている「松江六地蔵」の地蔵堂は、この場所に安置してあったようです』とあり、まず、ハーンの言う「小蒸汽船の着く埠頭」は大橋南詰よりも上流の西の宍道湖側、即ち、ハーンの泊った旅館の一候補の後である現存する皆美館の対岸附近にあったことが判る。また、この望湖山龍覚(りゅうかく)寺は大橋南詰から南東に二百メートル弱の位置、松江市寺町にある曹洞宗の寺院と思われる。リンク先その他に、ここには前出の松江大橋の人柱となった源助を供養する源助地蔵も安置されているとある。

「半哩」既注であるが、「はんマイル」で、一マイルは千六百九メートルであるから、その半分で八百四メートル弱となる。大橋南詰から白潟(しらかた)天満宮(後注)は実測(途中で少し道が曲がる)六百六十メートルほどであるが、目算としては問題ない。

「天滿宮」白潟天満宮。天神町(てんじんまち:後注)の南端にある。松江天神町商店街公式サイト内の天神さんによれば、由緒は保元年間(一一五六年頃)に平景清(藤原(伊藤)景清 ?~建久七(一一九六)年:悪七兵衛の通称で知られた勇猛果敢な武士で、ウィキの「藤原景清」によれば、『壇ノ浦の戦いで敗れた後に捕られ、一説には預けられた八田知家の邸で絶食し果てたといわれる』(彼がかく自死したと伝えるものが鎌倉の扇ヶ谷に「景清の土牢」として現存するが私は信ずるに足らない偽物と考えている)。また彼の兄上総五郎兵衛尉忠光も『鎌倉二階堂の永福寺の造営中、源頼朝を暗殺しようと』した人物としてしても頓に知られている)、が『出雲に赴任し、お城を島根県能義郡の富田山に築こうとした時、眼病にかかり日を追って重くなった』ので、天神たる菅公(菅原道真)に『一心に祈っていたところ、夢の中でお告げがあり、まもなく全快した』ことから、その『お礼のために城内に鎮守として社殿を建立し、以後、富田城内に長くまつられていた』。その後の慶長年間(一六〇〇年頃)に、城を松江に移して松江城を建設した初代藩主忠氏の父(既に隠居していた息子と実質的な二頭政治を行っていたことは既注)『堀尾吉晴が、天満宮をこの白潟の地に奉還した』。『それ以後、歴代松江藩主の尊崇を受け、庶民の間でも学問の神様として広く信仰されてきた』とある。

「天神町」「てんじんまち」と読む。先にリンクした天神町商店街公式サイトの「商店街のあゆみ 記憶の向こうの天神町」には、『天神町商店街は、戦国時代の終わりに松江城や天満宮が造営されると共に生まれ、天満宮の門前町として栄え』、『明治の頃も、天神町に隣接し宍道湖に面する灘町や魚町には、多くの船が着き』、『各地からの物資を運んでき』たとあり、この頃までは『天神様も宍道湖沿岸や大橋川の各地から船で参るのが普通だった』とある。『宍道湖を来待(宍道町)からは来待石や中国山地からの物資、平田からは特産の木綿や海産物などが荷揚げされ、その豊かな物資を背景に天神町の商売は栄え、『商店街の人も船で行商や仕入れに出かけた』というとあって、まさしくハーンの「富商の町」というのが、合点がゆく。但し、現在の町域は天満宮を右下角にした鈎型を成す変型的なものである。

「新土手川」天満宮の南直近(南方五十五メートル)に流れる川で、現在の地図で見ると、下流約四キロの地点で大川に合流しているから、この天神町を含む部分は西を宍道湖とし、北の大川本流とこの新土手川の中州のように見える(但し、自然状態でそう形成されたものかどうかは分からない。新土手川という呼称やそのほぼ直線に近い流れ方からは、或いは古い時代に水運のために人工的に形成された運河であったものかも知れない。識者の御教授を乞うものである)。

「天神橋」天満宮の東九十六メートルの新土手川に架かる。

「寺町」天神橋の東側に、南北五百十数メートル、東西に三百メートルほどのやや歪んだ長方形で位置し(北端は和多見町があって大川には接していない)、現在の地図を見ても寺院が軒を並べるように並んでいる。

「眞宗は神さまを拜ませない」親鸞は別に神道を否定していない(かのファンダメンタルな日蓮でさえも否定していない。日本の近世までの宗教史の中で外来のキリスト教を除いて神道を全否定した教祖は恐らく皆無であろうと私は思う)。寧ろ、永い神仏習合時代に於いては各宗派は神祇信仰を積極的に方便として取り入れ、本地垂迹説を主張して大いに布教に活用して来た事実は腐るほどある。ここでハーンが特に浄土真宗を名指しにして特異点として記しているのは、明治維新以後、国家神道として権威化されたこと(加えておぞましき廃仏毀釈によって真宗に限らず習合していた寺院仏像仏典仏具が悉く完膚なきまでに分離され、有意な数のそれらが破壊破棄されたことなども遺恨としてある)、それと浄土真宗宗派内各派がかなり激しく対立した(無論、現在も続いている)こと、その過程の中で有力な宗派集団が「神祇不拝」を親鸞が唱えた絶対真理のようにぶち上げたこと(「浄土真宗 神祇不拝」で検索すれば、まことしやかな解説が幾らも見つかる)、或いは出雲での真宗の布教者が個人的に反神道色を強く出して布教した人物であった可能性(実際に真宗の神道批判は現在の真宗僧によってもかなり激しい温度差がある)などに由来するものであろうと私は推測する。また、もしかするとハーンは親鸞の悪人正機のような逆説の中に、近代以降しばしば識者の間で言われるようになった、ハーンの嫌いなキリスト教と似たような臭さ(胡散臭さ)を嗅ぎ取っていた可能性も捨てきれないようにも思われる。なお私は、神も仏も信じないが、苦渋にして孤独な思想家としての親鸞には大いに興味を持っている。以上、大方の御批判を俟つ。

「蔭鬼」「影踏(かげふ)み鬼(おに)」「影踏み」のことか? ウィキの「影踏み鬼」によれば、(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『古くから存在する遊戯で、日本では明治三十年代まで月明かりの夜に行われることが多く、「影や唐禄神(道陸神、道禄神)、十三夜の牡丹餅」などと囃しながら行われたという』。『二つの方式があ』り、日中の場合は『日影を利用するため日照が十分にある屋外などで行われる』。『全員一斉に行う』ゲームでは、『開始の合図で一斉に他の者の影を踏むことを競』い、『鬼役を決めて行うもの』では、『まず、参加者の一名を鬼役として選び、他の者は建物など何らかの物体の日陰に入る。日陰に隠れていた者は開始と同時に一斉に日向に飛び出す。あるいは日向で一定時間経過後、開始の合図とともに鬼役が影踏みを開始する。鬼役の者が他の者の影を踏んだ場合には、その影を踏まれた者が新たに鬼役となり立場を交換する。影に入っていることのできる時間について制限を設けることも多い』とある。

「目くさんごつこ」不詳。全くの直感だか、前の二つが鬼ごっこの変種であるから、「目隠し鬼」或いは「だるまさんがころんだ」などが頭に浮かぶ。識者の御教授を乞うものである。

「こゝには大きな老木もあり、人馴れた魚の滿ちた池もある。人影が水に落ちると、魚は餌を貰はうとして頭を擡げる。貴い蓮がその池に植わつてゐる」寺は実際にどの寺であったかを同定出来る(少なくとも限定出来る)方が郷土史研究家の方には必ずおられるはずである。これは最終段落の中の「最後の寺」というのも同様である。是非とも御教授の程、お願い申し上げるものである。

「萼」老婆心乍ら、この英文を書いた少年はこの落合氏の訳のこれを「うてな」と訓じて欲しいと感じていると確信する。

「すると、最後の寺の角を曲つて、一隊の若い立派な銃兵が行進してくる。佛國の輕裝歩兵に稍似た制服を着て、四人宛よく揃つて並んで、ゲートルをつけた脚が、すべて單獨の身體に附いてゐるやうである。列がぐるりとこちらヘ廻るときに、一本一本の銃劍が皆同一の角度をなして日光に映ずる。」「ゲートルをつけた脚が、すべて單獨の身體に附いてゐるやうである」がやや日本語として硬い。平井呈一氏は『どこやらフランスの軽歩兵に似た制服を着た、年若い、一隊のりっぱな銃兵が、四列縦隊になって行進してくる。ゲートルを固く巻いた全隊の足が、まるでひとりの人間の五体についている足のように動き、寺の角をこちらへ曲がってくる時には、銃剣がいっせいに同じ角度で日の光りにキラリと光る。』と実に美事に訳出描写しておられる(敢えて贅沢を言うと「まるでひとりの人間の五つの胴体についている同一人物の十本の足」とすると実にハーン的平井的怪異を醸し出していいように感ずるものである)。

「師範の先生は細胞組織の分離、スペクトラム分析、色覺の發達、グリスリン浸剤にバクテリヤを培養することなどに就て講義をする。」原文は“Their professors give them lectures upon the microscopic study of cellular tissues, upon the segregation of developing nerve structure, upon spectrum analysis, upon the evolution of the colour sense, and upon the cultivation of bacteria in glycerine infusions.”であるが、ど素人の私が見てもどうもこの邦訳は怪しい感じがする。

「細胞組織の分離」、“the microscopic study of cellular tissues”

は寧ろ、

――細胞組織の顕微鏡学的観察或いは所見――

の意であり、以下の“upon the segregation of developing nerve structure”に至っては、

――発生過程にある神経細胞の鏡検による解剖――

ごっそり省略されてしまっている。

「スペクトラム分析」“spectrum analysis”は前の生物学と続く「色覺の發達」から考えるなら、物理学や化学上の広義なスペクトル分析などではなく、

――プリズムによる光のスペクトル分析――

で、当の「色覺の發達」“the evolution of the colour sense”は、

――視覚細胞に於ける色覚の進化過程――

といった意味ではあるまいか? 「リスリン浸剤にバクテリヤを培養すること」“the cultivation of bacteria in glycerine infusions”に至っては如何にも分かったようで分からない(少なくとも私にはそうである)不親切な逐語訳である。これは、

――グリセリンに栄養源を少し含ませた培地(寒天様の培養液)でのバクテリア即ち細菌(厳密には真正細菌類)の培養

――のことであろう。]

 

 

Sec. 13

At the farther end of the bridge, close to the wharf where the little steamboats are, is a very small Jizo temple (Jizo-do). Here are kept many bronze drags; and whenever anyone has been drowned and the body not recovered, these are borrowed from the little temple and the river is dragged. If the body be thus found, a new drag must be presented to the temple. 

From here, half a mile southward to the great Shinto temple of Tenjin, deity of scholarship and calligraphy, broadly stretches Tenjinmachi, the Street of the Rich Merchants, all draped on either side with dark blue hangings, over which undulate with every windy palpitation from the lake white wondrous ideographs, which are names and signs, while down the wide way, in white perspective, diminishes a long line of telegraph poles.

Beyond the temple of Tenjin the city is again divided by a river, the Shindotegawa, over which arches the bridge Tenjin-bashi. Again beyond this other large quarters extend to the hills and curve along the lake shore. But in the space between the two rivers is the richest and busiest life of the city, and also the vast and curious quarter of the temples. In this islanded district are likewise the theatres, and the place where wrestling-matches are held, and most of the resorts of pleasure.

Parallel with Tenjinmachi runs the great street of the Buddhist temples, or Teramachi, of which the eastern side is one unbroken succession of temples—a solid front of court walls tile-capped, with imposing gateways at regular intervals. Above this long stretch of tile-capped wall rise the beautiful tilted massive lines of grey-blue temple roofs against the sky. Here all the sects dwell side by side in harmony— Nichirenshu, Shingon-shu, Zen-shu, Tendai-shu, even that Shin-shu, unpopular in Izumo because those who follow its teaching strictly must not worship the Kami. Behind each temple court there is a cemetery, or hakaba; and eastward beyond these are other temples, and beyond them yet others—masses of Buddhist architecture mixed with shreds of gardens and miniature homesteads, a huge labyrinth of mouldering courts and fragments of streets.

To-day, as usual, I find I can pass a few hours very profitably in visiting the temples; in looking at the ancient images seated within the cups of golden lotus-flowers under their aureoles of gold; in buying curious mamori; in examining the sculptures of the cemeteries, where I can nearly always find some dreaming Kwannon or smiling Jizo well worth the visit.

The great courts of Buddhist temples are places of rare interest for one who loves to watch the life of the people; for these have been for unremembered centuries the playing-places of the children. Generations of happy infants have been amused in them. All the nurses, and little girls who carry tiny brothers or sisters upon their backs, go thither every morning that the sun shines; hundreds of children join them; and they play at strange, funny games—'Onigokko,' or the game of Devil, 'Kage-Oni,' which signifies the Shadow and the Demon, and 'Mekusangokko,' which is a sort of 'blindman's buff.'

Also, during the long summer evenings, these temples are wrestling- grounds, free to all who love wrestling; and in many of them there is a dohyo-ba, or wrestling-ring. Robust young labourers and sinewy artisans come to these courts to test their strength after the day's tasks are done, and here the fame of more than one now noted wrestler was first made. When a youth has shown himself able to overmatch at wrestling all others in his own district, he is challenged by champions of other districts; and if he can overcome these also, he may hope eventually to become a skilled and popular professional wrestler.

It is also in the temple courts that the sacred dances are performed and that public speeches are made. It is in the temple courts, too, that the most curious toys are sold, on the occasion of the great holidays—toys most of which have a religious signification. There are grand old trees, and ponds full of tame fish, which put up their heads to beg for food when your shadow falls upon the water. The holy lotus is cultivated therein.

'Though growing in the foulest slime, the flower remains pure and undefiled.

'And the soul of him who remains ever pure in the midst of temptation is likened unto the lotus.

'Therefore is the lotus carven or painted upon the furniture of temples; therefore also does it appear in allthe representations of our Lord Buddha.

'In Paradise the blessed shall sit at ease enthroned upon the cups of golden lotus-flowers.' [7]

A bugle-call rings through the quaint street; and round the corner of the last temple come marching a troop of handsome young riflemen, uniformed somewhat like French light infantry, marching by fours so perfectly that all the gaitered legs move as if belonging to a single body, and every sword-bayonet catches the sun at exactly the same angle, as the column wheels into view. These are the students of the Shihan- Gakko, the College of Teachers, performing their daily military exercises. Their professors give them lectures upon the microscopic study of cellular tissues, upon the segregation of developing nerve structure, upon spectrum analysis, upon the evolution of the colour sense, and upon the cultivation of bacteria in glycerine infusions. And they are none the less modest and knightly in manner for all their modern knowledge, nor the less reverentially devoted to their dear old fathers and mothers whose ideas were shaped in the era of feudalism.

 

7 From an English composition by one of my Japanese pupils.

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