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2015/09/16

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (一八)

       一八

 

 僅々一つ時代を隔てた前までは、國造の宗教的權力は出雲全國に及んでゐた。彼は名義上並に事實上、出雲の靈的支配者であつた。彼の管轄區域は今は杵築の範圍を越えない。して、彼の正常なる稱號は、最早國造でなく、宮司である。

 

    註。國造の稱は實際今も猶在してゐ

    るが、何等それに關聯せる職務は無

    い。千家尊紀氏の父で、東京に住居

    せる千家男爵が、その稱號を有して

    ゐる。『みつえしろ』の宗教的實務は、

    今は宮司の上に委ねられてゐる。

 

 しかし僻陬の質朴な人々に取つては、彼は依然神聖又は半ば神聖な人物であつて、神々の時代から彼の家系に傳來せる、古い稱號によつて呼ばれる。往昔いかに深い畏敬が彼に捧げられたかといふことは、出雲の田舍人民の間に長く住まなかつたものでは、殆ど想像が出來ない。日本以外で、西藏の駄賴拉麻を除けば、恐らくは誰人もかやうに恭しく尊敬され、かやうに宗教的に愛されるものはあるまい。日本國内では、人民と太陽の間の仲介者として立てる天子樣が同樣の敬意を受けたのみである。が、御門(みかど)に捧げられた尊敬は、人物に對してよりは夢、實在に對してよりは名に向つて捧げられたのだ。といふのは、天子樣は隱れまします神の如く、いつも目で見られないで、一般民衆の信念では、誰人もその顏を眺めると、生きて居られぬと思つてゐたからである。

 

   註。一八九〇年頃でさへ、内地を多く

   旅行したことのある、或る在留外人か

   ら、ある地方では天皇の顏を拜すれば、

   死ぬると信じてゐる老人が隨分あると、

   私は聞いた。

 

 見えないことと、神祕が御門(みかど)の神々しい傳説を無限に強めた。が、出雲國内に於ける國造は、一般の目に映じ、また屢々民衆の間を往來し乍らも、殆ど同じほどの尊敬を受けた。だから、彼の實權は滅多に發揮しないまでも、出雲の大名の權力に殆ど劣らなかつた。實際それは將軍をして、彼に對して親善關係を有つのを得策と考へさせるほど大なるものであつた。宮司の或る祖先は、豐太閤をさへ物とも思はないで、平民から生れた人の命を奉じないと豪語して、軍勢を給することを拒んだ。この反抗が祟つて、領地を大部沒收されたが、國造の實力は新文明の時期に至るまで變らなかつた。

 幾多のかゝる話の中から、二つの小話を擧げて、國造が昔時、尊敬を受けてゐた實例としよう。

 こんな話がある『或る人が、杵築大黒樣の御蔭で富裕になったからといふので、謝恩のため國造に裝束を贈らうと思つた。國造は丁寧にその申出でを斷わつた。が、敬虔なる信者は素志を主張して、仕立屋に裝束を造ることを依賴した。それが出來上つてから、仕立屋は依賴者がびつくり仰天するほどの直段を要求した。どういふ理由かと尋ねられてから、仕立屋が答へた。『國造の裝束を仕立ててからは、今後他人の衣服を造ることは出來ませぬ。だから一生暮らせるだけの全額が必要です』

 次の話は百七十年ほど前のことだ。

 松平家第五代宣維(のぶかず)の時代に、松江の藩士に杉原喜戸次といふのが、軍事上の資格で杵築に駐在してゐた。國造の御氣に入つてゐたので、毎度國造と碁を圍んだ。ある夜、對局の最中に、この士は不意に麻痺したやうになっで、動くことも、口をきくことも出來なくなった。暫く誰も心配と狼狽を極めたが、國造は云つた。『この譯は分つてゐる。私の友は喫煙してゐた。私は喫煙を好まないが、彼の興を殺ぐのを欲しないので、それか告げなかつた。しかし神樣は私の氣分がわるくなつたのを知つて、彼に對して怒を發し玉ふたのだ。では、私は彼を癒やして上げよう』そこで、國造が呪文を唱へると、その士は直ちに囘復した。

 

[やぶちゃん注:「千家尊紀氏の父で、東京に住居せる千家男爵」「千家尊紀氏の父」は第七十九代千家尊澄(せんげたかずみ 文化一三(一八一六)年~明治九(一八七八)年)で確かに男爵であるが、彼はご覧通り、この十四年前に亡くなっている。「東京に住居せる千家男爵」とあるから、明治二三(一八九〇)年当時、男爵で東京に居住していたとすると、これは尊紀の兄の第八十代千家尊福の誤りではなかろうか? 尊福は明治一五(一八八二)年5月 国造職を弟の千家尊紀に譲る。出雲大社教会を分立して神道大社派と改称し、管長職に就き、二年後の明治十七年七月に男爵となったが、明治二一(一八八八)年六月に伊藤博文の推挙によって元老院議官となって管長職を辞し、二年後のこの明治二三(一八九〇)年七月には貴族院議員となっているからである。大方の御批判を俟つ。但し、次注も参照のこと。

「みつえしろ」既出既注。ところが、古く出雲国造として千家家とともに国造職を継いできた北島(きたじま)家が、明治一五(一八八二)年に内務省の承認を経て創設した(北島家第七十六代出雲国造であった北島脩孝(ながのり)はこの当時は出雲大社少宮司であった)「出雲教」の公式サイトの「歴史」によれば、明治五年一月に『北島全孝(たけのり)国造は千家尊澄(たかすみ)国造とともに御杖代(みつえしろ)の世襲職を免ぜられ、改めて脩孝(ながのり)国造と千家尊福(たかとみ)氏とがともに出雲大社少宮司に任じられました。しかし、いかなるわけか、―おそらくいろいろと経緯があったと思われますが―明治6年3月、脩孝国造は再度明治政府の命により岡山県の吉備津神社宮司に転勤を命ぜられ、千家尊福氏が出雲大社宮司に任命されたのであります。ここに及んで脩孝国造の心中は察するに余りあるものといえましょう。いかに政府の命とはいえ、わが北島国造家の伝統を無視しての命令にどうして従うことができましょうか。脩孝国造は断固としてこの任命を拒まれました。(脩孝国造帰幽の際の誄詞には―同年3月吉備津神社の宮司に任じられ、願によりその職を免ぜられ―とある)』と記す(なかなか強烈な不満が記されてあるので前後を引いた。下線はやぶちゃん)。以上の下線部から見ると、「出雲國造」及び「みつえしろ」の称号は実質上、尊澄で絶えていることになるから、尊福がそれを形の上でも担っているといった感じを与えるハーンの叙述は明らかにおかしいことになると思うが、如何? 識者の御教授を乞うものである。

「僻陬」既注であるが再掲する。「へきすう」と読み、「僻地」に同じい。

「西藏の駄賴拉麻」チベットのダライ・ラマ。この当時は現在の十四世の先代であるダライ・ラマ十三世(一八七六年~一九三三年)で、法名「トゥプテン・ギャツォ」のこと。在位は一八七九年~一九三三年。ウィキの「ダライ・ラマ13世」によれば、彼は一八七八年、実に二歳の時にダライ・ラマの生まれ変わりと認定されており、当時は未だ十四歳であった。

「一八九〇年頃」本出雲初来訪の同時間である明治二十三年。

「死ぬる」原註では“'to become a Buddha'; that is, to die.”。――「仏になる」、つまり、死ぬ――である。

「豐太閤をさへ物とも思はないで、平民から生れた人の命を奉じないと豪語して、軍勢を給することを拒んだ。この反抗が祟つて、領地を大部沒收された」これは天正一九(一五九一)年に豊臣秀吉が朝鮮出兵に際し、出兵を要請、それを拒否、出雲大社の社領の半分以上が没収されたことを指す。この頃の千家家国造は千家義広かと思われる。

「松平家第五代宣維(のぶかず)」ルビの「のぶかず」は「のぶずみ」の誤りと思われる。出雲松江藩第五代藩主で直政系越前松平家宗家第五代の松平宣維(元禄一一(一六九八)年~享保一六(一七三一)年)。ウィキの「松平宣維によれば、第四代藩主松平吉透(よしとお)の次男で宝永二(一七〇五)年十月二十六日に、『父の死去により家督を継ぐ。初名は直郷(なおさと)。治世では災害による天災から財政難に悩まされ、継室との婚礼資金ですら窮する有様で、婚礼を延期したほどである。このため宣維は藩政改革に取り組む。税制を定免制度に改め、ハゼ・ウルシ・クワ・コウゾ・茶・オタネニンジンの栽培やロウ・蝋燭製造にも着手した。また、出雲の沿岸一帯に異国船が多く出没したため、その打払いにも務めている。その他、踏鞴製鉄を統制下に置き、同業組織である「蹈鞴株」を作らせて先納銀を徴収した。藩札も発行したが、これが原因で後に札騒動が起こった』。正徳二(一七一二)年二月には『将軍徳川家宣より偏諱を授かり、直郷から宣維(宣澄とも)に改名、従四位下に叙位、侍従に任官する。また出羽守を兼任』、出羽守のままで享保元(一七一六)年には左近衛権少将に転任している。享保五(一七二〇)年六月には、『隠岐国の治政を幕府より委ねられ、以後、歴代藩主が相伝』することとなった。享年三十四歳。本文には「百七十年ほど前」とあり、これだと一七二〇年となるから、彼の藩主在任中で問題ない。

「杉原喜戸次」原文から「すぎはらきとじ」と読むことは分かるが、彼の詳細は不詳。]

 

 

Sec. 18

Only a generation ago the religious power of the Kokuzo extended over the whole of the province of the gods; he was in fact as well as in name the Spiritual Governor of Izumo. His jurisdiction does not now extend beyond the limits of Kitzuki, and his correct title is no longer Kokuzo, but Guji. [20] Yet to the simple-hearted people of remoter districts he is still a divine or semi-divine being, and is mentioned by his ancient title, the inheritance of his race from the epoch of the gods. How profound a reverence was paid to him in former ages can scarcely be imagined by any who have not long lived among the country folk of Izumo. Outside of Japan perhaps no human being, except the Dalai Lama of Thibet, was so humbly venerated and so religiously beloved. Within Japan itself only the Son of Heaven, the 'Tenshi-Sama,' standing as mediator 'between his people and the Sun,' received like homage; but the worshipful reverence paid to the Mikado was paid to a dream rather than to a person, to a name rather than to a reality, for the Tenshi-Sama was ever invisible as a deity 'divinely retired,' and in popular belief no man could look upon his face and live. [21] Invisibility and mystery vastly enhanced the divine legend of the Mikado. But the Kokuzo, within his own province, though visible to the multitude and often journeying among the people, received almost equal devotion; so that his material power, though rarely, if ever, exercised, was scarcely less than that of the Daimyo of Izumo himself. It was indeed large enough to render him a person with whom the shogunate would have deemed it wise policy to remain upon good terms. An ancestor of the present Guji even defied the great Taiko Hideyoshi, refusing to obey his command to furnish troops with the haughty answer that he would receive no order from a man of common birth. [22] This defiance cost the family the loss of a large part of its estates by confiscation, but the real power of the Kokuzo remained unchanged until the period of the new civilisation.

Out of many hundreds of stories of a similar nature, two little traditions may be cited as illustrations of the reverence in which the Kokuzo was formerly held.

It is related that there was a man who, believing himself to have become rich by favour of the Daikoku of Kitzuki, desired to express his gratitude by a gift of robes to the Kokuzo.

The Kokuzo courteously declined the proffer; but the pious worshipper persisted in his purpose, and ordered a tailor to make the robes. The tailor, having made them, demanded a price that almost took his patron's breath away. Being asked to give his reason for demanding such a price, he made answer: Having made robes for the Kokuzo, I cannot hereafter make garments for any other person. Therefore I must have money enough to support me for the rest of my life.'

The second story dates back to about one hundred and seventy years ago.

Among the samurai of the Matsue clan in the time of Nobukori, fifth daimyo of the Matsudaira family, there was one Sugihara Kitoji, who was stationed in some military capacity at Kitzuki. He was a great favourite with the Kokuzo, and used often to play at chess with him. During a game, one evening, this officer suddenly became as one paralysed, unable to move or speak. For a moment all was anxiety and confusion; but the Kokuzo said: 'I know the cause. My friend was smoking, and although smoking disagrees with me, I did not wish to spoil his pleasure by telling him so. But the Kami, seeing that I felt ill, became angry with him. Now I shall make him well.' Whereupon the Kokuzo uttered some magical word, and the officer was immediately as well as before.

 

20 The title of Kokuzo indeed, still exists, but it is now merely honorary, having no official duties connected with it. It is actually borne by Baron Senke, the father of Senke Takanori, residing in the capital. The active religious duties of the Mitsuye-shiro now devolve upon the Guji.

21 As late as 1890 I was told by a foreign resident, who had travelled much in the interior of the country, that in certain districts many old people may be met with who still believe that to see the face of the emperor is 'to become a Buddha'; that is, to die.

22 Hideyoshi, as is well known, was not of princely extraction.

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