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2015/09/23

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 教恩寺/長善寺/亂橋/材木座

   ●教恩寺

教恩寺は寳海山と號す、米町の内(うち)にあり、時宗藤澤道塲の末寺なり、以前は光明寺の境内にありしを、延寳六年に貴譽上人此地に移す、本尊阿彌陀は運慶の作なり。

[やぶちゃん注:大町一丁目にある。以下に見るように沿革ははっきりしない。

「時宗藤澤道塲」時宗総本山遊行寺のこと。ここにある「光明寺」は浄土宗であるから、これは単に移築したのではなく、移築されたもの(面倒なことに浄明寺末寺であった「善昌寺」と称したとも)が廃寺となり、新たに時宗寺院となったものと考えるのが自然であるが、しかし実は教恩寺自体が別に浄明寺境内の北の山際にあったともあり、移された寺院が時間を隔てて二つあった可能性も疑われる。いずれにせよ、浄土宗から時宗への改宗は特段、異例なことではない。

「延寳六年」一六七八年。]

 

   ●長善寺

辻町にあり、醫王山と號す、古義眞言宗、本尊藥師、十二神將日光月光等を安す、里俗辻藥師(つじやくし)と稱するは是なり、寺傳に由井の長者、染屋太郞大夫時忠の建立と云ふ。

[やぶちゃん注:廃寺。明治二二(一八八九)年の横須賀線敷設の際に本堂は取り払われ、現在は「辻の薬師堂」が信者によって管理されているだけである。本誌発行時には無論、存在していないから、ここは「長善寺跡」或いは「辻の薬師」と項立てして語らねばおかしなところである。貫・川副著「鎌倉廃寺事典」には、『もと名越松葉ヶ谷安国論寺の後山をこえたところ、現在国鉄名越隧道の西の谷、字御嶽に長善寺蹟というところがあるが、これがこの寺の旧地か』とあり、『それがいまの辻の薬師のところに移ったが、本堂は今の電車線路の通る位置にあったため取り払われた』とするから、鎌倉の廃寺の中でも極めて新しい明治期に物理的に廃されたことがはっきりと分かる。因みに、現在の辻の薬師の線路を渡ったところで芥川龍之介は新婚時代を過ごした。なお、その直近に私の藪野家の実家がある。

「辻町」「辻の薬師」のある一帯の旧町名(大町の魚町橋・逆川橋から材木座の「元八幡」辺りまで)であるが、現在も大町辻町として実際には認識されている。ウィキ辻の薬師堂によれば、『これは、「車大路」と「小町大路」との辻(交差点・四つ角)があったためであり、「辻の本興寺」、「辻の薬師堂」等の名称に、往時が偲ばれる』とある。このウィキ、なかなか侮れない優れた記載である。

「由井の長者、染屋太郞大夫時忠」鎌倉の始祖的な人物として伝承される人物で、由比長者とも呼称され、藤原鎌足四代の子孫に当たるとされる。華厳僧で東大寺開山の良弁(ろうべん)の父ともされるが、現在伝えられるものの中には逆転して、染屋時忠の父が良弁とするものが多々見受けられる。何れにせよ、全国に散在する長者伝説の域を出ない。原鎌倉地方を支配していた豪族がモデルであろう。]

 

    ●亂橋

亂(或作ㇾ濫)橋は、辻町(つぢまち)より材木座へ渡り行石橋にして、鎌倉十橋の内なり、東鑑に寶治二年六月十八日寅尅に、濫橋の邊一町許以下南に雪降如ㇾ霜とあり。

[やぶちゃん注:「或作ㇾ濫」は『或いは「濫(みだれ)」に作る』と読む。で、お分かりのように「亂橋」は「みだればし」と読む。

「寶治二年」一二四八年。

「寅尅」午前四時頃。

「一町」約百九メートル]

 

    ●材木座

材木屋は鎌倉の東南隅(とうなんぐう)にあり、北は天照山、辨ケ谷、大町を劃り、西は遠く稻村ケ崎を望み、東飯島崎に接し、南由井ケ濱に面す、貴顯の別莊多く、海水浴場の設けあり、波は沙を嚙むで海面穩やかなり、尤も避暑に適す、東鑑に和賀と見えたるは、即此地の古名なり。同書に西濱、小坪、和賀と列書するをもて、其地理のさま推(おし)て識るべし、其後貞永元年に至り、海灣(かいわん)に一島を築き、和賀江島と名つくるも、爰の地名に因る。又同書に其和賀の津口に材木を置き、奉行人として、其寸法を點定(てんてい)せしめし事見えたり、是に據れば當時木料の港たり、故に行年、材木座の名を負はせしならむ。

[やぶちゃん注:「天照山」光明寺の裏山。天照山(てんしょうざん)と音読みしておく。光明寺の山号も「天照山」である。

「辨ケ谷」光明寺北方の旧谷戸名。現在の材木座四丁目から六丁目附近。明治になると早くから別荘地化され、夏目漱石もここに避暑していた。「こゝろ」の冒頭の「三」で「私」が「先生」の宿を訪ねるシーンで、『宿と云つても普通の旅館と違つて、廣い寺の境内にある別莊のやうな建物であつた』というのはまさに浄明寺と、この実際の弁ヶ谷(べんがやつ)の別荘をモデルとしていると考えてよい。

「貞永元年」一二三二年。

「和賀江島」後出。

「又同書に其和賀の津口に材木を置き、奉行人として、其寸法を點定せしめし事見えたり」これは「吾妻鏡」の建長五(一二五三)年十月十一日の条の後半に出る(私が太字にした箇所)。

   *

○原文

十一日丙辰。被定利賣直法。其上押買事。同被固制。小野澤左近大夫入道。内嶋左近大夫將監盛經入道等爲奉行。

 薪馬蒭直法事

  炭一駄代百文         薪三十束〔三把別百文〕

  萱木一駄〔八束代五十文〕   藁一駄〔八束代五十文〕

  糠一駄〔俵一文代五十文〕

件雜物。近年高値過法。可下知商人者。又和賀江津材木事。近年不法之間。依難用造作。被定其寸法。所謂榑長分八尺。若七尺。令不足者令點定之。奉行人可申子細之由云々。以下略之。今日有被仰遣六波羅事。諸國庄保新地頭等所務事。任先々下知。不可致非法之旨云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十一日丙辰。利賣(りばい)の直法(ぢきはふ)を定めらる。其の上、押買(おしかひ)の事、同じく固く制せらる。小野澤左近大夫入道・内嶋左近大夫將監盛經入道等、奉行たり。

 薪(たきぎ)・馬蒭(まぐさ)の直法の事

  炭一駄代百文。

  薪三十束〔三把に別く。百文。〕。

  萱木(かやぎ)一駄〔八束。代五十文。〕。

  藁一駄〔八束。代五十文。〕。

  糠(ぬか)一駄〔俵一文。代五十文。〕。

 件の雜物、近年、高値(かうじき)、法に過

 ぐ。商人に下知すべしへり。

 又、和賀江津(わかえのつ)の材木の事、

 近年不法の間、造作(ゾウサク)に用ひ難き

 に依つて、其の寸法を定めらる。謂ふ所の、

 榑長(くれたけ)分八尺、若しくは七尺。不

 足せしめば、之れを點定(てんぢやう)せし

 め、 奉行人、子細を申すべきの由と云々。

 以下、 之を略す。

今日、六波羅へ仰せ遣はさるる事、有り。諸國の庄(しやう)・保(ほう)の新地頭等(ら)の所務の事、先々の下知に任せて、非法を致すべからざるの旨と云々。

   *

引用文中の「榑長(くれたけ)」の「榑(くれ)」とは、切り出したままで、まだ皮の附いている材木をいう。その全長であろう。「八尺」二・四二メートル、「七尺」は二・一二メートル。「點定」は 対象を一つ一つ調べて正すこと或いは指定すること。「てんてい」と読んでもよい(因みに中世、この語には別に、荘園領主などによる土地・家屋・農作物の没収・差押えの意もあるので注意されたい)。]

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