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2015/09/27

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (四)


        四


 大社の背後にある文庫の裏に、文庫よりも更に古い巫女屋敷といふ建物がある。昔はすべて少女の神女は、今よりもやゝ嚴格な規律の下に、こゝに住まねばならなかつた。晝間は勝手な處へ出かけることを得たが、夜は是非とも境内の門が閉まるまでに、屋敷へ歸らねばならなかつた。それは神々の寵兒達が、その身分を忘れて、冒險的な人間に寵幸せられるやうな破目に陷らないためであつた。またその心配も滿更無理ではなかつた。巫女は美しいと共に、また非常に純潔なるべき義務があつたから。して、大社に仕へた最も美しい巫女の一人は、實際さやうな風に墮落したのであつた――いづれの大書店でも安價の本として買ひ得る情話を、日本の史上に殘して。

 彼女の名はお國といつて、杵築の中村門五郎といふものの娘であつた。今も猶その子孫がこゝに住んでゐる。大社の舞女として仕へてゐる際に、彼女は名古屋山三といふ浪人と戀に陷つた――彼は仕方のない破落戸の美男子で、劍の外には無一文であつた。彼女は窃かに社を脱して、戀人と共に京都の方へ駈落をした。これは少くとも三百年昔のことだ。

 京都へ行く途中で、その名を私は聞き洩らしたのであるが、彼等は別の浪人に逢つた。この浪人はたゞ暫くの間、話中に現れて、忽然死と忘却の永久の夜へ消えて了う。記錄に傳へられてゐるのは、彼は彼等の旅に同行を求めたこと、美しい巫女に愛着を感じてきたこと、して、彼女の懸人の嫉妬を招いて、結局激しい決鬪となつて、山三はその競爭者を殺したといふことだけである。

 それから後、逃亡者は無事に京都へ彼等の旅を續けた。お國はこの時既に彼女の行動を悔ひるべき充分の理由を悟つたか、否か、わからないが、その後の身の上から察すると、彼女に對する熱情のために死んだ美しい浪人の顏が、彼女の胸裡に纒綿離れ難きものとなつたやうに思はれる。

 その次に、彼女は京都で妙な役目を演じてゐる。彼女の戀人が全然貧乏に陷つたものと見えて、彼を養ふため、四條磧で巫女神楽の見せ物を出した。こゝは鴨川の乾いた川床の 一部で、またかの恐ろしい酷刑の行はれた場所である。彼女は當時の公衆からは、浮浪者と看倣されたに相違ない。しかし彼女の非常な美しさが、幾多の觀覽者を惹きよせ、大當となつたらしく、山三の財布は重くなつたが、この踊は今日杵築の巫女が緋の袴と雪白の衣をつけて、優しく滑るやうに足を運ぶ踊と同一のものに過ぎなかつた。

 兩人は更に江戸で役者として現れた。實際お國は傳説上、日本の近代劇――初めての俗劇――を創めたものと一般に認められてゐる。彼女以前は、たゞ僧侶の作に成つた宗教劇だけであつた。山三自身も彼女の教を受けて評判の高い、立派な役者となつた。彼には多くの弟子があつた。その一人の猿若は後、江戸に一つの劇場を起し、彼の名に因んで猿若座と呼ばれたが、今日猶猿若町に殘つてゐる。が、お國の時以來、女は――少くとも極最近まで――日本の舞臺から除かれてゐた。女の役は、古代希臟に於ける如く、最も炯眼の觀察者も性の區別がつかないほど、容姿が女らしく、技に巧みな男や、少年によつて演ぜられた。

 名古屋山三は、彼の伴侶よりも數年早く死んだので、お國は故郷の杵築へ歸り、美しい髮を斷つて、尼となつた。彼女はその時代の割合には學問があつて、特に連歌といふ詩の藝に巧みで、死ぬるまでその教授をした。彼女は女優として儲けた僅かの資産で、市の眞中に連歌寺といふ寺を建てた――そこで彼女が連歌を教へたから、かく名をつけた。さて、寺を建立した譯は、彼女の美貌のために身を亡くした男――またその徴笑は、彼女の心裏に山三が決して知らなかつた、或るものを起さしめたことのある男――の靈魂のために、その寺で常に祈をするといふのであつた。彼女が日本劇場の創始者であつたため、彼女の家族は數世紀間、ある特權を享有してゐた。維新の頃までも、中村門五郎の後裔の戸主は、いつも杵築座の利益の分配を受ける權利があつて、座元といふ稱號を有りてゐた。が、その家は現今頗る貧乏だ。 

 

 私は連歌寺を見るために行つたが、それは失くなつてゐた。數年前までは、觀音寺に通ずる石段の坂下にあつたが、今では何も殘つてゐない。破れた地藏像へ人々が祈を捧げるだけだ。小さな寺の昔の境内は野菜畠に變はつて、古い建物の跡には、その材料を利用して不敬にも數個の小舍が建つてゐる。ある百姓が、掛物や他の尊い物は、近所の寺ヘ讓られて、そこで見物が出來ると私に告げた。

[やぶちゃん注:「大社の背後にある文庫の裏に、文庫よりも更に古い巫女屋敷といふ建物がある」少なくとも現行の境内案内図ではこのような建物や跡は示されていない。但し、本殿背後に名を附していない複数の建築物は存在する。

「お國」以下、ウィキの「出雲阿国」から引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。出雲阿国(いずものおくに 元亀三(一五七二)年~?)は『安土桃山時代の女性芸能者。ややこ踊り』(中世末期から近世初頭に行われた少女による小歌踊りのことで、近世には女歌舞伎に取り入れられて主要な演目となった)『を基にしてかぶき踊り』(戦国末期から江戸初頭にかけて京や江戸で流行した「かぶく」者、派手な衣装や一風変わった異形を好んだり、常軌を逸脱した行動に走る者を指した「かぶき者」をヒントとした斬新な所作や派手な装束を取り入れた、歌舞伎・若衆歌舞伎などの濫觴となった踊り)『を創始したことで知られており、このかぶき踊りが様々な変遷を得て、現在の歌舞伎が出来上がっている』。名古屋山三郎(なごやさんざぶろう)と『関係するともいわれ、「山三郎が夫である」、「山三郎の亡霊の役を演じる男性とともに踊った」といった解説がなされることもあるが、前者は伝説ともいわれており、後者も信頼性が決着がついていない資料にしか登場せず、信憑性が疑わしい』(「名古屋山三郎」についてはこの注の最後に別に注する)。『現在では阿国と表記することが多いが、この表記は十七世紀後半以降に彼女が伝説化してから広まったものであるので、歌舞伎創始期について語る場合は、彼女と同時代の資料にしたがって国、もしくはお国とするのが適切である。また、「出雲のお国」という呼称も同時代の資料には見られず、お国が出雲出身かどうかも学術的に決着がついていない』。かく『お国が出雲出身かどうかは決着がついていないものの、出雲国杵築中村の里の鍛冶中村三右衛門の娘といい、出雲大社の巫女となり、文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ評判となったといわれている』。『慶長五年(一六〇〇年)に「クニ」なる人物が「ヤヤコ跳」を踊ったという記録(時慶卿記)があり、この「クニ」が三年後の慶長八年(一六〇三年)に「かぶき踊」を始めたと考えられている』。『「当代記」によれば京で人気を得て伏見城に参上して度々踊ることがあったという』。『慶長八年五月六日に女院御所で踊ったという記録があり、文献によって踊ったものの名称が「ヤヤコ跳」「ややこおとり」「かふきおとり」と異なっている。この事と記述の内容から考えて、慶長八年五月からあまり遡らない時期にかぶき踊というあらたな名称が定着したのだと考えられている。内容面でもかわいらしい少女の小歌踊と考えるややこ踊から、傾き者が茶屋の女と戯れる場面を含むようなものに質的に変化した。なお、お国がかぶき踊りを創始するに際して「念仏踊り」を取り入れたとする記述が一般向けの解説書や高校生向けの資料集などに書かれている事があるが、これは俗説の域を出ず、ややこ踊の一座やお国が念仏踊りを踊った可能性は低い』。『その後「かぶき踊」は遊女屋で取り入れられ(遊女歌舞伎)、当時各地の城下町に遊里が作られていたこともあり、わずか十年あまりで全国に広まったが、のちに江戸幕府により禁止される。もともとお国が演じていたものも前述のように茶屋遊びを描いたエロティックなものであり、お国自身が遊女的な側面を持っていた可能性も否定できない。従来の説では寛永六年(一六二九年)に女性の芸能者が舞台に立つことを禁止したとされるが、近年では十年あまりの歳月をかけて徐々に規制を強めていったと考えられている。以下、「その後の阿国」の節になるが、この部分は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか或いは不十分であるとして、出典追加要請がかかっているので注されたい。『阿国自身は慶長一二年(一六〇七年)、江戸城で勧進歌舞伎を上演した後、消息が途絶えた。慶長一七年四月(一六一二年五月)に御所でかぶきが演じられたことがあり、阿国の一座によるものとする説もある』。『没年は慶長一八年(一六一三年)、正保元年(一六四四年)、万治元年(一六五八年)など諸説あり、はっきりしない(二代目阿国がいたのではないかという説もある)。出雲に戻り尼になったという伝承もあり、出雲大社近くに阿国のものといわれる墓がある。また、京都大徳寺の高桐院にも同様に阿国のものといわれる墓がある。なお、旧暦四月十五日(現在では新暦四月十五日とも)が「阿国忌」といわれている』。『国(クニ)に関する史料は次のようなものがある』。『「多聞院日記」天正十年五月(一五八二年六月):「加賀国八歳十一歳の童」が春日大社で「ややこ踊り」を行ったという記事がある。それは「於若宮拜屋加賀國八歳十一歳ノヤヤコヲトリト云法樂在之カヽヲトリトモ云一段イタヰケニ面白云々各群集了」というもの。これを八歳の加賀、十一歳の国という二人の名前と解釈し、逆算して国を一五七二年生まれとするのが通説化している。しかし、加賀出身の八歳・十一歳の娘という解釈もある』。『確実な資料では「時慶卿記」に慶長五年七月一日条に(一六〇〇年八月九日)、京都近衛殿や御所で雲州(出雲)のクニと菊の二人が「ややこ踊り」を演じたという記録があり、ここでクニと名乗っていたことがわかる』。『「時慶卿記」より遡るものとして次の記録があり、これらも国(クニ)を指す可能性がある』。『「御湯殿の上日記」天正九年九月(一五八一年十月):御所で「ややこ踊り」が演じられた。』『「言経卿記」天正十五年二月(一五八八年三月):出雲大社の巫女が京都で舞を踊った』というものである。なお、「名古屋山三郎」とは、お国を妻としたとされる実在した安土桃山時代の武将で、蒲生氏・森氏の家臣であった名古屋(那古野)山三郎(元亀三(一五七二)年又は天正四(一五七六)年~慶長八(一六〇三)年)を指す。お国とともに「歌舞伎の祖」ともされている人物であるが、ウィキの「名古屋山三郎」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『尾張国(現在の名古屋市)の生まれ。名古屋高久の次男。名古屋氏は名越流北条氏の子孫といわれる。母方の縁で織田氏と縁戚であることから織田九右衛門とも名乗った。当初は母と共に京の建仁寺に在ったが、十五歳の時に蒲生氏郷に見出され小姓として仕える。その前に織田信包に仕えていた説がある。九州征伐、小田原征伐に参加。天正十八年(一五九〇年)の陸奥名生城攻略、天正十九年(一五九一年)の九戸政実の乱でそれぞれ一番槍の功を立て二千石に加増される』。『文禄四年(一五九五年)に氏郷が死去すると蒲生氏から退去。京の四条付近で浪人した後に、出家して宗圓と名乗り大徳寺に入ったが、その後しばらくして還俗し、妹の岩が嫁いでいる森忠政の家臣として仕えた。忠政は山三郎を気に入り、見目麗しい事や茶道や和歌に関しても見識が深い事から饗応役として取り立てられ、五千石の所領を与えた(後に五千三百石まで加増)。また、山三郎の妹二人が森家重臣の小沢彦八、各務正休と婚姻を結んだため、山三郎は森家中で大きな発言力を持ったが、それを快く思わない同僚の井戸宇右衛門とは仲が悪く度々、口論など諍いを起こしたとされている』。『慶長八年(一六〇三年)、忠政は関ヶ原の戦いにおける恩賞として美作国津山藩に移封された後に新しい城を院庄に立てる事を計画。この時、山三郎は宇右衛門を殺すように忠政より命令され、忠政から直々に刀を賜っている。その後、工事現場において宇右衛門と居合わせた山三郎は喧嘩口論の末に抜刀して襲い掛かるが、逆に宇右衛門に切り伏せられ死亡する。宇右衛門も居合わせた森家の人間にその場で斬り殺された。享年は二十八とも三十二とも伝わる。山三郎の遺体は現場の北側、宇右衛門の遺体は南側に埋められ、墓標の代わりに松が植えられた。現在もその場所には松があり、「白眼合松(にらみあいのまつ)」と呼ばれているという。墓所は高桐院にも存在する』。『なお、嗣子の名古屋蔵人は後に森家を去り、前田利常に三千石で召し抱えられ、子孫は加賀藩士となって代々名越姓を称した』とあるばかりで(美少年であったらしい)、この記載では一向にお国の妻の部分が見えてこず、寧ろ、お国の記載にもあった通り、かなり怪しい感じがぷんぷん臭ってはくる。寧ろ、「かぶき者」であった彼を劇素材として選び、自らも彼のかつての妻という作り話などをなして、宣伝効果を上げたものと考える方が遙かに腑に落ちる。因みに、お国の墓は「出雲観光協会」公式サイト内の出雲阿国の墓によって、今も大社町にあることが分かった。それによれば、『出雲大社から稲佐浜へ向かう途中、山根の太鼓原の石段を登っていくと中村家の墓があり、出雲阿国の墓は、特別に石棚で囲った平たい自然石で作られて』あるとある。

「中村門五郎」不詳。本文ではお国の弟子格の「猿若」が後掲する猿若勘三郎となり、初代中村勘三郎となったとする、その姓と同じというのはやや気にはなる(なおこの「中村」は現行の大社の町名としても残っている)。なるが、私は大の歌舞伎嫌い文楽好きなれば、これ以上、調べてみる気にはならない。悪しからず。

「破落戸」「ごろつき」と読んでいるものと思われる。一定の住所・職業を持たず、あちこちをうろついては他人の弱味に付け込んで、強請(ゆす)りや嫌がらせなどをする無頼の輩を指す卑語。

「これは少くとも三百年昔のこと」ハーンのこの杵築再訪の事実時制は明治二四(一八九一)年の七~八月であるから、その「三百年」前は一五九一年(天正十九年)で、お国推定生年の元亀三(一五七二)年から考えても無理がない。

「猿若」はもともとは固有名ではなく、お国歌舞伎発生当初の歌舞伎の道化方の名称であった。まさに先の名古屋山三(名古屋山三郎)の家来として登場しては一見、魯鈍な役柄を見せつつも、物真似や雄弁な語りを売り物にした役者の役柄名である。後に現代に続く中村勘三郎の初代である、江戸初期の歌舞伎役者で座元であった猿若勘三郎(慶長三(一五九八)年~万治元(一六五八)年)が江戸で初めての常設の芝居小屋「猿若座」(後に「中村座」に改称)を創始しているので、ハーンが述べているのはそれである。

「連歌寺」「出雲観光協会」公式サイト内の阿国寺 連歌庵によれば、驚くべきことにこの寺、移築して復興再建されている。その解説によれば、お国は晩年に大社に帰って尼僧となって「智月」と号し、庵を結んで『読経と連歌に興じて静かに余生を過ごした』とされ、彼女の隠棲したその草庵を「阿国寺(おくにでら)連歌庵」と呼ぶようになった、とある。『連歌庵はもともと中村町にあ』ったが、『中村の大火で焼失して、二代目は』明治四(一八七一)年のおぞましい『廃仏毀釈によって取り壊され』しまったとあり、ハーンがそこを訪れたのは破却二十年後のことであったことが分かる。後、昭和一一(一九三六)年になって「劇祖阿国会」によって再建された、とある。
 

「觀音寺」不詳。識者の御教授を乞うものである。 

 

Sec.4

 

   Behind the library in the rear of the great shrine, there stands a more ancient structure which is still called the Miko-yashiki, or dwelling- place of the miko. Here in former times all the maiden-priestesses were obliged to live, under a somewhat stricter discipline than now. By day they could go out where they pleased; but they were under obligation to return at night to the yashiki before the gates of the court were closed. For it was feared that the Pets of the Gods might so far forget themselves as to condescend to become the darlings of adventurous mortals. Nor was the fear at all unreasonable; for it was the duty of a miko to be singularly innocent as well as beautiful. And one of the most beautiful miko who belonged to the service of the Oho-yashiro did actually so fall from grace—giving to the Japanese world a romance which you can buy in cheap printed form at any large bookstore in Japan.

Her name was O-Kuni, and she was the daughter of one Nakamura Mongoro of Kitzuki, where her descendants still live at the present day. While serving as dancer in the great temple she fell in love with a ronin named Nagoya Sanza—a desperate, handsome vagabond, with no fortune in the world but his sword. And she left the temple secretly, and fled away with her lover toward Kyoto. All this must have happened not less than three hundred years ago.

On their way to Kyoto they met another ronin, whose real name I have not been able to learn. For a moment only this 'wave-man' figures in the story, and immediately vanishes into the eternal Night of death and all forgotten things. It is simply recorded that he desired permission to travel with them, that he became enamoured of the beautiful miko, and excited the jealousy of her lover to such an extent that a desperate duel was the result, in which Sanza slew his rival.

Thereafter the fugitives pursued their way to Kyoto without other interruption. Whether the fair O-Kuni had by this time found ample reason to regret the step she had taken, we cannot know. But from the story of her after-life it would seem that the face of the handsome ronin who had perished through his passion for her became a haunting memory.

We next hear of her in a strange role at Kyoto. Her lover appears to have been utterly destitute; for, in order to support him, we find her giving exhibitions of the Miko-kagura in the Shijo-Kawara—which is the name given to a portion of the dry bed of the river Kamagawa—doubtless the same place in which the terrible executions by torture took place. She must have been looked upon by the public of that day as an outcast. But her extraordinary beauty seems to have attracted many spectators, and to have proved more than successful as an exhibition. Sanza's purse became well filled. Yet the dance of O-Kuni in the Shijo-Kawara was nothing more than the same dance which the miko of Kitzuki dance to-day, in their crimson hakama and snowy robes—a graceful gliding walk.

The pair next appear in Tokyo—or, as it was then called, Yedo—as actors. O-Kuni, indeed, is universally credited by tradition, with having established the modern Japanese stage—the first profane drama. Before her time only religious plays, of Buddhist authorship, seem to have been known. Sanza himself became a popular and successful actor, under his sweetheart's tuition. He had many famous pupils, among them the great Saruwaka, who subsequently founded a theatre in Yedo; and the theatre called after him Saruwakaza, in the street Saruwakacho, remains even unto this day. But since the time of O-Kuni, women have been—at least until very recently-excluded from the Japanese stage; their parts, as among the old Greeks, being taken by men or boys so effeminate in appearance and so skilful in acting that the keenest observer could never detect their sex.

Nagoya Sanza died many years before his companion. O-Kuni then returned to her native place, to ancient Kitzuki, where she cut off her beautiful hair, and became a Buddhist nun. She was learned for her century, and especially skilful in that art of poetry called Renga; and this art she continued to teach until her 
death. With the small fortune she had earned as an actress she built in Kitzuki the little Buddhist temple called Rengaji, in the very heart of the quaint town—so called because there she taught the art of Renga. Now the reason she built the temple was that she might therein always pray for the soul of the man whom the sight of her beauty had ruined, and whose smile, perhaps, had stirred something within her heart whereof Sanza never knew. Her family enjoyed certain privileges for several centuries because she had founded the whole art of the Japanese stage; and until so recently as the Restoration the chief of the 
descendants of Nakamura Mongoro was always entitled to a share in the profits of the Kitzuki theatre, and enjoyed the title of Zamoto. The family is now, 
however, very poor.

 

I went to see the little temple of Rengaji, and found that it had disappeared. Until within a few years it used to stand at the foot of the great flight of stone steps leading to the second Kwannondera, the most imposing temple of Kwannon in Kitzuki. Nothing now remains of the Rengaji but a broken statue of Jizo, before which the people still pray. The former court of the little temple has been turned into a vegetable garden, and the material of the ancient building utilised, irreverently enough, for the construction of some petty cottages now occupying its site. A peasant told me that the kakemono and other sacred objects had been given to the neighbouring temple, where they might be seen.

 

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