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2015/09/10

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (二)

       二

 

 右方の丘陵は、船の進むに從つて段々高くなって、いつも次第に私共の方に近寄つてきて、その豐富な森の一切細部を見せ始めた。見れば、森に蔽はれた大きな峯の頂上、晴れた空の下に、一大佛寺の稜角多き屋根が歷然現れた。それは一畑山にある一畑寺で、靈魂の醫者、藥師如來の伽藍だ。が、一畑に於て、如來は比較的特別に肉體の醫者として、盲者に明を與ヘる佛陀として示現してゐる。誰でも眼病のものは、その大寺院に向って熱禱すれば、快癒を得るものと信ぜられてゐる。で、そこへ幾多の遠國から數千の患者が、長い退屈な山路を辿り、絶頂の見晴らしのよい境内へ通ずる六百四十の石段を蹈んで、參詣する。そこで巡禮者は神聖な泉の水で眼を洗ひ、御堂の前へ脆いて、一畑の神聖な信條、『おんころころせんだい、まとーき、そわか』といふ句を低唱する。多くの佛教の願文と同じく、この意味は永く忘れられてしまつてゐる。梵語から漢語へ、更に日本語へと轉譯したので、その意味はたゞ博學の僧侶が知るのみであるが、全國の人に諳誦され、非常に熱心を籠めて唱へられる。

 私は船室の屋根から降つて、庇の下で甲板に坐して、晃と共に喫煙した。して、私は問ふた――

 『佛陀の數は幾つあるのだらう。悟者の數はわかつてゐる?』

 『佛陀は無數です』と、晃は答へた。『しかし實際は唯だ一つの佛陀あるのみです。數の多いのは、形相だけです。私共は各自に未來の佛陀を藏してゐます。私共は悟る處多かつたり、少かったつたりするといふことを除いては、一切平等ですが、俗人はこれを知らずに象徴や形式に救ひを求めてゐるのです』

 『それから神――神道の神々は?』

 『神道に就ては私はあまり存じませぬ。が、高天ケ原に八百萬の神ましますと、古い書物に書いてあります。その中、三千百三十二神は、日本の初國二千八百六十一社に祀られてゐます。して、日本の十月は神無月と申します。その月には、日本國中の神々が、社殿を去つて、出雲の國、杵築大社に集り玉ふからです。で、同じ道理で、その月が出雲に於てだけは、神在月と呼ばれます。が、教育を受けた人々は、漢語を使つて、『神有祭【譯者註】』といふこともあります。それから、蛇が海から陸へ上つて來て、神々の食卓なる三寶の上ヘとぐろを卷くと信ぜられてゐます。蛇は到着を知らせるのです。で、龍王は神々と人間の先祖なる伊弉諾、伊弉册の社殿へ使者を遣はすのです』

    譯者註。通辯人のこの説明については、疑を附しおく。

 『記憶力には限りがあるから、數百萬の神々のことは、私はいつまでもわからず了ひになるより、外に仕方がない。が、最も滅多に名の呼ばれない神々、珍らしい土地や、不思議な事柄の神々のことを少し話して下さい』

 晃が答へた。『私からは、彼等についてあまりお學びになることは出來ません。他のもっと一層學問ある人達にお質ねにならねばいけませぬ。が、あまりお知り合ひにならぬ方が望ましい神々もあります。貧之の神、飢餓の神、吝嗇の神、妨害や邪魔の神などです。是等は欝陶しい日の雲のやうに、暗い色をして、餓鬼のやうな顏をしてゐます』

[やぶちゃん字注:「お質ねにならねばいけませぬ」の箇所は底本では実は「お質ねにならばいけませぬ」である。例外的に脱字と断じて「ね」を挿入した。]

 

    註。餓鬼は梵語の薜茘哆(プレータ)、

    地獄に於けゐ呵責界の飢ゑた亡靈で、

    その懺悔は飢餓である。ある餓鬼の

    口は『針の穴よりも細い』

 

 『妨害や邪魔の神とは、私は一面識どころの知り合ひではない。どうか他の神のことを話して下さい』

 『私は貧乏神の外は、どの神のこともあまり知りません』と、晃は答へた。『世の中には、いつも相伴ふ二神があると申します。福の神と貧乏神です。一方は白他方は黑です』

[やぶちゃん字注:末尾は原文では実は「で黑はす」であるが、意味が通じない。錯字と断じて例外的に「で」と「は」を入れ替えた。]

 私は口を插んで言つた、『その譯は、後者はたゞ前者の影に過ぎないから。福の神は影を投ずるもので、貧乏神は影です。私もこの世を遍歷して、どこでも一方のものが行く處に、絶えず他方のものがついて來ることを觀察したのです』

 晃はこの解釋に同意をしないで、また續けて言つた。『貧乏神が一たびつき纒ひ出すと、彼から脱することは非常に困難です。京都から遠くない、近江の國の海律村に住んでゐた僧が、多年貧乏神に惱まされてゐました。毎度彼を追う拂はうとしても駄目でした。で、彼を斯かいとして、自分は京都に行くのだと。大聲で人々に宣言して、京都には行かずに、越前の國、敦賀へ行きました。敦賀の宿へ着いた時に、餓鬼のやうに、瘠せて靑ざめた少年が出で、彼に逢つて云ひました。「私はあなたをお待ち申してゐました」――して、その少年は貧乏神でありました。

 『またある僧は六十年間、貧乏神から脱しようとして、駄目でしたから、たうとう遠國 へ行かうと決心しました。決心をしたその晩、奇妙な夢を見ました。非常に瘠せ衰へて、裸で、垢じみた少年が、巡禮や車夫の履くやうな草鞋を造つてゐます。しかも、その少年があまり澤山造りますので、僧が怪しんで「何故そんなに多くの草鞋を造るか?」と尋ねると、少年は答へました。「私はあなたと御一緒に旅をしようと思つてゐますから。私は貧乏神ですよ」』

 『では、貧乏神を追拂ふ方法はないのか?』

 『地藏經古粹といふ本に書いてありす』と、晃が答へた。『尾張の國に住んでゐた圓城坊といふ老僧は呪(まじな)ひの手段で貧乏神を退けることが出來たさうです。大晦日に老僧はその弟子や眞言宗の他の僧と共に、桃の枝を持つて、呪文を誦し、枝を以て寺から人を追拂ふ所作の眞似をして、それから一切の門戸を閉鎖し、また他の呪文を誦しました。その夜圓城坊は或る壞はれた寺で、骸骨の僧が獨り泣いてゐる夢を見ました。して、その骸骨の僧は彼に謂ひました。「かくも多年あなたと共にゐたものを、どうして追拂ふのです?」しかし、それから後、死する日までも圓城坊は常に繁昌榮華の暮しをしました』

 

[やぶちゃん注:「一畑寺」「いちばたじ」と読む。既に複数回既出既注。公式サイトの「お寺の紹介」によれば、草創は寛平六(八九四)年で、『一畑山の麓、日本海の赤浦海中から漁師の与市(よいち)が引き上げた薬師如来をご本尊としておまつりしたのが始まりで、与市 の母親の目が開いたり、戦国の世に小さな幼児が助かったことから、「目のやくし」「子供の無事成長の仏さま」として広く信仰されて』いるとある。「め」と大書した眼病平癒祈願の札の画像は、なかなかクるものがある。

「六百四十の石段」現在の上記公式サイトには一畑寺は標高二百メートルの一畑山の山上にあり、千三百段余りの石段があるとある。倍以上で、これは当時は単なる坂道であった部分をその後に歩き易く石段に改良したのであろうか? それともハーンの聞き間違いか、情報提供者がいい加減だったのか? 識者の御教授を乞う。

「おんころころせんだい、まとーき、そわか」薬師如来の小咒(しょうしゅ)・一字咒(いちじしゅ)と称する最も短い真言(マントラ(梵語:mantra)密教に於いて如来菩薩の誓願や教え及びその衆生に与える功徳などを秘めているとされる呪文的語句。原語をそのまま音写して用いる)。ウィキの「薬師如来」によれば、「オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ」(oṃ huru huru caṇḍāli mātaṅgi svāhā)である。

「譯者註。通辯人のこの説明については、疑を附しおく」落合氏のこの注は恐らく、「『神有祭』といふ」呼称は「教育を受けた人々」が「漢語を使つて」如何にもそれらしく、言っているに過ぎない、神無月という語から陳腐な発想で対義語として捻り出した語に過ぎない的な如何にも批判的なニュアンスに対する疑義と思われる。但し、例えばウィキの「神無月」には、『「神無月」の語源は不詳である。有力な説として、神無月の「無・な」が「の」にあたる連体助詞「な」で「神の月」というものがあり、日本国語大辞典もこの説を採っている』とし、『出雲大社に全国の神が集まって一年の事を話し合うため、出雲以外には神がいなくなるとという説は、中世以降の後付けで、出雲大社の御師が全国に広めた語源俗解である。高島俊男は、「「かみな月」の意味がわからなくなり、神さまがいないんだろうとこんな字をあてたのである。「大言海」は醸成月(かみなしづき)つまり新酒をつくる月の意だろうと言っている。これも憶測にすぎないが、神さまのいない月よりはマシだろう。」と評している』『日本国語大辞典は、語義の冒頭に、「「な」は「の」の意で、「神の月」すなわち、神祭りの月の意か。」とし、語源説として』十一に及ぶ説を列挙している(省略。リンク先を参照されたい)。これから考えれば「無」は音を当てたに過ぎず、「無し」の意ではないというのが有力であることになり、必ずしも晃の謂いを批難は出来ないと私は思う。なお更に、『「神無」の解釈』という項では、『平安時代には国土と諸神の母神である伊邪那美神の供養月なので行われるという記述がある。出雲大社に神が集まるのは、一般には縁結びの相談のためとされている。そのため、かつて佐渡には』十月の『縁談を避ける風習が、北九州では神が出雲に向かう日と帰ってくる日には未婚の男女がお籠りをする風習があった』。『出雲に行くのは大国主神系の国津神だけであるという説や、天照大神を始めとする天津神も出雲に行くという説もあり、この考えと一致するような、「出雲に出向きはするが、対馬の天照神社の天照大神は、神無月に出雲に参集する諸神の最後に参上し、最初に退出する」と言う伝承もある』。『出雲に祭神(さいじん)が出向いてしまっては、その地域を鎮護(ちんご)するものがいなくなるということから、「留守神」と呼ばれる留守番をする神も考え出されるようになった。一般に留守神には恵比須神が宛てられ』、十月に『恵比須を祀る恵比須講を行う地方もある』。『鹿島神宮の祭神は、地震を起こす原因と考えられた「地中に棲む大鯰(おおなまず)」を、押さえつける「要石」を鎮護するものであり、過去に神無月に起きた大地震のいくつかは、鹿島の神が出雲に出向いて留守だったために起きたと伝承されている』とあって、私などは神が居ない代わりに各地方で十月だけ限定的に祀られるという神の方に関心が向く。それこそは大和朝廷にまつろわずに隠蔽されてしまった神々、権力によって妖怪変化に零落させられた本来のそれぞれの地の地神や精霊の末裔ではないかと想像したくなるからである。

「蛇」日本参道狛犬研究会公式サイト内の「神使の館」に参考資料として「蛇~ヘビ(4) 出雲大社(祭神:大国主命)の龍蛇の頁があり、それによれば出雲大社に於いては十月の神在月に出雲に集まる神々を先導する役として海蛇が神使とされ、陰暦十月十日の『夜に全国から出雲に集まる八百万の神々を「龍蛇」が稲佐の浜(出雲大社の西海岸)へ先導してくる』とある。同頁は出雲大社の発行する「出雲大社龍蛇神のお札」が画像で示されてあるが、これは見た途端、私は南方熊楠の「ウガという魚のこと」と(リンク先は私の古い電子テクスト)、実見したことがあるその液浸標本が直ちに頭に浮かんだ。これはまさに熊楠が述べるウミヘビ類の尾に、甲殻類のフジツボの仲間である蔓脚類の仲間、節足動物門甲殻亜門顎脚綱鞘甲(フジツボ)亜綱蔓脚(フジツボ)下綱完胸上目有柄目エボシガイ亜目エボシガイ科エボシガイLepas anatifera の仲間(この仲間は異常に着生対象に特化しているので種を同定するのは至難の業である)が付着しているのを図像化したものではあるまいか? 海蛇が先導し、そこに烏帽子を被った神々が附くという私の空想は、どうであろうか? 大方の御批判を俟つものではある。

「餓鬼は梵語の薜茘哆(プレータ)」以下、ウィキの「餓鬼」より引く。梵語で“preta”・漢字音写では一般には「薜茘多(へいれいた)」と記す。『仏教において、亡者のうち餓鬼道に生まれ変わったものをいう。preta とは元来、死者を意味する言葉であったが、後に強欲な死者を指すようになった』。『俗に、生前に贅沢をした者が餓鬼道に落ちるとされている。ただし仏教の立場から正確にいえば、生前において強欲で嫉妬深く、物惜しく、常に貪りの心や行為をした人が死んで生まれ変わる世界とされる。しかし大乗仏教では、後々に死後に生まれ変わるだけではなく、今生においてそのような行状をする人の精神境涯をも指して言われるようになった』。『餓鬼は常に飢えと乾きに苦しみ、食物、また飲物でさえも手に取ると火に変わってしまうので、決して満たされることがないとされる。長期的な飢餓状態の人間が発症するクワシオルコル』(kwashiorkor:「クワシオコア」とも呼ぶ栄養失調症の一病態を指す語で、一般にはタンパク質の摂取量が十分でないために起こる症状を指すとされる。症状の特徴は足の浮腫・腹部膨満・脂肪性浸潤物による肝臓肥大・歯の脱落・肌の脱色及び皮膚炎・脱毛・下痢・体重減少などで、重症化すると死亡することもあり得る。ここはウィキの「クワシオルコル」に拠った)『の特徴である、痩せ細って腹部のみが丸く膨れ上り、足の甲が浮腫んだ姿が描かれることが多い』。「正法念処経」巻十六には餓鬼の住処む場所は二所あるとし、『人中の餓鬼。この餓鬼はその業因によって行くべき道の故に、これを餓鬼道(界)という。夜に起きて昼に寝るといった、人間と正反対の行動をとる』。今一つは文字通り、六道の餓鬼道で、閻浮提(えんぶだい:須弥山の周囲にある四つの大陸である四大洲の一つで人間の住む地)の下、五百由旬(ゆじゅん:古代インドにおける長さの単位であるが一定しない。仏教では通常、一由旬を約七キロメートルに換算することが多い)の地下にあり、その広さは三万六千由旬とされる。『しかして人間で最初に死んだとされる閻魔王(えんまおう)は、劫初に冥土の道を開き、その世界を閻魔王界といい、餓鬼の本住所とし、あるいは餓鬼所住の世界の意で、薜茘多世界といい、閻魔をその主とする。余の餓鬼、悪道眷属として、その数は無量で悪業は甚だ多い』とある。以下では「正法念処経」に説かれている三十六種の餓鬼が「餓鬼の種類」として詳述されているが、その三番目に、『針口(しんこう)』という餓鬼が挙げられており、『貪欲や物惜しみの心から、布施をすることもなく、困っている人に衣食を施すこともなく、仏法を信じることもなかった者がなる。口は針穴の如くであるが腹は大山のように膨れている。食べたものが炎になって吹き出す。蚊や蜂などの毒虫にたかられ、常に火で焼かれている』(下線やぶちゃん)とある。これこそがハーンが注で述べている「ある餓鬼の口は『針の穴よりも細い』」の引用元であろう。

「貧乏神」ウィキの「貧乏神」から引く(アラビア数字を漢数字に代え、注記号を省略した)。『取りついた人間やその家族を貧困にする神』として、『日本各地の昔話、随筆、落語などに名が見られる』。『基本的には薄汚れた老人の姿で、痩せこけた体で顔色は青ざめ、手に渋団扇を持って悲しそうな表情で現れるが、どんな姿でも怠け者が好きなことには変わりないとされる。家に憑く際には、押入れに好んで住み着くという。詩人・中村光行によれば、貧乏神は味噌が好物で、団扇を手にしているのはこの味噌の芳香を扇いで楽しむためとされている』。『仮にも神なので倒すことはできないが、追い払う方法はないわけではない。新潟では、大晦日の夜に囲炉裏で火を焚くと、貧乏神が熱がって逃げていくが、代わりに暖かさを喜んで福の神がやって来るとされる。囲炉裏にまつわる貧乏神の俗信は多く、愛媛県北宇和郡津島町(現・宇和島市)では囲炉裏の火をやたらと掘ると貧乏神が出るといわれる』。曲亭馬琴らによる江戸時代の奇談集「兎園小説」には「窮鬼(きゅうき)」というのが載り、文政四(一八二一)年、『江戸番町に年中災い続きの家があり、その武家に仕える男があるときに用事で草加へ出かけ、一人の僧と知り合った。男が僧に、どこから来たのかと尋ねると、今まで男の仕えていた屋敷にいたとのことだった。男はその僧を屋敷で見たことがないと告げると、僧は笑いながら「あの家には病人が続出しているが、すべて貧乏神である私の仕業だ。あの家は貧窮極まった状態なので、ほかの家へ行く。今後、あなたの主人の運は上を向く」と言って姿を消した。その言葉通り、その後、男の仕える家は次第に運が向いてきたという』とあり、電子化開始てい津村淙庵には、『昔ある者が家で昼寝していると、ぼろぼろの服の老人が座敷に入って来る夢を見て、それ以来何をやってもうまくいかなくなった。四年後、夢の中にあの老人が現れ、家を去ることを告げ、貧乏神を送る儀式として「少しの焼き飯と焼き味噌を作り、おしき(薄い板の四方を折り曲げて縁にした角盆)に乗せ、裏口から持ち出し川へ流す」、今後貧乏神を招かないための手段として「貧乏神は味噌が好きなので、決して焼き味噌を作らない。また生味噌を食べるのはさらに良くないことで、食べると味噌を焼くための火すら燃やせなくなる」と教えた。その通りにして以来、家は窮迫することがなくなったという』とあるとする。また、井原西鶴の「日本永代蔵」の「祈る印の神の折敷」には、『嫌われ者の貧乏神を祭った男が、七草の夜に亭主の枕元にゆるぎ出た貧乏神から「お膳の前に座って食べたのは初めてだ」と大感激されて、そのお礼に金持ちにしてもらったという話である。また、かつて江戸の小石川で、年中貧乏暮しをしていた旗本が年越しの日、これまでずっと貧乏だったが特に悪いことも無かったのは貧乏神の加護によるものだとし、酒や米などを供えて貧乏神を祀り、多少は貧窮を免れて福を分けてもらうよう言ったところ、多少はその利益があったという』話が載る。以下、「信仰」の項には、『前述の『日本永代蔵』の貧乏神は貧乏を福に転じる神とされ、現在では東京都文京区春日北野神社の牛天神の脇に「太田神社」として祠が祀られている、祠に願掛けをして貧乏神を一旦家に招きいれ、満願の二十一日目に丁寧に祀って送り出すと、貧乏神と縁が切れるといわれている』とある。(以下、中略)『貧乏神が焼き味噌を好むという説に関連し、大阪の船場には明治十年頃まで貧乏神送りの行事があった。毎月末、船場の商人の家で味噌を焼き、それを皿状にしたものを番頭が持って家々を回り、香ばしい匂いがあちこちに満ちる。頃合を見計らい、その焼き味噌を二つに折る。こうすることで、好物の焼き味噌の匂いに誘われて家から出てきた貧乏神が焼き味噌の中に閉じ込められるといい、番頭はそのまま焼き味噌を川へ流し、さらに自分も貧乏神を招かないように味噌の匂いをしっかりと落としてから帰ったという』ともある。

「地藏經古粹」書誌不詳。識者の御教授を乞う。「圓城坊」も不詳。ここに出る複数の貧乏神の話の原話を御存じの方は是非とも御教授願いたい。可能ならば原話を電子化してみたい。]

 

 

Sec. 2

The great range on the right grows loftier as we steam on; and its hills, always slowly advancing toward us, begin to reveal all the rich details of their foliage. And lo! on the tip of one grand wood-clad peak is visible against the pure sky the many-angled roof of a great Buddhist temple. That is the temple of Ichibata, upon the mountain Ichibata-yama, the temple of Yakushi-Nyorai, the Physician of Souls. But at Ichibata he reveals himself more specially as the healer of bodies, the Buddha who giveth sight unto the blind. It is believed that whosoever has an affection of the eyes will be made well by praying earnestly at that great shrine; and thither from many distant provinces do afflicted thousands make pilgrimage, ascending the long weary mountain path and the six hundred and forty steps of stone leading to the windy temple court upon the summit, whence may be seen one of the loveliest landscapes in Japan. There the pilgrims wash their eyes with the water of the sacred spring, and kneel before the shrine and murmur the holy formula of Ichibata: 'On-koro-koro-sendai-matoki-sowaka'—words of which the meaning has long been forgotten, like that of many a Buddhist invocation; Sanscrit words transliterated into Chinese, and thence into Japanese, which are understood by learned priests alone, yet are known by heart throughout the land, and uttered with the utmost fervour of devotion.

I descend from the cabin roof, and squat upon the deck, under the awnings, to have a smoke with Akira. And I ask:

'How many Buddhas are there, O Akira? Is the number of the Enlightened known?'

'Countless the Buddhas are,' makes answer Akira; 'yet there is truly but one Buddha; the many are forms only. Each of us contains a future Buddha. Alike we all are except in that we are more or less unconscious of the truth. But the vulgar may not understand these things, and so seek refuge in symbols and in forms.'

'And the Kami,—the deities of Shinto?'

'Of Shinto I know little. But there are eight hundred myriads of Kami in the Plain of High Heaven—so says the Ancient Book. Of these, three thousand one hundred and thirty and two dwell in the various provinces of the land; being enshrined in two thousand eight hundred and sixty-one temples. And the tenth month of our year is called the "No-God-month," because in that month all the deities leave their temples to assemble in the province of Izumo, at the great temple of Kitzuki; and for the same reason that month is called in Izumo, and only in Izumo, the "God-is- month." But educated persons sometimes call it the "God-present- festival," using Chinese words. Then it is believed the serpents come from the sea to the land, and coil upon the sambo, which is the table of the gods, for the serpents announce the coming; and the Dragon-King sends messengers to the temples of Izanagi and Izanami, the parents of gods and men.'

'O Akira, many millions of Kami there must be of whom I shall always remain ignorant, for there is a limit to the power of memory; but tell me something of the gods whose names are most seldom uttered, the deities of strange places and of strange things, the most extraordinary gods.'

'You cannot learn much about them from me,' replies Akira. 'You will have to ask others more learned than I. But there are gods with whom it is not desirable to become acquainted. Such are the God of Poverty, and the God of Hunger, and the God of Penuriousness, and the God of Hindrances and Obstacles. These are of dark colour, like the clouds of gloomy days, and their faces are like the faces of gaki.' [3]

'With the God of Hindrances and Obstacles, O Akira I have had more than a passing acquaintance. Tell me of the others.'

'I know little about any of them,' answers Akira, 'excepting Bimbogami. It is said there are two gods who always go together,—Fuku-no-Kami, who is the God of Luck, and Bimbogami, who is the God of Poverty. The first is white, and the second is black.'

'Because the last,' I venture to interrupt, 'is only the shadow of the first. Fuku-no-Kami is the Shadow-caster, and Bimbogami the Shadow; and I have observed, in wandering about this world, that wherever the one goeth, eternally followeth after him the other.'

Akira refuses his assent to this interpretation, and resumes:

'When Bimbogami once begins to follow anyone it is extremely difficult to be free from him again. In the village of Umitsu, which is in the province of Omi, and not far from Kyoto, there once lived a Buddhist priest who during many years was grievously tormented by Bimbogami. He tried oftentimes without avail to drive him away; then he strove to deceive him by proclaiming aloud to all the people that he was going to Kyoto. But instead of going to Kyoto he went to Tsuruga, in the province of Echizen; and when he reached the inn at Tsuruga there came forth to meet him a boy lean and wan like a gaki. The boy said to him, "I have been waiting for you"—and the boy was Bimbogami.

'There was another priest who for sixty years had tried in vain to get rid of Bimbogami, and who resolved at last to go to a distant province. On the night after he had formed this resolve he had a strange dream, in which he saw a very much emaciated boy, naked and dirty, weaving sandals of straw (waraji), such as pilgrims and runners wear; and he made so many that the priest wondered, and asked him, "For what purpose are you making so many sandals?" And the boy answered, "I am going to travel with you. I am Bimbogami."'

'Then is there no way, Akira, by which Bimbogami may be driven away?'

'It is written,' replies Akira, 'in the book called Jizo-Kyo-Kosui that the aged Enjobo, a priest dwelling in the province of Owari, was able to get rid of Bimbogami by means of a charm. On the last day of the last month of the year he and his disciples and other priests of the Shingon sect took branches of peach-trees and recited a formula, and then, with the branches, imitated the action of driving a person out of the temple, after which they shut all the gates and recited other formulas. The same night Enjobo dreamed of a skeleton priest in a broken temple weeping alone, and the skeleton priest said to him, "After I had been with you for so many years, how could you drive me away?" But always thereafter until the day of his death, Enjobo lived in prosperity.'

 

3 In Sanscrit pretas. The gaki are the famished ghosts of that Circle of Torment in hell whereof the penance is hunger; and the mouths of some are 'smaller than the points of needles.'

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