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2015/09/24

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (三)


       三   七月二十三日 杵築にて

 私の杵築に於ける最初の日の記憶の中には、幽靈の如く全然冷靜な顏を有し、奇異で、優美な音を立てない歩み方をする、巫女(みこ)の美しい白い姿が、いつも通過して行く。

 巫女といふ名は、神々の寵兒といふ意味だ。

 親切な宮司は、私の懇請によつて、巫女の寫具を買求めて――寧ろ私のために取つて呉れた。緋の袴を穿いた上へ、足まで垂るゝ雪白の齋服を着けて、神祕的な鈴を高くあげた舞姿である。

 して、博學の神官、佐々氏が神々の寵兒と、その神聖な踊の巫女神樂に關して、つぎのことを話してくれた。 

 

 伊勢の如き他の大きな神社の習慣に反して、杵築の巫女の職はいつも世襲的だ。昔は杵築では、三十有餘戸の娘が、巫女として大社に仕へた。今日は二戸あるだけで、少女の神女の數は六名を超過しない――私が寫眞を獲たのは、第一の巫女のものである。伊勢やその他の處では、神官の娘は誰でも巫女になれる。しかし婚期に達してからは、その資格で仕へる譯には行かぬ。で、杵築以外では、すべて大きな神社の巫女は、十歳乃至十二歳の女兒である。が、杵築大社では、少女の神女は、十六歳乃至十九歳の美しい娘であつて、人氣ある巫女は結婚後でさへ奉仕を許されることもある。神聖は學ぶことが左程困難ではない。將來神社に仕へる兒女には、母親又は姉が教へる。巫女は家庭に住んでゐて、ただ祭祀の日にのみその任務のため參殿する。彼女は何等の嚴重な規律に從つたり、制限を受けてゐるのでない。何等特別の誓約をするのでもない。少女で居ることむ止めたからといつて、恐ろしい罰に處せらるゝ心配もない。しかしその地位は高い名譽であるし、家族に取つては一つの財源にもなつてゐるから、彼女の職務に對する束縛力は、古代西洋の巫女の神に對する誓約と殆ど同樣に強いのである。

 希臘デルフアイの神巫の如く、昔時巫女はまた卜女でもあつた――彼女の奉仕する神が憑移つた場合には、未來の祕密を語る、生ける神託であつた。今日は何れの神社に於ても、巫女が女豫言者として務めることはない。しかしまだ一種の巫婆があつて、死人と交通を行ひ未來のことを告げ得ると稱し、また自から巫女と名乘り、祕密にその業を行つてゐる。法律で禁じてあるから。

 種々の大きな神社に於て、巫女神樂の踊り方に差異がある。最も古い杵築では、踊りが最も簡單で、また最も原始的だ。その目的は神々を樂しませるといふのだから、宗教的保守主義が信仰の初期以來、變はることなく、その傳説と歩み方を維持してゐる。この踊の起原は古事記に載つてゐる天の宇受賣命の踊に見出される。この女神の感興と歌によつて、天照大神はその隱れ玉ふた岩洞から誘ひ出されて、復た世界を照らしたのであつた。して、鈴――巫女が舞に用ひる、鈴の簇生せる靑銅製の器具――は、天の宇受賣命が愉快な歌を始める前に、葦で小鈴を結び付けた笹の枝の形を保存してゐる。

[やぶちゃん注:この時にハーンが見たものとは異なるが、出雲大社三大祭の一つである「献穀祭(けんこくさい)」での古式の巫女舞をHitoshi Naora 氏出雲大社本殿での巫女舞の動画で見ることが出来る。
 
「希臘デルフアイの神巫」古代ギリシャのポリスであるデルフォイ(
Delphoi:英語表記 Delphi:日本語の音写は「デルポイ」「デルファイ」「デルフィ」(最後のものは現代ギリシア語発音に基づく)に於いて神託をもたらした巫女シビュッラ(英語表記:Sibyl )のこと。詳しくはウィキの「デルポイ」(ポリス及び神託の記載有り)及び同「シビュッラ」を参照されたい。

「昔時巫女はまた卜女でもあつた――彼女の奉仕する神が憑移つた場合には、未來の祕密を語る、生ける神託であつた」注するまでもないとは思うが、ウィキの「巫女」から引いておく。『古神道での、神を鎮める様々な行為のなかで特に、祈祷師や神職などが依り代となって、神を自らの身体に神を宿す、「神降し」や「神懸り」(かみがかり)の儀式を「巫」(かんなぎ)といった。これを掌る女性が巫女の発生と考えられる。男性でその様な祭祀に仕える者は覡』(読みは同じく「ふ/かんなぎ」と読む)『と称される』。ハーンも述べるように「古事記」「日本書紀」に記される日本神話の『天岩戸の前で舞ったとされる天鈿女命(アメノウズメ)の故事』がこの原型と考えてよく、また、「魏志倭人伝」によると、『卑弥呼は鬼道で衆を惑わしていたという(卑彌呼 事鬼道 能惑衆)記述があり、この鬼道や惑の正確な意味・内容は不明だが、古代に呪術的な儀式が女性の手で行われた事がうかがえる』。平安期に入ると、『神祇官に御巫(みかんなぎ)や天鈿女命の子孫とされた猨女君』(さるめのきみ)『の官職が置かれ、神楽を舞っていたと推定されている。平安時代末期の藤原明衡の著である』「新猿楽記」には巫女に必要な四つの要素として『「占い・神遊・寄絃・口寄」が挙げられており、彼が実際に目撃したという巫女の神遊(神楽)はまさしく神と舞い遊ぶ仙人のようだったと、記している』。『中世以後、各地の有力な神社では巫女による神楽の奉納が恒例となった。さらに神楽も旧来の神降ろしに加えて、現世利益を祈願するものや、必ずしも巫女によらない獅子舞や、曲独楽等の曲芸に変貌したとされ、そのためか、現在でも、祈祷・祈願自体を神楽、あるいは「神楽を上げる」と称する例がみられる』。また、『歌舞伎の元である「かぶきおどり」を生み出したとされる出雲阿国(いずものおくに)は出雲大社の巫女であったという説』もあり、『古代の呪術的な動作が神事芸能として洗練され、一般芸能として民間に広く伝播していった経過がうかがわれる』。また、これは「渡り巫女」別称、「歩き巫女」の濫觴ともなった。彼女らは『祭りや祭礼や市などの立つ場所を求め、旅をしながら禊や祓いをおこなったとされる遊女の側面を持つ巫女である。その源流は、平安時代にあった傀儡師といわれる芸能集団で、猿楽の源流一つとされ』、『旅回りや定住せず流浪して、町々で芸を披露しながら金子(きんす)を得ていたが、必ずしも流浪していたわけではない』ことから、『後に寺社の「お抱え」となる集団もあり、男性は剣舞をし、女性は傀儡回しという唄に併せて動かす人形劇を行っていた。この傀儡を行う女を傀儡女とよび、時には客と閨をともにしたといわれる。また、梓弓という鳴弦を行える祭神具によって呪術や祓いを行った梓巫女(あずさみこ)もいた』。『近世社会においては郷村から近世村落への変遷において、神社の庇護者であった在地土豪の消失や社地の縮小による経済的衰退、神主による神事の掌握などを事情に神子は減少し』、『また、近世社会においては名跡を継ぐことが許されるのは男性のみであったため、神子の多くは神子家を継承させるため夫を迎えていた』とある。

「しかしまだ一種の巫婆があつて、死人と交通を行ひ未來のことを告げ得ると稱し、また自から巫女と名乘り、祕密にその業を行つてゐる。法律で禁じてあるから」前注で引いたウィキの「巫女」の「近代」の項には、『明治維新を迎え、神社・祭祀制度の復古的な抜本的見直しが』なされ、明治四(一八七一)年には『神祇省に御巫(みかんなぎ)が置かれ、宮内省の元刀自が御巫の職務に当た』り、二年後の明治六年には『教部省によって、神霊の憑依などによって託宣を得る、民間習俗の巫女の行為が全面的に禁止された』(「梓巫市子並憑祈禱孤下ケ等ノ所業禁止ノ件」。これは我流で「あずさみこ/いちこ/ならびに/つきものきとう/きつねさげ/などのしょぎょうきんしのけん」と読んでおく)。『これは巫女禁断令と通称される。このような禁止措置の背景として、復古的な神道観による神社制度の組織化によるものである一方、文明開化による旧来の習俗文化を否定する動きもうかがえる』。『禁止措置によって神社に常駐せずに民間祈祷を行っていた巫女はほぼ廃業となったが、神社、或いは教派神道に所属し』、『姿・形を変えて活動を続ける者もいた。また、神職の補助的な立場で巫女を雇用する神社が出始めた。後、春日大社の富田光美らが、神道における巫女の重要性を唱えると同時に、八乙女と呼ばれる巫女達の舞をより洗練させて芸術性を高め、巫女及び巫女舞の復興に尽くした。また、宮内省の楽師であった多忠朝は、日本神話に基づく、神社祭祀に於ける神楽舞の重要性を主張して認められ、浦安の舞を制作した』とある。

「その目的は神々を樂しませるといふのだから、宗教的保守主義が信仰の初期以來、變はることなく、その傳説と歩み方を維持してゐる。この踊の起原は古事記に載つてゐる天の宇受賣命の踊に見出される」私はこのハーンの謂いには大いに違和感を感じる。ハーンの「この踊の起原は古事記に載つてゐる天の宇受賣命の踊に見出される」は無論、正しい。しかしだ、「天の宇受賣命」(あめのうずめのみこと)のそれはバストは勿論のこと、エキサイトして裳裾をからげ上げて陰部をさえちらちらと見せるという、本邦初のストリップ・ショーであった。それを中心に八百万の神々(男神ばかりではなくあまたの女神もである。古代日本に於いては男女の性の認識意識には今のような懸隔はなく、当時の女性は男と等しく「好色」であり、性に対しては大した位相の違いはなかったと私は考えている)が円座を組んでそれを囲んでは、やんや! やんや! の喝采や溜め息を挙げた、その過激にして強烈なエロティクさに八百万の神総てがエクスタシーの歓声嬌声を挙げ「神々を樂しませ」たのである(そのように神々が演じたとも言えるが、そうした作為と結果は神話構造では全く問題にならない瑣末なことである)。だからこそ、全女神の頂点に立つ絶世の美女神たる天照大神は私より「スゴイ! って、何よ?! どんな女よッツ!」と大いに嫉妬して覗き見したのである(その後の自らが鏡に映った顔を錯覚するという神々の企みも美事である)。であってみれば、近代以降の巫女の舞いや神楽が、「信仰の初期以來、變はることなく、その傳説と歩み方を維持してゐる」などとは私は全く思わない。敢えて言うなら、性意識を神経症的に隠蔽し、男女の道徳性を社会的権力的に束縛し変質させて操作しようとする「宗教的保守主義」によって、本来の神楽や巫女舞の本質的属性――自由奔放で極めて健全な性の謳歌――が完膚なきまでに殺菌されてしまい、陳腐に権威化されて、市井の民の笑いを遙か彼方へ遠ざけてしまったと私は断言するのである。大方の御叱正を俟つものではある。が、私は、そう簡単には退かないと断ってもおく。] 

 

Sec.4

   KITZUKI,
    July 23rd

Always, through the memory of my first day at Kitzuki, there will pass the beautiful white apparition of the Miko, with her perfect passionless face, and strange, gracious, soundless tread, as of a ghost.

Her name signifies 'the Pet,' or 'The Darling of the Gods,'-Mi-ko.

The kind Guji, at my earnest request, procured meor rather, had taken for mea photograph of the Miko, in the attitude of her dance, upholding the mystic suzu, and wearing, over her crimson hakama, the snowy priestess-robe descending to her feet.

And the learned priest Sasa told me these things concerning the Pet of the Gods, and the Miko-kagurawhich is the name of her sacred dance. 

 

Contrary to the custom at the other great Shinto temples of Japan, such as Ise, the office of miko at Kitzuki has always been hereditary. Formerly there were in
Kitzuki more than thirty families whose daughters served the Oho-yashiro as miko: to-day there are but two, and the number of virgin priestesses does not
exceed six
the one whose portrait I obtained being the chief. At Ise and elsewhere the daughter of any Shinto priest may become a miko; but she cannot serve in that capacity after becoming nubile; so that, except in Kitzuki, the miko of all the greater temples are children from ten to twelve years of age. But at the Kitzuki Oho-yashiro the maiden-priestesses are beautiful girls of between sixteen and nineteen years of age; and sometimes a favourite miko is allowed to continue to serve the gods even after having been married. The sacred dance is not difficult to learn: the mother or sister teaches it to the child destined to serve in the temple. The miko lives at home, and visits the temple only upon festival days to perform her duties. She is not placed under any severe discipline or restrictions; she takes no special vows; she risks no dreadful penalties for ceasing to remain a virgin. But her position being one of high honour, and a source of revenue to her family, the ties which bind her to duty are scarcely less cogent than those vows taken by the priestesses of the antique Occident.

Like the priestesses of Delphi, the miko was in ancient times also a divineressa living oracle, uttering the secrets of the future when possessed by the god whom she served. At no temple does the miko now act as sibyl, oracular priestess, or divineress. But there still exists a class of divining-women, who claim to hold communication with the dead, and to foretell the future, and who call themselves mikopractising their profession secretly; for it has been prohibited by law.

In the various great Shinto shrines of the Empire the Mikokagura is differently danced. In Kitzuki, most ancient of all, the dance is the most simple and the 
most primitive. Its purpose being to give pleasure to the gods, religious conservatism has preserved its traditions and steps unchanged since the period 
of the beginning of the faith. The origin of this dance is to be found in the Kojiki legend of the dance of Ame-nouzume-no-mikoto
she by whose mirth and 
song the Sun-goddess was lured from the cavern into which she had retired, and brought back to illuminate the world. And the suzu
the strange bronze 
instrument with its cluster of bells which the miko uses in her dance
still preserves the form of that bamboo-spray to which Ame-no-uzume-no-mikoto fastened small bells with grass, ere beginning her mirthful song.

 

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