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2015/09/13

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (一一)

        一一

 

 神官佐々氏はまた次の話をした――

 大家康の孫で、二百五十年間出雲を治めた、偉大なる松平家の始祖直政が、この國へ來たとき、杵築大社へ參詣して、殿内の宮を開いて、神體を見せるやうに命じた。これは不敬な要求だから、國造は兩人とも一致して反對した。が、彼等の諫止と辯解にも關らず、彼は憤然要求を主張したので、神官は止むなく宮を開いた。すると、直政は宮の中に九つ孔の開いた鮑貝――その背後のものを、すべて隱すほどに大きな――を發見した。もつと近寄つて視ると、不意に鮑貝は長さ十尋以上もある大蛇と變じた。して、それは宮の扉前で、黑く堆くとぐろを卷いて、荒れ狂ふ火のやうな叱音を立てて、非常に恐ろしかつたので、直政と從者達は逃げて行つた――他に何をも見ることは出來なかつた。爾來直政は大社を畏敬した。

    註一。往古から國造に理論上二人と

    なつてゐる。尤も職に就くのは一人

    だけだ。同族の兩分家が、その職に

    對する傳來の權利を主張して、千家

    と北島の二家が競爭してゐる。政府

    はいつも前者に好意を有つた決定を

    してゐる。北鳥家の家長は普通次位

    の國造に任じてある。

    註二。國造といふ語は、正確に云へ

    ば、宗教的でなく、寧ろ世間的の稱

    號である。國造はいつも杵築に對す

    る天皇の代理――天皇の代りに神を

    祀る任務の人である。が、かやうな

    代理の宗政的稱號を、現在の宮司が

    矢張り帶びてゐる。『みつえしろ』

    が、それだ。

[やぶちゃん字注:「が、かやうな代理の宗政的稱號を、現在の宮司が矢張り帶びてゐる。『みつえしろ』が、それだ」の部分、底本では「帶びてゐる」の後には句点がなく、そのまま『『みつえしろ』」が、それだ』に続いてしまっている。原文からも脱字と断じ、句点を挿入した。平井呈一氏の訳でも無論、句点がある。

 

[やぶちゃん注:「松平家の始祖直政」既出既注。「二百五十年間」とあるが、彼が信濃国松本藩より転封されて出雲松江藩主となったのは寛永一五(一六三八)年、最後の第十代藩主松平定安は明治二(一八六九)年六月十七日に版籍奉還で知藩事となったが、二年後の明治四年七月十四日に廃藩置県で免官されているから、仮にそこまで引っ張ってたとししても二百三十一年にしかならない。実は寛永十五年から二百五十年後は西暦一八八八年で明治二十一年(数えなら明治二十二年)となり、ハーンはまさに、ほぼこの訪問時(明治二三(一八九〇)年九月十四日)までを計算に入れてしまっているということが計算してみて初めて判るのである。こんな下らんことは私ぐらいしか注しないだろう。たかが/されどの私の注のマニアックな妙味と思われたい。

「九つ孔の開いた鮑貝――その背後のものを、すべて隱すほどに大きな――」やや不審である。腹足綱直腹足亜綱原始腹足目古腹足上目ミミガイ上科ミミガイ科アワビ属 Haliotis の殻上面には数個の貫通した孔があり。これは外套腔に吸い込んだ水や排泄物及び卵子や精子を放出するためのものであるが、殻の成長に従い、順次、形成された穴は古いものから塞がっていき、常時、一定の範囲の数の孔が貫通開口している。アワビの場合、この孔の数は四つから五つと決まっている(形態が酷似し、大きさの小さいミミガイ科トコブシ属フクトコブシ亜種トコブシ Sulculus diversicolor supertexta においてはこれが多く、六つから八つ必ず開いている。これは稚貝のアワビとトコブシの両種を識別する最も簡便にして確実な方法であっていい加減なものではない。因みに、アワビではこの孔の開孔部外周が有意に盛り上がって捲(めく)れ上がった形状を成しており、それぞれの開孔直径も大きいのに対して、トコブシでは穴の周囲は捲れずすっきりとしており、孔の大きさも比較上、有意に小さい)。このシークエンス自体が作り物であるから、どうでもいい話ではあろうが、この巨大なアワビの殻が大きさは誇張があるとして、実際にあったとするなら、この九つの孔は、人為的加工によって穿たれたものである。実際、内面の虹色の真珠光沢が好まれ、洋の東西を問わず、アワビの殻の加工土産品を数々見て来たが、こうした作為的に古い孔を穿ったことがはっきりと分かるそれを私も持っているからである。なお、巨大アワビの実例としては、アメリカ・カリフォルニア州沿岸に棲息するアワビ属アカネアワビHaliotis rufescens(英名:Red Abalone。既に本邦では輸入アワビの代表格となっている)の、一九九三年九月に採取された三十一センチメートル三十四ミリメートルという個体が現在までの世界最大記録とされているようである(桜真太郎氏のブログ「世界の謎と不思議」の「世界最大のあわび」に画像がある)。因みに、本邦には巨大なお化け鮑の伝説が数多あり、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑 別巻2 漢産無脊椎動物」の「アワビ」の「巨大アワビ」の項によれば、「常陸国風土記」(七一三年頃成立)に多珂郡(たかのこおり:概ね現在の茨城県多賀郡に相当する地域)の海には八尺(二メートル四十二センチメートル)ばかりの鮑がいると書かれおり、国学者で強力な考証家として知られた小山田与清(おやまだともきよ 天明三(一七八三)年~弘化四(一八四七)年)の「松屋日記」には、寛文五(一六六五)年のこと、安房国平群(へぐり)郡亀崎(現在の千葉県南房総市富浦町(とみうらまち))の海に潜った海士(あま)らが、海底に七、八間(十二・八~十四・五メートル)四方の鮑がいた、と記している。また「日本書紀」には第十九代允恭天皇(西暦四百年代前半とする)が淡路島に狩りに行幸された際、獲物が獲れず、卜占したところが、島の神が明石の海底に潜む真珠を欲して祟りをなしていることが判明、男狭械(おさき)という名の海士に命じて潜らせたところ、男狭械は六十尋(百九・七二八メートル)もの海底から大きな鮑を抱きかかえて浮かんできたものの、そこで息絶えた。その鮑を割いてみると、中から桃の実ほどの大きさの真珠が出てきたので、島の神に祀った、と記す。なお、ハーンが原注「14」で示している“Haliotis tuberculata”は残念ながら本邦産のアワビ類ではなく、カナリア諸島・地中海東アフリカに分布するアワビ属セイヨウトコブシの学名で、画像検索をかけると、流石に「トコブシ」を名にし負うているため、どうもこれなら九孔あってもおかしくなく、欧米の読者には腑に落ちたに違いない。

「十尋」十八・二八八メートル。但し、原文は“fifty feet in length”で「十尋」は原注のものを本文に転用したもの。五十フィートなら十五・二四メートルである。

「叱音」「しつおん」と音読みしておく。シュウ! シャーッ! といったおどろおどろしい蛇の喉笛の音であろう。

「千家と北島の二家」ウィキの「国造家の分裂の「国造家の分裂」の項によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『出雲国造家の称号と出雲大社の祭祀職務は、南北朝時代に入るまで一子相伝であったが、康永年間(一三四〇年頃)以降、千家氏(せんげし)と北島氏(きたじまし)の二氏に分かれ、それぞれが出雲国造を名乗るようになった『南北朝時代の第五十四代国造・出雲孝時(いずも のりとき)は、子の六郎貞孝を寵愛し、国造を継がせようと考えていた。しかし、孝時の母である覚日尼(塩冶頼泰の娘)から「三郎清孝は病弱であるが兄であるので、後に貞孝に継がせるとしても、まず一時的にでも兄である清孝に継がせるべきだ」と説得を受け、清孝を後継者とした。その後、清孝が第五十五代国造となったが、やはり病弱であったため職務を全うできず、弟の五郎孝宗を代官として職務のほとんどを任せ、そのまま康永二年/興国三年(一三四三年)、国造職を孝宗に譲ることとした。これに対して貞孝は、自分に国造職を譲るのが本来であると猛烈に反発し、神事を中止し、軍勢を集めて社殿に立て篭もるなど、紛争状態となった』。『事態を重く見た守護代の吉田厳覚は、清孝・孝宗側と貞孝側の両者に働きかけ、年間の神事や所領、役職などを等分するという和与状を結ばせた。こうして康永三年/興国四(一三四四)年六月五日)以降、孝宗は千家氏、貞孝は北島氏と称して国造家が並立し、十九世紀後半の幕末まで出雲大社の祭祀職務を平等に分担していた』。『明治時代には、千家氏・北島氏ともに男爵として遇されたが、出雲大社自体は神社本庁の傘下(社格は官幣大社)となり、千家氏は出雲大社教(いずもおおやしろきょう)、北島氏は出雲教と、それぞれ宗教法人を主宰して分かれ、出雲大社の宮司は千家氏が担った。戦後、神社が国家管理を離れた後は、出雲大社は神社本庁包括に属する別表神社となり、宗教法人出雲大社教の宗祠として、宮司は千家氏が担』って現在に至っている。

「みつえしろ」出雲国造の宗教上の使命及び信者の向うべき正しい道を導き指すところの神の御杖をシンボライズする「御杖代」、神の御杖の代わり、という意味であろう。出雲大社公式サイト内の、千家尊紀の兄で先代である千家尊福が起こした「出雲大社教」(第八章 杵築――日本最古の社殿 (プロローグ)の「千家尊紀」の私の注を参照)のページの「祭神の由来と祭祀」の条に、『大国主大神は、私たちの遠い祖先たちと喜びも悲しみも共にされて初めて国土を開拓され、農耕など諸産業を勧めて人々の暮らしの基礎を築いてくださり、さらに医薬・禁厭の法などを御教示になられて人々の病苦を救われるなど慈愛の御心を寄せられました』。『やがて、この国土を皇孫命(すめみまのみこと=御皇室の御祖先神)に捧げられて、「和譲」の道を御教示されて天日隅宮(出雲大社)に鎮られ、目には見えない世界を治められる幽冥主宰大神(かくりよしろしめすおおかみ)として、永遠に人々の生前死後を貫いて私どもをお護り下さるようになりました』。『ここに、天穂日命は皇祖の勅命により大国主大神の祭主となって、大神の御心を奉戴し、天穂日命の子孫は歴年、出雲国造(いずもこくそう)として代々その使命を享け嗣ぎ、真に大神の御神徳の現身なる具現者、すなわち御杖代(みつえしろ)として奉仕して世の人々を導いてきました』と解説する(下線やぶちゃん)。]

 

 

Sec. 11

The priest Sasa also tells me this:

When Naomasu, grandson of the great Iyeyasu, and first daimyo of that mighty Matsudaira family who ruled Izumo for two hundred and fifty years, came to this province, he paid a visit to the Temple of Kitzuki, and demanded that the miya of the shrine within the shrine should be opened that he might look upon the sacred objects—upon the shintai or body of the deity. And this being an impious desire, both of the Kokuzo [13] unitedly protested against it. But despite their remonstrances and their pleadings, he persisted angrily in his demand, so that the priests found themselves compelled to open the shrine. And the miya being opened, Naomasu saw within it a great awabi [14] of nine holes—so large that it concealed everything behind it. And when he drew still nearer to look, suddenly the awabi changed itself into a huge serpent more than fifty feet in length; [15]—and it massed its black coils before the opening of the shrine, and hissed like the sound of raging fire, and looked so terrible, that Naomasu and those with him fled away -having been able to see naught else. And ever thereafter Naomasu feared and reverenced the god.

 

13 From a remote period there have been two Kokuzo in theory, although but one incumbent. Two branches of the same family claim ancestral right to the office,—the rival houses of Senke and Kitajima. The government has decided always in favour of the former; but the head of the Kitajima family has usually been appointed Vice-Kokuzo. A Kitajima to-day holds the lesser office. The term Kokuzo is not, correctly speaking, a spiritual, but rather a temporal title. The Kokuzo has always been the emperor's deputy to Kitzuki,—the person appointed to worship the deity in the emperor's stead; but the real spiritual title of such a deputy is that still borne by the present Guji,—'Mitsuye-Shiro.'

 

14 Haliotis tuberculata, or 'sea-ear.' The curious shell is pierced with a row of holes, which vary in number with the age and size of the animal it shields.

 

15 Literally, 'ten hiro,' or Japanese fathoms.

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