フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (一三)・(一四) | トップページ | 小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (一七) »

2015/09/15

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (一五)・(一六)

       一五

 

 宮司が指圖をすると、廣間の向うの端から不意に奇異なる奇異なる音樂が起つた――太鼓や竹の笛の音だ。振向いてみると、伶人がゐる。三人の男は座敷に坐し、一人の少女もこれに加つてゐる。宮司が更に合圖を與へると、少女が立つた。素足に、雪白の衣裳をつけた處女の巫女だ。白衣の裾の下からは、緋の絹の袴が光つてみえる。室の中央の小さな机に進み、下に垂れた小枝に、一々小鈴の附着せる木の枝の如き、異樣な器が載せてあるのを兩手で取つて、私が未だ見たことのないやうな神聖の踊を始めた。巫女の一擧一動は詩だ。それは彼女が非常に優美だからである。しかしその所作は、西洋でいふ意味の舞踏とは殆ど云へない。これは寧ろ圓の内を輕快敏速に歩行するやうなもので、その間一定の時間を置いては、器具を振つて鈴を悉く鳴らす。顏は綺麗な假面の如く疑然動かない。夢みる觀音の顏のやうに平靜で、うるはしく、白い足の線は大理石で刻んだ水精の像の如く淸らかだ。要するに、その雪のやうな衣、白い筋肉、冷靜な顏は大和少女と云はんよりは、寧ろ生きた美麗なる彫像のやうだ。して、始終不思議な笛は嗚咽したり、鋭い音を發したりして、太鼓の囁く音は呪文のやうであつた。

 私が見たのは、巫女の舞と呼ばれてゐる。

 

[やぶちゃん注:「伶人」老婆心乍ら、「れいじん」と読み、楽人(がくじん)、雅楽を奏する人をいう。

「小鈴の附着せる木の枝の如き、異樣な器」これは神楽舞(かぐらまい/後注参照)を舞う際、概ね巫女が手に持って鳴らすことから「巫女鈴(みこすず)」「神楽鈴(かぐらすず)」と呼ばれるものである。この鈴の音(ね)は強力な祓いの呪力を持つとともに神々を招き寄せる呪力を持つとされる。ウィキの「によれば、『中心となる棒に取っ手とその上部に』三段に分けて小さな鈴を十五個(上から各段に三個・五五・七個)を『付けた「七五三鈴」等が使われる』とある。三番叟でもお馴染みの鈴である。

「巫女の舞」ウィキの「巫女舞」より引く。巫女舞(みこまい)は「神子舞」とも書き、『巫女によって舞われる神楽の舞の一つ。巫女神楽(みこかぐら)・八乙女舞(やおとめまい)とも』呼ぶ。『古代日本において、祭祀を司る巫女自身の上に神が舞い降りるという神がかりの儀式のために行われた舞がもととなり、それが様式化して祈祷や奉納の舞となった。前者(「神がかり系」)においては古来の神がかりや託宣の儀式の形式に則って回っては回り返すという動作を繰り返しながら舞うことなどでその身を清めてからその身に神を降すという、その古態を残すところもあるが、現在では優雅な神楽歌にあわせた舞の優美さを重んじた後者(「八乙女系」)がほとんどである。千早・水干・緋袴・白足袋の装いに身を包んだ巫女が太鼓や笛、銅拍子などの囃子にあわせて鈴・扇・笹・榊・幣など依り代となる採物を手にした巫女が舞い踊る。また、関東地方の一部などでは巫女が仮面を嵌める場合もある。処女が巫女(八乙女)として舞を務める例が多いが、近年では神職の妻女や老女が舞う場合もある』。『巫女舞の原点は、降神巫(こうしんふ)による神がかりの儀式にあったといわれている。採物を手にした巫女がまず身を清めるための舞を舞い、続いて右回り左回りと順逆双方に交互に回りながら舞う。やがてその旋回運動は激しくなり、しだいに巫女は一種のトランス状態に突入して神がかり(憑依)、跳躍するに至って、神託を下すことになる。舞という言葉はこの旋舞の動きが語源であり、跳躍を主とする踊りもここから生まれたとされる。中国の巫覡の舞の基本を示した『八卦舞譜』には「陰陽を以て綱紀と為す」とあり、舞踏の動作は陰陽を意味する左旋と右盤を必須とすることが記されている。それは太極図が表現する天地がいまだ別れる以前の陰陽混然の姿を示しているとされる』。既に「古事記」「日本書紀」に於いて、『天岩屋戸の前で舞ったとされる天鈿女命の故事にその原型が見られ、その子孫とされた「猨女君」の女性達は代々神祇官の女官として神楽を奉納したとされている。平安時代の宮廷で舞われたとされる「猨女」・「御巫」(『貞観儀式』)はいずれも巫女舞であったと推定されている。『拾遺集』によれば』、延喜二〇(九二〇)年に『奈良の春日大社で「八乙女」と呼ばれる巫女達による神楽が舞われたと記録されている。平安時代末期の藤原明衡の著である『新猿楽記』には、巫女に必要な』四要素として『「占い・神遊・寄絃・口寄」が挙げられており、彼が実際に目撃したという巫女の神遊(神楽)はまさしく神と舞い遊ぶ仙人のようだったと、記している。また、少し後の時代に属する『梁塵秘抄』にある「鈴はさや振る藤太巫女」にも鈴を持ちながら舞い踊る巫女が登場する』。『中世以後各地の有力な神社では巫女舞が恒例となった。当時の巫女舞は旧来の神がかり的要素に加えて依頼者の現世利益を追求するための祈願を併せて目的としていたとされている。また、地方では修験者と巫女が結びついて祈祷や鎮魂を目的とする民間習俗の色彩が濃い巫女舞も行われるようになった。現在でも、祈祷・祈願自体を神楽、あるいは「神楽を上げる」と称する例があるのも、このことが基であると考えられる』。『中世の巫女舞に関する多くの史料が残されている備前国(岡山県)一宮の吉備津彦神社の例では』、康永元/興国三(一三四二)年作成の「一宮社法」によれば、十二名の『巫女からなる「神子座」があり、一宮の行事以外でも村々の招きに応じて神楽を舞い、逆に村々の巫女が一宮で舞う事があった。だが』、文明三(一四七一)年に作成された『「総社家社僧中神前御祈念之事等注文」によれば、巫女にも宮神子から選抜される一神子と一般の宮神子、村方の神子に分類され、一神子のみが本社で神楽を無言で舞うことが許され(託宣などの禁止)、宮神子は祈祷のみを許され、占い・託宣・湯立は脇殿で宮神子以外の者が行うことなどが定められて、神事に携わるものと託宣などを行うものが分離されるようになった』。『ところが、江戸時代後期に勃興した国学の中には、神霊の憑依などの霊的現象を淫祠邪教として否定的に捉える学説が現れるようになり、そのような民間習俗と結びつきやすい巫女そのものに対しても否定的な動きが出始め』、『明治維新を迎え、国学的な神道観を基に神社祭祀制度の抜本的な見直しが為されたが』、明治六(一八七三)年には『神霊の憑依などによって託宣を得る行為は教部省によって全面的に禁止された。これは巫女禁断令と通称される』。『禁止措置によって神社に常駐せずに民間祈祷を行っていた巫女は全面的に廃業となったが、中には神社に留まることによって活動を続ける者もいた。後、春日大社の富田光美らが、巫女の神道における重要性を唱えて巫女舞の存続を訴えると同時に同社ゆかりの「八乙女」による舞をより洗練させて芸術性を高める事によって巫女及び巫女舞の復興に尽くしたのである。これが今日見られるような巫女舞になっていくのであるが、依然として「神がかり」の系統を受け継いだ古い形の巫女舞を残している神社も僅かながら存在している』。『その一方で、島根県松江市の佐太神社のように男性神職が女装して姫面を付けて巫女舞を踊る神社も存在している』とある。]

 

 

Sec. 15

The Guji waves his hand, and from the farther end of the huge apartment there comes a sudden burst of strange music—a sound of drums and bamboo flutes; and turning to look, I see the musicians, three men, seated upon the matting, and a young girl with them. At another sign from the Guji the girl rises. She is barefooted and robed in snowy white, a virgin priestess. But below the hem of the white robe I see the gleam of hakama of crimson silk. She advances to a little table in the middle of the apartment, upon which a queer instrument is lying, shaped somewhat like a branch with twigs bent downward, from each of which hangs a little bell. Taking this curious object in both hands, she begins a sacred dance, unlike anything I ever saw before. Her every movement is a poem, because she is very graceful; and yet her performance could scarcely be called a dance, as we understand the word; it is rather a light swift walk within a circle, during which she shakes the instrument at regular intervals, making all the little bells ring. Her face remains impassive as a beautiful mask, placid and sweet as the face of a dreaming Kwannon; and her white feet are pure of line as the feet of a marble nymph. Altogether, with her snowy raiment and white flesh and passionless face, she seems rather a beautiful living statue than a Japanese maiden. And all the while the weird flutes sob and shrill, and the muttering of the drums is like an incantation.

What I have seen is called the Dance of the Miko, the Divineress.

 

 

        一六

 

 それから私共は大社に屬する他の建物――寳庫、書庫、集會所――を巡覽した。集會所は二階建の堅固な構造で、三十六歌仙の繪があつた。土佐光起の筆で、數百年後の今日猶立派に保存されてゐる。こゝで私共はまた、大社から毎月發行する珍らしい雜誌を示された――神道に關する時報で、また古典に關する質疑應答の機關である。

 私共が社殿の一切の珍什を見てから、宮司は此に近い彼の私邸へ私共を招いて、他の寳物を見せた。賴朝や秀吉や家康の書簡、昔の天皇の御宸翰、大將軍の直筆のもの、かやうな貴重文所が、夥しく杉の櫃に收めてある。火事の際は、直ぐさまこの櫃を安全の地に遷すことが召使どもの第一の任務であるだらう。

 自宅でたゞ普通の日本式正服を着てゐる宮司は、一個の紳士としても、始め宮司として、その大きな白袍を着たのに劣ることなく莊嚴に見えた。が、いかなる主人公もこれほど親切で、丁寧且つ寛大なるは稀れだらう。私はまた今は宮司と同じく日本服に着更へた、若い神官達の立派な姿なのに感心した。普通人と異つて、美はしい、鼻の高い、貴族的な顏――神官よりは寧ろ軍人の如き顏であつた。一靑年は日本で滅多に見られない、堂々たる繁つや黒鬚を持つてゐた。

 別れるに臨んで、親切なる主人公は御符――杵築の主神の二つの美しい畫像――と、社殿並に寳物の歷史に關する數個の書類を私に與へた。

 

[やぶちゃん注:「土佐光起の筆」「三十六歌仙の繪」不審である。実はこの出雲大社が蔵していた土佐光起筆とされる「三十六歌仙図」は、何と、長い間、秘蔵されていたもので、三年前の二〇一二年になって初めて実物が公開されて、専門家にもそこで初めて存在が明らかになったものだからである。以下にその秘蔵が厳しいものであったは、「島根県立古代出雲歴史博物館」公式サイト内の『特別展 平成の大遷宮 出雲大社展 展示替え(三十六歌仙図額について)というニュース(特別展からこれは二〇一三年のものと思われる)に、『土佐光起』『の新出作品。これほどの出来の優品が秘蔵されていたのだから出雲大社は懐が深い』と述べていることからも分かる。即ち、公立の専門機関でさえ存在を知らなかったということになるのである。所蔵を出雲大社として物は『三十六歌仙図額 三十六面/土佐光起筆』、大きさは全三十六完備(但し、後で引用するように手が加えられている)で面各縦五十九・二センチメートル/横三十七・八センチメートルで、江戸時代十七世紀の成立とし、この図では『十八歌仙は向かって右側(神様からみれば左)に、右十八歌仙は左側に配して奉納され、その順番は、左右の接する中央から外側に向かって並』んでおり、『一部作品の裏面に「土佐左近衛将監光起図」の落款がある。筆跡は土佐光起の手になるものとみてよい』とほぼ断定している。『各図は、板に白色顔料で下地を作った上に濃彩で描かれ、上部の和歌は、金泥による細やかな装飾をほどこした料紙にしたためられ、板に貼り付けられて』おり、『歌仙像の均整のとれた身体の造形、丹念に描きこまれた衣裳の繊細な文様描写、優美な配色、深みのある表情を表現しえた繊細精緻な面貌描写など、画面は本格的な大和絵技法と画家のすぐれた造形感覚に支えられている』が、『残念ながら多くの図で和歌部分が意図的に切り取られており(別に仕立てられたか)、賛者の検討は難しい』とあるのである。このハーンの言う「集會所」なるものが、何処にあった如何なる施設であったかは今一つ定かでないのであるが、“the hall of assembly”という英訳といい、出雲大社が初めて迎えた初めての西洋の異人であるにも拘わらず、彼が普通に入れて普通に見れたというのは、どう考えてみても秘蔵中の秘蔵品扱いのそれには見えないではないか!? そもそもハーンがここでそれを見たと書いているのに、今頃になって「新発見!」などと騒いでいるというのはどういうことか? ハーンのこの記載を専門家の誰一人として問題にせず、出雲大社に本図があることを照会してこなかったというのは、信じ難いことではないか!? いや! ハーンが見ても、ただの「集會所」にしか見えないような普通の場所に本図が飾ってあったのなら、何らかの機会にその存在は早くに広く知られることとなり、専門家の間にあっても周知の事実としてあったはずである。この私の不振と疑問にお答え戴ける識者を是非とも乞うものである。「土佐光起」(とさのみつおき 元和三(一六一七)年~元禄四(一六九一)年)は江戸時代の土佐派を代表する絵師で和泉国堺生まれ。以下、ウィキ土佐光起によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、寛永一一(一六三四)年十数え八歳の時、『父に従い京都に移り、承応三(一六五四年)三月十日、三十八歳で従五位下左近衛将監に叙され、この時、永禄十二年(一五六九年)土佐光元の戦死以来失われた宮廷の絵所預』(えどころあずかり)の『職に八十五年ぶりに復帰したと考えられる。この職を取り戻すのは土佐家の悲願であり、光起を「土佐家中興の祖」と呼ぶのもこれ故である。同年からの京都御所造営では如慶と共に参加し、襖絵、杉戸絵を制作した。後水尾天皇の覚えが厚く、光起は改めて自邸に絵所の称号を勅許され、「勅許画院」の印象を用いるのを許可された。のちの延宝九年(一六八一年)息子光成に宮廷絵所預の地位を譲り、五月二十九日法橋となり剃髪、法名を常昭とし、春可軒と号す。貞享二年(一六八五年)四月十二日には法眼に叙した』。『大和絵の主流だった土佐派にあきたらず、ライバルの狩野派や宋元画を学び、従来の温雅なやまと絵に克明な写生描法を取り入れ、江戸時代の土佐派様式を確立した。特に南宋の院体画家李安忠の「鶉図」(国宝。現在は根津美術館蔵)を父譲りの細密描法を用いてしばしば描き、後の土佐派の絵師たちに描き継がれている。江戸中期の国学者、有職故実家である橋本経亮は著書『梅窓筆記』(享和元年(一八〇一年))で、光起の鶉の絵に猫が飛びかかったという伝承を記している。また画題の面でも、風俗画や草木図などそれまで土佐派が描かなかった題材を取り上げ、清新な画風を作り出し、土佐派の再興に成功した』とある。

「大社から毎月發行する珍らしい雜誌」思うにこれは、千家尊紀の兄尊福(たかとみ)が起こした出雲大社教(いずもおおやしろきょう)の刊行物ではなかろうか。同教団は現在も出雲大社社務所が本部であり、管長職も千家家が代々世襲している。

「白袍」「はくはう(はくほう)」と音読みしておく。本邦に於いて衣冠束帯などの正式な制服に於いて着用する盤領(まるえり)の上衣を「袍」という。「うえのきぬ」とも称し、身分・位階・職掌、文官・武官、年齢などによって色や生地などの細かな定めや別がある。

「御符――杵築の主神の二つの美しい畫像――」事代主神(恵比寿様(よう))及び大国主命(大黒様(よう))の神像を描いた御札であるが、これは現行では、一枚に描いた(刷った)ものではなく、別々のもののように思われ、また、現行では少なくとも港区六本木にある「出雲大社東京分祠」公式サイトの御札・御守を見ても表立って販売をしていないように見える(但し、出雲大社では見当たらず、この東京分祠(とても小さいらしい)で手に入れた、という神像画像が個人ブログ「WoodySnow」の六本木 出雲大社東京分祠で見られるので、手には入るようである)。]

 

 

Sec. 16

Then we visit the other edifices belonging to the temple: the storehouse; the library; the hall of assembly, a massive structure two stories high, where may be seen the portraits of the Thirty-Six Great Poets, painted by Tosano Mitsu Oki more than a thousand years ago, and still in an excellent state of preservation. Here we are also shown a curious magazine, published monthly by the temple—a record of Shinto news, and a medium for the discussion of questions relating to the archaic texts.

After we have seen all the curiosities of the temple, the Guji invites us to his private residence near the temple to show us other treasures— letters of Yoritomo, of Hideyoshi, of Iyeyasu; documents in the handwriting of the ancient emperors and the great shoguns, hundreds of which precious manuscripts he keeps in a cedar chest. In case of fire the immediate removal of this chest to a place of safety would be the first duty of the servants of the household.

Within his own house the Guji, attired in ordinary Japanese full dress only, appears no less dignified as a private gentleman than he first seemed as pontiff in his voluminous snowy robe. But no host could be more kindly or more courteous or more generous. I am also much impressed by the fine appearance of his suite of young priests, now dressed, like himself, in the national costume; by the handsome, aquiline, aristocratic faces, totally different from those of ordinary Japanese- faces suggesting the soldier rather than the priest. One young man has a superb pair of thick black moustaches, which is something rarely to be seen in Japan.

At parting our kind host presents me with the ofuda, or sacred charms given to pilgrimsh—two pretty images of the chief deities of Kitzuki— and a number of documents relating to the history of the temple and of its treasures.

« 小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (一三)・(一四) | トップページ | 小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (一七) »