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2015/09/12

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (七)

        七

 

 昨夕私が歎賞した華麗な靑銅の鳥居の下をまた通る時、大社へ達する門路が晝間見ても、その壯觀を左ほど減じないのには、愉快なる驚きを感じた。樹木の莊嚴は、依然として驚くべきものであつた。並木路の通景は壯大で、左右の廣い森や神域は、想像してゐたよりも一層強い印象を與へた。幾多の參詣者が往來してゐる。が、國中から人出があつても、かゝる並木道は押し合ふことなく通れるだらう。第一の苑の門前で、盛裝の齋服を着た神官が、私共を迎へた。愉快な親切らしい顏をした老人であつた。使者は私共をこの人に渡して置いて、門から去つて了ひ、佐々といふ、その老神官【譯者註】が私共を導いて行つた。

 

    譯者註。杵築の國學者佐々鶴城と

    いつた人。

[やぶちゃん注:「佐々鶴城」の「鶴」は底本では字の上半分弱が甚だしく欠損していて(活字の上に何らかの付着物があってそれを挟まれたまま印刷されたものか)、判読困難であった。四百倍に拡大して見ると(つくり)はその下部から高い確率で「鳥」であると思われ、(へん)は左側の欠損付近から左下に有意に払う画があること、それ以外の(つくり)全体は方形に規則正しい井桁状の影が見えることから「鶴」と仮に判読し、「佐々鶴城」でネット検索をかけた結果、当該人物として極めてよく合致する「佐々鶴城」なる国学者で出雲大社の神職でもあった人物(後注参照)を発見したため、「佐々鶴城」で採った。大方の御批判を俟つ。

 

 社の境内では最早激浪の寄せるやうな重い音が聞える。進むに從つて音は鋭く、分明になつた――一齊に鳴る拍子の響だ。それから大きな門を過ぎると、昨夜私が見た、あの大社殿の前には、幾千の參拜者が見えた。誰もその中へは入らない。すべて群龍の彫まれた門の前に立つて、敷居の前に据ゑられた賽錢凾の中へ、献金を投げる。それは大概小錢だ。極貧のものは、唯だ一握の米を投げ込む。それから拍手稽首、恭しく邦殿を越えて向うの、更に高い建物、最も神聖な社段を凝視する。參拜者は銘々そこに霎時停まつて、四度拍手をするのみであるが、來たり往つたりするものが、非常に多いので、拍手の音は瀑布のやうだ。

 

    註。富豪は隨分多額の寄附をする。

    寄附者の人名と金額を記した拜殿の

    外にある木札には、最近千圓の寄附

    者が數人あつたことを示してゐた。

    五百圓の寄附額は左程珍らしくない。

    高等の官吏の寄附は、五十圓を下る

    のは稀れだ。

 

 多くの參拜者の側を過ぎて、社殿の向側へ出ると、至聖所へ通ずる鐡柵を施した廣い石段の下へ來た。私より以前に歐洲人は一人も、この石段に近寄ることは許されなかつたのだ。下段に正式の儀式服を着けた神官が數名私共を迎へてゐた。靑紫と紫色の絹に、金龍の模樣を織つた衣を着けた、丈の高い人々であつた。彼等の高い奇異な鳥帽子、ゆつたりした美しい裝束、また彼等が古代希臘に於ける教僧の如くに、嚴肅不動な姿勢は、一見彼等を唯だ不思議な彫像と見えしめた。兎に角、私は子供の時に、いつも驚嘆し乍ら眺めた佛國の奇異なる版畫に、アツシリヤの占星者の一團が畫いてあつたのを、不意に想ひ起した。しかし彼等の眼は、私共が近寄ると共に動いた。私が石段に達すると、彼等は私に對して、一齊に最も丁寧な禮をした。何故となれば、私は彼等の主人――太陽の女神の後裔で、この古い國の僻陬に住む幾萬の賤しい崇拜者からは、今猶生き神と呼ばれてゐる、尊い祭司と、しかもこの神聖なる社殿に於て、面會の特權に與る始めての外國人の參拜者であるからだ。敬禮が終はると、彼等はまた全然彫像的の態度に返つた。

 靴を脱いで階段を登らうとすると、初めに門前で私共を迎へた長身の神官が、社殿へ昇る前には、宗教の上からも舊慣の上からも、潔齋ど行ふべきだといふことを、簡單な意味深い身振りで示した。私が手を差し出すと、神官が長い柄のついた竹製の杓子のやうな器から淸水を注いで、手を拭くために小さな靑色の手拭を呉れた。この手拭は寄進の品であつて、妙な白い文字が書いてあつた。それから私共は登つて行つたが、私は洋服の體裁の拙さに恐縮して、無作法な野蠻人のやうに自分が思はれた。

 階段の頂上で立佇つて、神官は私の社會的階級を質ねた。何となれば杵築に於ては、階級組織友び階級的儀式が、神代に於ける如く正確嚴重に維持されてゐて、また、社會各階級の參拜人の待遇に對して、特別な儀式や規則があるからだ。私は晃が私の身の上について、いかなるお世辭を、善良なる神官に陳べ立てたかを知らない。が、結局私はたゞ普通人民といふ階級に位することとなつた――疑もなく、この正直な事實のために、私は儀式作法の困惑を感じないで濟んだ。世界で日本人が最も得意な精細複雜の儀禮に就ては、私はまだ全く無智であつたから。

 

[やぶちゃん注:「佐々鶴城」(さつさたづき(さっさたずき) 天保九(一八三八)年~明治三八(一九〇五)年)は神職で国学者。名は寿忠・易直。通称、鉄之丞。別号は藤壺など。なお、本文内の私の字注も必ず参照のされたい。生家は出雲大社社家で、ここに出る宮司出雲大社第八十一代千家尊紀(せんげたかのり)の祖父である第七十八代出雲国造尊孫

【・千家尊孫(たかひこ 寛政八(一七九六)年~明治五(一八七三)年)は歌学に秀で、香川景樹らと交わり、出雲付近の歌道の発達に尽力した。著書に「比奈の歌語」「八雲集」等がある(ここは思文閣「美術人名辞典」に拠った)。】

及び第七十九代出雲国造であった尊澄

【・千家尊澄(たかずみ 文化一三(一八一六)年~明治九(一八七八)年)は尊孫の子で、尊紀の父である。】

親子や、国学者で神道家であった大国隆正

【・大国隆正(おおくにたかまさ 寛政四(一七九三)年~明治四(一八七一)年)はウィキの「大国隆正」によれば、元石見津和野藩士であったが同僚の誹謗に憤って脱藩、後に播磨小野藩主一柳末延の招請を受けて藩校帰正館を開校したり、姫路藩に招かれて和学校好古堂で国典を講じたり、更に備後福山藩主阿部正弘からも招かれて藩校誠之館でも教えたりした。そのうちに皇道の復興を主張するとともに「尚武の国体」を講明する「倭魂(やまとごころ)」を著わすなどしたため、幕府からの処罰受けかねない事態となったが、知遇を得た徳川斉昭の庇護下、辛くも捕縛を免れた。嘉永三(一八五〇)年に関白鷹司政通に謁見、それを機に、宮中に於いて皇典を講じ、皇室の復興を説いた。翌嘉永四年には津和野藩主亀井茲監の命で藩籍が復され、藩黌養老館国学教師となっている。嘉永六(一八五三)年、ペリーの来航を耳にするや、「文武虚実論」六巻を上梓、その中で海防の要は虚文虚武を斥けて実文実武を努めるにあると主張、『和魂を鞏固にし以って我が国を宇内に冠絶させるべきであるとした』。安政二(一八五五)年には「本学学要」二巻を著わして、『我が国が宇内万国に卓絶する所以を述べ、天壤無窮の皇位は世界万国に君臨すべき神理があると説いた』。『明治元年に大国は徴士』(明治初期に政府に召し出された議事官で、諸藩士・庶民から有能な者が選ばれ、議事所で国政の審議を担当した官吏)『となり、明治維新を経て神祇事務局権判事になるも老齢故に職を辞し、神祇局の諮問役になった』とある。】

らに国学や歌学を学んだ。明治初期に教部省(宗教統制による国民教化の目的で設置された中央官庁組織)に勤務し、『島根県日御碕(ひのみさき)神社宮司などを歴任、晩年は出雲大社主典となった

【・「主典」しゅてん:官幣社・国幣社に於いて禰宜 (ねぎ) の下にあって祭儀や庶務を執行した判任官〔これは明治前期の官吏の身分の一つで、天皇の委任を受けた各大臣・各地方長官など行政官庁の長によって任命された官。高等官(親任官・勅任官・奏任官)の下に位した〕待遇の神職を指す。】

『著作に「梅舎大人略伝」「皇国名義考」など』がある(以上の佐々鶴城の事蹟は主に講談社「日本人名大辞典」に拠り、細部を別データで確認・補填したものである。読み易くするために補填注は改行し【 】で示した。下線はやぶちゃん)。なお万一、これが彼でない場合は至急、御教授を願うものである

「霎時」既注であるが再掲する。「せふじ(しょうじ)」と読む。「暫時」に同じい。暫くの間。ちょっとの間。「霎」はさっと降っては直ぐ止む小雨、通り雨を原義とし、そこから瞬く間、しばしの意となった。

「千圓」多くの換算サイトや記載があるが、異様に幅があり過ぎ、また実際に計算してみてもその通りにならなかったりする。かなり確度が高いと私が判断したものは明治二〇(一八八七)年の一円を今日の八千七百円と換算するもので、これだと当時の一〇〇〇円は八百七十万円になるから、「左程珍らしくない」「寄附額」という「五百圓」は四百三十五万円。「高等の官吏の寄附」の下限とする「五十圓」は四十三万五千円という計算になる(但し、物価指数が現在とは著しく異なるから印象的には「千圓」や「五百圓」という高額換算はこれよりも遙か下に見た方が現実的かも知れない)。

「至聖所」御本殿。

「古代希臘に於ける教僧」この前後は原文では“the solemn immobility of their hierophantic attitudes”で(「彼等が古代希臘に於ける教僧の如くに、嚴肅不動な姿勢」に相当)、この内の形容詞化されているその元である名詞“hierophant”が、古代ギリシアに於ける秘儀の祭司を指す(他に、英和辞典には「秘儀の解説者」であるとか「日常の出来事の解釈・注釈者」という訳を載せる)。あまり聴き慣れない単語であるが、実はタロット・カードの五の「法王」或いは「司祭長」と呼ばれるカードには、まさに“HIEROPHANT”と記されているのである。

「佛國の奇異なる版畫に、アツシリヤの占星者の一團が畫いてあつたの」不詳。識者の御教授を乞う。少年ハーンがいつも見つめていたそれ――大いに気になるではないか――
 
「僻陬」「へきすう」と読み、「僻地」に同じい。「陬」は片隅・片田舎の意で、「陬遠」「西陬」「辺陬」等の熟語がある。但し、「スウ」という音は慣用音で本来は「シュ/ス」が正しい。

 

 

Sec. 7

I am agreeably surprised to find, as we pass again under a magnificent bronze torii which I admired the night before, that the approaches to the temple lose very little of their imposing character when seen for the first time by sunlight. The majesty of the trees remains astonishing; the vista of the avenue is grand; and the vast spaces of groves and grounds to right and left are even more impressive than I had imagined. Multitudes of pilgrims are going and coming; but the whole population of a province might move along such an avenue without jostling. Before the gate of the first court a Shinto priest in full sacerdotal costume waits to receive us: an elderly man, with a pleasant kindly face. The messenger commits us to his charge, and vanishes through the gateway, while the elderly priest, whose name is Sasa, leads the way.

Already I can hear a heavy sound, as of surf, within the temple court; and as we advance the sound becomes sharper and recognisable—a volleying of handclaps. And passing the great gate, I see thousands of pilgrims before the Haiden, the same huge structure which I visited last night. None enter there: all stand before the dragon-swarming doorway, and cast their offerings into the money-chest placed before the threshold; many making contribution of small coin, the very poorest throwing only a handful of rice into the box. [10] Then they clap their hands and bow their heads before the threshold, and reverently gaze through the Hall of Prayer at the loftier edifice, the Holy of Holies, beyond it. Each pilgrim remains but a little while, and claps his hands but four times; yet so many are coming and going that the sound of the clapping is like the sound of a cataract.

Passing by the multitude of worshippers to the other side of the Haiden, we find ourselves at the foot of a broad flight of iron-bound steps leading to the great sanctuary—steps which I am told no European before me was ever permitted to approach. On the lower steps the priests of the temple, in full ceremonial costume, are waiting to receive us. Tall men they are, robed in violet and purple silks shot through with dragon-patterns in gold. Their lofty fantastic head-dresses, their voluminous and beautiful costume, and the solemn immobility of their hierophantic attitudes make them at first sight seem marvellous statues only. Somehow or other there comes suddenly back to me the memory of a strange French print I used to wonder at when a child, representing a group of Assyrian astrologers. Only their eyes move as we approach. But as I reach the steps all simultaneously salute me with a most gracious bow, for I am the first foreign pilgrim to be honoured by the privilege of an interview in the holy shrine itself with the princely hierophant, their master, descendant of the Goddess of the Sun—he who is still called by myriads of humble worshippers in the remoter districts of this ancient province Ikigami, 'the living deity.' Then all become absolutely statuesque again.

I remove my shoes, and am about to ascend the steps, when the tall priest who first received us before the outer gate indicates, by a single significant gesture, that religion and ancient custom require me, before ascending to the shrine of the god, to perform the ceremonial ablution. I hold out my hands; the priest pours the pure water over them thrice from a ladle-shaped vessel of bamboo with a long handle, and then gives me a little blue towel to wipe them upon, a Votive towel with mysterious white characters upon it. Then we all ascend; I feeling very much like a clumsy barbarian in my ungraceful foreign garb.

Pausing at the head of the steps, the priest inquires my rank in society. For at Kitzuki hierarchy and hierarchical forms are maintained with a rigidity as precise as in the period of the gods; and there are special forms and regulations for the reception of visitors of every social grade. I do not know what flattering statements Akira may have made about me to the good priest; but the result is that I can rank only as a common person—which veracious fact doubtless saves me from some formalities which would have proved embarrassing, all ignorant as I still am of that finer and more complex etiquette in which the Japanese are the world's masters.

 

10 Very large donations are made to this temple by wealthy men. The wooden tablets without the Haiden, on which are recorded the number of gifts and the names of the donors, mention several recent presents of 1000 yen, or dollars; and donations of 500 yen are not uncommon. The gift of a high civil official is rarely less than 50 yen.

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