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2015/10/18

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (一) / “Glimpses of Unfamiliar Japan”第二巻 「知られぬ日本の面影 下卷」開始

[やぶちゃん注:以下、小泉八雲著落合貞三郎訳の「知られぬ日本の面影 下卷」(原典“Glimpses of Unfamiliar Japan”の第二巻(全二巻構成))に入る。

 第遺憾と同様に、底本は国立国会図書館デジタルライブラリーの画像を視認した。訳文の後に、“Project Gutenberg” の“Hearn,
Lafcadio, 1850-1904 ¶”
から当該箇所の原文(及び、ある場合は原注も)を附した。踊り字「〱」「〲」は正字化し、清音の踊り字「〻」は私が嫌いなので「ゝ」とした(濁音では「ゞ」を用いているので統一したかったからでもある)。傍点「ヽ」は太字とした。明らかな誤字は注せずに訂した。禁欲的に注を附した。

 なお、底本の書誌データでは落合一人が著者(訳者)としてあるが、実は本パートの総表題頁の見返しには「譯者」として「落合貞三郎」の他に「大谷正信」と「田部隆次」の名が併記されてある。

 英文学者大谷正信(明治八(一八七五)年〜昭和八(一九三三)年:パブリック・ドメイン)は松江市生まれで落合同様、松江中学のハーンの教え子で、東京帝大英文科入学後もハーンの資料収集係を勤め、後に金沢の四高の教授などを勤めた(室生犀星は彼の弟子とされる)。また、京都三高在学中に虚子や碧梧桐の影響から句作を始めて子規庵句会に参加、繞石(ぎょうせき)の俳号で子規派俳人として知られる。

 一方、英文学者田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年:パブリック・ドメイン)は富山県生まれで、東京帝国大学英文科でハーンに学び、後にはハーン研究と翻訳で知られた。富山高等学校(現在の富山大学)にハーンの蔵書を寄贈、「ヘルン文庫」を作った。女子学習院教授を勤めた。

 孰れも没年でお分かりの通り、その著作や訳文は落合貞三郎同様にパブリック・ドメインである。今まで標題を『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」』としてきたが、問題があるので、以降は『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」』とする。但し、面倒なため、これまでの表題は変更しない。悪しからず。] 

 

      第十六章 日本の庭

       一

 大橋川のほとりの自分の小さな二階家は、鳥籠のやうにちんまりとした家ではあるが、暑氣が近づくと部屋の高さが蒸汽船の船室(ケビン)と殆んど同じで、普通の蚊帳が吊られぬ程狹いのだから――樂(らく)に暮すには餘り小さ過ぎることが知れた。自分は湖水の美しい眺望を失ふ事は遺憾であつたが、市の北部へ、崩れかかつて居る城の背後の頗る閑靜な町へ、轉居するの必要を感じた。自分の今度の家は或る高位のサムラヒの昔の住宅で、カチウヤシキである。城のお濠の緣にある街路、いなむしろ道路とは、上を瓦が蔽うて居る長い高い壁で仕切られて居る。お寺の入口にあるのと殆んど同じ大きさの門口へ、低い幅廣い石段で昇つて行く。その門の右手に、壁から突き出て、太い棧のある、大きな木造の籠のやうな、見張窓がある。封建時代には、其處から、武裝した家來が前を通る總ての人――棧は密に設けてあつて、その後ろに居る人の顏は、道路からは見えぬのだから、目に見えぬ見張を――嚴しい見張を、いつもして居たものである。門の内側の、住所へ行くまでの處にもまた兩側に壁があるから、客は、許可を得なければ、何時も白いシヤウジが締まつて居る家の入口を己が前に見得るだけである。あらゆるサムラヒの家同樣、住宅そのものはただ一階建であるが、内には部屋が十四あつて、その部屋々々は高く、廣く、また美しい。悲しいかな、湖水の見晴らしも無ければ、惚々するやうな眺望も何一つ無い。松樹の遊苑に半ば隱れた城がその頂上にある、オシロヤマの一部が、前側の壁の屋根の上に見える。が、それはたゞ一部分だけである。そして家の後ろのつい百ヤアド許りの處には、樹木の繁つた岡が在つて、地平線を遮斷して居るばかりでは無く、同樣にまた空の大郡分をも仕切つて居る。が、然しこの幽閉には、この住宅の三方を取卷く非常に美しい庭といふ、否、むしろ一と續きの庭地といふ、佳い代償が存在して居る。幅廣い緣側からそれが見渡されるし、緣側の或る一角からは二つの庭を同時に眺め樂しむことが出來る。門の無い廣い出入口が眞ン中にある、竹と編んだ藺草との障壁が、この遊園の三區の境界を示して居る。が、この構作物(つくりもの)は眞の壁の役をさせる積では無い。それは裝飾的なもので、或る式の風景の庭造りが何處に終り、他の式の風景の庭造りが、何處から始まるかを表すだけのものである。

[やぶちゃん注:既に注しているが、再度述べると、ハーンは来日した明治二三(一八九〇)年四月四日から凡そ四ヶ月後の七月に島根県尋常中学校(松江中学校)・師範学校の英語教師に任命され、同八月三十日に大橋川を経て汽船で午後四時に松江に着くと、大川北詰直近の富田旅館に投宿、そのままそこを住まい代わりとしたが、同年の十月か十一月頃、富田旅館からほど近い大橋川側の織原氏方の離れ座敷に移っている。その後、翌明治二十四年の六月二十二日には、ここに語れた松江城の真北、城の堀直近に位置する北堀町にあった根岸方に転居した(この間、同年一月か二月には後に妻となるセツが住み込み女中としてハーンの許に入っている)。以上は、たびたびお世話になっている「八雲会」公式サイト内の小泉八雲の松江時代の略年譜に拠った。現在、この屋敷の西側に小泉八雲記念館が建つ(但し、現在の同記念館の住所は松江市奥谷町であるが、地図を見ると、この記念館の東側に町域の境があって旧居は現行の区画上でも北堀町である)。

「サムラヒ」「シヤウジ」無論、「侍」「障子」である。これは、底本には訳出分担が明確に示されていないものの、底本末尾にある後記を見ると、この章の訳は大谷正信氏が担当されたものと推定出来、彼の訳出する上でのポリシーのように思われる。或いは、訳出分担が明確に示されていないものの、。原文にちゃんと歴史的仮名遣で表記されていること、ちゃんと出雲の方言が保存されていること(次注参照)を示されたかったのかも知れない。ここ以前もそうなのであるが、原本Internet Archive版)を見ると当時は通常使用しなかったであろう長音符“ū”が、例えば次の“katchiū-yashiki”には使用されているのが現認出来る(ブログ版では上記のベタ・テクストを原則、使用しているが、時々、斜体などの気になった箇所は上記リンク先の原本と照合して直した箇所もある。但し、厳密にやると時間がかかることから、極めて不完全で気まぐれなので注意されたい)。

「カチウヤシキ」平井呈一氏の訳では『甲冑(かちゅう)屋敷』となっている。武家屋敷のことと判断出来るが、気になって調べてみたところ、二〇一三年二月八日に開かれた平成二十四第二松江歴史推進協議会議事録概要版を見ると(PDF版)、その中で乾隆明委員の方の意見発言に、『「武家屋敷」という呼び名は標準語的な言い方で、昔の松江の人は 藤甲冑(かちゅう)屋敷」と呼んでいた。 亡くなったばあさんも「甲冑(かちゅう)屋敷」と呼んでいた。』という下りがあるのを発見した。

「壁から突き出て、太い棧のある、大きな木造の籠のやうな、見張窓がある」物見窓(ものみまど)のこと。モースの言うように監視や外の様子を見るために設けた窓で、城・武家屋敷・大名駕籠などにつけられた。

「オシロヤマ」お城山。松江城一帯の高みのこと。

「百ヤアド」九十一・四四メートル。

「丘」ここにはまさに現在、ハーンが勤めた松江中学校の後身である県立松江北高等学校が建っている。但し、ハーンが勤務した当時の松江中学は同校公式サイトの沿革を見る限りでは別な場所(現在の松江城南直近の松江市殿町(とのまち)にある島根県警本部庁舎が当時の旧跡地である)にあった。

「式」庭園造作の式法のこと。三つの庭は微妙に異なった造園法で作られていたらしい。] 

 

Glimpses
of Unfamilar Japan

Second Series
by
Lafcadio Hearn

 

 

 

Chapter One

In a Japanese Garden

Sec. 1

 

MY little two-story house by the Ohashigawa, although dainty as a bird- cage, proved much too small for comfort at the approach of the hot season—the rooms being scarcely higher than steamship cabins, and so narrow that an ordinary mosquito-net could not be suspended in them. I was sorry to lose the beautiful lake view, but I found it necessary to remove to the northern quarter of the city, into a very quiet Street behind the mouldering castle. My new home is a katchiū-yashiki, the ancient residence of some samurai of high rank. It is shut off from the street, or rather roadway, skirting the castle moat by a long, high wall coped with tiles. One ascends to the gateway, which is almost as large as that of a temple court, by a low broad flight of stone steps; and projecting from the wall, to the right of the gate, is a look-out window, heavily barred, like a big wooden cage. Thence, in feudal days, armed retainers kept keen watch on all 
who passed by—invisible watch, for the bars are set so closely that a face behind them cannot be seen from the roadway. Inside the gate the approach to the dwelling is also walled in on both sides, so that the visitor, unless privileged, could see before him only the house entrance, always closed with white shoji. Like all samurai homes, the residence itself is but one story high, but there are fourteen rooms within, and these are lofty, spacious, and beautiful. There is, alas, no lake view nor any charming prospect. Part of the O-Shiroyama, with the castle on its summit, half concealed by a park of pines, may be seen above the coping of the front wall, but only a part; and scarcely a hundred yards behind the house rise densely wooded heights, cutting off not only the horizon, but a large slice of the sky as well. For this immurement, however, there exists fair compensation in the shape of a very pretty garden, or rather a series of garden spaces, which surround the dwelling on three sides. Broad verandas overlook these, and from a certain veranda angle I can enjoy the sight of two gardens at once. Screens of bamboos and woven rushes, with wide gateless openings in their midst, mark the boundaries of the three divisions of the pleasure-grounds. But these structures are not intended to serve as true fences; they are ornamental, and only indicate where one style of landscape gardening ends and another begins.

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