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2015/10/31

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (一〇)

       一〇

 

 夏の始には蛙が驚く許り澤山で、暗くなつてからは言語に絶して騷々しい。が、多くの敵の攻擊を受けてその數が減るに連れて、週一週とその夜の喧噪が弱くなる。蛇の、中に

は長さたつぷり二尺はある蛇の、大家族がその群落へ時折侵入する。被害者は屢々憫れな叫び聲を發する。と、出來る場合には何時も、家の者誰かが直ぐに返事する。自分の下女の爲め生命の助かつた蛙は澤山居る。下女は竹の杖を輕く叩いて、蛇にその犧牲を放さざるを得ぬやうにするのである。此等の蛇は泳ぎが上手である。庭のあたりで勝手な振舞ひをするが、暑い日にだけ出て來る。自分の家の者は誰一人、その一匹も害しようとか殺さうとか考へもせぬ。もつとも、出雲では、蛇を殺すのは不吉だといふ。或る百姓が『原因(いはれ)無しに蛇を殺すと、後(あと)でその蓋を取るとコメビツ〔炊(ひさ)ぐ米を容れて置く箱〕の中にその首がありますよ』と自分に確言した。

 然し蛇は割合に蛙を食ふことが少い。圖々しい鳶と鴉とが、その最も執念深い驅逐者である。それにまたクラ(庫)の下に棲んで居る頗る可愛らしい鼬が居て、家の主人が見張りして居る時でも、躊躇なしに池から魚でも蛙でも取る。その上に自分の禁獵場で密獵する猫が一匹居る。瘦せせこけた浮浪者で、大盜人で、自分は色々と手段を講じで無賴を直(なほ)さうとしたが駄目である。一つにはこの猫が不行狀であるのと、また一つにはそれが偶々長い尾を有つて居るのとで、ネコマタ即ち化猫だといふ惡評を受けて居る。

 出雲には生まれ落つるから、尾の長い小猫が居るには居る。が、尾を長くした儘で生長せしめられることは滅多に無い。猫は本來化物になる傾向を有つて居るもので、この變態傾向は、其尾を子猫時代に切らなければ阻止することが出來ぬ。猫は、尾があらうが尾が無からうが、魔物で、屍骸を踊らせる力を有つて居る。猫は恩知らずである。『犬に三日物を食はせると、その親切を三年間覺えて居る。猫に三年間物を食はせても、その親切を三日で忘れる』と日本の諺は言うて居る。猫はいたづら者で、疊を破り、シヤウジに穴を明け、トコノマの柱でその瓜を磨ぐ。猫は呪を蒙つて居る。猫と毒蛇だけが佛陀が死なれた時泣かなかつた。だから猫と毒蛇とはゴクラクの至福を受けることは出來ぬ。こんなやうな理由と、また語るには餘りに多い他の理由とで、猫は出雲では大して可愛がられぬから、その生涯の大部分は餘儀なく戸外で過ごす。

 

[やぶちゃん注:「二尺」六〇・六センチメートル。

「原因(いはれ)無しに蛇を殺すと、後(あと)でその蓋を取るとコメビツ〔炊(ひさ)ぐ米を容れて置く箱〕の中にその首がありますよ」どう見ても日本語としておかしい。ホラー性を高めようとしたとしても不自然さの方が気になって良くない。――「原因(いはれ)無しに蛇を殺すと、後(あと)でコメビツ〔炊(ひさ)ぐ米を容れて置く箱〕の、その蓋を取ると、中に、その首がありますよ」――でよかろうに。

「ネコマタ」ウィキの「猫又から引く。『猫又、猫股(ねこまた)は、日本の民間伝承や古典の怪談、随筆などにあるネコの妖怪。大別して山の中にいる獣といわれるものと、人家で飼われているネコが年老いて化けるといわれるものの』二種があるという。『中国では日本より古く隋時代には「猫鬼(びょうき)」「金花猫」といった怪猫の話が伝えられていたが、日本においては鎌倉時代前期の藤原定家による』「明月記」には天福元(一二三三)年八月二日に南都(現在の奈良県)に於いて『「猫胯」が一晩で数人の人間を食い殺したと記述がある。これが、猫又が文献上に登場した初見とされており、猫又は山中の獣として語られていた。ただし『明月記』の猫又は容姿について「目はネコのごとく、体は大きい犬のようだった」と記されていることから、ネコの化け物かどうかを疑問視する声もあり』、『人間が「猫跨病」という病気に苦しんだという記述があるため、狂犬病にかかった獣がその実体との解釈もある』。また「徒然草」(鎌倉末期成立)にも「奥山に、猫またといふものありて、人を食ふなると人の言ひけるに」と記されてある。『江戸時代の怪談集である『宿直草』や『曾呂利物語』でも、猫又は山奥に潜んでいるものとされ、深山で人間に化けて現れた猫又の話があり』、『民間伝承においても山間部の猫又の話は多』〻、『山中の猫又は後世の文献になるほど大型化する傾向にあり』、貞享二(一六八五)年成立の「新著聞集」に載る『紀伊国山中で捕えられた猫又はイノシシほどの大きさとあり』、安永四(一七七五)年成立の「倭訓栞」では、『猫又の鳴き声が山中に響き渡ったと記述されていることから、ライオンやヒョウほどの大きさだったと見られている』。文化六(一八〇九)年成立の「寓意草」で『犬を咥えていたという猫又は』全長九尺五寸(約二・八メートル)もあったと記す。一方、民間伝承では『越中国(現・富山県)で猫又が人々を食い殺したといわれる猫又山、会津(現・福島県)で猫又が人間に化けて人を誑かしたという猫魔ヶ岳のように、猫又伝説がそのまま山の名となっている場合もあ』るが、『猫又山については民間伝承のみならず、実際に山中に大きなネコが住みついていて人間を襲ったものとも見られている』という。『一方で同じく鎌倉時代成立の』「古今著聞集」の『観教法印の話では、嵯峨の山荘で飼われていた唐猫が秘蔵の守り刀を咥えて逃げ出し、人が追ったがそのまま姿を晦ましたと、この飼い猫を魔物が化けていたものと残したが、前述の『徒然草』ではこれもまた猫又とし、山に棲む猫又の他に飼い猫も歳を経ると化けて人を食ったり拐ったりするようになると語っている』。『江戸時代以降には、人家で飼われているネコが年老いて猫又に化けるという考えが一般化し、前述のように山にいる猫又は、そうした老いたネコが家から山に移り住んだものとも解釈されるようになった。そのために、ネコを長い年月にわたって飼うものではないという俗信も、日本各地に生まれるようになった』。『江戸中期の有職家・伊勢貞丈による『安斎随筆』には「数歳のネコは尾が二股になり、猫またという妖怪となる」という記述が見られる。また江戸中期の学者である新井白石も「老いたネコは『猫股』となって人を惑わす」と述べており、老いたネコが猫又となることは常識的に考えられ、江戸当時の瓦版などでもこうしたネコの怪異が報じられていた』。『一般に猫又の「又」は尾が二又に分かれていることが語源といわれるが、民俗学的な観点からこれを疑問視し、ネコが年を重ねて化けることから、重複の意味である「また」と見る説や、前述のようにかつて山中の獣と考えられていたことから、サルのように山中の木々の間を自在に行き来するとの意味で、サルを意味する「爰(また)」を語源とする説もあ』り、『老いたネコの背の皮が剥けて後ろに垂れ下がり、尾が増えたり分かれているように見えることが由来との説』などもあると記す。『ネコはその眼光や不思議な習性により、古来から魔性のものと考えられ、葬儀の場で死者を甦らせたり、ネコを殺』せば七代祟る、など『と恐れられており、そうした俗信が背景となって猫又の伝説が生まれたものと考えられている』。『また、ネコと死者にまつわる俗信は、肉食性のネコが腐臭を嗅ぎわける能力に長け、死体に近づく習性があったためと考えられており、こうした俗信がもとで、死者の亡骸を奪う妖怪・火車と猫又が同一視されることもある』とする。『江戸時代には図鑑様式の妖怪絵巻が多く制作されており、猫又はそれらの絵巻でしばしば妖怪画の題材になって』おり、元文二(一七三七)年刊の佐脇嵩之「百怪図巻」などでは、『人間女性の身なりをしなた猫又が三味線を奏でている姿が描かれているが、江戸時代当時は三味線の素材に雌のネコの皮が多く用いられていたため、猫又は三味線を奏でて同族を哀れむ歌を歌っている』のであるとか、『もしくは一種の皮肉などと解釈されている』(リンク先に当該図が載る)。『芸者の服装をしているのは、かつて芸者がネコと呼ばれたことと関連しているとの見方もある』とある。

「猫は呪を蒙つて居る。猫と毒蛇だけが佛陀が死なれた時泣かなかつた。だから猫と毒蛇とはゴクラクの至福を受けることは出來ぬ」「宗教情報センター」の「宗教こぼれ話」の第九回「イスラームは猫好き、仏教は猫嫌い?によれば、猫は泣くどころか、涅槃の場に居なかったらしい。『涅槃図に猫が描かれないのは、病床に就いた釈迦のために』実母である摩耶夫人が『薬袋(本当は衣鉢袋)を』投じたものの、それが『沙羅樹の枝に掛かっ』てしまい、それを取りに釈迦のために行こうとした『ネズミを猫が捕まえて食べたからという伝承が有力』のようだとする(参考注に二〇一一年大法輪閣刊竹林史博「涅槃図物語」とある)。また、その以外にも、『猫が一生懸命に顔を洗っていて、お釈迦様の最後に間に合わなかったからだとか諸説がある』らしい(ここでも参考注で二〇〇九年二月八日発行の『北海道新聞』の山本徹淨「仏教伝来と猫」とある)。しかし、記事の筆者が述べるように、猫は本邦への仏教伝来に重要な役割を担った。それは『遣唐使船で中国から経典を運ぶときには、ネズミに経典がかじられないよう猫を船に積ん』で守ったからである。なお、ハーンは猫以外に「毒蛇」を挙げているが、ここには四十巻本「大般涅槃経」に、『釈迦が入滅したときには竜、金翅鳥(きんじちょう/鳳凰)、象、獅子、孔雀、オウム、水牛、牛、羊、毒蛇、マムシ、サソリなどのほか、極楽に住む人面鳥身の迦陵頻伽(かりょうびんか)鳥などまで集まったと書かれてい』るとあるから、ハーンの言う「毒蛇」は少なくとも釈迦の涅槃には立ち会ったのである。泣かなかったから永久に極楽浄土から追放となったのだとすれば、仏の慈悲のなんと、狭量なことだろう!]

 

 

 Early in summer the frogs are surprisingly numerous, and, after dark, are noisy beyond description; but week by week their nightly clamour grows feebler, as their numbers diminish under the attacks of many enemies. A large family of snakes, some fully three feet long, make occasional inroads into the colony. The victims often utter piteous cries, which are promptly responded to, whenever possible, by some inmate of the house, and many a frog has been saved by my servant-girl, who, by a gentle tap with a bamboo rod, compels the snake to let its prey go. These snakes are beautiful swimmers. They make themselves quite free about the garden; but they come out only on hot days. None of my people would think of injuring or killing one of them. Indeed, in Izumo it is said that to kill a snake is unlucky. 'If you kill a snake without provocation,' a peasant assured me, 'you will afterwards find its head in the komebitsu [the box in which cooked rice is kept] 'when you take off the lid.'

   But the snakes devour comparatively few frogs. Impudent kites and crows are their most implacable destroyers; and there is a very pretty weasel which lives under the kura (godown) and which does not hesitate to take either fish or frogs out of the pond, even when the lord of the manor is watching. There is also a cat which poaches in my preserves, a gaunt outlaw, a master thief, which I have made sundry vain attempts to reclaim from vagabondage. Partly because of the immorality of this cat, and partly because it happens to have a long tail, it has the evil reputation of being a nekomata, or goblin cat.

   It is true that in Izumo some kittens are born with long tails; but it is very seldom that they are suffered to grow up with long tails. For the natural tendency of cats is to become goblins; and this tendency to metamorphosis can be checked only by cutting off their tails in kittenhood. Cats are magicians, tails or no tails, and have the power of making corpses dance. Cats are ungrateful 'Feed a dog for three days,' says a Japanese proverb, 'and he will remember your kindness for three years; feed a cat for three years and she will forget your kindness in three days.' Cats are mischievous: they tear the mattings, and make holes in the shoji, and sharpen their claws upon the pillars of tokonoma. Cats are under a curse: only the cat and the venomous serpent wept not at the death of Buddha and these shall never enter into the bliss of the Gokuraku For all these reasons, and others too numerous to relate, cats are not much loved in Izumo, and are compelled to pass the greater part of their lives out of doors.

橋本多佳子 生前句集及び遺稿句集「命終」未収録作品(23) 昭和二十三(一九四八)年 百十七句

 昭和二十三(一九四八)年

 

蟻地獄かなしき刻の過ぎてゆく

 

今日生きてむさぼりゐるや蟻地獄

 

夕焼や葬列なればとどまらず

 

いなづまが樹々に入らんと犇けり

 

人の死の如く蟷螂膝を折る

 

熱のあと鶏頭がたつ悲しけれ

 

汽罐車が熱き湯もらす雪の上

 

猫が来て氷を舐りはじめたり

 

燈を消せば地虫の闇と一色に

 

砂丘ゆく蝶に光がぎつしりと

 

罌粟畑嬰粟の散ることはじまれり

 

月に向ひ水を走りて道下る

 

いちほやく桜紅葉を沼うつす

 

炎天に老婆ものいふか口うごく

 

[やぶちゃん注:面白いし、一種、鬼趣の佳句ではあるが、明らかに先行する盟友西東三鬼の名吟、 

 綠蔭に三人の老婆わらへりき 

と、 

 廣島や卵食ふ時口ひらく 

 

のハイブリッドなインスパイアである。]

 

幸福な日には忘れて蟻地獄

 

断崖を攀ぢ蟷螂は死に逢へり

 

蟷螂の骸をけば水流れ去る

 

冬空のけぶり一筋消すよしなし

 

月が照る雪を真近に熱の夜

 

凩やをんな近づき来て若し

 

月光へくらがりの雪ふみていづ

 

雪の日の厨を汚す犬叱る

 

墓地いでて冬の町ゆく歩みなる

 

月入りしあとの海にて河豚の宿

 

船がゐて雪岳よごすとめどなき

 

瓦斯槽(ガスタンク)雪ふる町に入りてゆく

 

駅の燈に入るや雪来し歩みもて

 

寒の星落ちて情死をいそぎけり

 

寒卵一つ得しのみ寒つゞく

 

流水に遅れて落花いそぎけり

 

情死の上寒の日輪のぼりたり

 

足袋はかず一日を過す蝸牛

 

ほとゝぎす夏も咳して臥しゐたり

 

喪の顔を向けゐる卯の花腐しかな

 

夕焼に羽蟻飛翔すついにひとり

 

[やぶちゃん注:「ついに」はママ。]

 

秋螢ゆく茫々と沼の上

 

野分の戸汽笛がうつてすぐ消えし

 

鳰波より先きに暮れゆける

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「鳰」は「かいつぶり」と詠んでいる。無論、鳥綱カイツブリ目カイツブリ科カイツブリ Tachybaptus ruficollis 、古名「鳰(にお)」のことである。]

 

けふ張りし障子に山の闇ふるゝ

 

鵙叫び立つや雨傘墓にふれ

 

秋の蝶とまれば何に眼をうつす

 

栗一つ訣れしあとも握りもつ

 

[やぶちゃん注:以上、『天狼』掲載分。この年の一月一日に同誌は創刊された(師山口誓子主宰)。]

 

泥の手を垂らして立つや虹の前

 

うらむけてトロッコ月に車輪四つ

 

雨の中砧の音が夜へつづく

 

うしろより砧追ひ来る夜の坂

 

砧はたとやみたる方へ心ゆく

 

ものの影露の夜にして濃かりけり

 

十三夜約せしことも病みて過ぐ

 

熊ン蜂怒りぶつかる樹々冷か

 

鶏頭やひと通るとき獣めき

 

洗髪いなづまきては遊びけり

 

句を作り夜のいなづまと遊びけり

 

曼珠沙華炎ゆるときゝ消ゆるときゝ

 

百舌声を断ては心の行方なし

 

面照らす少女に逢へり十三夜

 

桜紅葉ふむや絢爛たる孤独

 

凍る沼日々鮮らしき芥を捨て

 

提燈がときに氷れる沼照らす

 

沼凍り木魂が夜も遊びをる

 

犬の声樹々にぶつかり沼凍る

 

河豚の宿海にむかへば燈火なく

 

もののみな筑紫の夜やふぐと汁

 

[やぶちゃん注:「ふぐと汁」はママ。]

 

熱の夜のわが身まわりの雪明り

 

春月や地上に猫が猫と会ふ

 

雛の家山にけものゝ夜が来て

 

雛の家崖は雪ふる業(わざ)やめず

 

狐暗くこの家の夜を雛います

 

歩みつゞけ春月の暈(わ)を歩み出ず

 

凍蝶の辺に人の身の歓喜あり

 

風邪の身を春の日向に捨てし如

 

用ありて来し高層の冬の河

 

蝙蝠のうつうつ醒むる脂粉とく

 

蝙蝠に行手よぎらる何の予感

 

地を翔けり蝙蝠夕焼けより遮る

 

末黒野の粗(あら)草その辺より青む

 

花過ぎし夜雨音なき沼の方

 

夕ながきこと切なけれ鹿の斑

 

松蟬の声の端々かさね来る

 

[やぶちゃん注:「松蟬」既注。]

 

蕗切りしあと惨憺と蕗畑出る

 

こんこんと蟻湧きいづる風大地

 

青梅に想ひをよせぬ青は佳(よ)し

 

黴の家没日の刻の真紅にて

 

黴の中ものも思はず健やかに

 

夕焼けて牧師の耳朶の女めく

 

燿ける蜥蜴見てゐて風邪長き

 

[やぶちゃん注:「燿ける」は「かがやける」と読む。「耀」「輝」に同じであるが、多佳子は実に蜥蜴の妖なる色彩に相応しい字を選んでおり、それが風邪のぼぅっとした意識とこれまたマッチしている。]

 

黴の中童女片言くりかえす

 

汐汲みに夏濤頭よりのしかかる

 

髪切虫押しつけゐれば啼きつゞけ

 

汗の身に仏体の冷え恐ろしき

 

僧房に冷水湛え手を冷す

 

茱萸嚙んではや夏瘦の避け難く

 

淋しきときしきりに来るや祭笛

 

花莨夜宮囃が夕焼くる

 

[やぶちゃん注:「花莨」は「はなたばこ」で、ナス目ナス科タバコ属シュッコンタバコ(宿根煙草) Nicotiana alata の別名。ウィキの「シュッコンタバコによれば、『主として花壇用の草花として栽培され』、『ブラジル原産。通常越冬しない一年草とされているが、強い霜の降りない地方では、越冬して灌木状になることもある。茎は直立して高さ』三〇~九〇センチメートル程『になり、茎は角張っていて稜に翼があり、種名のalataは「翼のある」という意味である。葉は下の方のものは大きく、楕円形で、長さ』二十センチメートルにも『なることもある。上部の葉は紡錘形で互生する。花は』七月から十月にかけて開花し、直径二~五センチメートルほどの漏斗形で、先端は星状に五裂する。一つの花の寿命は二日ほどであるが、『総状花序を作って次々に開花する。花色には紅、赤、紫、白、黄色などがあり、香りがあり、とくに夕方から宵にかけて強く香る』とある。多佳子好みの花とみた。実際にタバコの原料ともなるようである。]

 

羅衣の紅伽藍の端に童女ゐて

 

月光や古衣すでに匂ひなし

 

鱗雲の戸をいづ墓地を行先きに

 

墓地に立つ野分の落葉美しと

 

秋の沼むかへば北の星ばかり

 

ぬぎし衣に猫うづくまる野分の夜

 

つと燈り野分の瑠璃に貌うつる

 

十三夜仏眼あまたくらがりに

 

[やぶちゃん注:同年年譜の九月の条に、『津田清子、田中季子』、堀内『薫の四人で、十三夜の月を唐招提寺に見る。無人、無燈、一点の雲もない明月。月に照らし出された金堂の美しさ、多佳子は月明の円柱の袖を手で撫でて愛惜』し、『円柱にかがんでもたれ、静かに月を仰いで、「かねがね来たいと思っていて、実現しなかったが、とうとう来ることが出来ました。」と一人ごとのように言い、泣いているようで』あったと記す。]

 

月明に金堂の闇くもりけり

 

こほろぎが一跳びに失せ女身ひとつ

 

冬濤を見し絶壁へひきかへさず

 

冬濤を見て絶壁を立ち去れり

 

寒き崖ちかづく蝶を吹きおとす

 

[やぶちゃん注:以上、『七曜』掲載分。『七曜』は『天狼』の僚誌として同誌と全く同日の、この年の一月一日に創刊され、『天狼』系の俳誌として当初は橋本多佳子と榎本冬一郎とが指導していたが、二年後の昭和二五(一九五〇)年一月に多佳子の主宰となった(多佳子没年の昭和三八(一九六二)年に師山口誓子主宰となり、今年、二〇一五年三月の第八百号を以って終刊した。因みに『天狼』の方は一九九四年三月の誓子死去後に六月号(通巻五百四十八号)を出して終刊している)。]

 

鶏頭の炎え盡さむと霜の中

 

赤子泣き運河の中も雪が降る

 

熱の夜の障子鮮らしきこと切なし

 

夜の雪よぎりしものを猫と見る

 

七面鳥凩に挑み雌(め)にいどむ

 

[やぶちゃん注:以上、『俳句研究』掲載分。]

 

菜殻火か野に炎ゆる火に近づかむ

 

松あらし夜へつゞくや衣更

 

燦々と日に蜂飛ぶや人の死後

 

鮒を追ひ吾帰るとき帰り来ず

 

薄翅かげろふ墜ちて活字に透きとほり

 

[やぶちゃん注:「薄翅かげろふ」は、

有翅亜綱新翅下綱内翅上目アミメカゲロウ目ウスバカゲロウ上科ウスバカゲロウ科 Myrmeleontidae

に属するウスバカゲロウ類を総称するもので、このウスバカゲロウの仲間は完全変態で、種によってはお馴染みのアリジゴクを経るから、本句群の冒頭に「蟻地獄」の句も出はするのでそれとまず見てもよいのであるが、ここで多佳子が見たのは、全く異なる種である真のカゲロウ類(後述)である可能性も捨てきれないと思う。それは彼女の住んでいるのが奈良市あやめ池で水辺が近く、これはその自邸での嘱目吟であるからである。まずはウスバカゲロウとしてウスバカゲロウ科の中の一種ウスバカゲロウ Hagenomyia micans を例に挙げておくと、羽根が薄く広く、また弱々しく見え、真正のカゲロウ類と非常によく似ている(というよりも昆虫フリークでもない限りはこれらを多くの一般人は区別していない)。ところが、そのそっくりに見える真正のカゲロウ類は、

有翅亜綱旧翅下綱 Ephemeropteroidea 上目蜉蝣(カゲロウ)目 Ephemeroptera

に属する、

ヒラタカゲロウ亜目 Schistonota

マダラカゲロウ亜目 Pannota

であって、これらの仲間は総ての幼虫が水棲生活をし、しかも不完全変態(幼虫期は「ニンフ」(nymph)と呼んで完全変態の幼虫「ラーヴァ」(larva)と区別する)である(ここまでは主にウィキの「ウスバカゲロウ」「カゲロウ」に拠った)。私の偏愛する梶井基次郎の「櫻の樹の下には」の一節に、

   *

 二三日前、俺は、ここの溪へ下りて、石の上を傳ひ歩きしてゐた。水のしぶきのなかからは、あちらからもこちらからも、薄羽かげらふがアフロデイツトのやうに生れて來て、溪の空をめがけて舞ひ上がつてゆくのが見えた。お前も知つてゐるとほり、彼らはそこで美しい結婚をするのだ。暫く歩いてゐると、俺は變なものに出喰はした。それは溪の水が乾いた磧へ、小さい水溜を殘してゐる、その水のなかだつた。思ひがけない石油を流したやうな光彩が、一面に浮いてゐるのだ。お前はそれを何だつたと思ふ。それは何萬匹とも數の知れない、薄羽かげらふの屍體だつたのだ。隙間なく水の面を被つてゐる、彼等のかさなりあつた翅が、光にちぢれて油のやうな光彩を流してゐるのだ。そこが、産卵を終つた彼等の墓場だつたのだ。

 俺はそれを見たとき、胸が衝かれるやうな氣がした。墓場を發いて屍體を嗜む變質者のやうな慘忍なよろこびを俺は味はつた。

   *

と出るが、これも実はウスバカゲロウは誤りで真のカゲロウ類であることが、梶井の描写そのものによってお分かり戴けるものと思う。なお、さらに面倒なことに、他にもやはり非常によく似た形態のものに、卵を「ウドンゲ(憂曇華/優曇華)の花」と呼ぶ、

新翅下綱内翅上目脈翅(アミメカゲロウ)目脈翅(アミメカゲロウ)亜目クサカゲロウ科 Chrysopidae

もいるのであるが、これもまたカゲロウ類とは異なり、完全変態で幼虫の形態はアリジゴクに似ている。こちらについてはウィキの「クサカゲロウ」などを参照されたい。

 以上、『現代俳句』掲載分。多佳子、四十九歳。]

橋本多佳子 生前句集及び遺稿句集「命終」未収録作品(22) 昭和二十二(一九四七)年 五十一句

 昭和二十二(一九四七)年

 

木の実独楽大小ありてまはり澄む

 

冬の虹立つ方へ子は田を走る

 

釘の頭を子が地に打つ冬の暮

 

炭を出す手燭のそこに山の闇

 

虹たちて刈田の畦のあきらかに

 

田に立ちて紅を残せる冬の虹

 

   清水公俊氏逝去後は

 

この寺に知る僧なしや良弁忌

 

[やぶちゃん注:「清水公俊」大僧正で東大寺官長。既に昭和二〇(一九四五)年に亡くなっている。「良弁忌」「らうべんき(ろうべんき)」と読む。本来は陰暦十一月十六日で奈良時代の学僧で東大寺開山の良弁(持統天皇三(六八九)年~宝亀四年閏十一月二十四日(ユリウス暦七七四年一月十日))の忌日で冬の季語。現行では一二月十六日に東大寺で行われているようである。以上の生没年はウィキの「によるものであるが、実際の没日と忌日が一致していない。理由は不明である。識者の御教授を乞う。]

 

空にゐて揚羽の蝶のゆるやかに

 

降る雪に男洋傘さしいづる

 

年木割山の月夜の濃かりけり

 

年木割るひびきの暮れてゐたりけり

 

年木樵るひびき雪降る山をいづ

 

年木樵るわが低山に雪ふれり

 

夜の雪い寝むとひとり手を洗う

 

喪の日日やなほ如月の山の崖

 

紅梅や一途に霰ふりてやむ

 

訪ね来し男の外套雛の宿

 

雛の宿雪降る崖を照らしけり

 

蛇叱る堂守甃の床を踏み

 

[やぶちゃん注:「甃」は通常は「いしだたみ」とか「しきがはら(しきがわら)」と読み、石畳のように土間や地面などに敷き並べた平たい瓦或いはそうした床(ゆか)を指す。ここは音数律から私は「いし」と訓じているように思う。]

 

蛇生れて常浄光土雨荒るる

 

[やぶちゃん注:「常浄光土」聴いたことがない文字列ではあるが、意味は「四土(しど)」の一つである「常寂光土」と同じではないかと思われる。常寂光土は仏教に於ける全宇宙の究極真理としての仏陀が常住する浄土とされるもので、永遠であり、煩悩も存在せず、絶対の智慧の光に満ちているとする。因みに仏教の「四土」には二種あり、主に天台宗で四種の仏土を指し、「凡聖同居土(ぼんしょうどうごど)」・「方便有余土(ほうべんうよど)・「実報無障礙土(じつぽうむしょうげど)」・「常寂光土」をまず普通は謂い、更に教学上の唯識(ゆいしき)の四種の仏土として「法性(ほつしよう)土」・「自受用土」・「他受用土」・「変化(へんげ)土」があるが、多佳子の使う「常浄光土」というのはなく、「常」を造語的な接頭語と見ても、「浄光」は仏典や寺名に普通に見られるが、「浄土」や「寂光土」はお馴染みであっても「浄光土」というのさえも私には未見の熟語である。字の相違から誤字や誤植とも思われず、不審である。一応、多佳子の嘱目印象による造語と採っておく。]

 

仏達春昼立たし吾歩む

 

くちなはの追はるるときを青びかる

 

春の土碧びかる釘あまた落ち

 

初蝶や一途に吾に来るごとし

 

花群にちかづき木瓜の花を見る

 

むらさきの色藤にしてほるかなり

 

雨の藤昏れまぎれつゝ昏れてゆく

 

地に憩ふ枇杷盛る籠の間にして

 

   門司

 

枇杷買ふや霧笛が髪を打つて過ぐ

 

夜光虫掬ひたる掌にとどまらぬ

 

流燈のはかなき土を灯しけり

 

[やぶちゃん注:「土」は「つち」と訓じていようが、意味合いとしてはこの世、穢土(えど)と私は読む。]

 

流燈を流すはかなきことを見る

 

又一歩ちかより立つや土用濤

 

揚羽蝶砂丘を越えて又逢へり

 

送らるる吾が遅れて片かげり

 

[やぶちゃん注:「片かげり」は「片蔭り」で「日陰(ひかげ)」のこと。歳時記などを見ると、大正以降によく使われるようになった晩夏の季語とする。

 以上、『馬酔木』掲載分。]

 

   修二会

 

天狼のいでて修二会の星揃ふ

 

[やぶちゃん注:「修二会」「しゆにゑ(しゅにえ)」と読む。既出既注であるが、再掲しておくと、法式としてのそれは国家安泰を祈ることを目的とした法会で、ここは東大寺のそれ、所謂、「お水取り」である。同寺の修二会の本行は、現在は新暦三月一日から十四日までの二週間に亙って二月堂で行われる。]

 

雪の上修二会の僧の沓一歩

 

修二会堂女人端ぢかくして寵る

 

修二会の火双眸にもやす女かな

 

ねむたさの女伏したる修二会かな

 

雪を来し女人修二会の扉をよごす

 

雪霏々と行法の火のもゆるなり

 

修二会僧行法の火にうちむかふ

 

雪の堂修二会の扉ひとつ開き

 

[やぶちゃん注:以上、『俳句研究』掲載分。]

 

冬旅の一歩や鼻緒かたくして

 

肩かけや解纜の汽笛ふりかぶる

 

[やぶちゃん注:「解纜」は「かいらん」と読み、「纜(ともづな)を解く意で、船が航海に出ること。船出。出帆。]

 

寒き門司舷はしづかに離れゐる

 

肩かけや白波かぎりなき只中

 

稲妻のしきりや言葉しづかにて

 

夕焼けて立つや喪服の手も足も

 

吾亦紅老いゆく日々を紅ふかむ

 

[やぶちゃん注:「吾亦紅」バラ目バラ科バラ亜科ワレモコウ Sanguisorba officinalis既注。]

 以上、『現代俳句』掲載分。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十五章 東京に関する覚書(9)モース先生、茶の湯を習う

 私は茶の湯のこみ入った勉強を始め、日本人の組に加入した。先生の古筆氏は、私がこの芸術を習う最初の外国人だという。私が茶の湯を始めたという事実と、その時持ち出される陶器を素速く鑑定して茶の湯学校の爺さん達を吃驚させたという記事とが、新聞に出た。日本の新聞が、米国と同じく、あらゆる下らぬことや社交界の噂話等を聞き込むことは一寸奇妙に思われるが、これは要するに、人間の性質が、世界中どこへ行っても同じであることを示すものである。

[やぶちゃん注:「古筆氏」既注であるが再掲しておく。好古家として知られた古筆(こひつ)家第四代古筆了仲(りょうちゅう ?~明治二四(一八九一)年)。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の中で、丁度、この前後にモースは陶器蒐集や民具収集の過程で、この古筆了仲に逢っており、彼を『師として茶の湯も習ってもいる』とある。Chakurai 氏のブログ「なずなノート」のモースと茶のつながり「明治のこころ モースが見た庶民のくらし」江戸東京博物館 その3』に、『石州流茶道を茶人・古筆了仲(こひつりょうちゅう)から習い』、明治一六(一八八三)年二月に『離日する際に了仲が贈った茶杓も展示。モースは生涯その茶杓を手元に置いたのだそう。1センチほどの茶碗や高さ5センチの水指などままごとサイズの茶道具一式のセットもあり、お茶の側面からも面白みがあった。その守備範囲の広さ、ほんとすごい』。私はこの展覧会を見逃している。そこにはまさに本書でモースのスケッチしたものが数多く展示されていた(ネットの案内画像で確認)。実に実に慙愧の念に堪えぬ。]

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (九)

       九

 

 今度は上記の庭に棲んでゐるウジヤウ、即ち情のあるものに就いて。

 蛙が四種居る。蓮池に棲んで居る三種と、木に棲んで居る一種と。木の蛙は非常に見事な緑色の、頗る可愛らしい小さな奴である。鋭い、殆んどセミの聲のやうな叫びを發する。そして、他國のその同類同樣、その啼くのが雨の前兆だといふので、アマガヘル即ち「雨蛙」と呼ばれて居る。池の蛙はババガヘル、シマガヘルそれからトノサマガヘルと呼ば

れて居る。そのうちで、名を第一に擧げた一種は一番大きくで一番醜い。色が甚だ不快で、且つまた省略しないでのその名は(「ババガヘル」といふは體裁の好い省略である)その色同樣に頗るいとはしいものである。シマガヘル即ち「縞蛙」は前に掲げた物に比ぶればさうでもないが、好くは無い。然し素晴らしい立派な紀念物を死後に殘したさる有名な大名にあやかつて、斯く名づけられたトノサマガヘルこといふのは美しい。その色は靑銅色を帶びた見事な赤である。

 

 この三種の蛙のほかに、庭に大きな見苦しい出眼な奴が棲んで居る。此處ではそれをヒキガヘルと呼んで居るけれども、自分は蝦蟇だと思ふ。『ヒキガヘル』といふ語は、普通蝦蟇(ブル・フロツグ)に與へて居る名である。此奴は殆んど毎日、物を食はせて貰ひに家へはいつて來て、見知らぬ人をも一向恐れねやうに思はれる。家の者共は之を幸運を齎す御客と考へて居る。そしてただ息(いき)を吸ひ込むだけで、部屋の蚊を總てその口の中へ取込む力を有つて居ると信じて居る。庭師や他の者共は大いに之を可愛がつて居るけれども、古昔の化物蝦蟇の物語がある。息を吸ひ込んで、口の中へ蟲では無い、人間を吸ひ込んだといふ蝦蟇である。

 池にはその上多くの小さな魚が棲んで居る。鮮やかな赤い腹をしたヰモリ即ち蠑螈も居る。それからマヒマヒムシと呼ぶ小さな水蟲が澤山居る。それは水面を終終旋囘しで、時を過ごして居るが、餘り迅いのでその形を明白に見分けることは、殆んど不可能である。興奮のあまり目的(あて)無しにあちこち走り廻る人は、マヒマヒムシに例へられる。それから甲に黄色な美しい條文(しま)のある美しい蝸牛が居る。日本の子供は蝸牛にその角を出させる力があると想つて居る面白い歌をうたふ。

   『ダイダイムシ【註】、ダイダイムシ、ツノ チツト ダシヤレ!

    アメカゼ フクカラ ツノ チツト ダシヤレー!

 

    註。ダイダイムシは出雲での名、字

    書での言葉は『デデムシ』。蝸牛は雨

    天を好むと思はれて居る。それで雨

    の時よく出る人は――デデムシノヤ

    ウナと――蝸牛に例へられる。

 

 上流社會の子供の遊び場は、貧民の子供のそれが寺の庭である如く、いつも家の中の庭であつた。小さな子供が植物の不思議な生活と、昆蟲世界の驚く可き事實に就いて、始めて少しく學ぶのは庭に於てであり、また庭に於て彼等は、日本の民間傳説のあんなに面白い部分を成して居る所の彼(あ)の鳥と花との愛らしい傳説と歌とを始めて教はるのである。子供の家庭の訓練は大部分は、母に委せられて居るから、動物に對して親切であれとの教訓は夙に教へ込まれ、その結果は後年強く顯れる。尤も日本の子供は、原始的本能の殘存として、あらゆる國の子供どもの特徴たる殘忍への、あの無意識な傾向を全然脱しては居ない。が、この點に關して男女間の大なる道德的相違は、極く小さな時からして目立つて居る。女の心の優しさは子供の時分にすら見える。蟲や小さな動物を、もてあそぶ日本の小さな女の子は、それを害することは稀で、大抵は相當に慰んだ後で放して遣る。小さな男の子は、親か保護者が見て居ないと、女の子ほどには善良で無い。が、何かむごいことをして居るのを見られると、子供はその行爲は恥づべきことだと思はしめられ、佛教の戒の『むごい事をするとお前の後世は不幸だよ』と言つて聽かせられる。

 池の岩の中の何處かに此家の前の借家人が、多分、この庭へ殘したのであらう――小さな龜が一匹棲んで居る。甚だ可愛らしい。が、一度に幾週間も續いて姿を見せずに居るやうにする。民間神話では、龜はコムピラ【註一】といふ神の召使で、信心深い漁師は龜を見付けると、その背ヘ『金比羅樣の召使』といふ意味の文字を書いて、それからサケを一ぱい飮ませて放す。龜はサケが大變好きだと想像されて居る。

 陸に棲む龜即ち「イシガメ」だけが金比羅の召使で、海に棲む龜即ち海龜(タアトル)は海の底の龍王の召使だと言ふ人がある。海龜は、その息で、雲、霧、或は壯麗な宮殿を造り出す力を有つて居ると言はれて居る。それはあの美しい昔のウラシマ傳説【註二】に出て來て居る。どんな龜でも龜は皆、千年の間生きると想像されて居る。

 

    註一。佛教の神でゐるが近年神道の

    爲めにコトヒラ神と同一のものとさ

    れた。

    註二。日本の美術家の手に成つた見

    事な繪を添へた『日本の御伽噺叢書』

    中の、そのチエムバレン教授の飜譯

    を見られよ。

 

 

だから日本美術に於て、及も頻繁に見る長命の徽號は龜である。が、日本土着の繪師及び金屬細工人が最も普通に現す、龜は一種特別な尾を、むしろ小さな尾の群集を有つて居て、藁の雨衣即ちミノの緣のやうに、背後にそれを伸ばして居る。といふ譯でミノガメと呼ばれて居る。ところが、佛寺の神聖な貯水池に飼はれて居る龜は、非常な高齡に達するのがあつて、或る水草がその甲にくつついて、歩くと背後に長く垂れる。ミノガメの神話はその來由は、そんなやうな甲に藻のくつ着いて居る龜の姿を現さうとする古昔の藝術的努力に在つたのだと想はれる。

 

[やぶちゃん注:『アマガヘル即ち「雨蛙」』両生綱無尾目カエル亜目アマガエル科アマガエル亜科アマガエル属ニホンアマガエル Hyla japonica に比定してよいであろう。ウィキの「ニホンアマガエル」には、その『鳴き声は「ゲッゲッゲッゲッ…」「クワックワックワッ…」という表現をされる。鳴くのはすべてオスで、オスの喉には鳴嚢(めいのう)という袋があり、声帯で出した声を鳴嚢で共鳴させて大声を生みだしている』。ハーンも「他國のその同類同樣、その啼くのが雨の前兆だといふ」と命名を記し、我々もそのように理解しているが、『カエルの繁殖期は主に春で、この時期の夜の水田にはたくさんのカエルの声がこだまし、場所によっては集団で大合唱になることもある。この繁殖期の鳴き声は、オスがメスに自分の存在を知らせるためのもので、「広告音(こうこくおん)」と呼ばれる』とる。但し、『普通のカエルは繁殖期の夜に鳴くが、ニホンアマガエルは「雨蛙」の和名の通り、雨が降りそうになると繁殖期でなくとも、昼間でも鳴くのが大きな特徴である。この時の鳴き声は「雨鳴き(あまなき)」「レインコール(Raincall)」などとよばれ、繁殖期の広告音と区別される』。『その他、春先の暖かい日に冬眠から覚めた際や稲刈の際にも、また晩秋には雨と関わりなく、レインコールに似た「クワックワックワッ」という甲高い鳴き方をする』とあって、やはり彼らがしきりに鳴くと必ず雨が降るというわけでは、ない。

「ババガヘル」カエル亜目アカガエル科アカガエル亜科アカガエル属ツチガエル Rana rugosa のこと。体長三~五センチメートルほどで♀の方が♂よりも大きい。背中は灰褐色・黒褐色の斑模様で(腹側は淡褐色)、背中の中央に白い背中線を持つ個体もある。背中には大小の疣(いぼ)状突起が多数並び、大型個体では色とその形状のグロテスクさから「イボガエル」「エボガエル」「クソガエル」などという異名で呼ばれることの方が多い。こでハーンが述べる「ババガエル」の「ばば」も幼児語の「糞」の意である。

「シマガヘル」この和名はトノサマガエルの異名であり、この和名を持つ別種は存在しない。ハーンは三種として挙げておきながら、後の「トノサマガエル」と称するものと(後注を必ず参照されたい)、この「シマガエル」との違いが語られていないことから、私はハーンの言うシマガエルとは、トノサマガエルの大きさが有意に異なり(♀の方が大きい。次注の前の下線部を参照)、繫殖期になるとやはり有意に体表面に違いが出る(次注の後の下線部を参照)、♀と♂の同種個体を別種と勘違いして言っているのではないかとも疑っている。もし、そうだとすれば、ババガエルとの大小の比較が示されない点からトノサマガエルの体色の変化が起こる繁殖期の♂の中でも小型の固体か(やはり後注参照)。

「トノサマガヘル」一応、アカガエル科アカガエル亜科トノサマガエル属トノサマガエル Pelophylax nigromaculatus に比定しておく(恐らくはそれで正しいと思うが、注の後半を参照されたい)。ウィキの「トノサマガエル」によれば、『本州(関東平野から仙台平野にかけてを除く)、四国、九州と、中国、朝鮮半島、ロシア沿海州に分布する。また、北海道の一部(札幌市、江別市など)にも国内外来種として人為分布している』。体長は♂が三・八~八・一センチメートルであるのに対し、♀は六・三~九・四と明らかに『メスの方がオスより大きい』。『後肢が長く、跳躍力が強い。背面の皮膚は比較的滑らか』で、『体色はオスは背面が茶褐色から緑色、メスは灰白色。背中線上に明瞭な白または黄色の線がある。背面に黒い斑紋があり、斑紋同士がつながっていることが多い。種小名 nigromaculatus 「黒い斑紋の」の意。繁殖期のオスでは、斑紋が不明瞭になり、全体的に体色が黄色がかる』(下線やぶちゃん)。さて、何故、私が「一応」と比定に断りを入れたかというと、同ウィキの最後にも書かれているように、私は日本中のトノサマガエルはトノサマガエルだと、つい今年の三月まで思い込んでたからである。事実は異なる。少なくとも東日本にしか住んだことのない私が見なれていたそれは――トノサマガエルPelophylax nigromaculatus ではなく、ダルマガエルPelophylax porosus ――だったからである。以下、引用する。戦前の一九三〇年代までは、『日本全国にトノサマガエルが分布していると考えられていた』。昭和一六(一九四一)年に、『西日本の一部の個体群がトノサマガエルではないことがわかり(ダルマ種族と呼ばれた)、さらにその後、関東平野から仙台平野にかけて分布しているカエルもトノサマガエルではないまた別のカエル(関東中間種族と呼ばれた)であることが判明した。これらの互いによく似た「トノサマガエル種群」とされたカエルたちは、同所的に分布する地域では交雑個体が発見されるほど近縁であり、分布が重ならない場合でも交雑実験を行うとある程度の妊性が認められた。このため同種なのか別種なのか分類が混乱し』、一九六〇年代には、『関東中間種族は、トノサマ種族とダルマ種族の雑種であると考えられていた』。ところが一九九〇年代になって『分子生物学的手法などを用いた研究が行われるようになった結果、雑種起源説は否定されつつあ』り、『今世紀に入ってからも、どの分類群に名前を与えるべきか、などの点で若干の混乱が残っている』。また、本種群は『かつてはアカガエル属Rana)に分類されていたが、独立したトノサマガエル属(Pelophylaxとして扱うことが主流となっている』。『一例として現在日本爬虫両生類学会が推奨している分類と和名を挙げる』としてリストされてある。少し配置を変えて以下に示す。

 トノサマガエル属 Pelophylax

   トノサマガエル  Pelophylax nigromaculatus

   ダルマガエル  Pelophylax porosus

    トウキョウダルマガエル Pelophylax porosus porosus

    ナゴヤダルマガエル  Pelophylax porosus brevipodus

私がその事実を知った瞬間が「耳嚢 巻之十 蛙かはづを吞候事」の注に示されてある。よろしければご覧あれ。最後にウィキの「ダルマガエル」もリンクしておく。

「此處ではそれをヒキガヘルと呼んで居るけれども、自分は蝦蟇だと思ふ。『ヒキガヘル』といふ語は、普通蝦蟇(ブル・フロツグ)に與へて居る名である」「ヒキガヘル」「蝦蟇」「蝦蟇(ブル・フロツグ)」(三番目は「ブル・フロツグ」がルビ)の内、二番目は「がま」或いは「がまがえる」と訓じているものと思われる。これは失礼乍ら、不可通な訳である。ここでハーンは「ヒキガエル」ではなく「蝦蟇」であり、「ヒキガエル」というのは英語で普通は「蝦蟇」とは異なる「ブル・フロツグ」“bullfrog”のことを指す、と言っているからである。即ち、

 

〇 「ヒキガヘル」≠「蝦蟇」 「蝦蟇」≠「ブル・フロツグ」

 

であるのに、訳者が“bullfrogを「蝦蟇」と訳してしまったその脇に「ブル・フロツグ」とルビを振ってしまった結果、上記の関係に反する、

 

× 「蝦蟇」=「ブル・フロツグ」

 

が同時に示されてしまって、論理的に意味不明となってしまったのである。英和辞典を引く前から想像出来てしまうのだが、bullfrog”とは、まさに「牡牛の蛙」で、

ナミガエル亜目アカガエル科アカガエル亜科アカガエル属ウシガエル Rana catesbeiana

のことであり、ハーンは実は、

 

――松江の人々が呼んでいる「ヒキガエル」っていうは、主に水中を好む「ウシガエル」のことだろう?――でも、こいつはそうじゃじゃなくて一目瞭然――“a toad”だよ!――背中は疣だらけで、図体がでかい割に後ろ脚の跳躍はすこぶる弱くて、うろうろ這い歩く、専ら陸に棲んでるあの「ガマ」じゃないか!

 

と言っているんである。即ち、ハーンは、

これはウシガエル Rana catesbeiana じゃあなくて、

ナミガエル亜目ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicus

だ、と主張している

のである。

 但し、訳者が“bullfrog”が、ヒキガエルと異なる種であるウシガエルだと知らなかったのは無理もないと言えば、無理もないのである。

 何故か?

 当時の日本にはウシガエルは棲息しておらず、同じほどに大きな蛙といった雑な説明の英英辞典などがあったりすればこれ、生物学者でない限り、分からなかったであろうからである。

 現在の我々にはウシガエルは食用ガエルという通名でもすこぶる親しいものであるが、実は、

「ウシガエル」が本邦に齎されたのは、まさに本訳書の出たその大正七(一九一八)年のことだった

のである。当時の東京帝国大学動物学教授渡瀬庄三郎(彼はこうした悪しき外来種移入を積極主導した生物学者の風上にも置けない人物として私は嫌いである)が主導して食用の蛙としてアメリカのルイジアナ州ニューオリンズから十数匹を導入したのがそれで、この時、アメリカザリガニも本種の養殖用の餌として輸入されたのである。その最初の移入地こそが私が今住む大船であり、細かく言えば私がやはり独身時代に数年を過ごした鎌倉市岩瀬なのであった。その後、洪水によってそこの養殖池が氾濫、ウシガエルは勿論、アメリカザリガニも流出し、全国に播き散らされ、かくも繁栄するに至ったのである。ウシガエルとアメリカザリガニの元凶濫觴は、ここ大船の岩瀬なのである

 閑話休題。ウィキの「ニホンヒキガエル」から引いておく。ナミガエル亜目ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicusは、『低地から山地にある森林やその周辺の草原などに生息し、農耕地、公園、民家の庭などにも広く生息する』。『本種は都市化の進行にも強い抵抗力を示し、東京の都心部や湾岸地域でも生息が確認されている』。基本的には夜行性で昼間は石や倒木の下などで休んでいることが多い。『ヤマカガシは本種の毒に耐性があるようで好んで捕食』、『ヤマカガシの頚部から分泌される毒は、本種の毒を貯蓄して利用していることが判明している』。『本種を含め、ヒキガエル類は水域依存性の極めて低い両生類である。成体は繁殖の際を除いて水域から離れたまま暮らしており、とりわけ夏季には夜間の雑木林の林床や庭先等を徘徊している姿がよくみられる。体表のイボや皺は空気中における皮膚呼吸の表面積を最大化するためと考えられている。また後述のように、繁殖に必要とする水域規模もまた、相対的に小さくて済むようになっている。

食性は動物食で、昆虫、ミミズなどを食べる』。『繁殖形態は卵生。繁殖期は地域変異が大きく南部および低地に分布する個体群は早く』(屋久島では九月)、『北部および高地に分布する個体群は遅くなる傾向があ』る。『池沼、水たまり、水田などに長い紐状の卵塊に包まれた』千五百~一万四千個(種によって差がある)もの卵を産む。『多数個体が一定の水場に数日から』一週間の『極めて短期間に集まり繁殖』行動をとり、これが昔から「ガマ合戦」「蛙合戦」と称された。『繁殖期のオスは動く物に対して抱接しようとし、抱接の際にオスがメスを絞め殺してしまうこともある』とある。『大柄な姿に反してヒキガエルの幼生期間は短く、仔ガエルに変態した時の体長はわずか』五~八ミリメートルしかないが、『これは、水の乏しい地域で短期間しか存在しない水たまり等でも繁殖できるよう進化がすすんだためと考えられている』とある。

「化物蝦蟇」江戸後期の読本や歌舞伎などに登場する盗賊忍者自来也(じらいや:児雷也とも書く)の蝦蟇の妖術が有名。ウィキの「大蝦蟇」には、『大蝦蟇(おおがま)は、江戸時代の奇談集『絵本百物語』、北陸地方の奇談集『北越奇談』などに見られる巨大なガマガエルの怪異』。『妖山中に棲息する野生動物は通常の野外のものよりもずっと巨大なものもあることから、このような巨大なガマの伝承が生まれたと考えられている』。『また、ガマガエルが妖怪視されたことについては、カエルが長い舌で虫などを捕える様子が、あたかも虫がカエルの口の中に吸い込まれるようにも見えるため、こうしたカエルやガマが人間の精気を吸うなどの怪異のあるものと考えられたとの解釈もある』とし、「絵本百物語」の「周防の大蟆(すおうのおおがま)」『本文によれば、周防国の岩国山(現・山口県岩国市)の山奥に住む大蝦蟇で、体長は』約八尺(約二・四メートル)で、『口から虹のような気を吐き、この気に触れた鳥や虫たちを口の中へと吸い込み、夏には蛇を食べるとある』。『また挿絵ではこの蝦蟇は槍を手にしているが、この槍で人を襲ったとの説もある』(リンク先に槍を持った絵図有り)。「北越奇談」には『越後国村松藩(現・新潟県中蒲原郡村松町)で、藤田という武士が河内谷の渓流で釣り場を捜していたところ、山深くの淵のそばに突起だらけの』三畳ほどの『岩場を見つけ、絶好の釣り場と思い、その上でしばらく釣り糸を垂れていた』。『川向かいでも別の武士が釣りをしていたが、その武士は急に帰り支度を始め、藤田に手真似で「早く帰れ」と示して逃げ去った。藤田も不安を感じ、釣り道具を片付けてその武士を追って理由を尋ねたところ「気づかなかったか? 貴行が先ほどまで乗っていたものが、火のように赤い目玉を開き、口をあけてあくびをしたのだ」と恐れながら答えた』。暫くして再び二人して『元の場所へ戻ってみたところ、藤田の乗っていた岩とおぼしきものは跡形もなく消え失せていた。あれは岩ではなく大蝦蟇であり、突起と思ったものは蝦蟇のイボだったと推測されたという』とある。因みに後者「北越奇談」は私の愛読書で、そのうち電子化して注を施したいと思っているものである。

「鮮やかな赤い腹をしたヰモリ即ち蠑螈」これは両生綱有尾目イモリ亜目イモリ科イモリ科Salamandridae イモリ(トウヨウイモリ)属Cynopsのアカハライモリ Cynops pyrrhogaster を指している。フグと同じ猛毒のテトロドトキシン(tetrodotoxinTTX)を持つ(危険を感じた際に目の後部にある突起から粘液を出し、その中に含まれているとされるが、起原は不明。フグ毒同様、摂餌対象の中に含まれる藻か或いはそこに含まれる細菌などが合成するものとは思われる)。また、この腹部の赤色について、ウィキの「アカハライモリ」には、『腹の赤黒の斑点模様は毒をもつことを他の動物に知らせる警戒色になっていると考えられている。陸上で強い物理刺激を受けると横に倒れて体を反らせ、赤い腹を見せる動作を行う』とあるが、私は正直言うと、こういう警戒色説とか、視覚的脅迫行動習性説にはかなり胡散臭いものを感じている(忌まわしいローレンツの「攻撃」の亡霊としてである)。なお、「蠑螈」(音は「エイゲン」)は中国・日本ともに古くは「蜥蜴(とかげ」)の意にも用いられるので要注意である。

「マヒマヒムシ」後の運動行動から判るように昆虫綱鞘翅(コウチュウ)目飽食(オサムシ)亜目オサムシ上科ミズスマシ科 Gyrinidae のに属する甲虫の一群、ミズスマシ類を指す。本邦には三属十七種ほどが知られる。

「甲に黄色な美しい條文(しま)のある美しい蝸牛」私は陸生有肺類が実は苦手で、これはぴんと来ない。そもそもが貝類の専門家でないハーンの言う、黄色い縞とはどの方向にどのようにある「縞」なのかが、実は良く分からない。螺頂から放射状にある「縞」とするのが普通であろうから、そうなると私の持つ多くの貝類図鑑でこれはと思うのは、分布域から見ると、腹足綱有肺目真有肺亜目柄眼下目マイマイ上科オナジマイマイ科オナジマイマイ亜科マイマイ属のコガネマイマイ種群(Euhadra sandai group)に属するダイセンニシキマイマイEuhadra sandai daisenica 辺りかその周辺の仲間らしくは見える(同種は吉良図鑑によれば中国山地の高地に分布するとされ、「高地」というのが気にはなる)。識者の御教授を乞う。

「ダイダイムシは出雲での名、字書での言葉は『デデムシ』」柳田國男の「蝸牛考」(改訂版・一九九〇年ちくま文庫刊「柳田國男全集」第十九巻)の蝸牛(かたつむり)の異名分布リストには「デデムシ・デンデンムシ系」の中に『ダイダイムシ・ダェダェムシ』として『島苑、松江市附近』とあるのと一致する(なお、私は現在、「蝸牛考」初版の電子化注をブログ・カテゴリ「柳田國男」で行っている)。

「龜はコムピラといふ神の召使」既注であるが、再掲する。海上交通の守護神金比羅は、もとインド神話の怪魚クンビーラ(マカラ)で、ガンジス川に棲む鰐を神格化した水神とされ(日本では蛇型とされる)、本来はこのクンビーラの上にガンジス川を支配する女神ガンガーが乗るとされたが、洒落のようだがインドの石窟寺院では亀の上にそのクンビーラが、そのまた上にガンガーが乗った形象を作るという記載をネット上で見かけたことから考えると、伝来過程でクンビーラが亀と一体化してしまったものと思われる。

「イシガメ」この和名は、狭義には半水棲で淡水に棲息する爬虫綱カメ目潜頸亜目リクガメ上科イシガメ科イシガメ属ニホンイシガメ Mauremys japonica を指す。ハーンはここで、“tortoise” “turtle”を使い分けてはおり、前者は主に陸生のカメ類を、後者は本文にあるように「海龜(タアトル)」、主に海産のカメ類を指す英語ではある。しかし、こう主張する人の言に従えば、先に記された漁師の「信心深い漁師は龜を見付けると、その背ヘ『金比羅樣の召使』といふ意味の文字を書いて、それからサケを一ぱい飮ませて放す」という行動はお門違いと言うことになる。いろいろな見解をなるべく採ろうした結果ではあろうが、私は何となく、アカデミズムのインキ臭い、実にいやな臭いがすると言っておきたい。ハーンに、というより、そう限定主張する御仁に対して、である。

「海龜は、その息で、雲、霧、或は壯麗な宮殿を造り出す力を有つて居ると言はれて居る。それはあの美しい昔のウラシマ傳説に出て來て居る」ちょっと待てや! こんなん、読んだ外国人は浦島太郎は亀の造り出した幻像の龍宮で幻像の乙姫に逢い、それを愛したということになるで?! そんな大蝦蟇まいたような幻術じゃったとしたら、白髪になった浦島太郎はもっと救われへんがな! ハーンはん! ちょっといい加減にしなはれや!……これはどうみても、妖気によって蜃気楼生み出すとされる大蛤と大亀を一緒くたにしてしまったトンデモ解説にしか見えない(人語を操り、巨大化し、浦島を載せては海底深く或いは洋上遠き地へと易々と連れ去る点からは確かに大亀がそうした妖術を操るというべきではあろうが)私。も浦島伝説には個人的に殊の外、興味があり、人よりは異伝を多く渉猟しているつもりだが、こんな話は聴いたことがない。御存じの方は是非とも御教授を乞うものである。

「日本の美術家の手に成つた見事な繪を添へた『日本の御伽噺叢書』中の、そのチエムバレン教授の飜譯」書名原文は“The Japanese Fairy Tale Series”。なんと素晴らしいことか! サイト「学校法人京都外国語大学創立60周年記念稀覯書展示会 文明開化期のちりめん本と浮世絵」の8.8 The Fisher-Boy Urashima.『浦島』(Urashima, and French, Portuguese, Spanish eds.がそれにかなり忠実なものらしい。挿絵も同じ小林永濯(えいたく)のもの! 一見するに若かず!

「ミノガメ」蓑亀。緑色の淡水藻を甲羅に纏い、それが蓑のように体部の後ろに棚引いたものであって、種名でも何でもない。しかも自然界で藻が附着することは往々にしてあるが、このように絵に描いたよう人間の見た目で綺麗につくことはまずあり得ない。私の寺島良安和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類の「みのかめ 綠毛龜」をまるごと、私の注も含めて引いておく(原文は原典からで、〔 〕部分は私が補正・補注したもの。図は平凡社東洋文庫のものを使用している)。

   *

Mino_2

みのかめ       綠衣使者

綠毛龜       【俗云蓑龜】

ロツ マ゜ウ クイ

 

本綱綠毛龜今惟蘄州以充方物養鬻者取自溪澗畜水

[やぶちゃん字注:底本では「蘄」の(くさかんむり)は(へん)の上のみであるが、正字とした。]

缸中飼以魚鰕冬則除水久久生毛長四五寸毛中有金

線脊骨有三稜底甲如象牙色其大如五銖錢者爲眞他

龜久養亦生毛但大而無金線底色黃黑爲異爾

△按太〔→大〕抵畫工所圖龜皆有長毛如綠毛龜而本朝希有

之者也稱光帝應永廿七年河州獻綠毛龜蓋久畜生

毛者非也尋常水龜冬藏泥中春出時甲上被藻苔靑

綠色如毛捕之數撫而不脱經月則毛落如常

 

〇やぶちゃんの書き下し文

 

みのがめ       綠衣使者

綠毛龜       【俗に蓑龜と云ふ。】

ロツ マ゜ウ クイ

 

「本綱」に、『綠毛龜は、今、惟だ蘄州(きしう)より以て方物〔(はうもつ):特産品。〕に充つ。養ひて鬻ぐ者、溪澗より取りて水缸〔(すゐかう)〕の中に畜ふ。飼ふに魚-鰕(ゑび)を以てす。冬は則ち水を除く。久久にして毛を生ず。長さ四~五寸。毛の中に金線有り。脊骨に三稜有り。底甲、象牙の色のごとし。其の大いさ、五銖錢〔(ごしゆせん)〕の者を眞と爲す。他の龜も久しく養へば亦、毛を生ず。但し大にして金線無く、底色、黃黑なるを異と爲すのみ。』と。

△按ずるに、大抵、畫工の圖する所の龜、皆、長毛有りて綠毛龜のごとし。而も本朝希有の者なり。稱光帝の應永廿七年、河州〔=河内〕より綠毛龜を獻ず、と。蓋し久しく畜ひて毛を生ずるは非なり。尋常の水龜、冬、泥中に藏(い)れ、春、出づる時、甲の上に藻苔を被(かつ)ぐ。青綠色にして毛のごとし。之を捕へて數(しばしば)撫ぜて脱け〔ざるも〕、月を經れば、則ち毛落ちて常のごとし。

 

[やぶちゃん注:これは広く淡水産のカメ類(潜頸亜目リクガメ上科イシガメ科Geoemydidaeの仲間等)に藻類が付着したものであろうと思われるが、「脊骨に三稜有り」という叙述は、椎甲板と肋甲板に三対の筋状隆起(キールと呼称する)を持っているイシガメ科のクサガメChinemys reevesii等を思わせる。なお、この如何にも日本人好みのウラシマタロウガメ(私の造和名・浦島太郎亀)が好きで好きで、遂に自分で拵えちゃった有名人をご存知だろうか。南方熊楠、その人なんである。今、それを読んだ確かな資料を思い出せないでいるが、南方熊楠邸保存顕彰会常任理事の中瀬喜陽氏による「南方熊楠と亀」にその事実記載があったと記憶する。熊楠の悪戯っぽい笑みが、私にはよく見える。

「蘄州」は現在の湖北省蘄春県周辺。

「水缸」の「缸」は十升は入るという素焼きの大きな甕(かめ)。もたい。「みずがめ」と訓じてもよい。

「五銖錢」は中国古代の貨幣。前漢の武帝により鋳造されて以降、唐代に廃止されるまで中国史で最も長期に亙って流通した。私が実見したものは直径二・五センチメートル程のものであった(五銖錢は時代によって大きさも重量も著しく変化した)。実はアオイ科のゼニアオMalva sylvestris var. mauritianaの花はこの五銖錢の大きさであるという。ゼニアオイの花は凡そ二・五から三センチメートルほどである。しかし、そうなると♂で二十センチメートル、♀で三十センチメートルとなるクサガChinemys reevesiiは、その幼体と言って逃げるしかない苦しい状況に陥る。時珍の記述にある、この真の緑毛亀はかなり小さな個体群で、それはその大きさで成体であるように読める。クサガメ説はカメの首宜しく引っ込めた方がいいのかも知れない。

「稱光帝の應永廿七年」の称光天皇は室町期、第百一代天皇。武力でなく仁知によって国が治まる瑞兆とされる緑毛亀の効も空しく、病弱で、不和であった後小松天皇に院政を敷かれ、愛弟の小川宮との死別等も重なり、精神障害を患った幸薄い天皇である。応永二十七年は西暦一四二〇年で、実権は将軍足利義持。義持はやはり不和であった父の義満の掣肘からやっと開放された後で(義満は応永十五年死去)、応永二三(一四一六)年の上杉禅秀の乱では、これに連座したとして弟の義嗣を幽閉した上、二年後に殺害し、それに関わって細川満元や斯波義重の義嗣への加担を疑うことで、有力守護への牽制を行う等、幕政の保守化を促進させた。

「尋常の水龜」は「水龜」の項で同定したハナガメ(シナガメ)Ocadia sinensisはなく、特定種を指さない「普通の淡水産カメ類」の謂いととってよい。

   *]

 

 

   Now of the ujō or things having desire, which inhabit these gardens.

   There are four species of frogs: three that dwell in the lotus pond, and one that lives in the trees. The tree frog is a very pretty little creature, exquisitely green; it has a shrill cry, almost like the note of a semi; and it is called amagaeru, or 'the rain frog,' because, like its kindred in other countries, its croaking is an omen of rain. The pond frogs are called babagaeru, shinagaeru, and Tono-san-gaeru. Of these, the first-named variety is the largest and the ugliest: its colour is very disagreeable, and its full name ('babagaeru' being a decent abbreviation) is quite as offensive as its hue. The shinagaeru, or 'striped frog,' is not handsome, except by comparison with the previously mentioned creature. But the Tono-san-gaeru, so called after a famed daimyo who left behind him a memory of great splendour is beautiful: its colour is a fine bronze-red.

   Besides these varieties of frogs there lives in the garden a huge uncouth goggle-eyed thing which, although called here hikigaeru, I take to be a toad. 'Hikigaeru' is the term ordinarily used for a bullfrog. This creature enters the house almost daily to be fed, and seems to have no fear even of strangers. My people consider it a luck-bringing visitor; and it is credited with the power of drawing all the mosquitoes out of a room into its mouth by simply sucking its breath in. Much as it is cherished by gardeners and others, there is a legend about a goblin toad of old times, which, by thus sucking in its breath, drew into its mouth, not insects, but men.

   The pond is inhabited also by many small fish; imori, or newts, with bright red bellies; and multitudes of little water-beetles, called maimaimushi, which pass their whole time in gyrating upon the surface of the water so rapidly that it is almost impossible to distinguish their shape clearly. A man who runs about aimlessly to and fro, under the influence of excitement, is compared to a maimaimushi. And there are some beautiful snails, with yellow stripes on their shells. Japanese children have a charm-song which is supposed to have power to make the snail put out its horns:

       Daidaimushi, [22] daidaimushi, tsuno chitto dashare!

       Ame haze fuku kara tsuno chitto dashare! [23]

   The playground of the children of the better classes has always been the family garden, as that of the children of the poor is the temple court. It is in the garden that the little ones first learn something of the wonderful life of plants and the marvels of the insect world; and there, also, they are first taught those pretty legends and songs about birds and flowers which form so charming a part of Japanese folk-lore. As the home training of the child is left mostly to the mother, lessons of kindness to animals are early inculcated; and the results are strongly marked in after life It is true, Japanese children are not entirely free from that unconscious tendency to cruelty characteristic of children in all countries, as a survival of primitive instincts. But in this regard the great moral difference between the sexes is strongly marked from the earliest years. The tenderness of the woman-soul appears even in the child. Little Japanese girls who play with insects or small animals rarely hurt them, and generally set them free after they have afforded a reasonable amount of amusement. Little boys are not nearly so good, when out of sight of parents or guardians. But if seen doing anything cruel, a child is made to feel ashamed of the act, and hears the Buddhist warning, 'Thy future birth will be unhappy, if thou dost cruel things.'

   Somewhere among the rocks in the pond lives a small tortoiseleft in the garden, probably, by the previous tenants of the house. It is very pretty, but manages to remain invisible for weeks at a time. In popular mythology, the tortoise is the servant of the divinity Kompira; [24] and if a pious fisherman finds a tortoise, he writes upon his back characters signifying 'Servant of the Deity Kompira,' and then gives it a drink of saké and sets it free. It is supposed to be very fond of saké.

   Some say that the land tortoise, or 'stone tortoise,' only, is the servant of Kompira, and the sea tortoise, or turtle, the servant of the Dragon Empire beneath the sea. The turtle is said to have the power to create, with its breath, a cloud, a fog, or a magnificent palace. It figures in the beautiful old folk-tale of Urashima. [25] All tortoises are supposed to live for a thousand years, wherefore one of the most frequent symbols of longevity in Japanese art is a tortoise. But the tortoise most commonly represented by native painters and metal-workers has a peculiar tail, or rather a multitude of small tails, extending behind it like the fringes of a straw rain-coat, mino, whence it is called minogamé. Now, some of the tortoises kept in the sacred tanks of Buddhist temples attain a prodigious age, and certain waterplants attach themselves to the creatures' shells and stream behind them when they walk. The myth of the minogamé is supposed to have had its origin in old artistic efforts to represent the appearance of such tortoises with confervae fastened upon their shells.

 

22 Daidaimushi in Izunio. The dictionary word is dedemushi. The snail is supposed to be very fond of wet weather; and one who goes out much in the rain is compared to a snail,—dedemushi no yona.

23 Snail, snail, put out your horns a little it rains and the wind is blowing, so put out your horns, just for a little while.

24 A Buddhist divinity, but within recent times identified by Shintō with the god Kotohira.

25 See Professor Chamberlains version of it in The Japanese Fairy Tale Series, with charming illustrations by a native artist.

2015/10/30

生物學講話 丘淺次郎 第十七章 親子(1) プロローグ/ 一 産み放し

     第十七章 親子

 

 種々の異なつた動物に就いて、親と子との關係を比べて見ると、これにも隨分著しい相違がある。しかもいづれの場合にも目的とする所は常に一つで、たゞそれを達するための手段が相異なるといふに過ぎぬ。一つの目的とはいふまでもなく種族の維持であつて、如何なる場合でもこの目的に撞著するやうなことはない。子を産み放すだけで更に構ひ附けぬものと。子を助けるためには自分の命をも捨てるものとを竝べて見ると、その行は互に相反する如くに思はれるが、よく調べて見ると結局同じことで、子を産み放して少しも世話をせぬ動物は、それでも種族の維侍が確に出來るだけの事情が必ず存する。また子のためには命を捨てる動物は、もし親にかゝる性質が具はつて居なかつたならば、必ず種族が斷絶すべき虞のあるものに限つてある。人間を標準として考へると子が敵に殺されるのを見ながら知らぬ顏をして居る親は如何にも無慈悲に見え、自ら進んで命を捨て子の危難を救ふものは如何にも熱情が溢れるやうに見えるが、自然を標準として考へると、いづれにもかくあるべき理由があつてかくするのであるから、一方を優れりとか一方を劣れりとかいふことは出來ぬ。これは習性の違うた動物をなるべく多く集めて、互に比較して見ると頗る明瞭に知れる。

 

     一 産み放し

 

 子を産み放したまゝで、少しも世話をせぬ動物の種類は極めて多い。所謂下等動物は大概子を産み放しにするものばかりで、幾分かでも子の世話をする種類はたゞ例外として、僅にその中に含まれて居るに過ぎぬ。しかし産んでから全く捨てて顧みぬものでも、産むときに適當な場處を選むといふことだけは必ずする。なぜといふに、もしも不適當な處に産んで卵が直に死んでしまへば、その種族の維侍繼續は無論出來ぬからである。

 

 「うに」・「なまこ」の類では、卵細胞と精蟲とが親の體を出てから勝手に出遇ふのであるから、子は生まれぬ前から親との緣が切れて、少しもその世話を受けぬ。體外受精をする「ごかい」の類や、「はまぐり」・「あさり」の如き二枚貝類も全くこれと同樣である。また魚類も大抵は卵を産み放しにする。魚の卵には水面に浮ぶものと、水底に附著するものとがあるが、若干の例外を除けば、いづれも獨力で小さな幼魚までに發育して、少しも親の世話になることはない。すべてこれらの動物は、極めて小さく弱いときから、獨力で生活を營まねばならず、隨つて餓ゑて死ぬことも、敵に食はれて死ぬことも頗る多かるべきは勿論でゐるから、これらの損失を最初から見越して、實に驚くべく多數の卵が常に生まれる。

 

 「海龜」は常に海中に住んで居るが、卵を産むときだけは陸へ上つて來る。東海道の砂濱では、幾らも龜の卵を雞卵の如くに賣り歩いて居るのを見掛けるが、龜が卵を産むのは必ず夜であつて、人の見ぬ靜なときを窺ひ、後足を以て砂の處に壺形の深い穴を掘り、その中へ澤山の卵を産み込み、丁寧に砂を被せて舊の如くにし、後足で自身の足跡を掃き消しながら海の方へ歸つて行く。それ故龜の卵のある場處を表面から知ることはなかなか出來ぬ。海龜は卵を産むときにはかくの如く實に用意周到であるが一旦産み終つた後は他へ去つて少しも構はず、卵はたゞ日光に温められて發育し、再び孵化する頃になると、幼兒は夜明け前に悉く揃うて殻を破り砂上に出で、一直線に海の方へ匍うて行くが、數百千の幼い龜が急いで砂の上を匍ふから、雨の降つて居るやうな音が聞える。南洋諸島に棲む「マッカンがに」は丁度これと反對で、親は常に陸上のみに棲み、椰子の樹に登り椰子の實を食ひなどして居るが、卵を産むときだけは海へ出掛ける。

[やぶちゃん注:「東海道の砂濱では、幾らも龜の卵を雞卵の如くに賣り歩いて居るのを見掛ける」爬虫綱カメ目潜頸亜目ウミガメ上科ウミガメ科 Cheloniidae に属するウミガメ類はアカウミガメ属 Caretta・アオウミガメ属 Chelonia・タイマイ属 Eretmochelys・ヒメウミガメ属 Lepidochelys・ヒラタウミガメ属 Natator に分かれるが、この内、日本沿岸で産卵が多く見られ、「東海道の砂濱」に産卵し、その卵が採取され、当時(本書の初版は大正五(一九一六)年発行)、普通にそれを「雞卵の如くに賣り歩いて居るのを見掛け」たというのは、アカウミガメ属アカウミガメ Caretta caretta と考えられる。日本では古から卵肉ともに食用にされてきたが、現在は往時の食用・剥製用採集に加え、砂浜海岸の開発による産卵地消失、漁業による混獲及びビニール等の海洋投棄物の誤飲などによって生息数が減少、さらに日本の「絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約」(Convention on International Trade in Endangered Species of Wild Fauna and Flora CITES(サイテス))通称、ワシントン条約(Washington Convention)の締約(一九八〇年十一月四日)によって、同条約附属書附属書I(絶滅の虞のある種。商業目的の国際取引が制限されており、輸出入許可書の交付が必要な約千種)に含まれるため、実際に食すことは殆んど不可能になった。私はしかし、一九八〇年代後半にとある場所で食したことがある。鶏卵の一・五倍はあり、白身には有意な塩味があって黄身は非常に濃厚であった。

「マッカンがに」甲殻綱十脚(エビ)目エビ亜目ヤドカリ下目ヤドカリ上科オカヤドカリ科ヤシガニ属ヤシガニ Birgus latro の異名。陸上生活をする甲殻類の最大種。ウィキの「ヤシガニ」によれば、『ヤシガニは成長すると産卵時を除いて水に入る事はない。また、まったく泳ぐことができないため、波打ち際までしか入ることができず、水の中ではおぼれる』。繁殖はまず、五月から九月の間で『陸上で頻繁に交尾を繰り返』すが、特に七、八月に『繁殖はピークを迎える。雄と雌は交尾のためにもみ合い、雄は雌を仰向けにして交尾を行う。全ての行為は』十五分ほどで、『交尾後間もなく、雌は自分の腹部の裏側に卵を産み付ける。雌は数ヶ月間卵を抱えたまま生活し』、は十月か十一月の『満潮時、いっせいに孵化したゾエアと呼ばれる幼生を』海際に出て海中に放出する。幼生は二十八日間ほど『海中をただようが、その間に大部分は他の動物に捕食される。その後海底に降りてヤドカリのように貝殻を背負ってさらに』二十八日間ほど『成長を続けながら海岸を目指す。上陸後は水中で生活できる機能を失う。繁殖ができるようになるまでには』四年から八年『かかるとされ、甲殻類の中では例外的に長い期間である』とある(下線やぶちゃん)。丘先生は「椰子の樹に登り椰子の實を食ひなどして居る」と述べて、あたかもヤシ類(被子植物門単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科 Arecaceae)の実が主食で、能動的にヤシの樹を登攀して実を切り落とすかのように述べておられ、私が小さな頃の魚介図鑑にもヤシの木を登るヤシガニの挿絵を普通に見かけたものだが、『実際には、ヤシガニの食性は口に入るものなら腐敗した死肉でも食べる雑食性で、必ずしもその主食にヤシの実があるわけではない。ヤシの実を食すことは確かだが、実を切り落とすために木に登る習性も確認されておらず、上記のイメージは口述伝承から生まれた誤解である』。但し、『ヤシガニは強力な鋏脚でヤシの実の硬い繊維も切り裂く事が出来る。また、銀食器や鍋などきらきらとした物を持ち去ることから、英語では Robber Crab (泥棒蟹)あるいは Palm Thief (椰子泥棒)などと呼ばれることもある。また、若いヤシガニは貝殻の中にその身を隠すこともある。生息域がインド洋の最西端からミクロネシアまで広がっているため、様々な名前で知られており、グアムではアユユと呼ばれ、その他の地域ではウンガ、カヴュ等と呼ばれることがある。また、生息する地域により様々な色をしており、明るい紫色から茶色まである』とある(下線やぶちゃん)。この「マッカンがに」という「マッカン」は八重山列島に於ける地方名で、「マッコン」「マックン」「マコガニ」などとも呼ぶ(絶滅が危惧されている沖縄本島では「アンマク」と呼ぶ)。が、「マッカン」は我々が小さな頃、アメリカザリガニの大型の赤色の個体(実際には蒼紫を帯びた個体が多いが、やはり昔の図鑑類では赤く塗ってあった)を「マッカチン」と呼んだのと同じく、赤色系のヤシガニ(或いはボイルした際の赤色発色)からの呼称か? よりも大きく、体長は四十センチメートルを超え、脚を広げると一メートル以上にもなり、四キログラム以上に成長する。タカアシガニに次ぐ大きさと言える。寿命は五十年程度と考えられている。『ヤシガニはヤドカリの仲間ではあるが、その大きさのため成体は体に見合う大きさの貝殻を見つけることは困難である。若いヤシガニは、カタツムリの殻などを用い、成長するにつれて、ヤシの実などを使うこともある。他のヤドカリとは違い、成体は腹部がキチン質や石灰質でおおわれ硬く、カニのように尾を体の下に隠すことで身を守る。腹部が硬い物質でおおわれていることで、地上でくらすことによる水分の蒸発を防ぐ。定期的に腹部を脱皮する必要があり、再び腹部が硬くなるまでは』三十日ほど『かかる。この間、ヤシガニは身を隠す』。以下、「食餌」の項を引く。『ヤシガニは主にヤシの実の胚乳であるコプラやイチジクなどの果物を食べるが、雑食性で、口に入れることができるものなら何でも食べる。沖縄の先島では、熟したアダンの実をばらばらにして食べる。葉や腐った果物、カメの卵、動物の死骸も食べる。オカヤドカリ同様、共食いもある。現在は行っていない養殖場での経験では、脱皮するヤシガニを他のヤシガニが攻撃するという。必要なカルシウムなどは他の動物の殻を食べることで補っていると推測される。また、生まれたばかりのウミガメの子供のように逃げ足が遅いものも食べてしまう。ヤシガニ同士で食べ物の取り合いをすることが知られており、手に入れた食べ物はその場で食べずに巣に持ち帰って食べる』。『沖縄の宮古島ではヤシガニを夏に捕えて茹でて食べる。ヤシガニは食物を得るため、または暑さや天敵を逃れるために木を登る。アダンの木に登っているのはよく目撃される。ヤシガニがヤシの実を食べているのを目撃した人の中には、木に登って実を切り落とし、地上に落ちたところを食べると考えた人もいる。しかしドイツ人の科学者ホルゲル・ランプフによると、ヤシガニは木の上でヤシの実を食べようとして偶然切り落としてしまうだけであり、そのような知性はないとする。ヤシガニは熟したヤシの実にハサミで穴を開け、中身を食べてしまう』とある(下線やぶちゃん)。]

Tanagosanran

[「たなご」の産卵]

[やぶちゃん注:これは国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像トリミングし、補正を加えた。]

 

 蛙の類は多くは水中へ卵を産んで、その後は少しも構はずに置くが、卵はそのまゝ水の中で「おたまじやくし」になるから何の差支もない。但し、「靑蛙」などは例外で、水田の傍の土に孔を穿ちその中で産卵する。卵は粘液を搔き廻した泡に包まれて塊となつて居るが、追々發育が進んで「おたまじやくし」の形になり掛る頃には、泡は溶けて卵と共に水中に流れ落ちるからその先の生長は差支なく出來る。これなども産み放しではあるが産むときに已に子の生長に差支が生ぜぬだけの注意が拂はれて居る。淡水に産する「たなご」は、長い産卵管を用ゐて生きた「からす貝」の貝殻の内へ卵を産み込むが、産んだ後は、少しも構わぬ。卵は貝の鰓の間で發育し、小さな魚の形までに生長してから水中に游ぎ出るのである。

[やぶちゃん注:「靑蛙」両生綱無尾目 Neobatrachia 亜目アオガエル科アオガエル亜科に属するアオガエル類で模式属はアオガエル属 Rhacophorus であるが、ここで丘先生は『水田の傍の土に孔を穿ちその中で産卵する。卵は粘液を搔き廻した泡に包まれて塊となつて居るが、追々發育が進んで「おたまじやくし」の形になり掛る頃には、泡は溶けて卵と共に水中に流れ落ちる』と描写されていることから、これはアオガエル属シュレーゲルアオガエル Rhacophorus schlegelii か。ウィキの「シュレーゲルアオガエル」を見ると、『外見はモリアオガエルの無斑型に似ているが、やや小型で、虹彩が黄色いことで区別できる。また、ニホンアマガエルにも似ているが、より大型になること、鼻筋から目、耳にかけて褐色の線がないこと、褐色になってもまだら模様が出ないことなどで区別できる』とし、『水田や森林等に生息し、繁殖期には水田や湖沼に集まる。繁殖期はおもに』四月から五月に『かけてだが、地域によっては』二月から八月まで『ばらつきがある』。『繁殖期になるとオスは水辺の岸辺で鳴く。鳴き声はニホンアマガエルよりも小さくて高く、「コロロ・コロロ」と聞こえる。地中の小さな穴の中で鳴く場合が多く、声の元を凝視しても姿は確認できない』。一匹の『メスに複数のオスが集まり抱接』し、『畦などの水辺の岸辺に、クリーム色の泡で包まれた』三~一〇センチメートルほどの『卵塊を産卵』し、泡の中には二百個から三百個ほどの『卵が含まれるが、土中に産卵することも多くあまり目立たない』。『孵化したオタマジャクシは雨で泡が溶けるとともに水中へ流れ落ち、水中生活を始める』とあって、さらに、『地域によってはタヌキがこの卵塊を襲うことが知られる。夜間に畦にあるこの種の卵塊の入った穴を掘り返し、中にある卵塊を食うという。翌朝に見ると、水田の縁に泡と少数の卵が残されて浮いているのが見かけられる』とあることから、丘先生のこれは本シュレーゲルアオガエル Rhacophorus schlegelii に同定したい(下線やぶちゃん)。

「たなご」条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科タナゴ亜科タナゴ属タナゴ Acheilognathus melanogaster 。ウィキの「タナゴ」によれば、『「タナゴ」の呼称は本種の標準和名であるとともにタナゴ亜科魚類の総称としても用いられるので、厳密に本種だけを指すかタナゴ亜科全般を指すか、用法に注意する必要がある。各種フィールド調査においても、タナゴ亜科のどの種なのかを明確に個体識別せずに「タナゴ」とし、後刻混乱するケースが間々見受けられる。専門の研究者は「モリオカエ」(moriokae:本種のシノニム)と呼称して混同を防いでいる』。『関東地方の釣り人の間では、ヤリタナゴやアカヒレタビラとの混称でマタナゴという別名が用いられることもある。また、海水魚 Ditrema temmincki の和名は「ウミタナゴ」で、本種と姿形が似ることからその名が付けられたが、分類上はスズキ目ベラ亜目ウミタナゴ科に属するまったく別の魚である』。タナゴ Acheilognathus melanogaster は『日本固有種で、本州の関東地方以北の太平洋側だけに分布する。分布南限は神奈川県鶴見川水系、北限は青森県鷹架沼とされ、生息地はこの間に散在する。各地で個体数が激減しており、絶滅が危惧される状況となっている』体長は六~十センチメートルで、『タナゴ類としては前後に細長く、日本産タナゴ類』十八種の『うちで最も体高が低いとされる。体色は銀色で、肩部には不鮮明な青緑色の斑紋、体側面に緑色の縦帯、背鰭に』二対の白い斑紋が入り、口角に一対の口髭を持つ。『繁殖期になるとオスは鰓ぶたから胸鰭にかけて薄いピンク色、腹面は黒くなり、尻鰭の縁に白い斑点が現れる。種小名 melanogaster は「黒い腹」の意で、オスの婚姻色に由来する。メスには明らかな婚姻色は発現せず、基部が褐色で先端は灰色の産卵管が現れる』。『湖、池沼、川の下流域などの、水流がないか緩やかで、水草が繁茂する所に生息する。食性は雑食で、小型の水生昆虫や甲殻類、藻類等を食べる』。『繁殖形態は卵生で、繁殖期は』三~六月で、『産卵床となる二枚貝には大型の貝種を選択する傾向がみられ、カラスガイやドブガイに卵を産みつける。卵は水温』摂氏十五度前後では五十時間ほどで『孵化し、仔魚は母貝内で卵黄を吸収して成長する。母貝から稚魚が浮出するまでには』一ヶ月ほどかかる。『しかしそのような貝もまた減少傾向にあることから個体数の減少に拍車をかけている』とある。カラスガイ及びドブガイが次注を参照のこと。

「からす貝」前注で見た通り、タナゴ Acheilognathus melanogaster が産卵のために利用する(というよりも――卵を産み付けて幼体を寄生させる宿主――というべきで、以前に述べた通り、私は「片利共生」などというまやかしの学術用語は認めない。鰓に産み付けられることで宿主の酸素供給はそれが有意であるかないかは別として明らかに阻害されるし、そもそも産みつけられる貝側には利益は全くないからである、これは幼体の「寄生」であり、タナゴの幼体は「寄生虫」である)貝はカラスガイ一種ではない。斧足綱古異歯亜綱イシガイ目イシガイ科イケチョウ亜科カラスガイGristaria Plicata

及び同属の、

琵琶湖固有種メンカラスガイCristaria plicata clessini

(カラスガイに比して殻が薄く、殻幅が膨らむ)と、大型で別属の、

イシガイ科ドブガイ属ヌマガイSinanodonta lauta(ドブガイA型)

と、その小型種である、

タガイ Sinanodonta japonica(ドブガイB型)

の四種を挙げるべきであろう。なお、このカラスガイとドブガイとは、非常に良く似ているが、貝殻の蝶番(縫合部)で識別が出来、カラスガイは左側の擬主歯がなく、右の後側歯はある(擬主歯及び後側歯は貝の縫合(蝶番)部分に見られる突起)が、ドブガイには左側の擬主歯も右の後側歯もない。私の電子テクスト寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「蚌(どぶがい)」及び「馬刀(からすがい)」の項の注で詳細に分析しているので参照されたい。]

 

 昆蟲類も多くは卵を産み放しにする。變態の行はれるために、幼蟲と成蟲とでは、住處も食物も敵も違ふのが常でゐるが、成蟲が卵を産むときには成蟲の習性には構はず、必ず幼蟲の發育に都合の好い場處を選ぶ。例へば「とんぼ」の成蟲は空中を飛んで、昆蟲を捕へ食ふが、卵は必ず水の中に産む。これは「とんぼ」の幼蟲は水の中で發育するからである。また蝶の成蟲は花の蜜を吸ふだけであるが、卵は必ず草木の葉に産み附ける。これは蝶の幼蟲は毛蟲または芋蟲であつて、草木の葉を食ひ生長するからである。蚊が汚水に卵を産み落し、蠅が腐肉に卵を産み附けるのも同じ理窟で、單に産み放してさへ置けば、幼姦は食物の缺乏なしに必ずよく育つからである。

Kaikonoujibae

[蠶の蛆蠅]

[やぶちゃん注:これは国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像トリミングし、補正を加えた。]

 

 寄生生活をする昆蟲の卵の産みやうは更に面白い。蠶に寄生する蛆の親は一種の蠅であるが、卵を必ず桑の葉の裏に産み附ける。かうして置けば、後は全く捨て置いても、以前に蠶に食はれ、その體内で發育して大きな蛆となり、蠶の體から匍ひ出し、地中へ潜り込んで蛹となり、翌年蠅となつて飛び出す。蝶・蛾の幼蟲に寄生する小さな蜂の類は隨分數多くあり、そのため年々知らぬ間に農作物の害蟲が餘程まで防がれて居るわけであるが、これらの小蜂は卵を必ず蝶・蛾の幼蟲の體に産み附ける。また「卵蜂」といひ、蝶・蛾の卵に自分の微細な卵を産み込んで歩く小さな蜂もある。これらはいづれも翅の生えた成蟲の生活狀態は幼蟲とは全く違うて、蝶・蛾の幼蟲や卵とは何の關係もないに拘らず、産卵するには必ずそれか出る幼蟲の育つやうな宿主動物を選んで、これに産み附ける本能を持つて居る。この點でなほ不思議に感ぜられるのは「尾長蜂」類の産卵である。この類の幼蟲は樹木の幹の内部に棲む他の昆蟲の幼蟲に寄生するが、成蟲が卵を産むに當つて何らかの感覺によつて、幹の内の幼蟲の居る場處を知り長い産卵管で外から幹に孔を穿ち、内に居る幼蟲の體、もしくはその附近に卵を産み入れる。尾長蜂の産卵管が體に比べて數倍も長いのはそのためでゐる。卵から孵つて出た小さな蛆は、宿主である幼蟲の體内で生長し、終にこれを斃し、後蛹の時代を經て皮を脱ぎ親と同じ形の成蟲となつて飛び出すのである。

[やぶちゃん注:「蠶に寄生する蛆の親は一種の蠅である」これは双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目ハエ下目ヒツジバエ上科ヤドリバエ科 Tachinidae に属するカイコノウジバエ Blepharipa sericariae を指すものと思われる。成虫の体長は一三~一六ミリメートルと大型の蠅で全体に黒色を帯び、胸部は黒色の短毛が密生して長い剛毛が多い。翅は透明で基半部は褐色を帯びる。腹部は第二節及び第三節の前縁と両側部が赤褐色を呈し、灰色粉を持つ(ここまでは主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。宿主を殺す捕食寄生者であり、本種は養蚕では大きな被害が出る(食い破られた繭も本使用が出来なくなる)深刻な害虫である。

「蝶・蛾の幼蟲に寄生する小さな蜂の類は隨分數多くあり」ウィキの「寄生蜂から引く。『生活史の中で、寄生生活する時期を持つものの総称で』、『分類学的には、ハチ目細腰(ハチ)亜目寄生蜂下目 Parasitica に属する種がほとんどであるが、ヤドリキバチ上科』(ハバチ亜目 Symphyta )、『セイボウ上科』(ハチ亜目有剣下目 Aculeata )『など、別の分類群にも寄生性の種がいる』。『寄生バチはハチの中のいくつかの群に当たる範疇で、分類群としては、コバチ、コマユバチ、ヒメバチなどがある。幼虫が寄生生活を行うハチを指す言葉で、植物に寄生するものと、動物に寄生するものがあ』り、『植物に寄生するものでは、卵は植物の組織内部に産まれ、幼虫はその中で成長する。植物のその部分は往々にして膨れて虫こぶを形成する』。『動物に寄生するものは、一匹のメスが宿主に卵を産みつける。卵から孵った幼虫は、宿主の体を食べて成長する。その過程では宿主を殺すことはないが、ハチの幼虫が成長しきった段階では、宿主を殺してしまう、いわゆる捕食寄生者である』。『外部寄生のものは宿主の体表に卵が産み付けられ、幼虫はその体表で生活する。内部寄生のものも多く、その場合、幼虫が成熟すると宿主の体表に出てくるものと、内部で蛹になるものがある』。『宿主になるのは昆虫とクモ類で、昆虫では幼虫に寄生するものが多いが、卵に寄生するものもある。寄生の対象となる種は極めて多く、昆虫類ではノミやシミなど体積の問題がある種を除いて寄生を受けない種はないといわれ、すでに寄生中のヤドリバチやヤドリバエの中にすら二重三重に寄生する。ただし、一部の種には後から寄生してきたハチを幼虫が食い殺す例もあることが発見されている』。『動物に寄生する寄生バチは、いわゆる狩りバチと幼虫が昆虫などを生きながら食べ尽くす点ではよく似ている。相違点は、典型的な狩りバチでは雌親が獲物を麻酔し、それを自分が作った巣に確保する点である。その点、寄生バチは獲物(宿主)を麻酔せず、またそれを運んで巣穴に隠すこともない。しかし中間的なもの(エメラルドゴキブリバチなど)が存在し、おそらく寄生バチから狩りバチが進化したと考えられ』ているとある。リンク先には、ツチバチ科 Scoliidae(ファーブルの「昆虫記」で観察するファーブルと一緒になって、息をひそめて胸をわくわくさせながら読んだ「コガネムシを狩るツチバチ」のあれである)・コマユバチ科 Braconidae・ヒメバチ科 Icheumonidae の簡単な解説が載り、コバチ(コバチ上科 Chalcidoidea)はウィキの「コバチ」へのリンクが施されているので参照されたい。

「卵蜂」昆虫の卵に寄生する寄生蜂は数多くいるが、ここは細腰(ハチ)亜目コバチ上科タマゴコバチ科 Trichogrammatidae に属する種群か。「日本植物防疫協会」公式サイト内の「タマゴコバチ科の蜂の特徴」によれば、成虫でも一ミリ以下の者が多く、同科に属するものは後脚の附節が三節『であるという絶対的な特徴を持つので,他の蜂から容易に区別できる。この科は世界中に分布し,多様化が進んで』九十属ほどが記録されている、とある。

『「尾長蜂」類』寄生蜂下目ヒメバチ上科ヒメバチ科オナガバチ亜科Rhyssinae に属する種群。]

Onagabatinosanran

[尾長蜂の産卵]

[やぶちゃん注:これは国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像トリミングし、補正を加えた。これは本文と絵の右手の描画から、本来は縦方向で木の幹の中の芋虫へ産卵管を刺している図である。昆虫の苦手な私には種までは同定出来ない。]
 
 

 以上幾つかの例で示した通り、動物には、卵を産み放したまゝで、その後少しも世話をせぬものが非常に多いが、かゝる場合には必ず非常に多くの卵を産むか、または子がよく育つべき場處を選んで産み附けるかして、特に親がこれを保護せずとも種族の維持繼續が確に出來るだけの道は具はつてゐる。

2015/10/29

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (八)

       八

 第三の庭は、これは甚だ大きなもので、この蓮池のある構内を越して、この昔の士族町の北と東北の境を成して居る、森の小山の麓まで延びて居る。前(せん)にはこの廣い平坦な地面は全部竹藪が占めて居た。が、今は雜草や野花の荒地に過ぎぬ。東北の隅に素晴らしい井戸があうって、其處から極はめて器用な竹筒の小さな水道でもつて、氷と冷たい水が家へ運ばれて居る。そして西北の角には丈高い雜草に蔽ははれて、稻荷の甚だ小さな石の祠があつて、其前にそれに釣合つて小さな石の狐が二匹立つて居る、祠も狐の像も削がれ毀たれて、綠濃き苔が厚く處々に附いてゐる。が、家の東側の、庭のこの大きな區分の屬する四角な小さな一と地面は、今なほ耕作されて居る。それは、全部菊に使用されて居て、その菊は、輕い木でシヤウジのやうに、劃々(しきりしきり)に白い紙を貼つて造つた斜めな枠物の、竹の細い柱の上で天幕のやうに支へられたものでもつて、非道い雨と強い日光とに遭はぬやう庇はれて居る。日本の花卉栽培のこの驚くべき産物その物に就いては、自分は既に他人が筆にして居ることに何物をも加ふるを敢てし得ぬ。が、菊に關係のある短い物語で、自分が語つてもよからうと思ふのが一つある。

 日本のうちで、やがで判るであらう理由の爲め、菊を栽培するのは不吉だと考へられて居る處が一と處ある。その處といふのは、播磨の國の姫路といふ綺麗な小さな町である。姫路には櫓の數が三十ある、大きな城の廢趾がある。その城には祿高十五萬六千石の、或る大名が住んで居たものである。さて、その大名の重臣の一人の家に、良家の生まれの名おきくと呼ぶ女中が居た。「キク」といふは菊の花といふ意味である。その女中は責重品を澤山託されてゐて、そのうちに高價な黄金の皿が十枚あつた。そのうちの一枚が突然見えなくなつて、見つからなかつた。そこでその女の子は、それに責任を感じて、自分の身の潔白を他にどうして證明すべきかを知らなかつたから、井戸へ身を投げて死んだ。ところがそれからといふものいつも、その幽靈が夜毎歸り來ては、歔欷と共に、低い聲で皿の散を數へるのが聞かれた。

    イチマイ   ニマイ   サンマイ

    ヨマイ    ゴマイ   ロクマイ

    シチマイ   ハチマイ  クマイ――

すると絶望的な叫びと、高いわつと泣く聲とがきかれるのであつた。それからまた、その女の子の悲しさうに皿の數を數へる聲がする、『一枚――二枚――三枚――四枚――五枚――六枚――七枚――八枚――九枚――

 この女の靈魂が、その頭はふり亂した長い髮毛の幽靈の、それに微かに似て居る、妙な小さな蟲の身になつた。それはキクムシ即ち『おきくの蟲』と呼ばれて居る。そして姫路よりほか何處に居らぬといふことである。有名な脚本がおきくについて書かれて居て、ナンシウ・オキク・ノ・サラ・ヤシキ即ち『播州お菊の屋敷』と題して、民衆的な劇場何處でも今なほ演ぜられて居る。

 バンシウといふは束京(江戸)の或る古い町の名の、転訛に過ぎぬから、この話は其處へ持つて行かなければならぬと公言する人が居る。然し姫路の人はその町の一部分で、五軒屋敷と今呼ばれて居る處が、昔のその屋敷の跡だといふ。姫路のうちの五軒屋敷と呼ばれて居る處で菊を栽培するのは、おきくといふ名が『菊』を意味するが故に、不吉だと考へられて居る事は、これは確かに眞實である。その爲めに其處では誰も菊を栽培せぬ、と自分は聞いて居る。

[やぶちゃん注:今回から原則、原本Internet Archive版)を視認して、“Project Gutenberg” “Hearn, Lafcadio, 1850-1904 ¶”の電子テクストを原文に近い形(例えば、今までも補正してきた斜体に加え、改行冒頭三字下げや一部のダッシュの長さ等)に原文を補正表示することとした(いつかはせねばならないと考えていた)。但し、本ブログでは字空きが上手く反映されない。悪しからず。

「氷と冷たい水」誤訳。原文は“ice-cold water”である。冬場なら氷交じりの水だろうが、ここは非常に冷たい水であって、「氷と冷たい水」ではない。

「菊を栽培するのは不吉だと考へられて居る處が一と處ある。その處といふのは、播磨の國の姫路といふ綺麗な小さな町である」この忌避慣習は少なくとも表立っては現在では残っていないように思われる。事実、守られている事実を御存じの方は、是非、御教授あられたい。因みに私の家系の一方である笠井家(母方の笠井家であるが、私の父方(藪野家)の祖母と母方の祖父は笠井家の兄妹であるから、私には最も濃い形で笠井家の血が流れていることになる)では朝顔を植えることを禁忌としている。いつか詳しく書こうと思うが、笠井家の先祖は加賀藩前田家の家老であったが(確認済)、後に何らかの不祥事によって改易のような処置を受け、これも理由不明乍ら、その嫡流当主が、ある時、朝顔畑の中で割腹して果てたから、と伝わる。植物禁忌伝承はよく聴くが、私自身の中の血の問題でもあり、これだけリアルな事実に裏附けられているのは比較的珍しい部類に属すると私は思っている。

「姫路には櫓の數が三十ある、大きな城の廢趾がある」城の櫓には何種もあり、どれを独立した櫓として数えるかによって城の櫓数はやや異なるようである(個人的には近世以降の城郭には私は全く興味がない)。ウィキの「姫路城」によれば、『現存建築物の内、大天守・小天守・渡櫓等』八棟が国宝に(渡櫓(わたりやぐら)とは天守や櫓、或いは櫓と別の櫓の間を繋ぐように建てられたものを指す)、七十四棟の各種建造物(櫓・渡櫓二十七棟、門十五棟、塀三十二棟)が『重要文化財に、それぞれ指定されている』とあるから、ハーンの言いはほぼ正確であろうと思われる。

「祿高十五萬六千石の、或る大名」ここは事実のみを述べる。兵庫県西南部を治めた姫路藩の石高は当初、関ヶ原の戦いの戦功によって池田輝政が慶長五(一六〇〇)年に播磨一国を与えられた折りは五十二万石であったが、後に転封・分割、徳川四天王の一人本多忠勝の子忠政が入封した元和三(一六一七)年には既に十五万石となっており、その後、幕末最後の第十代藩主酒井忠邦まで十五万石であった。即ち、この文脈を厳密に読み解くとなると、以下のお菊伝承は十五万石となった元和三(一六一七)年前後から幕末までの約二百五十年の閉区間の出来事と読めることにはなる。後注参照。

「その大名の重臣の一人の家」ここも知り得た事実のみを述べる。ウィキの「姫路藩」によれば、姫路藩の知られた重臣は最後の酒井家の場合は、河合(川合)家で、先祖の『河合宗在が徳川家康に仕え』、永禄四(一五六一)年に『酒井正親に与力として附属せられて以降代々酒井家の家老職を務め』たとある。但し、酒井家初代姫路藩藩主忠恭(ただずみ)の入封は寛延二(一七四九)年であり、後に見る本伝承最大の濫觴(元凶)の一つである浄瑠璃「播州皿屋敷」の上演は元文六・寛保元(一七四一)年で八年も前あるから、とんだ無関係ではある。ただ、私が問題にしたいのは事実ではなく、流言飛語の内容に関わるの可能性の問題である/でしかない。後注参照。

「その大名の重臣の一人の家に、良家の生まれの名おきくと呼ぶ女中が居た」以下は御存じ、「皿屋敷」の伝承の典型的なラフな梗概である。ハーンの後の考証との比較も含め、少し長くなるが、ウィキの「皿屋敷」を引いて以下に見てみたい(下線やぶちゃん)。

 一般にはまさに播州姫路を舞台とする「播州皿屋敷」、江戸番町を舞台とする浄瑠璃「番町皿屋敷」で広く知られるものの、日本各地にその『類話がみられ、出雲国松江の皿屋敷、土佐国幡多郡の皿屋敷、さらに尼崎を舞台とした(皿ではなく針にまつわる)異聞が江戸時代に記録される』。『江戸時代、歌舞伎、浄瑠璃、講談等の題材となった。明治には、数々の手によって怪談として発表されている。大正、岡本綺堂の#戯曲『番町皿屋敷』は、恋愛悲劇として仕立て直したものである』。『古い原型に、播州を舞台とする話が室町末期の『竹叟夜話』にある』。これは播磨国永良荘(現在の兵庫県市川町)の永良竹叟が天正五(一五七七)年に書いた作品であるが、しかしこれは、『皿ではなく盃の話であり、一般通念の皿屋敷とは様々な点で異な』っている『皿や井戸が関わる怨み話としては』、十八世紀『初頭頃から、江戸の牛込御門あたりを背景にした話が散見され』、享保五(一七二〇)年、『大坂で歌舞伎の演目とされたことが知られ』(外題は私は不詳)、そして元文六・寛保元(一七四一)年に浄瑠璃「播州皿屋敷」が上演されるや、『お菊と云う名、皿にまつわる処罰、井筒の関わりなど、一般に知られる皿屋敷の要素を備えた物語が成立』した。宝暦八(一七五八)年に『講釈師の馬場文耕が『弁疑録』において、江戸の牛込御門内の番町を舞台に書き換え、これが講談ものの「番町皿屋敷」の礎石となっている』。『江戸の番町皿屋敷は、天樹院(千姫)の屋敷跡に住居を構えた火付盗賊改青山主膳(架空の人物)の話として定番化される。よって時代は』十七世紀『中葉以降の設定である』(場所は江戸であるが、これが姫路ならば先の注で示した、酒井家初代姫路藩藩主忠恭(ただずみ)入封の寛延二(一七四九)年と一致するのはただの偶然であろうか?)。『一方、播州ものでは、戦国時代の事件としている。姫路市の十二所神社内のお菊神社は、江戸中期の浄瑠璃に言及があって、その頃までには祀られているが、戦国時代までは遡れないと考察される』。『播州佐用郡の春名忠成による』宝暦四(一七五四)年の『西播怪談実記』に『「姫路皿屋敷の事」の一篇が所収され』ており、『お菊虫については、播州で』寛政七(一七九五)年に起った『虫(アゲハチョウの蛹)の大発生がお菊の祟りであるという巷間の俗説で、これもお菊伝説に継ぎ足された部分である』(私の「お菊虫」に関わる後注も参照されたい)。この異虫大発生の事実を受けたものであろう、後掲する江戸後期と推定される戯作「播州皿屋敷実録」、また『同様の話が記されている』、『幕末に姫路同心町に在住の福本勇次(村翁)編纂』になる「村翁夜話集」(安政年間の成立)などがあると記す(ここは一部、後の方に記載された内容を引き上げて繋げてある)。

 以下、寛保元(一七四一)年に大阪の豊竹座で初演された為永太郎兵衛・浅田一鳥作の「播州皿屋敷」について記載があるが、例の通り、幕府の咎めを回避するため、室町時代の細川家のお家騒動の一場面として仮想されてあり、『一般に知られる皿屋敷伝説に相当する部分は、この劇の下の巻「鉄山館」に仕込まれている、次のようなあらすじである』。『細川家の国家老、青山鉄山は、叛意をつのらせ姫路の城主にとってかわろうと好機をうかがっていた。そんなおり、細川家の当主、巴之介が家宝の唐絵の皿を盗まれ、足利将軍の不興を買って、流浪の憂き目にあう。鉄山は、細川家の宿敵、山名宗全と結託して、細川の若殿を毒殺しようと談義中に、委細をお菊に聞かれてしまい、お菊を抹殺にかかる。お菊が管理する唐絵の皿の一枚を隠し、その紛失の咎で攻め立てて切り捨てて井戸に投じた。とたんに、井筒の元からお菊の死霊が現れ、鉄山を悩ます。現場に駆けつけたお菊の夫、舟瀬三平に亡霊は入れ知恵をし、皿を取り戻す』。

 次に『江戸後期に書かれた、いわば好事家の「戯作(げさく)」であ』る「播州皿屋敷実録」(正確な成立年代は不詳)は時代背景を戦国時代とし、旧姫路城の第九代城主小寺則職(こでらのりもと 明応四(一四九五)年~天正四(一五七六)年)の『家臣青山鉄山が主家乗っ取りを企てていたが、これを衣笠元信なる忠臣が察知、自分の妾だったお菊という女性を鉄山の家の女中にし、鉄山の計略を探らせた。そして、元信は、青山が増位山の花見の席で則職を毒殺しようとしていることを突き止め、その花見の席に切り込み、則職を救出、家島に隠れさせ再起を図る』。『乗っ取りに失敗した鉄山は家中に密告者がいたとにらみ、家来の町坪弾四郎に調査するように命令した。程なく弾四郎は密告者がお菊であったことを突き止めた。そこで、以前からお菊のことが好きだった弾四郎は妾になれと言い寄った。しかし、お菊は拒否した。その態度に立腹した弾四郎は、お菊が管理を委任されていた』十枚揃えないと『意味のない家宝の毒消しの皿「こもがえの具足皿」のうちの一枚をわざと隠してお菊にその因縁を付け、とうとう責め殺して古井戸に死体を捨てた』。『以来その井戸から夜な夜なお菊が皿を数える声が聞こえた』。『やがて衣笠元信達小寺の家臣によって鉄山一味は討たれ、姫路城は無事、則職の元に返った。その後、則職はお菊の事を聞き、その死を哀れみ、十二所神社の中にお菊を「お菊大明神」として祀ったと言い伝えられている』。その後三百年ほど経った後、『城下に奇妙な形をした虫が大量発生し、人々はお菊が虫になって帰ってきたと言っていたといわれる』という異虫大発生の事実を因縁話のオチとした後日談附きである(因みにこの小寺則職の子、小寺政職が黒田官兵衛の最初の主君である)。

 次に、馬場文耕「皿屋敷弁疑録」が元となったとするに浄瑠璃「番町皿屋敷」の梗概。『牛込御門内五番町にかつて「吉田屋敷」と呼ばれる屋敷があり、これが赤坂に移転して空き地になった跡に千姫の御殿が造られたという。それも空き地になった後、その一角に火付盗賊改・青山播磨守主膳の屋敷があった。ここに菊という下女が奉公していた』承応二(一六五三)年の『正月二日、菊は主膳が大事にしていた皿十枚のうち』の一枚を『割ってしまった。怒った奥方は菊を責めるが、主膳はそれでは手ぬるいと皿一枚の代わりにと菊の中指を切り落とし、手打ちにするといって一室に監禁してしまう。菊は縄付きのまま部屋を抜け出して裏の古井戸に身を投げた。まもなく夜ごとに井戸の底から「一つ……二つ……」と皿を数える女の声が屋敷中に響き渡り、身の毛もよだつ恐ろしさであった。やがて奥方の産んだ子供には右の中指が無かった。やがてこの事件は公儀の耳にも入り、主膳は所領を没収された』。『その後もなお屋敷内で皿数えの声が続くというので、公儀は小石川伝通院の了誉上人に鎮魂の読経を依頼した。ある夜、上人が読経しているところに皿を数える声が「八つ……九つ……」、そこですかさず上人は「十」と付け加えると、菊の亡霊は「あらうれしや」と言って消え失せたという』。省略するが、この実在する登場人名について、ウィキの筆者は全く出鱈目であることを、事実に即して記載しているので是非読まれたいが、ここでは、本外題に名前だけ登場する、かの悲劇の女性千姫は播磨姫路新田藩初代藩主本多忠刻(ほんだただとき)の元妻であったことに着目しておきたい。因みに、『東京都内にはお菊の墓というものがいくつか見られる。現在東海道本線平塚駅近くにもお菊塚と刻まれた自然石の石碑がある。元々ここに彼女の墓が有ったが、戦後近隣の晴雲寺内に移動したという』。これは元文六(一七四一)年に平塚宿の宿役人眞壁源右衛門の娘菊が、奉公先の旗本青山主膳の屋敷で家宝の皿の紛失事件から手打ちにされ、長持に詰められて平塚に返されたのを弔ったものだという、とあり、また、『市ヶ谷駅近辺、千代田区九段南四丁目と五番町の境界の靖国通りから番町方面へ上る坂は、帯坂と呼称されるが、お菊が、髪をふり乱し、帯をひきずりながらここを通ったという伝説に付会されている』ともある。

 次に「皿屋敷伝説の発生」の項。『皿屋敷の伝説がいつ、どこで発生したのか、「いずれが原拠であるかは近世(江戸時代より)の随筆類でもしかとはわからぬし、また簡単に決定できるものでもあるまい」とされる』(越智治雄「皿屋敷の末流」『文學』 第三八(九)巻・一九七〇年よりの引用)。『三田村鳶魚は、本来、皿の要素がないため播州や尼崎伝説の由来を排すが』『播州を推す者もあり、橋本政次は『姫路城史』において太田垣家に起こった事件が原点ではないかとしている』(この「太田垣家に起こった事件」については次を参照)。

 さて、次に、現存する最も古い類話「竹叟夜話」についてであるが、これは執筆時の天正五(一五七七)年より百三十年も昔の事件を語っている。(一四四一)年に起った嘉吉の乱の後のこと、小田垣主馬助『という山名家の家老が播磨国青山(現・姫路市青山)の館代をしていた頃、花野という脇妾を寵愛していた。ここに出入りしていた笠寺新右衛門という若い郷士が花野に恋文を送り続けていたが拒絶され続けていた』。『ある時、小田垣が山名家から拝領していた鮑貝の五つ杯の一つが見あたらないことに気づき、花野に問いただしてもただ不思議なことと答えるだけ、怒った彼は杯を返せと彼女を責め立てた』。『実は笠寺がその一個を密かに隠していたのだが、彼は意趣返しに「杯が見つからなければ小田垣家も滅びる」と脅しながら花野を折檻し、ついには松の木にくくり上げて殺してしまった。その後、花野の怨念が毎夜仇をなしたという。やがてこの松は「首くくりの松」と呼ばれるようになった』。「竹叟夜話』の挿話によれば、『室町末と成立年代が古いが、皿ではなく盃用のアワビだったり、女性がお菊ではなく花野であり、青山氏の名もない等、後の『皿屋敷』と符合しない点も多々みられ』はするものの、印象的には現在知られる淵源の有力な一つであることは疑いないと言えると私は思う。

 以下、正徳二 (一七一二)年の宍戸円喜「当世智恵鑑」に載る「牛込の皿屋敷」を示し、ここで皿屋敷伝説の重要な要素である十枚組皿の内の一枚を損じて命を落とすモチーフが出現するという。それは、『江戸牛込の服部氏の妻は、きわめて妬み深く、夫が在番中に、妾が南京の皿の十枚のうち一枚を取り落として割ってしまったことにつけ、それでは接客用に使い物にならないので、買換えろと要求するが、古い品なので、もとより無理難題であった。更に罪を追及して、その女を幽閉して餓死させようとしたが』五日経っても『死なない。ついに手ずから絞め殺して、中間に金を渡して骸を棺に入れて運ばせたが、途中で女は蘇生した。女は隠し持った』二百両があると明かして命乞いするが、四人の『男たちはいったん金を懐にしたものの、後で事が知れたらまずいと、女を縊りなおして殺し野葬にする。後日、その妻は喉が腫れて塞がり、咀嚼ができずに危険な状態に陥り、その医者のところについに怨霊が出現し、自分に手をかけた男たち既に呪い殺したこと、どう治療しようと服部の妻は死ぬことを言い伝えた』という筋であるとする。『三田村鳶魚は、この例「井戸へ陥ったことが足りないだけで、宛然皿屋敷の怪談である」と』する。宝暦八(一七五八)年の馬場文耕「皿屋舗弁疑録」も江戸を舞台とした皿屋敷説話で、『その皿屋敷にまつわる前歴が綿密と語られ、その後は一般に知られる皿屋敷の内容』の話であり、『その前歴とは』、『将軍家光の代に、小姓組番頭の吉田大膳亮の屋敷を召し上げ、将軍の姉である天樹院(千姫)に住まわせた。この「吉田御殿」の天樹院のふるまいは、酒色に耽溺するなど悪い風聞が立つほどで、そのうち愛人の花井壱岐と女中の竹尾を恋仲と疑って虐殺し、井戸に捨てた。他にも犠牲者は累々とで、「小路町の井戸」と恐れられた。天樹院の死後、この吉田屋敷は荒廃し妖怪屋敷と呼ばれた』とある。『「弁疑録」では、この屋敷は、吉田屋敷からいったん空屋敷となったので、そもそも「更屋敷(サラ屋敷)」という名で、皿事件とは関係なしにそう呼ばれる所以があったのだとしている』とある。

 続く「その他の発生論」の項には、『中山太郎は播州ではないと断ずるものの、江戸説に肯定的であるわけではなく、独自の「紅皿缺皿」の民話を起源とする説を展開している。そうした民話の痕跡として、佐々木喜善が記憶からたどって中山に口述した宮城県亘理郡の言い伝えを引いて』おり、『幕末の喜多村信節『嬉遊笑覧』では、土佐の子供の鬼遊び「手々甲(セセガコウ)」の皿数えに由来をもとめている』とあって、本説話がかなり古くから全国的な広範なフィールドを持った古伝承であることを窺わせる。続く「類話」の項でも、『日本各地に類似の話が残っている』とし、『北は岩手県滝沢市や江刺市、南は鹿児島県南さつま市までと、分布は広』く、群馬県甘楽郡二町一村・滋賀県彦根市・島根県松江市・兵庫県尼崎市・高知県幡多郡二町一村・福岡県嘉麻市・宮城県亘理郡・長崎県五島列島福江島などに例がある、とする。そして、例話の冒頭に『正保の頃、出雲国松江の武士が秘蔵していた十枚皿の一枚を下女が取り落として砕き、怒った武士は下女を井戸に押し込んで殺す。だが「此ノ女死シテ亡魂消へズ」夜毎に一から九まで数え、ワッと泣き叫ぶ。そこで知恵者の僧が、合いの手で「十」と云うと、亡霊はそれ以来消滅した(元禄二年『本朝故事因縁集』)』という、ここで注するに興味深い例示を掲げてある。

 リンク先にも出る耳嚢 巻之五 菊蟲の事は私が電子化注しており、また、お暇な方はやはり私がつい先だって電子化した本伝承のパロディ、野葦平「をお読みになられることをお薦めする(実際には私は読みながら、哀しくなるのであるが)。

 最後に言っておくと、ハーンがここに出る松江の皿屋敷を記していないのは実は大いに不審ではある。

「キクムシ即ち『おきくの蟲』」これは一般にチョウ目 Glossata 亜目 Heteroneura 下目アゲハチョウ上科アゲハチョウ科アゲハチョウ亜科キシタアゲハ族ジャコウアゲハ Byasa alcinous の蛹を指す。耳嚢 巻之五 菊蟲の事の本文にもある通り、その形状が後ろ手に縛られた女性のような姿をしていることに由来する。従って「飛馳りし」や「玉蟲こがね蟲の樣成形という冒頭の記載は不審である。勿論、飛ばないし、タマムシやコガネムシにその色や形状は全く似ていない。後の嚢 五 菊蟲再談の事」の記載(『前に聞し形とは少し違ひて』とある)で分かるように、こちら記載時には、根岸は現物を見ておらず、ここは伝聞による誤記載と考えてよい。

「五軒屋敷」現行でも何と、行政地名として兵庫県姫路市五軒邸という地名が現存し、これがその旧五軒屋敷であるという。姫路城の東凡そ四百メートル直近である。]

 

 

 

 The third garden, which is very large, extends beyond the inclosure containing the lotus pond to the foot of the wooded hills which form the northern and
north-eastern boundary of this old samurai quarter. Formerly all this broad level space was occupied by a bamboo grove; but it is now little more than a
waste of grasses and wild flowers. In the north-east corner there is a magnificent well, from which ice-cold water is brought into the house through a most ingenious little aqueduct of bamboo pipes; and in the north-western end, veiled by tall weeds, there stands a very small stone shrine of Inari with two proportionately small stone foxes sitting before it. Shrine and images are chipped and broken, and thickly patched with dark green moss. But on the east
side of the house one little square of soil belonging to this large division of the garden is still cultivated. It is devoted entirely to chrysanthemum plants, which are shielded from heavy rain and strong sun by slanting frames of light wood fashioned, like shoji with panes of white paper, and supported like awnings upon thin posts of bamboo. I can venture to add nothing to what has already been written about these marvellous products of Japanese floriculture considered in themselves; but there is a little story relating to chrysanthemums which I may presume to tell.

   There is one place in Japan where it is thought unlucky to cultivate chrysanthemums, for reasons which shall presently appear; and that place is in the pretty little city of Himeji, in the province of Harima. Himeji contains the ruins of a great castle of thirty turrets; and a daimyo used to dwell therein whose revenue was one hundred and fifty-six thousand koku of rice. Now, in the house of one of that daimyo's chief retainers there was a maid-servant, of good family, whose name was O- Kiku; and the name 'Kiku' signifies a chrysanthemum flower. Many precious things were intrusted to her charge, and among others ten costly dishes of gold. One of these was suddenly missed, and could not be found; and the girl, being responsible therefor, and knowing not how otherwise to prove her innocence, drowned herself in a well. But ever thereafter her ghost, returning nightly, could be heard counting the dishes slowly, with sobs:

    Ichi-mai, Yo-mai,
 Shichi-mai,
    Ni-mai,  Go-mai,    Hachi-mai,
    San-mai,   Roku-mai,  Ku-mai

   Then would be heard a despairing cry and a loud burst of weeping; and again the girl's voice counting the dishes plaintively: 'Onetwothreefourfivesixseveneightnine'

   Her spirit passed into the body of a strange little insect, whose head faintly resembles that of a ghost with long dishevelled hair; and it is called O-Kiku-mushi, or 'the fly of O-Kiku'; and it is found, they say, nowhere save in Himeji. A famous play was written about O-Kiku, which is still acted in all the popular theatres, entitled Banshu-O-Kiku-no-Sara- yashiki; or, The Manor of the Dish of O-Kiku of Banshu.

   Some declare that Banshu is only the corruption of the name of an ancient quarter of Tokyo (Yedo), where the story should have been laid. But the people of Himeji say that part of their city now called Go-Ken- Yashiki is identical with the site of the ancient manor. What is certainly true is that to cultivate chrysanthemum flowers in the part of Himeji called Go-KenYashiki is deemed unlucky, because the name of O- Kiku signifies 'Chrysanthemum.' Therefore, nobody, I am told, ever cultivates chrysanthemums there.

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十五章 東京に関する覚書(8)皇居内園遊会/井上馨邸天皇誕生日祝賀会

 天皇陛下のお庭が、初めて特別な招待によって観覧のために開放された。数日前菊の展観に対する御招き状が、日本人と外国人とのすべての教授、並に恐らく同階級の日本人官吏のすべてに向って、発せられた。今明日がその日で、私は現在では大学と公式の関係は無いが、大学の役人と認められて、御招待にあずかった。今迄は只外国人にあっては外交団の人々のみが、お庭に入ることが出来た。一枚の切符について家族五人を連れて行くことが許されたので、どの一枚も最大限度にまで使用されたらしく思われた。貴婦人や子供達も多く、彼等は美々しく装っていた。子供達がこの上もなく行儀のよいのは、見ても気持がよかった。呶鳴(どな)ったり、叫んだり、男の子がやたらに走り廻ったりするようなことは、更に無かった。庭園はそれ自体がすでに完全な楽園であった。私はその驚く可き美しさを記述する言葉も、才能も持っていない。そこは広く、もとは平坦だった場所に築園されたのである。起伏する丘や、渓流が洩れる岩の谷や、谷や、橋や、ひなびた東屋(あずまや)等が建造され、そのいずれもが賞嘆に値した。

[やぶちゃん注:赤坂御用地内ではあるが、同地の中央に位置する池を中心とした回遊式庭園赤坂御苑は現在、天皇主催の園遊会が行われることで知られているが、この園遊会は昭和三八(一九六三)年に始まったもので、百三十三年まえの明治十五年に行われたこれが、全く同じ場所であったかどうかは定かでないものの、恐らく同位置であろう。]

 

 我々の仲間に、最近大学の教職についた背の高い外国人(米国人)がいた。彼はまるで瀬戸物店へ踏み込んだ牡牛だった。彼は庭園中を横行濶歩したが、何を見ても感心せず、事実、乱暴で莫迦気(ばかげ)きったことばかりいうので、我々はついに彼をまいて了った。だが、その前に、我々は外国製の安っぽくてギラギラした赤色の絨氈(じゅうたん)によって、その内部を胆をつぶす程ひどくされた、美しい小亭へ来た。この男はここに於てか、初めて讃う可き物を発見し、自然そのままの木材でつくった最も繊細で美しい指物細工のこの部屋に、かかる吃驚するような不調和な物がある事実を丸で感じずに、その美しさを論評するのであった。

[やぶちゃん注:「小亭」識者は一発で特定出来るのであろうが、私は行ったことも見たこともなく、向後も行くこともなく、見たくもないので不詳である。御教授戴ければ、お教え戴いた儘に追加注を附す用意はある。]

 

 花は変化に富み、優雅にも美麗であった。それ等は竹と葦の簾とで趣深くつくった日陰の下に排列してあった。もっと永久的な日除の出来た場所もあった。多くの驚く可き樹木の矮生樹があったが、その一つは直径二十フィートの茂った葉群を持ちながら、高さは二フィート半を越えず、幹の直径は一フィートである。また野趣に富んだ垣根、橋、美しい小湖もあった。日本人は造園芸術にかけては世界一ともいうべく、彼等はあらゆる事象の美しさをたのしむらしく見えた。外国人とても同様であったが、只例の背の高い教授だけは例外で、彼はマゴマゴしたのみでなく、断然不幸そうに見えた。

[やぶちゃん注:「二十フィート」六・〇九六メートル。

「二フィート半」四十五・七二センチメートル。

「一フィート」三十・四八センチメートル。]

 

 十一月三日、外務大臣井上侯爵が、皇帝陛下の御誕生日を祝う意味で盛大な宴会をひらいた。この宴会に招れたのは、外国の外交官全部、教授階級のすべての教師、並びに多数の高官たちである。招待状は千通発送された。井上侯爵の家は大きくて広々とし、全部西洋風である。庭園は迸出する瓦斯や提灯(ちょうちん)で輝かしく照明されていた。実にいろいろな衣裳が見られた。日本の貴婦人達は美しくよそおい、各国民――フランス、ロシア、スイス、ドイツ、イタリー、英国、米国等の大公使館の人々は、それぞれの制服を着ていたが、光まばゆい勲章をつけている人も多かった。支那人七人と朝鮮人八人とは、自国の服装をしていた。

[やぶちゃん注:「十一月三日」「皇帝陛下の御誕生日」明治天皇の誕生日(天長節)は嘉永五年九月二十二日であるが、これはグレゴリオ暦で一八五二年十一月三日である。新暦で祝っていることに着目されたい。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」には、この翌年に開館する『鹿鳴館の予行演習のような会であった』とある。

「迸出」「へいしゅつ」或いは「ほうしゅつ」と読む。迸(ほとばし)り出ること。

「外務大臣井上侯爵」元長州藩士の井上馨(かおる 天保六(一八三六)年~大正四(一九一五)年)。正しくは当時はまだ「外務卿」である(明治一二(一八七九)年九月十日就任。この後の内閣制施行後の第一次伊藤内閣に於いて明治一八(一八八五)年十二月二十二日に初代「外務大臣」となっている)。ウィキの「井上馨」によれば、この明治一五(一八八二)年には、『壬午事変が起こると朝鮮と済物浦条約を締結して戦争を回避、また条約改正の観点から欧化政策を推進して鹿鳴館と帝国ホテル建設に尽力した。同年、海運業独占の三菱財閥系列の郵便汽船三菱会社に対抗して三井など諸企業を結集させ共同運輸会社を設立したが、後に両者を和睦・合併させ日本郵船を誕生させた』とある。ここに出る彼の邸宅は現在の東京都港区麻布の鳥居坂(とりいざか)にあったそれか。]

 

 私にとって最も興味が深かったのは、隣り合って席を占め、交互に吹奏した陸軍と海軍の日本軍楽隊であった。彼等は日本人の指揮者と、すべての現代的の楽界を持つ、非常に完備した楽隊で、古い作曲家達の音楽を、極めて正確に演奏した。私は彼等の演奏のハキハキしたこと、正確なこと及び四年間に於る彼等の進歩に驚かされた。何故かというに、私は四年以前、陸軍軍楽隊が奏楽するのを聞き、いまだに明瞭に、その演奏が如何にお粗末であったかを覚えていたからである。その時私は、たとえ日本人が如何に完全に外国の様式を取り入れ得るにしても、音楽に関するかぎり、その意味をつかみ、適当に演奏することは出来ぬであろうという結論に達した。私は二つの音楽が、全く相異しているので、このように思考したのであった。今や私は、この結論を変更し、我々の音楽に関しては、単に練習が必要であったのだといわねばならぬ。余程の達人にあらずんば、演奏しつつあるのが日本人であるか、それとも上手な外国人の音楽着であるか、判断出来まいと思われた。また数名の日本人の紳士淑女が舞踊に加っているのは面白く思われたが、彼等はよく踊った。地階でも一階でも、美味な小食が供され、葡萄酒、三鞭(シャンペン)、麦酒(ビール)が沢山あった。外庭では光まばゆい花火が打ち出され、すべてをひっくるめて、これは非常なもてなしであった。

[やぶちゃん注:「四年以前、陸軍軍楽隊が奏楽するのを聞き」原文を見ると確かにモースは“the Army band”としつつ、その前では“the two Japanese brass bands, the Army and the Navy”と陸軍軍楽隊と海軍軍楽隊の区別をしているように見える。しかし、ここは「陸軍軍楽隊」ではなく、単に「軍楽隊」と訳すべきかと私は思う。何故なら、先行する「日本その日その日」の四年前の来日の際の記事では、九章 大学の仕事 8 海軍軍楽隊の演奏批評(特にこの辛口批評はここでの回顧叙述とよく一致する)、第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 9 東京運動倶楽部運動会及び第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 44 「日本先住民の証跡」講演 / 一時帰国の送別会の三箇所で軍楽隊の演奏をモースは聴いているものの、それらは総て海軍軍楽隊によるものだからである。]

2015/10/28

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十五章 東京に関する覚書(7)「すみれ」/「天井」/「馬鹿」

 董(すみれ)のことを一般的にスモー トリ グサと呼ぶが、スモー トリは「相撲取り」で、子供達が花をひっかけ合わせ、両方に引いてどっちが負けるかを見て遊ぶからである。

[やぶちゃん注:まず原文を示す。

 

The common name for violets is sumo-tori-gusa, sumo-tori meaning "wrestler," as the children play with the flowers by hooking them together and pulling them apart to see which one yields.

 

狭義の「スミレ」はキントラノオ目スミレ科スミレ属スミレ Viola mandshurica を指すが、類似種や近縁種も多く、一般にはそれらも十把一絡げで「スミレ」と呼称しているからスミレ属スミレ Viola の仲間を指すとするのが賢明であろう。「相撲取り草」はスミレの異称であるが――これ、実はこれが何と!――「すみれ」の語源説の有力な一つらしいのである!――「相撲取れ!」の「すもうとれ」が「すまいつれ(すまいっれ)」となり、「すまいっれ」が「すみれ」へと転訛したというのである!――これは眼から鱗で、私は個人サイト「別府街角ウオッチン」の「草木名の話」の中のスミレ」で初めて知った。そこではこの遊びについて、『スミレの花の基部は筒状になって、ここに蜜をためる。これを距(きょ。もと、鳥の蹴爪(けづめ)のこと。)という。かつて子供たちは、スミレの距が後方へ突出しているのを互いに引っ掛けあって遊んだ。また伊勢地方では、むかしスミレの花を太郎坊、ジロボウエンゴサクの花を次郎坊とよび、二つの花の距を引き合って遊んだ、という。このとき、子供たちは「相撲(すまひ)とれ、相撲とれ」と、はやし立てて遊んだ。その「相撲とれ」が転化して「スミレ」となり、それが花の名前に転用されたと思われる』ともある。私は以前、牧野富太郎が「植物一家言」の中で、「すみれ」は花の形から「墨入れ」(大工さんが用いる道具「墨繩」)であるという説を読み、無批判にそのまま納得し続けていたのであるが、上記のリンク先のこれへの疑問提示から、これは確かにおかしいことも納得した。正直言うと私は実は牧野があまり好きではない。何故なら彼は、私が尊敬してやまない南方熊楠のことを「ろくな論文も書いていない」と批判したからである。牧野は熊楠が『ネイチャー』に多くの英文の学術論文を発表していることを知らなかったのであるが、そもそも小学校中退の非アカデミストあったにも拘わらず、遂には理学博士の学位を得た「日本の植物学の父」となった牧野が、かくもおぞましいインキ臭いアカデミスト的批判をしたことが許せないからである。ともかくもこのリンク先の記載をお読みあれ! 恐るべき緻密な考証が展開されていて、感激すること疑いなし! である!]

 

 Ceiling を意味する日本語はテンジョウで、直訳すれば「天の井戸」となり、我々の語と同じ語原から来ている。

[やぶちゃん注:邦語の「天井」の語源はネット検索によれば、火事を防ぐ呪(まじな)いとして井戸の形に作ったからという説、囲炉裏の上部の屋根に当たる部分に井桁(いげた)の棚が組んであったからという説、まさにモースが字解する「天の井戸」の意の宗教的用語説などがあるものの、確証はないようである。ウィキ天井を見ると、中国では、『小さな中庭を中心に四方部屋を配し、あるいは一方が壁となった中庭の三方に部屋を配して、周囲につながった屋根を作る場合がよくあり、その時に庭の上にできる屋根のない四角い空間を「天井」とよぶ。建築様式によっては居住空間の上にこの「天井」を配して、天窓とする例もある。なお、日本語でいう天井のことを、中国語では「天花板」という』とあるから、共通語源とはちょっと考え難いと私は思う。一方、英語の“ceiling”は中世英語の動詞“ceil”(羽目板張りをする)の動名詞形とされるから、説としては日本語の「天井」の同語源の一つとは言えそうだ。なお、英語のそれは「天井板」や「船の内張り板」の他にも、「価格・賃金・料金などの最高限度額」の意でも用いられ、明らかに上方の物理的論理的な境界を指している。]

 

 Fool の日本語はバカ。これは直訳すると「馬鹿(うましか)」である。Sea-sickness はフナヨイ「船酩酊」。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十五章 東京に関する覚書(6) 天象台の私の居室/鉄漿附けのスケッチ

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 天文台に於る私の部屋は、この観測所の関係者の為に建てられた小さな家の中にある。私の唯一のストーヴは図708に示すもので、四角な木の箱の竹の中に灰を満たした円い土製の容器があり、鉄箸の形をした金鉗(かなばさみ)はその一隅に、竹の管に入っている。外側では既に氷が張っているので、この小さな炭火が無ければ私の部屋は非常に寒いことであろう。私は炭酸瓦斯(ガス)に馴れて了った。もっともその大部分は、床の割目から下へ沈んで行く。あまり強くなれば窓をあける。私は質問を発した結果、日本人が唯一の保温法である炭を燃すことから、何等の不便を蒙らぬことを知った。私の火をつくる――というより、彼女自身の火鉢から僅かな熱い炭を持って来る――老婆は、瓦斯が有害であることなど聞いたことが無く、それが人を殺すことさえ出来るなどとは、夢にも思っていなかった。私の部屋は実に乱雑を極めている。集った陶器、セーラム博物館のための人類学上の標本、雑記帳、絵画等が、寝台と書卓を入れるにさえ決して大き過ぎはしない、小さな部屋に押し込んである。図709は書卓から見た私の部屋の、ざっとした写生である。

[やぶちゃん注:「天文台」原文は確かに“Tenmon Dai”であるが、正しい邦語の固有名は「天象台」である。第十九章 一八八二年の日本 懐かしい人々との再会の私の冒頭注「今夜」を参照されたい。

「炭酸瓦斯」原文も“the carbonic acid gas”であるが、むろんこれは炭火によって発生する一酸化炭素(carbon monoxide)のことである。一酸化炭素は赤血球中のヘモグロビンと酸素の約二五〇倍も結合し易い性質を持ち、空気中濃度が〇・〇二%程度から軽度の頭痛を惹起させ始め、〇・一六%に達した中に二時間いると死亡する(以上は公の保健所のデータに拠る。無論、二酸化炭素(carbon dioxide)でも中毒にはなるが、こちらは空気中の濃度が三~四%から頭痛が発症、七%を超えると呼吸器不全を惹き起こしてそのままの状況状態でいた場合、麻酔作用と呼吸抑制によって死に至るものであって、濃度の違いは歴然としている)。

「セーラム博物館」原文は“the Museum at Salem”でここは正しくは――セーラムの博物館――と訳さねばならないと思う。この博物館は磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」でも「セーラム・ピーボディ博物館」と表記されているのであるが、正確には現在も“The Peabody Essex Museum in Salem”で、マサチューセッツ州のセイラムにある「ピーボディ・エセックス博物館」である。しかもこの時はまだ正式な「博物館」という呼称ではなく、「ピーボディ科学アカデミー」館で、モースはその館長であった(二回目の帰国の翌年一八八〇(明治十三)年七月三日就任。このクレジットなどは磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」二六八頁に拠る)。既に述べた通り、モースはこの古巣の「ピーボディ科学アカデミー」(ウィキエドワード・S・モース及び英語版“George Foster Peabody”から引くと、彼は二十九歳の時(一八六七年)に銀行家ジョージ・ピーボディ(George Foster Peabody)の慈善寄付を受けて三人の研究仲間とともに、ここセイラムに「ピーボディー科学アカデミー」(一九九二年以降のピーボディ・エセックス博物館)を開き、一八七〇年まで軟体動物担当の学芸員を務めていた)に戻った訳だったが、彼の日本民俗や陶器・民具への熱冷めやらず、遂にアカデミーの理事会を説得、アカデミーでの保存・展示を目的とした東洋民俗資料収集という目的をによって今回の三度目の明治一五(一八八二)年来日(四月二十五日セーラム発、六月四日横浜着)が実現したのであった。]

 
 

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 先日いい折があって、私はある婦人――私の小さな家の世話をやく男の神さんである ――が、彼女の歯を黒く染めつつあるところを写生することが出来た。彼女は三日か四日に一度、これをしなくてはならぬといった。口をすすいだ水をはき出す特別な銅の器があり、それにかけ渡した金属板の上には、二つの真鍮の容器が置かれる。その一つは粉状で灰に似ている堅果(ナッツ)の虫瘻(むしこぶ)を入れた箱で、他には鉄の溶液を含む液体が入っている。この溶液は彼女が古い壺を使用し、酢に鉄の一片をひたして、自分でつくる。刷毛は一端をささらみたいにした木の小片で、つまり普通の日本の歯楊子である。彼女はこれを鉄の水にひたし、次に堅果の虫瘻に入れ、あたかも歯を清潔にしているかの如くこすり、時々横に置いた鉢の水で口をそそぎ、また鏡を取り上げて歯を充分黒くなったかどうかを見る。これは歯のためによいとされている(図710)。

[やぶちゃん注:所謂、「鉄漿(おはぐろ/お歯黒)」である。大変面白く興味深い内容が満載なので、ウィキお歯黒から引く(下線やぶちゃん)。『お歯黒(おはぐろ)とは、明治時代以前の日本や中国南東部・東南アジアの風習で主として既婚女性、まれに男性などの歯を黒く染める化粧法のこと』で、『日本では古代から存在したとされ、民間には明治時代末期まで見られた。むらなく艶のある漆黒に塗り込めたものが美しいとされ、女性の化粧に欠かせないものであった』。「お歯黒」というのは、元は『日本の貴族の用語である。「おはぐろ」の読みに鉄漿の字を当てることもある。御所では五倍子水(ふしみず)という。民間では鉄漿付け(かねつけ)、つけがね、歯黒め(はぐろめ)などとも』称した。『起源はわかっていないが、初期には草木や果実で染める習慣があり、のちに鉄を使う方法が鉄器文化とともに大陸から伝わったようで』、『古墳に埋葬されていた人骨や埴輪にはお歯黒の跡が見られる』。中国の戦国から秦・漢にかけて加筆執筆され成立したとされる最古のブットびの地誌「山海経(せんがいきょう)」(現行本は西晋の郭璞(かくはく)の注釈を付した五部十八巻)の中に「黒歯国」(「三国志」の「魏志倭人伝」には倭国の東方にあるとする)『があると記述がある』。また、天平勝宝五(七五三)年に『鑑真が持参した製法が東大寺の正倉院に現存』しており、『鑑真が中国から伝えた製造法は古来のものより優れていたため徐々に一般に広まっていったが、その製造法は当初は仏教寺院の管理下にあった。このあたりが一般に日本のお歯黒が仏教に由来する習俗と言われる所以かもしれない』。お歯黒への言及は「源氏物語」や「堤中納言物語」の中にも既に見られており、『平安時代の末期には、第二次性徴に達し元服・裳着を迎えるにあたって女性のみならず男性貴族、平氏などの武士、大規模寺院における稚児も行った。特に皇族や上級貴族は袴着を済ませた少年少女も化粧やお歯黒、引眉を行うようになり、皇室では幕末まで続いた』。『室町時代には一般の大人にも浸透したが、戦国時代に入ると結婚に備えて』数え八〜十歳前後の『戦国武将の息女へ成年の印として鉄漿付けを行ない、このとき鉄漿付けする後見の親族の夫人を鉄漿親(かねおや)といった。また、一部の戦国武将(主に小田原北条家をはじめ他)は戦場に赴くにあたり首を打たれても見苦しくないように、ということから女性並みの化粧をし、お歯黒まで付けたという。これらの顔が能面の女面、少年面、青年面に写された』。『江戸時代以降は皇族・貴族以外の男性の間ではほとんど廃絶、また、悪臭や手間、そして老けた感じになることが若い女性から敬遠されたこともあって既婚女性、未婚でも』数え十八〜二十歳以上の『女性、及び、遊女、芸妓の化粧として定着した。農家においては祭り、結婚式、葬式、等特別な場合のみお歯黒を付けた』(新美南吉の童話「ごんぎつね」(『赤い鳥』昭和七(一九三二)年一月号初出。作者の死(昭和一八(一九四三)年三月二十二日)の直後である同年九月三十日に刊行された童話集『花のき村と盗人たち』(帝国教育会出版部)に収録。ここは概ねウィキに拠った)にもその描写がある)。明治三年二月五日(グレゴリオ暦一八七〇年三月五日)に、『政府から皇族・貴族に対してお歯黒禁止令が出され、それに伴い民間でも徐々に廃れ(明治以降農村では一時的に普及したが)、大正時代にはほぼ完全に消えた』(モースの本記載は明治一五(一八八二)年である)。『尚、お歯黒は引眉とセットになる場合が多い』。以下、「お歯黒の目的」の項。『きれいに施されたお歯黒には、歯を目立たなくし、顔つきを柔和に見せる効果がある。谷崎潤一郎も、日本の伝統美を西洋的な審美観と対置した上で、お歯黒をつけた女性には独特の妖艶な美しさが見いだされることを強調している』。『また、歯科衛生が十分に進歩していなかった時代には、歯並びや変色を隠すだけでなく、口腔内の悪臭・虫歯を予防する効果があった。お歯黒は、江戸時代以前の女性および身分の高い男性にとって、口腔の美容と健康の維持のため欠かせないたしなみであった』。『ただし、お歯黒を見慣れない人々にとって、黒い歯は奇異で醜悪なものと映り、単に遅れた奇習と見なされたり、美容・衛生以上の特別な目的があるものと曲解される場合も少なくない。実際、幕末に日本を訪れた多くの欧米人が、お歯黒は女性を醜悪化する世界に稀にみる悪慣習と評している。ラザフォード・オールコックはお歯黒は故意に女性を醜くすることで女性の貞節を守る役割があると推測している。歴史社会学者の渡辺京二は著書「逝きし世の面影」の中で、これを否定し、お歯黒はマサイ族に見られるような年齢階梯制の表現であると考察している。つまり自由を満喫し逸脱行為すら許容されていた少女が、お歯黒と眉を抜くという儀式によって、妻の仕事、母の仕事に献身することを外の世界に見える形で証明するためのものとしている』。以下、「染料」の項。『鉄漿を「かね」と読むと、染めるのに使う液を表す。主成分は鉄漿水(かねみず)と呼ばれる酢酸に鉄を溶かした茶褐色・悪臭の溶液で、これに五倍子粉(ふしこ)』(後注参照)『と呼ばれる、タンニンを多く含む粉を混ぜて非水溶性にする。主成分は、酢酸第一鉄でそれがタンニン酸と結合して黒くなる。歯を被膜で覆うことによる虫歯予防や、成分がエナメル質に浸透することにより浸食に強くなる、などの実用的効果もあったとされる。毎日から数日に一度、染め直す必要があった。江戸時代のお歯黒を使用する女性人口を』三千五百万人とし、一度に用いるふしこの量を一匁(もんめ=三・七五グラム)として、『染め直しを毎日行っていたと仮定した場合』、一日の五倍子粉(ふしこ)の消費量は何と二十トン弱になったと考えられている。なお、五倍子粉(ふしこ)は『利用が幅広く、お歯黒の他、黒豆の着色にも用いた』。『また簡便にした処方として、五倍子粉』・緑礬(りょくばん:melanterite。メランテライトは硫酸塩鉱物鉱物の一種で硫酸鉄を多く含む)・『カキ殻を合わせた粉末を歯に塗るものもあり、高価ながら拒否反応が少なく安全であるため、僧侶たちの手によって製法が伝えられていた』。『演劇用には松脂に墨を混ぜたものが使われた。現代ではトゥースワックス(蝋に墨を混ぜたもの)が多いが、本式の鉄漿も絶滅はしておらず、歴史研究家や歯科技師から成る民間団体「香登お歯黒研究会」によって、往年の成分に近いお歯黒「ぬれツバメ」が製造販売されている』とある。最後に「迷信・都市伝説・等」の項の一条。『明治時代に一部地域で「電線に処女の生き血を塗る」という噂が広まったことから(実際はコールタールを塗布する絶縁作業を見たことからの勘違い)、その地域の妙齢の女性の多くが生き血を取られないようにお歯黒・引眉・地味な着物・等の既婚女性と同様の容姿となった』という、現地の人々には笑えない切実な近代ならではの都市伝説(アーバン・レジェンド)が紹介されてある。実に面白いではないか。

「堅果(ナッツ)の虫瘻(むしこぶ)」「蟲癭(ちゅうえい)」(或いはこれでも「むしこぶ」と読む)「虫瘤」もこと。英語では“gall”(ゴール)と称し、植物組織が異常な発達を起こして出来る癭(こぶ)状の突起物を指す。これは様々な寄生生物の寄生によって植物体が異常な成長をすることで形成されるものである。参照したウィキの「虫こぶ」によれば、『虫こぶと呼ばれるものは葉に見られるほか、草類の茎や樹木の細枝、花や果実などに見られることもある。その名の通りに昆虫の寄生によって形成されるものが多いが、ダニや線虫によるものや、菌類によるもの、細菌によるものもある。それらはその原因によってダニえいや菌えい、細菌ならクラウンゴールなどと呼び分けることもあるが、すべてまとめて虫こぶという場合も多い。ゴールという語はそれらすべてに適用される』。『植物以外にも適用される例もあり、たとえばパラシテラというカビは近縁のケカビに寄生するが、その際に菌糸の付着部分がふくれるのもゴールと呼ぶ』。『また、その原因となった昆虫により、虫こぶ自体に「~フシ」という名前がつけられている』。『ハチ目のタマバチの仲間やハエ目のタマバエの仲間、カイガラムシなどが産卵管を植物体に差し込み、内部に卵を産む。卵の状態ではそれほど目立たない虫こぶも、幼虫、蛹と成長していくうちに大きく膨れ上がり色づいて立派な虫こぶとなる』。『虫こぶは時には果樹などにもできる。害虫として作物に寄生する昆虫が虫こぶを作るものの場合、表面に昆虫が露出していないので駆除がしづらい。さらに病気を持ち込むこともあり、タマバチやタマバエは厄介な害虫として君臨している』。『役に立つ例もある。オークやヌルデの虫こぶにはタンニンが豊富に含まれるため、それぞれ皮革のなめし剤やお歯黒の材料として用いられた』。これが先の注に出た「五倍子」これは「ごばいし」或いは前述した通り、「ふし」と読み、ウィキの「ヌルデ」によれば、ムクロジ目ウルシ科ヌルデ属ヌルデヌルデ(白膠木)Rhus javanica 或は変種ヌルデ Rhus javanica var.chinensis の葉にヌルデシロアブラムシが寄生して形成される大きな虫癭から抽出した染料或いは漢方薬を言う。この虫癭には『黒紫色のアブラムシが多数詰まっている。この虫癭はタンニンが豊富に含まれており、皮なめしに用いられたり、黒色染料の原料になる。染め物では空五倍子色とよばれる伝統的な色をつくりだす。インキや白髪染の原料になるほか、かつては既婚女性』及び十八歳以上の『未婚女性の習慣であったお歯黒にも用いられ』、『また、生薬として五倍子(ごばいし)あるいは付子(ふし)と呼ばれ、腫れ物、歯痛などに用いられた』とある(但し、猛毒のあるトリカブトの根も同じく「付子」で「ふし」と読むので混同しないよう注意を要する、と注意書きがある)。]

2015/10/27

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十五章 東京に関する覚書(5) 千住火葬場見学

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図―703

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図―705

 

 十月二十六日。ドクタア・ビゲロウと私とは、機会を得て東京千住の火葬場を見に行った。衛生局の長官から許可を受け、我々は午後九時、竹中氏と一緒に火葬場へ向って出発した。そこ迄は人力車で一時間かかった。私は陰気な小屋や建物のある、物淋しい場所を見ることだろうと予期していたが、それに反して私が見たのは、掃き清めた地面、きちんとした垣根、どこででも見受ける数本の美しい樹等、都会の公共造営物に関係のある事象であった。道の片側には火葬場があった(図703)。それは二つの、長さ七十二フィート、幅二十四フィートという煉瓦づくりの一階建の建物から成っている。この二つの建物は一列に並んでいるのだが、五十フィートの空間をさしはさんで、離れている。ここには高い四角な煙突が立っていて、この煙突に建物の屋棟から大きな鉄製の煙道が通じている。各々の建物は、辷る戸のついた入口を持つ三つの部分にわかれている。写生図に示す如く、段々が煙突と煙道との交叉点にある足場まで達していて、ここには、多数の死体を同時に火葬する場合、上に向う通風をよくするために、石炭を燃す装置が出来ている。図704は、如何にして各室が上方の煙道に向ってひらいているかを示す。死体を灰にするのに使用する諸設備の簡単さと清潔さとは、大いに我々に興味を持たせた。竃(かまど)(というよりも炉といった方がよい)は地面にあり、身を曲げた位置の死骸を、薪二本と少量のたきつけとから成る火葬堆の上にのせる。しばらく火が燃えてから、その上に藁製の米俵をかぶせる。炉は写生図(図705)にあるが如く、底石と二つの側石と一つの頭石とで出来ている。死体は三時間で焼き尽される。我々が見たのは、二時間燃焼したものである。杖で藁を押しのけたら、只大きな骨が僅か見えた丈であったが、それらも石灰化していた。部屋は煙で充ちていたが、それは死体からよりもむしろ燃える藁から出るので、事実、部屋の壁が煤で黒くなっているにもかかわらず、臭気は殆ど無かった。一隅には子供の為の小さな炉が二つあり、その一つでは火葬が行われつつあった。

[やぶちゃん注:「東京千住の火葬場」これはJR北千住駅前にあるインテリア専門店のサイト「リビングショップYK」の千住の歴史を綴った中の「小塚原焼場」がすこぶる詳しい。それによれば南千住には寛文九(一六六九)年以来、江戸最大の火葬場として小塚原焼場があり、それがここに出る火葬場の前身で、江戸時代の火葬の過半はここ千住で行われたと考えられるとある。明治政府は明治六(一八七三)年、かのおぞましき廃仏毀釈の一環として土葬を行うよう火葬禁止令を出したものの、近代都市社会に於いて土葬の墓地確保は無理な話で、僅か二年後の明治八年に再び火葬は解禁となり、旧小塚原焼場は新しくこの「千住火葬場」として再出発した、とある。更に、この再建時の建物は厚壁の塗屋造り(外面を壁や化粧漆喰で塗り込んで耐火建物。本邦では近世初頭からあった)で屋上に四間間隔で二基の煙突を持ち、その高さは一丈五尺(約四・五五メートル)、地上からの総高は三丈二尺(約九・七メートル)とされたとあり、「荒川区史」所収の図を基に作成された図が附されてある(かなりモースのスケッチとは異なるのが不審ではある)。『出入口(図面では大戸口とあります)は2か所に設置されています』。『しかしながら明治10年のコレラの流行は火葬の処理能力を超え処理できない遺体が野積みになってしまったことから周辺からの陳情もあり明治20年までに移転せよ、ということになりました』(下線やぶちゃん)。『千住火葬場が移転先が見つからず操業停止に追い込まれた20年12月に半年早く日暮里村蛇塚に東京博善社による日暮里火葬場が開設されました』とあって、筆者は『千住が市街地に近すぎるので廃止命令が出たのにもっと市街地のど真ん中に新設許可を出したのはなんだのでしょう?』と疑問を示しておられる。何か、確かに「臭い」ますね、これ。因みにモースの来訪は明治一五(一八八二)年であった。モースも既に述べている通り、この年の夏もコレラが流行していたから、困ったフル稼働であったのである(次段参照)。

「竹中」何度も出てくる宮岡恒次郎の実兄竹中成憲。既注

「長さ七十二フィート、幅二十四フィート」長さ二十一・九四メートル、幅七・三一メートル。

「五十フィート」十五・二四メートル。]

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 最高の火葬料は七円である。これは中央に只一つの炉を持つ別個の建物(図706)で行われる。その次が二円七十五銭で、我国の金に換算して約一ドル三十七セントになる。これは大きな建物で行われ、死体はそれを入れて来た大型の木の桶に入れたまま焼く。第三の、そして最も安い階級は一円三十銭しかかからず、この場合棺桶は焼かずに、死体だけを焼く。火葬場の監督は近くに住んでいて、灰を入れる壺を保管している。これ等の壺は大きさによって、一個六セントから八セントまでする。彼はその一つを私にくれた(図707)。壷の内には小さな木の箱があり、これに注意深く灰からひろい上げる歯を納める。歯に関しては奇妙な迷信が行われつつあるらしく、昔時人々は一定の日に、彼等の歯がぬけぬことを祈り、供物をしたりした。火葬されつつあった死体は、当時東京で猖獗を極めた虎列刺(コレラ)の犠牲者のそれであった。監督はじめ、この仕事に従事するものは、屢々墓掘に見受ける、あの陰気な顔をしていず、愉快で丁寧で気持のいい人々だった。我々はこの経験に最もよい印象を受け、我国ではこの衛生的な方法を阻止する偏見が、いつ迄続くことであろうかと考えたりした。

[やぶちゃん注:明治初期の一円が二万円から二万五千円で明治後期が一万円とされるので大体の火葬料の印象はそれで換算して戴きたい。図707の骨壺には直径を四インチ(十センチ)、高さを五インチ(十二センチ七ミリ)と、キャプションを入れてあるようだ。かなり小さい。

「火葬されつつあった死体は、当時東京で猖獗を極めた虎列刺(コレラ)の犠牲者のそれであった」前段注を参照のこと。]

 

 火葬場への往復に我々は、東京の最も貧しい区域を、我国の同様な区域が開いた酒場で混雑し、そして乱暴な言葉で一杯になっているような時刻に、車で通った。最も行儀のいいニューイングランドの村でも、ここのいたる所で見られる静けさと秩序とにはかなわぬであろう。これ等の人々が、すべて少くとも法律を遵守することは、確かに驚く可き事実である。ポストンの警視総監は、我国を最も脅かすものは、若い男女の無頼漢であるといった。日本には、こんな脅威は確かに無い。事実誰でも行儀がよい。

「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 山崎村

山崎村〔也麻左幾牟良〕 江戸より十二里半餘小坂郷に屬す、當村の地形山の出さきに在を以て地名となれりと云ふ、土人は傳へて【空華集】に載する村内天神社貞治中再興の祭文中に神代郷〔今も天神社、所在の地を、小名神代と唱ふ、〕とあるをもて當村の舊名とし又【鎌倉志】に據て元弘の頃は洲崎と唱へしと云ヘど、【志】に云所も正しく當村を斥るにあらず、但し【北條役帳】に須崎あたみとあるに據るにあたみは現に村内の小名に在て此地なる事論なければ洲崎と云ふも當村の舊名と云べきなれど【同役帳】に別に東郡山崎とあるもの正しく當村を云へるなればおぼつかなし、今按ずるに【鎌倉志】に洲崎村山ノ内の西なり、此村の東を寺分村と云ひ西を町屋村と云ふとあるに村内小名あたみの地村の西南に倚て寺分・上町谷二村地に接したるをもて考ふるに、寺分・上町谷の二村即洲崎郷に屬したれば、熱海の地も永祿の頃は彼地に屬し後村内に併入せしにや、亦接地たる故彼郷名のおのづから波及せしものなる歟。今に於ては詳に辨別し難し、又村内天神碑銘に城州山崎の寶寺を模して村内に寶積寺〔今廢跡あり、〕を創建せしより地名も彼處に擬して舊名洲崎を改め、山崎と唱ふる由見えたれど寛永山崎譜に據れば往昔賴朝に仕へし山崎六郎憲家始當所に住して在名を稱せしと覺ゆ、然るに彼寶積寺は夫より遙の曆應中夢窓國師の創建なれば是を地名の權輿と云ふはおぼつかなし猶明證を得るを俟つ、貞治六年僧義堂管領基氏の請を避け、當所に匿れしこと【日工集】に見えたり〔是は村内寶積寺を斥るなり、彼廢寺跡の條併せ見るべし、〕康正・長祿の頃は圓覺寺塔頭黃梅院の領知たりし事彼院所藏の文書に見ゆ〔黃梅院の條、併せ見るべし、〕小田原北條氏分國の頃は北條幻菴知行す、〔【役帳】曰、幻庵殿知行、二百一貫三百五十四文東郡山崎、〕今大久保佐渡守忠保〔慶安の頃迄は、闔村宗高院の粧田たりしと傳ふ、院は奥平氏の女とのみ口碑に殘り、未慥なる所見なし、後御料となり、元祿五年、柳澤出羽守吉保に賜ひ、程なく御料に復し同十一年三分して、菅谷平八郎に賜ひ、文化八年大久保氏に賜ふ、〕・根岸九郎左衝門〔元祿十一年、三分の時、小濱半左衞門利隆に賜ひ、文化八年、根岸肥前守鎭衞拜賜す、〕松前彦之丞〔元祿十一年、三分の時、松前氏に賜ふ、〕等知る所なり、東西三町餘南北十四町餘〔東、山之内、臺二村、南、梶尾村、西、寺分・上町谷二村、及び村岡郷五村、北、岡本村、〕民戸四十一、鎌倉の古道、村南山上にあり〔村岡郷宮前より、上町谷を經當村十三坊塚邊より梶原村に至り、六本松より化粧坂に登れり、これ【太平記】に載する所、義貞の官軍山之内に欄入せし道なるべし、〕、檢地は慶安三年成瀨五左衞門重治貞享元年國領半兵衞重次改む、飛地戸部川を隔村岡郷五村犬牙の地にあり〔五所に分る、白田合九段許、字川向と唱ふ文化十一年水路を修造せし時、飛地となれり、〕

[やぶちゃん注:「東、山之内、臺二村、南、梶尾村、西、寺分・上町谷二村、及び村岡郷五村、北、岡本村」の内、「梶原村」は底本では「梶尾村」であるが、おかしい。鳥跡蟹行社刊「新編相模国風土記稿第4輯 鎌倉郡」で確認、訂した。

「山崎村」現在の鎌倉市山崎一帯。現行の行政地域としては大船の南西に当たり、湘南モノレールの富士見町駅と湘南町屋駅の間を、北西から南東にかけて広がる。北西は天神山一帯であるが、一部で現在の柏尾川(後に出る戸部川)右岸を少し含み、南東は山の内配水池(鎌倉市梶原三丁目。JR北鎌倉駅南約西八百八十メートルに位置する)直近まで達する。最後に、ウィキに「山崎(鎌倉市)」があるのに気づいたので、ここを読み解くのに非常に都合が良いので全文を引用させていただく(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)。『山崎(やまざき)は神奈川県鎌倉市深沢地域にある大字。旧名は洲崎(風土記稿)で鎌倉の戦いにおける「洲崎古戦場」はこの地を指す』。『地名の由来は山丘の先端に基づく(風土記稿)ほか、京都の山崎を擬えたものとされる。初見は義堂周信の『空華日用工夫略集』で、貞治六年(一三六七年)の「密かに山崎に匿る」である。鎌倉公方足利基氏の万寿寺住持就任を謝絶し山崎に隠棲した。応安七年(一三七四年)十一月二十三日に円覚寺大火のため、長老大法大闡』(だいほうだいせん)『が「山崎宝積寺」に移っている。この宝積寺は京都の宝積寺を模して創建されたという(現在は廃寺)。康正三年(一四五七年)二月の「今川範忠禁制」に「相州山崎村」の記述がある。明応三年(一四九四年)四月十九日の「玉井院檀那本銭返売券」において「山崎泉蔵坊」は熊野詣の先達職を持つ坊であったことが記されている。永正一七年(一五二〇年)三月二十五日の資料でも「鎌倉山崎泉蔵坊 祐秀」と記録され、江戸時代に続く熊野信仰の拠点となっていた』。『後北条氏の時代には東郡に属したが江戸時代には鎌倉郡に属し、正保元年(一六四四年)の正保国絵図にも「山嵜村」と記録されている。江戸時代は幕府領であった』。『皇国地誌によると明治一二年(一八七九年)の戸数五十二、人口二百八十四人であった。明治二二年(一八八九年)四月の町村制施行により、梶原、上町屋、手広、寺分、常盤、笛田と合併して深沢村が誕生し大字となった』。『昭和二三年(一九四八年)一月、深沢村が鎌倉市と合併した際に鎌倉市の大字となる。昭和四二年(一九六七年)二月、住居表示により山崎の一部が台一丁目、二丁目となった』とある。

「十二里半餘」凡そ五十一キロメートル強。

「空華集」瑞泉寺住持でもあった鎌倉禅林の指導者義堂周信(正中二(一三二五)年~元中五・嘉慶二(一三八八)年)の漢詩集。ウィキの「義堂周信」によれば、土佐国高岡(現在の高知県高岡郡津野町)の生まれで、当初、台密を学んだが後に禅宗に改宗し、夢窓疎石の門弟となった(「周信」はその際の改名)。延文四(一三五九)年に鎌倉公方足利基氏に招かれて鎌倉へ下向、康暦二(一三八〇)年まで在鎌した。『基氏や関東管領の上杉氏などに禅宗を教え、基氏の没後に幼くして鎌倉公方となった足利氏満の教育係も務め』、この間、多くの禅宗内の勢力関係に端を発する諸問題の解決に尽力、『の公明正大、厳正中立な態度で各方面に感銘を与えた。帰京後』は第三代将軍足利義満の庇護の下で、相国寺(現在の京都府京都市上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町にある臨済宗寺院)の建立を進言、建仁寺・南禅寺等の住職を務めた。春屋妙葩(しゅんおくみょうは)や絶海中津(ぜっかいちゅうしん)と『並ぶ、中国文化に通じた五山文学を代表する学問僧』である。

「村内天神社」現在の天神山山頂にある北野神社。後出。

「貞治」北朝元号で一三六二年から一三六八年。

「神代郷」後に出る「小名」の読みから、これで「みよしろ」と訓じていることが判る。

「【鋒倉志】に據て元弘の頃は洲崎と唱へしと云ヘど、【志】に云所も正しく當村を斥るにあらず」「斥る」は「させる」(指せる)と訓ずる。これは後の「洲崎村山ノ内の西なり、此村の東を寺分村と云ひ西を町屋村と云ふ」という叙述から見ても、「新編鎌倉志卷之三」の、

   *

○洲崎村〔附寺分村 町屋村〕 山内の西なり。【太平記】に、義貞、鎌倉合戰の時、赤橋(あかはし)相模の守守時を大將として、洲崎(すさき)の敵に向けらるとあるは此所なり。赤橋腹を切りければ、十八日の晩程(くれほど)に、洲崎一番に破れて、義貞の官軍は、山の内まで入りにけりとあり。山の内は東方なり。皆此の道筋也。【鎌倉年中行事】に、藤澤炎上の時、公方〔成氏。〕洲崎まで御出、それより御使(つかひ)を遣はさるとあり。此の村の東を寺分村(てらわけむら)と云ふ。西を町屋村(まちやむら)と云ふ、町屋村は、金澤にも此の名あり。

   *

に基づく謂いであろう(下線やぶちゃん)。但し、ご覧の通り、「新編鎌倉志」では山崎という地名そのものは出てこない。なお現在、地名としては「寺分」は「てらぶん」と呼称している。

「北條役帳」恐らくは「小田原衆所領役帳」のことと思われる。北条氏康が作らせた一族家臣の諸役賦課の基準となる役高を記した分限帳であるが、原題は不明で「北条家分限帳」「小田原北条所領役帳」などとも呼ばれる。『原本は伝存せず、江戸時代の写本が知られ』、氏康期にあたる永禄二(一五五九)年の奥書をもつ。後北条氏は永正一七(一五二〇)年から弘治元(一五五五)年にかけて領国内(ここ一帯も北条領であった)に於いて、数度の検地を実施しており、それに基づいて分限帳が作成されたものと考えられている(以上はウィキの「小田原衆所領役帳」に拠る)。

「倚て」「よりて」と訓辞じておく。

「城州山崎の寶寺」京都府乙訓郡大山崎町の天王山中腹にある真言宗智山派宝積寺(ほうしゃくじ)のこと。ウィキの「宝積寺」に、『聖武天皇が夢で竜神から授けられたという「打出」と「小槌」(打出と小槌は別のもの)を祀ることから「宝寺」(たからでら)の別名があ』る、とある(下線やぶちゃん)。

「寶積寺」後掲。

「寛永山崎譜」江戸幕府により寛永十八(一六四一)年から二十年にかけて編纂された、諸大名と旗本以上の諸士の系譜集「寛永諸家系図伝」の山崎氏のパートの謂いであろう。

「權輿」「けんよ」と読む。物事の初め・始まり・起こり・濫觴の意で、「詩経」秦の「権輿」に基づく。

「貞治六年」一三六七年。

「日工集」「につくしふ(にっくしゅう)」と読む。義堂の日記「空華日用工夫略集」のこと。これは先の漢詩集「空華集」とは別書である。

「康正」「こうしやう(こうしょう)」と読み、一四五五年から一四五七年まで。

「長祿」康正の次で、一四五七年から一四六一年まで。

「圓覺寺塔頭黃梅院の領知たりし事彼院所藏の文書に見ゆ」「鎌倉市史 史料編第三第四」の「黃梅院文書」の長禄二(一四五八)年のクレジットを持つ「九一 板倉賴資禁制」の冒頭に、『制札 黃梅院領山崎村』と出る。

「北條幻菴」北条長綱(幻庵)(明応二(一四九三)年~天正一七(一五八九)年)は北条早雲と駿河の有力豪族葛山氏の娘との間に生まれた三男。ウィキの「北条幻庵」によれば、箱根権現社別当で同社別当寺金剛王院の院主であったが、後北条氏一門の長老として宗家の当主や家臣団に対し隠然たる力を持っており、領地も破格で、永禄二(一五五九)年二月作成の「北条家所領役帳」によると、家中で最大の五千四百五十七貫八十六文の所領を領有している。これは直臣約三百九十名の所領高合計六万四千二百五十貫文の一割弱に及ぶ。なお、彼は表記した生年からは享年九十七という当時としては驚異的な長寿となるが、これは「北条五代記」の記載によるもので、『現在の研究では妙法寺記などの同時代の一級史料や手紙などの古文書などと多くの矛盾が見られることから、その信頼性に疑問が持たれており、黒田基樹は幻庵の生年を永正』(えいしょう)年間(一五〇四年~一五二〇年)と推定されている。また、彼の死から九ヶ月後の天正一八(一五九〇)年七月、後北条氏は豊臣秀吉の小田原征伐によって敗北、戦国大名としての後北条家は滅亡している、とある。

「大久保佐渡守忠保」(寛政三(一七九一)年~嘉永元(一八四八)年)は下野烏山藩第六代藩主。

「慶安」一六四八年から一六五一年。第三代将軍徳川家光と第四代家綱の頃。

「闔村」「こうそん」と読み、村中・全村の意。固有名詞ではないので注意。

「宗高院」ここに書かれた通り、奥平家の娘で山崎の領主であったとされる口碑でのみ伝えられる女性。後の「小袋谷村」に出る、現在の鎌倉市小袋谷にある浄土真宗本願寺派成福(じょうふく)寺に所縁の人物とされる。

「粧田」「しやうでん(しょうでん)」と読むものと思われる。女性が所有する領地を言うらしい。

「元祿五年」一六九二年。

「菅谷平八郎」不詳であるが旗本である。昭和一四(一九三九)年刊横浜史料調査会編「横濱町名沿革誌」のこちらのデータの「中野町」の項に、『元祿十一年九月に至り旗下小濱半左衛門、菅谷平八郎に頒ち、同十四年半左衛門の一族十郎左衛門を加へ三給となりし』とあるのと時代的にも直近で、しかも地理的にも近い。さらに、後に出る「小濱半左衞門」と同名の人物まで出るからである。

「文化八年」一八一一年。

「根岸九郎左衝門」「根岸肥前守鎭衞」まさか、私の住んで居るこんな近くに、彼の知行所があったとは驚き桃の木山椒の木とはこのことだ! 根岸鎭衞(しづもり(しずもり) 元文二(一七三七)年~文化一二(一八一五)年)は江戸の旗本。下級旗本の安生(あんじょう)家の三男として生まれ、宝暦八(一七五八)年二十二歳の時、根岸家の養子となり、その家督を相続した。同年中に勘定所御勘定として出仕後、評定所留役(現在の最高裁判所予審判事相当)・勘定組頭・勘定吟味役を歴任した。また、彼は河川の改修・普請に才覚を揮い、浅間大噴火後の天明三(一七八三)年の四十七歳の年には浅間復興の巡検役となった。その功績によって翌天明四(一七八四)年に佐渡奉行として現地に在任、天明七(一七八七)年には勘定奉行に抜擢されて帰参、同年十二月には従五位下肥後守に叙任、寛政一〇(一七九八)年に南町奉行となり、文化一二(一八一五)年まで終身、在職した。何でそんなに詳しいのかってか?! 私は彼とは親しいんだ。彼の永年の口ぶりや癖や持病まで知っている。何故かってか? だって彼の書いた「耳嚢」全十巻全千話を電子化訳注したからさ!

「小濱半左衞門利隆」不詳であるが旗本である。前の「菅谷平八郎」の注を参照されたい。

「松前彦之丞」不詳。松前藩の松前氏の庶流の旗本か。

「三町」三百二十七・二七メートル。

「十四町」千五百二十七メートル。

「村岡郷五村」小塚(こつか)・弥勒寺(みろくじ)・高谷(たかや)・渡内(わたうち)・宮前(みやまえ)の各村を指す。ここは古くは鎌倉郡に属した(昭和一六(一九四一)年に藤沢市に合併)。現在の藤沢市内の柏尾川の右岸の一帯丘陵地帯で、各地名がそのまま残る。今、私の住んで居る場所のごくごく直近である。

「十三坊塚」この名称は死者供養・境界指標・修法壇として築かれた塚として全国的に見られるが、山崎のそれが現在の何処に当たるのかはよく私には分からない。「梅松論」に『武藏路は相模守守時、州崎千代塚におひて合戰をいたしけるが、是も討負て一足も退ず自害す』(一九七五年現代思潮社刊「梅松論・源威集」による)とある、もし『千代塚』というのがこの「十三坊塚」と同じであるとすれば、洲崎合戦の位置から考えて、現在の鎌倉市の梶原の北の寺分や深沢の何処かであろう(但し、とすればこの小名を持つとする山崎村の範囲は現行よりも南西方向に遙かに広いことになる)。因みに元弘の乱の洲崎合戦で亡くなった者を供養する旧東日本旅客鉄道大船工場敷地脇に建つ、文和元(一三五六)年建立銘の宝篋印塔、通称、泣塔(なきとう)辺りもその一つの同定候補地とはなろう。ここで官軍新田軍分軍の一つであった化粧坂方面からの寄せ手のルートを今一度見てみよう。すると「村岡郷宮前より、上町谷を經」て「當村十三坊塚邊より梶原村に至り、六本松より化粧坂に登」ったとあるから、現在残っている地名を参考に考えると、藤沢市宮前附近(ここは柏尾川を蛇行させるほどに南から尾根が迫出していた)で柏尾川を渡渉して上町屋辺附近(上町屋は柏尾川左岸直近までせり出した尾根であった)で左岸に上り、そこから南へ少し下るようにしながら、現行の寺分を回り込み、梶原を抜けて化粧坂を攻めたということになる。現在のモノレールの湘南深沢駅から西方は広大な低湿地となっていたと考えられるから、このやや北の有意な台地部分を迂回するように動くのは実は頗る納得のゆくことなのである。とすれば、やはり「十三坊塚」というのは、現在のモノレールの湘南町屋から下っていく尾根の途中の何処かか、下り切った湿地直近の高みであったと考えられ、俄然、泣塔のような場所か、その近くであった可能性が高まるのである。また、個人ブログ「中高年の山旅三昧(その2)」の「残暑厳しい鎌倉;低山歩き;十王堂裏山」を見ると、まさにこの近辺で「坊主墓」や「清水塚」というのを見出せる。特に「坊主墓」についてブログ主は『十王堂を開山した興宗鏡考』のそれとしつつ、『墓地の一番奥に坊主墓と思われる石塔が幾つも並んでいる』ものの、『どの石塔が興宗鏡考の墓か』分からないと記しておられ、ここにはまさに「十三坊塚」を髣髴とさせるような墓石群が現存していることが判る(これらはブログを読む限り、現在は後掲される昌清院所有の墓地であるらしい)。但し、この付近(特に泣塔周辺)は近代以降の激しい平地造成によって地形が全く変化してしまっており、残念ながら最早、その「十三坊塚」の形跡を別に捜すことは不可能と思われる。

「六本松」不詳。但し、現在、鎌倉市梶原五丁目四番地内に「梶原六本松公園」という公園はある。ここはまさしく源氏山の西方山麓であり、化粧坂への直球コースとなる。

「欄入」防衛柵=欄=囲いを破って侵入するという謂いか。

「慶安三年」一六五〇年

「成瀨五左衞門重治」「湘南の情報発信基地 黒部五郎の部屋」の「鵠沼を巡る千一話」の第六十話「藤沢宿支配代官」の一覧によれば、慶安二(一六四九)年から天和二(一六八二)年まで実に三十四年に亙って藤沢宿代官(但し、代官所はなかった)を勤め、一六七三年と一六七八年に検地、一六七九年に幕領検地をしていることが判る。

「貞享元年」一六八四年。第五代将軍徳川綱吉の治世。

「國領半兵衞重次」前掲の「藤沢宿支配代官」の一覧によれば、成瀬重治の次期の藤沢宿代官で、天和三(一六八三)年から貞享四(一六八七)年までの五年間を勤めている。

「飛地」これは現在の藤沢市内である、柏尾川を隔てた川向う村岡五ヶ村の中に、山崎村の飛地があることを意味している。現在、現に村岡地区内に旧五ヶ村分の飛地が今も複雑に散在しているのは、この時の名残なのであろう。

「隔」「へだて」と訓じておく。

「犬牙の地」犬の牙(きば)の如くに入り組んだ険阻で荒蕪な地。

「白田」「はくでん」で畑のこと。「白」は乾いているの意。国字である「畠」はこの「白田」を一字にしたものである。

「九段」「段」は田の面積単位で「反(たん)」に同じい。一段(反)は三百歩(ぶ)で、所謂、一石(こく)に当たるから九石。一反は現在の九百九十一・七三六平方メートルに換算され、この換算値は十アールに極めて近いから、一応、九十アール相当となる。

「字川向」「あざ「かはむかう(かわむこう)」と読んでおく。

「文化十一年」一八一四年。]

 

○高札場三

 

〇小名 △熱海〔阿多美〇此地の田間より温泉沸騰す、されど常は冷にして、澡浴すべからず、冬日に至れば少しく温熱を帶ぶ、土人手足を暖むるの料にのみに充つ、永祿の頃は此地、川瀨某の知行なり、【役帳】に、六十五貫文東郡須崎あたみ、川瀨、此度改而知行役可申付とみえたり、〕 △湯之本〔此地にも温湯あり、熱海に同じ、〕 △神代〔美余志路〇【空華集】に載する、貞治元年、天神の祭文に、神代郷天神廟と見えしは、即此地なり、〕 △禰宜崎〔昔天神の覡、住せし跡と云、〕 △寶積寺谷 △大谷 △柿原 △西谷 △十三坊塚 △大下 △稻荷山 △池ノ谷 △藥師堂免

[やぶちゃん注:「澡浴」「さうよく(そうよく)」。底本は「藻浴」であるが、おかしい。鳥跡蟹行社刊「新編相模国風土記稿第4輯 鎌倉郡」で確認、訂した。「澡」は洗うの意でる。

「温泉沸騰す」私自身、小さな頃、父から天神山には「頼朝の隠し湯」があったと教わった。事実、岡戸事務所のサイト「鎌倉手帳(寺社散策)」の、天神山の南の直下にある「妙法寺」(日蓮宗であるが、ここは大町のそれとは同名異寺なので注意。昭和三(一九二八)年に山梨県に在った由緒ある妙法寺を移建する形で開かれた)の記載によれば、この寺の西には『戦前まで「山崎園」という鉱泉旅館があって「源頼朝のかくし湯」と呼ばれて賑わっていたという』とあり、同じサイトの「北野神社」にも同じ記載があり、さらに『そもそも、田んぼの水で足の治療をしていた雁がいたことから、傷を治してくれる水として広まったようで』、『源頼朝が「この水が傷に効く」というので「お忍びで訪れた」という話や、「傷ついた武将に治療をさせた」という言い伝えから、「頼朝のかくし湯」と呼ばれたらしい』と記す。

「永祿」一五五八年から一五七〇年まで。室町時代。

「六十五貫文東郡須崎あたみ、川瀨、此度改而知行役可申付」書き下しておく。

 六十五貫文、東郡(ひがしのこほり)須崎(すさき)あたみ、川瀨、此の度(たび)、改めて知行の役(やく)、申し付くべし。

「貞治元年」北朝元号で一三六二年。

「禰宜崎」「ねぎざき」か。以下の小名は残念なことに、殆んど消失している模様である。こういう現象こそが、地に着いた正しい歴史認識・郷土感覚を喪失させる元凶であると私考えている。

「覡」「かむなぎ/かんなぎ」と訓じておくが、音(慣用)で「ゲキ」と読んでかも知れない。「巫」に同じい。「神(かむ)和(な)ぎ」の意で、元来は、実際の神降ろしを行う神聖な神職を広く指したが、後には祝(はふり(ほうり))とともに禰宜(ねぎ)よりも下のの下級神職を指す語となった。

「藥師堂免」「藥師堂」は後出。「免」というのは除地(じょち/よけち:領主により年貢免除の特権を与えられた土地)で、その薬師堂の保守に関連して年貢が免除された地区であったと考えられる。]

 

○戸部川 乾方を流る〔巾八間餘〕、

[やぶちゃん注:現行の柏尾川のこと。玉繩方面から鎌倉に抜ける東海道線の開かずの踏切に通ずる柏尾川に架かる首塚近くの橋は、私が物心ついた頃からずっと今まで「戸部橋」と呼ばれている。

「乾方」「いぬゐのかた」で北西。]

 

○溜井二 一は昌淸院境内にあり〔濶六畝十六歩許、〕、一は小名池ノ谷にあり〔濶一段五歩、〕

[やぶちゃん注:「溜井」とは、やや大規模に水を溜めておくための井戸を指し、ご覧の通り、所謂、田圃のための農業用水である。

「昌淸院」後出。

「濶」「ひろさ」と訓じておく。最大で常時、水を供給出来る面積を示している。

「六畝十六歩」一畝(ほ/せ)は三十歩(ぶ)で十畝が先に述べた一反(段)である。「六畝」は百八十坪、凡そ六アール相当である。「一段」の換算は前掲注を見られたい。]

 

○天神社 字天神山にあり、山麓を小名神代と唱ふ、束帶の像〔長一尺五寸餘〕を安ず、曆應中夢窓國師北野天神を模して勸請すと云、當時は神田等數頃を附し松尾の社人を迎へ祭祀に奉ぜしめしとなり〔文祿元年三月、鶴岡の巫となれり今雪下村に住る、八乙女山崎守王是なり、〕十一面觀音の木像〔長四尺餘春日作、〕一軀あり、此像は寶積廢寺の本尊なりしと傳ふ〔土人の傳に、古佛は寶曆の頃、圓覺寺へ移し、當今の像は其模像なりとも云ふ、〕貞治元年十二月圓覺寺塔頭黃梅院主當社を再建せしこと義堂が撰せし祭文に見えたり〔【空華集】曰、祭天神文、維貞治元年、歳次壬寅十二月二十五日、相州路神代榔、天神之廟、正室欹傾、幾毀神位、在郷黃梅院主、沙門某、預命梓人、倍功督役革去舊制、哲成新規、爰卜吉日、爰安神棲、敢用粢盛之奠、昭祭于天神之靈、曰、伏以天滿大自在天神、天生間出、惟德不孤、※1※2九流[やぶちゃん字注:「※1=(上)「匈」+(下)「月」。「※2」=(へん)「氵」+(つくり)「亟」。]、氣空群儒、吐詞爽拔、人莫得俱、風騷爲僕、屈釆是奴、際乎延喜康政之樞、位于台斗弼帝之譽、爲麟爲鳳、翔鳴天衢道峻多妬、才高見誣、市虎三告、迁于海遇、讒言莫雪、寃氣莫蘇、忠義之志、誓死弗渝、精誠上感、昊天降誅、六丁奮擊、百靈暗鳴、侫夫以斃幽憤以※3[やぶちゃん字注:「※3」=「扌」+「慮」。]、皎日外矣、殄氣豁如、帝意乃解、察之旡辜、配食于廟饗于璉瑚、自天賚諡、爲天之徒、威靈既顯神化旁敷、松于北野、梅于西都、感而遂通、于夏于區、睠茲僻陋、廟貌漂蕪、顧吾佛法賴神冥扶、豈不慨焉以崇厥居、柴橡土階、上古規模是楹是桷、弗彫弗塗維、參稷、匪精、聰明精直、維道攸慮、道德仁義、維豆及俎、禮菲詞朴、神其歆諸〕、例祭九月廿五日〔山崎守王を始め、覡祝來りて神樂を奏す、〕相殿に牛頭天王を祀る〔昔は岩瀨村、五社明神に合祀せしを、延寶中、山之内村に假屋に迁せし時、洪水の災を避、當所に捧持し、當社の庭中に安置せしが、神託により、當社に合祀すと云ふ、〕六月七日祭事あり〔山之内村の假屋に渡輿す、假屋の處を天王屋鋪と唱へ、除地とす、同十四日、鶴岡の伶人來て樂を奏し、建長寺邊より、小袋谷村迄、巡行して、歸輿あり、當村、及山之内・臺・小袋谷・大船・岩瀨・笠間・今泉・小菅谷・飯島等十町の鎭神とす〕社地に古松あり、文殊松と呼ぶ〔大船村常樂寺、文殊堂に向て枝葉茂れり、故に此名ありとぞ、〕 △古碑一基 應永十一年寶積寺の僧教音の建る所と云ふ、文字磨滅して讀べからず〔僅に本□山□寺天長 八月□ 敬白の數字を殘せり、蓋供養塔なるべし、〕 △山崎天滿宮再造碑 文化八年九月里正九左衞門尋庸〔梅澤氏、〕の建る所なり、 △末社 神明

[やぶちゃん注:現在の天神山山頂にある北野神社。南北朝の暦応(北朝元号)年間(一三三八年から一三四一年)に夢窓疎石が京都の北野天満宮を勧請したものと伝え、以下に見るように貞治元(一三六二)年十二月には円覚寺塔頭黄院の院主が当社を再建している。また、やはり書かれている通り、岩瀬村の五所明神に合祀されていた相殿の牛頭天王は延宝年間(一六七三年~一六八一年)に神託により当社に合祀されたと、「神奈川県神社庁」の本社の公式記載にある。

……小学校の六年生の時だったか、この山腹の防空壕に友達と懐中電灯を持って三人で入ったことがあった。「何てことはない!」「怖くないぞ!」と皆して笑っていたところ、ふと友が天井を照らした。そこには掌大もあろうかという飴色にギラついた無数のゲジゲジがライトに光っていた。「ぎゃああ!!」と叫ぬぶと、韋駄天の如く三人とも走り出たことは言うまでもない。これは実は私の恐怖体験の中では、そのフラッシュ・バックに於いて実はピカ一だと、今でも密かに思っている。……あのゲジゲジ(節足動物門多足亜門唇脚(ムカデ)綱ゲジ目 Scutigeromorpha)の無量大数と鮮烈な姿はこれ生涯忘れないであろう……

……好んで脱線しよう。私の世代は防空壕が日常的に通行可能な異界とのアクセス圏であった殆んど最後の世代である。浦沢直樹の「二十世紀少年」は確かに面白かったが、しかし一番不満だったのは、僕らの秘密基地は草っ原のチャすいすぐ毀されるような藁小屋みたようなものではなかったということだ。僕らのそれは血や妖しい秘密組織の隠れ家を思わせる戦中の遺物であった防空壕だったのだ。ドキドキしながら駄菓子屋で「マッチとローソク――下さい」と言い、婆さんの怪訝な顔を尻目に走り出ると、一散にあの暗い湿った隠微な穴倉の秘密基地に向かったのだった(今も覚えているが、そうしたとある朝の朝礼で生徒指導の先生が「マッチを買いに来るうち(玉繩小学校)の生徒がいる!」と叫んで全校生徒に脅しと禁止を促したのを今も忘れない。それは間違いなく、前日に学校のそばの駄菓子屋でマッチを買った僕らのことを指していたからである)。――そこ――防空壕――は時々、嫌らしい雑誌が隠すように捨ててあったりする、まさにそこは妖しい淫靡な饐えた大人の臭いが実際にしたのだった。――ところがそのうち、そうした防空壕には扉と鍵が掛けられた。――でなければ、宅地造成のブルトーザーが何もかも突き崩してしまった。……僕の好きな諸星大二郎の作品の中でも、僕がいっとう、偏愛する作品の一つに「ぼくとフリオと校庭で」(一九八三年初出)がある。あれは意図的な素材の齟齬操作があるが、僕はあれを最初に読んだ時、涙が止まらなくなった。転校――孤独――数少ない心の友だち――その別れ……そうして何よりその無言のうちの不思議な友との微妙な心の交感が、まさに隠微な防空壕で描出される……僕は実はどこかで――あんな時代に戻りたい――と――密かに感じている……

「一尺五寸」四十五・四五センチメートル。

「神田」これは「しんでん」で、その収穫を祭事・造営などの供物及び費用に当てるための神社に付属した田圃のことを言う。

「數頃」「すうけい」で、「頃」は田圃の面積単位。一頃は百畝で、現行の三千坪、一アールに相当する。

「松尾の社人」賀茂神社と並び京都最古とされる、現在の京都府京都市西京区嵐山宮町にある松尾大社のことか。

「文祿元年」一五九二年。豊臣政権下。

「八乙女山崎守王」「鶴岡八幡宮年表」に載る記載を見る限り、これは巫女舞を舞うことを専門職とした人物(女性か)と思われる。

「四尺」一・二メートル。

「春日」伝説上の名仏師とされる人物。詳細不詳。

「寶曆」一七五一年から一七六三年まで。第九代将軍徳川家重と次代の家治の治世。

「貞治元年」北朝の年号で一三六二年。

「【空華集】曰、祭天神文……」この義堂周信の祭文はとても私の野狐禪レベルでは訓読不能である。悪しからず。

「岩瀨村、五社明神」現在の鎌倉市岩瀬の鎌倉女子大学の裏手にある岩瀬の鎮守である五社稲荷神社。名は保食神(うけもちのかみ)・大己貴神(おおなむちのかみ)・太田神(おおたのかみ)・倉稲魂神(うかのみたまのかみ)・大宮姫神(おおみやひめのかみ)の五柱を祀ることに由来する。参照した岡戸事務所のサイト「鎌倉手帳(寺社散策)」の「五社稲荷神社」に拠れば、建久年間(一一九〇年~一一九九年)に、『岩瀬を治めていた岩瀬与一太郎が創建した神社と伝えられ』る。『与一太郎は、常陸国の佐竹氏の家臣で、佐竹征伐の折に捕らえらたが、源頼朝に許されて御家人となり、岩瀬に屋敷を構えて治めたという』とある。私は実はこの直ぐ近くに三年余りも下宿していたのだが、実は行ったことがない。

「六月七日祭事あり」現行の北野神社の例祭は二月二十五日の祈年祭、七月十五日の夏季例祭としての天王祭、七月二十二日の夏季例祭として行き合い祭、九月二十五日の例祭と鎌倉神楽を行っているとサイト「鎌倉旅行 クチコミガイド」の「北野神社(鎌倉市山崎)」にはあるが、この岩瀬の五社神社との大規模な合同祭礼はこれらと時日も内容も一致しないから、廃絶した模様である。但し、「行き合い祭」「鎌倉神楽」の部分にはその名残を感じさせるものがある。

「大船村常樂寺、文殊堂」現在の鎌倉市大船にある臨済宗建長寺派粟船山(ぞくせんざん)常楽寺境内にある蘭渓道隆所縁の秘仏である文殊菩薩坐像を安置する文殊堂。但し、現地を知らない方のために言っておくが、ここは天神山から東北に一・六キロメートルも離れている。この松は現存しない。

「應永十一年」一四〇四年。室町幕府将軍は第四代足利義持。応永の平和の時代の最初期である。

「教音」不詳。

「文化八年」一八一一年。

「里正」「りせい」で、村長の唐名標記と思われる。

「九左衞門尋庸〔梅澤氏、〕」せめて名前の読み方ぐらいはと思って検索したところ、何と、本人が出現した! 神奈川県立図書館公式サイト内のかながわ資料室ニュースレター第26号2011年10月発行)の「コラム・かながわ あの人・この人」に梅沢梅豊(うめざわばいほう 宝暦七(一七五七)年~文化九(一八一二)年)なる人物を挙げ、以下のようにある!

   《引用開始》

 江戸中期の俳人。

 宝暦7年(1757)鎌倉郡山崎村(現鎌倉市山崎)生まれ。梅沢九左衛門尋庸(ひろつね)。山崎村柿原に住んだので柿原舎と号し、俳号を梅豊としました。通称山崎の大梅沢家の分家で、「隠居」とよばれている梅沢家の五代目です。

 九左衛門の頃の山崎村は3人の旗本に分級され、九左衛門は松前氏の領地に属し、名主役を務めていました。当時の「隠居」梅沢家は豪勢を極めており、江戸遊学当時の友人である水戸藩士加藤曳尾庵の紀行文『我衣』のなかに、家の構は横十六間、奥行十二間、(約二百坪)で表門の長屋門は長さ十間もあり、さながら浅草の観音堂のようであったと記述があるそうです。

 九左衛門は江戸に遊学し、詩文、漢学、書道を修めて帰村後は俳句を春秋庵雄門の倉田 葛三を師としたと伝えられています。 文化9年(1812)歿。墓所は山崎池ノ谷共同墓所梅沢家墓地。

 鎌倉の山崎天神境内に梅豊の碑文があります。また、江ノ島道の道標には「是従江のし満」と書かれ、梅沢尋庸(梅豊)が建立した記録が刻まれています。

   《引用終了》

調べてみるもんじゃて!!!]

 

○稻荷社 字三府にあり、昔は村中の鎭神にして社領等もありしと云ふ、今は小社なり、寺分村東光寺持、

[やぶちゃん注:旧鎌倉郡手広村、現在の鎌倉市手広一四一二に稲荷神社はあるが、ここかどうかは不明。位置的には寺分の東光寺にかなり近いが、明治の合祀政策で沢山あった稲荷は十把一絡げにされたから分からぬ。それでも三つあったという内の一つであった可能性はあるか。但し、「鎌倉廃寺事典」の「その他」では廃されたものとしてリストに挙がってはいる。

「府」単にその地区の意である。

「東光寺」鎌倉市寺分にある古義真言宗高野山派天照山薬王院東光寺。永享三(一四三一)年に高野山慈眼院の法印霊範が隠居所として中興したと伝える。参照した白井永二編「鎌倉事典」では『中興というからには前身がある』はずで『案外、古い寺かも知れない』(大三輪竜彦氏筆)と推定されてある。]

 

○白山社 村民持下同、

[やぶちゃん注:表記通り、以下の「神明宮」「山王社」「子神社」とともに四社とも村管理の社祠である。孰れも合祀されたか、今も何処かに路傍か何処かにあるのかも知れないが、不詳である(但し、私の住む狭い植木の見捨てられたような場所にも、複数個所、稲荷社(嘗ては屋敷内祭祀のそれであったものと思われるが)が隠れるように残存しており、それは実際、私の管見出来る地域研究の公的準公的な民俗資料にさえ記されていないものがままあるから、これらも未だ原所在地に残存している可能性はある)。但し、「鎌倉廃寺事典」の「その他」では廃されたものとしてリストに挙がってはいる。]

 

○神明宮

[やぶちゃん注:「鎌倉廃寺事典」の「その他」では廃されたものとしてリストに挙がってはいる。]

 

○山王社

[やぶちゃん注:「鎌倉廃寺事典」の「その他」では廃されたものとしてリストに挙がってはいる。]

 

○子神社

[やぶちゃん注:「子」は「ねの」神社か。一般に大国主の使いを子(鼠)とし、それを甲子(きのえね)の日に祀り、「子の神様」と通称されて神社の名称とされたものが現在でも横浜市内に二箇所、認められる(ウィキの「子神社」を参照)。:「鎌倉廃寺事典」の「その他」では廃されたものとしてリストに挙がってはいる。]

 

○昌淸院 長崎山と號す、臨濟宗〔圓覺寺塔頭如意庵末、〕本尊釋迦開山以足德滿〔慶長二年三月三日寂す〕 △諏訪社

[やぶちゃん注:鎌倉市山崎一四八二にある臨済宗円覚寺派というより、現行諸本やネット情報でも現在も円覚寺塔頭如意庵末寺として記載されている(如意庵は仏日庵の向かい西南にある塔頭で武蔵出身の円覚寺三十六世無礙妙謙(むげみょうけん ?~応安二/正平二四(一三六九)年)の塔所である。彼は元に渡り、中峰明本に師事、帰国後、高峰顕日(こうほうけんにち 仁治二(一二四一)~正和五(一三一六)年):後嵯峨天皇第二皇子で、兀庵(ごったん)普寧・無学祖元に師事、執権北条貞時・高時父子の帰依を受け、下野国那須雲巌寺開山、鎌倉の万寿寺・浄妙寺・浄智寺・建長寺の住持を歴任、門下に夢窓疎石などの俊英の名僧を輩出、関東禅林の主流を形成した高僧)の法を嗣ぎ、寿福寺から円覚寺住持となった。後に上杉憲顕に招かれて伊豆韮山の国清(こくしょう)寺の開山(律宗であった奈古屋寺からの改宗開山)となった。示寂の翌年に弟子や信者らによって創建されたのが、この塔頭如意庵である)。白井永二編「鎌倉事典」によれば、まさにこの「新編相模國風土記稿」で「開山以足德滿」『が開山と伝える。しかし当院には天保三年(一八三二)造立の木造無礙妙謙座像がまつられており、胎内納入銘札に、「当院開山」と記す』として開山は無礙と推定している。因みにその以足も、その如意庵の『第八世をつとめている』とあるから、ここの中興ででもあったものがすり替えられたのかも知れない。『本尊は木造釈迦如来坐像。また地蔵菩薩・十王・俱生神・奪衣婆等の各木造像や銅像十一面観音菩薩立像をも安置』し、『前者はもと近くにあった十王堂の諸像で、後者は山崎天神社』(現在の北野神社)『の本地仏であったという』(三山進氏筆)とある(十王堂は次項参照)。天神山には天神社の往時の規模から考えて附属する別当寺があった可能性をも示唆するものと私には思われる。]

 

○十王堂 地藏をも安ず、江戸白金瑞聖寺の持にして同寺の末派と稱す中興の僧を興宗鏡考と云ふ〔寶曆七年十二月寂す、〕傍に當寺の寮あり

[やぶちゃん注:「鎌倉廃寺事典」を見ると、「その他」の項に山崎に東京都港区白金台に現存する黄檗宗紫雲山瑞聖(ずいしょう)寺の持ちで傍らに堂守の寮を備えた十王堂があったとあるのと一致し、その所在地は先に示した個人ブログ「中高年の山旅三昧(その2)」の「残暑厳しい鎌倉;低山歩き;十王堂裏山」で前の昌清院の北北東百八十メートル弱の位置にあったことが確認出来る。]

 

○藥師堂 十二神將をも置く〔各長一尺一寸許、運慶作、本尊は鎌倉十藥師の一なり、〕村持にて、高野山坊中慈眼院末派に屬せり〔古は寺分村、東光寺の持なりと云ふ〕傍に堂守の寮あり、△第六天社

[やぶちゃん注:廃絶。先に示した個人ブログ「中高年の山旅三昧(その2)」の「残暑厳しい鎌倉;低山歩き;十王堂裏山」で廃跡位置が確認出来る。

「一尺一寸」三十三・三三センチメートル。「鎌倉十藥師の一」とあるのに、この有り難い「運慶作」(以前にも述べたが鎌倉には運慶作と確定される仏像は一体もないが)の「十二神將」像は何処へ消えてしまったものか?

「高野山坊中慈眼院」高野山金剛峯寺の一つで、修学寺院として隆盛を誇っていたが、ここもおぞましい明治の廃仏毀釈によって高野山内の寺院統廃合が進行して衰退、それでも昭和初期までは存立していた。ではなくなったかと言うと、実はこの寺、昭和一六(一九四一)年に高野山から別格本山の称を受けて高崎へ移転した。御存じの高崎白衣大観音のある群馬県高崎市石原町観音山の慈眼院がそれなのである(以上は慈眼院公式サイトの「歴史と沿革」の記載に拠った)。]

 

○寶積寺蹟 村西にあり、小名寶積寺谷と唱へ村民の宅地となれり、池を鋤てまゝ五輪の頽碑を得となり、曆應中夢窓國師山城國寶寺に擬し、創建せし禪刹なりと云ふ〔按ずるに、【鹿山略記】には僧方外當寺を開建すとあり、圓覺寺塔頭黃梅院文書に、山崎寶積寺自方外和尚、附屬心翁和尚云々とも見へたり、方外は貞治二年に寂しければ、當寺の開山と云んも、時代において違はず、夢窓を開山とするは、却て傳への訛れるならんか、〕 貞治六年三月僧義堂鎌倉萬壽寺住職補任の事管領基氏の命ありしを避、須臾當寺に匿れし事【日工集】に見えたり〔曰、三月五日府君袖出萬壽公文、而面附予堅辭不受、翌日重以萬壽爲請余不應、十日、就正續院會議以請余不出十一日、出寺潜匿於山崎、蓋以避三命也、按ずるに府君は、管領基氏を指るなり、〕抑當寺域は世々愛甲氏〔事蹟未考へず〕の廟所なり、應安元年八月五日、愛甲氏の室を爰に埋葬せし時義堂來會して導師を勤めしこと所見あり〔又曰、八月五日、赴愛甲三品夫人之葬事、於郡之寶積寺、寺乃愛甲世廟也、夫人甞受先國師衣、年五十八病革、今月二日、忽夢見余來問夫人就求浴髪、既而夢覺、命侍者請余而不及臨卒、侍者告曰、汝平生提撕、國師所示即心即佛、公案即今能透得否、夫人頷而卒、是以秉炬佛事及之、按ずるに先國師と記せるは、即夢窓國師を謂るならんか、されば國師創建の時愛甲氏蓋開基の任に當りしにや、〕同月圓覺寺祝融に罹る、長老大闡〔字大方佛範宗通禪師と諡す〕是を歎し、跡を當寺に匿す、圓覺寺の僧徒等相儀し、義堂をして和會せしめ、強て還往のことを謀り、推て歸寺せしむ〔【日工集】曰、十一月廿三日、臨夜忽報圓覺寺、失火、余從諸子、往山内、長老大法潜出匿于山崎寶積矣、時白雲菴、方春二首坐、左右捉余手、引過寶積、與大法、相見、懇言再往之意言未畢、諸衲推住持、上擧而歸寺矣、〕 又某年當寺の事等閑にせざる由、長尾修理亮忠景が示せし書今黃梅院所藏にあり〔曰、就山崎寶積寺事、年々如何樣於忠景、不可等閑候恐々敬白、五月十二日、謹上慈光院修理亮忠景花押〕廢せし年代は傳へず、

[やぶちゃん注:「寶積寺」は「ほうしやくじ(ほうしゃくじ)」と読む。個人サイト「鎌倉史跡・寺社データベース」の「北野神社」の解説に、『近くには愛甲氏の菩提寺の宝積寺があったことから、宝積寺の鎮守であったとする説もある。なお、山崎という地名は、この宝積寺があったため、京都にある宝積寺(宝寺)のあった山崎にちなんでつけられたとされている。宝積寺は明治の神仏分離令で廃寺になり、仏像は同じ山崎の昌清院に移された』とある。「鎌倉廃寺事典」では「宝積寺ケ谷にあった」とするが、現在、この谷戸名は伝わらず、廃跡位置も不確かであるが、酔石亭主氏のブログ「水石の美を求めて」の天神山の怪」ではこれを同定しておられ、天神山の北の谷戸附近(山崎交差点の北西部分)が旧跡であろうと推定されておられる。肯んずることの出来る位置である。

「鹿山略記」江戸中期に書かれた円覚寺史。「本山縁由記」とも言い、現在、瑞泉寺が写本を所蔵する。

「方外」円覚寺第十五世夢窓疎石の弟子である方外宏遠。疎石の塔所である円覚寺塔頭黄梅院の二世を務めている。

「圓覺寺塔頭黃梅院文書に、山崎寶積寺自方外和尚、附屬心翁和尚云々」「鎌倉市史 史料編第三第四」の「黃梅院文書」の「九三 德翁中佐書狀」の冒頭である。同書には「心翁和尚」『(中樹)』と傍注する。この書状は、方外が心翁に宝積寺を附与したのだが、この寺を門徒の某が勝手に他宗に売却して逐電してしまったので、徳翁中佐なる人物が、長尾但馬守(底本本文に『(景人カ)』と傍注)に頼り、管領(底本に『(上杉房顯カ)』と傍注)にお願いして、どうか心翁の門徒らに寺を還付して貰えるよう取り計らって欲しいと言っている嘆願書である。なお、「鎌倉廃寺事典」によれば、寺は後に無事に還付されている。

「貞治二年」北朝元号で一三六三年。

「萬壽寺」長谷にあった寺。廃寺。

「避」「さけ」。

「須臾」「しゆう(しゅゆ)」。暫くの間。

「三月五日府君袖出萬壽公文、而面附予堅辭不受、翌日重以萬壽爲請余不應、十日、就正續院會議以請余不出十一日、出寺潜匿於山崎、蓋以避三命也」我流で書き下す。「袖」は何となくおかしく感じるので、「補」と読み換えた。大方の御批判を俟つ。

 三月五日、府君、補(ふ)して、萬壽の公文を出ださる。面して予に附せらるるも堅辭して受ず。翌日、重ねて萬壽を以つて請ひ爲(な)さるるも、余、應ぜず。十日、正續院會議に就きて以つて余を請ふも出でず。十一日、寺を出で、潜かに山崎に匿る。蓋し以つて三命を避くるなり。

義堂の反骨の気骨を伝えて面白いではないか。

「指る」「させる」。

「愛甲氏〔事蹟未考へず〕」不詳。相模国を本拠とした愛甲氏は建暦三(一二一三)年の和田合戦で和田方に味方して敗れて以降、没落してしまった。ウィキの「愛甲氏」によれば、末裔は十四世紀末まで『地方豪族として存在していることが確認される』とあるから、その一族か。

「應安元年」北朝元号で一三六八年。

「八月五日、赴愛甲三品夫人之葬事、於郡之寶積寺、寺乃愛甲世廟也、夫人甞受先國師衣、年五十八病革、今月二日、忽夢見余來問夫人就求浴髪、既而夢覺、命侍者請余而不及臨卒、侍者告曰、汝平生提撕、國師所示即心即佛、公案即今能透得否、夫人頷而卒、是以秉炬佛事及之」我流で書き下す。

 八月五日、愛甲三品(さんぼん)夫人の葬ひに赴く事、郡の寶積寺に於いてなり。寺は乃ち愛甲が世廟なり。夫人、甞て先の國師の衣(え)を受け、年五十八、病ひ、革(あらた)まる。今月二日、忽(こつ)として夢みる。余、夫人を來問して就くに、浴髪を求めらる。既にして、夢、覺(さ)む。侍者に命じて、余を請ふも臨に及ばずして卒(しゆつ)さる。侍者、告げて曰く、「汝、平生、提撕(ていぜい)さる。國師、示す所は、『即ち、心、即(そく)佛』となり。公案、即ち今、能く透得(たうとく)せんや否や。」と。夫人、頷きて卒す。是れを以つて炬(きよ)を秉(と)る。佛事、之れに及べり。

この「提撕」は「ていせい」とも読み、師が弟子を奮起させて導くこと。特に禅宗に於いて師が語録や公案などを講義して導くことを言う。一部、訓読に自信のない箇所はあるものの、しみじみとした全体のシークエンスは髣髴として伝わるものと思う。この愛甲夫人の臨終に立ち会っている(義堂も間に合わなかったのに、である)錯覚を覚えるほどである。いい。

「蓋」「けだし」。

「祝融」「しゆくゆう(しゅくゆう)」で、中国神話の神の名で、炎帝の子孫とされ、火を司るとされることから、火災に遇うことを「祝融に遇ふ」などと言う。

「長老大闡」(徳治元(一三〇六)年~至徳元/元中元(一三八四)年)は武蔵出身の臨済僧で俗姓は山名。京の天竜寺で夢窓疎石に、建仁寺で嵩山居中(すうざんこちゅう)に師事し、疎石の法を嗣いだ。応安元/正平二三(一三六八)年に浄智寺住持、後に円覚寺、序で天竜寺の住持を勤めた(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

「跡を當寺に匿す」「跡」底本は「辨」であるが意味が通じない。鳥跡蟹行社刊「新編相模国風土記稿第4輯 鎌倉郡」で確認、「跡」に訂した。円覚寺が焼亡したために、愕然として密かにこの宝積寺に姿を隠したというのである。この寺、名僧が姿を隠すのに余程都合が良かったものらしい。それだけ実は由緒があるということでもある。

「和會」単に「会見」の意である。

「推て」「おして」。

「十一月廿三日、臨夜忽報圓覺寺、失火、余從諸子、往山内、長老大法潜出匿于山崎寶積矣、時白雲菴、方春二首坐、左右捉余手、引過寶積、與大法、相見、懇言再往之意言未畢、諸衲推住持、上擧而歸寺矣」我流で書き下す。

 十一月廿三日、夜に臨んで、忽(こつ)として圓覺寺より報あり。失火たり。余、諸子を從へ、山内(やまのうち)へ往く。長老大法、潜かに出でて山崎が寶積に匿る。時に、白雲菴と方春の二首坐、左右にして余が手を捉へ、寶積へ引過(いんくわ)す。大法と相ひ見(まみ)え、懇ろに再往の意を言ふ。言(げん)、未だ畢らざるに、諸衲(しよなふ)、住持を推して、擧(こ)して上げて、寺に歸れり。

この「諸衲」の「衲」は「納衣(のうえ)」と同じく、禅宗で僧のことを指し(原義は人が捨てた襤褸を縫って作った袈裟の意)、義堂について行った僧たちの意。最後の「擧(こ)して上げて」の訓読は正しいかどうかは分からぬが、禅問答の「挙(こ)す」(私はかく考える)の意の応答の発語で読んだ。

「當寺の事等閑にせざる由、長尾修理亮忠景が示せし書今黃梅院所藏にあり」「就山崎寶積寺事、年々如何樣於忠景、不可等閑候恐々敬白、五月十二日、謹上慈光院修理亮忠景花押」これは「鎌倉市史 史料編第三第四」の「黃梅院文書」の「九四 長尾忠景書狀」の全文である。我流で書き下す(同書の字配を参考にした)。

 山崎寶積寺の事に就き、年々、忠景には如何樣(さま)にも、等閑(なほざり)にせざるべからず候ふ。恐々敬白。

         修理亮忠景(花押)

   五月十二日

  謹上   慈光院

長尾忠景(?~文亀元(一五〇一)年)は戦国武将。ウィキ長尾忠景によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『系譜上では長尾景棟あるいは弟の良済(ともに早世)の養子とされているが、「長林寺本長尾系図」には忠景を「芳伝名代」と記している。また、文明五年(一四七三年)~同八年(一四七六年)頃に忠景が所領における地子徴収に関するトラブルに関して述べた書状において、芳伝から所領を継承して卅ヶ年経ったと述べている(「雲頂庵文書」所収長尾忠景書状)。芳伝とは景棟・良済の父で山内上杉家の家宰を務めていた長尾忠政の法号であり、系図からは忠景は芳伝(忠政)の名代(家督)を継承し、書状の内容から宝徳二年(一四五〇年)のこととされる忠政の生前の文安年間(一四四四年~一四四八年)には忠景が既に総社長尾家を継承していたことになる。従って、実子二人に先立たれて後継者を失った忠政が忠景を養子に迎えたとみられる。その後、養父が務めた武蔵国守護代など、山内上杉家の要職を務めた。一方、実家の白井長尾家では、景仲が山内上杉家の家宰に就任し、父の後は兄の景信が家宰となっていた』。『文明五年(一四七三年)に景信が死去すると、白井長尾家の力を恐れた上杉顕定は景信の子である景春を登用せず忠景を家宰としたため、景春は反乱を起こした(長尾景春の乱)。もっとも、総社長尾氏と白井長尾氏は同格で両家の中から選ぶ場合には年長者が家宰に就任したとする説もあり、この説に従えば、家宰を務めた忠政の養嗣子でありながら忠景が長く家宰に就任できず、反対に景春が景信の嫡男でありながら家宰に就任できなかった説明が可能にはなる』。『忠景は顕定方の将として甥の景春の反乱の鎮圧に転戦するも、五十子の戦いで敗北し上野に逃れるなど苦戦を強いられた』。『反乱が終息した後も長享の乱が勃発すると、それまで協調してきた主家の山内上杉家と扇谷上杉家が対立関係となり、忠景の本拠である上野においては長野氏ら上州一揆の国人勢力が台頭するなど晩年まで戦いの人生を送った』。『鎌倉にある雲頂庵は、忠景が再興したとされている』とある。

「應安元年」一三六八年。足利義満の治世。]

 

○深禪寺蹟 今其跡詳ならざれど宇堂手坊の下など唱ふる地あれば果して其邊なるべし、應安二年九月義堂當寺の住侶と對話せしこと【日工集】に見えたり〔曰、九月十日、山崎深禪寺律師來詣、詔及天台教、余云、法華以何爲體、曰、以中爲體、余云、中以何爲體、律師無語、〕されば其頃は正しく存在せしなり、其後廢せし年代詳ならず、

[やぶちゃん注:「宇堂手坊の下」は「宇堂手」(「うだうて(うどうて)」と読むか)「坊の下」という地名であるが、現在に伝わらないのでさらに位置を確認出来ない。「鎌倉廃寺事典」の「深禅寺(しんぜんじ)」の項は本条を概説するのみで、他のデータが載らない。

「應安二年」一三六九年。

「九月十日、山崎深禪寺律師來詣、詔及天台教、余云、法華以何爲體、曰、以中爲體、余云、中以何爲體、律師無語」勝手野狐禪で書き下してみる。

 九月十日、山崎深禪寺律師、來詣(らいけい)、詔(のりご)つに天台の教へに及ぶ。余、云く、「法華、以つて何の體(てい)たるや。」と。曰く、「中(ちう)を以つて體たりとす。」と。余、云く、「中は以つて何の體たるや。」と。律師、語ること無し。]

 

○館跡 坤方にあり、今白田となる、古領主宗高院〔土俗傳て、奥平氏の女といへど、家系傳記等に所見なければ、考ふるに由なし、〕の館跡なりと云ふ、南方少許を隔て山腹に櫻樹あり〔古木は枯槁して、後世植つぎし物なり、〕 里民御墓山の櫻と呼り、是宗高院墳墓の印にして、中古迄は石碑もありしと傳ふ、

[やぶちゃん注:「館跡」「やかたあと」と訓じておく。現行の特定位置は不詳。PDFファイルの「成福寺の山門と宗高院」(成福(じょうふく)寺は後の「小袋谷村」に出る)によれば、現在この伝承を示すもので山崎に『残っているのは、山崎集会所の脇道の奥にあるお塔さまと呼ばれ祀られている五輪塔です。これが宗高院の墓ではないかと言われています』とある。位置的には先の十王堂の直ぐ西に当たる。

「坤方」「ひつじさるのかた」と訓じておく。南西。

「宗高院」既注。]

2015/10/26

更新遅滞

「新編相模國風土記稿」はやはりハンパなくキツいことが判った。

まず、タイピングに異様に時間がかかる(前に述べた通り「市史」のそれは実はとんでもない抄出版でちんまい割注は殆んど総てゼロから打たねばならぬ)。

さらに選んだ巻が絶対的にこれまでの諸記載に殆んど載らない地域であるため、注を附すとなると、資料自体が極めて少ないか、或いは誰も語っていない、或いは最早その記載対象が現存しないことから、全くのフラット、ゼロ・ベースから始めなければならぬものが多いからである。

注を附さなければ問題なく多分、半日で終わって悠々午後に公開出来るのだが、どうもこれ、例の――

僕の悪い癖で――

黙って居られなくなるのだ――

――居られなくなると、これまた――

連鎖反応で――

関係妄想的に注があれよあれよと言う間に――増殖してしまう。

また――

『あれに注を附したのに、これに附けないのは変じゃないか?!』

というお馴染みの私独特の教条主義的神経症的強迫観念に捕らわれると、もうこれ――

――歯止めが効かなくなる――のである。

今日は未明から「山崎村」に取り掛かっているのだが、一日かけても、注が7割しか終わらない。

しかも、明日出来るかどうかも分からぬ。

そして、明日出来ぬとなると、さる理由によって、暫くまたまたブログ更新が不能に近くなるのである。

ともかくも――

更新がなくても――
僕は死んではいない――
孤独な誰も読みはしないような馬鹿げた作業に熱心に専心している――

と御安心あれ。では……少し疲れた……お休みなさい……

2015/10/25

「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 峠村

[やぶちゃん注:本日より、ブログ・カテゴリ「鎌倉紀行・地誌」にて最大の難敵「新編相模國風土記稿」の鎌倉郡及び関連地域パートの電子化に突入することとする。「新編相模國風土記稿」江戸幕府が編纂した相模国(現在の神奈川県)の地誌で百二十六巻の大部から成る。大学頭林述斎の建議により幕府学問所昌平黌(しょうへいこう)に於いて、「新編武蔵国風土記稿」が完成した天保元(一八三〇)年頃に引き続き編纂に着手され,同十二年に幕府に提出された。幕府はこの二冊を皮切りに全国の地誌を企図していたが、結局、この二冊きりで終わってしまった。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「大日本地誌大系第三十九巻」及び「大日本地誌大系第四十巻」の「新編相模國風土記稿」の画像を視認することとする。

 但し、「鎌倉郡巻之三十」・同「三十一」・同「三十六」・同「三十七」の一部については、時間を節約するため(正直、鎌倉郡のただの全電子化だけでも私の生きているうちに出来るかどうかも怪しい)、所持する昭和六〇(一九八五)年吉川弘文館刊「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」に載る抄出された新字版(一段組で二十八頁分)のものをOCRで読み取り、それを加工用に国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認確認して正字化した箇所があることをお断りしておく(但し、言っておくと「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」のそれは抄出である以上に、注記なしに割注の一部が有意にごっそり省略された非常に不完全なものである)。

 まずは、「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」から入る。これは従来の近代までの鎌倉地誌や案内書に於いて殆んど語られないか、簡略な説のみで御終っている周縁部の地域(朝比奈の峠村から鼻欠地蔵や山崎・台・小袋谷・大船・岩瀬・今泉の各村落部)から先に電子化したいからである。たまたま、そうした私の意向と「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」の抄出版の編集企図(末尾「解説」にそうした私と同じ意図で抄出したと書かれてある。しかし正直言わせてもらうと、「鎌倉郡」全部の同市史での掲載は分量的に出来ないからに他あるまい)が一致したものであって、実際には少し前から独自に電子化を始めていた。しかし、国立国会図書館のPDF画像からは私のソフトでは読取が限界を越えてしまっていて、読み取らせても暗号文みたようなものにしかならず(私は書籍としての「新編相模國風土記稿」を所持していない)、二段組の底本画像と純粋にタイピングで目が格闘したものの、遅々として進まぬため、諦めてかくの如き仕儀を経ることと敢えてしたものである。「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」の本文と以下の私の電子テクストを比べて戴ければ、私の仕儀が、決して「安易」なものではないことがお分かり戴けるものと存ずる(それほど市史抄出版は省略が多いのである)。

 二行割注は同ポイントで〔 〕で示した。総標題箇所以外の項目記載は底本では二行目以降が一字下げになっているが、原則、無視した。判読の邪魔にならぬ箇所にオリジナルな注を配し、注の有る無しに限らず、「〇」で示された独立項(そうでない「〇」もある。後述)の後は総て一行空けて読み易くした。また「〇」で項立てされていても、改行されずに本文に続くところの中途半端な従属節(項)があるが、底本に先行する別の刊行本である「新編相模国風土記稿第4輯 鎌倉郡」(後述)を見ると、これらも全部、行頭に改行されあるので、ここでもすっきりと改行して独立させた。一部漢字に字体の不統一が底本には見られるが、区別する必要性を感じないので、原則、正字で統一した(例えば「衞」・「衛」が混在するが「衞」で統一するということである)。

 なお、国立国会図書館デジタルコレクションには別に明治一七(一八八四)年~明治二一(一八八八)年に鳥跡蟹行社というところが刊行した「新編相模國風土記稿」(本文漢字カタカナ交り)が存在し、こちらにしかない挿絵やこちらの方が見やすいそれがかなりあることが判った。そこで挿絵(すべて国立国会図書館が『インターネット公開(保護期間満了)』とする無許可での自由使用可のパブリック・ドメイン画像)についてはそちら(例えば新編相模国風土記稿第4輯 鎌倉郡」など)からも引く予定でいる(それぞれの箇所で引用元を明記する)。

 では――また――永い孤独な戦い――を始めることとしようか。……【2015年10月25日 藪野直史】]

 

新編相模國風土記稿〔卷之九十八〕

 

 村里部 鎌倉郡卷之三十

 

   山之内庄

 

峠村〔多不牙牟良〕 江戸より行程十二里小坂郷に屬す、家數十八、東西七町半、南北八町許〔東、寺分村、南、平分村、北、宿村、以上三村、皆武州久良岐郡の屬、西、郡内十二所村、〕、新田〔高六石七斗九升二合、〕あり、今松平大和守矩典領分及御料〔右は御料所、後私領となり屢迁替ありて金子覺右衞門・加藤太郎左衞門等知行し後又御料に復し、文化八年松平平肥後守容衆領分となり、文政二年大和守矩典に賜ふ〕及御料少しく交れり〔高纔に八石餘〕往還一條あり村の中程を西東に達す〔巾六尺〕武州金澤より鎌倉への路なり、

[やぶちゃん注:「多不牙牟良」「たふげむら(とうげむら)」の音を示す。以下、この注は略す。

「十二里」四十七・一三キロメートル。

「松平大和守矩典」「矩典」は「とものり」と読む。武蔵国川越藩第四代藩主松平斉典(なりつね 寛政九(一七九七)年~嘉永三(一八五〇)年)のことであろう。ウィキの「松平斉典」によれば、『家督を継ぎ、将軍徳川家斉から偏諱を受けて矩典(とものり)から斉典と改名した』とある。

「御料所」江戸幕府直轄領。

「迁替」の「迁」は「遷」の俗字。「遷替(せんたい)は「遷代」とも書き、任期を終えて他の官職に転ずることで、通常は栄転である上級職に転ずることを言うようであるが、ここはフラットな意である。

「松平平肥後守容衆」陸奥会津藩第七代藩主松平容衆(かたひろ 享和三(一八〇三)年~文政五(一八二二)年)。

「六尺」一・八二メートル。]

 

○高札場

[やぶちゃん注:「高札場」「かうさつば(こうさつば)」と読む。江戸期に於いて法度・禁令・犯罪者の罪状(なお文字情報だけで時代劇でよく見かける人相書きの張り出しは事実ではない)などを記して一般に告示するため、町辻や広場などに高く掲げた板の札。明治六(一八七三)年廃止。以下、この注は略す。]

 

○小名 △上庭 △中 △下

[やぶちゃん注:「小名」は「こな」で村内や町内を更に小分けした際のそれぞれの地名。小字(こあざ)に同じい。大名(おおな)即ち大字(おおあざ)の対語である。]

 

○朝比名切通 鎌倉七口の一なり、孔道大小二あり、十二所村界にあるを大切通と云ふ〔道巾四間許、〕大切通より一町程を隔て東方村内にあるものを小切通と呼ぶ〔道巾二間許〕共に鎌倉より六浦への往還に値れり、仁治元年三月始て道路を開かんこと議定あり〔【東鑑】曰、十一月卅日、鎌倉與六浦津之中間、始可被始可被當道路之由有議定、今日曳繩打丈尺、被配分御家人等、明春三月以後、可造之由被仰付、〕二年四月經營の事始ありて執權北條泰時躬づから監臨し、或時は懈怠の人夫を促さんが爲、己が乘馬をもて土石を運致し速成を勵せしとぞ〔四月五日六浦道被造始、是可有急速沙汰之由、去年冬雖被經評議、被始新路爲大犯土之間、明春三月以後可被造之旨、重治定云々、仍今日前武州令監臨其所給之間、諸人群集各運土石云々、五月十四日、六浦路造事、此間頗懈緩今日前武州監臨給、以乘馬令運土石給、仍觀者莫不奔營、〕其後土石路を理むにより建長二年六月再修造の沙汰あり〔六月三日、山内並六浦等道路事、先年輙爲令融通鎌倉、雖被直險阻、當時又土石埋其閭巷云々、仍如故可致沙汰之由、今日被仰下、〕

[やぶちゃん注:「朝比名」はママ。

「四間」七・二七メートル。

「大切通より一町程を隔て東方村内にあるものを小切通と呼ぶ」「大(をほ)切通」「小(こ)切通」と読む。「一町程」約百九メートル。この記述では明らかに切通しが二つあるように読めるが、現在の通説では峠の頂上付近(鎌倉市と横浜市市境に相当)を「大(おお)切通し」と呼称し、そこから六浦寄りの下る部分を「小(こ)切通し」と呼ぶようである。ここに読めるような二箇所説をとる研究家もおり、「大切通し」に向かう右手を奥に入ったルートを「小切通し」の候補としているのを見かけたことはある。但し、あったとしても現在は廃道化している。私はかつてこの右手ルートから入って、池子の弾薬庫の監視塔が見える位置まで山中に分け入った上、金沢側の熊野神社へ下ったことがあるが、それらしい「切通し」遺構は発見出来なかった

「二間」三・六四メートル。

「仁治元年」一二四〇年。

「鎌倉與六浦津之中間、始可被始可被當道路之由有議定、今日曳繩打丈尺、被配分御家人等、明春三月以後、可造之由被仰付」書き下す。

鎌倉と六浦(むつら)の津(つ)との中間に、始めて道路を當(あ)てらるべきの由、議定(ぎぢやう)有り。今日、繩を曳き、丈尺(ぢやうしやく)を打ち、御家人等(ら)に配分せらる。明春三月以後、造るべきの由、仰せ付けらる。

「四月五日六浦道被造始、是可有急速沙汰之由、去年冬雖被經評議、被始新路爲大犯土之間、明春三月以後可被造之旨、重治定云々、仍今日前武州令監臨其所給之間、諸人群集各運土石云々、五月十四日、六浦路造事、此間頗懈緩今日前武州監臨給、以乘馬令運土石給、仍觀者莫不奔營」書き下す。

四月五日、六浦の道を造り始めらる。是れ、急速の沙汰有る可べきの由、去年の冬、評議を經らると雖も、新路を始めらるること、大犯土(だいぼんど)爲たるの間、明春三月以後に造らるべきの旨、重ねて治定(ぢぢやう)すと云々。仍つて今日(けふ)、前武州、其の所に監臨せしめ給ふの間、諸人群集し、各々、土石を運ぶと云々。五月十四日、六浦の路造りの事、此の間、頗る懈緩(けくわん)す。今日、前武州、監臨し給ひ、乘馬を以つて土石を運ばせめ給ふ。仍つて觀(み)る者、奔營(はんえい)せずといふこと莫し。]

この「大犯土」というのは新人物往来社一九七九年刊貴志正造編著「全譯 吾妻鏡 別巻」の用語注解によれば、「犯土(ぼんど)」とは『土の神の領域を犯すこと。またそれについての陰陽道の禁忌および祭儀をいう。土の神(土公)の居を占める期間中、地ならし・土の移動・穴掘りなど、すべて土地に変化を与える行為を「土を犯す」「犯土」と称して、陰陽道では重い禁忌と』した、とある。「大犯土」はその禁忌抵触が激しいものを言う。「方違へ」と同様、専ら土公の方位と滞留時間が問題なのであって、必ずしも掘削土木作業が大規模であったからではあるまい。

「建長二年」一二五〇年。

「六月三日、山内並六浦等道路事、先年輙爲令融通鎌倉、雖被直險阻、當時又土石埋其閭巷云々、仍如故可致沙汰之由、今日被仰下」書き下す。

六月三日、山内(やまのうち)並びに六浦等の道路の事、先年、輙(たやす)く鎌倉へ融通(ゆづう)せしめんが爲に、險阻を直(なほ)さると雖も、當時、又、土石、其の閭巷(りよかう)を埋むと云々。仍つて故(もと)のごとく沙汰致すべきの由、今日、仰せ下さる。

併記される「山内」は巨福呂(こぶくろ)坂切通のことである。]

 

 

○峠坂 村中より大切通に達する坂なり、延寶の比淨譽向入と云ふ道心者坂路を修造し往還の諸人難苦を免ると云〔此僧延寶三年十月十五日死、坂側に立る地藏の石像に、此年月を刻せしと【鎌倉志】に見ゆれど、今文字剝落す、〕

[やぶちゃん注:「延寶の比」「比」は「ころ」(頃)。一六七三年から一六八一年で幕府将軍は第四代徳川家綱及び第五代綱吉である。

「淨譽向入」詳細不詳。

「新編鎌倉志」「卷之八」に以下のように載る。以下、読まれると一瞬にして判るが、実は本「新編相模國風土記稿」はそのかなりの部分を「新編鎌倉志」に依拠しており、そこに載る誤認が無批判にそのまま移されていることがあるので注意が必要である。

   *

〇朝夷名切通〔附上總介石塔 梶原太刀洗水〕 朝夷名(あさいな)〔或作比奈(或は比奈に作る)。〕の切通(きりとほし)は、鎌倉より六浦(むつら)へ出る道なり。大(をほ)切通・小(こ)切通とて二つあり。【東鑑】に、仁治元年十一月三十日。鎌倉と六浦の津(つ)の中間を、始て當道の路(みち)とせらるべきの由評定有りて、今日繩を引く。同じく二年四月五日、大浦の道を造り始めらる。前の武州泰時、其の所に監臨せしめ給ふの間(あひだ)、諸人羣集、各々土石を運ぶ。仍つて觀者犇營(ほんえい)せずと云事なしとあり。此の道の事なるべし。土俗の云く、朝夷名(あさいな)の三郎義秀(よしひで)、一夜の内に切り拔きたり。故に名くと。未だ考へず。此の坂道を峠(とうげ)の坂と云ふ、坂の下六浦の方を峠村(とうげむら)と云ふ。近き比も淨譽向入と云道心者、此道を平(たいら)げ、往還の惱みをやむるとなり。延寶三年十月十五日に死すと、石地藏に切付てあり。鶴が岡鳥居の前より、こゝに至までの路程、關東道六里なり。

   *

最後の「關東道六里」の「關東道」とは坂東路、田舎道を意味する語で、同時にこの表現は特殊な路程単位を用いていることを意味する。即ち、安土桃山時代の太閤検地から現在まで、通常の一里は知られるように三・九二七キロメートルであるが、坂東里(田舎道の里程。奈良時代に中国から伝来した唐尺に基づく。)では、一里が六町、六五四メートルでしかなかったから、「六里」は約三・八七キロメートルとなる。

「此年月を刻せしと【鎌倉志】に見ゆれど、今文字剝落す」とあるが、この人物、本当に再調査したのかどうかすこぶる怪しい。何故なら、現在も路傍に石仏が残り、向かって左手に「延宝三年十月十五日」と刻み、右手の欠け残った上部に「淨譽」の刻字をはっきりと現認出来るからである。「北道倶楽部」の「六浦道と朝比奈切通し 3」の上から二枚目の写真を参照されるがよい。写真でも歴然としている!]

 

○松林 西北の山上にあり、領主の林なり〔一町三畝程、〕

[やぶちゃん注:「一町三畝」凡そ一ヘクタール。]

 

○川 村内所々の淸水合し一條となり、村の中程を流る〔巾三尺より五尺に至る〕東流して武州六浦に至り、侍從川と云へり、此水を延て村内の水田に灌漑す、

[やぶちゃん注:「三尺より五尺」九十一センチメートルから一・五メートル。]

 

○熊野社 村の鎭守なり、元祿八年地頭加藤太郎左衞門再建の棟札あり、淨林寺持、下同、

[やぶちゃん注:現在は横浜市金沢区朝比奈町で熊野神社と呼称する。鎌倉の鬼門封じとして建てられたとも伝える。

「元祿八年」一六九五年。

「淨林寺」次項に出る。]

 

○山王社

[やぶちゃん注:位置不詳。「淨林寺」の私の注を参照のこと。「鎌倉廃寺事典」の「その他」では廃されたものとしてリストに挙がってはいる。

 

○諏訪社 村持

[やぶちゃん注:位置不詳。「淨林寺」の私の注を参照のこと。「鎌倉廃寺事典」の「その他」では廃されたものとしてリストに挙がってはいる。

 

○淨林寺 見谷山と號す、臨濟宗〔武州久良岐郡宿村東光寺末〕開山葦航〔本山中興の僧なり、正安三年十二月六日寂す、大興禪師と諡す、〕後年村民五右衞門中興開基す〔法名梅意淨林、寛文二年三月三日死す、〕阿彌陀を本尊とせり、

[やぶちゃん注:「淨林寺」不思議なことに、この寺、位置も事蹟も廃寺年代も不明である。やっと「鎌倉廃寺事典」で見つけたものの、場所を峠村とするだけで、何と、記載総てがこの記載に依拠しているのである。なお、前の「熊野社」と「山王社」(恐らくは熊野社或は近くに弊祠と私は推定する)がこの寺の持ち分で、続く「諏訪社」が峠村の持ち分(これも同前の推理を私はする)とするなら、この寺は現在の熊野神社の境内域にあった可能性が極めて高いように私には感じられるのである。この寺に就いて何か情報をお持ちの方、是非とも御教授を乞うものである。

「葦航」「大興禪師」葦航道然(いこうどうねん 承久元(一二一九)年~正安三(一三〇二)年)は蘭渓道隆に師事、その法を嗣いだ四高弟の一人。弘安四(一二八一)年、無学祖元の下で建長寺の首座となる。円覚寺・建長寺住持。

「寛文二年」一六六二年。]

 

○鼻缼地藏 金澤往還の北側なる、岩腹に鐫たる像を云〔長一丈許〕、是より東方纔に一間許を隔て武相の國界なり、故に【鎌倉志】にも界地藏と唱ふと記せり、又【志】に此像の鼻缼損せし如くなれば鼻缼地藏と呼とあり、土俗は傳へて古此像を信ずる者多く香花を供すること絶えざりし故、花立地藏と云つるを後訛りて鼻缼とは唱へしなりと云、

[やぶちゃん注:「鼻缼」「はなかけ」と読む。「鼻缼(欠)」に同じい。

「鐫たる」「ゑりたる」と訓じていよう。彫る、の意。

「一丈」三・〇三メートル。

「一間」一・八メートル。

「故に【鎌倉志】にも界地藏と唱ふと記せり、又【志】に此像の鼻缼損せし如くなれば鼻缼地藏と呼とあり、土俗は傳へて古此像を信ずる者多く香花を供すること絶えざりし故、花立地藏と云つるを後訛りて鼻缼とは唱へしなりと云」「新編鎌倉志卷之八」より私の注ごと引く(そこで参考に附した「江戸名所図会」の「鼻欠地蔵」の挿絵も添える)。

   *

〇鼻缺地藏 鼻缺(はなかけ)地藏は、海道の北の岩尾(いわを)に、大ひな地藏を切り付てあり。是より西は相州、束は武州なり。相・武の界にあるを以て、界(さかひ)の地藏と名く。像の鼻(はな)缺けてあり。故に卑俗、鼻缺地藏と云ふなり。北の方へ行く道あり。釜利谷(かまりや)へ出て、能見堂(のけんだう)へ登る路なり。

[やぶちゃん注:朝比奈から六浦へバス停を一つ戻った、大船方面行大道中学校前バス停の正面にあるが、風化が著しく像型のみで、仏体の確認は出来ない。現在の高さは凡そ四メートルある。天保四(一八三三)年刊の「江戸名所図会」には(ちくま学芸文庫版を底本としたが、恣意的に漢字を正字化、ルビの一部を省略した)、

界地藏 土俗、鼻缺地蔵と稱ふ。光傳寺より九丁あまり西の方、鎌倉道の傍らにあり。巨巖(こがん)の壁立(へきりふ)したるところに、この尊像を鐫(ゑ)り出だせり〔尊像の鼻、缺け損ず。ゆゑに鼻缺地藏といふ。〕。このところは武藏・相模の國界にして峠村と號(な)づく。

とあり、その図会には以下のような地蔵と思しい彫像がはっきりと見え、前の祭壇にも小仏一体、侍従川の橋の袂にはやはり石仏を乗せた道標らしきものが視認出来る。この道標から画面奥、鼻欠地蔵を回り込む山道が、本文で言う「釜利谷へ出て、能見堂へ登る路」と考えられる。]

 

[「江戸名所圖會」所収の「鼻缺地藏」の図]

Hanakake

   *]

 

○上總介墓 金澤往還南陸田間にあり、所在を字して塔島と呼り、土俗傳て北條高時滅亡の時當所にて討死せし上總介某の墓なりと云ふ、【鎌倉志】には上總介廣常が事歟と記せど、今碑の樣を見るに當今の物とも思はれず、固より文字を鐫さざれば其詳なること知るべからず、碑圖左の如し。

Kazusanosukehaka

[やぶちゃん注:実は最後の「碑圖左の如し。」は底本にはなく、図もない。この文と画像は冒頭注に示した、底本の日本地誌大系本とは別の、国立国会図書館デジタルコレクションの明治一七(一八八四)年~明治二一(一八八八)年鳥跡蟹行社刊「新編相模国風土記稿第4輯 鎌倉郡」から引いたものである。但し、当該書本文は漢字カタカナ交りであるため、こちらに合わせて平仮名に直した(句点はママとした。当該書は基本、総てが問う点ではなく句点なのである)。図は周辺の枠や汚損を可能な限り除去したが、絵本体には一切手を加えていない(既に述べた通り、この画像はパブリック・ドメインで引用元を明記した上での無許可での使用が許可されたものである)。

「【鎌倉志】には上總介廣常が事歟と記せど」ここも非常に長いが、「新編鎌倉志卷之八」より私の注ごと引く。

    *

上總介(かずさのすけ)が石塔 大切通と小切通との間、田の中にあり。上總の介、未だ考へず。平の廣常(ひろつね)が事歟。廣常は、高望王九代孫にて、上總介高望(たかもち)王九代の孫に手、上總の常隆(つねたか)が子なり。武勇の名譽關東に振へり。坂東の八平氏、武林の八介(すけ)の其の一人也。賴朝卿に屬して、義兵を助け、良策戰功多し。後(のち)に讒言に因て、賴朝に疑はれ、壽永二年十二月に殺されたり。【愚管抄】に、介(すけ)の八郎廣常を、梶原景時(かじはらかげとき)をして討たせたり。景時、雙六(すごろく)打ちて、さりげなしにて、局を越へて、頓(やが)て頸(くび)をかいきりて、もてきたりけるとあり。後に廣常、謀叛にてあらざる事、支澄明白にて、賴朝これを殺したるを後悔し給ひたる事、【東鑑】に見へたり。鎌倉より切通(きりどをし)の坂へ登る左の方に、岩間(いはま)より涌出でる淸水あり。梶原(かじはら)が太刀洗水(たちあらひみづ)と名づく。或は、平三景時、廣常を討ちし時、太刀を洗ふたる水と云ふ事歟。是も鎌倉五名水の一つなり。或は此邊に上總介廣常が宅(たく)ありつるか。【東鑑】に、賴朝卿、治承四年十二月十二日に、上總介廣常が宅より、大倉(をほくら)の新造の御亭に御移徙(わたまし)とあり。此邊よりの事歟。

[やぶちゃん注:現在、横浜市金沢区朝比奈のバス停の横に五輪塔があり、それが「上総介塔」と呼ばれているが、これは昭和五十六(一九八一)年に県道原宿六浦線拡幅工事の際、この「上總介が石塔」が行方不明となってしまったために地元有志が再建した新しいもので、伝承の塔でも伝承の場所でもない。私が朝比奈を最初に踏査したのは一九七七年頃であったから、失われた石塔を実見しているのかも知れないが、残念なことに記憶がない。伝承上は上総介広常の墓とされるが、「新編鎌倉志」の筆者同様、信じ難い。

「平の廣常」房総平氏惣領家頭首にして東国最大の勢力を誇った上総介広常(?~寿永二(一一八四)年)の謀殺については、幾つかの伝承が残る。以下、ウィキの「上総広常」より引用すると、「吾妻鏡」治承五(一一八一)年六月十九日の条などでは、石橋山で敗退した頼朝を千葉の浜で騎乗のまま出迎えたその時から、『頼朝配下の中で、飛び抜けて大きな兵力を有する広常は無礼な振る舞いが多く、頼朝に対して「公私共に三代の間、いまだその礼を為さず」と下馬の礼をとらず、また他の御家人に対しても横暴な態度で、頼朝から与えられた水干のことで岡崎義実と殴り合いの喧嘩に及びそうにもなったこともある』ことなどが遠因とされ、謀殺についても寿永二(一一八三)年十二月に『頼朝は広常が謀反を企てたとして、梶原景時に命じて、双六に興じていた最中に広常を謀殺させた。嫡男能常は自害し、上総氏は所領を没収された。この後、広常の鎧から願文が見つかったが、そこには謀反を思わせる文章はなく、頼朝の武運を祈る文書であったので、頼朝は広常を殺したことを後悔し、即座に千葉常胤預かりとなっていた一族を赦免した。しかしその広大な所領は千葉氏や三浦氏などに分配された後だったので、返還されることは無かったという。その赦免は当初より予定されていたことだろうというのが現在では大方の見方である』とする。更に慈円の「愚管抄」の巻六によれば、後に頼朝が初めて京に上洛した建久元(一一九〇)年のこと、後白河法皇との対面の中で広常誅殺の話に及んで、頼朝は『広常は「なぜ朝廷のことにばかり見苦しく気を遣うのか、我々がこうして坂東で活動しているのを、一体誰が命令などできるものですか」と言うのが常で、平氏政権を打倒することよりも、関東の自立を望んでいた為、殺させたと述べた事を記している』とある。ここで言う「関東の自立」とは所謂、同じ下総国佐倉を領した平将門のような新皇の名乗りによる完全な独立宣言を暗示させているのであろう。「吾妻鏡」では、謀殺直後の壽永三 (一一八四) 年一月小十七日の条に、以上の広常冤罪の証しとなる記事が示されている。

〇原文

十七日丁未。藤判官代邦通。一品房。幷神主兼重等相具廣常之甲。自上総國一宮。皈參鎌倉。即召御前覽彼甲。〔小櫻皮威。〕結付一封状於高紐。武衞自令披之給。其趣所奉祈武衞御運之願書也。不存謀曲之條。已以露顯之間。被加誅罰事。雖及御後悔。於今無益。須被廻沒後之追福。兼又廣常之弟天羽庄司直胤。相馬九郎常淸等者。依緣坐爲囚人也。優亡者之忠。可被厚免之由。被定仰云々。願書云。

 敬白 上總國一宮寳前

   立申所願事

 一 三箇年中可寄進神田二十町事

 一 三箇年中可致如式造營事

 一 三箇年中可射萬度流鏑馬事

 右志者。爲前兵衞佐殿下心中祈願成就東國泰平也。如此願望令一々圓滿者。彌可奉崇神威光者也。仍立願如右。

    治承六年七月日   上總權介平朝臣廣常

〇やぶちゃんの書き下し文

十七日丁未。藤の判官代邦通一品房(いつぽんばう)幷びに神主兼重等廣常の甲(よろひ)を相具し、上総國一宮より鎌倉へ皈參(きさん)す。即ち御前に召し彼(か)の甲〔小櫻皮威。〕を覽(み)る。一封の狀を高紐に結び付く。武衞自ら之を披らかしめ給ふ。其の趣は、武衞の御運を祈り奉る所の願書なり。謀曲を存ぜざるの條、已に以て露顯するの間、誅罸を加へらるる事、御後悔に及ぶと雖も、今に於ては益無し。須らく沒後の追福を廻らさるべし、兼ては又、廣常が弟の天羽の庄司直胤・相馬の九郎常淸等は、緣座に依りて囚人(めしうど)たるなり、亡者の忠に優じ、厚免せらるべきの由、定め仰せらると云々。

願書に云く、

 敬ひて白(まう)す 上總國一宮の寳前

   立て申す所願の事

 一 三箇年の中 神田二十町を寄進べき事

 一 三箇年の中 式のごとく造營を致すべき事

 一 三箇年の中 萬度の流鏑馬を射るべき事

 右志しは 前の兵衞の佐殿下の心中祈願成就 東國泰平の爲なり 此くのごときの願望 一々圓滿せしめば 彌々神の威光を崇め奉るべき者なり 仍つて立願 右のごとし

    治承六年七月日   上總權の介平の朝臣廣常

「一品房」は一品坊昌寛(生没年未詳)。頼朝の挙兵の当時からの祐筆や使者を務めた僧。「吾妻鏡」によれば治承五(一一八一)年の鶴岡八幡宮造営の、また、建久元(一一九〇)年及び建久六(一一九五)年の二度の頼朝上洛の際には宿舎造営の奉行を仕切っている。娘の一人は二代将軍頼家の側室(栄實と禅暁の母)。「高紐」は鎧の後ろ胴に続く肩上(わたがみ)の先端と前胴の胸板を繋ぐための懸け外しの鞐(こはぜ)をつけた紐。「天羽の庄司直胤」広常の弟。上総国天羽(あもう)郡天羽の庄(現在の富津市)の荘官として天羽庄司を名乗った。「相馬九郎常淸」も広常の弟。「相馬」は相馬の御厨である。彼はその内の北相馬(現在の茨城県取手市や守谷市付近)を管理していた可能性が指摘されている。

「賴朝卿、治承四年十二月十二日に、上總介廣常が宅より、大倉の新造の御亭に御移徙とあり。此邊よりの事歟」とあるが、私はこの十二所が個人的に大好きで、幾度となく訪れているのだが、幕府が出来る直近に、あの今でさえ山深い辺地に、かの豪将上総介広常の屋敷があったこと自体、かなり疑問に思っているのである。そもそも騙し討ちの太刀の血糊を洗った泉水が「梶原の太刀洗水」と称して後に名水となるというのも、実は穏やかならざる気がして解せない。広常邸跡と称する場所も古地図を見ると十二所の朝比奈切通の近くにあったりするのだが(三十数年前、私は半日山中を彷徨ってそれらしい高台に立ったこともある)、実際の感覚としては私には十二所に広常邸があったというのは信じ難いというのが本音である。

   *

「鐫さざれば」ここはどうも「センさざれば」と音読みしているようである。意味は無論、前に注した通り、「刻す」「刻む」「彫る」の意である。]

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (七)

       七

 

 北側の第二の庭は自分の好きな庭である。大きな草木は何一つ無い。靑い小石が敷いてあつて、小池が一つ――珍奇な植物がその緣にあり、小さな島が一つその中に在つて、その島には小さな山が幾つかあり高さは殆んど一尺にも足らぬが、恐らくは一世紀以上の年を經たのも、その中にはある一寸法師的な、桃と松と躑躅がある小型の湖水が一つその中心を占めて居る。ではあるがこの作品はさう見せようと計畫されて居たやうにして見ると、眼に少しも小型なものとは見えぬ。それを見渡す客間の或る一角から見ると、石を投げれば屆くほどの遠さに、向うに眞の島のある、眞の湖岸の景である。この庭園全部を立案した、月照寺の杉の下に眠つてから一百年を經て居る、その古昔の庭師の技巧は如何にも巧妙なので、そのイリウジヨンは、その島の上にイシドウロウ、即ち石の燈籠が在るので座敷からだけ見破られるのである。その石燈籠の大いさが、その僞りの遠景を裏切るが爲めで、この庭を造つた時には、其處に置いて無かつたものと自分は考へる。

 この池の綠の其處此處に、そして殆んど水と水平に、その上に立つことも坐ることも出來、その湖沼住者を窺ふことも、その水中植物を世話することも出來る、扁たい大きな石が置いてある。池には、その輝かしい綠の葉面が、水の表に油の如く浮いて居る美しい睡蓮(ヌフアル・ヂヤポニカ)があり、また二種類の、一つは淡紅い花をつけるもの、一つは純白の花をつけるものと、多くの蓮がある。岸に沿ふて、三稜鏡的菫色の花を咲かす菖蒲が生えて居り、それからまた裝飾的な種々な、草や羊齒や苔がある。が、この池は蓮池で、蓮がその最も大なる妙趣となつて居るのである。葉が始めて解(ほぐ)れる時から最後の花が落つる時まで、その驚くべき生長の一々の相(すがた)を見るのは樂しみである。殊に雨降りの日には蓮は觀察に値する。その盃形の大きな葉が、池の上高く搖れつゝ雨を受けて暫くの間それを保つ。が、葉の中の水が或る一定の水平に達すると、屹度莖が曲つてボチヤリと高い音を立てて水を零す。そしてまた眞直ぐになる。蓮の葉の上の雨無水は日本の金屬細工人の得意の題目で、その油氣のある綠の表面に動く水の運動と、色とは正(まさ)しく水銀のそれであるから、金屬細工のみがその感銘を再現し得るのである。

 

[やぶちゃん注:「月照寺の杉の下に眠つてから一百年を經て居る」「月照寺」は既注。「杉の下に眠つてから一百年を經て居る」書かれた明治二四(一八九一)年から単純逆算すると一七九一年は寛政三年で当時の松江藩は第七代藩主、まさに稀代の茶人大名松平不昧治郷の治世であった。

 

「睡蓮(ヌフアル・ヂヤポニカ)」原文はそれぞれ“water-lilies”“(Nuphar Japonica)”“water-lilies”は確かに、

スイレン目 Nymphaeales スイレン科 Nymphaeaceae スイレン属 Nymphaea

の漢名「睡蓮」の仲間を総称する英名ではある(因みに、このタクソンの文字列のなんと美しいことか!)。しかしハーンが添えたこのNuphar Japonicaという学名はスイレン属ではない、

スイレン科コウホネ属 Nuphar コウホネ(河骨)Nuphar japonicum

のシノニムなのである。因みに、ウィキの「コウホネ」には、『コウホネ属は北半球の温帯を中心に』二十種『ほどが知られ、日本では』四種及び『いくつかの変種が知られる。しかし変異の幅も広く、その区別はなかなか難しい。分類上の扱いにも問題があるようである。ひとつの区別にコウホネは水上葉を水面から抽出するが、他の種は水上葉を水面に浮かべる、というのがあるが、コウホネも水面に葉を浮かべることがあり、条件によっては水上に出ない例もある』とある。また、花の色は圧倒的に黄色いが、ネットで調べると他にも紅色・赤紫色など数種類があるとあった。

 さて、ところがハーンはこの直後、その「池」を描写するに、「二種類の、一つは淡紅い花をつけるもの、一つは純白の花をつける」「多くの蓮がある」とする。ここでハーンは “many lotus”と言い、訳者も「多くの蓮」と表現しているのであるが……さて?……以下、最後までハーンも訳者も、睡蓮でも河骨でもない、それらとは全く異なった分類群に属するところの、正真正銘のロータス、蓮、

ヤマモガシ目 Proteales ハス科 Nelumbonaceae ハス属 Nelumbo ハス Nelumbo nucifera

を描いているのだということを本訳書を読んでおられるあなたは気づいておられるか? 無論、訳者は、

 「睡蓮」≠ 異属の河骨の学名「ヌフアル・ヂヤポニカ」 ≠「蓮」

で歴然と区別していると言えば確かに言える。けれども、植物に疎い(私もその一人たるを免れない)多くの人々(失礼乍ら、私の知人の中には睡蓮と蓮を同じものだと思い込んでいる人物が多数おり、睡蓮(スイレン)と蓮(ハス)が分類学上は上記の通り全く異なった縁遠い種であることを知る者はさらに少ないと思われる)は、ぼんやりとここを読んでいくうち、思わず知らず、

 「睡蓮」=「ヌフアル・ヂヤポニカ」=「蓮」

という誤った等式の沼にはまり込んでしまうのではあるまいか? と私は危惧するのである(少なくとも私は今回、最初に読んだ時、その過ちを冒しそうになったことを告白する。だからこそ、この事大主義的にさえ見える長々しい事実を自分なりに調べてみたのである)。無論、何方もそのような馬鹿げた誤読をされず、以上が全くの杞憂であると申されるのなら、私の注は分かり切った下らぬ屋上屋であったことになり、さてもこれといって論争や混乱を招く訳でもなく、私の不明を恥じるだけのことである。いつもの「老婆心乍ら」の注として無視して頂いて結構である。

「三稜鏡的菫色」原文“prismatic violet”。「三稜鏡」は「プリズム」である。わざわざ注で挙げたのは、平井呈一氏はこの一文“There are iris plants growing along the bank, whose blossoms are prismatic violet, and there are various ornamental grasses and ferns and mosses.”を、『池の縁には、三角の形をした紫の花の咲くショウブが植わっているほか、シダだの、苔だの、いろいろの下草が植えこんであう。』と訳しておられるからである。例によって平易な訳文なのであるが、しかし、“prismatic violet”は『三角の形をした紫の』の意なのであろうか? 確かに花菖蒲の花は独特の形を成してはいる。

   *

【脱線注】因みに、ここに出る「菖蒲」とは、美しい紫の花を咲かしているわけであって、これは正しく言うなら「ショウブ」ではなく「ハナショウブ」である。前者「ショウブ」は、

単子葉植物綱ショウブ目ショウブ科ショウブ属 Acorus ショウブAcorus calamus変種 Acorus calamus var. angustatus

で、これは花とも思えない地味な穗状の花しかつけないのに対し(端午の節句の菖蒲湯に使うのはこちらの葉)、私たちが普通に「菖蒲」と呼んでいる、美しい花をつけるのは全く別種である後者の「ハナショウブ」即ち、

単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属 Iris ノハナショウブIris ensata 変種ハナショウブ Iris ensata Thunb. var. ensata

である。おまけに老婆心乍ら言っておくと、我々が花と思っている垂れ下がった大きな三枚は萼片であって本当の花弁は内側に立ち上がる三枚だけである。さらに言い添えておくと、

単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属カキツバタ Iris laevigata

アヤメ属アヤメ Iris sanguinea(綾目)

アヤメ属ハナショウブ(花菖蒲)Iris ensata var.ensata

の三種の識別法については既に第三章 お地藏さま(八)の私の注で記しておいた。未見の方は是非読まれたい。非常に簡単である。

   *

閑話休題。花菖蒲の花を確かに『三角の形をした』とは言うかも知れない(私なら決してそうは形容しないけれども)。ここでの訳者の「三稜鏡的菫色」という詰屈な謂いも、三枚の萼片が垂れている花菖蒲の形を、三稜玻璃、プリズムの形をしていて菫色を呈した、という意味で用いているようには思われる。

 しかし……どうも、英語に冥い私には“prismatic violet”は言葉通り――プリズマティクに分光された――スペクトル分光された――プリズムによって鮮やかに引き出されたような不思議な青みがかった紫色――の謂いではあるまいか? と妄想してしまうのである。大方の御叱責を俟つものである。]

 

 

Sec. 7

The second garden, on the north side, is my favourite, It contains no large growths. It is paved with blue pebbles, and its centre is occupied by a pondlet—a miniature lake fringed with rare plants, and containing a tiny island, with tiny mountains and dwarf peach-trees and pines and azaleas, some of which are perhaps more than a century old, though scarcely more than a foot high. Nevertheless, this work, seen as it was intended to be seen, does not appear to the eye in miniature at all. From a certain angle of the guest-room looking out upon it, the appearance is that of a real lake shore with a real island beyond it, a stone's throw away. So cunning the art of the ancient gardener who contrived all this, and who has been sleeping for a hundred years under the cedars of Gesshoji, that the illusion can be detected only from the zashiki by the presence of an ishidoro or stone lamp, upon the island. The size of the ishidoro betrays the false perspective, and I do not think it was placed there when the garden was made.

Here and there at the edge of the pond, and almost level with the water, are placed large flat stones, on which one may either stand or squat, to watch the lacustrine population or to tend the water-plants. There are beautiful water-lilies, whose bright green leaf-disks float oilily upon the surface (Nuphar Japonica), and many lotus plants of two kinds, those which bear pink and those which bear pure white flowers. There are iris plants growing along the bank, whose blossoms are prismatic violet, and there are various ornamental grasses and ferns and mosses. But the pond is essentially a lotus pond; the lotus plants make its greatest charm. It is a delight to watch every phase of their marvellous growth, from the first unrolling of the leaf to the fall of the last flower. On rainy days, especially, the lotus plants are worth observing. Their great cup- shaped leaves, swaying high above the pond, catch the rain and hold it a while; but always after the water in the leaf reaches a certain level the stem bends, and empties the leaf with a loud plash, and then straightens again. Rain-water upon a lotus-leaf is a favourite subject with Japanese metal-workers, and metalwork only can reproduce the effect, for the motion and colour of water moving upon the green oleaginous surface are exactly those of quicksilver.

騎士夢

それは靜止した畫像に見えた。額(がく)も見えなかつた。僕の夢のスクリイン一杯にあつた。どんよりとした空と少し許りの陰鬱な沼地を配した荒地が背景に見える西洋の騎士の半身畫であつた。面頰(めんぼほ)を外しただけで此方の左前方を向いてゐる、無精髭に蔽はれた顔面だけが見える灰色の甲冑姿であつた。僕はその「繪」を、レムブラントか誰かの作品の一角に、確に見たことがあるやうな氣がした。しかし良く見れば――その顏は僕自身なのであつた。さう思つた時、確にその顏が――にやりと笑つた。……

2015/10/24

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (六)

         六

 

 木には、少くとも日本の木には、魂があるといふ事は、ウメノキとサクラノキの花を見たことのある者には、不自然な空想とは得思はれぬ。この事は出雲や他の地方での普通の信仰である。これは佛教の哲理には一致しないが、或る意味に於て、木は『人間の用の爲めに創造された物』といふ西洋の古の正統思想よりも、遙かに宇宙眞理に近いものと誰しも感ずる。その上亦、責重な森林の絶滅を防ぐ上に於て、大いに效のあつた或る種の西印度信仰に似ぬでも無い、數々の妙な迷信が特殊の樹木に就いて存在して居る。日本には、熱帶世界と同樣に、化物の木がある。そのうちで、エノキ(學名セルチス・ヰルダノヰアナ)とヤナギ(枝の垂れるヰロウ)とが、殊に靈的なものと考へられて居る。で、古風の日本庭に見らるゝことは今は稀である。兩方とも化ける力を有つて居ると信ぜられて居る。『エノキ ガ バケル』と出雲で云ふ。諸君は日本字書に『バケル』といふ語が『姿を變へる』とか、『變態する』とか『變はる』とかいふ言葉で、反譯されて居るのを見らるゝであらう。が、此二つの木に就いての信仰は頗る特殊なもので、『バケル』といふ動詞の、そんな翻譯では説明が出來ぬ。木そのものが形や場所を變へるのでは無くて、木のお化けといふ妖怪が木から放れて、樣々な姿【註】を執つて歩き廻るのである。

 

    註。サトウ氏は、これが或る程度ま

    でその同類かとも思へる、或る信仰

    を――珍らしい神道の教を――平田

    に發見して居る。『その教に據れば、

    神は自己の部分を分裂の方法により

    て脱ぎ棄て、斯くして所謂ワキミタ

    マ――各異れる機能を具へたる分き

    魂――を生ず』るのだといふ。出雲

    の大神、大國主之神は、平田の説に

    據ると、こんな『分き魂』を三つ具

    へて居らるるといふ。罰するその荒

    い魂(アラミタマ)、赦すその和い魂

    (ニギミタマ)、及び惠を與へる、そ

    の祝福的或は慈善的な魂(サキミタ

    マ)それである。この神の荒塊がさ

    うとは知らずに、一度和魂に遭つた

    といふ神道物語がある。

 

最も屢々此幽靈が執る姿は美人のそれである。この木の妖怪は滅多に物を言はぬ、また滅多にその水から餘程の遠方へ行くことを敢てせぬ。人が近寄ると直ぐと幹か簇葉かの中へ退きすさる。古い柳でも若い柳でも、伐ると血がその傷口から流れ出るといふ。こんな木は極く若い時は、超自然的な習慣を有つて居るとは信ぜられて居ないが、年をとればとる程危險となる。

 京都の或るサムラヒの庭に生えて居た柳に就いて――ドライアツド〔譯者曰、木に棲むニムフ〕についての昔の希臘人の夢を想はせる――やゝ可憐な傳説がある。その木に氣味の惡るい評判があるが爲めに、其家の借家人はそれを伐り倒さうと思つた。が、別な一人のサムラヒが諫めて『自分の庭に植ゑるから、それを自分に賣つて呉れ』と言つた。斯くて購はれ移し植ゑられて、その柳は、その新しい家で能く繁茂し、そしてその魂が、感謝の念からして、美しい女の姿を執り、自分を助けて呉れたそのサムラヒの妻となつた。可愛らしい男の兒が、その結婚の結果であつた。四五年經つて、その地面の持主であつたダイミヤウが、その木を伐り倒せと命じた。すると妻は甚(いた)く泣き悲しんで、始めてその夫に事の仔細を洩らした。そして『私は死なねばならぬ事は分つて居ゐます。でも私共の子供は生きて居ませうし、またあなたはいつも可愛がつてやつて下さるでせう。さう思ふことが私のたつた一つの慰めであります』と言ひ足した。驚きまた怖れた夫は、女を引留めようとしたが徒勞であつた。永久の訣を夫に告げて女は、その木の中へ消え失せた。その士は己が力の及ぶ一切を盡して、その目的を棄てるやう大名に説き勸めたことは言ふに及ばぬ。その大名はサンジフサンゲンダウ【註】といふ大きな佛寺の修繕に、その木が要るのであつた。その木は伐られた。が、倒れてしまふと、三百人の力もそれを動かすことが出來ぬ程の重さに突然成つた。その時その子が、その小さな手に一枝を持つて『おいで』と言つた。するとその子に隨(つ)いて、その寺の庭まで大地を辻つて行つた。

 

    註。京都の佛寺總てのうちで、一番

    印象的なものであらう。千手觀音に

    奉獻されたもので、その像が三萬三

    千三百三十三體ある。

 

 榎は化物の木だと言はれて居るけれども、時々最高の宗教的尊敬を受けてゐる。古い人形をそれに奉納することになつて居る、荒神(くわうじん)といふ神の靈は、或る非常に古い榎の木に宿つて居ると想像されて居るからで、人々がそれに對してお祈をする、祠がその木の前に置かれて居るのである。

 

[やぶちゃん注:「西印度信仰」となると、西インド諸島のハイチを中心に広まった民間信仰ブードゥー教(英語Voodoo:ハイチや西アフリカではヴォドゥン(Vodun)と呼び慣わす。「ヴォドゥン」とは西アフリカのフォン語で「精霊」の意)であろう。奴隷貿易によってアフリカから西インド諸島へ強制連行されて使役された黒人奴隷の間に広がったアニミスティクな信仰とキリスト教が混淆して生まれた複数の精霊を信仰し、しばしば憑依儀礼が行われる。

「エノキ(學名セルチス・ヰルダノヰアナ)」原文“the enoki (Celtis Willdenowiana)”。バラ目アサ科エノキ属エノキ Celtis sinensis(セルチス・シネンシス)。この原文の学名は英語版ウィキのCeltis sinensisによって同種のシノニムであることが判る。

「ヤナギ(枝の垂れるヰロウ)」原文“the yanagi (drooping willow)”であるから「ヰロウ」はその音写(「ウィロー」)である。この英名で引くと、我々にお馴染みのビワモドキ亜綱ヤナギ目ヤナギ科ヤナギ属シダレヤナギ Salix babylonica を指すことが判る。

「サトウ氏は、これが或る程度までその同類かとも思へる、或る信仰を――珍らしい神道の教を――平田に發見して居る」以下は前出のアーネスト・メイソン・サトウ(Ernest Mason Satow)が一八七五年に「日本アジア協会」で口頭発表し、一八八二年に『日本アジア誌』誌上で論文の形となった“The revival of pure Shin-tau”(純粋神道の復活)辺りからの引用か。私はサトウの著作を読んでいないのでこれ以上の注は控える。それらしいことを述べていそうな平田篤胤の著作は所持するが、今回もすぐに指摘出来ない。そのうち、見つけたらお示しする。

「和い魂」読み不詳。「やはい(やわい)たま」? 何かヘン。

「簇葉」「そうえふ(そうよう)」で、群がった葉。

「京都の或るサムラヒの庭に生えて居た柳に就いて」「やゝ可憐な傳説がある」これは私の好きな浄瑠璃「三十三間堂棟木由来(さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい)」(これは本来は若竹笛躬(ふえみ)・中邑阿契(なかむらあけい)の合作になる宝暦一〇(一七六〇)年初演の「祇園女御九重錦(ぎおんにょうごここのえにしき)」の三段目「平太郎住家の段」を独立させて上演した際の外題で初演は文政八(一八二五)年)の元となった伝承である。

「ドライアツド」原文“dryads”。ギリシア神話に登場する、木の精霊(ニンフ)の一族であるドリュアス(Dryas)のこと。ウィキの「ドリュアス」によれば、英語ではドライアド(Dryad)、フランス語ではドリアード(Dryad)。先に注したヒンドゥー教などに登場する木の精霊もギリシア神話のニンフの名を借りてかく呼ぶことがあるとし、『多くのニンフと同じく長命であるが、ドリュアスたち(ドリュアデス)の場合、自らの宿る木が枯れると共にその命を閉じる。このためドリュアスたちやギリシアの神々は木の精霊に敬意を払うことなく木を傷つける人間をこらしめるのである』。『ドリュアスたちは普段は人前に姿を現すことは滅多にないが、美しい男性や少年に対しては緑色の髪をした美しい娘の姿を現し、相手を誘惑して木の中に引きずり込んでしまうことがあるという。そこで一日を過ごしただけで、外では何十年、何百年もの時が経過している場合がある』。『その起源はインド・ヨーロッパ語族やケルト族のドルイド文化の中ではオークの木と密接に関係している。ギリシア人は彼らより昔の人々はオークの木の実を食べていたと想像した。女性をかたどった神殿の柱は、そのような建築に使われる前はその実を食べていたさまざまな木々と関係している』。知られたドリュアスとしては『オルペウスの妻エウリュディケー』がいる。

「サンジフサンゲンダウ」言わずもがなの京都市東山区三十三間堂廻り町(ちょう)にある仏堂三十三間堂。正しくは蓮華王院本堂という。たまたま偶然、同寺についての事実についは、直近で電子化した「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十五章 東京に関する覚書(4) 茸そっくりの和菓子/京の三十三間堂のこと」に注したので参照されたい。]

 

 

Sec. 6

That trees, at least Japanese trees, have souls, cannot seem an unnatural fancy to one who has seen the blossoming of the umenoki and the sakuranoki. This is a popular belief in Izumo and elsewhere. It is not in accord with Buddhist philosophy, and yet in a certain sense it strikes one as being much closer to cosmic truth than the old Western orthodox notion of trees as 'things created for the use of man.' Furthermore, there exist several odd superstitions about particular trees, not unlike certain West Indian beliefs which have had a good influence in checking the destruction of valuable timber. Japan, like the tropical world, has its goblin trees. Of these, the enoki (Celtis Willdenowiana) and the yanagi (drooping willow) are deemed especially ghostly, and are rarely now to be found in old Japanese gardens. Both are believed to have the power of haunting. 'Enoki ga bakeru,' the izumo saying is. You will find in a Japanese dictionary the word 'bakeru' translated by such terms as 'to be transformed,' 'to be metamorphosed,' 'to be changed,' etc.; but the belief about these trees is very singular, and cannot be explained by any such rendering of the verb 'bakeru.' The tree itself does not change form or place, but a spectre called Ki-no o-bake disengages itself from the tree and walks about in various guises.' [20] Most often the shape assumed by the phantom is that of a beautiful woman. The tree spectre seldom speaks, and seldom ventures to go very far away from its tree. If approached, it immediately shrinks back into the trunk or the foliage. It is said that if either an old yanagi or a young enoki be cut blood will flow from the gash. When such trees are very young it is not believed that they have supernatural habits, but they become more dangerous the older they grow.

There is a rather pretty legendrecalling the old Greek dream of dryadsabout a willow-tree which grew in the garden of a samurai of Kyoto. Owing to its weird reputation, the tenant of the homestead desired to cut it down; but another samurai dissuaded him, saying: 'Rather sell it to me, that I may plant it in my garden. That tree has a soul; it were cruel to destroy its life.' Thus purchased and transplanted, the yanagi flourished well in its new home, and its spirit, out of gratitude, took the form of a beautiful woman, and became the wife of the samurai who had befriended it. A charming boy was the result of this union. A few years later, the daimyo to whom the ground belonged gave orders that the tree should be cut down. Then the wife wept bitterly, and for the first time revealed to her husband the whole story. 'And now,' she added, 'I know that I must die; but our child will live, and you will always love him. This thought is my only solace.' Vainly the astonished and terrified husband sought to retain her. Bidding him farewell for ever, she vanished into the tree. Needless to say that the samurai did everything in his power to persuade the daimyo to forgo his purpose. The prince wanted the tree for the reparation of a great Buddhist temple, the San-jiu-san-gen-do. [21]' The tree was felled, but, having fallen, it suddenly became so heavy that three hundred men could not move it. Then the child, taking a branch in his little hand, said, 'Come,' and the tree followed him, gliding along the ground to the court of the temple.

Although said to be a bakemono-ki, the enoki sometimes receives highest religious honours; for the spirit of the god Kojin, to whom old dolls are dedicated, is supposed to dwell within certain very ancient enoki trees, and before these are placed shrines whereat people make prayers.

 

20 Mr. Satow has found in Hirata a belief to which this seems to some extent akinthe curious Shinto doctrine according to which a divine being throws off portions of itself by a process of fissure, thus producing what are called waki-mi-tamaparted spirits, with separate functions. The great god of Izumo, Oho-kuni-nushi-no-Kami, is said by Hirata to have three such parted spirits: his rough spirit (ara-mi-tama) that punishes, his gentle spirit (nigi-mi-tama) that pardons, and his benedictory or beneficent spirit (saki-mi-tama) that blesses, There is a Shinto story that the rough spirit of this god once met the gentle spirit without recognising it,

21 Perhaps the most impressive of all the Buddhist temples in Kyoto. It is dedicated to Kwannon of the Thousand Hands, and is said to contain 33,333 of her images.

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (五)


        五

 樹木は、灌木同樣、その珍らしい詩と傳説とを有つて居る。石の如くに、樹木には一々、庭の構成上のその位置と目的とに從つて、特殊の風景的な名がある。恰も岩と石が庭の地面計畫の骨骼を成すが如くに、松の木がその樹木意匠の骨組を成す。松の木が全體に肉體を與へるのである。此處の庭には松は五本ある――苦しめられて奇妙な恰好になつて居る松ではなくして、長年の倦まず撓まずの世話と、思慮分別ある刈込みとの爲め驚く許り繪のやうに、美しくなつて居る松である。庭師の目的は、ごつごつな線を畫かう、葉を――日本の藝術が金屬の象眼に、或は金色の漆器に之を模することに決して飽かぬ、あの針のやうな黑味がかつた綠の葉を――かためて付けよう、とするその本來の傾向を出來うる限り、發展せしむるにあつたのである。松はこの表象の國では表象の木である。永久に綠で居るから、同時に不撓不屈の目的と、強壯な老齡との徽號である。そしてその針の恰好した葉は、惡鬼を追ひ拂ふ力があると信ぜられて居る。 

 

 サクラノキ、日本のチエリイツリイが――チエムバレン教授がいかにも正常に述べて居らるゝ如く、其花は『歐羅巴が示し得る如何なる物よりも、比較を絶して遙かに美しい』あの木が――二本ある。これには多くの變種が栽培され鐘愛されて居る。自分の庭のは最も微かな淡紅の、紅味を帶びた白の、花を着ける。春、その木が花を咲かすと、ほのかに夕日に色どられた羊毛のやうな、雲の塊が最も高い空から漂ひ降りて、枝を抱いて居るが如くである。この比喩は決して詩的誇張では無い、また斬新でも無い。自然が爲し得る最も驚嘆すべき花の表示の日本古來の叙述である。日本での花盛りの櫻の木を一度も見らことのない讀者は、その眺めの美しさは到底も想像が出來ぬ。綠の葉は少しも無い。葉は後から出る。華麗極はまりない、花の全くの一と爆發で、そのまた花の美妙な霞で大枝も、小枝も殘らず蔽はれて居る。そして、その木一本々々の下の地面は、淡紅ゐの積雪を見るが如くで、落ちを花瓣に地が見えぬ程に厚く蔽はれる。

 然しそれは栽培した櫻の木である。他に、ヤマザクラ【註】即ち山櫻のやうな、花より前に葉を出すのがある。

    註。この山櫻に就いては、日本人が
    地口を好む例證になる滑稽な話があ
    る。それを充分に鑑賞するには、讀
    者は日本語の名詞には、單數複數の
    差別が無いことを知らなければなら
    ぬ。『ハ』といふ語は、發音しただ
    けでは「葉」「齒」いづれをも意味
    し、『ハナ』といふ語は「花」「鼻」
    いづれをも意味すゐ。山櫻はそのハ
    (葉)をハナ(花)より前に出す。
    そこで、ハ(齒)がハナ(鼻)より
    前に突き出て居る人を、ヤマザクラ
    だと言ふ。突顎は日本では、殊に下
    流階級では、珍らしく無い。

が然し、これ亦美と象徴とのその詩を有つて居る。神道の大家で詩人であつた本はかう歌つた。

    シキシマノ

      ヤマトゴコロヲ

    ヒトトハバ

      アサヒニニホフ

    ヤマザクラバナ

 栽培されているものでも、栽培されないものでも、日本の櫻は徽號である。昔のサムラヒの庭に植ゑてあるものは、たゞその麗はしさばかりの爲めに、大事にされるのでは無かつた。その淸淨無垢の花は、非常な慇懃と眞實な勇式とに屬する、彼(か)の感情の優美と生活の非類無さとを象徴するものと考へられで居た。『花は櫻木、人は武士』と古い諺は云つて居る。

 此庭の西の端を陰らせて、そして綠の廂の上にその滑らかな黑い四肢を突き出して、餘程年數を經た、そして元々、他の庭でと同樣、その花の咲くのを見る穴めに植ゑられたに相違無い立派なウメノキ即ち日本のプラムツリイが一本ある。春の極くの始めの梅の花【註】は、それから全(まる)一月後で無いと咲かぬ、櫻の木に劣らず驚くべきもので、兩方とも花が咲くとみんな業を休んで、それを賞め稱へる。

    註。顯著な變種が三つある。一つは
    紅い花をつけるもの、一つは淡紅と
    白の花をつけるもの、今一つは純白
    の花をけるもの。

が、この二つが一番有名であるが、斯く世人の愛好を蒙る花は、この二つだけでは無い。藤、朝顏、牡丹、各々その季節には、それを見る全市の住民を田舍に赴かしむるに足る程の美はしい花を見せる。出雲では、牡丹の花は殊に驚く可きである。之を觀るのに一番有名な處は、中海(なかうみ)といふ大きな鹹湖の中にある、松江から船で一時間ばかりの、大根島(だいこんしま)といふ小さな島である。五月には、島が牝丹で紅ゐに燃える。小學校の男女兒童すら、それを眺めて樂しむ爲め、一日の休暇を貰ふ。

 梅の花は美に於て、確かに櫻の花の敵手であるのに、日本人は婦人の美をば――肉體美をば――櫻の花に較(たと)へて、決して梅の花には較へぬ。然しまた、之に反して、婦人の貞節と深切とは梅の花に例へて、決して櫻の花には例(たと)へぬ。或る著者が斷言したやうに、日本人は女を木や花に例へることを考へぬと斷言するのは大なる誤である。優しさには、少女はほつそりした柳に【註一】、若盛りの色香には、花の盛りの櫻に、心の麗はしさには、花の咲いて居る梅の木に例へられて居る

    註一。『ヤナギゴシ』」といふ言葉は、
    ほつそりした美しさを柳の木に例へ
    る、普通使用されて居る多くの言葉
    の一つである。

それどころか、日本の昔の詩人は女をあらゆる美しい物に例へて居る。次記の歌に見るが如くに、その種々な姿勢に對し、その動作に對して、彼等は花から比喩を求めさへしてゐるのである。

    タテバ  シヤクヤク【註二】

    スワレバ  ボタン

    アルク  スガタハ

    ヒメユリ  ノ  ハナ

    註二。學名ピオニア・アルビフロラ。
    此名は優美なといふ意味を含んで居
    る。ボタン(英語のツリイ・ピオニイ)
    への比喩は、この日本の花を知つて
    居る人だけが、充分に鑑賞が出來る。

    註三。ヒメユリと言はずにケシユリ
    (英語のポピイ)と言ふ人もある。
    前者は優美な一種の百合で、學名リ
    リウム・カロスムである。

 實際、身分の非常に賤しい田舍娘の名でさへ、往々敬語の『お』【註】を前に附けた美しい木又は花の名のことがある。舞子やヂヨラウの職業的な華名は、言ふまでも無いとして、オマツ(松)、オタケ(竹)、オムメ(梅)、オハナ(花)、オイネ(稻)の如きそれである。ところが、娘が有つて居る木の名のうち、その或る者の起原は、木そのものの美しさについての、どんな民衆觀念にも求むべきでは無くして、寧ろ長命とか幸福とか幸運とかの徽號としての、その木の民間思想に求めなければならぬ、と可なり有力に議論され來つて居る。が、それはどうあらうとも、日本人が女を木や花にたとへる、その比喩が美的感念に於て少しも、我々西洋人の比喩に劣つて居ないことを、今日の諺、詩、歌、並びに日常の言葉が充分に證明して居るのである。

    註。今は日本の社會のより高等な階
    級では、『お』を、概して言つて、
    娘の名の前に用ひず、また派手な稱
    呼は息女の名には附けぬ。貧しい可
    なりな階級のうちに在つてすら、藝
    者なんかの名に似た名は嫌はれて居
    居る。上に記載した名は立派な正し
    い、日常の名である。

[やぶちゃん注:「サクラノキ」訳者は省略しているが、原注があり、そこにはCerasus pseudo-cerasus (Lindley).”とある。しかしこれはバラ亜綱バラ目バラ科サクラ属 Cerasus カラミザクラ(唐実桜/別名シロバナカラミザクラ・シナミザクラ・チュウゴクミザクラ/英名Chinese sour cherry false cherryCerasus pseudocerasus (Lindl) のことで、我々が一般に「桜」として認識するそれとは異なるし、ハーンの居宅のそれもこのカラミザクラではなかった可能性が高い。ここは最も誰もが肯んずるはずの、サクラ属品種ソメイヨシノ(染井吉野)Cerasus × yedoensis (Matsum.) A.V.Vassil. ‘Somei-yoshino’ をどうしても示しておきたい。

「チエムバレン教授がいかにも正常に述べて居らるゝ如く、其花は『歐羅巴が示し得る如何なる物よりも、比較を絶して遙かに美しい』」既注のイギリスの日本研究家で東京帝国大学文学部名誉教師バジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain 一八五〇年~一九三五年)が書いた“Things Japanese”か? 当該書を私は読んでいないので不詳。識者の御教授を乞う。 
「ヤマザクラ」本邦の野生の桜の代表的種で和歌にも数多く詠まている、サクラ属ヤマザクラ
Cerasus jamasakura (Siebold ex Koidz.)H.Ohba, 1992 である。

「シキシマノ/ヤマトゴコロヲ/ヒトトハバ/アサヒニニホフ/ヤマザクラバナ」は国学者本居宣長(享保一五(一七三〇)年~享和元(一八〇一)年)が寛政二(一七九〇)年この年に描かれた六十一歳の自身の肖像に書きつけた自賛歌である。

 敷島のやまと心を人とはば朝日ににほふ山ざくら花

自撰家集には採られていないが、宣長の代表的名歌とされてよく引き合いに出される。

「鹹湖」「かんこ」と読み、「塩湖」(湖水塩分が一リットル中に〇・五グラム以上含まれる湖を指す)と同義であるが、塩湖は陸に閉ざされた湖(内陸湖)の塩分(主成分を塩化ナトリウムとする)やその他塩類の濃度が、通常の淡水湖よりも高くなっている湖をいう。平井氏もこの語を使っているが、頗る不審である。中海は海と繋がる汽水湖であって、用法としてはとんでもない間違いであるからである。そもそもが原文は“lagoon”で、普通に「潟湖」でいいはずである。

「大根島」現行では「だいこんじま」と濁る。ウィキの「大根島」より引くと、島根県の東部中海に浮かぶ島で、東西三・三、南北二・二、周囲約十二キロメートル。極めて平坦な島で、最高地点の大塚山山頂でもわずか標高四十二メートルである。『しかし、大根島全体と隣の江島は玄武岩質の小規模火山(大根島火山)である。粘性の低い玄武岩質溶岩で島ができているため傾斜が緩やかで平坦である』。『隣の江島と共に八束郡八束町を構成していたが、市町村合併(平成の大合併)によって松江市八束町になった』。『江島や松江市街側からは干拓用護岸道路で結ばれている』(中海の干拓事業は二〇〇二年に中止となっている)。『大根島を形成する大根島玄武岩は』今から約十二万年乃至三十万年前に形成されたと推定され』、『有史上は『出雲国風土記』に「たこ島」という名前で記載があり、奈良時代当時は牧場として土地利用されていたようである。その後、島の火山灰土質が高麗人蔘と牡丹の栽培に合っているので江戸時代より栽培が盛んになった』。「出雲国風土記」によれば、『杵築の御崎のたこを捕らえた大鷲がこの島に飛来したことにより「たこ島」と名付けられたとの言い伝えが紹介されている。たこから太根(たく)そして大根(たいこ)と変化して今に至る。一方、人参を大根とよびかえたのが島の名の由来という説もある』と名の由来を記す。

「或る著者が斷言したやうに、日本人は女を木や花に例へることを考へぬと斷言するのは大なる誤である」出典不詳。識者の御教授を乞う。

「タテバシヤクヤク/スワレバボタン/アルクスガタハ/ヒメユリノハナ」一般には、

 立てば芍藥坐(すは)れば牡丹歩く姿は百合の花

で知られる都都逸であるが(平井氏は表記の一部が違うだけでほぼこれで訳されておられる)、調べてみると他にも「立てば芍藥座居(とい)すりゃ牡丹あるき姿は山丹(ゆり)の花」「立てば芍藥居(とと)すりや牡丹歩行(ある)く姿は百合の花」「立てば芍藥座れば牡丹歩く姿がゆりの花」などがあり、最初の出典は定かでない。諸情報を綜合すると、江戸中期の文化年間には存在していた都都逸である。なお、これはもともと漢方に於ける症状とそれに対する生薬の処方を譬えたものという解釈があることを今回初めて知った。知ったが、どうも漢方サイトの慇懃な詳説なんぞを読んでも如何にも、如何にもな御説にして話半分、信じ難いというのが印象である。

「シヤクヤク」「學名ピオニア・アルビフロラ」ユキノシタ目ボタン科ボタン属 Paeonia シャクヤク(芍薬) Paeonia lactiflora。音写は現行では「パエオニア・アルビフローラ」である。

「ボタン(英語のツリイ・ピオニイ)」ボタン属ボタン(牡丹) Paeonia suffruticosa(パエオニア・スッフルティコサ)。英名は“Peony”で、私には「ピィアィ」に聴こえる。因みにこの学名と英名はギリシャ語源で、ギリシア神話で神々の傷を治したという医神“Paeon”(ペオン)に基づき、シャクヤクが古くより薬用とされたことに由来すると英和辞典その他にあった。

「ヒメユリ」「優美な一種の百合で、學名リリウム・カロスム」ハーンの比定するそれは現在、絶滅危惧種に指定されている単子葉植物綱ユリ目ユリ科ユリ属ノヒメユリ(姫百合又はスゲユリ(菅百合))という和名のLilium callosum(リリウム・カロースム)である。現行の種としての和名「ヒメユリ」はユリ属ヒメユリ Lilium concolor (Salisb.)(リリウム・コンカラー)で別種である(やや色は似ている。グーグル画像検索Lilium callosumLilium concolorをリンクさせておくが、当該画像が総てそれぞれの種だけではない(特に前者)ので注意が必要である)。

「ケシユリ(英語のポピイ)」実は原文は「キシユリ」となっているが、不審になって原典を確認したところ、“kesiyuri (poppy)”とあり、誤訳か誤植であることが分かったので、例外的に訂した。これはもう、「芥子」「罌粟」でモクレン亜綱ケシ目ケシ科ケシ属 Papaver に属するケシの花、ポピーのことである。通常の西洋人読者や現行の日本人読者が想起するのはケシ属の園芸種ヒナゲシ Papaver rhoeas(パパウェル・ロエアス)である(本邦へのケシ類の渡来は桃山から江戸時代にかけて中国からであった)。] 

 

Sec.5

The trees, like the shrubs, have their curious poetry and legends. Like the stones, each tree has its special landscape name according to its position and purpose 
in the composition. Just as rocks and stones form the skeleton of the ground-plan of a garden, so pines form the framework of its foliage design. They give body to the whole. In this garden there are five pines,
not pines tormented into fantasticalities, but pines made wondrously picturesque by long and tireless care and judicious trimming. The object of the gardener has been to develop to the utmost possible degree their natural tendency to rugged line and massings of foliagethat spiny sombre-green foliage which Japanese art is never weary of imitating in metal inlay or golden lacquer. The pine is a symbolic tree in this land of symbolism. Ever green, it is at once the emblem of unflinching purpose and of vigorous old age; and its needle- shaped leaves are credited with the power of driving demons away.

There are two sakuranoki, [11] Japanese cherry-treesthose trees whose blossoms, as Professor Chamberlain so justly observes, are 'beyond comparison more lovely than anything Europe has to show.' Many varieties are cultivated and loved; those in my garden bear blossoms of the most ethereal pink, a flushed white. 
When, in spring, the trees flower, it is as though fleeciest masses of cloud faintly tinged by sunset had floated down from the highest sky to fold themselves about the branches. This comparison is no poetical exaggeration; neither is it original: it is an ancient Japanese description of the most marvellous floral exhibition which nature is capable of making. The reader who has never seen a cherry-tree blossoming in Japan cannot possibly imagine the delight of the spectacle. There are no green leaves; these come later: there is only one glorious burst of blossoms, veiling every twig and bough in their delicate mist; and the soil beneath each tree is covered deep out of sight by fallen petals as by a drift of pink snow.

But these are cultivated cherry-trees. There are others which put forth their leaves before their blossoms, such as the yamazakura, or mountain cherry. [12] 
This, too, however, has its poetry of beauty and of symbolism. Sang the great Shinto writer and poet, Motowori:

  Shikishima no

   Yamato-gokoro wo

  Hito-towaba,

   Asa-hi ni niou

  Yamazakurabana.[13]

 

Whether cultivated or uncultivated, the Japanese cherry-trees are emblems. Those planted in old samurai gardens were not cherished for their loveliness alone. 
Their spotless blossoms were regarded as symbolising that delicacy of sentiment and blamelessness of life belonging to high courtesy and true knightliness. 'As 
the cherry flower is first among flowers,' says an old proverb, 'so should the warrior be first among men'.

Shadowing the western end of this garden, and projecting its smooth dark limbs above the awning of the veranda, is a superb umenoki, Japanese plum-tree, very old, and originally planted here, no doubt, as in other gardens, for the sake of the sight of its blossoming. The flowering of the umenoki, [14] in the earliest spring, is scarcely less astonishing than that of the cherry-tree, which does not bloom for a full month later; and the blossoming of both is celebrated by popular holidays. Nor are these, although the most famed, the only flowers thus loved. The wistaria, the convolvulus, the peony, each in its season, form 
displays of efflorescence lovely enough to draw whole populations out of the cities into the country to see them.. In Izumo, the blossoming of the peony is 
especially marvellous. The most famous place for this spectacle is the little island of Daikonshima, in the grand Naka-umi lagoon, about an hour's sail from 
Matsue. In May the whole island flames crimson with peonies; and even the boys and girls of the public schools are given a holiday, in order that they may 
enjoy the sight.

Though the plum flower is certainly a rival in beauty of the sakura-no-hana, the Japanese compare woman's beautyphysical beautyto the cherry flower, 
never to the plum flower. But womanly virtue and sweetness, on the other hand, are compared to the ume-no-hana, never to the cherry blossom. It is a great 
mistake to affirm, as some writers have done, that the Japanese never think of comparing a woman to trees and flowers. For grace, a maiden is likened to a 
slender willow; [15] for youthful charm, to the cherry-tree in flower; for sweetness of heart, to the blossoming plum-tree. Nay, the old Japanese poets have compared woman to all beautiful things. They have even sought similes from flowers for her various poses, for her movements, as in the verse,

  Tateba skakuyaku;[16]

  Suwareba botan;

  Aruku sugatawa

  Himeyuri [17] no hana. [18]

Why, even the names of the humblest country girls are often those of beautiful trees or flowers prefixed by the honorific O: [19] O-Matsu (Pine), O-Take (Bamboo), O-Ume (Plum), O-Hana (Blossom), O-ine (Ear-of- Young-Rice), not to speak of the professional flower-names of dancing- girls and of joro. It has been argued with considerable force that the origin of certain tree-names borne by girls must be sought in the folk- conception of the tree as an emblem of longevity, or happiness, or good fortune, rather than in any popular idea of the beauty of the tree in itself. But however this may be, proverb, poem, song, and popular speech to-day yield ample proof that the Japanese comparisons of women to trees and flowers are in no-wise inferior to our own in aesthetic sentiment.

 

11
Cerasus pseudo-cerasus (Lindley).

12
About this mountain cherry there is a humorous saying which illustrates the Japanese love of puns. In order fully to appreciate it, the reader should know that Japanese nouns have no distinction of singular and plural. The word ha, as pronounced, may signify either leaves or teeth; and the word hana, either flowers or nose. The yamazakura puts forth its ha (leaves) before his hana (flowers). Wherefore a man whose ha (teeth) project in advance of his hana (nose) is called a yamazakura. Prognathism is not uncommon in Japan, especially among the lower classes.

13
If one should ask you concerning the heart of a true Japanese, point to the wild cherry flower glowing in the sun.

14
There are three noteworthy varieties: one bearing red, one pink and white, and one pure white flowers.

15
The expression yanagi-goshi, a willow-waist, is one of several in common use comparing slender beauty to the willow-tree.

16
Peonia albiflora, The name signifies the delicacy of beauty. The simile of the botan (the tree peony) can be fully appreciated only by one who is acquainted with the Japanese flower.

17
Some say kesiyuri (poppy) instead of himeyuri. The latter is a graceful species of lily, Lilium callosum.

18
Standing, she is a shakuyaku; seated, she is a botan; and the charm of her figure in walking is the charm of a himeyuri.

19
In the higher classes of Japanese society to-day, the honorific O is not, as a rule, used before the names of girls, and showy appellations are not given to
daughters. Even among the poor respectable classes, names resembling those of geisha, etc., are in disfavour. But those above cited are good, honest, everyday names.

柳田國男 蝸牛考 初版(11) 語感の推移

  語感の推移

 

 

 別な言葉でいふならば、マイマイコウシもまたマイマイツブロと同樣に、方言の數多き邊境現象の一つであって、ことにmnの音親近によつて、かなり有力なる支援を、隣のナメクジから得ていたものであつた。蛞蝸二蟲の名を共にする風が、若し私の想像する如く、曾て全國一般的のものであつたとすれば、この複合の各地に偶發したことも、決して意外では無いのである。

[やぶちゃん注:「別な言葉でいふならば」改訂版では『私をして説明せしめるならば』となつている(後の「私」も「我々」と言い換えられている)。この以下の現象解説への批判があった可能性が覗われる。]

 是と同種の複合は、更に又デンデンムシの方にもあつた。たとへば現在知られて居るだけでも、

   デンデンガラモ     能登鹿島郡灘地方

   デンデンガラボ     同 石動山下

   デンデンダイロ     上野群馬郡

   デンデンツブロ     常陸眞壁郡

   デンデンべェコ     陸中釜石附近

   デンデンクツボ     伊勢飯南郡

   デンデンゴォナ     備中連島町附近

   デンデンケェボン    豐前築上郡

などがあつて、何れもその土地限りの蝸牛の一異名であるが、それが附近を征略して一つの獨立した方言領を認められるには、未だ流傳の一條件を具へなかつたのである。之に比べるとマイマイツブロの複合の方は、時期が早かつたか使ふ子供が多かつたか、兎に角に既に若干の文書にも錄せられ、人は却つて田舍に殘つて居るマイマイの方を、其省略であるかの如く思ふ樣にもなつた。併し其推測の正しくないことは、童詞が主として七音節の語を必要としたことを、考へてみたゞけでもわかる上に、別にメエメエクウジやマンマンダイロ等の如く、其上半分を共通にしたものが、端々の地に分散して居るのを見れば、先づ疑ひの餘地は無いのである。さうすると次には如何にして此語が現出したかを知るために、是非とも是を元の單純なる形に復して、ツブロとマイマイとを別に考へる必要があることを、認めないわけには行くまいと思ふ。

[やぶちゃん注:「是と同種の複合は」は改訂版では『二つの單語の複合といふことは』となっている。

「デンデンべエコ」は改訂版では『デンデンべェコ』で以下、「デンデンゴオナ」は『デンデンゴォナ』、「デンデンケエン」は『デンデンケェボン』である。

「能登鹿島郡灘地方」現在の石川県七尾市の内、能登南部の富山湾側の海岸地帯を指す能登灘浦(なだうら)地方のことであろう。

「石動山下」「いするぎやました」と読む。石動山の麓の石川県側である石川県鹿島郡中能登町と七尾市の一部の旧称ととっておく。

「上野群馬郡」群馬県中部の旧郡名。旧郡域は主に前橋・高崎・渋川に及ぶ非常な広域であるが、本書の書かれる昭和五(一九三〇)年の直前には既に郡役所が廃止されており(大正一五(一九二六)年)、離脱編入が激しい。ウィキの「群馬郡」を参照されたい。

「常陸眞壁郡」現在の千葉県筑西市全域及び下妻市と桜川市の一部、結城郡八千代町に相当する。

「陸中釜石附近」岩手県釜石市。

「飯南郡」「いひなんぐん(いいなんぐん)」は三重県の旧郡。現在の松阪市の大部分と多気郡多気町の一部に相当する。

「備中連島町附近」連島(つらじま)は現在の岡山県倉敷市水島(みずしま)の西北部の地域名。改訂版では『つらしま』と清音表記となっている。

「豐前築上郡」福岡県東部の郡。現在は豊前市に含まれる旧角田村も含まれた。

「メエメエクウジ」改訂版では『メェメェクウジ』。]

 

 マイマイといふ語の元の起りは、以前一二の學者も既に推量して居た如く、本來は蝸牛の貝の形、即ちあの卷き方に基づいて附けた名なることは大よそ確かなやうである。蝸牛以外の物の名に、同じマイマイの語を用ゐて居るものは、或は是も小兒の觀察かも知れぬが、第一には淵の水の渦卷がある。中國の田舍などでもさう謂つたかと思ふが、富山縣などでも渦はマイマイであり、又ギシギシ若くはギリギリであつた。三河碧海郡ではこれをギリと謂つて居る。ギリギリといふ語は弘い區域に亙つて、專ら頭の髮の旋毛をさして居るやうだが、その旋毛を土地によつてはマキマキ又はマイマイ、東京などでは多くはツムジと謂つて居る。ところが又一方にはツムジ風と稱して、渦を卷く風をツムジといふ例も普通であり、其ツムジ風を我々は又、子供の頃にはマイマイ風とも呼んで居た。さうするとマイマイが少くとも「卷く」といふ語に因みあることだけは明らかで、ギリギリとツムジとは、如何なる理由があつたかは後の問題として、とにかくに曾てその一つの物の名であつた。それを知らずしてマイマイにツプロを複合させて見ようとする者も出來たが、その最初の意味に於ては、二語は全然同じであつたかも知れない。何にしても蝸牛は其形が錘に似ているからツムリだといふ語原説は怪しいものであつて、錘が日本の纖維工藝に採用せられたらう頃には、既に空と水面とのツムジが有り、人の頭髮にはギリギリが存在し、又蝸牛は既にかのツブラなる貝を背負つてあるいて居たのである。其中でも旋毛は小兒までが髮を後に垂れて居た時代には、今ほどは眼にも立たなかつた筈である。水の渦卷よりも又旋風よりも、更に尚一段と有りふれたマイマイの實例は、恐らく各家の庭の木草を匍ひ渡る蝸牛であつて、それ故に又女の束髮の妙な形が流行して來れば、忽ち又之を此蟲にたとへ、或は米澤地方で今も見る如く、淵の渦卷をもダイロウマキと謂ふことになつた。錘がもしツブロと同じ語ならば、是も又今一つ前からあつた類似のものから移し讓られたものと見る方が當り前である。

[やぶちゃん注:「三河碧海郡」「あをみ(あおみ)」と読み、愛知県東部の三河地方の矢作川西側(右岸)にあった旧郡。

「錘」これは改訂版のルビにある「つむ」で読んでおく。「紡錘」とも書いてかく読んだりする。糸を紡ぐと同時に糸に撚(よ)りをかけながら巻き取る道具。他に「ぼうすい」「すい」「つみ」とも読む。]

 

 何にもせよマイマイといふ方言の始めて出來たのは、蝸牛の蝸といふ漢字が案出せられたのと、同じ事情であることだけは認められるのである。しかし一旦其語が出來て後は、人はいつ迄も當初の心持を以て、之を使つて居るものとも限らなかつた。何か今一段と適切なやうに感じられるものが見つかると、少しは發音の形を變へてゞも、寧ろ其方へ寄つて行かうとしたことが、往々にしてあつたやうに思はれる。その一つの例は靜岡縣の大井川附近の村で、蝸牛をマイマイドンと謂つたなどがそれである。殿や樣の語を人で無いものの名に添へることは、蠶をオコサマ、オボコサマ、又は爐の自在鍵をカギドノといふなど、幾らでもその類はあることだが、是は何れも其物を尊敬し、曾ては拜みもしたらうと思ふ名殘であつて、蟲のマイマイの方にはまだ一向にさういふ話を聞かぬ。ところが他の一方には別にマイマイドンと名づけられて、大いにもて囃された職業の者が、諸國をあるいて居た時代があつたのである。越前丹生郡の幸若太夫なども其一流であつたが、尚他の地方にも往々にして神社に從屬し、祭の日には出で神態の舞を舞ふ者が住んで居て、それをも皆「舞舞ひ」と稱へたのであつた。舞舞ひの居住地は今も地名となつて數多く殘つて居る。さうして安樂菴策傳の醒睡笑が出來た頃までは、彼等の技藝はまだ田舍の生活の最も面白い語り草であつた。それが年月を追うて大きくなり又眞面目になり、愈々近代の歌舞伎にまで發達したことは、もう蝸牛考の筆者の領分では無いが、とにかくにマイマイといへば直ちに此等の職業藝術家を聯想せずには居られぬほど、弘い流行を見た時代があつたことのみは事實であつた。それがいつとも無しに、貝が渦卷だからマイマイと呼ぶといふ程度の、淡い興味と解説とを乘取つてしまつたのは不思議でない。

[やぶちゃん注:「越前丹生郡」「にふ(にう/現行行政郡名は「にゅう」)」と読む。現存。当初は越前国中西部一帯を郡域とする広大な郡であったが、平安初期に日野川東岸を分割して今立(いまだて)郡とし、中世には南部を割いて南仲条郡(現在の南条郡)とした。旧郡域は広く、現在の福井市・鯖江市・越前市の一部に相当する(ウィキの「丹生郡に拠る)。

「幸若太夫」(生没年不詳)は「かうわかたいふ(こうわかたゆう)」と読み、幸若舞(こうわかまい)の祖とされる室町前期の人物。桃井直詮(もものいなおあきら)の芸名であったが、彼の幼名であった「幸若丸」から、この通称で呼ばれた。越前国西田中(現在の福井県丹生郡旧越前町内の旧朝日町)の出であった。幸若舞は中世芸能の一つで、本来は地方の寺社に奉納する神事舞(しんじまい)であったものが、十五世紀中葉から京都に進出、題材が主に軍記物から採られたことから武将らに愛好された。江戸期には幕府御用の正式な式楽とされて江戸城中にも参賀するようになり、幸若太夫の名も家元として襲名され、寛永年間には旭町に屋敷があった。幸若舞は語りを主として扇拍子・小鼓・笛などの音曲に合わせて舞う、曲舞(くせまい)の一種で、曲節は声明(しょうみょう)・平曲・宴曲を融合したものである。大頭(だいがしら)・笠屋(かさや)の流があるが、現在は福岡県みやま市瀬高町(せたかまち)大江(おおえ)に伝わるそれが民俗芸能として重要無形民俗文化財に指定されて現存している(毎年一月二十日に現地の大江天満神社で奉納され、七百年の伝統を持つとされる)。また、幸若舞は文中にもある通り、能や歌舞伎の原型とも言われている。単に「幸若」「舞」の他、ここで柳田が言うように「舞舞(まいまい)」とも呼ばれた(以上は「大辞林」を主としつつ、諸本から附加した)。

「安樂菴策傳の醒睡笑」著者名は「あんらくあんさくでん」、署名は「せいすいせう(せいすいしょう)」と読む。茶人や文人としても知られる京の浄土僧安楽庵策伝(天文二三(一五五四)年~寛永一九(一六四二)年)が巷間に流行した笑い話を蒐集した笑話集である。八巻千三十九話に及ぶが、個々の話は短い。ウィキの「醒睡笑」によれば、かく命名した時点を完成とみて元和九(一六二三)年成立とする説、本書が江戸前期の譜代大名で下総関宿(せきやど)藩初代藩主であった板倉重宗へ献呈され、その奥書のクレジットを完成と見て寛永五(一六二八)年の成立とする二説がある、とある。「醒睡笑」巻七の「舞」には実に二十一章に亙る笑話が並ぶが、これらは皆、幸若舞(内容がほぼ軍記物で実際に「八」の冒頭には『幸若の舞』と出、他にも芸人を『舞々』と呼称している)の芸事に関わるものである。一九八六年岩波文庫刊鈴木棠三校注「醒睡笑」の「舞」の冒頭には鈴木先生が『幸若舞の詞章の生かじりによって引き起される笑いや、舞々たちが演じた失態など』を描く、という簡単な注を附しておられる。]

 

 其中でも歌謠は取分けて、斯うした誤解を引き起さしめ易い機會であつた。といふわけは普通の會話であれば、意味を考へずに言葉を使用することも比較的少ないのだが、歌は口眞似口拍子で、又久しく多くの者が繰返して居るうちに、自然に本を省みる場合が少なくなつて來たのである。其結果が常陸南部のメェボロや、下總銚子でのオバオバなどの如く、丸で外形を一變させることもあれば、他の一方には内容の著しい推移に心づかず、最初からかの舞舞太夫の物々しい立居振舞によそへて、斯んな名を付與したものゝ如く解する者も出來て、それが更に又次の變化を誘ふこともあつたのである。方言生成の事情が是まで絶望に近い不問に置かれたのは、この内外二通りの變化が、あまりにも錯綜して居たからであつた。近い頃の例でいふと、明治の中頃の流行歌の一つに、アカハラデンデンムシといふをかしな囃し詞を伴ふものがあつた。さうすると近江の湖水の南岸には、赤腹デンデンムシという蝸牛の異名が、早一つ増加して居る。信州諏訪の北山地方には、蝸牛をデエラボッチャといふ語も少し行はれて居るが、デエラボッチャは本來は大昔の巨人、たとえば一夜に富士の山の土を運んだといふ類の、傳説の大太法師のことであつた。それがデエロといふ方言の流布道程に、半ば不用になつて轉がつて居た爲に、測らずもそれへ卷込まれてしまつたものらしい。即ち一方には又此樣に、語があつて宿主を求めて居たやうな場合も折々はあつたのである。たゞ其方は選擇の動機が特殊であつた爲に、最初から廣い領域に延びて行く力を持たなかつた。從うてさういふ一地限りの奇異の例だけによつて、方言の性質を説かうとした各地の試みは、大抵は失敗に歸して居るのである。

[やぶちゃん注:「信州諏訪の北山地方」長野県の旧諏訪郡内、現在の茅野市大字北山に相当する。

「デエラボッチャ」改訂版『デェラボッチャ』。

「大太法師」「だいだばうし(だいだぼうし)」と読み、日本の各地で伝承される巨人ダイダラボッチのこと。柳田は後の昭和二(一九二七)年に「ダイダラ坊の足跡」(中央公論社刊)で日本各地から採集したダイダラボッチ伝説を考察しており、『ダイダラボッチは「大人(おおひと)」を意味する「大太郎」に法師を付加した「大太郎法師」で、一寸法師の反対の意味であるとしている』(ウィキの「ダイダラボッチ」より)。私はダイダラボッチが大好き。いつかこれも電子化したいと思っている。

「デエロ」改訂版『デェロ』。]

 

 之に反してマイマイを舞舞ひのことだと解した早合點などは、假令誤りにもせよ弘く又久しいものであつた。前に引用した土御門院の御製に、「立ち舞ふべくもあらぬ世なれど」と遊ばされたのは、本歌は源氏の紅葉賀であらうが、とにかくに既に舞舞ひの異名のあつたことを御承知あつての御詠であつたと思ふ。それから近世になつて、相模にも蝸牛をデンボウラクと謂ふ土地があり、豐前の宇佐郡ではデエラクドン、豐後の國東半島でデエラドンとも謂つて居るのは、前者は栃木地方のデエボロや甲州郡内のデンボロと緣を引き、後者は瀨戸内海沿岸のデエデエ系統に屬すべきものではあらうが、尚其以前から此蟲の姿に對して、神事舞の太夫を想ひ起す習はしが無かつたら、恐らく此樣な「轉訛」は生じ得なかつたらうと考へられる。我々は幸ひにして舞舞ひといふ職業の流行した時代を、略記錄によつて明らかにし得る御蔭に、このデンボウラク等の方言がそれよりも遲く、マイマイといふ地方語の方はずつと古くから、又今日は既に無くなつて居る土地にも、曾て存在したことを推測し得るのである。之を要するに方言なるものは、それぞれの時期とそれぞれの因緣とがあつて、だんだんに生れたり消えたり、移つたり變化したりしたことだけは大抵確かであつて、これを無差別に總括して、國語だから何れも民族と共に古いといふことも出來ず、文語京都語で無いから皆近世の新作だと、いふことは尚更出來ない。そんな無茶なことをすれは、いつの世になつても我々の言語學は完成しない。それを悲しいと思ふ者は、是非とも國語の歷史を斯ういふ風にして尋ねて行かなけれはならぬのである。

[やぶちゃん注:前の二種の蝸牛の唄で引用。

「本歌は源氏の紅葉賀であらう」先の「夫木和歌抄」のそれは、

 

 家を出でぬ心は同じかたつぶりたち舞ふべくもあらぬ世なれど

 

であるが、柳田はこれを「源氏物語」の「紅葉賀(もみじのが)」の、作中最初に出る和歌で源氏と藤壺の贈答の、青海波を晴れやかに彼女の前で舞った源氏の悶々たる思いを詠んだ、

 

 もの思ふに立ち舞ふべくもあらぬ身の袖(そで)うち振りし心(こころ)知りきや

 

を指すものと思われる。因みに、藤壺の返しは、

 

 唐人(からびと)の袖振ることは遠けれど立ち居(ゐ)につけてあはれとは見き

 

であった。

「デエラクドン」「デエラドン」「デエボロ」「デエデエ」改訂版は『デェラクドン』『デェラドン』及び『デェボロ』『デェデェ』。]

2015/10/23

或夜の感想   芥川龍之介

       或夜の感想
 
 眠りは死よりも愉快である。少くとも容易には違ひあるまい。 (昭和改元の第二日)
 
(芥川龍之介「侏儒の言葉」終章)

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (四)

        四

 

 佛教では萬有を、木石の如き、情を有たぬ物ヒジヤウと、それから人間禽獸の如き、情を有つて居る物ウジヤウとに分つ。この區別は、自分の知つて居る限りでは、物に書かれた庭園哲理には表明されて居らぬ。が、これは便利な區別である。自分の小領土の民間傳説は、生きて居ないものと生きて居るもの兩方に關係がある。で、自然の順序として、自分のヤシキの入口に近い、そして第一の庭の門に接して居る、珍しい灌木から始めることにして、非情を初に考察してもよからう。

 殆んど總ての古いサムラヒ屋敷の表門の内側に、それも普通は住宅そのもの入口に近く、大きな獨特な葉を有つた小さな木が屹度在る。出雲でのこの木の名はテガシハで、自分の門の樹にも一本ある。その學名は何であるか自分は知らぬ。またこの日本名の語原も十分確かには知つて居ない。が然し、手の枷といふ意味のテガシといふ語がある。そしてこのテガシハの葉の恰好は手の恰好に稍々似て居る。

 さて、昔時、サムラヒがそのダイミヤウに隨(つ)いて、江戸へ行く爲め自分の家を去らなければならぬ時、丁度出立の前に、燒いたタヒ【註】をテガシシハの葉に載せて、その前へ置くのが習慣であつた。

 

    註。タヒ(學名セラヌス・マアギナ

    リス)。呼ぶ美事なパアチは、それ

    は出雲海岸に沿うて極普通な魚で、

    日本の魚類中最も美味なものとして、

    正當に珍重されて居ゐばかりでは無

    い、その上また幸運の徽號と考へら

    れて居る。これは婚禮の時また祝賀

    の折の儀式的な贈物でゐる。日本人

    はこれをまた『魚類の王』と呼んで

    居る。

 

この暇乞の食事後、その上へ鯛を載せて供へたその葉は、出で行つた士を無事に歸らせる呪符として、門の上へ吊るされるのであつた。手柏の葉についてのこの面白い迷信は、その由來は、その恰好に在るばかりでは無い、その動き樣に在つた。風が搖すぶると、その葉は――尤も我が西洋風(ふう)にでは無く、掌を地に向けて手を穩やかに上下に振つて、友人に來いと日本人が合圖する樣に――手招きするやうに思へたのである。

 大抵の日本の庭に見出さるゝ今一つの灌木は、ナンテン【註一】で、それには餘程珍らしい信仰がある。

 

     註一。學名ナンディナ・ドメスチカ。

 

惡るい夢を、不運の前兆の夢を見た時は、翌朝早くそれを南天に囁かねばならぬ。するとその夢は決して本物にはならぬといふ。

 

     註二。出雲で云ふには、一切の夢

     の中で一番目出度いのは、かの聖

     山フジの夢である。吉兆の順序で

     それに次ぐのは鷹を夢見ることで

     ある。三番目に一番好い夢の主題

     は茄子である。日又は月の夢を見

     るのは甚だ緣起が好い。が、星の

     夢を見るのはもつとも緣起が好い。

     若い妻には星を吞むと夢見るは最

     も幸運である。美しい兒の母とな

     ことを意味するからである。牛の

     夢を見るのは吉兆である。馬の夢

     を見るのは緣起は好いが旅行を意

     味する。雨か火の夢を見るのは善

     い。西洋でもさうのやうに、日本

     でも『逆さになる』と思はれて居

     る夢が少しある。だから、自分の

     家が燒けることを、或は葬式か、

     或は死んだことを、或は死人の幽

     靈と話したことを夢見るのは善い。

     女には善い夢で男が見ると、反對

     になる夢が少しある。例へば、鼻

     血が出ると夢見るのは女には善い

     が、男にはこれは甚だ惡い。多く

     の金錢を夢見るは損失の來る前兆

     である。鯉或は何か淡水の魚を夢

     見るのは一番緣起が惡るい。これ

     は妙である。日本の他の地方では

     鯉は幸運の徽號であるから。

 

この優美な植物には變種が二つある。一つは赤い實を結び、一つは白い實を結ぶ。後者は稀である。兩種類とも自分の庭に植えて居る。この普通な方の變種が(恐らく夢見る人の便宜の爲めに)緣に近く植ゑられて居り、他のは、小さな枸櫞樹(シトロンツリイ)と共に、庭の眞ん中の小さな花床を占めて居る。此非常に雅美な枸櫞樹は、その芳(かん)ばしい實の不思議な恰好からして『佛手柑』【註一】と呼ばれて居る。

 

     註一。テブシユカン。學名シトルス・

     サアコダクチリス。

 

その近くに、靑銅のやうな光澤(つや)のある槍と尖つた葉の一種の月桂樹がある。日本人はユヅリハと呼んで居るもので古い士屋敷の庭には、殆んど手柏と同じく普通のものである。

 

     註二。『ユヅル』は他人に讓與する

     の意で、『ハ』は葉である。ヘボン

     の字書に據ると、その植物學上の

     名はダフニフイルム・マクロポオ

     ダムである。

 

後から生えるその新葉が充分に發育しないうちは、古葉は一枚も決して落ちぬから、緣起の好い木だとされて居る。といふのは、斯くしてユヅリハは、その息子が一家の長として、後を嗣ぐことが充分出來る程に強壯な成人にならないうちに、父が亡くならないやうにとの希望を象徴して居るからである。だから毎正月、讓葉の葉をば羊齒の葉と交へて、その時出雲の何處の家の前にも吊るすシメナハに着ける。

 

[やぶちゃん注:「テガシハ」「テガシハ」これはハーンが「大きな獨特な葉を有つた」と言っている以上、所謂、柏の葉、現在の被子植物門双子葉植物綱ブナ目ブナ科コナラ属カシワ Quercus dentata と思う。現在、知られた和名のものに、これに酷似する裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科コノテガシワ(児の手柏)Platycladus orientalis があり、「テガシワ」を調べるとこの「コノテガシワ」だと記してあり、また、中国原産ではあるが江戸時代には渡来している。しかしあれはどう見ても「大きな獨特な葉を有つた」とは言わないし、ここでハーンが描出する対象として読むことは私には到底出来ないからである。識者の御教授を乞うものではある。

「タヒ(學名セラヌス・マアギナリス)」これはハーンの誤りで、

Serranus marginalis (Bloch 1793)

 は、

条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目ハタ科マハタ属アカハタ Epinephelus fasciatus

の今や用いられることのなくなったシノニムで、通常、我々日本人が鯛と言って想起するマダイは、

スズキ亜目タイ科マダイ亜科マダイ属マダイ Pagrus major

である(ウィキの「マダイ」よれば、属名「パグルス」はギリシャ語でタイを意味する「パグロス」のラテン語形で、種小名はラテン語で「大きい」を意味する「マヨル」に由来するとある)。

「パアチ」西洋の読者に向けた注だから仕方がないと言えばないが、ハーンも絶対的に魚の知識に乏しい西洋人の一人と言わざるを得ない。タイはパーチ“perch”の仲間ではない。パーチは、

スズキ亜目ペルカ(パーチ)科ペルカ(パーチ)属 Perca

に属する淡水魚類の総称である。ウィキの「パーチ」によれば、『ヨーロッパの河川や湖沼に生息するカワメバルの総称で、広義にペルカ属(パーチ属) Perca の』三種を『総称するが、狭義には』、ヨーロッパからアジアにかけてユーラシア大陸に幅広く分布する淡水魚のヨーロピアン・パーチ(Perca fluviatilis)を指すとある。ウィキの「ヨーロピアンパーチ」の写真をご覧あれ。およそ、本邦の気品ある鯛とは似ても似つかぬ、零落した売春婦のような装いである。

「徽號」「きごう」と読み、普通は旗印・徽章(きしょう)の謂いであるが、原文は確かに“an emblem”ではあるが、ここではもう以降、原義である「象徴」或いは同じ発音の「記号」と読み換えた方が分かりがいい。

「ナンテン」「學名ナンディナ・ドメスチカ」キンポウゲ目メギ科ナンテン亜科ナンテン属ナンテン Nandina domestica 。中国原産とされ、本邦では西日本に広く自生しているものの、これらは古えに渡来した栽培種が野生化したものとされている(ウィキの「ナンテン」に拠る)。白い果実は稀で、私も一度しか見たことがない。

「一切の夢の中で一番目出度いのは、かの聖山フジの夢である。吉兆の順序でそれに次ぐのは鷹を夢見ることである。三番目に一番好い夢の主題は茄子である」所謂、「一富士二鷹三茄子」について、ウィキ初夢では、『江戸時代に最も古い富士講組織の一つがあった「駒込富士神社」の周辺に鷹匠屋敷(現在の駒込病院)があり、駒込茄子が名産であったため、当時の縁起物として「駒込は一富士二鷹三茄子」と川柳に詠まれた』とし、『江戸時代初期にはすでにあり、それぞれの起源は次のような諸説がある』とする。まずは『徳川家縁の地である駿河国での高いものの順。富士山、愛鷹山、初物のなすの値段』、『富士山、鷹狩り、初物のなすを徳川家康が好んだ』から、或いは『富士は日本一の山、鷹は賢くて強い鳥、なすは事を「成す」』とし、また、『富士は「無事」、鷹は「高い」、なすは事を「成す」という掛け言葉』、『富士は曾我兄弟の仇討ち(富士山の裾野)、鷹は忠臣蔵(主君浅野家の紋所が鷹の羽)、茄子は鍵屋の辻の決闘(伊賀の名産品が茄子)』などとある。因みに四以降は『四扇(しおうぎ、よんせん)、五煙草(多波姑)(ごたばこ)、六座頭(ろくざとう)』という「俚言集覧」の記載を引き、『一説として、一富士二鷹三茄子と四扇五煙草六座頭はそれぞれ対応しており、富士と扇は末広がりで子孫や商売などの繁栄を、鷹と煙草の煙は上昇するので運気上昇を、茄子と座頭』『は毛がないので「怪我ない」と洒落て家内安全を願うという』などとする。

「『逆さになる』と思はれて居る夢」逆夢(さかゆめ)で、現実になる事実とは逆のことを見る夢で正夢(まさゆめ)の対語である。

「鼻血が出ると夢見る」血の穢れを逆手に取った面白い夢判断だと私は思うのだが、現行の妖しいげな夢占いサイトでは鼻血が出る夢は社会運や金運の上昇を暗示しているなどとあって、最早、古典的な男女の差は語られていない。実に嘆かわしいことである、と私は思うね。ふふふ

「枸櫞樹(シトロンツリイ)」これは音で「くえんじゆ(くえんじゅ)」と読むが、本来はミカン属レモン Citrus limonと類縁関係にあるムクロジ目ミカン科ミカン属シトロン Citrus medica を指す。ハーンはこの後、これを「佛手柑」(ぶつしゆかん(ぶっしゅかん))、「テブシユカン。學名シトルス・サアコダクチリス」と記すから、これはミカン属シトロンの変種であるブッシュカン(仏手柑)Citrus medica var. sarcodactylis を指していることが判明するウィキブッシュカンによれば、『ミカン科ミカン属の常緑低木樹で、「カボス」「ユズ」などと同じ香酸柑橘類の一種で』『インド東北部原産。果実は芳香があり濃黄色に熟し、長楕円体で先が指のように分かれる。名称はその形を合掌する両手に見立て、「仏の手」と美称したもの。暖地で観賞用に栽植される』。『身が少ないので生食には向かず、一般的に砂糖漬けなどで菓子にしたり、乾燥させて漢方薬にしたりして利用され』。日本における二〇一〇年の収穫量は五・六トンあるが、『その全てが鹿児島県において生産されている』とある。私も鹿児島(私の亡き母の故郷は鹿児島である)で砂糖漬のそれを食したことがある。

「月桂樹」クスノキ目クスノキ科ゲッケイジュ属ゲッケイジュ Laurus nobilis であるが、これは以下に示す全くの別種であるユキノシタ目ユズリハ科ユズリハ属ユズリハ Daphniphyllum macropodum の誤認である。但し、現在でもそう思っているひとが多く、ハーンを批判は出来ない。調べてみると、ゲッケイジュ Laurus nobilis の本邦への移入は明治三八(一九〇五)年頃とあり、これはハーン小泉八雲の逝去の翌年に当たるから、彼の家にあったには絶対に真正の月桂樹であり得ないと言ってよい。

「ユヅリハ」「ダフニフイルム・マクロポオダム」前掲通り、ユキノシタ目ユズリハ科ユズリハ属ユズリハ Daphniphyllum macropodum 。見た目でもゲッケイジュ Laurus nobilis とは全然異なり、真正のそれを知っているはずのハーンが何故こんなことを述べているのか、聊か理解に苦しむ。但し、ユズリハは確かに「譲葉」で、ウィキユズリハには由来をまさに、『春に枝先に若葉が出たあと、前年の葉がそれに譲るように落葉することから』、『その様子を、親が子を育てて家が代々続いていくように見立てて縁起物とされ、正月の飾りや庭木に使われる』とある。

「羊齒の葉と交へて、その時出雲の何處の家の前にも吊るすシメナハに着ける」ハーンはこの叙述から見ると、羊歯の葉裏の夥しい胞子をユズリハのそれと類感的に感じたかのようにここでは読めてしまうが、実際的には羊歯は「裏白(うらじろ)」と言うように、羊歯は葉の裏面が有意に白く、神道の「清め」に通ずる故に特に選ばれているものである。]

 

 

Sec. 4

By Buddhism all existences are divided into Hijo things without desire, such as stones and trees; and Ujo things having desire, such as men and animals. This division does not, so far as I know, find expression in the written philosophy of gardens; but it is a convenient one. The folk- lore of my little domain relates both to the inanimate and the animate. In natural order, the Hijo may be considered first, beginning with a singular shrub near the entrance of the yashiki, and close to the gate of the first garden.

Within the front gateway of almost every old samurai house, and usually near the entrance of the dwelling itself, there is to be seen a small tree with large and peculiar leaves. The name of this tree in Izumo is tegashiwa, and there is one beside my door. What the scientific name of it is I do not know; nor am I quite sure of the etymology of the Japanese name. However, there is a word tegashi, meaning a bond for the hands; and the shape of the leaves of the tegashiwa somewhat resembles the shape of a hand.

Now, in old days, when the samurai retainer was obliged to leave his home in order to accompany his daimyo to Yedo, it was customary, just before his departure, to set before him a baked tai [6] served up on a tegashiwa leaf. After this farewell repast the leaf upon which the tai had been served was hung up above the door as a charm to bring the departed knight safely back again. This pretty superstition about the leaves of the tegashiwa had its origin not only in their shape but in their movement. Stirred by a wind they seemed to beckonnot indeed after our Occidental manner, but in the way that a Japanese signs to his friend to come, by gently waving his hand up and down with the palm towards the ground.

Another shrub to be found in most Japanese gardens is the nanten, [7] about which a very curious belief exists. If you have an evil dream, a dream which bodes ill luck, you should whisper it to the nanten early in the morning, and then it will never come true. [8] There are two varieties of this graceful plant: one which bears red berries, and one which bears white. The latter is rare. Both kinds grow in my garden. The common variety is placed close to the veranda (perhaps for the convenience of dreamers); the other occupies a little flower-bed in the middle of the garden, together with a small citron-tree. This most dainty citron-tree is called 'Buddha's fingers,' [9] because of the wonderful shape of its fragrant fruits. Near it stands a kind of laurel, with lanciform leaves glossy as bronze; it is called by the Japanese yuzuri-ha, [10] and is almost as common in the gardens of old samurai homes as the tegashiwa itself. It is held to be a tree of good omen, because no one of its old leaves ever falls off before a new one, growing behind it, has well developed. For thus the yuzuri-ha symbolises hope that the father will not pass away before his son has become a vigorous man, well able to succeed him as the head of the family. Therefore, on every New Year's Day, the leaves of the yuzuriha, mingled with fronds of fern, are attached to the shimenawa which is then suspended before every Izumo home.

 

6 The magnificent perch called tai (Serranus marginalis), which is very common along the Izumo coast, is not only justly prized as the most delicate of Japanese fish, but is also held to be an emblem of good fortune. It is a ceremonial gift at weddings and on congratu-latory occasions. The Japanese call it also the king of fishes.

7 Nandina domestica.

8 The most lucky of all dreams, they say in Izumo, is a dream of Fuji, the Sacred Mountain. Next in order of good omen is dreaming of a falcon (taka). The third best subject for a dream is the eggplant (nasubi). To dream of the sun or of the moon is very lucky; but it is still more so to dream of stars. For a young wife it is most for tunate to dream of swallowing a star: this signifies that she will become the mother of a beautiful child. To dream of a cow is a good omen; to dream of a horse is lucky, but it signifies travelling. To dream of rain or fire is good. Some dreams are held in Japan, as in the West, to go by contraries. Therefore to dream of having ones house burned up, or of funerals, or of being dead, or of talking to the ghost of a dead person, is good. Some dreams which are good for women mean the reverse when dreamed by men; for example, it is good for a woman to dream that her nose bleeds, but for a man this is very bad. To dream of much money is a sign of loss to come. To dream of the koi, or of any freshwater fish, is the most unlucky of all. This is curious, for in other parts of Japan the koi is a symbol of good fortune.

9 Tebushukan: Citrus sarkodactilis.

10 Yuzuru signifies to resign in favour of another; ha signifies a leaf. The botanical name, as given in Hepburns dictionary, is Daphniphillum macropodum.

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (三)

        三

 

 在るべくも無い山水を、或は純理想的な山水を造らうといふ努力は、日本の庭ではなされない。その藝術的な目的は本當の山水の人目を惹く處を忠實に模倣し、且つ眞の山水が與へる眞の印象を傳へるに在る。だからして同時に一つの繪であり、また一つの詩である。恐らくは繪の方よりも詩の方が餘計な位であらう。それは、自然の風景が、その移り變る相好で、喜悦の念或は森嚴の念を物凄い感じ或は美しい感じを、力の感念を或は平和の観念を與ふるが如くに、山水庭園師の勞苦に成る自然の眞實な反映は、啻に美の印象を與へるばかりでは無い。精神に或る氣分を起こすに相違無いからである。古昔の偉大な山水庭園師は、即ち始めてこの技術を日本に輸入し、後ち之を發達せしめて、殆んど玄妙とも云ふべき一つの學問となした佛教の僧侶共は、その説をこれよりも尚ほ遠くへ進めた。彼等は道德的教訓を庭園の設計に表現する、――貞節とか、信心とか、敬虔とか、滿足とか、平靜とか、夫婦の至福とかいふ抽象感念を、それで表現する事は可能だと思つて居た。だからして、詩人か、武士か、哲學者か、又は僧侶か、その持主の性質に應じてそれぞれ庭園を工夫した。さういふ古い庭では(悲しいかな、その技術は平凡極はまつた、西洋趣味の影響に萎んで失せ去りつゝあるが)自然の或る氣分と、人間の或る氣分の東洋的な珍稀な意想とが一緒に表現されて居たのである。

 

 自分は自分ところの庭の主たる區分が、人間のどんな感念を反映させる考であつたものか解らぬ。語つて呉れる者は一人も居ない。それを造つた者共は、魂の永遠の輪廻に、長(なが)の幾代の古昔に世を去つてしまつた。然し一つの自然詩として、どんな説明者も要りはせぬ。その主な區分は、南に面して、地面の前方を占めて居る。そして西に伸びて庭の北の區分の境に至り、その境とは妙な隔ての壁で半ば分たれて居る。それには苔の厚く蒸した大きな岩があり、水を容れて置く妙な恰好の種々な石鉢があり、年月の爲め綠になつた石燈籠があり、また、城の屋根の尖つた角に見るやうな――その鼻を地に着け、その尾を空に立てた、理想化した海豚の、大きな石の魚の――シャチホコ【註】が一つある。

[やぶちゃん注:ここまでの内、前後と比して句点が不自然に打たれている箇所があって気になるので、読点に変えておいた。]

 

    註。シヤチホコのこの姿勢は、さう

    無くてはならぬことになつて居ると

    言つて宜い。それからして『頭を下

    に突いて立つ』といふ『鯱鉾立ち』

    といふ語が出來て居る。

 

古木がそれに植わつて居る微細畫式の小山があり、花の灌木が蔭を與へて居る、川士手のやうな、綠の長い傾斜地があり、小島のやうな緑の饅頭山がある。靑々した斯ういふ高みは總て皆、その表面が絹の如く滑かな、そして川の道筋の紆餘曲折を眞似て居る、淡黃色な砂の地面から高まつて居る。この砂地の處は踏んではならぬ。踏むには餘りに美し過ぎる。微小の一點の埃と雖も、その感銘を傷けることであらう。だからその體裁を缺點なしにして置くには、その地生れの經驗に富んだ庭師――愉快な老人である――の訓練の餘に成る手際を要する。が、その砂地は、正(まさ)しく小川を横に渡る踏石のやうに、次から次と稍々不規則な距離に置いてある、斫り削りして無い平たい幾列かの石を傳つて、種々な方向に横ぎることが出來る。全體の感銘は、或る眠くなるやうな物淋しい氣持の好い處にある、或る靜かな流れ川の岸の感銘である。

 このイリウジヨンを破るものは何一つ無い。それ程にこの庭は引込んで居て閑靜である。高い壁と塀とが街路や近處の物を遮つて居り、そして境界に近い方が高く茂つて居る、灌木と樹木が隣のカチウヤシキをその屋根すら見えぬやう隱して居る。日が射して居る、その砂地へ映る木の葉の震へる影は、やんはりと美しく、花の香は生ぬるい風の漂ひごとに、うつすらと匂うて來、それから蜂の微かな唸り聲がする。

 

[やぶちゃん注:「恐らくは繪の方よりも詩の方が餘計な位であう。」何だか、おかしい。原文は“perhaps even more a poem than a picture.”である。平井呈一先生は『絵であるよりも、多分に詩の方が勝っているようだ。』と訳しておられる。失礼乍ら、『勝っているようだ』というのも生硬である。私は――「絵」と言うよりも、「詩」と言った方が一層、相応しいであろう――としたいところである。お方の御批判を俟つ。

「古昔」老婆心乍ら、「こせき」と読む。意味は昔、古えと何ら変わらぬ。この訳者の好きな言い回しらしいが、気取った感じと事大主義を思わせ、正直言うと、私は好きになれない。

「その鼻を地に着け、その尾を空に立てた、理想化した海豚の、大きな石の魚の――シャチホコ」まず、ウィキの「鯱」から引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『鯱(しゃち)とは、姿は魚で頭は虎、尾ひれは常に空を向き、背中には幾重もの鋭いとげを持っているという想像上の動物』で、『それを模した主に屋根に使われる装飾・役瓦の一種。一字で鯱(しゃちほこ)・鯱鉾とも書かれる。江戸時代の百科事典『和漢三才図会』では魚虎(しゃちほこ)と表記されている』。『大棟の両端に取り付け、鬼瓦同様守り神とされた。建物が火事の際には水を噴き出して火を消すという(鴟尾の項目も参照)。本来は、寺院堂塔内にある厨子等を飾っていたものを織田信長が安土城天主の装飾に取り入り使用したことで普及したといわれている。現在でも陶器製やセメント製のものなどが一般の住宅や寺院などで使用されることがある。(金鯱が京都の本圀寺などにある。)

瓦・木・石・金属などで作られる。城の天守や主要な櫓や櫓門などにはよく、陶器製(鯱瓦)のものや、銅板張木造のものが上げられる。城郭建築に用いられている銅板張木造鯱のもので最大の現存例は松江城天守(高さ二・〇八メートル)のものといわれている』(下線やぶちゃん。まさにこのシークエンスに時制の中でハーンが現に見上げているはずのものであるが、その叙述がないのは不審である。ハーンの居宅からは天守閣の鯱鉾は見えない位置にあったものか)。『粘土製の鯱瓦は、重量軽減や乾燥時のひび割れを避けるために中を空洞にして作られているため、非常に壊れやすい。棟から突起した心棒と呼ばれる棒に突き刺し、補強材を付けて固定される』。『木造の鯱は、木製の仏像を造る原理に木を組み合わせて、ある程度の形を造っておき、防水のため、外側に銅板などを貼り付けて細かい細工なども施す。粘土製と同じく心棒に差し込み補強材を付けて固定される』。『金色の鯱のことを特に金鯱という。金鯱には陶器製の鯱瓦に漆を塗り、金箔を貼り付けたものが多かった。一般の金箔押鯱瓦は、岡山城天守に創建当初載せられたものなどがある』。『特異なものでは木造の鯱に銅板の代わりに金板を貼り付けたものが上げられることがある。構造は銅板張りの木造鯱と同じ。現在の名古屋城大天守に上げられているものがそれである。同じ仕様のものは、徳川大坂城天守や江戸城天守などに使用された』とあり、石製の鯱鉾というのは寧ろ、少ないようで(ネットで見かけたものの中には藩の財政困難や戦時中の改修時のものなどと惨憺たる記載がある)、ハーンの言うような庭園に据えられたそれというのはさらに見たことが私はない。次に、ウィキの言っている寺島良安「和漢三才図会」を電子テクスト「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚から私の注ごと引こうではないか。ウィキばかり引くのを馬鹿にする糞共を黙らせるために、だ! 〔 〕は私が補ったことを示す。

   *

 

しやちほこ

魚虎

イユイフウ

 

土奴魚 鱐【音速】

【俗用鱐字未詳

 鱐乃乾魚之字】

【俗云奢知保古】[やぶちゃん字注:以上四行は、前三行下に入る。]

 

本綱魚虎生南海中其頭如虎背皮如猬有刺着人如蛇

咬亦有變爲虎者又云大如斗身有刺如猬能化爲豪豬

此亦魚虎也

按西南海有之其大者六七尺形畧如老鰤而肥有刺

 鬐其刺利如釼其鱗長而腹下有翅身赤黑色離水則

 黄黑白斑有齒食諸魚世相傳曰鯨食鰯及小魚不食

 大魚有約束故魚虎毎在鯨口傍守之若食大魚則乍

《改ページ》

 入口嚙斷鯨之舌根鯨至斃故鯨畏之諸魚皆然矣惟

 鱣鱘能制魚虎而已如入網則忽囓破出去故漁者取

 之者稀焉初冬有出于汀邊矣蓋以猛魚得虎名爾猶

 有蟲蠅蝎虎之名非必變爲虎者【本草有變爲虎者之有字以可考】

 鱣鱘鯉逆上龍門化竜亦然矣

城樓屋棟瓦作置龍頭魚身之形謂之魚虎【未知其據】蓋置嗤

吻於殿脊以辟火災者有所以【嗤〔蚩〕吻詳于龍下】

しやちほこ

魚虎

イユイフウ

Syati

土奴魚 鱐〔(しゆく)〕【音、速。】

【俗に鱐の字を用ふるは、未だ詳らかならず。鱐、乃ち乾魚の字〔なり〕。】

【俗に奢知保古〔(しやちほこ)〕と云ふ。】

 

「本綱」に『魚虎、南海中に生ず。其の頭、虎のごとく、背の皮に猬〔=蝟=彙:はりねずみ〕のごとくなる刺有りて、人に着けば、蛇の咬むがごとし。亦、變じて虎と爲る者有り。又云ふ、大いさ、斗〔:柄杓〕のごとく、身に刺有りて猬のごとし。能く化して豪-豬(やまあらし)と爲〔(な)〕る。此れも亦、魚虎なり。』と。

按ずるに、西南海に之有り。其の大なる者、六~七尺。形、畧ぼ老鰤〔(おいしぶり)〕のごとくして、肥いて、刺鬐〔(とげひれ)〕有り。其の刺、利きこと、釼〔(つるぎ)〕のごとし。其の鱗、長くして、腹の下に翅〔(はね)〕有り。身、赤黑色、水を離〔(か)れば〕、則ち黄黑、白斑なり。齒有りて諸魚を食ふ。世に相傳へて曰く、『鯨は鰯及び小魚を食ふも、大魚を食はざるの約束有り。故に魚虎は毎に鯨の口の傍らに在りて、之を守る。若し大魚を食はば、則ち乍〔(たちま)〕ち口に入り、鯨の舌の根を嚙〔(か)み〕斷〔(た)ち〕、鯨は斃(し)するに至る。故に鯨、之を畏る。諸魚、皆、然り。惟だ鱣〔(ふか)〕・鱘〔(かぢとをし)〕、能く魚虎を制すのみ。如〔(も)〕し網に入らば、則ち忽ち囓み破りて出で去る。故に漁者、之を取る者、稀なり。初冬、汀-邊〔(みぎは)〕に出づること有り。』と。蓋し猛魚なるを以て虎の名を得のみ。猶ほ蟲に蠅-虎(はいとりぐも)・蝎-虎(いもり〔やもり〕)の名有るがごとし。必〔ずしも〕變じて虎に爲る者に非ず。【「本草」〔=「本草綱目」〕に『變じて虎と爲る者有る』と云ふの「有」の字に以て考ふべし。[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]】鱣(ふか)・鱘(かぢとをし)・鯉(こひ)、龍門に逆(さ)か上(のぼ)りて竜に化すと云ふも亦、然り。[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]

城樓の屋-棟(やね)して、瓦に龍頭魚身の形を作り置く。之を魚虎(しやちほこ)と謂ふ【未だ其の據〔(きよ)〕を知らず。】。蓋し嗤吻(しふん)を殿脊〔(でんせき):屋形の屋根〕に置き、以て火災を辟〔=避〕くと云ふは所-以(ゆへ)有り【蚩吻は龍の下に詳らかなり。】

[やぶちゃん注:「本草綱目」の記す「魚虎」は、化生するところは架空の生物であるが、刺の描写や大きさは、カサゴ亜目オニオコゼ科オニオコゼ属オニオコゼInimicus japonicusを筆頭としたカサゴ目の毒刺を有するグループを想定し得るが(私の「和漢三才圖會 卷第四十八 魚類 河湖有鱗魚」の「1」[やぶちゃん字注:1=「舟」+「鮝」。](おこじ:オコゼ)も必ず参照されたい)、後の良安の記すものは、とりあえずクジラ目ハクジラ亜目マイルカ科シャチ属に属するシャチ(オルカ)Orcinus orca と同定してよいであろう。シャチと言えば、私は今でも鮮やかに覚えている、少年時代の漫画学習百科の「海のふしぎ」の巻に、サングラスをかけた小さなシャチが、おだやかな顔をしたクジラを襲っているイラストを……。ちょっとした参考書にも、シャチは攻撃的で、自分よりも大きなシロナガスクジラを襲ったり、凶暴なホジロザメ等と闘い、そこから「海のギャング」と呼ばれる、と書かれていたものだ。英名も Killer whale、学名の Orcinus orca とは「冥府の魔物」という意味でもある。しかし実際には、肉食性ではあるが、他のクジラやイルカに比べ、同種間にあって攻撃的ではないし、多くの水族館でショーの対象となって、人間との相性も悪くない(私は芸はさせないが、子供たちと交感(セラピー)するバンクーバーのオルカが極めて自然で印象的だった)。背面黒、腹面白、両目上方にアイパッチと呼ぶ白紋があるお洒落な姿、ブリーチング(海面に激しく体を打ちつけるジャンピング)やスパイ・ホッピング(頭部を海面に出して索敵・警戒するような仕草)、数十頭の集団で生活する社会性、エコロケーションによる相互連絡やチームワークによる狩猟、じゃれ合う遊戯行動等、少しばかりちっぽけな彼等がシャチの分際で人間の目に付き過ぎたせいかもしれないな。本項の叙述も殆んど切り裂きジャック並みの悪行三昧だ。良安が教訓染みて終えているので、私も一つ、これで締めよう。『出るシャチはブリーチング』。

「鱐【音、速。】」とあるが、「鱐」の音は示した通り、「シュク」である。「速」は「ソク」で「シュク」と言う音はない。不審である。「鱐」はほしうお。ひもの。乾魚。魚のあぶらと記す。これも良安もわざわざそう記しているように不審である。

「猬」は哺乳綱モグラ目(食虫目)ハリネズミ科 Erinaceidae のハリネズミ類。

「豪豬」はネズミ目(齧歯目)ヤマアラシ上科ヤマアラシ科アメリカヤマアラシ科 Erethizontidae の地上性のヤマアラシ類。

「老鰤」スズキ目アジ亜目アジ科ブリ Seriola quinqueradiata の大型個体。一応、訓読みしておいた。

「刺鬐有り。其の刺、利きこと、釼のごとし」はセビレの形状を言うものと考えてよい。は成長するにつれてセビレ及びムナビレ(=「腹の下に翅」)が特に目立つようになる。

「水を離れば、則ち黄黑、白斑なり」とは、水から上がってしまうと、体色の黄身を黄色い部分や黒い部分に白い斑点が現れる、という意味であるが、これはパッチを誤解(聞き取りの誤認)したものと思われ、良安は実体を見ていない可能性が高いように思われる。

「魚虎は毎に鯨の口の傍らに在りて、之を守る。……」これは、実際、クジラを襲うことのあるシャチへの根拠のない妄想説のように思われるのだが、よく見ると「口の傍らに在りて」及び「口に入り」というのはクジラに付着しているコバンザメ類(スズキ目 Perciformes コバンザメ亜目 Echeneoidei コバンザメ科 Echeneidae )の行動を見、クジラの死亡個体の口腔内からコバンザメを発見した際に(サメやクジラの口腔内を出入りするコバンザメを私は映像で見たことがある。但し、死亡個体の口腔内に有意に彼等を発見し得るかどうかは知らないのであるが)それが「鯨の舌の根を嚙み斷」ったと誤認し、それが実際のクジラに攻撃行動をとるシャチと混同されて生じた伝説ではあるまいか。識者の意見を伺いたいものである。なお「和漢三才圖會 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「舩留魚」(ふなとめ=コバンザメ)の項も参照されたい。

「鱣」分類学上、フカは軟骨魚綱板鰓亜綱 Elasmobranchii に属するサメと同義。「和漢三才圖會 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「鱣」の項、参照。

「鱘」カジキのこと。カジキはスズキ目メカジキ科 Xiphiidae 及びマカジキ科 Istiophoridae の二科に属する魚の総称。「和漢三才圖會 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「鱘」の項を参照。

「蠅虎」シラヒゲハエトリグモ属 Menemerus シラヒゲハエトリ Menemerus confuses 等に代表される(属和名を表記したのはハエトリグモ科の種名が慣習として接尾語のクモを外すため)節足動物門クモ綱クモ目ハエトリグモ科 Salticidae のハエトリグモ類。「蠅狐」「蠅取蜘蛛」とも。次の「蝎虎」と同様、中国語(現在も通用)。

「蝎虎」現代中国語では蠍座を「蝎虎座」と呼び、「とかげ座」と訳している。爬虫綱有鱗目トカゲ亜目 Sauria(又は Lacertilia )のトカゲである。また、ヤモリは「壁虎」で近いし、ネット上には蝎虎を爬虫綱有鱗目トカゲ亜目ヤモリ下目ヤモリ科 Gekkonidae に属するヤモリ類を言うとする記載が多い。ここで良安は両生綱有尾目イモリ亜目イモリ科 Salamandridae のイモリとルビを振るが、現代中国語では「蠑螈」で、イモリを蝎虎とする記載はネット上には見当たらない。ヤモリは上位タクソンでトカゲに属し、更にイモリの形状はヤモリに似、日本の古典で、イモリとヤモリを一緒くたに語る(イモリとヤモリの双方向同一物表現)ものを、複数、見たことがある。決定打は、実は「和漢三才図会」の巻四十五にあった。ここに良安は「蠑螈」(ゐもり)=イモリと「守宮」(やもり)=ヤモリを二項続けて記載しており、その「守宮」の項の図下の冒頭の異名の列挙に『蝘蜓(えんてい) 壁宮 壁虎 蝎虎』と記している。序でに言えば、その「守宮」の本文中で良安は、

 

守宮【今云屋守】蠑螈【今云井守】一類二種而所在與色異耳守宮不多淫相傳蛙黽變爲守宮

守宮(やもり)【今、屋守と云ふ。】蠑螈(いもり)【今、井守と云ふ。】一類二種にして所在と色と異なるのみ。守宮(やもり)は多淫ならず、相傳ふに、蛙-黽(あまがへる)變じて守宮と爲る、と。

 

と記し(ちなみに「多淫ならず」は、前項の「蠑螈」(イモリ)についての記載の『性、淫らにして能く交(つる)む』とあるのを受ける)、イモリもヤモリも棲むところと色が違うだけで同じだあなと、のたもうておる訳で――ここはもう、ヤモリでキマリ!

「鱣・鱘・鯉、龍門に逆か上りて竜に化す」この「登龍門」の魚の正体については、「鱣」や「鯉」、種々の項で私の考えを語ってきた。結論だけを言う。チョウザメ目チョウザメ科Acipenseridaeのチョウザメ類が龍門を登る魚の正体である。「和漢三才圖會 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「鮪」の項の「王鮪」の注を参照されたい。

「蚩吻」は「和漢三才図会」の巻四十五の「龍」の項解説に割注を含めてたった八文字(全く以て「詳」ではない!)、以下のようにある。

 

蚩吻好呑【殿脊之獸】

蚩吻は呑むことを好む【殿脊の獸。】。

 

いやはやこれでは困るな。さて、大寺院の甍の両端にまさに鯱(しゃちほこ)のような形のものを御覧になった記憶がある方は多いだろう。これを鴟尾(しび)と呼称することも、芥川龍之介の「羅生門」でお馴染みだ。文字の意味は鳶の尻尾なのであるが、これは実は、「蚩尾」で、良安が判じ物のように示した通り、龍の九匹の子供の内の一匹が蚩吻(しふん)と称する酒飲みの龍であり、それが屋根を守ると古くから信じられたようなのである。派手に酒を吹き出して消火してくれるスプリンクラーのようなものか? いや、待てよ! 中国酒はアルコール度数が高いから逆にジャンジャン燃えるんでないの?!

 なお、以上の注は「和漢三才圖會 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「鯨」の項の「魚虎」の注として作成したものを改訂増補したものである。向うの「魚虎」の記述と一部の注を以下に付しておく。

 

魚虎〔(しやち)〕と云ふ者有り。其の齒・鰭(ひれ)、剱鉾〔(けんぼこ)〕のごとし【有鱗魚の下に詳し。】。數十毎に鯨の口の傍らに在りて、頰・腮〔(あぎと):あご〕を衝く。其の聲、外に聞こゆ。久しくして鯨、困迷して口を開く時、魚虎、口中に入り、其の舌を嚙み切り、根、既に喰ひ盡して出で去る。鯨は乃ち斃〔(し)=死〕す。之を魚虎切りと謂ふ。偶々之有りて、浦人、之を獲る。海中の無雙の大魚、纔〔(わづ)〕かの小魚の爲に命を絶つ。

 

「剱鉾」は、剣や鉾、と読んで問題ないが、魚虎の派手さからは京都祇園御霊会の、神渡御の際の先導を務める悪霊払いの呪具たる「剱鉾」を指している可能性もある。剱鉾」の画像はHP「京都市文化観光資源保護財団」の「特集 京の祭の遺宝 剣鉾」等を参照にされたい)。]

   *

「鯱鉾立ち」現行では発音転訛して「しゃっちょこ立ち」と言われることが多いか。逆立ちの謂いだが、例えばシャチ(オルカ)は決してあんな恰好は自然界ではしない(日本のイルカ芸ではプールから上げさせた彼らにああした格好をさせて観客を喜ばせるが如何にも愚劣である)。シャチが海生哺乳類を攻撃する場合や、集団で行う摂餌行動の際、ジャンピングをするのを見た者が伝言ゲームのように歪曲されてああなったものかなどと私は妄想する。]

 

 

Sec. 3

No effort to create an impossible or purely ideal landscape is made in the Japanese garden. Its artistic purpose is to copy faithfully the attractions of a veritable landscape, and to convey the real impression that a real landscape communicates. It is therefore at once a picture and a poem; perhaps even more a poem than a picture. For as nature's scenery, in its varying aspects, affects us with sensations of joy or of solemnity, of grimness or of sweetness, of force or of peace, so must the true reflection of it in the labour of the landscape gardener create not merely an impression of beauty, but a mood in the soul. The grand old landscape gardeners, those Buddhist monks who first introduced the art into Japan, and subsequently developed it into an almost occult science, carried their theory yet farther than this. They held it possible to express moral lessons in the design of a garden, and abstract ideas, such as Chastity, Faith, Piety, Content, Calm, and Connubial Bliss. Therefore were gardens contrived according to the character of the owner, whether poet, warrior, philosopher, or priest. In those ancient gardens (the art, alas, is passing away under the withering influence of the utterly commonplace Western taste) there were expressed both a mood of nature and some rare Oriental conception of a mood of man.

I do not know what human sentiment the principal division of my garden was intended to reflect; and there is none to tell me. Those by whom it was made passed away long generations ago, in the eternal transmigration of souls. But as a poem of nature it requires no interpreter. It occupies the front portion of the grounds, facing south; and it also extends west to the verge of the northern division of the garden, from which it is partly separated by a curious screen-fence structure. There are large rocks in it, heavily mossed; and divers fantastic basins of stone for holding water; and stone lamps green with years; and a shachihoko, such as one sees at the peaked angles of castle roofsa great stone fish, an idealised porpoise, with its nose in the ground and its tail in the air. [5] There are miniature hills, with old trees upon them; and there are long slopes of green, shadowed by flowering shrubs, like river banks; and there are green knolls like islets. All these verdant elevations rise from spaces of pale yellow sand, smooth as a surface of silk and miming the curves and meanderings of a river course. These sanded spaces are not to be trodden upon; they are much too beautiful for that. The least speck of dirt would mar their effect; and it requires the trained skill of an experienced native gardenera delightful old man he isto keep them in perfect form. But they are traversed in various directions by lines of flat unhewn rock slabs, placed at slightly irregular distances from one another, exactly like stepping-stones across a brook. The whole effect is that of the shores of a still stream in some lovely, lonesome, drowsy place.

There is nothing to break the illusion, so secluded the garden is. High walls and fences shut out streets and contiguous things; and the shrubs and the trees, heightening and thickening toward the boundaries, conceal from view even the roofs of the neighbouring katchiu-yashiki. Softly beautiful are the tremulous shadows of leaves on the sunned sand; and the scent of flowers comes thinly sweet with every waft of tepid air; and there is a humming of bees.

 

5 This attitude of the shachihoko is somewhat de rigueur, whence the common expression shachihoko dai, signifying to stand on ones head.

ブログ730000アクセス突破記念 火野葦平 皿

つい一時間程前、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、ブログが730000アクセスを突破した。例の通り、記念テクストを以下に公開する。



皿   火野葦平

 

[やぶちゃん注:從來通り、火野葦平(明治四〇(一九〇七)年~昭和三五(一九六〇)年)がライフ・ワークとした河童を主人公とした原稿用紙千枚を越える四十三篇からなる四季社より昭和三二(一九五七)年に刊行されたものを昭和五九(一九八四)年に国書刊行會が復刻し、平成一一(一九九九)年に新装版として再刊された正字正仮名版を底本として用いた。傍点「ヽ」は太字に代えた。

 女の肌へを「靑蠟」(「せいろう」と読んでおく)と表現するが、聴いたことがない単語で、調べてみると、これはどうも京料理の「青蠟焼き」のことを指しているように思われる。通常の「蠟焼き」というのは白身魚などの素材に卵黄を塗って焼くものであるが、この「青蠟焼き」は青菜磨ったものや寄せ菜(青菜の葉を磨り潰して水を加えて煮た上でそこに浮いてくる緑の色素を掬い取った「青寄(あおよ)せ」のこと)を白身を塗って燒ものを指す。鱧、や海老に用いる。私も京の茶寮で何度か食したことがある。

 河童が「水分のなかに隱れて」とあり、これも河童生態学の新知見で、河童は完全に意識を持ちながら、しかも人間に姿を認知されないように水と一体化することが出来ることをここで学んでおこう。但し、後でそれを周りにいる「鼠や、蟹や、蠣幅や、蛞蝓や、蜘蛛や、蛭や、蜥蜴や、ゐもりや、蚯蚓などが、河童の作業を不審さうに見てゐた」とあるから、人間を除く生物にはその秘術は効かないことも言い添えておこう。

 登場する「色鍋島」の皿というのは、十七世紀から十九世紀にかけて佐賀鍋島藩に於いて藩直営の窯で製造された高級磁器の一種。これらは専ら藩主の所用品及び将軍家や諸大名への贈答品などに用いられた稀少なものであった。藍色の呉須(ごす:染付け磁器の模様を描く青藍色の顔料)で下絵を描いて本焼きをした後、赤・黄・緑の三色で上絵(うわえ)を附けたもので、限られた色数でありながら絢爛さを持ち、特に上絵の下に描かれた藍色の輪郭線を特徴の一つとするものである(以上はウィキの「鍋島焼」及び複数の伊万里焼サイト等を参考にした)。

 老婆心乍ら、「容喙(ようかい)」とは、嘴(くちばし)を差し入れ挾むという原義から、横から口出しをすること、差し出口、の意を表わす。

 「ロハ」は、代金や料金などが要らないこと・無料・ただ、の意。これを意味する漢字「只(ただ)」が片仮名の「ロ」と「ハ」を続けたような形に見えることによる。但し、この漢字は象形文字で、「口」は発声器官としての「くち」である、「ハ」の部分は言葉を言い終って語気が空中へ分散してゆく形に象ったものとする(他にも指事文字とする説もある)。

 これ以外にも注したいのだが、ネタバレになると面白くないので、最後に回した注もある。読後にお読みあれ。

 本テクストは本日、2015年10月23日に2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、ブログが730000アクセスを突破した記念として公開する。 藪野直史]

 

   皿

 

 河童は立ちすくんだ。背の甲羅がひきしめられて枯葉のやうに軋(きし)み、膝小僧が金屬板のやうに鳴る。自分の眼がつりあがつて行くのが自分でもわかる。こんなおそろしいものを見たことがない。

 苔のついたしめつた石垣が上部からの光線に、圓筒形に鈍(にぶ)く光つてゐる。昔はまんまんと水がたたへられてゐたのであらうが、今はほとんど乾いてしまつて、古井戸の底にはわづかに點と水たまりがあるきりだ。その水も腐つて靑いどろどろの糊になつてゐる。しかし、路上の馬の足あとにたまつた水たまりにさへ三千匹も棲息することのできる河童は、かういふ腐水であつても、水分さへあれば姿をかくすに充分だ。相手に氣づかれずにどんな觀察でもすることができる。河童をこんなにおどろかせたのは、一人のうら若い女性であつた。

 黄昏(たそがれ)、河童はさわやかに吹く春風のこころよさに、浮かれ心地で山の沼を出て散策してゐると、一匹の蛙を見つけた。冬眠からきめて地上に這ひ出たばかりらしく、まだ充分に手足の運動ができない樣子で、きよとんとした顏つきで置物のやうに柳の木の根もとにうづくまつてゐた。河童は食慾をかんじてその蛙をつかまうとした。すると意外にも蛙は飛躍したのである。自由がきかないと思ひこんで、油斷をしてゐたので逃がした。蛙はかたはらにあつた古井戸のなかに飛びこんだ。河童もすぐ彼を追つた。そして、河童は蛙どころではなくなつたのである。

 暗黑の井戸の底に、その娘の姿だけぼうと浮きあがつてゐる。年のころは十八九であらうか頭髮はみだれ、そのほつれ毛が顏中にたれさがつてゐるが、その頭の結びかたは當節では見られない古風なものだ。河童はまだ城があり、御殿があり、そこに大名やたくさんの腰元のゐた時代のことを思ひだした。さういへばその顏形も古典的で、このごろ銀座などを横行潤歩してゐるパンパン・ガールのやうな文明的な顏形とはおよそ對蹠的である。衣裳も振袖だし、窮屈さうな幅びろい帶はうしろで太鼓にむすばれ、古足袋のこはぜはまだ錆びてゐず、金色に光つてゐる。一口にいへば、繪草紙から拔けでて來たやうな女だ。しかし、その瓜實顏のととのつた顏は嫩葉(わかば)いろに靑ざめてゐて、唇は葡萄色(ぶうだういろ)をしてゐる。

(幽靈だ)

 河童にはそのことはすぐわかつた。しかし、河童が恐怖に立ちすくんだのは、彼女が亡靈あつたからではない。河童とて妖怪變化(えうかいへんげ)の一族であるから、幽靈くらゐにはおどろかない。おどろいたのはその亡靈の動作であつた。若い女はしきりに皿の勘定してゐる。じめじめした古井戸の底にやや横坐りになつた娘は、膝のまへに積みかさねられた幾枚かの皿を、なんどもなんども計算してゐるのである。女は一枚一枚を丁寧にかたはらへ移しながら、一枚ごとに數を讀む。

「一枚、……二枚、……三枚、……四枚、……」

 その弱々しい低い聲が河童の心を冷えさせる。こんなにも陰鬱で消え入るやうな聲音といふもの聞いたことがない。それはただ弱々しいだけではなくて、そのなかに含まれてゐる悲しみや恨みやがたしかに永劫のものであることを感じさせるやうな、絶望的なひびきを持つてゐる。その聲を聞いてゐるだけで奈落へでも引きこまれて行くやうに氣が滅入る。

「五枚、……六枚……七枚、……」

 ゆつくりゆつくり一枚づつたしかめながら讀んで行く聲は、七枚目あたりからなにかの期待と不安とにかすかに調子づくが、

「……八枚、……九故」

 九枚目でぽつんと切れると、まるでこれまで點(とも)つてゐたかすかな灯がふつと消えたやうな、終末的な表情が女の美しい顏を掩ひつくす。女は暗澹とした顏つきになつて、肩で大きなためいきをつく。うなだれる。唇を嚙む。涙をながす。すすり泣く。

「やつぱり、九枚しかないわ」

 と、呟(つぶや)く。

 しかし、まもなく、きつと頭をあげ、意を決した希望のいろを靑ざめた顏にただよはせて、また皿を數へはじめる。細く骨ばつた靑蠟のやうな手で、直徑五寸ほどの皿は一枚づつもとの位置へ返される。

「一枚、……二枚、三枚、……四枚、……五枚、……」

 河童は皿が九枚あることを知つた。その模樣は九枚とも同じである。紅葉の林を數匹の鹿がさまよひ、淸流にかけられた土橋のうへで、神仙のやうな老人が二人ならんで釣をしてゐる繪がかいてある。空に紫雲がたなびいてゐる。色どりはあざやかで、陶器の肌はつややかだ。しかし、そんな皿の美しさに氣をとられてゐるどころではない。

「九枚」

 といふ最後の聲とともに、死に絶えるやうな女の失意の姿が河童をふるへあがらせ、ほとんど發狂しさうな恐怖へおとし入れる。河童の胸にいひやうもない女の孤獨が氷の鏝(こて)をあてるやうにしみわたつてきて、全身戰慄で硬直しさうになるのだつた。

 亡靈は三尺とは離れてゐない自分のかたはらに、自分をのこるくまなく觀察してゐる河童のゐることなど、氣づく樣子もない。いや彼女には皿の計算以外、いかなるものも關心をよばないもののやうだつた。さつき井戸のてつぺんから飛びこんだ蛙は、一度彼女の右肩にあたつて下に落ちたのだが、亡靈は眉ひとつ動かさなかつた。時代を經た古井戸には、蟲や、螢(ほたる)や、蝙蝠(かうもり)や、蛞蝓(なめくぢ)や、蜘蛛(くも)や、蛭(ひる)や、蜥蜴(とかげ)や、ゐもりや、蚯蚓(みみず)など、いろいろな生物が同棲してゐて、ときどき出沒したり騷いだりもするのであつたが、なにひとつ彼女の注意を喚起するものはなかつた。天井のない井戸のうへからは、雨や雪が降りこみ、風が花びらや木の葉を散らしこんでゐることだらうが、恐らくさういふものも彼女から皿への執心を反(そ)らさせることはできないにちがひない。河童はこんなにも頑固一徹な情熱といふものを見たことも聞いたこともなく、このほとんど頑迷といつてよい計算のくりかへしに、甲羅の破れる思ひを味はつたのであつた。

 河童は女に話しかけたい衝動を感じた。沈默に耐へられなくなつた。それには好奇心も手つだつてゐたことは否定できないが、主としてあまりの息苦しさに負けたのである。

 どろどろした靑い糊の水をゆるがせて、河童は姿をあらはした。若い女も、あまりに唐突に、自分のすぐ横から異樣な形のものが出現したので、さすがにはつとした面持で、皿を數へる手を休めた。もつとも、河童は、女が九枚を數へ終つたときに名乘りをあげるだけの注意はしてゐた。この悲しみに打ちひしがれてゐる女を恐れさせることを避けたのだ。河童の措置(そち)は適切であつた。河童が計算の途中で姿をあらはしたならば、女はおどろきで皿を取りおとし、幾枚か割つてゐたかも知れない。

「失禮しました」

 無言で凝視する淑女にたいして、禮儀正しい河童は鄭重に頭を下げた。しかし、女は答へようとはせず、凝結したまま、ただ闖入(ちんにふ)者を見まもつてゐるだけである。冷い眼である。狼狼した河童は追つかけられるやうに、どぎまぎしながら、

「いつたい、どうなさつたのですか」

 と、とりとめのない質問をした。こんな問ひかたにはなにも答へられまい。河童もそれを知らなくはなかつたけれど、咄嗟(とつさ)には上等の言葉が出なかつた。冷汗が出て來た。

 すると、思つたとほり、女はなほも無言で河童を睨みはじめた。最初のおどろきの表情は消え、女がしだいに不機嫌になつて行くことがわかつた。河童はさらに狼狼した。そしてつまらない言葉を吐いた。

「わけを聞かせて下さいませんか」

 今度返事がなかつたら、河童は窒息(ちつそく)したかも知れない。しかし、幸なことに、女は口をひらいた。

「あたくしは悲しいのでございます」

 さういつた聲の悲しさと、たつたそれだけでぽつんと切れた言葉の餘韻の恐しさとに、河童はもはや亡靈と對決してゐる忍耐をうしなひ、脱兎よりも早く、井戸の外へ飛びだした。

 

 

 

 河童の俄(にはか)勉強がはじまつた。

 (歴史を知らなくてはならぬ)

 河童は唐突な情熱をたぎらせて、古典を漁(あさ)り、史書や、小説や、口碑や、傳承のたぐひを探つた。山の沼にゐる仲間たちは彼の奇妙な變化に氣づいて、そのわけを聞きたがつたが、彼はなにごとも語らなかつた。他の者であつたならば、古井戸の底で女に出あつたことを得意げに吹聽してまはつたかも知れないが、彼はこれを祕密にした。この經驗を自分のなにかの發見や生長に役立たせたいといふ氣持があり、謎は人の智慧を借りずに一人で解きたいといふ願ひもあつたからである。そして、いつか心の一隅で芽生えてゐるひとつの感情、彼はそれを意識はしても意味づけることに昏迷して、はじめのうち、それこそは人間を救ふ正義感のあらはれだと信じてゐた。祕密のこころよさや、誇りのやうなものさへ感じてゐた。

 河童は大して時日を要せずして、謎を知ることができた。それは彼の熱心さに負ふところが大であつたことは勿論だが、それ以上に、この古井戸をめるぐ怪談があまりにも有名な歷史的事件であつたためである。

(あの井戸の底の女は、お菊といふ名だ)

 と、まつききにそれを憶(おぼ)えた。そして、お菊が數へてゐる皿の數が九枚あつて、それを幾度となく計算してゐるのは、もとは十枚あつたからだといふことを知つた。お菊はその足りない一枚の皿のために殺されたのである。昔、德川時代、音川家に淺山鐡山といふ惡道な執權があつて、お家横領を企てた。鐡山は兄の將監(しやうげん)と結託して着々と陰謀をすすめてゐたところ、ふとした横合にその祕密を腰元お菊に知られた。そこで、一策を案じ、音川家のまたなき家寶として大切にされてゐた色鍋島十枚揃ひの皿をお菊にあづけ、その一枚をこつそり隱したのである。お菊はたしかに十枚あつた皿がなん度數へても九枚しかないのに仰天した。

「一枚、二枚、三枚、四枚、五枚、大枚、七枚、入枚、九枚、……一枚、二枚、三枚、四枚、……」何十ぺん數へても、十枚はない。そして、鐡山に殺されて、井戸の中に投げこまれてしまつたが、お菊の怨靈(をんりやう)はその時以來、井戸の底で皿の計算をつづけてゐるのであつた。そのときから、何十年、何百年と歳月がすぎたけれども、お菊の努力は撓(たゆ)むことがなく、今はからずも偶然の機會から、河童の知るところとなつたのである。時代の變遷は目まぐるしく、德川、明治、大正、昭和となつて、皿屋敷は跡かたもなくなり、荒野と化した一角に水も涸れてしまつた古井戸だけが殘つてゐるけれども、お菊の皿の計算だけは數百年間、一貫していささかも變ることがなかつたのであつた。

(なんといふ哀れな女だらう)

 河童は一切を知ると、お菊の運命に涙がながれた。井戸の底では恐怖にをののいたが、事情がわかつてみると、幾千萬べん、幾億べん數へても、絶對に、十枚にはならない皿をお菊があきらめもせず數へてゐることの氣の毒さに、深い同情心がわいた。そして、河童は大決心をしたのである。

(お菊のために、皿を探しだしてやらう)

 河童は俄勉強をして唐突に歷史家となつたやうに、今度は突如として探偵に早變りした。

 またも河童の活躍がはじまる。津山鐡山が隱した一枚の皿はどこにあるであらうか。河童は搜索をはじめるまへに、その皿をあやまりなく認識するために、ふたたび、古井戸の底へ潛入した。お菊に氣づかれぬやうに、水分のなかに隱れて、綿密に皿を調べた。

 お菊の動作は前に見たときと寸分ちがつてゐない。靑い顏にたれたほつれ毛や、葡萄色の唇や、瘦せ細つた手や、消え入るやうに陰氣くさい聲や、絶望的なため息や、悲しげな眼や、頰をつたふ口惜し涙などはなにひとつ最初見たときと變らないけれども、河童の心の方は正反對になつてゐた。恐怖心は沿え去り、いまは女をいぢらしく思ふ同情心が胸一杯だ。そして、早くお菊をこの悲しみと不幸とから解放してやりたい氣持で、すでに焦躁をおぼえてゐるのだつた。

(お菊を救ふ方法はたつた一つだ。なくなつた一枚の皿を探しだし、ここへ持つて來てやればよい)

 そして、そのときのお菊のよろこびを考へると、自分までわくわくする思ひになつて、河童はどんな困難をも冒險をも恐れぬ勇氣が身内にわいてるくのであつた。たしかに、もはや河童はお菊を愛するやうになつてゐたといへる。彼が最初のとき、恐怖にをののきながらも逃走しなかつたことのなかに、その萌芽があつたといふべきであつた。彼がどろどろした靑い糊の水のなかで、ふるへながらも、不氣味なお菊の動作をいつまでも見つめ、遂には聲をかけずには居られなかつたのも、愛情の最初の兆候といつてよい、お菊がお岩か累(かさね)かのやうに醜惡むざんの亡靈であつたならば、河童はその姿を瞥見(べつけん)しただけで逃げだしたであらう。河童を古井戸の底に釘づけにしたのは、お菊の美しさに外ならなかつた。河童はここに淑女(レデイ)のために犧牲をいとはぬ騎士(ナイト)となつたのである。

(きつと探しだしてみせる)

 その成功の日の豫感は、河童をすばらしい幸福感で有頂天にさせた。

 お菊が數を讀みながら移動させる皿を、河童は寫生した。同じ皿を探しだすためには見本が要(い)る。九枚とも同じであるし、お菊の動作も單調で緩慢なので、この色鍋島の皿をそつくりうつしとることはそんなに困難な仕事ではなかつた。おまけに、河童はそのスケッチが妙に樂しくてならなかつた。それが繪を描くことよりもお菊のそばにゐることの方に原因があることは、もはや彼にも明瞭に自覺された。河童はいつか模寫の手を休めて、うつとりとお菊に見とれてゐる自分に氣づく。はじめのときは奈落へ引きこまれるやうに陰慘にひびいたお菊の聲も、今は音樂のやうにこころよく鼓膜をくすぐるのであつた。

 河童は心のなかで、お菊に聲をかける。

 ――お菊さん、もうすこしの辛抱ですよ。私があなたの欲しがつてゐる十枚目の皿を見つけて來てあげる。さうしたら、あなたはさういふ永遠に到達する可能性のない企圖や、馬鹿げた絶望の計算から解放されるんだ。何百年間もつづけてきた奴隷(どれい)のやうな重勞働が停止されて、あなたは自由になるんだ。一週間とは待たせません。あと五日ほど御辛抱なさい。

 一度はお菊にそのことを打ちあけてしまはうかと思つたが止めた。打ちあければ、お菊はよろこんで、いきいきと眼をかがやかし、

「ぜひお願ひしますわ。五日などといはず、三日のうちに、いや、今日中にでも……」

 といふであらうが、河童はそんな目前の小さなよろこびを捨てた。よろこびは意外で突然であるほど大きい。皿を見つけだし、いきなりそれを持參した方が效果的だ。この忍耐もまた樂しいものといへなくはなかつた。

 古井戸のなかに棲息してゐる鼠や、蟹や、蠣幅や、蛞蝓や、蜘蛛や、蛭や、蜥蜴や、ゐもりや、蚯蚓などが、河童の作業を不審さうに見てゐた。けれども、だれ一人、聲をかける者はなかつた。彼等はこの狹い井戸のなかでおたがひに生きてゆくためには、爭ひをおこさないこと、他人へ無用なおせつかいをしないこと、自分の意見を述べないこと、沈默してゐるにかぎることなどを悟りきつてゐたので、河童の行動を不思議には思つても、これに容喙(ようかい)したり、まして妨害したりする者は一人もなかつた。

 皿の模寫が終ると、河童は勇躍して井戸から出て行き、十枚目の皿の探索にとりかかつた。

 

 

 

「このごろすこし君は變だなあ」

 これが仲間のうちでの定評である。原因不明の行動をしてゐる者は變に見える。正しい立派な理由があつても、他人は理由などは問題にせず、外部にあらはれた行動だけを批判する。祕密を一人だけの胸にをさめ、血眼になつて皿をさがし歩く河童は馬鹿のやうにも狂人のやうにも見えた。彼が獨身であつたのが不幸中の幸だ。女房がゐたら、そはそはしてゐる彼はいくたびとなく折檻(せつかん)にあつたことであらう。しかし、内心に期するところのある河童は仲間のどんな惡評にも耐へ、今にみてゐろと考へてゐた。さらに、

(おれがどんなに美しい目的のために働いてゐるか、おまへたらのやうなうすよごれた精神の者たちにわかるものか)

 昂然と胸を張つて、仲間たちの低級と無智とを嘲笑ひ、蔑(さげす)んでさへゐたのである。

 ところが、日が經つうちに、河童はすこしづつ狼狽し焦躁しはじめた。あてが外れたのである。皿の搜索は彼の考へてゐたやうな簡單なことではなかつた。意外の困難だ。三日、五日、一週間と經つても、ほんのちよつぴりした手がかりも得られない。またたく間に、十日間がむだにすぎた。

(お菊に打ちあけて、約束などしなくてよかつた)

 河童は自信を喪失しかけると、今はせめてそのことだけでも氣休めであつた。

 文獻のあらゆる頁に鋭い眼光をみなぎらせ、幾度も皿の行方をつきとめ得たと確信したのに、その場所に行つてみると、皿はないのだつた。河童は歷史の記述がいかにまちまちで當てにならぬものかを知つた。津山鐡山が皿を隱したといふ點は一致してゐるが、その方法や場所にいたつては千差萬別に記錄されてゐる。まるで正反對に書かれてゐるのもある。十五日、二十日と經つてもなんの片鱗も發見することができないので、河童は出たらめな記錄をしたりげな筆致で書いてゐる歷史家や作家にはげしい憤りをおぼえた。しかし、彼が今ごろになつていかに切齒扼腕(せつしやくわん)してみたところで、問題はすこしも解決しないし進展もしない。

 二十五日、三十日と徒勞の日がすぎると、河童はへとへとに疲れた。食慾もなくなつて瘦せ細り、見るかげもなく憔悴してしまつて、彼の方が亡靈に近くなつた。古井戸の底にときどき行つてみると、悲しげに皿を數へてゐるお菊の顏は、靑ざめてゐるけれどもふつくらと丸味があり、頰から顎にかけての豐かな線には、内部になにか充實してゐるためから來るいきいきとしたものさへ感じられるのだつた。三百年近くも絶望的な計算をつづけてゐるのにお菊はすこしの衰へも見せず、わづか三十日の搜索で河童は疲弊困憊(こんぱい)の極に達し、氣息奄々(きそくえんえん)としてゐるのである。河童はとまどひし錯亂して、

「こんな變なことがあるものだらうか」

 と、呟かざるを得なかつた。

 しかし、河童は勇氣をうしなひはしなかつた。いつたん定めた偉大な目的を放棄はしなかつた。

(かうなつたら、意地だ)

 ただ、方法はすこし變へたのである。もはや肉體的にこの搜索を自分一人でやることは不可能といつてよかつた。あくまでも獨力でやりとげるといふ最初の決意を變更し、心ならずも仲間に協力を求めることにした。しかしながら、なほ最後の部分だけはあくまでも祕密にした。お菊のことは絶對に打ちあけたくない。皿さへ出て來ればよいのだ。彼は仲間に集まつてもらふと、模寫してきた皿の繪をみんなに示して、

「かういふ皿を探しだすのに、諸君の力が借りたいのだが……」

 と、いくらか殘念さうな口調でいつた。

 そこは山の沼の土堤(どて)で、柳の木がならび、蓮華の花がマットをひろげたやうにはてしなくつづいてゐた。もうすつかり冬眠を終つた蛙たらが沼の岸や芭蕉葉のうへに三々五々たむろして、聞くともなしに河童の合議の模樣に耳をかたむけてゐる。空は靑く、まだ陽は高い。

「それはなんといふ燒物だ?」

 と、一匹の河童がきく。

「色鍋島だ。天下の名器だよ」

「ははァン」と、他の一匹が鼻を鳴らして、「君はその皿が欲しいばつかりに、こなひだうちからきよろきよろして、そんなに瘦せてしまつたんだな」

「そのとはりだ」

「その皿を見つけだして、どうするんぢやね?」

 皮肉な口ぶりでさうたづねたのは老河童である。

「どうといふことはないんです。ただ欲しいんです」

「ただ欲しいだけで一ケ月も血眼になつて、瘦せてしまふんかね。その皿はよつぽど珍奇で高價なものとみえるなう。どんな手間をかけても手に入れさへすれば、いつペんで身代のできるやうな寶物らしい。骨董屋に賣るのかい」

「とんでもない。そんな下品なことはいはないで下さい」

「下品も上品もねえや」と、意地惡で有名な黑河童がせせら笑つた。「取引で行かう。お前さんがその皿を是が非でも手に入れたい氣持はよくわかつた。だけど、おれたらが、お前さんの大儲けの片棒をロハでかつがねばならん理由はねえ。たんまりとお禮をもらひてえものだな」

「それはいふまでもないことだ」

「いつたい、その皿はどこにあるんです?」

 圓陣の隅つこから、狡猾(かうくわつ)と敏捷できこえてゐるいなせな若い河童がどなつた。爪先立ちしてゐて、これからでもすぐ搜索に駈けだしさうな姿勢である。

「どこにあるかがわかつてゐるなら、君たちに相談しやしない」

「方角の見當をきいてゐるんですよ」

「日本のどこかにあるんだ」

 この言葉に河童たちはどつと笑つた。しかし實際はあまりにも茫漠とした探し物にいささか當惑して、笑ひにまぎらしたにすぎなかつたのである。よい儲け口らしいけれども、結局は代償と努力との比例にあるのだから、不精な者たちの中にはこの寶さがしを斷念するものもあつたのである。圓陣はしばらく騷然となつた。やがて、

「お願ひします」

 頭を下げながらさういつた彼の言葉で、解散された。彼が日ごろ輕蔑してゐる仲間の前でへりくだつたのはいふまでもなくお菊のためであつた。

 それから三日、五日、七日と、また日がながれた。成果はなかなかあがらなかつた。數百匹の仲間を動員したにもかかはらず、こんなにも混沌としてゐるとすれば、彼が一人でやらうと考へたことは無謀といつてよかつた。獨力であくまでやることは死を意味したかも知れない。慾と二人づれの河童たちはもう記錄やあやふやな文獻などは相手にせず、自分たちのかんや運をたよりに日本中を彷徨した。

 さらに、十日、十五日、二十日と日がながれる。

 河童は衰弱のためもう動くことができず、山の沼底の棲家に横たはつて、ただいらいらしながら吉報を待つてゐた。あたりが靜謐(せいひつ)で孤獨になると新しい思想が生まれる。藻がゆらめいてゐる間を、口から吐く眞珠の玉をつながらせながら、編隊になつて鮒の一群が通りすぎる。車えびが透明な身體を屈折させて岩の穴から出たり入つたりする。さういふものをうつろな眸でながめてゐた河童の心に、これまでは想像もしなかつた一つの疑念が浮かんだ。

(十枚目の皿はもうないのではあるまいか?)

 靑天の霹靂(へきれき)よりもつとはげしい衝擊(シヨツク)であつた。背の甲羅が枯葉のやうに軋み、膝小僧が金屬板のやうに鳴りはじめた。自分の眼がつりあがつて行くのがわかる。その疑念のおそろしさに河童は悶絶しさうであつた。しかし、その惑亂のなかで、彼の腦髓だけは冷靜に殘忍な思考をすすめる。

(たしかに、皿は津山鐡山によつて隱されたと記述されてゐる。しかし、歷史は噓だらけだ。權謀術數の大家であつた鐡山は、皿を隱したものとみせかけて碎いてしまつたのではないか。鐡山が碎かなかつたとしても、どこかに隱された皿は三百年の時間の暴力によつて破壞されたのかも知れない。でなければ、これだけ探しても行方の片鱗だにも知れないといふわけがない)

 また、別の考へが河童を愕然ときせる。

(皿はもう、日本にはないのぢやないかしらん?)

 割れてはゐなかつたとしても、美術品として外國に持ちだされることが想像される。そんな例はたくさんある。もし海をわたつて西洋にでも渡つてゐるとしたら、いかに河童の神通力をもつてしてももはや絶對に發見の可能性はない。河童は人間よりは數十倍の能力を持つてはゐるけれども、名探偵をもつてしてもその力は地球全體には及ばない。日本だけでも持てあますほどだ。限界の自覺は悲しいことであるが、希望も冒險も自己の圈内だけの語にすぎないのである。河童はこの突然わいた疑念の恐しさに耐へかねて、ぶるぶると濡れ犬のやうに頭をふりまはし、この惡魔の想念を追つぱらはうとしたが、一度生まれた思想はいかに努力しても消え去りはしなかつた。しかしながら、もともとはじめからこの疑念をいだかなかつた河童の方が魯鈍(ろどん)といふべきであらう。三百年といふ歳月を無視してゐたとはをかしな話だ。ただ考へられることは、河童が古井戸の底で三百年の歳月にすこしも影響されてゐないお菊の姿を見たために、錯覺をおこしたのかも知れないといふことだ。

(さうだ。たしかにお菊のせゐだ)

 溺れる者が藁(わら)をつかむやうに、河童はやけくそに心中で叫んだ。

 ところが、皿はあつたのである。

 或る日、一匹の仲間の手から、彼はその皿を受けとつた。それは彼が古井戸の底で見た色鍋島と寸分ちがはぬものであつて、お菊の死の原因となつたあの皿であることに疑ひはなかつた。骨董品には僞物の多いことを彼も知らなくはない。しかし、仲間が探して來てくれたその皿は僞物とは思へなかつた。彼が隨喜の涙をながして、その友人に感謝したことはいふまでもない。

 「ありがたう、ありがたう。君は命の恩人だ」

 そんな平凡なことしかいへなかつたが、彼はまつたく蘇生の思ひがしたのである。大願成就のよろこびのため、衰弱し憔悴しきつてゐた河童はたちまち元氣を快復し、宙をとんでお菊のところへ駈けつけたい思ひであつた。

 しかし、實はこの一枚の皿を得るまでに河童はすでに破滅に瀕してゐたのである。仲間が皿を探して來てくれたのは友情でもなんでもなかつた。その皿を持つて來たのは、沼の土堤で合議を召集したとき、嫌味な啖呵(たんか)を切つて、取引で行かうといひだした張本人の黑河童である。黑河童は徹頭徹尾慾と道づれであつたから、二人の會見はまつたくの商談であつた。彼がどんなにこの皿を欲しがつてゐるかをよく知つてゐる黑河童は足元を見こんで、搾(さく)油機のやうに彼をしぼらうとする。しかし彼はすでに皿を手にするまでに、多くの仲間たちから搾られつくしてゐた。搜索のためには旅に出なければならない。そのためには旅費が要る。心あたりがあるとまことしやかにいはれれば一縷の望みをつないで、そこへ行つてもらふ。旅費、日當、酒代、前借り、はては恐喝(きようかつ)に類する強談で、金をまきあげられる。あまりの失費に彼は仲間へ依賴したことを後悔しはじめたくらゐだ。しかし、皿を探す手段はもはやこれ以外に考へられなかつたので、沼の繩張り、食餌圈、茄子や胡瓜の耕地、漁場、山林、貯藏庫等、財産の大部分を仲間に提供してしまつたけれども、最後の希望をうしなはなかつた。

 今、その望みが達せられたのである。しかし相手が商賣人であつたために、皿の代償として、わづかに殘つてゐた財産の一切をまきあげられ、彼は裸一貫になつて一枚の皿を得たのである。しかし、彼は滿足であつた。彼は涙を浮かべて心に呟く。

(この一枚の皿は、地球全體くらゐ價値があるんだ)

 

 

 

 三百年間も陰慘であつた古井戸の底に、はじめて明るい笑ひ聲が滿ちた。

 「これだわ、この皿にちがひないわ。まあ、うれしい」

 お菊の歡喜の表情を見て、河童も自分の獻身と犧牲とが報いられたことをよろこんだ。お菊は最初の邂逅(かいこう)のとき、失禮な態度をとつたことを詫び、河童の持つて來てくれた十枚目の皿を手にとつて、いく度もいく度も裏表をかへして感慨ぶかげに眺めるのだつた。それから、河童にちよつと、といふやうに會釋しておいて、重ねた皿を數へはじめる。

「一枚、二枚、三枚、四枚、……」

 それは前の陰鬱な聲ではなくて、明るく彈んだ調子だ。數を讀むテンポも早い。靑蠟に似た女の手はせかせかと動き、皿は迅速にぞんざいに移動させられて、がちやがちやと音を立てる。

「五枚、六枚、七枚、八故、九枚、十枚、……ああ、十枚あるわ」

 お菊の計算はもはや澁滯することがなく、三百年目にはじめていつた「十枚」といふ言葉に、フッフと氣恥かしげな微笑を洩らす。

「よかつたですなあ」

 河童もお菊のよろこびに釣りこまれて、身體をゆするやうにして笑つた。笑ふとは妙なことである。なぜ笑ふのであらうか。滑稽なことはひとつもなく嚴肅な勝利の悲しみがあるだけではないか。實際に胸が迫つてゐるのである。一人だつたらわつと泣きだしたかも知れない。しかし顏を見あはせると、二人は笑つてしまふのであつた。二百年目にはじめてお菊の顏にあらはれた笑ひは、しかし河童をとまどひさせる。悲しみにうちひしがれてゐたとき、お菊の顏いつぱいにあらはれてゐた靜かで沈んだ美しさはどこかに消えてしまつた。昔のお菊の高貴な顏は、たわいもない、痴呆のやうな賤しい笑顏の面ととりかへられてゐる。そして河童はその新しいお菊の樂天的な顏を見ると、わけもなくげらげらと笑ひだしてしまふ。

 古井戸の生活者である鼠や、蟹や、蝙蝠や、蛞蝓や、蜘蛛や、蛭や、蜥蜴や、ゐもりや、蚯蚓などはこの笑劇を呆氣にとられてながめてゐた。かれらはこの靜かで住み心地のよい古井戸の世界の空氣が、俄に變つて、生存をおびやかされるにいたるのではないかといふ不安を、一樣に感じてゐるらしく思はれた。空氣の震動だけでも大變である。お菊が笑ひ、河童が笑ふたびに細長い固筒形の井戸の中はわんわんと鳴りひびく、革命的な現象といはなければならなかつた。

 ところが、腑拔けのやうに笑ひころげてゐた河童は、ふとなにかに氣づいたやうに緊張した顏つきになると立ちあがつた。突然、河童の顏に不思議な苦痛の表情が浮かんだ。彼は井戸の世界いつぱいに鳴りひびく笑ひ聲の谺(こだま)に、われに返つたのである。そのだらしのない愚劣な音響が自分の聲だと知ると、この眞摯な河童の心に俄かに狼狽と反省の思ひがひらめいた。

 河童は羞恥でまつ赤になると、ものもいはず、地底を蹴つて、井戸の外へをどり出た。

「待つて、……待つて頂戴」

 深い井戸の底でお菊のさう呼ぶ聲が聞えたが、耳をふさぎ一散に逃げた。

(墮落してはならぬ)

 河童の心を領したのはそのことであつた。河童はお菊へ待望の皿をとどけたけれども、目的と現實との不可解な混淆(こんかう)を、古井戸の底に行つてみるまで氣づかなかつた。河童は犧牲の美しさといふものをつねづね無償の行爲のなかに求めたいと考へてゐた。ところが、皿をとどけてお菊のよろこぶ姿を見たとき、なにかの代償を求めようといふ不純の氣持が、ふつと胸の一隅に兆(きざ)したのにおどろいた。心中にどんな妖怪が棲んでゐるか、自分でもわからない經驗は前にもあつた。しかし、こんな妖怪が頭をもたげたことは生眞面目な河童を恥ぢさせた。お菊になにを求めようといふのか。その恐しいみづからの詰問に逢つた途端、圓筒のなかにひびきわたつただらしのない笑ひ聲の谺が、河童を羞恥で赧(あか)らめさせた。同時に、罪の意識が電氣のやうに彼の胸をかすめた。また、仲間への裏切者となることの恐れがそれに重なつた。

(墮落してはならぬ)

 河童はさうして古井戸からあわてふためいて脱出をしたのであつた。

 

 

 

 それから、數日がすぎた。

 沼の仲間たちは、彼が皿をどこにやつたのか不思議がつた。あんなに欲しがつてゐた皿を手にした途端、もう持つてゐない。仲間たちの間では、その皿を彼がいくらの金に換(か)へ、いくら儲け、そしてどんな大金持になるかが問題であつたのに、彼は皿をなくしただけで相かはらず尾羽うち枯らしてゐる。そして、ただ身一つを入れるだけになつたうすよごれた穴のなかに横たはつたきり、まつたく出て來ない。仲間とのつきあひも忘れたやうだ。しかし彼のそんな不精たらしい蟄居(ちつきよ)の樣子を偵察しに行つた者の一人は、彼はさびしさうではあるが、どこかに樂しげな滿ち足りた樣子も見られると、不思議さうに報告するのであつた。

 

 

 

 また、數日がすぎた。

 河童は忍耐をうしなつた。もう二度と古井戸の底には行くまいと決心してゐたのに、お菊に逢ひたい氣持をどうしてもおさへることができなくなつたのである。河童はこの自然の情をやたらに抑壓する必要はないと考へた。自分は死ぬかも知れない。そのまへにもう一度お菊に逢ひたい。お菊へなにかを求めようといふ不純な氣持などはまつたくなかつた。皿を渡した日、彼が一散に逃げだすとお菊はうしろから呼びとめた。そのお菊のやさしい聲は耳にこびりついてゐる。彼はそれだけでも滿足であつた。そこで、もう一度逢ひ、あんな風な奇妙な別れかたでなく、きれいに納得づくでもう二度と逢はないことを約束しようと思つた。お菊は悲しむかも知れない。

(しかし、それがおたがひのためだ)

 と、河童はせつなくなる胸をおきへて、強くひとりでうなづいた。

 河童は輕い足どりで、古井戸に行つた。初夏の嫩葉のうつくしい朝である。蟬が鳴いてゐる。もうこつそりと忍ぶ必要はないので、河童の姿で堂々と、井戸の圓筒形の石壁を降つた。苔むした垣の間から顏を出してゐた鼠や蟹や蜥蜴が、闖入者に驚いてひつこんだ。

 地底に降り立つた河童は、つよい親しみを含んだなれなれしい語調で、

「お菊さん」

 と、聲をかけた。

 靑いどろどろの糊水のなかに蹲(うづくま)つてゐたお菊は、顏をあげた。

 河童は仰天した。河童はお菊が彼の來訪を待望し、井戸の口からのぞいただけで、もうよろこびの聲をあげて迎へてくれるものと思つてゐた。ところが、お菊は彼が底に着くまで一口もきかず、聲をかけると顏をあげたが、その眸は歡迎どころか、憎惡の光に滿ち滿ちてゐた。きらに河童の膽(きも)を冷えあがらせたのは變りはてたお菊のむざんな姿であつた。これがあのお菊であらうか。まるで骸骨(がいこつ)である。お岩や累(かさね)よりもつと醜惡だ。ふつくらと丸味のあつた頰や顎の線は鉈(なた)でこそいだやうに削りとられ、二つの眼は眼窩(がんくわ)の奧に落ちくぼんでゐる。葡萄色の唇は腐つた茄子の色になつて、蟇(がま)のやうに齒をその間にむきださせ、亂れ放題の頭髮は全身に棕櫚(しゆろ)をかぶせたやうだ。瘦せて針金のやうになつたお菊の膝のまへに、十枚の皿が積まれてゐる。

 河童は茫然となつて、そこへへたばりこんでしまつた。甲羅が枯葉のやうに軋み、膝小僧が金屬板のやうに鳴りはじめる。その河童の耳に、お菊のすさまじい怨讐が憎々しげにひびきわたつた。

「なにをしに來やがつたんだ。惡魔、この皿を持つて、とつとと歸りやがれ」

 河童は耳を疑つた。しかし、それはお菊の口から出た言葉にちがひなかつた。動轉してしまつた河童はもうなにを考へる餘裕もなく、お菊がつきだした一枚の皿をつかみとると、一散に井戸から飛びだした。

(なんたることか)

 錯亂は極に達した。どう考へてもなんのことやらわからない。河童は皿をかかへて山の沼に歸ると、やけつぱちに寢ころがつて呻吟(しんぎん)した。河童の頭のところに皿が置かれてある。紫雲たなびく空の下、紅葉の林をさまよふ鹿と、釣をする二人の白髮老人を配した色鍋島の皿は絢爛(けんらん)としてゐる。

 古井戸の底で、お菊はしだいに終焉(しゆうえん)に近づきつつあつた。現在のお菊の絶望は、十枚目の皿の見つからなかつた前の絶望にくらべて、さらに絶望的であつた。お菊は九放しかない皿を數へながら、十枚あるかも知れない、なくともいつかはきつと十枚目が見つかるといふ希望だけで、わづかに生命を支へてゐたのである。河童はそれを永遠に到達の可能性のない企圖として、彼女の不幸を哀れみ、その絶望へ光をもたらさうと考へたが、お菊はその絶望の計算への情熱だけで、いきいきと内部を充足されてゐたのであつた。しかしながら、彼女は自分ではそのことを氣づいてゐなかつた。だから、河童が皿を見つけて來てくれたときは本心からよろこんだのであつた。三百年の絶望に終止符が打たれたと思つた。ところが、それはもつと恐ろしい絶望への出發點であつたのだ。

「一枚、……二枚、三枚、……四枚、……」

 十枚あればよいがと祈りつつ、期待と不安とにおびえ數へて行くときの充實感と、やつぱり九枚しかないと知つたときの、悲しいとはいへ次に望みを托し得る生活の持續感とは、お菊にとつては魂の火花であつた。それなのに、皿が十枚揃つたとき、一切の情熱も充足感も、それから來る美しさも生命力も消え去つてしまつた。お菊はなにもすることがなくなつたのである。彼女はただ退屈になつただけだ。皿を數へて行つても十枚あるとわかつて居れれば、全然無意味だ。はじめは河童の親切をよろこんだのに、もう翌日には河童のおせつかいが恨めしくなつた。二日目には憎くなつた。三日目には呪はしくなつた。お菊は内部を支へるものをうしなつて、急速に憔悴し委縮し死へ近づいた。そこへ河童が得々としてやつて來たので、思はずどなりつけたのである。それはお菊の魂の叫びであつた。

「やつと一枚減つた」

 さう思つて、また昔のやうに、一枚、二枚、三枚、と數へてみても、もはや挽回することのできない空洞(くうどう)がお菊の心のなかにぽかんと倦怠の口をひらいてゐる。なんらの情熱も希望もわいて來ない。十枚目の皿が河童のところにあるといふ事實を、突如としてお菊が忘れ去つてしまはないかぎり、事態は復舊しないのだつた。

 お菊は絶望して、九枚の皿を石垣にたたきつけた。その散亂した缺片のなかに横たはり、しづかに眼をとぢた。

 山の沼で、錯亂から容易に脱することのできなかつた河童は、お菊を忘恩の徒だと斷定することによつて、やうやくなにをすべきかに思ひあたつた。

(向かふが向かふなら、こつちにも考へがあるんだ)

 河童は山の沼を出た。人間に化けて大都會にあらはれた。一軒の骨董屋に入つた。持參した色鍋島の皿を賣つた。鑑定のできる骨董屋の主人はそれが天下の珍品であることを知つて、客のいひなりに莫大な現金を拂つた。客は皿をわたし、金をふところに入れて店を出た。骨董屋の裏口から、眼つきのわるい屈強の若者が四五人、そつと拔け出た。慘劇はどこで行はれたかわからない。目的をはたした若者たちが店にひきかへしたとき、骨董屋の主人は粉微塵になつた皿のまへで、茫然と立ちつくしてゐた。

 

 

[やぶちゃん注:『昔、德川時代、音川家に淺山鐡山といふ惡道な執權があつて、お家横領を企てた。鐡山は兄の將監(しやうげん)と結託して着々と陰謀をすすめてゐたところ、ふとした横合にその祕密を腰元お菊に知られた。そこで、一策を案じ、音川家のまたなき家寶として大切にされてゐた色鍋島十枚揃ひの皿をお菊にあづけ、その一枚をこつそり隱したのである。お菊はたしかに十枚あつた皿がなん度數へても九枚しかないのに仰天した。/「一枚、二枚、三枚、四枚、五枚、大枚、七枚、入枚、九枚、……一枚、二枚、三枚、四枚、……」何十ぺん數へても、十枚はない。そして、鐡山に殺されて、井戸の中に投げこまれてしまつた』この部分は人名にやや手が加えられているものの、皿屋敷の話で芝居として最も人口に膾炙している浄瑠璃「播州皿屋敷」のそれを元にしている。ウィキ皿屋敷から引くと、為永太郎兵衛・浅田一鳥作の「播州皿屋敷」寛保元(一七四一)年に大阪の豊竹座で初演されたもので、例の通り、幕府の咎めを回避するため、室町時代の細川家のお家騒動を背景として組んであって、『一般に知られる皿屋敷伝説に相当する部分は、この劇の下の巻「鉄山館」に仕込まれている、次のようなあらすじである』。『細川家の国家老、青山鉄山は、叛意をつのらせ姫路の城主にとってかわろうと好機をうかがっていた。そんなおり、細川家の当主、巴之介が家宝の唐絵の皿を盗まれ、足利将軍の不興を買って、流浪の憂き目にあう。鉄山は、細川家の宿敵、山名宗全と結託して、細川の若殿を毒殺しようと談義中に、委細をお菊に聞かれてしまい、お菊を抹殺にかかる。お菊が管理する唐絵の皿の一枚を隠し、その紛失の咎で攻め立てて切り捨てて井戸に投じた。とたんに、井筒の元からお菊の死霊が現れ、鉄山を悩ます。現場に駆けつけたお菊の夫、舟瀬三平に亡霊は入れ知恵をし、皿を取り戻す』というものである。因みに、このウィキ皿屋敷の出典の四十二番には電子テクスト「耳嚢 巻之五 菊蟲の事が引かれてある(言っておくが、私はウィキの執筆に関係しているが、ウィキは記載者自身がウィキ外に別に作った自己テキストや記載へのリンクを張ることは、中立性を欠くために出来ないことになっている。これも私の全く知らない人が知らない間にリンクを張ったものであって、私がしたことではないことを附言しておく。因みにウィキペディアを愛する私としてはこの仕儀をすこぶる光栄なことと思っている)。]

橋本多佳子 生前句集及び遺稿句集「命終」未収録作品(21) 昭和二十一(一九四六)年 八句

 昭和二十一(一九四六)年

 

大根ぬく南に雲多き日に

 

波の音芦火は消えてもすぐもゆる

 

寒牡丹寺苑野川を流れしめ

 

[やぶちゃん注:恐らくロケーションは長谷寺であろう。]

 

木枯や鳥屋に卵のあたゝかく

 

炭ひきて心しづかになりゆくを

 

鶯や沼辺は雨のしげりきなり

 

衣ほどく鋏小さゝよ野分中

 

[やぶちゃん注:以上、『馬酔木』掲載分。]

 

   佐保山陵

 

松蟬や妃の陵をうちかさね

 

[やぶちゃん注:「佐保山陵」奈良市法蓮町にある聖武天皇のそれと治定されている佐保山南陵(さほやまのみなみのみささぎ)。その皇后、藤原不比等の娘安宿媛(あすかべひめ)、光明皇后「妃の陵」は、その佐保山の参道を挟んだ東のピーク(ツイン・ピークスのピーク間は百メートル強)である東陵に治定されている(なお、陵墓には「仁正(にんしょう)皇太后」と記され、地図上でも「仁正皇太后陵」とある。夫豊次郎を亡くして九年目の夏、前掲の昭和十五(一九四〇)年の一句、

 

冬木の靑吾等の塋城標めて立つ

 

が、そして次女国子の婚約者堀内三郎の内地帰還の途次の遭難の悲哀をも、実はこの句にはオーバー・ラップするように、私には思われてならないのである。「松蟬」はカメムシ(半翅)目頸吻亜目セミ型下目セミ上科セミ科セミ亜科ホソヒグラシ族ハルゼミ属ハルゼミ Terpnosia vacua の異名。晩秋から初夏の季語である。

 

 以上、『現代俳句』掲載分。多佳子、四十七歳。この年、一月二十一日に旧師杉田久女が亡くなっている。十月に戦後初めて伊勢の山口誓子を訪い、また西東三鬼・平畑静塔・秋元不二男らと相知るのもこの年であった。秋以降、こうした仲間と『天狼』創刊への機運が高まった。また参照した年譜の最後には、懐かしい、亡き夫の希望や思い出の詰まったかの大分の十万坪の農場が坪八十銭で農地買上となった、とある。]

今朝見た塹壕にて数学を解く夢

僕は第一次世界対戦の欧州戦線の塹壕の中にいるフランス兵である。
塹壕の中には誰もいない。
いや、有刺鉄線の彼方の敵陣も光なく銃声も聴こえない。
濃い白い霧が立ち込めている。
僕は塹壕の中で古びて黄色くなったザラ紙を広げている。
それは四十年も前の大学の一般教養の「数学」の問題だ。
僕はそれを懸命に解いている。
それが解けないと大学は卒業出来ないのだ。
暁が近い――

   *

僕は大学の教室で同じ数学の問題を解いている。
そこに数少なかった大学時代の友だちが三人心配して励ましに来た。
僕は黙ったまま頷いて謝意を示した。
試験が始まるらしい――

   *

大学から渋谷に向う裏道を抜けて独り歩いている僕の淋しい後姿が見える。
周囲には誰もいない。
数学の試験は全く解けなかったらしい。
晩秋であった――

[やぶちゃん注:最初のシークエンスはドリュウ・ラ・ロシェルの日記中にあった『僕はヴェルダンの戦線で、降り注ぐ砲弾の中にあっても、弾帯に隠した安物の、パスカルの死についての書物を、形而上学的な努力を払って読もうとした』という一節に基づくものであろう。ここはモノクロの映画の印象が痛烈で、寧ろ、かの知られたルイス・マイルストンの「西部戦線異状なし」(1930年アメリカ)の哀しいのラストの雰囲気に酷似していた。
なお、僕は大学の一般教養の「数学」は選択していない。小学校の算数から高校の数学まで一貫して私は最も苦手とし、高三の時には人生で唯一の零点を頂戴しているくらいである。
最後のそれは言うなら、浅川マキの「グッド・バイ」が流れていそうなシーンだった。]

2015/10/22

橋本多佳子 生前句集及び遺稿句集「命終」未収録作品(20) 昭和二十(一九四五)年 一句

 昭和二十(一九四五)年

 

燈籠の尾のもとひとりい寢さめて

 

[やぶちゃん注:以上、『馬醉木』掲載の一句。多佳子、四十六歳。本句までを恣意的な正字表記とし、以降は底本の表記通りとする。]

橋本多佳子 生前句集及び遺稿句集「命終」未収録作品(19) 昭和十九(一九四四)年 十句

 昭和十九(一九四四)年

 

柿すすり山家の秋のきはまりぬ

 

濤の音障子にふるるばかりなり

 

霜明くる瓦斯の焰のはげしくて

 

[やぶちゃん注:「焰」は底本の用字。]

 

寒梅や軍服の香ぞ吾子の香

 

祖母の雛戰嚴しき夜を在す

 

[やぶちゃん注:「在す」「おはす(おわす)」と読みたい。]

 

寒梅の花鮮らしや旅衣

 

經文の行間正し牡丹雪

 

鶯や居間の屛風もたゝまれぬ

 

わが住みて野邊の末黑に籬いまだ

 

[やぶちゃん注:「末黑」は「すぐろ」で、春の野焼きなどの後、草木が黒く焦げていること。また、その草木を指す。この年の五月、多佳子は大阪帝塚山から奈良市あやめ池南四丁目に疎開している。この「わが住みて」と詠み出したそれは、新しき住まいへの挨拶句とも読める。五月で「末黑」の春とやや季が気になるかも知れぬが、「末黑」は野焼きの跡、「後」であり、何より「信濃」の「住吉帝塚山より奈良西大寺の邊り菅原へ引移る 裏の松山へ登れば藥師寺の塔も見ゆ」という前書を持つ「菅原抄」に(当該部で既注であるが、多佳子の疎開先であった現在の「あやめ池南四丁目」は旧「菅原町」の一部が含まれており、「あやめ池町」全体が古くは「菅原」という名称で呼ばれていたと推定される)、


わが住みて野邊の末黑を簷のもと


の句を選んでいることからも間違いない。]

 

わが庭や末黑の雨のしぶきうつ

 

[やぶちゃん注:以上、『馬醉木』掲載分。この年の冬、次女国子の婚約者の堀内三郎が三重県の鈴鹿航空隊に入隊している(三郎は終戦後の内地帰還の途次に遭難してしまう)。多佳子、四十五歳。]

橋本多佳子 生前句集及び遺稿句集「命終」未収録作品(18) 昭和十八(一九四三)年 九句

 昭和十八(一九四三)年

 

   雁(母病篤くいそぎ上京)三句

 

夕燒くる運河ひとゆきひといそぎ

 

夜々の雁ふるさとに病む母に侍す

 

母とゐて母は雁がねはやわかず

 

[やぶちゃん注:これは前年の詠吟。昭和十七年十一月七日、多佳子の母津留は多佳子の看病と看取りを受け、東京にて享年八十二で亡くなった。]

 

   笹子 二句

 

笹鳴の羽の幼なき雪をはね

 

[やぶちゃん注:「笹子」は「ささこ」と読み、は鶯の笹鳴きのこと。鶯が冬になって餌を求めるため、山を下りて人里で暮らし始めると、草藪の中でチャッチャッという地鳴きをすることを言う語で、「笹子鳴き」などとも称して晩冬の季語であるが、こう鳴くのは幼鳥に限らず、鶯の冬の鳴き方である。]

 

時雨更く市電わが乘る間をとまり

 

紅梅にわれは征く靴ふきそろへ

 

寒夜の燈ひとつに母と子とふたり

 

靑簾くらき起居のさわやかに

 

わくら葉の降るに急なり吾子を戀ふ

 

[やぶちゃん注:以上、『馬醉木』掲載分。多佳子、四十四歳。]

橋本多佳子 生前句集及び遺稿句集「命終」未収録作品(17) 昭和十七(一九四二)年 五句

 昭和十七(一九四二)年

 

寢がへりし足のつめたさ五位が啼く

 

[やぶちゃん注:「五位」五位鷺。コウノトリ目サギ科サギ亜科ゴイサギ Nycticorax nycticorax。]

 

笹鳴やひと去りし爐にわれもどる

 

   信濃二句

 

湖みればしなのの櫻散るなりけり

 

旅の家にかたくりの花昏れんとする

 

   木曽

 

おだまきや子を負ふ子等と吾遊ぶ

 

[やぶちゃん注:「おだまき」苧環。これは実際の山野草のモクレン亜綱キンポウゲ目キンポウゲ科オダマキ属 Aquilegia のヤマオダマキ(山苧環)Aquilegia buergeriana 或いはミヤマオダマキ(深山苧環)Aquilegia flabellata var. pumila であろう。苧環とは本来は機織りの際に苧(カラムシ)や麻(アサ)の糸をまいた紡錘形のものを指し、それが本種の可愛いらしい花の形に似ていることに由来する。

 以上、『馬醉木』掲載分。多佳子、四十三歳。]

橋本多佳子 生前句集及び遺稿句集「命終」未収録作品(16) 昭和十六(一九四一)年 十五句

 昭和十六(一九四一)年

 

鯖雲舷梯のぼるときわする

 

鯖雲峽の一船として繫る

 

[やぶちゃん注:「峽」は「かひ(かい)」、「繫る」は「かかる」と訓じておく。]

 

鰯雲峽港にごる日を一輪

 

雲疾くとぶ秋蝶を遲らしめ

 

靴の音わが家にとまらず塞柝も過ぐ

 

[やぶちゃん注:「塞柝」は不詳。これ、底本か初出誌のそれかは不詳乍ら、「寒柝」の誤字か誤植ではあるまいか? 「寒柝(かんたく)」なら、冬の夜に打ち鳴らす夜回りの拍子木の音で意味も腑に落ちるのである。]

 

月光に鐵路といはず地に滿つ霜

 

ひとの面に萬燈くらくくらくとぎれず

 

落穗蕊なまなまと指よごす

 

燈を負ひし兒沈丁の香とわすれず

 

[やぶちゃん注:「沈丁」「ぢんちやう(じんちょう)」で沈丁花(じんちょうげ)の略。フトモモ目ジンチョウゲ科ジンチョウゲ Daphne odora 。]

 

吾子遠き信濃の櫻咲き撓む

 

[やぶちゃん注:「信濃」年譜にこの年の五月の条に、別荘を『探しに、多佳子と国子』(次女)『は信州野尻湖へ行』き、翌六月からは『一家にて、野尻湖畔の』「神山山荘八十七番」で『十月まで滞在』している。]

 

霧の中ひぐらし啼くを曉とする

 

玫瑰に信濃はひるも霧が零る

 

[やぶちゃん注:「玫瑰」は「はまなし」又は「はまなす」と読む。バラ目バラ科バラ属ハマナス Rosa rugosa。和名は「ハマナス」であるが、元来は「はまなし」が正しい。果実がナシに似た形をしていることが和名由来で、それが「はまなす」と訛ったものであるからである。ハマナスは一般に砂地の海浜に植生するが、内陸でも普通に育ち、花を咲かせる。「零る」は「こぼる」で零れるの意。]

 

ゆけどゆけど夜の乾草ひろかりき

 

   甥

 

征でたたす子ろと一夜の蚊帳つらむ

 

[やぶちゃん注:「子ろ」「ころ」で女性や子供を親しんで呼ぶ上代語である。]

 

雁わたる吾子鉛筆の音を斷たず

 

[やぶちゃん注:以上、『馬醉木』掲載分。多佳子、四十二歳。]

橋本多佳子 生前句集及び遺稿句集「命終」未収録作品(15) 昭和十五(一九四〇)年 二句

 昭和十五(一九四〇)年

 

冬木の靑吾等の塋城標めて立つ

 

[やぶちゃん注:「塋城」「えいじやう(えいじょう)」は、奥津城、墓地のこと。先に引用したが、底本の堀内薫氏の年譜に、この三年前の昭和十二年九月三十日に亡くなった夫『豊次郎は生前に墓を作り、自分と多佳子との戒名を刻み、年月日を入れればよいようにしておいた』とある。まさに正しく「吾等」なのである。]

 

熱き雲面驅けり過ぎ臺風來

 

[やぶちゃん注:以上、『馬醉木』掲載分。多佳子、四十一歳。]

橋本多佳子 生前句集及び遺稿句集「命終」未収録作品(14) 昭和十四(一九三九)年 十句

 昭和十四(一九三九)年

 

汽車うづみ地上赤燈雪に刳られ

 

[やぶちゃん注:「燈」の用字はママ。以下、この注は略す。]

 

煖房車寢室の帷の裡曉くる

 

[やぶちゃん注:「帷」は「ゐ」(無論、寝台車の遮蔽用カーテン)、「裡」は「うち」、「曉くる」は「あくる」と読んでおく。]

 

   赤倉觀光ホテル三句

 

星くらき雪に地階の燈がのこる

 

階の窓雪の深きを見て降りる

 

雪深くいでゆの階をなほ降りる

 

[やぶちゃん注:同年年譜に、『一月七日、淳子、美代子を連れて、雪上車で赤倉観光ホテルに着き滞在』とある。前の二句も恐らくその向かう途中の連作中の句と考えられる。「赤倉觀光ホテル」は創業が昭和一二(一九三七)年であるから、当時は開業後二年目。帝国ホテルを創業した大倉財閥が上高地帝国・川奈に次いで建てた高原リゾート・ホテルの草分け的存在。公式サイトはこちら。]

 

北風あをき灘へ舳は峽をいづ

 

   由布高原

 

牧晴れて由布の霧氷を近く見る

 

緬羊舍ひとゐる部屋を煖くせり

 

   富士にて 二句

 

夏爐焚きましろき鷄(かけ)を空に飼ふ

 

[やぶちゃん注:「鷄(かけ)」はニワトリの古称。鳴き声に由来するとされる。]

 

雲がゐる石楠花しろく秋たてり

 

[やぶちゃん注:以上、『馬醉木』掲載分。多佳子、四十歳。]

橋本多佳子 生前句集及び遺稿句集「命終」未収録作品(13) 昭和十三(一九三八)年 十二句

 昭和十三(一九三八)年

 

露のあさ斷たれし髮は肩蔽はず

 

   荒るゝ關門 四句

 

雪荒れて舷梯の階あるのみなり

 

雪昏らく落潮舷をとよもせり

 

船名もなく海峽の雪に繫る

 

吹雪去り峽港靑き潮ながれ

 

泊つる燈に雨降り枇杷の花香り

 

[やぶちゃん注:「燈」は底本のママ。]

 

霜ひかり斑の牛を地にをける

 

雷火去り火口斷層面匂へり

 

灼くる斷層垂直に匍ひのぼれり

 

火口壁地層を厚く灼け曝らす

 

潮灼けて歩廊連絡船を置く

 

夏潮に古き巨船が煤をふらす

 

[やぶちゃん注:以上、『馬醉木』掲載分。多佳子、三十九歳。]

橋本多佳子 生前句集及び遺稿句集「命終」未収録作品(12) 昭和十二(一九三七)年 二十七句

 昭和十二(一九三七)年

 

枯るる園學べる少女破璃に見ゆ

 

[やぶちゃん注:『ホトトギス』掲載句。]

 

暖房の燈を並め北風に航つゞく

 

[やぶちゃん注:「並め」は古語の自動詞マ行四段活用の「並(な)む」で、並ぶ・連なるの意。]

 

湯槽(ゆ)にひたり北風の甲板の眞下なる

 

[やぶちゃん注:「湯槽」の二字で「ゆ」とルビを振る。]

 

北風に覺め夜半の船室のあつすぎる

 

   黄砂の日

 

黄砂航く貨物船側に朱を見たる

 

渡渫船黄砂暮るゝと音を斷ちし

 

[やぶちゃん注:「渡渫船」不詳。底本か初出の『馬醉木』のそれかは不詳乍ら、浚渫船の「浚」の誤字か誤植ではなかろうか?]

 

熔鑛爐黄砂の夜天ちかづけず

 

黄砂の夜鑛滓は地に火と炎ゆる

 

[やぶちゃん注:「鑛滓」「こうし」と読む(誤読の慣用読みでは「こうさい」)。金属を精錬する際に溶けた鉱石の上層に浮かぶ非金属性の滓(かす)。金糞(カナクソ)とも呼ぶ。所謂、スラグ(slag)のことである。]

 

玄海の黄砂の眞夜を月いづる

 

   初瀨

 

牡丹先に日輪瞑き天にある

 

[やぶちゃん注:「初瀨」奈良県桜井市を流れる初瀬川北岸の地名。現行では「はせ」と読まれるようである。大和と伊勢を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に建つ長谷寺の門前町で、上代に泊瀬(はつせ)朝倉宮・泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや)が置かれた。ここはどうしても古名の「はつせ」で読みたい。初瀬山は昔から牡丹の名所として知られ、長谷寺には現在、百五十種類以上七千株と言われる牡丹が植えられており(ウィキの「長谷寺」のデータ)、古くから別名で「花の御寺(みてら)」と称される。]

 

牡丹あふり黑南風地より吹きたてり

 

[やぶちゃん注:「黑南風」「くろばえ」と読む。梅雨の初めに吹く南風のこと。]

 

牡丹荒れ黑南風雲を走らしむ

 

黑南風に向ひ廻廊の階を降る

 

[やぶちゃん注:「階」「きさ」と読みたい。]

 

   南風集

 

停船旗南風の港がしろくある

 

南風吹けり巨船停らんとしつゝ來る

 

停船する船と歩めり南風を負ひ

 

舷梯を下り來ぬ南風にカラア碧く

 

南風の波搏てり騎馬いま遠く驅る

 

南風くろし走輪光りひかり驅る

 

南風くろし工事の鐵鎖街に鳴り

 

[やぶちゃん注:ここまでは印象からすると、前年の上海・杭州旅行の回想吟のように私には感じられる。]

 

水上署のボート祭の波を荒らす

 

祭舟篝の炎の中にゐる

 

まつり更け新聞トラック街驅くる

 

[やぶちゃん注:「海燕」の同年パートの、

 

 天神祭

 

渡御まちぬ夕の赤光河にながれ

 

渡御の舟みあかしくらくすぎませる

 

の二句から見て、この三句は大阪天満宮の天神祭の嘱目吟であろう。同宵宮は七月二十四日、本宮は七月二十五日であるが、船渡御(ふなとぎょ)の景であるからこれらの句は昭和一二(一九三七)年七月二十五日に特定出来る。]

 

   山のホテル

 

額の瑠璃山の秋草と苑に咲く

 

露あをしホテルの厨房苑に匂ふ

 

[やぶちゃん注:「海燕」の前年のパートに、

 

 六甲ホテル

 

霧あをし紫陽花霧に花をこぞり

 

霧ごもり額(がく)の濃瑠璃が部屋に咲く
 
 

爐火すゞし山のホテルは梁をあらは

 

霧にほひホテル夕餐燈(ひ)がぬくき

 

が載り、句柄から見て、ここも同ホテルと見てよい(しかも額絵を詠んでいるから、これらもこの時の吟詠か回想吟の可能性が強い)この「六甲ホテル」は兵庫県神戸市灘区六甲山町南六甲一〇三四番地、六甲山山上に現在も営業する阪急阪神第一ホテルグループの「六甲山ホテル」のことであろう。昭和四(一九二九)年に宝塚ホテル分館として開業した(後に独立)。古塚正治設計による開業当時の建物は現存しており、二〇〇七年に国の近代化産業遺産に登録されている(以上はウィキの「六甲山ホテル」に拠る)。]

 

わがちかく銀河は澄みてけぶらへる

 

滿天の星澄み銀河苑にながれ

 

[やぶちゃん注:以上、『馬醉木』掲載分。夏の吟で終わっており、旧作の別詠や回想吟と思われるものが多いのは、この年に夫豊次郎が発病(病名不詳)し、同年九月三十日に享年五十歳で逝去したからである。底本の堀内薫氏の年譜によれば、『療養していた数か月間、多佳子は、病弱の夫に付ききり、妻、秘書、看護婦、母と、虚弱な一身に数役を背負うて大任を果す。豊次郎は生前に墓を作り、自分と多佳子との戒名を刻み、年月日を入れればよいようにしておいた。葬後、ノイローゼによる心臓発作つづく』とある。夫逝去時、多佳子は三十八歳、四人の娘(長女淳子も未だ満十七)の母であった。]

橋本多佳子 生前句集及び遺稿句集「命終」未収録作品(11) 昭和十一(一九三六)年 二十四句

 昭和十一(一九三六)年

 

   赤間の陵

 

繪卷に見しこれの干珠(かんじゆ)島を秋潮に

 

秋潮に滿珠(まんじゆ)島は蒼き珠なせり

 

秋の潮哀しき御幸ありしところ

 

秋潮の底ひの官にゆきし帝(みかど)

 

みゆきましゝこの秋潮にみさゝぎを

 

秋潮の瀨の鳴るかたにみさゝぎを

 

早鞆を落つる秋潮音しづめよ

 

日のひかり秋の渦潮射て深く

 

[やぶちゃん注:「赤間の陵」山口県下関市阿弥陀寺町にある阿彌陀寺陵に治定されている安徳天皇陵。ここにはかつて安徳天皇の怨霊を鎮めるために源頼朝の命により建てられた阿彌陀寺があったが、明治のおぞましき廃仏毀釈により廃され、先に出た安徳天皇を祀る、現在の「赤間神宮」となった(ウィキの「赤間神宮」によれば、廃仏毀釈後は「天皇社」と改称、『歴代天皇陵の治定の終了後、安徳天皇陵は多くの伝承地の中からこの安徳天皇社の境内が』明治二二(一八八九)年七月に安徳天皇の「擬陵」として公式に治定されたとある。「天皇社」は明治八(一八七五)年十月に「赤間宮」に改称、昭和一五(一九四〇)年八月に官幣大社に昇格するとともに「赤間神宮」と改称されたとあるから、多佳子が訪れた折りは「赤間宮」であったことが判る)。参照したウィキの「安徳天皇」によれば、現代になって『新たな社殿造営のため、御影堂解体が行われた際に、本殿床下に五輪塔の存在が確認されたことにより、数十箇所の陵墓の伝承地の中から、阿弥陀寺に隣接するものが陵墓とされ阿弥陀寺陵(あみだじのみささぎ)とされた』『赤間神宮は安徳天皇や二位尼が竜宮城にいたという建礼門院の見た夢(『平家物語』「六道之沙汰」)にちなみ、竜宮城を再現した竜宮造りとなっている』とある。またここは平家一門をも祀り、かの小泉八雲の「耳なし芳一」の舞台でもある。

 一句目の「繪卷」は「平家物語絵巻」か。私は親しく見たことがない。

 二句目三句目に出る「干珠島」「滿珠島」は先の赤間神宮からは壇ノ浦を経て、東北へ七~八キロメートル隔った関門海峡の瀬戸内海側の入口附近にあり、句順から見て、この二島を見た後に赤間宮を訪れたと考えられる。