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« 豫後   立原道造 | トップページ | 小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (二) »

2015/10/11

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (一)

      第十五章 狐

 

 

       一

 

 日本の本州を旅行すると、あらゆる路傍の木蔭や、古い森や、殆どあらゆる小山の上や、村外づれなどに神道の小祠があつて、祠の前又は祠の兩側に石で作つた、狐の坐像が見受けられる。普通は一對の狐が相向き合つてゐる。しかし十、二十、乃至數百にも及ぶことがある。數百の場合には大抵、形が非常に小さい。大都會では往々、大きな神社の境内に、いろいろの大きさの石の狐が、小は數寸の高さの玩具形から、大はその臺座が人の頭上に聳える巨像に至るまで、數へ盡くせぬほど、層列をなして社殿の周圍に蹲つてゐることがある。誰でも知つてゐる通り、かやうな社祠は米の神である、稻荷を祀つたものだ。日本を廣く漫遊した人は、その訪ねて行つたことのある、いづれかの田舍の場所を想起する毎に、記憶の一隅に、一對の鼻の缺けた、灰綠色の石の狐が現れるであらう。私自身の日本旅行の記憶に於ては、これらの姿が美しい特徴として、一定條件をなしてゐる。

 車京附近及び東京内に於て――時として墓地に於て――頗る美しい理想化された狐の形が見られる。狐火の如くに優美なものだ。彼等は水晶又は、他の半透明體の長い綠色又は灰色の眼を有し、神話的着想として強い印象を與へる。が、田舍の方では、左程藝術的に出求てゐない。特に出雲では、かゝる石彫は頗る原始的な趣を示してゐる。この神國では狐の像が驚くばかり多種多樣である――滑稽じみたのや、風變りなのや、怪奇なのや、魁偉なのや、いろいろあるが、大部分非常に粗野な彫刻だ。しかし私はそれために、興味索然たるものだと斷言する譯に行かない。東海道の彫刻家の作品は、輕快な優美及び妖怪的といふ囚襲的藝術觀念を模倣してゐる。出雲の田舍びた狐は、優美を缺ぎ、野暮ではあるが、さまざまに怪異な趣に作家の個人的好尚を發揮してゐる。氣まぐれ、冷淡、穿鑿好き、沈欝、滑稽的、皮肉的など、種々の氣分を示してゐる。油斷なく見張りをしてゐるもの、居睡りをしてゐるもの、横目を使つてゐるもの、まばたきをしてゐるもの、冷笑してゐるもの、冷笑してゐるもの、微笑を潜めて待つてゐるもの、口を開け又は閉ぢて、こつそりと聽き耳を立ててゐるもの――すべてのものに面白い個性と、また大部分の名のに、鼻が取れたのにさへも、何となく萬事を心得たやうな、人を馬鹿にしたやうな風がある。加之、是等の古い鄙びた狐達には、その現代的な束京の仲間が示し得ない自然美がある。彼等が臺座に乘つたまゝ、世紀の潮の干滿に耳を傾けつゝ、人類に向つて薄氣味惡るく笑を偸んでゐた内に、長い歳月は彼等の上に、美しく柔かな色の、さまざまに斑點ある上衣を與へた。彼等の背は最も細やかな天鵝絨のやうな蒼苔で蔽はれ、彼等の手足や、尾の尖端は纎細な菌類のために、煙ぶし金や、燻ぶし銀の斑紋をつけてゐる。また彼等が最も多く集まる處は、最も美しい土地だ――高く聳えた蔭深い森で、靜かな社祠を蔽へる、綠の薄明りの中に鶯が啼いて石燈籠や唐獅子は、苔を帶びて土地から生えたやうだ――松蕈の如くに。

 

 私は何故に千匹の狐の中、九百匹まで、毀はれた鼻を有つてゐるのか、合點が行き兼ねた。松江の本町通りは、出雲の不具にされた狐の鼻の尖頭で、端から端まで敷きつめることが出來るかも知れぬ。ある友はこの點について、私が不思議に思つたのに對し、簡單乍ら暗示に富める『子供』といふ言葉で答へた。

 

[やぶちゃん注:「稻荷」今まで纏まった注を附していないので、ここでウィキの「稲荷神」より引いておく(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)。稲荷神(いなりのかみ/いなりしん)は稲荷大明神・お稲荷様・お稲荷さん・貴狐天皇(きこてんのう)・荼枳尼天(だきにてん)・みけつ(「三狐」「御食津」)・野狐・飯綱(いづな)などとも呼ばれる。『稲荷系の神社では、玉藻の前(九尾の狐・殺生石)が祭られていることもある』。『稲荷神社の総本社は伏見稲荷大社とされ』、『元々は京都一帯の豪族・秦氏の氏神で、現存する旧社家は大西家である』。『稲荷神(稲荷大神、稲荷大明神)は、山城国稲荷山(伊奈利山)、すなわち現在の伏見稲荷大社に鎮座する神で、伏見稲荷大社から勧請されて全国の稲荷神社などで祀られる食物神・農業神・殖産興業神・商業神・屋敷神である。また神仏習合思想においては仏教における荼枳尼天』(インドのヒンドゥー教のヤクシニー(半女神)が仏教の神天)に吸収されて閻魔王の眷属となったものであるが、後世、立川流などを中心に性愛を司る神とされ、淫祠邪教のシンボルの扱いを受けるようになった)『と同一視され、豊川稲荷を代表とする仏教寺院でも祀られる』。『神仏分離の下、神道の稲荷神社では「古事記」「日本書紀」などの日本神話に記載される宇迦之御魂神(うかのみたま、倉稲魂命とも書く)、豊宇気毘売命(とようけびめ)、保食神(うけもち)、大宣都比売神(おおげつひめ)、若宇迦売神(わかうかめ)、御饌津神(みけつ)などの穀物・食物の神を主祭神とする』。『総本宮である伏見稲荷大社では宇迦之御魂大神を主祭神として』、『佐田彦大神、大宮能売大神、田中大神、四大神とともに五柱の神として祀るが、これら五柱の祭神は稲荷大神の広大な神徳の神名化としている』。『日本の神社の内で稲荷神社は、二千九百七十社(主祭神として)、三万二千社(境内社・合祀など全ての分祀社)を数え、屋敷神として個人や企業などに祀られているものや、山野や路地の小祠まで入れると稲荷神を祀る社はさらに膨大な数にのぼる。江戸の町の至る所で見かけられるものとして「伊勢屋、稲荷に、犬の糞」とまで言われるようになった。本来は穀物・農業の神だが、現在は産業全般の神として信仰されている』。『稲荷神社は日本全国に点在するが、その中でも東日本に多く信仰されている。例えば、武蔵府中においては、明治時代初期に市内に六ヶ所で稲荷神社が祀られており、市内の家々の屋敷神は五百六十六件にも上るなど、多摩地域においては顕著である』。「稲荷神と狐」の項。 『稲荷と狐はしばしば同一視されており、例えば「百家説林」に「稲荷といふも狐なり 狐といふも稲荷なり」という女童の歌が記されている。狐は古来より日本人にとって神聖視されてきており、早くも和銅四年(七一一年)には最初の稲荷神が文献に登場する。宇迦之御魂神の別名に御饌津神(みけつのかみ)があるが、狐の古名は「けつ」で、そこから「みけつのかみ」に「三狐神」と当て字したのが発端と考えられ、やがて狐は稲荷神の使い、あるいは眷属に収まった。なお、「三狐神」は「サグジ」とも読む。時代が下ると、稲荷狐には朝廷に出入りすることができる「命婦」の格が授けられたことから、これが命婦神(みょうぶがみ)と呼ばれて上下社に祀られるようにもなった。上記されているように稲荷神は元々は農業神であるが、狐は穀物を食い荒らすネズミを捕食すること、狐の色や尻尾の形が実った稲穂に似ていることから、狐が稲荷神の使いに位置付けられた。江戸時代に入って稲荷が商売の神と公認され、大衆の人気を集めるようになると、稲荷狐は稲荷神という誤解が一般に広がった。またこの頃から稲荷神社の数が急激に増え、流行神(はやりがみ)と呼ばれる時もあった。また仏教の荼枳尼天は、日本では狐に乗ると考えられ、稲荷神と習合されるようになった。今日稲荷神社に祀られている狐の多くは白狐(びゃっこ)である。稲荷神社の前には、狛犬の代わりに、宝玉をくわえた狐の像が置かれることが多い。他の祭神とは違い、稲荷神には神酒・赤飯の他に稲荷寿司や稲荷寿司に使用される油揚げが供えられ、ここから油揚げを使った料理を「稲荷」とも呼ぶようになった。ただし狐は肉食であり、実際には油揚げが好物なわけではない』。「由来」の項。『伏見稲荷大社について「日本書紀」では次のように書かれている。稲荷大神は欽明天皇が即位(五三九年または五三一年)する前のまだ幼少のある日「秦(はた)の大津父(おおつち)という者を登用すれば、大人になった時にかならずや、天下をうまく治めることができる」と言う夢を見て、早速方々へ使者を遣わして探し求めたことにより、和銅四年(七一一年)二月初午の日に秦(はたの)伊呂巨(具)(いろこ(ぐ))が鎮座した。諸蕃(渡来および帰化系氏族)のうち約三分の一の多数を占める「秦氏」の項によれば、中国・秦の始皇帝十三世孫、孝武王の子孫にあたる功徳王が仲哀天皇の御代に、また融通王が応神天皇の御代に、百二十七県の秦氏を引率して朝鮮半島の百済から帰化したという記録があるが、加羅(伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられている(新羅は古く辰韓=秦韓と呼ばれ秦の遺民が住み着いたとの伝承がある)。雄略天皇の頃には、当時の国の内外の事情から、多数の渡来人があったことは事実で、とりわけ秦氏族は、先に見たように絹織物の技に秀でており、後の律令国家建設のために大いに役立った。朝廷によって厚遇されていたことがうかがわれるのも、以上の技能を高く買われてのことだと考えられている。彼らは畿内の豪族として専門職の地位を与えられていた。こうして深草の秦氏族は、和銅四年(七一一年)稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして神威赫々たる大神社を建てた。深草の秦氏族は系譜の上で見る限り、太秦の秦氏族、すなわち松尾大社を祀った秦都理(はたのとり)の弟が、稲荷社を祀った』秦伊呂巨(はたのいろこ)或いは秦伊呂具(はたのいろぐ)と『なっており、いわば分家と考えられていたようだ』とある。『「山城国風土記」逸文には、伊奈利社(稲荷社)の縁起として次のような話を載せる。秦氏の祖先である伊呂具秦公(いろぐのはたのきみ)は、富裕に驕って餅を的にした。するとその餅が白い鳥に化して山頂へ飛び去った。そこに稲が生ったので(伊弥奈利生ひき)、それが神名となった。伊呂具はその稲の元へ行き、過去の過ちを悔いて、そこの木を根ごと抜いて屋敷に植え、それを祀ったという。また、稲生り(いねなり)が転じて「イナリ」となり「稲荷」の字が宛てられた。都が平安京に遷されると、この地を基盤としていた秦氏が政治的な力を持ち、それにより稲荷神が広く信仰されるようになった。さらに、東寺建造の際に秦氏が稲荷山から木材を提供したことで、稲荷神は東寺の守護神とみなされるようになった。「二十二社本縁」では空海が稲荷神と直接交渉して守護神になってもらったと書かれている。東寺では、真言密教における荼枳尼天(だきにてん、インドの女神ダーキニー)に稲荷神を習合させ、真言宗が全国に布教されるとともに、荼枳尼天の概念も含んだ状態の稲荷信仰が全国に広まることとなった。荼枳尼天は人の心臓を食らう夜叉、または、羅刹の一種で、中世には霊狐と同一の存在とみなされた。このことにより祟り神としての側面も強くなったといわれる。稲の神であることから食物神の宇迦之御魂神と同一視され、後に他の食物神も習合した。中世以降、工業・商業が盛んになってくると、稲荷神は農業神から工業神・商業神・屋敷神など福徳開運の万能の神とみなされるようになり、勧請の方法が容易な申請方式となったため、農村だけでなく町家や武家にも盛んに勧請されるようになった。江戸時代には芝居の神としても敬われるようになり、芝居小屋の楽屋裏には必ず稲荷明神の祭壇が設けられるようになった。明治政府による神仏分離の際、多くの稲荷社は宇迦之御魂神などの神話に登場する神を祀る神社になったが、一部は荼枳尼天を本尊とする寺になった。稲荷寿司は「お稲荷さん」とも呼ばれており、稲荷神社の稲荷神(稲生り、つまりお米の出来を司る神様)から、俵を模した俵型の寿司が稲荷寿司となった。三角形の稲荷寿司が狐の耳を模しているという説もあるが、狐は肉食であって油揚げを好むわけではなく、稲荷神社の狐と関連させた後付けともされる』。

「興味索然」興の尽きるさま、関心がなくなって面白味が消えうせるさまを指すが、もともと「索然」自体が、尽きてなくなること、心惹かれるものがなくて興醒めするさま、空虚なさまをいう語である。

「優美を缺ぎ」当初、「缺(か)き」の誤植とも思ったが、これは減らす・少なくするの意の、「へぐ」(剝(へ)ぐ・削(へ)ぐ)と訓じている可能性があるので、ママとした。但し、朗読する際には「かき」の方が判りがよい。

「加之」老婆心乍ら、これで一般には「しかのみならず」と読む。これは、古語の副詞「しか」(前に述べられている事態をフラットに指す)+限定の副助詞「のみ」+断定の助動詞「なり」の未然形+打消の助動詞「ず」の終止形で、「剰(あまつさ)え」「その上」「おまけに」「そればかりでなく」「それに加えて」の意である。純粋な漢文では文脈上で「これにくはへ」と訓読する場合もあるが、男性の書く和文の中に突如出て来た場合は、まず「これにくはへて」などと訓読する可能性はなく、「しかのみならず」としか読まないと認識してよいと私は思っている。]

 

 

Chapter Fifteen Kitsune

Sec. 1

By every shady wayside and in every ancient grove, on almost every hilltop and in the outskirts of every village, you may see, while travelling through the Hondo country, some little Shinto shrine, before which, or at either side of which, are images of seated foxes in stone. Usually there is a pair of these, facing each other. But there may be a dozen, or a score, or several hundred, in which case most of the images are very small. And in more than one of the larger towns you may see in the court of some great miya a countless host of stone foxes, of all dimensions, from toy-figures but a few inches high to the colossi whose pedestals tower above your head, all squatting around the temple in tiered ranks of thousands. Such shrines and temples, everybody knows, are dedicated to Inari the God of Rice. After having travelled much in Japan, you will find that whenever you try to recall any country-place you have visited, there will appear in some nook or corner of that remembrance a pair of green-and-grey foxes of stone, with broken noses. In my own memories of Japanese travel, these shapes have become de rigueur, as picturesque detail.

In the neighbourhood of the capital and in Tokyo itself-sometimes in the cemeteriesvery beautiful idealised figures of foxes may be seen, elegant as greyhounds. They have long green or grey eyes of crystal quartz or some other diaphanous substance; and they create a strong impression as mythological conceptions. But throughout the interior, fox-images are much less artistically fashioned. In Izumo, particularly, such stone-carving has a decidedly primitive appearance. There is an astonishing multiplicity and variety of fox-images in the Province of the Godsimages comical, quaint, grotesque, or monstrous, but, for the most part, very rudely chiselled. I cannot, however, declare them less interesting on that account. The work of the Tokkaido sculptor copies the conventional artistic notion of light grace and ghostliness. The rustic foxes of Izumo have no grace: they are uncouth; but they betray in countless queer ways the personal fancies of their makers. They are of many moodswhimsical, apathetic, inquisitive, saturnine, jocose, ironical; they watch and snooze and squint and wink and sneer; they wait with lurking smiles; they listen with cocked ears most stealthily, keeping their mouths open or closed. There is an amusing individuality about them all, and an air of knowing mockery about most of them, even those whose noses have been broken off. Moreover, these ancient country foxes have certain natural beauties which their modern Tokyo kindred cannot show. Time has bestowed upon them divers speckled coats of beautiful soft colours while they have been sitting on their pedestals, listening to the ebbing and flowing of the centuries and snickering weirdly at mankind. Their backs are clad with finest green velvet of old mosses; their limbs are spotted and their tails are tipped with the dead gold or the dead silver of delicate fungi. And the places they most haunt are the loveliesthigh shadowy groves where the uguisu sings in green twilight, above some voiceless shrine with its lamps and its lions of stone so mossed as to seem things born of the soillike mushrooms.
 

I found it difficult to understand why, out of every thousand foxes, nine hundred should have broken noses. The main street of the city of Matsue might be paved from end to end with the tips of the noses of mutilated Izumo foxes. A friend answered my expression of wonder in this regard by the simple but suggestive word, 'Kodomo', which means, 'The children'

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