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2015/10/20

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (二)

       二

 

 此處で一般に日本の庭に就いて二言三言述べたい。

 日本人の花の活け方を少小――この技術を實地に知得するには、生來の本能的な美感の外に、歎年の研究と經驗が要るから、唯それを見たばかりで――學び得た後で、其後で始めて人は西洋人の生花裝飾の思想は、全く野卑だと考へることが出來る。この觀察は何等輕卒な隨喜渇仰の結果では無くて、内地に長く居住して樹立し得た確信である。自分はただ日本の熟練家だけがその活け方を知つて居るやうな風に――花瓶の中へ單に小枝を突き込むのでは無く、恐らくは剪伐(つみき)つたり姿を正したり、雅(みや)び極まる手細工をしたりに全(ま)る一時間の骨折をして――活けた、唯一本の花の小枝の言ふに言へぬ美はしさが解るやうになつて來たから、だから西歐人が『花束』と呼ぶものをば、花の野卑な虐殺であり、色彩觀念に對する凌辱であり、蠻行であり、言語道斷である、としか今は考へられないのである。それと稍々同じ樣に、またそれに似た理由で、古い日本の庭はどんなものであるかを知つてから後(のち)は、我が本國の費用を盡した庭を想ひ出すと、自然を犯す不釣合な物を創造するのに富なるのが、何を爲し遂げ得るかの無智な誇示としか考へられないのである。

 さて日本の庭は花の庭では無い。また植物を栽培する目的で造られるのでも無い。十中九まではそれに花床に似たもの何一つありはせぬ。殆んど綠色の小枝一つ有つて居ない庭もあらう。綠色のものは全く何一つ無くて、さういふのは例外【註】ではあるけれども、全然岩と砂とから成つて居る庭もある。

[やぶちゃん字注:以下の注は、底本では「註」表示のある行が「……全然岩」で終わったその直後に突然一行空きで現われ、また一行空きで「……と砂とから成つて居る」と行頭から続くという、今までにない奇妙な注挿入となっている。私は正直、非常に奇異な印象を受ける(段落末では遠く離れると訳者は考え、また私のように一文の終ったところで挟むと、原文がそうした表記仕儀をしているか、或いは、次は実は一字下げになっていないが新しい段落なのではないかと読者が惑うとお考えになったのであろう)。実はこの後にも同様の箇所があるが、同じように変更し、こまかな解説は省略した。「同前字注」という箇所がそれである。以下、「三」以降にも同じような仕儀の見るからに厭な感じの注挿入があるが、総て同じように処置した。以降、次の箇所の注を除き、この注は略す。

 

    註。コンダア氏が連載して居る、トク

    ワモン寺の院主の御殿の庭の如きがそ

    れで、佛の教に同(どう)じて石が頭

    を屈めたといふ傳説を記念せん爲めに

    造られたものである。烏取縣の東郷の

    池で自分は殆んど全く石と砂とから成

    つて居る、頗る大きな庭を見た。設計

    者が傅へんと欲した感銘は、幾つかの

    砂丘を越して海へ近寄つて行くといふ

    感銘であるが、そのイリウジヨンは美

    しいものであつた。

 

概して日本の庭は山水の庭であるが、その存在は或る定まつた大いさの地積に賴りはしない。一段歩でもよく數段歩でもよい。またほんの十尺四方でも宜い。極端な場合にはもつとずつと少くても宜い。或る種の日本の庭はトコノマに置くことが出來る程に小さく工夫し得るからである。大いさ果物皿ほども無い器物(うつは)にしつらへた斯んな庭は、コニハ若くはトコニハと呼ばれて居て、他の建物と建物との間にきつちり壓し詰められて、戸外の庭を作る地面を少しも有たない、小さな粗末な住宅に時折見ることが出來る。(自分は『戸外の庭』と言ふ。日本の大きな家には、階上にも階下にも、戸内の庭のあるのがあるからである)このトコニハは普通には珍らしい鉢か、彫つた淺い箱か、又はどんな英語でも記述の出來ない奇妙な形の器の中に作られる。その中に、土に小文字的な小さな家が在る、小文字的な小さな小山が造られ、脊の曲つた極く小さな橋が架(かゝ)つて居る、顯微鏡的な池と小川が造られる。そして珍奇なちいちやな植物が樹木の役を勤め、妙な恰好した小石が岩の代りになり、頗る小さなトウロウがあり、多分頗る小さなトリヰも亦一つありして。――要するところ、或る日本風景の可愛らしい生きて居る雛形である。

 記憶すべき今一つの一番重要な事實は、日本庭の美を理解せん爲には、石の美を了解する――或は少くとも了解することを學ぶ――必要があるといふ事である。人間の手が切り出した石の美では無い。たゞ自然が形づくつた石の美である。諸君は石に性格がある事、石に調子(トーン)がありまた明暗(ヷルウ)ある事を感ずることが、しかも切(せつ)感ずることが出來なければ、日本の庭の藝術的意味の全部は、諸君に示顯され得ないのである。外國人には、その人がどんなに審美的であらうとも、この感情は研究に依つて修養する要がある。これは日本人には生來のものである。その人種の魂は自然をば、少くとも自然の映眼的形態に於て、我我よりも無限に、より能く理解して居る。だが、西歐人のことであるから、石の美の眞の感じは、日本人の石の使用法と選択擇法とに長く慣れ親しんで、初めて得られるのであるけれども、獲らるべき教訓の文字は、諧君の生活が内地に於てであれば、身邊到る處に存在して居る。どんな街路を散歩しても、諸君が修むべき石の美學に於ける課業と問題とを眼にせずには居れぬ。寺院への進路、道路の傍に、神聖な社の前に、またあらゆる墓地に於てでもあるが、あらゆる公園と遊園とに於て、自然石の大きな不規則な平たい――多くは河床から採つたもので水に磨滅された――表意文字が彫りこんではあるが、決して斫り刻みのして無い――石があるのに氣が付かう。是等は奉納の牌として、記念の碑として、墓石として、建てられて居るもので、神佛の形像が浮彫に刻まれて居る、尋常の伐石の柱やハカよりか遙か高價である。それからまた、大抵な神社の前に、否、殆んど總ての大きな屋敷の地面にすら、激流の作用で磨滅した花崗岩か、或は他の堅い岩の大きな不規則な石塊をば、その上部に圓形の窪みを刳つて水鉢(テウヅバチ)に變へてあるのを見るであらう。こんなものはどんなに貧しい村に於てでも見うける石の利用のほんの普通の實例で、若し諸君にして少しでも生來の藝術的感念を有つて居らるゝなら、かういふ天然な形の方が石伐師の手に成つた、どんな恰好よりかどんなにか勝れて美しいか、早速、必ず發見せずには居れぬ。多分また諸君は、殊に國内を多く旅行すると、しまひには岩の表面に刻まれた文字を見るに慣れて來て、表意文字は自然の法則によつて、岩石構造の附物(つきもの)ででもあるやう、そんなものが全く無い處に、またそんなものがある筈が無い處に、文字か或は鑿(ほ)つた物は無いかと我知らず探して居ることを屢々知るであらう。そして石が、恐らくは、――日本人に呈してさうのやうに、氣分と感じとを暗示する――個性的な或は人相的な貌を諸君に呈し始めることであらう。實際、日本は、火山的高地がさうあり勝ちのやうに、特に石に暗示的形狀がある國である。だからそんな形狀が、『岩と木の根と木の葉と綠の水の泡とに物を言はせた』出雲の鬼のことを云うて居る、あの古代【譯者註】の文よりかずつと前の或る時代に、この人種の想像力に訴へたことは疑ふべくも無い。

 自然の形體が與へる暗示が、斯く認められる國に豫期さるゝやうに、日本には石に關する妙な信仰と迷信とが澤山ある。殆んどいづれの州にも、神聖だとか、物が憑(つ)いて居るとか、或はまた不思議な力を持つて居るとか、想像されて居る有名な石がある。鎌倉八幡宮の女の石、それから那須の殺生石、それから巡禮者がそれを恭敬する江ノ島の福石の如きそれである。出家ダイタがそれに對つて佛の言葉を説いたら、頭を屈めたうなづき石の傳説の如く、また應仁天皇が、御酒(みき)に醉ひたまうて、『御杖以(も)ちて大坂道の中なる大石を打ちたまひしかば、その石走(はし)り避りぬ!【註】』といふ古事記にある古い話の如くに、石が感受性を表した傳説さへあるのである。

[やぶちゃん注:同前字注。]

 

    註。チエムバレン教授譯古事記二五

    四頁。

 

 さて石はその美しさで評價される。だからその形が美しい爲めに選ばれた大きな石は、幾百弗の美的價値を有つことがある。そして大きな石が古風な日本庭の設計の骨骼即ち骨組である。啻に一々の石がその特別な表現的形體の爲めに選擇される許りで無く、庭内の或は家屋近くの一々の石は、その目的或はその裝飾的義務を示す箇々別々な名を有つて居る。が然し自分は日本庭の民間傳説については、たゞ少し、極く少ししか諸君に語ることが出來ぬ。若し諸君にして石とその名に就いて、また庭園の哲理に就いて、もつと多く知らんと欲せらるゝなら、日本の山水庭園の造り方に關するコンダア氏の無比な論文と、日本の花の裝飾の技術に關する同氏の美しい本と、それからモオルスの日本の家庭に載つて居る簡單ではあるが面白い一章を讀まれたい。

 

    註一。この一篇を書いた後にコンダ

    ア君は「日木の山水庭園術」といふ

    繪入の美しい書物を出版した。(一八

    九三年ジョシュア・コンダア著。東

    京にて出版)この書の寫眞附錄は東

    京及び其他の最も有名な庭園の景色

    を見せて居る。

    註二。レイン博士の日本庭園に關す

    る觀察は、正確といふ點に於ても、

    またこの問題の理解といふ點に於て

    も、推薦が出來ない。レインはたゞ

    二ケ年を日本で費やしただけで、そ

    れもその大部分は漆工、絹と紙との

    製造並びに他の實際的な事柄の研究

    に費やしたのである。それ等の問題

    に關しては、その著作は正當の尊重

    を受けて居る。が然し日本の風俗習

    慣藝術宗教及び文學に關しての章は、

    それ等の題目を知ること極めて少き

    を示して居る。

    譯者註。出雲國造神賀詞(イヅモノ

    クニツコガカムホギノコトバ)の中

    に『豐葦原の瑞穗國は、晝は五月蠅

    (さはへ)なす皆(みな)湧(わ)

    き、夜は火瓮(ほべ)なす光(かゞ

    や)く神あり。石根木根(いはねき

    ね)立ち、靑淸沫(あをみなわ)も

    事問ひて荒ぶる國なり』とある。

 

[やぶちゃん注:「少小」はママ。「少々」。

「剪伐(つみき)つたり」はママ。摘(つ)み剪(き)る。

「全(ま)る」はママ。「丸」。

「コンダア氏」お雇い外国人で工部大学校(現現在の東京大学工学部建築学科)の教授を勤めた、イギリス人(ロンドン出身)の建築家ジョサイア・コンドル(Josiah Conder 一八五二年~一九二〇年)のことと思われる。参照したウィキの「ジョサイア・コンドル」によれば、『政府関連の建物の設計を』手掛け、また、『辰野金吾ら創成期の日本人建築家を育成し、明治以後の日本建築界の基礎を築いた』とある。経歴を見ると、未だ十歳だった一八六二年に開催されたロンドン万国博覧会で見た展示物から日本美術に興味を持ち始め、二十一の時(一八七三年)に、日本美術愛好家として知られたイギリスの建築家ウィリアム・バージェス(William Burges)事務所に勤務したり、ステンドグラスを学んだりして、一八七六年には「カントリーハウスの設計」で一流建築家への登竜門であるソーン賞を受賞、その同じ年に日本政府工部省と五年間の契約を結んで、翌明治一〇(一八七七)年に来日、工部大学校造家学教師及び工部省営繕局顧問となって麻布今井町(現在の六本木)に住んだ。その後、明治一四(一八八一)年元浮世絵師で日本画家の河鍋暁斎に入門、「大兄皇子会鎌足図」「雨中鷺」といった作品を描いたりした。の契約終了解雇後も日本に残り(帝国大学工科大学講師として官庁集中計画の一環で学生を引率してドイツへ出張後、ロンドンに一時帰国したりはしている)、明治二一(一八八八)年には大学講師を辞任して建築事務所を開設、明治二六(一八九三)年には花柳はなやぎ)流舞踊家の前波くめと結婚、大正九(一九二〇)年に麻布の自邸で脳軟化症のために亡くなった。ここで彼が連載しているというものが何かは不明であるが、当該ウィキその他を見ると、彼には、「庭造法」(マール社・発行年不詳)、来日以後の“The Flowers of Japan And The Art of Floral Arrangement”(明治二四(一八九一)年刊)・“Landscape Gardening in Japan”(明治二六(一八九三)年博文館出版刊)・“The Floral Art of Japan”(一八九九年)や、“Supplement to Landscape Gardening in Japan”(発行年不詳)などの著作があり、その表題を見るだけでも日本庭園やそのガーデニングに著しく執心していたことが窺われる。

「トクワモン寺の院主の御殿の庭」「佛の教に同じて石が頭を屈めたといふ傳説を記念せん爲めに造られたもの」不詳。コンドルが書いているという点から調べてみると、彼は京都の庭園についてかなりの記載を成していることが論文から分かったが、私は京都には冥く、この仏の教えに石が教化されて頭を下げたという記念の庭石というのもよく知らない。あそこかも、ここかもといういい加減な憶測はあるのだが、出せば一笑にふされること請け合いで、とても口には出せぬ。識者の御教授を乞うものである。それにしても平井呈一先生さえも『トクワモンジ』と、この妙な寺の名をカタカナ表記するだけで、注も何もない。何でだろう?

「烏取縣の東郷の池」現在の鳥取県東伯郡湯梨浜町にある東郷池。周囲十二キロメートルほどで、長さ約二キロメートルの橋津川を通じて日本海に繫がった汽水湖で、しかも池の中央付近の湖底からは温泉が湧くという全国でも珍しい池である(以上はウィキの「東郷池」に拠った)。

「幾つかの砂丘を越して海へ近寄つて行くといふ感銘」の「イリウジヨン」を持った「庭」というのであるが、そもそもが寺のそれか、個人邸宅の庭なのかも不詳。識者の御教授を乞う。

「十尺四方」三メートル四方。

「コニハ」「トコニハ」「小庭」「床庭」であろうが、「大いさ果物皿ほども無い器物にしつらへた斯んな庭」とあるから、これは盆栽や盆景を指すことが判る。個人的に私は三、四歳の頃からずっと、盆景が大好きな人間である(父方の祖母が明治期に作られた道具一式を持っており、地引網や農家や漁村のフィギアなど、驚くべきものであった)。

「明暗(ヷルウ)」原文“values”。「価値」の意の「ヴァリュー」には、別に通例複数形で美術用語としての「明度」の意がある。

「示顯」「じげん」と読む。示し顕(あら)わすこと。

「映眼的形態」原文は“her visible forms”。ハーンは“Nature”を女性名詞と捉えており(これは英語では普通に見られる)、逐語的には、その「自然の可視的な形態」の謂いである。しかし、頗る分かり難い日本語で、この、

――「その人種の魂は自然をば、少くとも自然の映眼的形態に於て、我我よりも無限に、より能く理解して居る。だが、西歐人のことであるから、石の美の眞の感じは、日本人の石の使用法と選択擇法とに長く慣れ親しんで、初めて得られるのであるけれども、獲らるべき教訓の文字は、諧君の生活が内地に於てであれば、身邊到る處に存在して居る。」――

の部分、平井氏は、

――『「自然」をあるがままの形に於いて理解する――すくなくともその点では、日本人の心性は、われわれ西欧人よりも、計り知れないほどはるかに優れている。そういう西欧人だから、諸君がほんとうに石の美しさを感得するには、よほど長く日本人の石の使い方、石の選び方を親しく見なれないと、なかなかそこまでは行かない。しかし、諸君が日本の内地で暮らしさえすれば、諸君の得たいとおもうお手本の文字は、それこそ諸君の到るところに、ざらにころがっている。』――

と美事に達意で意訳しておられる。これでこそ邦訳の鏡と言うべきであると私は思うのである。

「斫り」現行の建築・石材加工に於いては、これで表面処理的な除去行為としての「斫(はつ)り」と訓ずるのであるが、どうもピンとこない。普通に「きり」と訓じておく(本来、「斫」の訓は石を切り出すの「きる」である)。

「ハカ」墓。

「石伐師」「いしきりし」と読んでおく。

「表意文字は自然の法則によつて、岩石構造の附物(つきもの)ででもあるやう、そんなものが全く無い處に、またそんなものがある筈が無い處に、文字か或は鑿(ほ)つた物は無いかと我知らず探して居ることを屢々知るであらう。そして石が、恐らくは、――日本人に呈してさうのやうに、氣分と感じとを暗示する――個性的な或は人相的な貌を諸君に呈し始めることであらう」ここは、日本人や、その日本人の心性に慣れ親しんだ外国人という者は、如何なる石でもそれを見るとや、反射的に人工的な絵や文字を意識的無意識的に探そうとする性癖を持つということを言う一方で、後の「石に暗示的形狀がある」以下の叙述から明らかなように、所謂、近現代の心霊写真の類い――近現代の日本人が、自然界の形象の中に有意に偶発的な相似――シミュラクラ(Simulacra)――類像現象を感知し易い――ということをも含めて述べていると考えるべきである。但し、ハーンのそれは決してそれを馬鹿馬鹿しく非科学的なものとして退けているのではないことも十全に注意しなくてはならぬ。

「『岩と木の根と木の葉と綠の水の泡とに物を言はせた』出雲の鬼」祝詞(のりと)の大殿祭(おおとのほかい/おおとのほがい:宮殿が災厄を蒙らぬように祈り鎮める儀式)には、『天津御量(あまつみはかり)以ちて事問ひし磐根(いはね)・木(こ)の立ち・草(くさ)の可岐葉(かきは)をも言(こと)止(や)めて』と見える。「岩根」は大地に食い込んだ大岩、「綠の水の泡」は碧なす水沫(みなわ)の意であろう。これは所謂、天孫降臨以前の原日本のアニマチズム(マナイズム)・アニミズム的な、自然界のあらゆる「もの」に魂(たま)が宿っていて、岩も此の木の葉も流れの飛沫さえも言葉を喋った、の意である。「出雲の鬼」(原文“demons in Izumo”)は平井呈一氏は『出雲の国の禍津神(まがつかみ)』と訳しておられる。古事記等では「禍津日神」(まがつひのかみ)と呼ばれている、災厄を齎す邪神として「古事記」には「八十禍津日神(やそまがつひのかみ)」と「大禍津日神(おおまがつかみ)」(二柱とも伊耶那岐の禊によって誕生したとする)であるが、これこそ原日本人の本来の土着神であり、大和朝廷の宗教政策によって邪悪な神から妖怪まで零落させられるところの本来の原神である(と私は大真面目に思っている)。自然が何時でも誰でも妖言をなす『荒ぶる國』で結構ではないか! 魂を抜かれてありとある自然な存在が緘黙した一握りの権力者によって支配された国家ほど恐ろしいものはない!

「州」老婆心乍ら、「しふ(しゅう)」で、江戸以前の律令制以降の本邦に於ける国のこと。

「鎌倉八幡宮の女の石」これは恐らく、現在、「政子石」(頼朝が妻政子の安産を祈願したとされる)或いは「姫石」と呼ばれているところの、源平池の源氏池(向かって右手)の中の島にある旗上弁天社の背後に隠すように柵で囲われてある、女性の性器に似た亀裂を持つ女陰石のことであろう。

「江ノ島の福石」「第四章 江ノ島巡禮(一七)に既出。この石は、鍼医杉山和一(すぎやまわいち 慶長十五(一六一〇)年~元禄七(一六九四)年)の逸話で特に知られる。幼くして失明した和一は江戸の検校山瀬琢一の下に入門するものの、生来の不器用と物忘れが災いして、破門を言い渡されてしまう。そこで江の島弁財天に籠って起死回生の断食祈願をし、その帰るさ、この福石の傍で躓いて倒れた。その際、何かが体に刺さった感じがするので拾ってみたところ、それは中空の竹の中に入り込んだ松葉なのであった。和一はこれに発想を得て、現在知られるところの、中空の管の中に鍼を挿入し、管の上部から出た鍼の頭を叩いて打つ管鍼(くだばり/かんしん)を考案したとされている。彼はその管鍼で徳川綱吉を治療、元禄二(一六八九)年には関八州の当道盲人を統括する惣禄検校にまで登りつめた。彼はまた鍼術及び按摩術の技術取得を目的とした、世界初の視覚障害者教育施設「杉山流鍼治導引稽古所」を開設していることも注目しておきたい。この奇瑞に感謝の意を表して、後に和一は藤沢宿から江ノ島に至る道標四十八基を寄進、その最終の道標と思われるものが現在のこの福石の前に建っている。この福石の左下方、江ノ島の裏へ回る近道である東参道を入った右の下った直ぐの所に和一の墓はある。電子テクスト「新編鎌倉の江の島の「福石」の項も参照されたい。携帯で撮った小さなものながら写真も添えてある。

「出家ダイタがそれに對つて佛の言葉を説いたら、頭を屈めたうなづき石の傳説」「對つて」「むかつて(むかって)」と訓じていよう。この「ダイタ」という名の僧も知らなければ伝承も不詳である。お手上げ。識者の御教授を乞う。

●「應仁天皇が、御酒に醉ひたまうて、『御杖以ちて大坂道の中なる大石を打ちたまひしかば、その石走り避りぬ!』といふ古事記にある古い話」まず「應仁天皇」なんどという天皇はいない。「応神天皇」の誤りである。何故か、平井呈一氏も『応仁天皇』と全く同じ誤訳をしておられるが、頗る不審である(これ以上は語らぬ)。これは「古事記」の応神天皇のパートの大陸からの文物の伝来を纏めた箇所の最後の部分である。少し前から引く(武田祐吉先生の角川文庫版を参考底本にしたが、恣意的に正字化した)

   *

また百濟(くだら)の國王(こにきし)照古王(しやうこわう)、牡馬(をま)壹疋(ひとつ)、牝馬(めま)壹疋を、阿知吉師(あちきし)に付けて貢上(たてまち)りき。この阿知吉師は、阿直(あち)の直史(ふひと)等(ら)が祖なり。また横刀及大鏡を貢上りき。また、科(おほ)せ賜ひて、「もし賢しき人あらば貢上れ」とのりたまひき。故(かれ)、命を受けて貢上れる人、名は和邇吉師(わにきし)、即ち「論語」十卷、「千字文(せんじもん)」一卷、幷はせて十一卷(とをまはりひとまき)を、この人に付けて貢進(たてまつ)りき。この和邇吉師は、文(ふみ)の首(おびと)らの祖なり。また、手人(てひと)韓鍛(からかぬち)、名は卓素(たくそ)、また呉服(くれはとり)西素(さいそ)の二人を貢上りき。又、秦(はた)の造(みやつこ)の祖、漢(あや)の直(あはへ)の祖、また酒(みき)を釀(か)むことを知れる人、名は仁番(にほ)、またの名は須須許理(すすこり)等、まゐ渡り來つ。故、故、この須須許理、大御酒を釀みて獻(たてまつ)りき。ここに、天皇(すめらみこと)、是の獻れる大御酒にうらげて、御歌よみしたまひしく、

 

  須須許理が 釀みし御酒に われ醉ひにけり

  事無酒咲酒(ことなぐしゑぐし)に われ醉ひにけり。

 

かく歌ひつつ、幸行(い)でましし時に、御杖もちて、大坂の道中なる大石を打ちたまひしかば、其の石走(いはば)り避(さ)りき。故、諺に「堅石(かたしは)も醉人(ゑひびと)を避(さる」といふなり。

   *

武田先生の脚注によれば、文中の「國王(こにきし)」の「きし」は尊称、「千字文」はこの時は未だ成立していなかったとあり、「手人韓鍛」は『工人である朝鮮の鍛冶人』、「呉服」は『大陸風の織物工』、「うらげて」は『浮かれ立って』、「事無酒咲酒」は『事のない愉快な酒。平安無事をもたらし、自然に笑をもよおす酒の意』、「大坂」は『二上山の北側を越える道、つまり穴虫越え』とある。この『穴虫越え』とは現在の大阪府南河内郡太子町春日と奈良県香芝市穴虫の府県境にある標高百四十メートルの穴虫(あなむし)峠を指す。

「日本の山水庭園の造り方に關するコンダア氏の無比な論文と、日本の花の裝飾の技術に關する同氏の美しい本」前注「コンダア氏」を参照されたい。

「モオルスの日本の家庭に載つて居る簡單ではあるが面白い一章」お雇い外国人でアメリカの動物学者エドワード・シルヴェスター・モースEdward Sylvester Morse 一八三八年~一九二五年)の“Japanese Homes and Their Surroundings”(日本人と家屋とその環境)の第六章の「庭園」を指す。ハーンが好意的に書いているように、非常に勘所を摑んだ良く書けた面白いパートである。モースもハーンと同じく古き日本を愛したキリスト教嫌いであったところもハーンが共感を覚えた由縁であろう(モースの方が十二歳年上)。モース日本その日その日」(石川欣一訳電子化注ている(作業中)。モースの事蹟は以下を参照されたい。

「レイン博士」の原文綴りと、日本での主な調査内容及び「たゞ二ケ年を日本で費やしただけ」から、ドイツの地理学者ヨハネス・ユストゥス・ライン (Johannes Justus Rein 一八五三年~一九一八年)のことである。ウィキの「ヨハネス・ユストゥス・ラインによれば、『ヘッセンのラウンハイムに生まれ、ギーセン大学において植物学並びに科学を勉強した。その後フランクフルト・アム・マイン、ドルパート及びバミューダ諸島で教職に就き、イギリスも訪問した』。明治七(一八七四)年に『プロイセン王国政府の命により、日本の工芸調査を名目に来日。工芸研究のかたわら、北海道を除く日本各地を旅行し、地理や産物を調査する。ラインを日本に送りこんだプロイセン政府の意図は、「当時ヨーロッパで人気のあった漆器をプロイセンでつくる」「堅牢な塗料としての漆を兵器のサビ止めとして利用する」ために、ウルシノキを持ち帰らせようというものであった。結果としてこの目論みは失敗に終わった』。同年七月、『白山の自然と白山信仰について調べるために白山登山を行う。その帰路に石川県白峰村(現白山市)に立ち寄り、手取川右岸の当時「大崩れ」と呼ばれていた地点で、十数個の植物の化石を拾い、友人のガイラー(H. Th. Geyler)に調査を依頼した。ガイラーは、この化石がジュラ紀中期ごろのものであることをつきとめ』、一八七七年(明治十年)に論文にまとめて発表している。この地点はのちに「桑島化石壁」と呼ばれ、昭和三二(一九五七)年には『手取川流域の珪化木産地として国の天然記念物の指定を受けた。また、化石壁の裏側をくりぬいて作られたトンネルには、ラインの功績を称え「ライントンネル」の名が与えられている』。二年後の明治九(一八七六)年に『帰国し、マールブルク大学地理学教授に就任』、一八八三年には『ボン大学地理学教授に就任。西園寺八郎(西園寺公望の娘婿)ら、多数の日本人留学生の世話をした。ボンで没した』とある。なお、ここでハーンが批判している著作が何であるかは不詳。]

 

 

Sec. 2

Now a few words upon Japanese gardens in general.

After having learnedmerely by seeing, for the practical knowledge of the art requires years of study and experience, besides a natural, instinctive sense of beautysomething about the Japanese manner of arranging flowers, one can thereafter consider European ideas of floral decoration only as vulgarities. This observation is not the result of any hasty enthusiasm, but a conviction settled by long residence in the interior. I have come to understand the unspeakable loveliness of a solitary spray of blossoms arranged as only a Japanese expert knows how to arrange it not by simply poking the spray into a vase, but by perhaps one whole hour's labour of trimming and posing and daintiest manipulation and therefore I cannot think now of what we Occidentals call a 'bouquet' as anything but a vulgar murdering of flowers, an outrage upon the colour-sense, a brutality, an abomination. Somewhat in the same way, and for similar reasons, after having learned what an old Japanese garden is, I can remember our costliest gardens at home only as ignorant displays of what wealth can accomplish in the creation of incongruities that violate nature.

Now a Japanese garden is not a flower garden; neither is it made for the purpose of cultivating plants. In nine cases out of ten there is nothing in it resembling a flower-bed. Some gardens may contain scarcely a sprig of green; some have nothing green at all, and consist entirely of rocks and pebbles and sand, although these are exceptional. [1] As a rule, a Japanese garden is a landscape garden, yet its existence does not depend upon any fixed allowances of space. It may cover one acre or many acres. It may also be only ten feet square. It may, in extreme cases, be much less; for a certain kind of Japanese garden can be contrived small enough to put in a tokonoma. Such a garden, in a vessel no larger than a fruit-dish, is called koniwa or toko-niwa, and may occasionally be seen in the tokonoma of humble little dwellings so closely squeezed between other structures as to possess no ground in which to cultivate an outdoor garden. (I say 'an outdoor garden,' because there are indoor gardens, both upstairs and downstairs, in some large Japanese houses.) The toko-niwa is usually made in some curious bowl, or shallow carved box or quaintly shaped vessel impossible to describe by any English word. Therein are created minuscule hills with minuscule houses upon them, and microscopic ponds and rivulets spanned by tiny humped bridges; and queer wee plants do duty for trees, and curiously formed pebbles stand for rocks, and there are tiny toro perhaps a tiny torii as well in short, a charming and living model of a Japanese landscape.

Another fact of prime importance to remember is that, in order to comprehend the beauty of a Japanese garden, it is necessary to understand or at least to learn to understand the beauty of stones. Not of stones quarried by the hand of man, but of stones shaped by nature only. Until you can feel, and keenly feel, that stones have character, that stones have tones and values, the whole artistic meaning of a Japanese garden cannot be revealed to you. In the foreigner, however aesthetic he may be, this feeling needs to be cultivated by study. It is inborn in the Japanese; the soul of the race comprehends Nature infinitely better than we do, at least in her visible forms. But although, being an Occidental, the true sense of the beauty of stones can be reached by you only through long familiarity with the Japanese use and choice of them, the characters of the lessons to be acquired exist everywhere about you, if your life be in the interior. You cannot walk through a street without observing tasks and problems in the aesthetics of stones for you to master. At the approaches to temples, by the side of roads, before holy groves, and in all parks and pleasure-grounds, as well as in all cemeteries, you will notice large, irregular, flat slabs of natural rock-mostly from the river-beds and water-worn-sculptured with ideographs, but unhewn. These have been set up as votive tablets, as commemorative monuments, as tombstones, and are much more costly than the ordinary cut-stone columns and haka chiselled with the figures of divinities in relief. Again, you will see before most of the shrines, nay, even in the grounds of nearly all large homesteads, great irregular blocks of granite or other hard rock, worn by the action of torrents, and converted into water-basins (chodzubachi) by cutting a circular hollow in the top. Such are but common examples of the utilisation of stones even in the poorest villages; and if you have any natural artistic sentiment, you cannot fail to discover, sooner or later, how much more beautiful are these natural forms than any shapes from the hand of the stone-cutter. It is probable, too, that you will become so habituated at last to the sight of inscriptions cut upon rock surfaces, especially if you travel much through the country, that you will often find yourself involuntarily looking for texts or other chisellings where there are none, and could not possibly be, as if ideographs belonged by natural law to rock formation. And stones will begin, perhaps, to assume for you a certain individual or physiognomical aspect to suggest moods and sensations, as they do to the Japanese. Indeed, Japan is particularly a land of suggestive shapes in stone, as high volcanic lands are apt to be; and such shapes doubtless addressed themselves to the imagination of the race at a time long prior to the date of that archaic text which tells of demons in Izumo 'who made rocks, and the roots of trees, and leaves, and the foam of the green waters to speak.

As might be expected in a country where the suggestiveness of natural forms is thus recognised, there are in Japan many curious beliefs and superstitions concerning stones. In almost every province there are famous stones supposed to be sacred or haunted, or to possess miraculous powers, such as the Women's Stone at the temple of Hachiman at Kamakura, and the Sessho-seki, or Death Stone of Nasu, and the Wealth-giving Stone at Enoshima, to which pilgrims pay reverence. There are even legends of stones having manifested sensibility, like the tradition of the Nodding Stones which bowed down before the monk Daita when he preached unto them the word of Buddha; or the ancient story from the Kojiki, that the Emperor O-Jin, being augustly intoxicated, 'smote with his august staff a great stone in the middle of the Ohosaka road, whereupon the stone ran away!' [2]

Now stones are valued for their beauty; and large stones selected for their shape may have an aesthetic worth of hundreds of dollars. And large stones form the skeleton, or framework, in the design of old Japanese gardens. Not only is every stone chosen with a view to its particular expressiveness of form, but every stone in the garden or about the premises has its separate and individual name, indicating its purpose or its decorative duty. But I can tell you only a little, a very little, of the folk-lore of a Japanese garden; and if you want to know more about stones and their names, and about the philosophy of gardens, read the unique essay of Mr. Conder on the Art of Landscape Gardening in Japan, [3] and his beautiful book on the Japanese Art of Floral Decoration; and also the brief but charming chapter on Gardens, in Morse's Japanese Homes. [4]

 

1 Such as the garden attached to the abbots palace at Tokuwamonji, cited by Mr. Conder, which was made to commemorate the legend of stones which bowed themselves in assent to the doctrine of Buddha. At Togo-ike, in Tottori-ken, I saw a very large garden consisting almost entirely of stones and sand. The impression which the designer had intended to convey was that of approaching the sea over a verge of dunes, and the illusion was beautiful.

2 The Kojiki, translated by Professor B. H. Chamberlain, p. 254.

3 Since this paper was written, Mr. Conder has published a beautiful illustrated volume,-Landscape Gardening in Japan. By Josiah Conder, F.R.I.B.A. Tokyo 1893. A photographic supplement to the work gives views of the most famous gardens in the capital and elsewhere.

4 The observations of Dr. Rein on Japanese gardens are not to be recommended, in respect either to accuracy or to comprehension of the subject. Rein spent only two years in Japan, the larger part of which time he devoted to the study of the lacquer industry, the manufacture of silk and paper and other practical matters. On these subjects his work is justly valued. But his chapters on Japanese manners and customs, art, religion, and literature show extremely little acquaintance with those topics.

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