フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (七) | トップページ | 北條九代記 卷第七 北條時賴元服 付 弓矢評論 »

2015/10/14

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十三章 第二十四章 甲山の洞窟 (全)

 第二十四章 甲山の洞窟

 

[やぶちゃん注:ここのモースの叙述には以下に述べるような、モース自身の錯誤による大きな問題があるので、最初に注を附しておくこととする。

 まず、ここで言う「甲山の洞窟」とは、現在の埼玉県比企郡吉見町にある黒岩横穴墓群を指す。以下、ウィキの「黒岩横穴墓群」によれば、『灌漑用の人工沼である八丁湖の北側、公園のはずれにある。凝灰岩の岩山の斜面に多数の穴が空いている。古墳時代中~後期に造られたものと推定されているが、学術的な調査がほとんどなされていないため、詳細は不明である』。『地元では「十六穴」と呼ばれることもある。これは』、明治一〇(一八七七)年に『地元の有志により、初めて』十六基の『横穴が発見・発掘されたことに由来する。現在では』、三十個以上の『穴の存在が確認されている』。『観光施設ではなく、公園とは低い柵で仕切られているだけなので、穴がある岩山には容易に近づくことができる。ただし、十分な管理がなされているわけではなく、季節によっては周囲に草木が生い茂る』。ここから約二・五キロメートル南西には、『著名な群集墳の吉見百穴(国の史跡)がある』が、『黒岩横穴墓群は吉見百穴よりも大規模で』、現在、五百個以上の『穴があるのではないかと推測されているが、十分な調査はなされていない。また、そのほとんどが未発掘のため、保存状態は吉見百穴に比べきわめて良好と考えられている』とある。ウィキ嫌いのアカデミストのために、吉身町公式サイト内の「観光・文化財」にある「黒岩横穴墓群」も引くと、県指定史跡(ウィキの記載では。大正一四(一九二五)年三月三十一日指定)で、『古墳時代後期~終末期に造られたと考えられるが詳細は不明である。吉見丘陵の北東部に位置する八丁湖に隣接しており、その範囲は、百穴谷・首切り谷・地獄谷・神代谷などに分布していると言われる。この横穴墓群を「十六穴」と呼ぶこともあるが、これは』、明治十年に地元の有志によって十六基の『横穴墓が発見・掘削されたことに由来する。現在では』、三十数基の『横穴の存在が確認されているが、この一体の斜面には多数の横穴墓が埋蔵しており、国指定史跡である吉見百穴よりも大規模で良好に保存されていると云われている。その総数は』五百基以上と推定される、とある。

 さて、以下、ここでモースの錯誤――彼は、この現在では黒岩横穴墓群と呼ばれている古墳遺跡を二度目の来日の終り頃の明治一二(一八七九)年八月十一日に最初に訪問して調査し(離日は翌月九月三日)、三年後の三度目の来日の明治一五(一八八二)年の十月八日にも再度、訪れているのであるが、最初の訪問が「日本その日その日」には書かれておらず、しかもモースは以下の二度目の訪問の際の体験を一度目とごっちゃにして書いてしまっているのである――を明らかにするためには、どうしても磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」からの二箇所の引用が不可欠である。かなり分量があるが、本章を読み解く上で必須の内容と判断し、敢えて引用させて戴く。まず、明治一二(一八七九)年の第一回の調査の箇所である。

   《引用開始》

 八月の中旬、モースは武蔵国冑(かぶと)山(現東松山市)の横穴調査に赴いた。この横穴は、有名な音量白穴の東北に位置し、明治十年十一月に、武蔵松山の好古家で南山村区長の根岸武香たちが初めて発掘し、今日黒岩横穴墓群と呼ばれるものである。

 金井塚良一著『吉見百穴横穴古墳群の研究』所載の文書や、他の資料によると、この黒岩横穴をモースは、このときと明治十五年十月の二度訪問していることが明らかである。ところが、『その日』では両件を混同し、すべて明治十五年のことにしてしまって、文中の年月日や記載をいくつか誤り、最初の冑山行に同行した宮岡恒次郎の回顧談も、それに惑わされて月日を誤っている。

 第一回、つまりこのときの冑山行については、外務省外交史料館所蔵の『外国人内地旅行雑件 三』中に、明治十二年八月四日付で、「学術上実験ノ為メ、来ル十日ヨリ往復壱週間ヲ期シ埼玉及ビ群馬県下ヲ経歴帰京」という東大からの申請書がある。これと『吉見百穴横穴墓群の研究』中の資料、ならびに宮岡の実兄竹中八太郎の手紙(明治十五年九月十八日付宮岡家蔵)を併せると、次のような旅程だったとわかる。竹中八太郎(成憲)は、元治元年(一八六四)の生まれで、明治八年に慶応義塾に入り、ついで東京外国語学校を経て、明治十三年東京大学医学部に入学。同二十年卒業とともに軍医となったが、のち開業。大正十四年没。実弟宮岡とともに、モースだけでなくフェノロサの通訳もつとめ、しばしば旅行にも同行した人である。

 さて、東京を出発したのは八月十日、竹中と宮岡の兄弟二人が案内役だった。一行は中仙道経由で川越に到着、その夜は兄弟の伯父宮岡友次郎の家に泊った。翌日川越を出て冑山に向い、黒岩横穴を探訪したが、残念ながらモースは黒岩横穴について詳しい記載を残さなかった。ついで一行は根岸武香宅に一泊した。このとき根岸は自分が集めた土器や石器の類をモースに見せた。[やぶちゃん注:中略。根岸武香は冑山黒岩古墳群を最初に発掘した一人で、ここには根岸が収集品をモースから賞賛されて発奮ことが記され、根岸が考古学にさらに熱を入れることとなったという引用書の前に書かれた部分への指示がある。]

 翌朝モースは南山から熊谷に向い、竹中および宮岡の実父、竹中周則[やぶちゃん注:「ひろのり」と読むか。]の家に泊った。この熊谷でモースは講演をしているが、これは冑山へのモース来訪を知った地元の人々の頼みによるものだった。その発起人の一人だった林有章[やぶちゃん注:これは埼玉県北・中葛飾や北埼玉の郡長などを歴任した熊谷出身の政治家林有章(はやしありあきら 安政六(一八五九)年~昭和二〇(一九四五)年)のことと思われる。]は、

 「明治十二年八月十三日、米国人モールス博士を招碑して講演会を開いたのが、熊谷では外国人の講演の最初である。(中略)会場は石上寺内にあつた熊谷乙中教院であつて外国人の演説があるとて傍聴人も相当に詰込んだものである。モールス博士は二時間に余る熱心なる講演をせられた。(中略)その説く処は有史以前の事より人間の進化を論ぜられたのであつた。それ故傍聴人の多くはけゞんな顔をして聴いて居たのである」

と、その模様を伝える。このときの通訳は当年十三歳の宮岡であった。

   《引用終了》

 以上は「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」第二十九章「日本との別れ」の二五七頁から二五九頁。以下は第三十二章「日本からヨーロッパヘ」の二八〇頁から二八一頁。

   《引用開始》

 帰京[やぶちゃん注:先の陶器蒐集を主目的とした関西旅行からの意。]したモースの次の目標は冑山の黒岩横穴を再訪することであった。その打ち合わせのため、彼が九月十七日に本郷で竹中八太郎と会ったことが、川越の従姉に宛てた竹中の手紙(宮岡家蔵)からわかる。その打ち合わせに基づいてモースとビゲローが東京を離れたのは十月六日、その日は白子(現和光市)で一泊。七日朝白子を発ち、川越街道経由で川越へ。川越に住む宮岡の伯父の家で昼食、夕方冑山に到着。前の訪問のときと同じく根岸武香宅に泊り、八日朝に黒岩横穴を訪問、ついで一行は川越に戻り、宮岡宅に泊る。前に指摘したように、『その日』の記述が前回の南山訪問と今回のそれを混同しているのでわかりにくいのだが、モースはこのとき竹中の頼みにより、川越で「日本の古人種」と題して講演したようである。翌朝モースは川越の氷川神社を訪れ、同神社の詞官[やぶちゃん注:「しかん」と読む。明治期の神社制度に於ける、各地域の官社でない諸社を統括した長官職の総称。]山田衛居(もりい)に会った。山田の日記によると、山田は大宮氷川神社の境内で出土した土器片をのちにモースに贈り、モースはこれに礼状を寄せている。彼はこのあと、川越の製糸工場(武陽館?)と成田山川越別院にも立ち寄った。

   《引用終了》

文中に出る宮岡恒次郎も宮岡の実兄竹中八太郎(成憲)もともに「日本その日その日 緒言」ので既注ある。

 以上、磯野先生の記載を念頭に置かれて以下をお読み戴くようお願い申し上げる。]

 

 八月六日。午後ドクタア・ビゲロウと私とは竹中を通弁として伴い、東京から四、五十マイルさきの甲山(かぶとやま)に根岸氏を訪問し、彼の住居に近い或種の洞窟を見るために東京を出発した。その夜我々は小村白子で送った。我々の部屋は本当の滝のある古風な小庭に面していたので、我々は滝の音を子守歌として眠入った。晩方には食事の時お給仕をつとめた娘が二人来て、我々と一緒に遊んだ。こんなに気のいい、元気な、よく笑う召使いは、世界中どこへ行っても見出し得まい。彼等はいつでもお客様達を、機智と諧謔とでもてなす心ぐみでいるが、而も一刻たりともお客様に狎(な)れることをなさぬ。

 

 翌朝は九時に出発し、今迄に日本のどこで経験したものよりも一番気持のよい人力車の旅をした。涼しい日で、太陽は雲にかくれていたが、而も雨模様ではなかった。正午川越に着き、竹中の伯父さんの家で食事をした。この人は主要街に金物店を開いているので、我々は小さな店を通りぬけ、後方にある、おきまりの庭を控えた気持のよい部屋へ通された。家族は我々によく気をつけてくれたが、外国人をもてなしたのは初めてなのである。心からなる訣別の言葉に送られて、我々は甲山へ向った。

 

 我々は東京から人力車一台について二人ずつの車夫を連れて来たが、これは旅程をはかどらす上に於て、またそれを愉快にする上に於て、非常な相違を来たす。道路のある部分は、最近の雨のお陰で泥深く、また我々が越したある広い河では、先頃の大水のあとが、現在の水準よりも十五フィート乃至二十フィート高いところに見られた。渡船場に近い家々は、棟まで水にひたったのである。根岸氏の所有地を去る半マイルのところ迄来た時、一人の紳士が出迎えて、丁寧に根岸氏が我々を待ち受けていると伝えた。更に根岸氏の家に近づくと、三人の紳士と根岸氏の独り息子とが、道路に出て我々を待っていた。我々は直ちに人力車から下り、彼等と最も形式的なお辞儀を交換し、そして彼等はいい勢で人力車を走らせる我々の後を急いで追った。家の門口へ来ると根岸氏が家族の数名の召使いとを従えて立ち、お辞儀をしながら我々を愉快に、懇切にむかえてくれた。我々は直ちに広々とした内庭を横切り、庭にある、独立した家になっている、一続きの部屋へ案内された。すべてが完全に清潔で美しく、殊に内庭は、我我の靴の踵が、平坦で固い土地に痕をつけたことが気になる位清浄であった。

[やぶちゃん注:「十五フィート乃至二十フィート」四・六メートル或いは六・一メートルほど。

「半マイル」八百四・五メートル。]

 

 間もなく晩餐が供され、ドクタアと私とは、それが日本で味ったうちで最も美味なものであることに同意し合った。この上もなく結構な吸物類や、元気をつけるような刺身があったが、此頃はドクタアも生魚が非常に好きになって来た。後から我々は、根岸氏が十五マイルさきから有名な料理人を呼んだということを知った。我々が食卓を離れた時はもう遅く、襖の上に稀に見る彫刻があり、すべて完全な趣味を示す、大きな立派な部屋には、絹の布団が寝床として、すでに敷いてあった。我々が占めた客家は、広い内庭を取りまく、不規則に並んだ建物の一部分を構成していた。それは独立した家屋で、他のものと同じく、建ってから殆ど三百年になる。屋根の葺材は特別な種類の藺(い)で、高価ではあるが五十年以上ももつという。木材の棟木その他の部分は黒く塗ってあり、全体の構造が非常に手奇麗に、精巧に出来ている【*】。

 

 

 *母屋、台所、内部のこまかい絵は『日本の家庭』に出ている。

[やぶちゃん注:「十五マイル」約二十四キロメートル。腕のよい板前で東松山からこの距離だと、大宮辺りが候補になるか。

「三百年」単純に明治一五(一八八二)年からだと、天正一〇(一五八二)年で本能寺の変の年である。]

 

 翌朝、誰よりも早く起きた私は、畳敷内を沢山写生した。各種の建物に取りかこまれた内庭は、武士ではないが、普通の農夫階級の上に位する、富裕な農民階級の住居としては、典型的なものである。朝食後我々は、根岸氏が附近で蒐集した、千二百年以上も経過する陶器を見た。それ等は淡赤色のやわらかい陶器と、古い墳墓でよく発見される、固い青灰色の陶器との二種であった。私は今迄に、こんなに静穏な、魅力に富んだ人々が、この世に存在するとは、夢にも思わなかった。彼等のどの言葉にも行為にも、上品さと陶冶とが見られ、衒うところも、不自然な隔意もなく、我々に対する心づかいも、気安く、同情を以て与えられた。八十になる根岸氏の母堂は、私の席が彼女に隣っていたことに興味を持ち、通弁を通じていろいろな質問をしたが、それは皆筋の通ったものだった。彼女の興味の深い質問は、我国の上品で教養のある貴婦人が、日本人に聞くであろうと思われるようなものであった。それ迄、家の中に外国人が入ったことは一度も無く、この僻遠の村にあっては、外国人を見るのでさえも、稀な出来ごとである。暑い日で、どこででも私が坐ると二人の令妹が扇いでくれたが、彼等の恥しそうな、半分恐しそうな態度は、一寸珍しいものであった。が、とにかく、これは気持のよい習慣である。

[やぶちゃん注:「千二百年以上も経過する陶器」単純計算なら千二百年前は六百八十二年で天武天皇十一年で、それよりももっと前の謂いであるから、古墳時代末期(六世紀の末)の土器片か。但し、示されている初期の青磁器片らしきものは鎌倉時代以降のものであろう。

「八十になる根岸氏の母堂」正確な数えならば、彼女は享和三(一八〇三)年生まれである。

「隣っていた」「となりあっていた」と訓じておく。]

 

 魅力に富んだ主人役の人々に別れをつげるすぐ前、車夫が待っている時に、根岸氏は内庭を横切って、向うにある小さな部屋へ行き、私には彼が忙しげに何か書いているのが見えた。私は彼が我々に托して東京へ持って行く手紙を書いているのだろうと思った。然るに驚いたことには、それは私に宛てた手紙で、さよならをいう時私に渡された。これは古い日本の習慣で、我国でも真似してよいことである。手紙を翻訳すると次のようになる。

 

 

  日本武蔵(むさし)甲山

  明治十二年八月八日

 拝啓 あなたのお名前を東洋日本島上で耳にし始めてから長いことになりますが、私はあなたが武蔵国大里郡と横見郡との間にある洞窟を調べに来られるとは思っていませんでしたし、また三百年前に建てられた私の小屋にあなたをむかえるの光栄を持ち、あなたに古い陶器や石器をお目にかけるの愉快を持つであろうとも考えていませんでした。今、我々が三十年前の我国の有様に眼を転ずる時、我々は何を見るでしょうか。我々の島の人々も、また海の向うの人々も、お互をうたがい合わねばならなかったことを見ますが、今日我々の友情は、私があなたと共に日を送ることが出来る程度まで達しています。この理由で私は私の筆が、辷ることを許し、我々の両国間に存在する深い友情の故を以て、私はあなたの長く、そして継続的な御繁栄を祈ります。

 敬意を以て、あなたの友人

                T・根岸

[やぶちゃん注:なんと、素晴らしい別れの手紙であることか!――モース先生、哀しいことに我々日本人は、こうした美しい習慣を既に殆ど、すっかり失ってしまいつつあるのです……

「大里郡」「おおさとぐん」と読む。現在も寄居町(よりいまち)を含む郡としてある。この頃は現在の深谷市全域と熊谷市や鴻巣市などの一部を含む広域であった(ウィキ大里郡」に拠る)。

「横見郡」現在の比企郡吉見町。古くは熊谷市の一部(旧大里郡吉見村)も含まれていた(ウィキの「横見郡に拠る)。

「三十年前の我国の有様」単純計算なら嘉永五(一八五二)年。この年の十一月にペリー提督は大統領国書を持って日本に向けて出航している。根岸は暗に攘夷を叫んだ幕末を指しているように思われる。]

 

 

 我々は洞窟に向った――日は照って暑く、また路も長かった。根岸氏の可愛らしい小さい子息は、私につききりで、路傍に見えるいろいろな物を説明して、私をもてなしてくれ、その会話のある物は、私に了解出来た。彼は完全な小紳士で、彼の父親の大きな土地をつぐ位置にある者としての責任を、感じているらしく見えた。暴風雨でこわれた橋は修繕してあり、我々の要求や安慰に対しては、最も行きとどいた注意が払われてあった。前の日、根岸氏ほ洞窟に通ずるすべての小径を切りひらかせたので、我我は非常に楽に洞窟を見ることが出来、充分な記録を取った。洞窟は崖の面にあり、もとは埋葬窟であったが、その後何度も避難民がそこに住った。遺物類は、すべて、大分前に無くなって了った。

 

 午後、我々は川越へ向って出発した。そこでは、竹中の親類と共に一夜を送ることになっていた。根岸氏と彼の友人達とは、しばらくの間彼等の人力車で我々を送って来、別れる時には礼儀正しい訣別をなした。

 

 再び路上に、そして又しても完全な一日と、変化に富んだ景色と! 日本に於るすべての道路の中で、川越経由の東京・甲山間の道路が、最も変化に富み、景色がいいように思われる。それは庭園みたいであった。あちらこちらの繁茂した農場、驚くべき富士を向うに、ひろびろとした稲田、美しい古い百姓家、丁寧な人々。我々は学校を出て来たばかりの子供の一群に出合ったが、彼等は路の側に立ち、我々が前を過ぎると丁寧に頭を下げた。私は子供達の同様な行為を、薩摩と、京都の製陶区域とで見た。

M692

図―692

 

 その夜を送る可き川越へ着いて見ると、竹中氏が私に、日本の古代民種に関する講演をさせる手筈をきめていた。黒板のたすけをかりて、私は貝墟その他の古代民種の証例を説明した。図692は講演の公告の接写で、私が出しなに料理屋から取って来たものである。我々は真夜中まで起きていて、家族と一緒に遊んだが、竹中の従姉妹である二人の娘と、家族の面々とが心からこの遊びに加ったのは気持よかった。臼の上に、片足を片足の上に平衡させて坐り、一つの蠟燭から他の蠟燭に火を点じるというのが、最も大騒ぎだった。我々は川越へ来た最初の外国人なので、一人の婦人が単に我々を見る丈の目的で、この家へやって来た。彼女はいとも丁寧にお辞儀をした上、十年前、特に外国人を見るため横浜へ行ったことがあるが、それ以来、一人も見ていないといった。翌朝は竹中の伯父さんが、我々の朝飯の最も択り抜きの部分を料理してくれた。これは前夜の晩餐についても同様だった。竹中は伯母さんから、瓶に一杯入れた煮た螇蚸(ばった)を、御飯につけてお上りとて貰った。ドクタアと私とはそれを何匹か食って見たが、小海老に似た昧で、中々美味だった。螇蚸を副食物として食うのは、この地方では普通のことで、我国でも螇蚸をこのように利用出来ぬ訳は無いと思う。我国のあたり前の螇蚸と、一見すこしも違っていない。日本人はそれを醬油と砂糖と少量の水とで、水気が殆ど無くなって了う迄煮る。朝食後我々は、我国の田舎の会堂に相当する、小さな寺院を訪れた。その内部は最も美しく、そして精巧な彫刻のある貴重な陳列室みたいで、その彫刻のどの一片でも、我国では美術館の、板硝子(ガラス)を張った中に陳列されるであろう。我国の田舎の教会に、芸術品となすべきどんな物があるだろうかと考えた私は、事実何も無いのに、今更ながら吃驚した。我々はまた五、六十人の娘が、繭(まゆ)から絹糸を操っている、大きな建物に行って見た。工場を通って行くと、慎み深いお辞儀と、よい行儀の雰囲気とが、我々をむかえた。

[やぶちゃん注:「螇蚸」原文は“grasshoppers”。謂わずもがな乍ら、「いなご」(蝗。直翅(バッタ)目雑弁(バッタ)亜目イナゴ科 Catantopidae のイナゴ亜科 Oxyinae・ツチイナゴ亜科 Cyrtacanthacridinae・フキバッタ亜科 Melanoplinae に属するバッタ類の総称であるが、分類上では雑弁(バッタ)亜目バッタ下目バッタ上科バッタ科 Acrididae に含めてイナゴ科独立させない考え方もある)の佃煮である。英語でイナゴは“locust”であるが、これは広くバッタ類も指す。因みに“locust”はラテン語で「跳ねるもの」の意と英和辞典にはある。

「小さな寺院」不詳。川越というと喜多院であるが、私は行ったことがなく、またあそこなら境内の五百羅漢像をモースは洩らすはずがないとも思われる。識者の御教授を乞う。

「我々はまた五、六十人の娘が、繭から絹糸を操っている、大きな建物に行って見た」最初に引いた磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」では『武陽館』か、とあるもの。ここは日本の国産絹織物の唐桟織(とうせんおり/とうざんおり)の祖とされる川越の実業家中島久平(きゅうへい 文政八(一八二五)年~明治二一(一八八八)年)が明治一四(一八八一)年に内国勧業博覧会の建物を購入して川越六軒町に建てた唐桟織大工場である。ウィキ中島久平では、『翌年にエドワード・S・モースもそれを見学し、モースは日記に「行儀の良い雰囲気」と記している』と、モースが訪れたのをここと断定している。]

 

 急いで昼飯を済ますと、我々の主人役は、弟と二人の姪と共に、人力車で我々を町はずれまで送って来、そこの小さな茶店で別れのお茶を飲み、別れを告げた。町から出て来る途中、我々はある寺院を訪れたが、そこには高さ六フィートを越え、直径は三フィートもある巨大な縄のどくろを巻いた物があった。これは人の頭髪でつくったのである。天井からは、ある種の起請の誓約としてささげた、或は贖罪供物であるところの、女の毛髪や弁髪が多数ぶら下っていた。

[やぶちゃん注:この寺も不詳である。御情報提供をお待ち申し上げるものである。

「高さ六フィートを越え、直径は三フィート」高さ一・八メートルを越える、直径が九十一センチメートルもある人毛の巨大なとぐろである。]

 
 
M693

図―693

 

 図693は木造で、鉄を尖端にかぶせた面白い匙鍬(シャベル)を示したものである。匙鍬の部分は長さ三フィートを越え、柄は七フィートある。これはこの国(武蔵)の西部で使用され、犂(すき)の役目をつとめるらしく思われる。日本にあっても、米国と同じく、古い家の用材が大きくて重々しいのは、面白いことである。昔は材木が安く、また恐らく、よりすくない材料で、同様に強い枠をくみ立てる知識が、足りなかったからであろう。旅行者は屢々、田舎の家や旅館の木の床、殊に一階への階段が、ピカピカ光っているのに気がつく。私が聞いたところでは、この光輝は使用後の風呂の水で床を洗うことが原因している。つまり使用後の風呂水に含まれる油脂分が、この著しい艶を出すのである。

[やぶちゃん注:この最後の部分、目から鱗!

「七フィート」七・一メートル。]

« 小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (七) | トップページ | 北條九代記 卷第七 北條時賴元服 付 弓矢評論 »