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2015/10/07

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十二章 日ノ御崎にて (三)

       三

 

 私に取つて日ノ御崎神社の大なる驚異は、こんなに大きく、また維持に費用のかかる建物が、日本の最も荒寥たる海岸に於ける、僻隅の一漁村に存在し得るといふことだ。たしかに百姓の參拜者の賽錢だけでは、一人の神官の俸給を拂ふにも足りないだらう。といふのは、杵築と異つて、こゝは平常どんな天氣にでも參拜が出來る場所ではないからだ。私の友は私のこの意見を確認した。が、私は彼から、この神社には三つの大きな財源があることを聞いた。こゝには政府からの補助がある。毎年信心深い商人から多額の寄附金がある。また所有の士地からの收入も莫大の金高である。最近に於ても、餘程の金が使はれたに相違ない。小さな方の宮は此頃再築されたれたばかりのやうに見える。美しい指物細工は悉く新しく白い。また大工仕事の木の香のする屑片さへ、まだ、全部片付けてはなかつた。

 

 社務所で日ノ御崎神社の宮司に御目にかかつた。壯年な、働き盛の、氣高き容貌の人で、日本の身分の高い貴族の間でなくては、滅多に見受けない立派な尖つた顏である。どつさり黑髭が生えてゐて、神官の裝束を着けながら、退職軍人の趣がある。私共は社殿參拜の懇許を與へられた。また案内役として特に一名の神主を附せられた。

 杵築大社の嚴正なる質素の趣を見ることと期待してゐたが、この太陽の女神の此祠は非常に壯麗な觀を呈してゐて、初めは眞に神道の社殿であるかを怪しむ位である。實際こゝには純粹の神道式は皆無で、是等の社殿は古代の信仰が佛教に浸染し、それと提携し、外來宗教の華やかな儀式と驚くべき裝飾技術を採用した時代、即ち有名なる兩部神道の時期に屬するのである。東京の大きな佛寺を見てから後、私はこれに比肩すべき社殿の内觀を見たことがない。上品で綺麗なことは文匣のやうである。精緻を極めた木細工は深紅色と黃金色に漆を施され、神壇は彫刻と彩色の珍。天井には雲龍の夢が群がつてゐる。而かも猶、裝飾師――疑もなく五百年前に墓に入つた――の絶妙なる趣味は、極めて正確に裝飾を場面の要求と比例せしめ、旨く色彩を調和せしめてゐるので、ぴかぴかした派手さはなく、唯だたつぷりした落着き纒まつた趣がある。

 この宮は下り庭からは見えない、輕快な外廊で繞らされてゐる。この外廊を巡覽して行くと戸の上と軒の下にある驚くべき彫刻帶――宮の壁を廻ぐつてゐる彫刻帶を眺めることが出來る。西海岸の荒々しい風雨に何百年も曝され乍ら、是等の珍らしい彫刻の傑作は保存されてゐる。猿や兎が驚くべく巧みに刻まれた、木の葉の中から覗いてゐるのもあり、鳩も居れば鬼も居るし、龍が暴風雨の中に悶え苦しんでゐるのもある。これ等のものを仰ぎ見つゝあるうちに、私の眼は大きく突出した檐を組成する木細工の、一種天鵞絨の如き有樣に惹きつけられた。それを葺いた厚さが、一尺以上もある。爪先きで立つと、私はそれに觸れることが出來る。して、見ただけよりも觸はつて見た方が一層滑かであつた。更によく調べてみると、この巨大な屋根は堅い材木でなく、ただ桁だけ堅固だ。桁に支へられてゐる。素晴しい材料は、最も薄い柿板の如き、無數の幅廣い薄片を重ね合せ、接ぎ合せて、一つの堅固さうな塊に作つたものだ。私はこの複合細工は如何なる材木よも、永久的に堅牢だと告げられた。風や日光に曝された緣端は、指で磨滅した大きな書册の紙端のやうな觸感を覺えた。いかにもその斑點を帶びて滑かな黃色がかつた趣は、書册の外觀を呈してゐたので、私の指で少しくそれを分けてみようとして、覺えず知らず最大版本の逐頁冠語(あたまつけ)や號數を覗いて見るやうな氣になつた!

 

 私共はそれから小さな方の宮へ行つた。神聖な室の内部は、同樣に漆塗の裝飾や金塗が豐かである。山の景色を背景とし、前面には狐の群が徜徉せる奇異な繪があつた。しかしこゝでは年代のため稍々色彩が損じ、繪も褪めてゐる。宮の外側にある立派な彫刻は、正殿の彫刻帶を刻んだ人の作に相違ない。

 二つの宮のただ内陣のみ非常に古いのだ、といふことを私は聞かされた。その他の部類は一度ならず再建された。小さな宮と拜殿その内陣を除いて、恰も再築されたばかりで、事實、工事はまだ完成してゐない。だから、神樣の象徴は聖所に安置されて無い。神龕だけは決して修復を加へない。改築が必要となつた時、單に新しい建物の中へ嵌め込むだけである。それを修繕又は復舊することは今日では不可能だらう。それを想像した藝術は既に亡びたから。しかしその材料と漆塗が非常に優秀なので、數世紀を經ても、あまり損傷を受けてゐない。

 

 今一つの驚異が私を待つてゐた――それは私を招いて、食事を共にしてくれた宮司の邸である。この款待は、一層に嬉しかつた。日ノ御崎には旅館は無く、唯だ巡禮者のため木賃宿があるのであつたから。

    註。木賃宿は旅人が米を炊ぐために

    用ひる薪の代だけを拂ふ宿屋である。

 

 宮司の先祖代々の邸宅は、立派な庭園を控へて、社の境内ほどの廣さがある。多くの公卿や武士の古風な屋敷と同じく、平屋造りで、高く築上げた大きな別莊とも云へるが、室は皆高く、濶やかで、綺麗で、百疊座敷も一つある。私共は旨い手輕な食物に、よい酒を澤山添へた饗應を受けた。私は一つの珍異な料理をいつまでも忘れ難い。初めは菠蔆草かと思違ひをした。だが、海草を味よく調理したのであつた。普通の普通の食用海草でなく、苔の如く纎細で、珍稀な種類である。

 

 親切な主人に別れを告げて、私共は村端れまで上つて逍遙して行つた。烏賊を乾したのは後方となつたが、前方は、路面の大部は、莚で蔽はれ、その上に藍が乾してある。村は出の頂上で、急に終點に達する。そこにまた花崗石の大鳥居がある――こんなに巨大な構造のものを、どうして山上へ運んだかを想像するのは、ストーン・ヘンヂ【譯者註】の石を積み上げた方怯を理解することほど困難だ。この鳥居から、道は岬の彼方の側にある綺麗な小さな宇龍港へ下る。日ノ御崎はその名の示す通り、大きな岬――日本海へ突出する一つの山脈――の此方の傾にある譯だ。

    譯者註。英國ソーズベリー平原に遺

    存する有名なる大石環。

 

[やぶちゃん注:「僻隅」「へきぐう」と読む。「僻地」に同じい。都会から遠く離れた片隅の地。

「兩部神道」仏教神道の一つ。「両部習合神道」「大師流神道」ともいう。真言密教と結合して発達した神仏習合の神道説で、主要なものに「御流(ごりゅう)神道」(「真言宗神道」ともいう。弘仁一三(八二二)年に嵯峨天皇が空海から伝授されたのでこの名がある)・「三輪(流)神道」(「三輪大明神縁起」を典拠として大日如来と天照大神の習合を金剛界・胎蔵界の両曼荼羅の理によって説いて神祇灌頂を行なった。御流神道の流れを汲んだ一派)・「立川流神道」(陰陽の二道により真言密教の教理を発展させたもので、男女交合の境地を即身成仏の境地と見なして男女交合の姿を曼荼羅として図現した。淫祠邪教として江戸時代に弾圧されて断絶したとされる)・「葛城神道」(江戸中期の真言宗の僧慈雲尊者飲光 (おんこう)が天明六 (一七八六) 年に河内国葛城山麓の真言律宗高貴寺で創唱した神道。「古事記」「日本書紀」を基本教典として密教の理によって神道を説く)などがある。日本特有の神仏調和の中心的潮流として中世以降、国民の思想と生活に大きな影響を与えた一連の宗教思想といえる(主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「文匣」「ぶんかふ(ぶんこう)」厚紙に漆を塗って作った手箱。書類や小物を入れるのに用いる。手文庫のこと。「匣」は訓では「はこ」「こばこ」と読む。

「五百年前」ハーンの訪れた明治二四(一八九一)年からだと元中八/明徳二年(一三九一)年の南北朝時代に当たる。但し、現在の社殿は徳川家光公の命により再建されたものとされており、寛永一一(一六三四)年に着手、松江藩主京極忠高が寛永一四(一六三七)年に着工、松平直正の代の寛永二一(一六四四)年に完成した、とFukutomi design office の製作になるサイト「島根県名所案内」の「日御碕神社」にはあるから、実際にはせいぜい半分の二百五十年程前というのが正しいことになろうか。

「彫刻帶」原文は“eaves-friezes”でこれは「軒の天井部分の帯状装飾」といった意味になろう。平井呈一氏は『長柄(なげし)彫り』と訳しておられるが、「長柄」は器物や武具の長い柄や、槍・薙刀などの柄の長い器具や武具の意であるから、「長押」の誤りであろう。

「桁」「けた」で、建物・橋などで柱・橋脚などの上に横に渡して上部の構造体を支える横に設置した材を指す。

「書册の紙端」「書册」は「しよさつ(しょさつ)」で書物のことであるから、これは本の小口(こぐち:書物の背の部分を除いた三方の辺。上辺の天、下辺の地、背の反対側の前小口のこと或いは特に最後の前小口を指す。)の前小口の部分に似ていることから比喩的に用いたものである。

「最大版本の逐頁冠語(あたまつけ)や號數」原文“a running-title and the number of a folio”“folio”とはフォリオ判のことで、西洋印刷史に於いて、全紙(裁断されていない印刷用紙)を真ん中から二つに折った最も大きな二つ折り判の大型本のことを指し、「逐頁冠語(あたまつけ)」“running-title”はその本の中の各ページにある「欄外見出し」を、「號數」“the number”はページ番号、即ち、ノンブルをいう。

「前面には狐の群が徜徉せる奇異な繪があつた」「徜徉」は「しやうやう(しょうよう)」と読み、「逍遙」に同じく、気儘に歩き回ることである。「倡佯」とも書く。素戔嗚の眷属としては鴉が知られるようであるが、素戔嗚は天照大神の弟であることから、天照大神の神気を宿した米、その「稲の荷を運ぶ」、稲の育成と伝播を助ける神としての役割を素戔嗚がまさに荷ったと考えれば、稲荷神から狐も眷属となる、ということであろうか。大方の御批判を俟つ。

「款待」「くわんたい(かんたい)」で「歓待」に同じい。手厚くもてなすこと。

「濶やか」「ひろやか」と読む。広々としているさま。

「菠蔆草」「はうれんさう(ほうれんそう)」。無論、ヒユ科アカザ亜科ホウレンソウSpinacia oleracea のことである。

「普通の普通の食用海草でなく、苔の如く纎細で、珍稀な種類」不詳。海藻フリークの私としては幾つかの海藻類を考えてみたが、ハーンがホウレンソウと見誤ったという記載がどうにも同定を邪魔する。識者の御教授を俟つこととしたい。

「藍」狭義には古えより藍染めに利用されるタデ目タデ科イヌタデアイ Persicaria tinctoria を指すが、「藍」と呼ばれやはり藍染めの材料とする植物はキントラノオ目トウダイグサ科ヤマアイ Mercurialis leiocarpa もあるので孰れとも同定はし難い。

「ストーン・ヘンヂ」落合氏も注を附されているが、ストーンヘンジ(Stonehengeはロンドンから西に約二百キロメートルにあるイギリス南部ソールズベリーから、北西に十三キロメートル程の場所にある、知られた先史時代の遺跡である環状列石(ストーン・サークル)を指す。ウィキの「ストーンヘンジ」によれば、『円陣状に並んだ直立巨石とそれを囲む土塁からなり、世界で最も有名な先史時代の遺跡である。考古学者はこの直立巨石』は紀元前二千五百年から紀元前二千年の間に『立てられたと考えている。しかしそれを囲む土塁と堀』に関して言えば、更に紀元前三千百年頃まで遡るとされる。『馬蹄形に配置された高さ』七メートルほどの『巨大な門の形の組石(トリリトン)』五組を中心として、直径約百メートルの円周上に高さ四~五メートルの三十個の『立石(メンヒル)が配置されている。夏至の日に、ヒール・ストーンと呼ばれる高さ』六メートルの『玄武岩と、中心にある祭壇石を結ぶ直線上に太陽が昇ることから、設計者には天文学の高い知識があったのではないかと考えられている。また、当時としては高度な技術が使われており、倒れないよう安定させるため石と石の間には凹凸がある』。『遺跡の目的については、太陽崇拝の祭祀場、古代の天文台、ケルト民族のドルイド教徒の礼拝堂』であったといった、『さまざまな説が唱えられているが、未だ結論はでていない』とある。

「宇龍」日御崎の東にある現在の島根県出雲市大社町宇龍(うりゅう)。七ちょめ氏のサイト「古い町並みを歩く」の出雲市大社町宇龍の町並みに、『北は日本海に臨み、古代より天然の良港として栄え「出雲国風土記」にも宇礼保浦と見える』とあり、以下、詳細な解説と現在の街並みの写真が味わえる。地図リンクも完備しており、ここだけでなく、このサイト全体が必見。]

 

 

Sec. 3

To me the great marvel of the Hinomisaki-jinja is that structures so vast, and so costly to maintain, can exist in a mere fishing hamlet, in an obscure nook of the most desolate coast of Japan. Assuredly the contributions of peasant pilgrims alone could not suffice to pay the salary of a single kannushi; for Hinomisaki, unlike Kitzuki, is not a place possible to visit in all weathers. My friend confirms me in this opinion; but I learn from him that the temples have three large sources of revenue. They are partly supported by the Government; they receive yearly large gifts of money from pious merchants; and the revenues from lands attached to them also represent a considerable sum. Certainly a great amount of money must have been very recently expended here; for the smaller of the two miya seems to have just been wholly rebuilt; the beautiful joinery is all white with freshness, and even the carpenters' odorous chips have not yet been all removed.

 

At the shamusho we make the acquaintance of the Guji of Hinomisaki, a noble-looking man in the prime of life, with one of those fine aquiline faces rarely to be met with except among the high aristocracy of Japan. He wears a heavy black moustache, which gives him, in spite of his priestly robes, the look of a retired army officer. We are kindly permitted by him to visit the sacred shrines; and a kannushi is detailed to conduct us through the buildings.

 

Something resembling the severe simplicity of the Kitzuki-no-oho-yashiro was what I expected to see. But this shrine of the Goddess of the Sun is a spectacle of such splendour that for the first moment I almost doubt whether I am really in a Shinto temple. In very truth there is nothing of pure Shinto here. These shrines belong to the famous period of Ryobu- Shinto, when the ancient faith, interpenetrated and allied with Buddhism, adopted the ceremonial magnificence and the marvellous decorative art of the alien creed. Since visiting the great Buddhist shrines of the capital, I have seen no temple interior to be compared with this. Daintily beautiful as a casket is the chamber of the shrine. All its elaborated woodwork is lacquered in scarlet and gold; the altar- piece is a delight of carving and colour; the ceiling swarms with dreams of clouds and dragons. And yet the exquisite taste of the decorators buried, doubtless, five hundred years agohas so justly proportioned the decoration to the needs of surface, so admirably blended the colours, that there is no gaudiness, no glare, only an opulent repose.

This shrine is surrounded by a light outer gallery which is not visible from the lower court; and from this gallery one can study some remarkable friezes occupying the spaces above the doorways and below the eavesfriezes surrounding the walls of the miya. These, although exposed for many centuries to the terrific weather of the western coast, still remain masterpieces of quaint carving. There are apes and hares peeping through wonderfully chiselled leaves, and doves and demons, and dragons writhing in storms. And while looking up at these, my eye is attracted by a peculiar velvety appearance of the woodwork forming the immense projecting eaves of the roof. Under the tiling it is more than a foot thick. By standing on tiptoe I can touch it; and I discover that it is even more velvety to the touch than to the sight. Further examination reveals the fact that this colossal roofing is not solid timber, only the beams are solid. The enormous pieces they support are formed of countless broad slices thin as the thinnest shingles, superimposed and cemented together into one solid-seeming mass. I am told that this composite woodwork is more enduring than any hewn timber could be. The edges, where exposed to wind and sun, feel to the touch just like the edges of the leaves of some huge thumb-worn volume; and their stained velvety yellowish aspect so perfectly mocks the appearance of a book, that while trying to separate them a little with my fingers, I find myself involuntarily peering for a running-title and the number of a folio!

 

We then visit the smaller temple. The interior of the sacred chamber is equally rich in lacquered decoration and gilding; and below the miya itself there are strange paintings of weird foxesfoxes wandering in the foreground of a mountain landscape. But here the colours have been damaged somewhat by time; the paintings have a faded look. Without the shrine are other wonderful carvings, doubtless executed by the same chisel which created the friezes of the larger temple.

I learn that only the shrine-chambers of both temples are very old; all the rest has been more than once rebuilt. The entire structure of the smaller temple and its haiden, with the exception of the shrine-room, has just been rebuiltin fact, the work is not yet quite doneso that the emblem of the deity is not at present in the sanctuary. The shrines proper are never repaired, but simply reinclosed in the new buildings when reconstruction becomes a necessity. To repair them or restore them to-day would be impossible: the art that created them is dead. But so excellent their material and its lacquer envelope that they have suffered little in the lapse of many centuries from the attacks of time.

 

One more surprise awaits methe homestead of the high pontiff, who most kindly invites us to dine with him; which hospitality is all the more acceptable from the fact that there is no hotel in Hinomisaki, but only a kichinyado [2] for pilgrims. The ancestral residence of the high pontiffs of Hinomisaki occupies, with the beautiful gardens about it, a space fully equal to that of the great temple courts themselves. Like most of the old-fashioned homes of the nobility and of the samurai, it is but one story highan immense elevated cottage, one might call it. But the apartments are lofty, spacious, and very handsomeand there is a room of one hundred mats. [3] A very nice little repast, with abundance of good wine, is served up to us-and I shall always remember one curious dish, which I at first mistake for spinach. It is seaweed, deliciously preparednot the common edible seaweed, but a rare sort, fine like moss.

 

After bidding farewell to our generous host, we take an uphill stroll to the farther end of the village. We leave the cuttlefish behind; but before us the greater part of the road is covered with matting, upon which indigo is drying in the sun. The village terminates abruptly at the top of the hill, where there is another grand granite toriia structure so ponderous that it is almost as difficult to imagine how it was ever brought up the hill as to understand the methods of the builders of Stonehenge. From this torii the road descends to the pretty little seaport of U-Ryo, on the other side of the cape; for Hinomisaki is situated on one side of a great promontory, as its name impliesa mountain-range projecting into the Japanese Sea.

 

2 A kichinyado is an inn at which the traveller is charged only the price of the wood used for fuel in cooking his rice.

3 The thick fine straw mats, fitted upon the floor of every Japanese room, are always six feet long by three feet broad. The largest room in the ordinary middle-class house is a room of eight mats. A room of one hundred mats is something worth seeing.

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