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2015/10/24

柳田國男 蝸牛考 初版(11) 語感の推移

  語感の推移

 

 

 別な言葉でいふならば、マイマイコウシもまたマイマイツブロと同樣に、方言の數多き邊境現象の一つであって、ことにmnの音親近によつて、かなり有力なる支援を、隣のナメクジから得ていたものであつた。蛞蝸二蟲の名を共にする風が、若し私の想像する如く、曾て全國一般的のものであつたとすれば、この複合の各地に偶發したことも、決して意外では無いのである。

[やぶちゃん注:「別な言葉でいふならば」改訂版では『私をして説明せしめるならば』となつている(後の「私」も「我々」と言い換えられている)。この以下の現象解説への批判があった可能性が覗われる。]

 是と同種の複合は、更に又デンデンムシの方にもあつた。たとへば現在知られて居るだけでも、

   デンデンガラモ     能登鹿島郡灘地方

   デンデンガラボ     同 石動山下

   デンデンダイロ     上野群馬郡

   デンデンツブロ     常陸眞壁郡

   デンデンべェコ     陸中釜石附近

   デンデンクツボ     伊勢飯南郡

   デンデンゴォナ     備中連島町附近

   デンデンケェボン    豐前築上郡

などがあつて、何れもその土地限りの蝸牛の一異名であるが、それが附近を征略して一つの獨立した方言領を認められるには、未だ流傳の一條件を具へなかつたのである。之に比べるとマイマイツブロの複合の方は、時期が早かつたか使ふ子供が多かつたか、兎に角に既に若干の文書にも錄せられ、人は却つて田舍に殘つて居るマイマイの方を、其省略であるかの如く思ふ樣にもなつた。併し其推測の正しくないことは、童詞が主として七音節の語を必要としたことを、考へてみたゞけでもわかる上に、別にメエメエクウジやマンマンダイロ等の如く、其上半分を共通にしたものが、端々の地に分散して居るのを見れば、先づ疑ひの餘地は無いのである。さうすると次には如何にして此語が現出したかを知るために、是非とも是を元の單純なる形に復して、ツブロとマイマイとを別に考へる必要があることを、認めないわけには行くまいと思ふ。

[やぶちゃん注:「是と同種の複合は」は改訂版では『二つの單語の複合といふことは』となっている。

「デンデンべエコ」は改訂版では『デンデンべェコ』で以下、「デンデンゴオナ」は『デンデンゴォナ』、「デンデンケエン」は『デンデンケェボン』である。

「能登鹿島郡灘地方」現在の石川県七尾市の内、能登南部の富山湾側の海岸地帯を指す能登灘浦(なだうら)地方のことであろう。

「石動山下」「いするぎやました」と読む。石動山の麓の石川県側である石川県鹿島郡中能登町と七尾市の一部の旧称ととっておく。

「上野群馬郡」群馬県中部の旧郡名。旧郡域は主に前橋・高崎・渋川に及ぶ非常な広域であるが、本書の書かれる昭和五(一九三〇)年の直前には既に郡役所が廃止されており(大正一五(一九二六)年)、離脱編入が激しい。ウィキの「群馬郡」を参照されたい。

「常陸眞壁郡」現在の千葉県筑西市全域及び下妻市と桜川市の一部、結城郡八千代町に相当する。

「陸中釜石附近」岩手県釜石市。

「飯南郡」「いひなんぐん(いいなんぐん)」は三重県の旧郡。現在の松阪市の大部分と多気郡多気町の一部に相当する。

「備中連島町附近」連島(つらじま)は現在の岡山県倉敷市水島(みずしま)の西北部の地域名。改訂版では『つらしま』と清音表記となっている。

「豐前築上郡」福岡県東部の郡。現在は豊前市に含まれる旧角田村も含まれた。

「メエメエクウジ」改訂版では『メェメェクウジ』。]

 

 マイマイといふ語の元の起りは、以前一二の學者も既に推量して居た如く、本來は蝸牛の貝の形、即ちあの卷き方に基づいて附けた名なることは大よそ確かなやうである。蝸牛以外の物の名に、同じマイマイの語を用ゐて居るものは、或は是も小兒の觀察かも知れぬが、第一には淵の水の渦卷がある。中國の田舍などでもさう謂つたかと思ふが、富山縣などでも渦はマイマイであり、又ギシギシ若くはギリギリであつた。三河碧海郡ではこれをギリと謂つて居る。ギリギリといふ語は弘い區域に亙つて、專ら頭の髮の旋毛をさして居るやうだが、その旋毛を土地によつてはマキマキ又はマイマイ、東京などでは多くはツムジと謂つて居る。ところが又一方にはツムジ風と稱して、渦を卷く風をツムジといふ例も普通であり、其ツムジ風を我々は又、子供の頃にはマイマイ風とも呼んで居た。さうするとマイマイが少くとも「卷く」といふ語に因みあることだけは明らかで、ギリギリとツムジとは、如何なる理由があつたかは後の問題として、とにかくに曾てその一つの物の名であつた。それを知らずしてマイマイにツプロを複合させて見ようとする者も出來たが、その最初の意味に於ては、二語は全然同じであつたかも知れない。何にしても蝸牛は其形が錘に似ているからツムリだといふ語原説は怪しいものであつて、錘が日本の纖維工藝に採用せられたらう頃には、既に空と水面とのツムジが有り、人の頭髮にはギリギリが存在し、又蝸牛は既にかのツブラなる貝を背負つてあるいて居たのである。其中でも旋毛は小兒までが髮を後に垂れて居た時代には、今ほどは眼にも立たなかつた筈である。水の渦卷よりも又旋風よりも、更に尚一段と有りふれたマイマイの實例は、恐らく各家の庭の木草を匍ひ渡る蝸牛であつて、それ故に又女の束髮の妙な形が流行して來れば、忽ち又之を此蟲にたとへ、或は米澤地方で今も見る如く、淵の渦卷をもダイロウマキと謂ふことになつた。錘がもしツブロと同じ語ならば、是も又今一つ前からあつた類似のものから移し讓られたものと見る方が當り前である。

[やぶちゃん注:「三河碧海郡」「あをみ(あおみ)」と読み、愛知県東部の三河地方の矢作川西側(右岸)にあった旧郡。

「錘」これは改訂版のルビにある「つむ」で読んでおく。「紡錘」とも書いてかく読んだりする。糸を紡ぐと同時に糸に撚(よ)りをかけながら巻き取る道具。他に「ぼうすい」「すい」「つみ」とも読む。]

 

 何にもせよマイマイといふ方言の始めて出來たのは、蝸牛の蝸といふ漢字が案出せられたのと、同じ事情であることだけは認められるのである。しかし一旦其語が出來て後は、人はいつ迄も當初の心持を以て、之を使つて居るものとも限らなかつた。何か今一段と適切なやうに感じられるものが見つかると、少しは發音の形を變へてゞも、寧ろ其方へ寄つて行かうとしたことが、往々にしてあつたやうに思はれる。その一つの例は靜岡縣の大井川附近の村で、蝸牛をマイマイドンと謂つたなどがそれである。殿や樣の語を人で無いものの名に添へることは、蠶をオコサマ、オボコサマ、又は爐の自在鍵をカギドノといふなど、幾らでもその類はあることだが、是は何れも其物を尊敬し、曾ては拜みもしたらうと思ふ名殘であつて、蟲のマイマイの方にはまだ一向にさういふ話を聞かぬ。ところが他の一方には別にマイマイドンと名づけられて、大いにもて囃された職業の者が、諸國をあるいて居た時代があつたのである。越前丹生郡の幸若太夫なども其一流であつたが、尚他の地方にも往々にして神社に從屬し、祭の日には出で神態の舞を舞ふ者が住んで居て、それをも皆「舞舞ひ」と稱へたのであつた。舞舞ひの居住地は今も地名となつて數多く殘つて居る。さうして安樂菴策傳の醒睡笑が出來た頃までは、彼等の技藝はまだ田舍の生活の最も面白い語り草であつた。それが年月を追うて大きくなり又眞面目になり、愈々近代の歌舞伎にまで發達したことは、もう蝸牛考の筆者の領分では無いが、とにかくにマイマイといへば直ちに此等の職業藝術家を聯想せずには居られぬほど、弘い流行を見た時代があつたことのみは事實であつた。それがいつとも無しに、貝が渦卷だからマイマイと呼ぶといふ程度の、淡い興味と解説とを乘取つてしまつたのは不思議でない。

[やぶちゃん注:「越前丹生郡」「にふ(にう/現行行政郡名は「にゅう」)」と読む。現存。当初は越前国中西部一帯を郡域とする広大な郡であったが、平安初期に日野川東岸を分割して今立(いまだて)郡とし、中世には南部を割いて南仲条郡(現在の南条郡)とした。旧郡域は広く、現在の福井市・鯖江市・越前市の一部に相当する(ウィキの「丹生郡に拠る)。

「幸若太夫」(生没年不詳)は「かうわかたいふ(こうわかたゆう)」と読み、幸若舞(こうわかまい)の祖とされる室町前期の人物。桃井直詮(もものいなおあきら)の芸名であったが、彼の幼名であった「幸若丸」から、この通称で呼ばれた。越前国西田中(現在の福井県丹生郡旧越前町内の旧朝日町)の出であった。幸若舞は中世芸能の一つで、本来は地方の寺社に奉納する神事舞(しんじまい)であったものが、十五世紀中葉から京都に進出、題材が主に軍記物から採られたことから武将らに愛好された。江戸期には幕府御用の正式な式楽とされて江戸城中にも参賀するようになり、幸若太夫の名も家元として襲名され、寛永年間には旭町に屋敷があった。幸若舞は語りを主として扇拍子・小鼓・笛などの音曲に合わせて舞う、曲舞(くせまい)の一種で、曲節は声明(しょうみょう)・平曲・宴曲を融合したものである。大頭(だいがしら)・笠屋(かさや)の流があるが、現在は福岡県みやま市瀬高町(せたかまち)大江(おおえ)に伝わるそれが民俗芸能として重要無形民俗文化財に指定されて現存している(毎年一月二十日に現地の大江天満神社で奉納され、七百年の伝統を持つとされる)。また、幸若舞は文中にもある通り、能や歌舞伎の原型とも言われている。単に「幸若」「舞」の他、ここで柳田が言うように「舞舞(まいまい)」とも呼ばれた(以上は「大辞林」を主としつつ、諸本から附加した)。

「安樂菴策傳の醒睡笑」著者名は「あんらくあんさくでん」、署名は「せいすいせう(せいすいしょう)」と読む。茶人や文人としても知られる京の浄土僧安楽庵策伝(天文二三(一五五四)年~寛永一九(一六四二)年)が巷間に流行した笑い話を蒐集した笑話集である。八巻千三十九話に及ぶが、個々の話は短い。ウィキの「醒睡笑」によれば、かく命名した時点を完成とみて元和九(一六二三)年成立とする説、本書が江戸前期の譜代大名で下総関宿(せきやど)藩初代藩主であった板倉重宗へ献呈され、その奥書のクレジットを完成と見て寛永五(一六二八)年の成立とする二説がある、とある。「醒睡笑」巻七の「舞」には実に二十一章に亙る笑話が並ぶが、これらは皆、幸若舞(内容がほぼ軍記物で実際に「八」の冒頭には『幸若の舞』と出、他にも芸人を『舞々』と呼称している)の芸事に関わるものである。一九八六年岩波文庫刊鈴木棠三校注「醒睡笑」の「舞」の冒頭には鈴木先生が『幸若舞の詞章の生かじりによって引き起される笑いや、舞々たちが演じた失態など』を描く、という簡単な注を附しておられる。]

 

 其中でも歌謠は取分けて、斯うした誤解を引き起さしめ易い機會であつた。といふわけは普通の會話であれば、意味を考へずに言葉を使用することも比較的少ないのだが、歌は口眞似口拍子で、又久しく多くの者が繰返して居るうちに、自然に本を省みる場合が少なくなつて來たのである。其結果が常陸南部のメェボロや、下總銚子でのオバオバなどの如く、丸で外形を一變させることもあれば、他の一方には内容の著しい推移に心づかず、最初からかの舞舞太夫の物々しい立居振舞によそへて、斯んな名を付與したものゝ如く解する者も出來て、それが更に又次の變化を誘ふこともあつたのである。方言生成の事情が是まで絶望に近い不問に置かれたのは、この内外二通りの變化が、あまりにも錯綜して居たからであつた。近い頃の例でいふと、明治の中頃の流行歌の一つに、アカハラデンデンムシといふをかしな囃し詞を伴ふものがあつた。さうすると近江の湖水の南岸には、赤腹デンデンムシという蝸牛の異名が、早一つ増加して居る。信州諏訪の北山地方には、蝸牛をデエラボッチャといふ語も少し行はれて居るが、デエラボッチャは本來は大昔の巨人、たとえば一夜に富士の山の土を運んだといふ類の、傳説の大太法師のことであつた。それがデエロといふ方言の流布道程に、半ば不用になつて轉がつて居た爲に、測らずもそれへ卷込まれてしまつたものらしい。即ち一方には又此樣に、語があつて宿主を求めて居たやうな場合も折々はあつたのである。たゞ其方は選擇の動機が特殊であつた爲に、最初から廣い領域に延びて行く力を持たなかつた。從うてさういふ一地限りの奇異の例だけによつて、方言の性質を説かうとした各地の試みは、大抵は失敗に歸して居るのである。

[やぶちゃん注:「信州諏訪の北山地方」長野県の旧諏訪郡内、現在の茅野市大字北山に相当する。

「デエラボッチャ」改訂版『デェラボッチャ』。

「大太法師」「だいだばうし(だいだぼうし)」と読み、日本の各地で伝承される巨人ダイダラボッチのこと。柳田は後の昭和二(一九二七)年に「ダイダラ坊の足跡」(中央公論社刊)で日本各地から採集したダイダラボッチ伝説を考察しており、『ダイダラボッチは「大人(おおひと)」を意味する「大太郎」に法師を付加した「大太郎法師」で、一寸法師の反対の意味であるとしている』(ウィキの「ダイダラボッチ」より)。私はダイダラボッチが大好き。いつかこれも電子化したいと思っている。

「デエロ」改訂版『デェロ』。]

 

 之に反してマイマイを舞舞ひのことだと解した早合點などは、假令誤りにもせよ弘く又久しいものであつた。前に引用した土御門院の御製に、「立ち舞ふべくもあらぬ世なれど」と遊ばされたのは、本歌は源氏の紅葉賀であらうが、とにかくに既に舞舞ひの異名のあつたことを御承知あつての御詠であつたと思ふ。それから近世になつて、相模にも蝸牛をデンボウラクと謂ふ土地があり、豐前の宇佐郡ではデエラクドン、豐後の國東半島でデエラドンとも謂つて居るのは、前者は栃木地方のデエボロや甲州郡内のデンボロと緣を引き、後者は瀨戸内海沿岸のデエデエ系統に屬すべきものではあらうが、尚其以前から此蟲の姿に對して、神事舞の太夫を想ひ起す習はしが無かつたら、恐らく此樣な「轉訛」は生じ得なかつたらうと考へられる。我々は幸ひにして舞舞ひといふ職業の流行した時代を、略記錄によつて明らかにし得る御蔭に、このデンボウラク等の方言がそれよりも遲く、マイマイといふ地方語の方はずつと古くから、又今日は既に無くなつて居る土地にも、曾て存在したことを推測し得るのである。之を要するに方言なるものは、それぞれの時期とそれぞれの因緣とがあつて、だんだんに生れたり消えたり、移つたり變化したりしたことだけは大抵確かであつて、これを無差別に總括して、國語だから何れも民族と共に古いといふことも出來ず、文語京都語で無いから皆近世の新作だと、いふことは尚更出來ない。そんな無茶なことをすれは、いつの世になつても我々の言語學は完成しない。それを悲しいと思ふ者は、是非とも國語の歷史を斯ういふ風にして尋ねて行かなけれはならぬのである。

[やぶちゃん注:前の二種の蝸牛の唄で引用。

「本歌は源氏の紅葉賀であらう」先の「夫木和歌抄」のそれは、

 

 家を出でぬ心は同じかたつぶりたち舞ふべくもあらぬ世なれど

 

であるが、柳田はこれを「源氏物語」の「紅葉賀(もみじのが)」の、作中最初に出る和歌で源氏と藤壺の贈答の、青海波を晴れやかに彼女の前で舞った源氏の悶々たる思いを詠んだ、

 

 もの思ふに立ち舞ふべくもあらぬ身の袖(そで)うち振りし心(こころ)知りきや

 

を指すものと思われる。因みに、藤壺の返しは、

 

 唐人(からびと)の袖振ることは遠けれど立ち居(ゐ)につけてあはれとは見き

 

であった。

「デエラクドン」「デエラドン」「デエボロ」「デエデエ」改訂版は『デェラクドン』『デェラドン』及び『デェボロ』『デェデェ』。]

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