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« 風のうたつた歌   立原道造 | トップページ | 小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十三章 心中 (一) »

2015/10/08

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十二章 日ノ御崎にて (四) / 第十二章~了

        四

 

 日ノ御崎宮司の家は、出雲の華族の内で最も舊家の一であつて、今猶、令孃は古風な尊稱で御姫樣と呼ばれる。丁度杵築の宮司を國造といつた如く、こゝの宮司の古代の官名は檢校といつた。而して日ノ御崎檢校の長い歷史の中に、一つの哀れな怖ろしい傳説がある。此傳説は此國の封建時代に於ける社會狀態が奇異なものであつたことを示すものである。

 七代前のこと、出雲の大名松平侯が、盛大な儀式で日ノ御崎神社へ、始めて正式の御參拜があつて、檢校の渥い饗應を受けられた――多分私共が今日見る特權を得た百疊敷の間であつたらう。慣例に從つて、主人の若い妻は客の大名の前へ侍し、美味や酒でもてなした。婦人は稀れなる美人であつた。而して不幸にもその美が大名の心を迷はした。大名は君主然と傲慢に夫人に向つて、夫を捨てて自分の側室になれと命じた。夫人は驚き恐れたが、流石武士の娘にふさはしく、夫と子供を愛する妻であり母であること、夫や子供を捨てるよりは寧ろ自害するといふことを大膽に答へた。雲州侯は御不興で一言もなく去られた。あとでは宮司の一家は非常な悲歎憂慮に暮れた。それは侯が情慾や憎惡の目的を達するためには、どんな障害でも取除けずにはおかぬといふことは、世に知れ渡つてゐたからである。

 その心配は無理もなかつた。大名が御歸城あるや否や、檢校を亡ぼす工夫を講じ始めた。やがて檢校は突然無理に家族から引離され、急にある假構の罪に處して、隱岐に追放された。檢校の乘つた船は乘組の者もろとも沈沒したといひ、或はまた檢は隱岐に流されて空しく悲慘と寒氣のために死んだともいふ。兎に角出雲の古い記錄には、西曆一六六一年に相當する年に「檢校尊俊隱岐にて死す」と記してある。

 檢校の死んだ報知を受けて、松平侯は欣躍殆ど禁じ得なかつた。彼の熱情の目的は松江の五家老の一人、神谷といふ武士の娘であつた。神谷は早速御前へ召出された。『汝の娘の夫既に死したれば、彼女わが邸へ參ること、最早更に差支あるべからず。汝、こゝへ彼女をつれ來れ』と大名が云つた。家老は座敷へ額をつけた。而して御用に向つた。

 翌日家老は再び大名の御部屋へ入つて、例の如く匍匐の禮をしてから、御意を奉じて娘を献上に參つた旨申上げた。

 欣然微笑したる松平侯は、すぐさま御前へ彼女を伴れ申せと命じた。家老は這ふて下がり、また引返して來て、美しい女の今切離したばかりの首――死んだ檢校の若い妻の首が載つた首桶を主公の面前へ据ゑて、『これが拙者の娘で御座いまする』と單に申上げた。

 彼女は汚辱を受けんよりは、寧ろ彼女自身の雄々しい意志で死んだのである。

 松平侯が彼の犧牲となつた女のために、神社や記念碑を建立して、自ら慰めようとしてから七代を經て居る。彼の血統は彼限りで絶えて、今その大名の長い系統の赫々たる名を嗣いでゐる人々は、同じ血統ではない。草苔に嚙まれた怖ろしいやうな城の廢墟には、蜥蜴や蝙蝠が住んでゐる。然し神谷家は續いてゐて、封建時代に於ける如く富んではゐないが、松江の市で今猶、非常な尊敬を受けてゐる。それで日ノ御崎の宮司は、いつもその凛凛しい家系の娘から花嫁を選ぶのである。

    註。この物語の檢校は、松平家によ

    つて、松江市の東郊、御山(おやま)

    の推惠(すゐけい)神社に祀られた。

    この宮は罪を贖ふために建てられた。

    して、人民は今猶檢校の靈に祈る。

    昔この宮の近傍に頗る繁昌した劇場

    があつた。これも亦た檢校が芝居を

    大いに好いてゐたといふので、大名

    は彼の犧牲者の靈を宥めるために建

    てたのだ。宮は立派に保存されてゐ

    るが、劇場は夙くに失くなつた。そ

    の跡は畠となつてゐる。

 

[やぶちゃん注:「檢校」この語は現行では、室町時代以降に視覚障碍を持った人々に与えられた最高の官名として熟知されてしまっているが、原義は物事を調べ正すこと及びそれを執行する職を指し、古くは社寺に於いて事務を監督する職(或いは仏寺一院に於ける上座の僧で衆僧を監督する者)を指した。ここでもその意。

「七代前のこと」今の宮司(旧検校)の七代前の宮司である「檢校尊俊」を指す。この「檢校尊俊」なる人物は個人ブログ「出雲国神社めぐり」の「推恵神社」によって日御碕神社検校(現行の宮司)小野尊俊として実在する(後注でリンク先は詳述する)。

「出雲の大名松平侯」前掲の「出雲国神社めぐり」の「推恵神社」には二種の伝承が掲げられてあるが孰れの伝承も、これを出雲松江藩第二代藩主松平綱隆(寛永八(一六三一)年~延宝三(一六七五)年)とする。以下、ウィキの「松平綱隆」から引くが、そこにさえ検校伝承が記されてある。『松江藩初代藩主・松平直政の長男』で、慶安四(一六五一)年に元服、第四『将軍徳川家綱より偏諱(「綱」の字)を賜って綱隆と名乗り、従四位下信濃守に叙任』。寛文六(一六六六)年二月、父の死去により同年四月十日に満三十五歳で家督を継いでいる。同年十二月二十八日には『侍従に遷任する。信濃守を止め、出羽守を兼任する』。『父・直政の治世末期からすでに始まっていた社会不安や士風の弛緩、さらには財政悪化の兆しなどから、藩内で混乱が始まる。その始まりが重臣香西隆清(こうざい たかきよ)の追放事件、次いで大水害による大被害である。これらにより、藩内では混乱と財政悪化が隠し切れないものとなり、綱隆は米・雑穀の移出禁止、酒造の禁止、藩札を発行することなどでこれを切り抜けようとしたが、逆に財政が悪化した。しかも』延宝元(一六七三)年には、『綱隆が小野隆俊(おのたかとし)の美貌の妻に横恋慕するあまり、彼に無実の罪を着せて流罪とするという事件も起こった。後に隆俊は死んだため、松平家はその怨霊を恐れて推恵社に彼を祀ったが、綱隆は』延宝三年閏四月一日(グレゴリオ暦一六七五年五月二十五日)『に突如として急死した。享年』四十五。『跡を四男の綱周(綱近)が継いだ』。『あまりに突然の死であったため、隆俊の亡霊に殺されたと噂されたと言われている』とある(下線やぶちゃん)。「尊俊」が「隆俊」とあるが、訓ずると孰れも「たか」であるから、近世以前の異名多用の習慣から見て必ずしも不審とは言えない。なお、リンク先では「小野隆俊」なる人物を家臣とのみ記し、日御碕神社の検校であった事実は記されていない。領地内の神社の検校であるから家臣と言えなくもないが、この文脈では実際の直臣(本話の家老神谷みたような)の家臣の妻に横恋慕したとしか読めない。それとは別なやや似たような伝承があるようで、個人ブログ「出雲国神社めぐり」の「推恵神社」には、『検校配流について旧松江市誌は、宝暦年間江戸藩邸内で誕生した女児が時の藩主松平綱隆の「養女」として尊俊のもとに嫁いだが、尊俊は藩主の娘婿の地位を恃んだ驕慢な振る舞いをなしたことにより隠岐に流され、妻も離縁させた後家老神谷氏に再婚させたとして』いるとある(下線やぶちゃん。以下同じ)。『江戸藩邸内で生まれた女児』……それを藩主綱隆の『養女』とする……それを家臣尊俊に与える……尊俊が地位を傘に『驕慢な振る舞い』に及ぶ……それで堪忍袋の緒が切れた綱隆によって隠岐配流となり……自分の『養女』の妻を尊俊と『離縁させた』上で改めて『家老神谷氏に再婚させた』という辺りに、ある種の胡散臭さを感ずる(だったら、神谷は話柄の中で節ある武士と言う訳でもなんでもなく、神谷の家が栄える謂われもなくなるではないか)。但し、その後に『一方『雲陽秘事記』は、そもそも神谷氏の娘が検校の妻であったが、これが絶世の美女で、藩主綱隆はこれを手に入れんとして検校を隠岐に流したのだとしております。川津郷土誌は両説を比較し後者は俗説であろうとしておりますが、江戸生まれ女児が仮に養女としても国元へ下ることが適ったか否か、秘事記の説が実情に近いのかもしれません。当国においては、意東(旧東出雲町)の美人塚、塩谷判官の妻への高師直の恋慕など類似の話も多くあります。いずれにせよ、検校の死後間もなく藩主綱隆が頓死するなど、巷にも検校の祟りなどとする向きがあったようで、これを鎮めんとて同社は建立され検校の霊を祀ることとなったとのことです』とある。大変、示唆に富む解説である。

『出雲の古い記錄には、西曆一六六一年に相當する年に「檢校尊俊隱岐にて死す」と記してある』万治四・寛文元年。この西暦はおかしい。何故かと言うと、この時はまだ綱隆は藩主になっておらず、父初代藩主直政はぴんぴんしているからである。父直政の事蹟をウィキの「松平直政」で見てみると、寛永一五(一六三八)年に信濃松本から出雲松江十八万六千石(及び隠岐一万四千石を代理統治)へ加増移封されて国持大名となった後、領内のキリシタンを厳しく弾圧した(これはかつての領主堀尾氏や京極忠高らを上回るほど厳しいものであったという)。直政はこの『一六六一年』の二年後の寛文三(一六六三)年)三月には幕命を受けて大沢基将とともに霊元天皇即位の賀使として上洛もしているのである。同年五月には従四位上に昇叙されて左近衛権少将に転任(出羽守如元)したが、同年十一月に病いとなり、寛文六(一六六六)年二月三日に江戸藩邸にて病死しているのである。ハーンの聴き違い、書き違いか? ともかくも実在した「小野隆俊」の記録されている正確な没年が判れば自体は解決する。何方か正確にお教え戴きたいものである。

「欣躍」「きんやく」。躍(おど)り上がって喜ぶこと。欣喜雀躍 。

「彼の熱情の目的は松江の五家老の一人、神谷といふ武士の娘であつた」言わずもがなであるが、「檢校尊俊」の妻は「松江の五家老の一人、神谷といふ武士の娘であつた」ということである。

「松平侯が彼の犧牲となつた女のために、神社や記念碑を建立して、自ら慰めようとしてから七代を經て居る。彼の血統は彼限りで絶えて、今その大名の長い系統の赫々たる名を嗣いでゐる人々は、同じ血統ではない」調べた限りではこれは全くしくなく、第九代藩主まで綱隆の直の血統者が継いでいるように記されてある綱隆の目は実子四男綱周(綱近 つなちか)が継いでおり、第四代もこれ、綱隆五男弟の近憲(吉透 よしとお)を養嗣子として迎えた上で家督を譲っている。その跡目も次男宣維(のぶずみ)、第六代も宣維長男宗衍(むねのぶ)、第七代も宣維次男治郷松平不昧で、第八代も不昧の長男斉恒(なりつね)、第九代の斉斎(斉貴 なりとき)も斉恒長男であった。この第九代の時、嘉永六(一八五三)年に藩財政の悪化によって家臣団の間から斉貴(なりとき)廃立の動きが表面化、結局、斉貴は強制的に隠居させられ、美作津山藩から迎えた婿養子の松平定安が出雲松江藩第十代にして最後の当主として擁立され、ここでやっと綱隆の直系の血統がやっと絶えるのである(以上は各人のウィキを確認した。名前のリンクはそれ)。

「松江の市で今猶、非常な尊敬を受けてゐる。それで日ノ御崎の宮司は、いつもその凛凛しい家系の娘から花嫁を選ぶのである」とある以上、この「神谷」という家老については、少なくとも明治二十年代に於いてしっかり知られた名家であったということになる。恐らくは、松江市石橋町にある順光寺公式サイト内の順光寺の歴史の中に出る、松江藩主松平直政家老であった神谷備後(神谷源五郎冨次)なる人物或いはその継嗣と考えてよい。しかも(!)そこには現在、神谷家第十四代神谷昭孝氏が松江市北堀町(塩見繩手)に御在住しておられることも明記されてあるのである!

「御山(おやま)の推惠(すゐけい)神社」松江市郊外の松江市西川津町(かわつちょう)字楽山(らくざん)にある。この付近はかつて松江藩主の別荘があった場所で茶人として知られた第七代藩主松平不昧公の茶会もここにあった別荘で開かれたといわれる。個人ブログ「出雲国神社めぐり」の「推恵神社」には、本社は享保一八(一七三三)年に第六代『藩主松平宗衍公の勧請にて建立。御祭神は藩命にて隠岐に流され、海士にて没した日御碕神社検校小野尊俊の霊』である、とある。

「昔この宮の近傍に頗る繁昌した劇場があつた」「劇場は夙くに失くなつた」この辺り、何か気になる。どのような情報でも結構なのでご存じの方は御教授あられたい。]

 

 

Sec. 4

The family of the Guji of Hinomisaki is one of the oldest of the Kwazoku or noble families of Izumo; and the daughters are still addressed by the antique title of PrincessO-Hime-San. The ancient official designation of the pontiff himself was Kengyo, as that of the Kitzuki pontiff was Kokuzo; and the families of the Hinomisaki and of the Kitzuki Guji are closely related.

There is one touching and terrible tradition in the long history of the Kengyos of Hinomisaki, which throws a strange light upon the social condition of this province in feudal days.

Seven generations ago, a Matsudaira, Daimyo of Izumo, made with great pomp his first official visit to the temples of Hinomisaki, and was nobly entertained by the Kengyodoubtless in the same chamber of a hundred mats which we to-day were privileged to see. According to custom, the young wife of the host waited upon the regal visitor, and served him with dainties and with wine. She was singularly beautiful; and her beauty, unfortunately, bewitched the Daimyo. With kingly insolence he demanded that she should leave her husband and become his concubine. Although astounded and terrified, she answered bravely, like the true daughter of a samurai, that she was a loving wife and mother, and that, sooner than desert her husband and her child, she would put an end to her life with her own hand. The great Lord of Izumo sullenly departed without further speech, leaving the little household plunged in uttermost grief and anxiety; for it was too well known that the prince would suffer no obstacle to remain in the way of his lust or his hate.

The anxiety, indeed, proved to be well founded. Scarcely had the Daimyo returned to his domains when he began to devise means for the ruin of the Kengyo. Soon afterward, the latter was suddenly and forcibly separated from his family, hastily tried for some imaginary offence, and banished to the islands of Oki. Some say the ship on which he sailed went down at sea with all on board. Others say that he was conveyed to Oki, but only to die there of misery and cold. At all events, the old Izumo records state that, in the year corresponding to A.D. 1661 'the Kengyo Takatoshi died in the land of Oki.'

On receiving news of the Kengyo's death, Matsudaira scarcely concealed his exultation. The object of his passion was the daughter of his own Karo, or minister, one of the noblest samurai of Matsue, by name Kamiya. Kamiya was at once summoned before the Daimyo, who said to him: 'Thy daughter's husband being dead, there exists no longer any reason that she should not enter into my household. Do thou bring her hither.' The Karo touched the floor with his forehead, and departed on his errand.

Upon the following day he re-entered the prince's apartment, and, performing the customary prostration, announced that his lord's commands had been obeyed-that the victim had arrived.

Smiling for pleasure, the Matsudaira ordered that she should be brought at once into his presence. The Karo prostrated himself, retired and presently returning, placed before his master a kubi-oke [4] upon which lay the freshly-severed head of a beautiful womanthe head of the young wife of the dead Kengyowith the simple utterance:

'This is my daughter.'

Dead by her own brave willbut never dishonoured.

Seven generations have been buried since the Matsudaira strove to appease his remorse by the building of temples and the erection of monuments to the memory of his victim. His own race died with him: those who now bear the illustrious name of that long line of daimyos are not of the same blood; and the grim ruin of his castle, devoured by vegetation, is tenanted only by lizards and bats. But the Kamiya family endures; no longer wealthy, as in feudal times, but still highly honoured in their native city. And each high pontiff of Hinomisakei chooses always his bride from among the daughters of that valiant race.

NOTE.The Kengyo of the above tradition was enshrined by Matsudaira in the temple of Shiyekei-jinja, at Oyama, near Matsue. This miya was built for an atonement; and the people still pray to the spirit of the Kengyo. Near this temple formerly stood a very popular theatre, also erected by the Daimyo in his earnest desire to appease the soul of his victim; for he had heard that the Kengyo was very fond of theatrical performances. The temple is still in excellent preservation; but the theatre has long since disappeared; and its site is occupied by a farmer's vegetable garden.

 

4 The kubi-oke was a lacquered tray with a high rim and a high cover. The name signifies 'head-box.' It was the ancient custom to place the head of a decapitated person upon a kubi-oke before conveying the ghastly trophy into the palace of the prince desirous of seeing it.

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