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2015/10/01

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 月影谷/新熊野社/鍼磨橋/音無瀑/日蓮袈裟掛松

    ●月影谷

月影谷は。極樂寺の境内西隅に在り。昔は曆を作れる者居住せしといふ。此所(このところ)は卽ち阿佛屋敷の跡なり阿佛は爲家の室にて爲相の母なり。十六夜日記に云。東にてすむ處は月影谷とぞいふなる。浦近き山本にて。風いとあらし。山寺の傍なれはのどかにすごくて。浪の音松風たへずと。蓋し實錄なり。又辨慶腰掛松といふあり。

[やぶちゃん注:阿仏尼がこの近くに住んだというのは事実と思われる。

「辨慶腰掛松」義経が腰越で止められた有名な史実から生まれた伝承であるが、義経主従が腰越で留められたのにここまで従者の彼が来て、松に登ってそこに腰かけ、大倉幕府を睨みつけたというのは、どう考えてもおかしい。全国に散在する弁慶伝説の一つに過ぎない。松は現存しない。]

 

    ●新熊野社

極柴寺の東の谷に在り。卽ち聖福寺(せいふくじ)の舊跡なり。東鑑に建長六年四月十八日聖福寺の鎭守諸神の神殿上棟とあるは。是等の社を指(さ)せしならむ。聖福寺等は時賴の兩男(りやうだん)聖福丸福壽丸の息災延命の爲めに建(たつ)る所といふ。

[やぶちゃん注:現在は極楽寺熊野新宮と称し、鎌倉市極楽寺二丁目に現存する。極楽寺地区の鎮守で旧村社。「極樂寺」の条に示した「忍性菩薩行状略頌」によれば、文永六(一二四九)年に忍性菩薩が勧請して創建し「熊野新宮」と号したとある。昭和三(一九二八)年に同地域の八雲神社と諏訪神社を合祀した。ここに出る聖福寺との関係性は不明である。以下、新編鎌倉志六」の「聖福寺舊跡」を私の注ごと引いておく。

   *

〇聖福寺舊跡 聖福寺(しようふくじ)の奮跡、極樂寺の西南にあり。大なる谷(やつ)なり。此地に熊野權現の社あり。【東鑑】に、建長六年四月十八日、聖福寺の鎭守、諸神の神殿の上棟(むねあげ)、所謂、神驗、武内・稻荷・住吉・鹿島・諏訪・伊豆・筥根・三島・富士・夷(えびす)の社等なり。是總じて、關東の長久、別して相州時賴の兩男〔聖壽丸(しようじゆまる)・福壽丸(ふくじゆまる)。〕息災延命の爲(ため)なり。因て彼の兄弟兩人の名字を以て寺號とす。去る十二日に事始あり。相模の國大庭(をほば)の御厨(みくり)の内に、其地を卜(ぼく)すとあり。又【鶴岡記録】に、八幡の御正體を、新熊野聖福寺に移し奉ると有。今按ずるに此地なり。

[やぶちゃん注:「別して相州時賴の兩男〔聖壽丸・福壽丸。〕」時頼側室の子であった長男時輔の幼名「寶壽丸」、正室の生んだ次男時宗のそれは「正壽丸」、時宗の実弟(即ち同じ正室の子)時政のそれは「福壽丸」である。誰も「聖壽丸」という幼名は持たない。時頼は正妻の産んだ時宗を正嫡として認め、側室の子である長男時輔は得宗家後継者としては時宗・時政に継ぐ第三位の格で扱われた(時輔九歳の時の建長八(一二五六)年の元服改名では相模三郎時利と、長男でありながら三郎を名乗らされている)。時宗の生誕が建長三(一二五一)年、宗政が建長五(一二五三)年、本寺の建立が建長六年という時間軸を考えても、この二人の「兩男」とは、時宗と時政以外には考えられない。そもそも参考にしたウィキの「北条時輔」によれば、十三歳の正元二(一二六〇)年に再度「時輔」と名を変えたのは、何と『時頼の方針により、正嫡時宗を「輔(たすけ)る」意味での改名とみられる』とさえあるのである。ウィキの記事には事ある毎に、時頼が時宗を第一とし、時頼を時宗の引立て役として扱った事実も記されている。その時頼にして、長男とはいえ側室の子である時輔と、正室の子時宗を同列扱いにして「息災延命」を祈るはずが、ない、のである。問題は「聖壽丸」である。寺号が聖福寺である以上、「聖壽丸」は時宗の幼名でなくてはなるまい。しかし、「吾妻鏡」康元二(一二五七)年二月二十六日の時宗の元服の条には「正壽」で載る(勿論、彼の名のりは相模太郎時宗である)。「聖壽」という名は「吾妻鏡」に見ない。ところが、確かに建長六年四月十八日の条には「仍以彼兄弟兩人之名字」とある。「正」と「聖」は音に於いても、また意味に於いても通底するものがあり、同字と見なしたものと一応、解釈しておきたい。識者の御教授を乞う。現在の極楽寺六九七番地から八四九番地の字は古くは正福寺といった。現在の江ノ電稲村ヶ崎藤沢寄に線路と交差する道を東北東に入った谷戸で、極楽寺の背後の尾根を越えた西に当たる。「相模の國大庭の御厨」現在の藤沢市大庭を中心にした広大な荘園で、鎌倉末期には十三郷を有した相模国最大の伊勢神宮の御厨。この頃には実質的な北条得宗家支配領であった。但し、これは、鎌倉にあった大庭御厨の飛地と思われる。でなければ、「新編鎌倉志」の編者も、いとも簡単に「今按ずるに此地なり」とは書かないと思うからである。なお、これについては「鎌倉市史」の「総説篇」の「第八章 鎌倉の四境・七口」の「一 四境」(一八〇ページ以下)に詳細な検討があり、そこでも鎌倉にあった飛地と推定している。]

   *

 

    ●鍼磨橋

鍼磨橋(はりすりはし)は。極樂寺川に架せる橋にて。鎌倉十橋(けう)の一なり。此邊に昔針を製せしもの住せしより名とすといふ。

[やぶちゃん注:鎌倉十橋の一つ。「我入道橋(がにゅうどうばし)」とも呼ぶ。住んでいた針磨り師は老婆であったとも我入道という僧であったとも伝える。]

 

    ●音無瀑、日蓮袈裟掛松

音無瀑(おとなしたき)は。七里濱に出る右方沙山の松陰(せういん)を廻(めぐ)りて落る瀑なり。沙山(さざん)なるに因り音なし。故に名く。日蓮袈裟掛松は。海道(かいだう)の北に在り。一株(かぶ)の松をいふ此(この)類(るい)所々にあり。

[やぶちゃん注:「音無瀑」は音無川の河口の、砂浜に落ちる段差を指した。川も音無川と古称し、極楽寺の正福寺ヶ谷を源とて七里ヶ浜に流れ出る川であるが、現在はその多くの部分が暗渠となっており、地形図でも川名を載せない。「鎌倉事典」(東京堂出版昭和五十一(一九七六)年刊)の「音無川」の三浦勝男氏の解説では、明治十二(一八七九)年刊の「神奈川県皇国地誌残稿」に『川の深さは、二寸より五尺にいたり、水勢緩にして清く、田地四町余歩の灌漑に供した』とあるとし、また、この音無の滝についても同書に『二段に奔下し上段は高さ七尺幅二尺、下段は幅は同じで高さ一丈二尺あった』と記してあるという。これは総落差六メートルになんなんとする小さいとは言えない滝であり、「緩やか」とは言え、その水量は明治期にあっても四ヘクタールを越える田の用水を賄えるものであった。不思議なのは、本文が「沙山の松陰を廻傳て落る瀧なり。沙山なるゆへに、常に水音もせず。故に名つく」とするところで、これは叙述から見てもこの滝は海岸線近くになくてはならない。しかし、六メートルの滝で、その滝壺は七里ヶ浜直近の松が茂る崖下にあり、砂地の山であるために音がしない、というのは何となくイメージし難い。実は「鎌倉事典」の「音無川」で三浦氏は、冒頭、滝の位置を音無川の源流としておられる(但し、その根拠をこの「新編鎌倉志」とするのは解せない)。現在、上流域は宅地化によって旧景を臨むことは出来ないのであるが、この滝の位置はかなり上流であった可能性があり、また、「音無」という名ももっと違った由来に基づくものである可能性が考えられる。そんなことを考えながらネット・サーフィンをしていたところが、鎌倉在住のSakha Republic氏のブログの「音無川と那智の滝」「音無川あれこれ」に、かつてこの源流域に熊野権現と那智の滝が存在したことを古地図によって突き止め、そこから熊野本宮大社の近くを流れる音無川との連環性を探るという素晴らしい説得力ある考察に出逢った。是非、ご覧あれ。

「日蓮袈裟掛松」新編鎌倉志六」より私の注ごと引く。

   *

日蓮袈裟掛松 日蓮の袈裟掛松(けさかけまつ)は、音無瀧(をとなしのたき)の少し南なり。海道より北にある一株の松なり。枝葉たれたり。日蓮、龍口(たつのくち)にて難に遭し時、袈裟を此松に掛けられたりと云傳ふ。

[やぶちゃん注:掛けたのは袈裟を血で穢すのは畏れ多いとしたからとされる。現存せず、碑が立つのみであるが、現在、その碑は十一人塚を極楽寺方向へ百五十メートル程行った箇所に立っている。先に掲げた絵図を見ると、不思議なことが判明する。絵図ではまさに現在の日蓮袈裟掛松跡に「音無瀧」と記されているのである。そして、絵図の「十一人塚」と「音無瀧」の位置関係から見ると、絵図の「日蓮袈裟掛松」が存在したのは現在の江ノ電稲村ヶ崎駅のすぐ西、何と現在「音無橋」と名が残る音無川の辺りに比定されるように見えるのだ。だから何だと言われそうだが、何だか私には不思議な感じがするのである。]

   *]

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