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« 靜物   立原道造 | トップページ | 小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十四章 八重垣神社 (三) »

2015/10/10

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十四章 八重垣神社 (二)

        二

 

 八重垣神社のある佐草村は、松江の南殆ど一里少しであるが、うねうねした道が車にはあまりに凹凸で且つ嶮しい。三つの道の中で一番遠く、且つ凹凸の多い方が、最も興味がある。その道は竹藪や原始的な森の中を上つたり下つたりして、それから稻田麥圃や、景色がよかつたり、或は一風異つた處のある藍と人蔘の栽培地の中を曲つて行く。途中には神功皇后の老臣武内宿彌を祀つて、人々が健康と長壽を祈る武内神社、出雲五大神社の一なる大草ノ宮、神々の母なる伊弉諾命を祀つて、創造の二神の奇異な繪を受けることの出來る眞名井神社。それから伊弉册命を祀つた大庭ノ宮、一名神魂(カモシ)神社など有名な神社が澤山ある。

 毎年莊嚴な儀式で杵築の國造へ、貴い火を鑽る道具を授けて居つた、神魂神社には珍らしい物がある――長さ一寸以上もある、大きな米粒で、神代の昔稻が木の如く高くのびて、神々に相應しい粒を生じた頃から傳はつたのや、初めての國造が來つて天降りしたと百姓共のいふ鐡鍋や、それから太い岩をどうして重ねたものかと想像のつかぬ、巨大な鳥居がある。また大庭の音のする石といふのは打てば鐘のやうに響く。これらの石は、一定の距離以上へ運び去ることは出來ぬといふ傳説がある。松平といふ大名が、その一個を松江にある彼の城へ運ばせようとした時、石が非常に重くなつてきて、千人かかつても大橋から先きへ動かすことが出來なかつたと記されてゐる。それで、その石は橋の前で放棄されて、今日でも地中に埋まつてゐる。

 大庭の邊には鶺鴒が澤山居る。これは伊弉諾、伊弉册神の嘉みし玉ふ鳥である。それは傳説によれば、二神は鶺鴒から始めて男女の道を學ばれたからだ。だから最も慾の深い農夫でも、この鳥を害したり、威嚇したりなどしない。鳥も大庭村の人々や畠の案山子を怖れない。

 案山子の神は少彦名神である。

 

[やぶちゃん注:「武内神社」「武内さん」の愛称で呼ばれ、武内宿禰が長命であったことから延命長寿の神として信仰を集めている、現在の松江市八幡町にある平濱(ひらはま)八幡宮の境内社である武内宿禰を祭神とする武内(たけうち)神社であるが、ここは八重垣神社に行くルートからはかなり東北東にズレており(四・二キロメートル)、ハーンの言う「途中」というのは、地図上で見る限り、少しばかり無理があるように私には思われる。

「出雲五大神社の一なる大草ノ宮」以下、迂遠なる注であることを許されたい。「出雲五大神社」は調べてみると、現行では「縁結びの出雲五社」などと称として、

出雲大社・須佐(すさ)神社・日御碕(ひのみさき)神社・八重垣神社・玉作湯(たまつくりゆ)神社

がネット上ではまず挙がっている。この内、未だ注していない須佐神社は、八重垣神社のずっと南の奥、出雲市佐田町須佐にある。須佐之男命を主祭神とし、妻の稲田比売命、稲田比売命の両親の足摩槌命・手摩槌命を配祀する。参照したウィキの「須佐神社」によれば、「出雲国風土記」には『須佐之男命が各地を開拓した後に当地に来て最後の開拓をし、「この国は良い国だから、自分の名前は岩木ではなく土地につけよう」と言って「須佐」と命名し、自らの御魂を鎮めたとの記述がある。古来須佐之男命の本宮とされた』と伝え、『旧社地は神社の北方にある宮尾山にあったとされる。現社地は盆地のほぼ中央部にあり、中世の時点ではすでにこの地にあったと考えられる』とある。また、玉作湯神社の方は、八重垣神社のずっと西方の松江市玉湯町玉造にあり、ウィキの「玉作湯神社」によれば、櫛明玉神(くしあかるたまのかみ:「日本書紀」の国譲り神話で「作玉者(たますり)とす」と出、玉造部(たまつくりべ)の祖神とされる。「古事記」にみえる玉祖命(たまのやのみこと)も同神と言われる)・大名持神(おおなもちのかみ:大国主の別名)・少毘古那神の三柱を祀り、合殿に五十猛神(いそたける/いたける:素戔嗚の子。林業の神として信仰される)を祀っている、とある。相応に由緒はあるが、位置的に見ても何だかな、という気がして来るし、そもそもが最初に「出雲五社」のフレーズを発見したのがツーリスト会社の縁結びツアーであったのが大いに眉に唾せねばならなかったのであった(折角ここまで注を書いてしまったので、癪だから残す)。

 そもそもが、ハーンはここで「出雲五大神社の一なる大草ノ宮」と述べている。とこrがこの「大草ノ宮」なる神社は以上の五社には含まれていない。この「大草ノ宮」というのは松江市大草町の六所(ろくしょ)神社のこととしか思われないのである(ここは八重垣神社の東二・八キロメートルであるがこれは武内神社のそれに比すと「途中」と称して許せる範囲内である)。六所神社(ろくしょじんじゃ)は、島根県松江市大草町にある神社である。ウィキの「六所神社」によれば、『意宇六社の一つ。出雲国総社であり、旧社格は県社。出雲国府の跡地に鎮座している』。境内北側に昭和四三(一九六八)年に『発掘された出雲国府の遺跡があり、境内の東側の隣接地に国庁の正殿の遺構の一部があ』ることから、『鎮座地が国庁と重なることから、別の場所にあったものが移転したと考えられ』ているとある。問題は、この「意宇(おう)六社」或いは愛称「六社さん」という江戸以来の名数で、これは旧意宇郡(現在の松江市の一部(大橋川以南及び大根島・江島)にある神社の内、熊野大社(松江市八雲町)・真名井(まない)神社(松江市山代町)・揖夜(いや)神社(松江市東出雲町)・六所神社(松江市大草町)・八重垣神社(松江市佐草町)・神魂(かもす)神社(松江市大庭町)を指していることである。しかも直下には「眞名井神社」「神魂(カモシ)神社」が出るから、このハーンの言う「出雲五大神社」とはこの「意宇六社」の内から熊野大社か揖夜神社を外した五つということになる。どちらを外したのか? もう、「隅の老人」には限界である。悪しからず。

「眞名井神社」現在の島根県松江市山代町にある意宇(おう)六社の一つである。ウィキの「真名井神社によれば『伊弉諾神と天津彦根命』(あまつひこねのみこと:天照と素戔嗚の誓約の際、天照の八尺の勾玉の五百箇の御統(みすまる:多くの玉を緒に貫いて輪として首にかけたり腕に巻いたりして飾りとしたもの)の珠から生まれた五柱の男神の一柱)を祀るとあり、「出雲国風土記」の意宇郡条には、在神祇官社の「眞名井社」と不在神祇官社の「末那爲社」の二社が記載されており、また、「延喜式神名帳」の出雲国意宇郡には「真名井神社」の記載があるという。ところがこの真名井社相当の社は天和三(一六八三)年の「出雲風土記鈔」には「伊弉奈枳(いさなき)社」、享保二(一七一七)年の「雲陽誌」には「伊弉諾(いさなき)社」と『記載されており、江戸時代には「伊弉諾社」と呼ばれていた。明治に入り「真名井神社」と改称した』とある(私は「いざなぎ」という濁音を嫌悪する人間で読みはそれに従ったものである)。『当社の祭祀は神魂神社の社家である秋上氏が神主と別火を兼ね、社殿も両社を同時期に造営していたという』とある。「別火」は既出既注

「大庭ノ宮、一名神魂(カモシ)神社」既注であるが、附け直す。現在は神魂(かもす)神社と呼称する松江市大庭町(おおばちょう)にある神社。「大庭(おおば)の宮(みや)さん」の通称は同じ。本殿は現存する日本最古の大社造りで国宝である。ウィキの「神魂神社によれば、『現在は伊弉冊大神(イザナミ)を主祭神とし、伊弉諾大神(イザナギ)を配祀するとしているが、これは中世末期ごろからのもので、それ以前の祭神は不明である。時代が下って寛文年間ごろの新嘗会祝詞には、熊野大神・大己貴命などの神名が見えるが、現在では記録上わかる範囲内で、より古いほうの説に従っている』。『社伝によれば、天穂日命』(あめのほひのみこと:天照大神と素戔嗚の誓約の際に天照の右の鬟(みずら)に巻いた勾玉から生まれたとする男神で、彼は葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わされたものの、大国主神を説得するうち、却って心服してしまって地上に住み着き、三年の間、高天原に戻らなかったという。その後、出雲に伊弉冉(いざなみ)を祭るこの神魂神社(島根県松江市)を建てて、その子である建比良鳥命(たけひらとりのみこと)は出雲国造らの祖神となったとされる。ここはウィキの「アメノホヒ」に拠った)『がこの地に天降って創建したものと伝えられるが、『延喜式神名帳』、国史や『出雲国風土記』に当社は記載されておらず、文献における初見は』承元二(一二〇八)年の鎌倉将軍下文であり、『実際の創建は平安時代中期以降とみられている』。『当社は出雲国府に近い古代出雲の中心地であり、社伝では、天穂日命の子孫が出雲国造として』二十五代まで『当社に奉仕したという。出雲国造家は現在は出雲大社の宮司家であるが、国造家の代替わりのときの「神火相続式」「古伝新嘗祭」は、明治初年までは当社に参向して行われていた』。『二重亀甲に「有」の文字』を神紋とする。

「鑽る」「きる」或いは「ひきる」と読む。ここは前者でよかろう。既出既注

「神魂神社には珍らしい物がある」以下に記される、巨大な(原文は“an inch long”であるから、二・五四センチメートルであり、訳の「一寸」(三・〇三センチメートル)より小さい)米粒や大釜が現存するのかどうか、確認出来なかった。巨大な石を積み上げた燈籠というのは「鬼斗 燈籠コレクション」にあるこれか?

「大庭の音のする石」島根県観光連盟公式サイト「しまね観光ナビ」の「八雲が愛した城下町松江 光と幻想のミステリーツアー」のずっと下の方に、松江市白潟本町の松江大橋南詰にある「源助柱記念碑・大庭の音のする石」の項が写真とともに出る。

「松平といふ大名」初代松平直政か第二代綱隆の孰れかと思われる。

「鶺鴒」「これは伊弉諾、伊弉册神の嘉みし玉ふ鳥である」「嘉み」は「よみ」と読み、「善み(する)」とも書く。サ行変格活用動詞「よみする」で、元「よみ」は形容詞「良(よ)し」の語幹に原因・理由を示す上代の接尾語「み」がついたもので、良し(吉し)として褒め称えること、を指す。ウィキの「セキレイ」の「文化」の項に、「日本書紀」に『日本神話の国産みの伝承の一つとして、イザナギとイザナミが性交の仕方が分からなかったところにセキレイが現れ、セキレイが尾を上下に振る動作を見て性交の仕方を知ったという内容の異伝に関する記述がある。婚礼の調度に鶺鴒台』(せきれいだい:婚礼の際に供える初夜の床飾りの一つ。島形または州浜(すはま)形で足は雲形。台上には岩を根固めに置いて鶺鴒の一番(つが)いを飾る)『があるのはそれに由来する。日本各地にはセキレイにまつわる伝承がある。 静岡県三島、広島県などではセキレイを神の鳥と称し、みだりに捕らえないのは神使以上に神に交道を教えた万物の師の意味があるという。熊本県南関では子供らがムギわらでセキレイの形を製し、「したたきたろじゃ、今日は石ゃないぞ、あした来て叩け」と囃しながら、脚を持って頭尾を上下に動かして遊んだ(動植物方言及民俗誌)。 生息地のひとつ岐阜県高山では、セキレイをいじめると、「親死ね、子死ね、鍋も茶碗も破れて終え」と鳴いて呪うという。伊勢神宮の神衣大和錦にはセキレイの模様があるという(和訓栞)。台湾のアミ族の神話では、東海の孤島ボトルに男女2神が天下り、ホワック(セキレイ)が尾を振るのを見て交合の道を知った(生蕃伝説集)』という。『日本書紀ではセキレイは「にはくなふり」と称され、その語源について、諸説ある』とする。注意されたいが、「日本書紀」にそうした『内容の異伝に関する記述がある』というのであって、「日本書紀」本文にそうした事実記載があるのではない。

「案山子の神は少彦名神である」「少彦名神」は「すくなびこなのかみ」と読むが、この叙述は「古事記」を読み違えた誤認であって、

――「案山子の神は」久延毘古(くえびこ)「である」――

若しくは、

――「案山子の神は少彦名神」の名を言い得た久延毘古「である」――

でないとおかしい。まず、ウィキの「案山子」の「神と案山子」から引くと、『民間習俗の中では田の神の依代(山の神の権現とも言われる)であり、霊を祓う効用が期待されていた。というのも、鳥獣害には悪い霊が関係していると考えられていたためである。人形としての案山子は、神の依り代として呪術的な需要から形成されていったものではないかとも推察できる。蓑や笠を着けていることは、神や異人などの他界からの来訪者であることを示している』。『見かけだけは立派だが、ただ突っ立っているだけで何もしない(=無能な)人物のことを案山子と評することがある。確かに案山子は物質的には立っているだけあり、積極的に鳥獣を駆逐することはしない。だがしかし農耕社会の構造からすると、農作物(生計の手段)を守る役割を与えられた案山子は、間接的には共同体の保護者であったと言えよう』(ここで語られる案山子の属性は実は、緘黙の蛾の皮に包まれた「少彦名神」(後述)の特異点的属性と共通するものがあるとは言えるように私には強く思われ、そういう点では私の愛する少名毘古那(すくなびこな)と案山子とは親和性を持ったものであるようにも感じられる)。『古事記においては久延毘古(くえびこ)という名の神=案山子であるという。彼は知恵者であり、歩く力を持っていなかったとも言われる。立っている神→立っている人形、との関連は指摘するまでもないとも考えられるが、上記の通り語源との関係で、明確ではない』とある(因みに指示する語源の部分は、『「かかし」の直接の語源は「嗅がし」ではないかとも言われる。鳥獣を避けるため獣肉を焼き焦がして串に通し、地に立てたものもカカシと呼ばれるためである』。『これは嗅覚による方法であり、これが本来の案山子の形であったと考えられる。また、「カガシ」とも呼ばれ、日葡辞書にもこちらで掲載されている。またカカシではなくソメ(あるいはシメ)という地方もあり、これは「占め」に連なる語であろう』となっている)。さて、その案山子の元とされる「久延毘古」の神である。ウィキの「久延毘古」から引こう。『大国主の国づくりの説話において登場する。『古事記』によると大国主の元に海の向こうから小さな神がやって来たが、名を尋ねても答えず、誰もこの神の名を知らなかった。そこでヒキガエルの多邇具久が「この世界のことなら何でも知っている久延毘古なら、きっと知っているだろう」と言うので久延毘古を呼ぼうとするが、久延毘古は歩くことが出来ないという。大国主らが久延毘古の元へ行くと、それは山田のそほど(かかしの古名)であった。久延毘古に訊くと、「その神は神産巣日神の子の少彦名神である」と答えた』(原典訓読を後掲する)。『久延毘古はかかしを神格化したものであり、田の神、農業の神、土地の神である。かかしはその形から神の依代とされ、これが山の神の信仰と結びつき、収獲祭や小正月に「かかし上げ」の祭をする地方もある。また、かかしは田の中に立って一日中世の中を見ていることから、天下のことは何でも知っているとされるようになった』。『神名の「クエビコ」は「崩え彦」、体が崩れた男の意で、雨風にさらされて朽ち果てたかかしを表現したものである。また、「杖彦」が転じたものとも取れ、イザナギが黄泉から帰ってきた後の禊で杖を投げ出した時に生まれた船戸神(ふなとのかみ、岐神、道祖神)との関連も考えられる』(下線やぶちゃん)。『田の神、また、学業・知恵の神として信仰されており、久氐比古神社(石川県鹿島郡中能登町)や大神神社(奈良県桜井市)末社・久延彦神社などで祀られている』とある(個人的にはこの――破壊された男――という名だけで私はすこぶる好きな神なのである)。次に私の偏愛する「少彦名神」であるが、やはりウィキの「スクナビコナ」から引こう。『スクナビコナ(スクナヒコナとも。表記は少名毘古那、須久那美迦微、少彦名、少日子根など。)は、日本神話における神。『古事記』では神皇産霊神(かみむすびのかみ)の子とされ、『日本書紀』では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子とされ』、『大国主の国造りに際し、波の彼方より天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)(=ガガイモの実とされる)に乗って来訪した。『古事記』によれば、大国主の国土造成に際し、天乃羅摩船に乗って波間より来訪し、オホナムチ(大己貴)大神の命によって国造りに参加した。『日本書紀』にも同様の記述があるが、『記』・『紀』以外では『上記(ウエツフミ)』にも登場している』(「上記」は天保八(一八三七)年に豊後国で発見されたもので、如何にもな「ウガヤフキアエズ」という王朝を含む古代日本の「歴史」などが神代文字とされるこれまた如何にも怪しげな「豊国文字」で書かれてあるが、現行では偽書とされる)。『オホナムチ同様多くの山や丘の造物者であり、命名神である。悪童的な性格を有するとも記述される(『日本書紀』八段一書六)。のちに常世国へと渡り去る』。『名前の由来について、『古事記伝』によれば「御名の須久那(スクナ)はただ大名持(オホナムチ)の大名と対であるため」とある。あるいは金井清一によれば「若き日の御子」の意とする説もある。また、この神が単独ではなく、必ずオホナムチと行動を共にすることから、二神の関係が古くから議論されている』。『国造りの協力神、常世の神、医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物・知識・酒造・石の神など多様な性質を持つ。 酒造に関しては、酒は古来薬の』一つとされ、『この神が酒造りの技術も広めた事と、神功皇后が角鹿(敦賀)より還った応神天皇を迎えた時の歌にも「少名御神」の名で登場する為、酒造の神であるといえる。 石に関しては記述よりそうした面が見られると想像されるだけであり、あくまで性質的なものである。 大林太良はこの神に「第二の自我」を見、吉田敦彦は双生児的な関係を指摘している。海から来訪したとの記述により渡来人という説もあるが、船で渡来=外国人という単純な図式からの連想であり、奇説の域を出ない』とある。では最後に「古事記」の「上つ卷」の大国主の神の箇所から当該の記載を掲げておく。武田祐吉先生の角川文庫版を一部参考にした(但し、後注は多くその脚注を参照させて戴いた)。

   *

故(かれ)、大國主神、出雲の御大(みほ)の御前(みさき)に坐(いま)す時、波の穗より、天の羅摩(かがみ)の船(ふね)に乘りて、鵝(ひむし)の皮を内剝(うつは)ぎに剝ぎ、衣服にして、歸(よ)り來る神有り。爾(ここ)に其の名を問はせども答へず。且(ま)た所從(みとも)の神たちに問ひはせども、皆、知らずと白(まを)しき。爾(ここ)に多邇具久(たにぐく)白言(まを)さく、「此(こ)は久延毘古(くえびこ)ぞ必ず知りつらむ。」と白(まを)ししかば、即ち、久延毘古を召して問ひたまふ時、「此は神産巣日(かみむすひ)の神の御子(みこ)、少名毘古那(すくなびこな)の神ぞ。」と白しき。故(かれ)、爾(ここ)に神産巣日の御祖(みおや)の命(もこと)に白し上しかば、「此(こ)は實(まこと)に我が子なり。子の中に、我が手俣(たなまた)より洩(く)きし子なり。故(かれ)、汝(いまし)、葦原色許男(あしはらしこを)の命(みこと)と兄弟(あにおと)と爲(な)りて、其の國を作り堅めよ。」とのりたまひき。故(かれ)、爾(そ)より、大穴牟遲(おほあなむぢ)と少名毘古那と、二柱の神相並びて、此の國を作り堅めたまひき。然(しか)ありて後には、其の少名毘古那の神は、常世(とこよ)の國に度(わた)りましき。故(かれ)、其少名毘古那の神を顯はし白しし、謂る久延毘古は、今に山田の曾富騰(そふど)といふ者なり。此の神は足は行(ある)かねども、天(あめ)の下の事を盡(ことごと)に知れる神なり。

   *

・「出雲の御大(みほ)の御前(みさき)」美保関の島根半島の東端にある地蔵崎(じぞうざき)附近。

・「波の穗より」波頭に乗って。

・「天の羅摩(かがみ)の船(ふね)」武田先生の注に『「かがみ」はガガイモ科の蔓草。ガガイモ。』その果実の包みは『莢であり、割れると白い毛のある果実が飛ぶ。それをもとにした神話』とある。ちょっと呆けた人間には分かり難い注で、これは双子葉植物綱リンドウ目ガガイモ科ガガイモ属ガガイモ Metaplexis japonica の大型の紡錘形の袋果の割れた一方を小さな船となして、の謂いである。

・「鵝(ひむし)」「ひむし」という訓は「火蟲」で蛾のことである。武田先生の注には本居宣長の「古事記伝」は『「鵝」を蛾の誤りとする。蛾の皮をそっくり剝いで。』と注されておられる。

・「内剝(うつは)ぎに剝ぎ」蛾の翅を含む、体皮全体(鱗翅目のそれを外骨格と呼ぶには私はやや抵抗がある)総てをすっかりきれいに壊れぬように腹部で裂き、剥(は)ぎ剥(む)いたものを指していよう。

・「歸(よ)り來る」寄り来る。

・「所從(みとも)の神」大国主に従って来ていた諸神。無論、国つ神の地神(じがみ/じしん:古代の祖霊や農耕神ともされる神で、屋敷内や辻・田圃の際などに祭る。地主神(じぬしがみ))である。

・「多邇具久(たにぐく)」武田先生の注には『ひきがえる。谷潜りの義』とある。

・「神産巣日(かみむすひ)の神」ウィキの「カミムスビ」によれば、「古事記」では「神産巣日神」、「日本書紀」では「神皇産霊尊」、「出雲国風土記」では「神魂命」と書かれるとあり、天地開闢の時、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・高御産巣日神(たかみむすびのかみ)の『次に高天原に出現し、造化の三神の一とされる。本来は性のない独神であるが、造化三神の中でこの神だけが女神であるともされる。また、先代旧事本紀においては、高皇産霊神』(高御産巣日神に同じ)『の子であるとも言われる』。『大国主が兄神らによって殺されたとき、大国主の母が神産巣日神に願い出』た結果、遣わされた蚶貝姫(きさがいひめ)と蛤貝姫(うむぎひめ)の施術によって大国主は蘇生する(蚶貝姫は赤貝、蛤貝姫は蛤(はまぐり)の神格化であろう。如何にも以下に叙述される性的な呪術を感じさせるシンボライズである)。『「産霊」は生産・生成を意味する言葉で、高皇産霊神とともに「創造」を神格化した神であり、高皇産霊神と対になって男女の「むすび」を象徴する神でもあると考えられる』とある。

「手俣(たなまた)より洩(く)きし子」私の掌の指の股から滴り漏れ落ちた子。

・「葦原色許男(あしはらしこを)の命(みこと)」「大穴牟遲(おほあなむぢ)」これらは多様な別名変名を持つ大国主の一名である。

・「常世(とこよ)の國」通常、我々はこれを永久に変わらない神域、死後の世界たる黄泉の国或いは永久不変の霊魂の国などと認識するのであるが、驚いたことに、武田先生の注では、『海外の国』とあって、先行する別注では、『常世は、恒久の世界の義で、空想上の世界から転じて海外をいう』とあるのである。これは『空想上の世界』ではなくて、実際の海の彼方にある実在する『海外の』国という意味である。所謂、ニライカナイなんどではなく、現実の外国と採っておられる点に着目したい(私は実は少名毘古那の神は伊耶那岐・伊耶那美の両親に捨てられた強烈な怨念に満ちた、不当にもあらゆる妖怪のルーツともされるに違いない蛭子神と同一神ではないかと考えているが、これはこれ、大脱線となるので抑えることとする)……少名毘古那の神は不意に日本愛想つかしして、遠い外国へと蘿藦(ががいも)の莢(さや)の舟で、蛾のコートを羽織って永遠に去ってしまったのである……

「山田の曾富騰(そふど)」♪山田の中の一本足の案山子♪ の濫觴である。武田先生の注には『かがしに同じ。雨に濡れる意のソホツか』とある。]

 

 

Sec. 2

Sakusa, the hamlet where the Yaegaki-jinja stands, is scarcely more than one ri south from Matsue. But to go there one must follow tortuous paths too rough and steep for a kuruma; and of three ways, the longest and roughest happens to be the most interesting. It slopes up and down through bamboo groves and primitive woods, and again serpentines through fields of rice and barley, and plantations of indigo and of ginseng, where the scenery is always beautiful or odd. And there are many famed Shinto temples to be visited on the road, such as Take-uchi-jinja, dedicated to the venerable minister of the Empress Jingo, Take-uchi, to whom men now pray for health and for length of years; and Okusa-no-miya, or Rokusho-jinja, of the five greatest shrines in Izumo; and Manaijinja, sacred to Izanagi, the Mother of Gods, where strange pictures may be obtained of the Parents of the World; and Obano-miya, where Izanami is enshrined, also called Kamoshijinja, which means, 'The Soul of the God.'

At the Temple of the Soul of the God, where the sacred fire-drill used to be delivered each year with solemn rites to the great Kokuzo of Kitzuki, there are curious things to be seen—a colossal grain of rice, more than an inch long, preserved from that period of the Kamiyo when the rice grew tall as the tallest tree and bore grains worthy of the gods; and a cauldron of iron in which the peasants say that the first Kokuzo came down from heaven; and a cyclopean toro formed of rocks so huge that one cannot imagine how they were ever balanced upon each other; and the Musical Stones of Oba, which chime like bells when smitten. There is a tradition that these cannot be carried away beyond a certain distance; for 'tis recorded that when a daimyo named Matsudaira ordered one of them to be conveyed to his castle at Matsue, the stone made itself so heavy that a thousand men could not move it farther than the Ohashi bridge. So it was abandoned before the bridge; and it lies there imbedded in the soil even unto this day.

All about Oba you may see many sekirei or wagtails-birds sacred to Izanami and Izanagi—for a legend says that from the sekirei the gods first learned the art of love. And none, not even the most avaricious farmer, ever hurts or terrifies these birds. So that they do not fear the people of Oba, nor the scarecrows in the fields.

The God of Scarecrows is Sukuna-biko-na-no-Kami.

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