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2015/10/29

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十五章 東京に関する覚書(8)皇居内園遊会/井上馨邸天皇誕生日祝賀会

 天皇陛下のお庭が、初めて特別な招待によって観覧のために開放された。数日前菊の展観に対する御招き状が、日本人と外国人とのすべての教授、並に恐らく同階級の日本人官吏のすべてに向って、発せられた。今明日がその日で、私は現在では大学と公式の関係は無いが、大学の役人と認められて、御招待にあずかった。今迄は只外国人にあっては外交団の人々のみが、お庭に入ることが出来た。一枚の切符について家族五人を連れて行くことが許されたので、どの一枚も最大限度にまで使用されたらしく思われた。貴婦人や子供達も多く、彼等は美々しく装っていた。子供達がこの上もなく行儀のよいのは、見ても気持がよかった。呶鳴(どな)ったり、叫んだり、男の子がやたらに走り廻ったりするようなことは、更に無かった。庭園はそれ自体がすでに完全な楽園であった。私はその驚く可き美しさを記述する言葉も、才能も持っていない。そこは広く、もとは平坦だった場所に築園されたのである。起伏する丘や、渓流が洩れる岩の谷や、谷や、橋や、ひなびた東屋(あずまや)等が建造され、そのいずれもが賞嘆に値した。

[やぶちゃん注:赤坂御用地内ではあるが、同地の中央に位置する池を中心とした回遊式庭園赤坂御苑は現在、天皇主催の園遊会が行われることで知られているが、この園遊会は昭和三八(一九六三)年に始まったもので、百三十三年まえの明治十五年に行われたこれが、全く同じ場所であったかどうかは定かでないものの、恐らく同位置であろう。]

 

 我々の仲間に、最近大学の教職についた背の高い外国人(米国人)がいた。彼はまるで瀬戸物店へ踏み込んだ牡牛だった。彼は庭園中を横行濶歩したが、何を見ても感心せず、事実、乱暴で莫迦気(ばかげ)きったことばかりいうので、我々はついに彼をまいて了った。だが、その前に、我々は外国製の安っぽくてギラギラした赤色の絨氈(じゅうたん)によって、その内部を胆をつぶす程ひどくされた、美しい小亭へ来た。この男はここに於てか、初めて讃う可き物を発見し、自然そのままの木材でつくった最も繊細で美しい指物細工のこの部屋に、かかる吃驚するような不調和な物がある事実を丸で感じずに、その美しさを論評するのであった。

[やぶちゃん注:「小亭」識者は一発で特定出来るのであろうが、私は行ったことも見たこともなく、向後も行くこともなく、見たくもないので不詳である。御教授戴ければ、お教え戴いた儘に追加注を附す用意はある。]

 

 花は変化に富み、優雅にも美麗であった。それ等は竹と葦の簾とで趣深くつくった日陰の下に排列してあった。もっと永久的な日除の出来た場所もあった。多くの驚く可き樹木の矮生樹があったが、その一つは直径二十フィートの茂った葉群を持ちながら、高さは二フィート半を越えず、幹の直径は一フィートである。また野趣に富んだ垣根、橋、美しい小湖もあった。日本人は造園芸術にかけては世界一ともいうべく、彼等はあらゆる事象の美しさをたのしむらしく見えた。外国人とても同様であったが、只例の背の高い教授だけは例外で、彼はマゴマゴしたのみでなく、断然不幸そうに見えた。

[やぶちゃん注:「二十フィート」六・〇九六メートル。

「二フィート半」四十五・七二センチメートル。

「一フィート」三十・四八センチメートル。]

 

 十一月三日、外務大臣井上侯爵が、皇帝陛下の御誕生日を祝う意味で盛大な宴会をひらいた。この宴会に招れたのは、外国の外交官全部、教授階級のすべての教師、並びに多数の高官たちである。招待状は千通発送された。井上侯爵の家は大きくて広々とし、全部西洋風である。庭園は迸出する瓦斯や提灯(ちょうちん)で輝かしく照明されていた。実にいろいろな衣裳が見られた。日本の貴婦人達は美しくよそおい、各国民――フランス、ロシア、スイス、ドイツ、イタリー、英国、米国等の大公使館の人々は、それぞれの制服を着ていたが、光まばゆい勲章をつけている人も多かった。支那人七人と朝鮮人八人とは、自国の服装をしていた。

[やぶちゃん注:「十一月三日」「皇帝陛下の御誕生日」明治天皇の誕生日(天長節)は嘉永五年九月二十二日であるが、これはグレゴリオ暦で一八五二年十一月三日である。新暦で祝っていることに着目されたい。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」には、この翌年に開館する『鹿鳴館の予行演習のような会であった』とある。

「迸出」「へいしゅつ」或いは「ほうしゅつ」と読む。迸(ほとばし)り出ること。

「外務大臣井上侯爵」元長州藩士の井上馨(かおる 天保六(一八三六)年~大正四(一九一五)年)。正しくは当時はまだ「外務卿」である(明治一二(一八七九)年九月十日就任。この後の内閣制施行後の第一次伊藤内閣に於いて明治一八(一八八五)年十二月二十二日に初代「外務大臣」となっている)。ウィキの「井上馨」によれば、この明治一五(一八八二)年には、『壬午事変が起こると朝鮮と済物浦条約を締結して戦争を回避、また条約改正の観点から欧化政策を推進して鹿鳴館と帝国ホテル建設に尽力した。同年、海運業独占の三菱財閥系列の郵便汽船三菱会社に対抗して三井など諸企業を結集させ共同運輸会社を設立したが、後に両者を和睦・合併させ日本郵船を誕生させた』とある。ここに出る彼の邸宅は現在の東京都港区麻布の鳥居坂(とりいざか)にあったそれか。]

 

 私にとって最も興味が深かったのは、隣り合って席を占め、交互に吹奏した陸軍と海軍の日本軍楽隊であった。彼等は日本人の指揮者と、すべての現代的の楽界を持つ、非常に完備した楽隊で、古い作曲家達の音楽を、極めて正確に演奏した。私は彼等の演奏のハキハキしたこと、正確なこと及び四年間に於る彼等の進歩に驚かされた。何故かというに、私は四年以前、陸軍軍楽隊が奏楽するのを聞き、いまだに明瞭に、その演奏が如何にお粗末であったかを覚えていたからである。その時私は、たとえ日本人が如何に完全に外国の様式を取り入れ得るにしても、音楽に関するかぎり、その意味をつかみ、適当に演奏することは出来ぬであろうという結論に達した。私は二つの音楽が、全く相異しているので、このように思考したのであった。今や私は、この結論を変更し、我々の音楽に関しては、単に練習が必要であったのだといわねばならぬ。余程の達人にあらずんば、演奏しつつあるのが日本人であるか、それとも上手な外国人の音楽着であるか、判断出来まいと思われた。また数名の日本人の紳士淑女が舞踊に加っているのは面白く思われたが、彼等はよく踊った。地階でも一階でも、美味な小食が供され、葡萄酒、三鞭(シャンペン)、麦酒(ビール)が沢山あった。外庭では光まばゆい花火が打ち出され、すべてをひっくるめて、これは非常なもてなしであった。

[やぶちゃん注:「四年以前、陸軍軍楽隊が奏楽するのを聞き」原文を見ると確かにモースは“the Army band”としつつ、その前では“the two Japanese brass bands, the Army and the Navy”と陸軍軍楽隊と海軍軍楽隊の区別をしているように見える。しかし、ここは「陸軍軍楽隊」ではなく、単に「軍楽隊」と訳すべきかと私は思う。何故なら、先行する「日本その日その日」の四年前の来日の際の記事では、九章 大学の仕事 8 海軍軍楽隊の演奏批評(特にこの辛口批評はここでの回顧叙述とよく一致する)、第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 9 東京運動倶楽部運動会及び第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 44 「日本先住民の証跡」講演 / 一時帰国の送別会の三箇所で軍楽隊の演奏をモースは聴いているものの、それらは総て海軍軍楽隊によるものだからである。]

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