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2015/10/27

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十五章 東京に関する覚書(5) 千住火葬場見学

M703

図―703

M704

図―704

M705

図―705

 

 十月二十六日。ドクタア・ビゲロウと私とは、機会を得て東京千住の火葬場を見に行った。衛生局の長官から許可を受け、我々は午後九時、竹中氏と一緒に火葬場へ向って出発した。そこ迄は人力車で一時間かかった。私は陰気な小屋や建物のある、物淋しい場所を見ることだろうと予期していたが、それに反して私が見たのは、掃き清めた地面、きちんとした垣根、どこででも見受ける数本の美しい樹等、都会の公共造営物に関係のある事象であった。道の片側には火葬場があった(図703)。それは二つの、長さ七十二フィート、幅二十四フィートという煉瓦づくりの一階建の建物から成っている。この二つの建物は一列に並んでいるのだが、五十フィートの空間をさしはさんで、離れている。ここには高い四角な煙突が立っていて、この煙突に建物の屋棟から大きな鉄製の煙道が通じている。各々の建物は、辷る戸のついた入口を持つ三つの部分にわかれている。写生図に示す如く、段々が煙突と煙道との交叉点にある足場まで達していて、ここには、多数の死体を同時に火葬する場合、上に向う通風をよくするために、石炭を燃す装置が出来ている。図704は、如何にして各室が上方の煙道に向ってひらいているかを示す。死体を灰にするのに使用する諸設備の簡単さと清潔さとは、大いに我々に興味を持たせた。竃(かまど)(というよりも炉といった方がよい)は地面にあり、身を曲げた位置の死骸を、薪二本と少量のたきつけとから成る火葬堆の上にのせる。しばらく火が燃えてから、その上に藁製の米俵をかぶせる。炉は写生図(図705)にあるが如く、底石と二つの側石と一つの頭石とで出来ている。死体は三時間で焼き尽される。我々が見たのは、二時間燃焼したものである。杖で藁を押しのけたら、只大きな骨が僅か見えた丈であったが、それらも石灰化していた。部屋は煙で充ちていたが、それは死体からよりもむしろ燃える藁から出るので、事実、部屋の壁が煤で黒くなっているにもかかわらず、臭気は殆ど無かった。一隅には子供の為の小さな炉が二つあり、その一つでは火葬が行われつつあった。

[やぶちゃん注:「東京千住の火葬場」これはJR北千住駅前にあるインテリア専門店のサイト「リビングショップYK」の千住の歴史を綴った中の「小塚原焼場」がすこぶる詳しい。それによれば南千住には寛文九(一六六九)年以来、江戸最大の火葬場として小塚原焼場があり、それがここに出る火葬場の前身で、江戸時代の火葬の過半はここ千住で行われたと考えられるとある。明治政府は明治六(一八七三)年、かのおぞましき廃仏毀釈の一環として土葬を行うよう火葬禁止令を出したものの、近代都市社会に於いて土葬の墓地確保は無理な話で、僅か二年後の明治八年に再び火葬は解禁となり、旧小塚原焼場は新しくこの「千住火葬場」として再出発した、とある。更に、この再建時の建物は厚壁の塗屋造り(外面を壁や化粧漆喰で塗り込んで耐火建物。本邦では近世初頭からあった)で屋上に四間間隔で二基の煙突を持ち、その高さは一丈五尺(約四・五五メートル)、地上からの総高は三丈二尺(約九・七メートル)とされたとあり、「荒川区史」所収の図を基に作成された図が附されてある(かなりモースのスケッチとは異なるのが不審ではある)。『出入口(図面では大戸口とあります)は2か所に設置されています』。『しかしながら明治10年のコレラの流行は火葬の処理能力を超え処理できない遺体が野積みになってしまったことから周辺からの陳情もあり明治20年までに移転せよ、ということになりました』(下線やぶちゃん)。『千住火葬場が移転先が見つからず操業停止に追い込まれた20年12月に半年早く日暮里村蛇塚に東京博善社による日暮里火葬場が開設されました』とあって、筆者は『千住が市街地に近すぎるので廃止命令が出たのにもっと市街地のど真ん中に新設許可を出したのはなんだのでしょう?』と疑問を示しておられる。何か、確かに「臭い」ますね、これ。因みにモースの来訪は明治一五(一八八二)年であった。モースも既に述べている通り、この年の夏もコレラが流行していたから、困ったフル稼働であったのである(次段参照)。

「竹中」何度も出てくる宮岡恒次郎の実兄竹中成憲。既注

「長さ七十二フィート、幅二十四フィート」長さ二十一・九四メートル、幅七・三一メートル。

「五十フィート」十五・二四メートル。]

M706

図―706

M707

図―707

 

 最高の火葬料は七円である。これは中央に只一つの炉を持つ別個の建物(図706)で行われる。その次が二円七十五銭で、我国の金に換算して約一ドル三十七セントになる。これは大きな建物で行われ、死体はそれを入れて来た大型の木の桶に入れたまま焼く。第三の、そして最も安い階級は一円三十銭しかかからず、この場合棺桶は焼かずに、死体だけを焼く。火葬場の監督は近くに住んでいて、灰を入れる壺を保管している。これ等の壺は大きさによって、一個六セントから八セントまでする。彼はその一つを私にくれた(図707)。壷の内には小さな木の箱があり、これに注意深く灰からひろい上げる歯を納める。歯に関しては奇妙な迷信が行われつつあるらしく、昔時人々は一定の日に、彼等の歯がぬけぬことを祈り、供物をしたりした。火葬されつつあった死体は、当時東京で猖獗を極めた虎列刺(コレラ)の犠牲者のそれであった。監督はじめ、この仕事に従事するものは、屢々墓掘に見受ける、あの陰気な顔をしていず、愉快で丁寧で気持のいい人々だった。我々はこの経験に最もよい印象を受け、我国ではこの衛生的な方法を阻止する偏見が、いつ迄続くことであろうかと考えたりした。

[やぶちゃん注:明治初期の一円が二万円から二万五千円で明治後期が一万円とされるので大体の火葬料の印象はそれで換算して戴きたい。図707の骨壺には直径を四インチ(十センチ)、高さを五インチ(十二センチ七ミリ)と、キャプションを入れてあるようだ。かなり小さい。

「火葬されつつあった死体は、当時東京で猖獗を極めた虎列刺(コレラ)の犠牲者のそれであった」前段注を参照のこと。]

 

 火葬場への往復に我々は、東京の最も貧しい区域を、我国の同様な区域が開いた酒場で混雑し、そして乱暴な言葉で一杯になっているような時刻に、車で通った。最も行儀のいいニューイングランドの村でも、ここのいたる所で見られる静けさと秩序とにはかなわぬであろう。これ等の人々が、すべて少くとも法律を遵守することは、確かに驚く可き事実である。ポストンの警視総監は、我国を最も脅かすものは、若い男女の無頼漢であるといった。日本には、こんな脅威は確かに無い。事実誰でも行儀がよい。

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